2012年元旦礼拝

2012年 元旦礼拝

元旦の日、愛宕町教会では、早朝に元旦礼拝を行いました。

新しい年の初めに、御赦しと御招きのうちに集い、
礼拝の恵みに与りましたこと、感謝です。

元旦礼拝

1月1日(日)元旦 午前6時30分〜7時30分
説教「新しい掟」
北 紀吉牧師
聖書 ヨハネによる福音書 第13章31〜35節

聖書/ヨハネによる福音書 第13章31〜35節

13章<31節>さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。<32節>神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。<33節>子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。<34節>あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。<35節>互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

2012年1月1日早朝、この元旦礼拝に私どもを呼び集めてくださった神に感謝いたします。

キリスト者は、一年が終わりまた始まるということを、どのように考えるべきでしょうか。愛宕町教会では年末に二人の兄弟を天に送りました。地上での生を終えて天に召された方々のことをも思いつつ、語りたいと思います。

古来、日本人はその感性において、過去は水に流して新しく始めると考えます。「汚れ」とは「木枯れ」であり、気が枯れることですから、正月三が日というのは、過ぎ去った一年の汚れから気を解放し、気を取り戻す時と考えました。

しかし、キリスト者にとっては、過ぎ去った一年は汚れではありません。過ぎ去った一年、どんなに足りなく過ちがあったとしても、終わりの日にすべてを完成させてくださる神が、その完成の先取りとして、私どもの一年をも完成させてくださるのです。ですから、キリスト者にとって新しい年を迎えることは、過ぎた日を神が完結してくださって、完全なものとして新しく始めるといことなのです。

今、先に亡くなった方々のことを思います。私どもの信仰告白、使徒信条には「代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と記されております。それは、今ここで捧げられている礼拝が、代々の聖徒と共なる礼拝であることを言い表しております。今ここにいる者だけの礼拝なのではない、主にある家族として、天にある方々と共々に礼拝に与っていることを覚えたいと思います。

私どもキリスト者は、神によって完成を得、バージョンアップして新しい一年を始めることができるのです。感謝です。

今日は、主イエスが弟子たちに語ってくださった御言葉から聴きたいと思います。主は、弟子ヨハネの信仰共同体(教会)に言ってくださいました。「互いに愛し合いなさい」と。そしてそれは、主からの「新しい掟」と言われております。

なぜ今日、この言葉を受け止めようと思ったか。それは3.11の出来事を受けて、愛とは何か、愛し合うことの大切さを改めて思ったからです。2011年を象徴する言葉として選ばれたのは「絆」でした。大震災によって、突然の親しい者との別れ、家を失い、コミュニティを失い、多くの人が絆を失いました。そして皆が、絆の大切さをしみじみと感じたことの表れとして選ばれたのでしょう。絆の喪失を経験して初めて、絆の大切さを知るとは、人の愚かさを思わされます。核家族、交わりを避ける、職業を失う、このような絆の喪失も、物の豊かさの中で良しとされて久しく過ごしてきたのです。しかし昨年、私どもは大いなる痛み、悲しみをもって絆の大切さを知りました。

人と人との結びつき、その結び目を社会学的に「愛」と言います。交わっている、結び合っている、それが「愛」です。ですから、一昔前の日本人の感性から言えば、恋は美しく語ることはできても、愛を言うことは難しかったのです。
 結び目、交わりがあること、それが愛です。「絆」とは、私どもキリスト者にとっては「愛」なのです。
 新しい年、人は、家族や地域において「交わりの中でこそ、人である」ことを改めて覚えつつ、愛するということを、痛み悲しみをもって切実に思わなければならないと思っております。

31節に「ユダが出て行くと、イエスは言われた」と記されております。ここは最後の晩餐の場面で、主イエスは弟子たちの中に裏切る者がいるとおっしゃり、27節「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と主が言われると、ユダは主を裏切るために出て行くのです。ヨハネによる福音書は、この場面から、主のご受難へと向かって語り始めます。

主は裏切られ、十字架につけられる。しかしそれは、32節「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる」と、主が栄光をお受けになるためと言われております。ヨハネによる福音書は、主の十字架の出来事を、主が神の子救い主として天に帰られることの出発点として語ります。主は、人の悲しみ、苦しみ、死をも引き受けられる。しかしそれは天への凱旋であるというのです。「栄光」とは「神が神としてご自身を現されること」それは即ち「御子主イエス・キリストが神の御子として天に帰られること」なのです。

そして、主が御子として天に帰られること、それは父なる神と御子である主イエス・キリストは一つなる方であることを示しております。父なる神と御子イエス・キリストは本質を同じくする方、神なる方として、栄光を現されるのです。

33節「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう」と言われております。主は十字架に死に、復活して天に帰られる。しかし、主の弟子たちにとってはどうでしょうか。この場面では主の十字架の時までには数日あるのです。こののち、弟子たちは主と別れなければならないことになる。主は天に帰られるに当たって、弟子たちに「新しい掟を与える」と言われました。
 主は弟子たちの(私どもの)天の住まいを準備するために、先に天に帰られました。私どももやがて地上での生を終えて、天の住まいに移される時が来ます。しかし、この地上にいるときのために、戒めを与えてくださると言われております。そして、私どもがこの戒めを生きることによって、35節「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と記されております。主を信じる者として、共々に「主にある者として生きる」こと、それが「互いに愛し合うこと」であり、それは「キリストを示す」ことなのです。

しかし、互いに愛し合うことの根拠は、私どものうちにあるのではありません。
 キリストは、私どもを愛してくださいました。ですから、愛してくれたキリストを愛しなさい、と普通なら言うことでしょう。しかしそうではないのです。キリストが私どもを愛してくださった、その主の愛に応えるために、「互いに愛し合いなさい」と、主は言われるのです。主を愛するがゆえに、私どもは共々に、主が愛しておられる者として、他者を愛するのです。
 ですから、愛する根拠は主イエス・キリストにあるのです。
 人の愛は見返りを求める愛でしかありません。しかし、主イエス・キリストは、十字架の死をもってまでして、私どもを愛してくださった、だから、この主の愛に応える以外にないのです。

「互いに愛し合う」ということは「キリストを愛すること」であることを覚えたいと思います。そのことが、ここに勧められていることです。

人と人との絆や愛は、地上に限定されたものですから、それはいつかは破れてしまうのです。突如として襲ってくる絆の喪失、痛み、悲しみは、計り知ることなどできません。
 しかし、キリストの十字架と復活の出来事は、神の愛の出来事であり、それは「地上で終わらない、天上に通じる出来事」です。ですから、私どもキリスト者は、キリストの愛を根拠として、主にある交わり、絆を大切にしたいと思うのです。

しかし「互いに愛し合いなさい」、このことをお題目とする必要はありません。なぜならば、私どもは、どうしても「愛せない」ということがあるからです。「愛せない」私どもに、なお「愛し合いなさい」と言われる。それは愛せない私どもも、愛し合うことができるということです。祈ることはできるのです。愛せない、その者のために、祈ることはできる。祈りにおいて、深く、その人を思うことができるのです。上なるキリストに祈ることによって、どんなに愛せない、付き合いきれない相手であっても、その人をその人なりに愛することができる。実際には愛するという行動は取れなくても、祈ることはできるのです。
 ですから、祈ることも愛の出来事であることを忘れてはなりません。

それ故に、私どもキリスト者は祈るのです。それがキリストの愛を根拠とする者の「愛」の姿なのです。その人をその人なりに愛することができる、それは祈ることができるからです。

人は、十字架と復活の主イエス・キリストを抜きにして、愛することはできません。主がいてくださるからこそ、他者のために祈ることができる。それが愛の姿なのです。

新しい年を始めるにあたり、絆、愛の大切さを改めて覚えるものでありたいと願います。