2011年元旦礼拝

2011年 元旦礼拝

元旦の日、愛宕町教会では、早朝に元旦礼拝を行いました。
新しい年の初めに、まず教会で神の言葉に聴き、
励まされて一年を歩み始めて参りましょう。
元旦礼拝

1月1日(土)元旦 午前6時30分〜7時30分
説教「新しい心を与える」
北 紀吉牧師
聖書 エゼキエル書 第36章25〜36節

聖書/エゼキエル書 第36章25〜36節

36章<25節>わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。<26節>わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。<27節>また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。<28節>お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。<29節>わたしはお前たちを、すべての汚れから救う。わたしは穀物に呼びかけ、それを増やし、お前たちに飢えを送ることはしない。<30節>わたしが木の実と畑の作物を豊かにするので、二度と飢饉のために、国々の間で恥をこうむることはない。<31節>そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。<32節>わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。<33節>主なる神はこう言われる。わたしがお前たちをすべての罪から清める日に、わたしは町々に人を住まわせ、廃虚を建て直す。<34節>荒れ果てた地、そこを通るすべての人に荒れ地と見えていた土地が耕されるようになる。<35節>そのとき人々は、『荒れ果てていたこの土地がエデンの園のようになった。荒れ果て破壊されて廃虚となった町々が、城壁のある人の住む町になった』と言う。<36節>お前たちの周囲に残された国々も、主であるわたしがこの破壊された所を建て直し、荒れ果てていたところに植物を植えたことを知るようになる。主であるわたしが、これを語り、これを行う。

2011年元旦の朝、私どもを招き、愛してくださる神の身許に集い、礼拝できますことを感謝いたします。私どもを愛し、集めてくださるのは神です。ですから、神は今、喜んでいてくださいます。2011年の始めに当たり、私どもの歩みは「神に喜ばれての第一歩」であることを覚えたいと思います。
 私どもの歩みを「神にあって始める」ことは幸いなことです。神は光なる方、その光のうちに始めることは幸いなのです。光無く、行き先を見ないで歩むことは絶望です。神にあっての歩みは、未来を見据えての歩みなのです。

昔、人が飢えている時代には、働くことは喜びでした。しかし今、物に満ち足り、存在を喪失している時代にあって、人は自分の定めた目標を達成すると、新しい目標を見出せなくなってしまいます。
 神にあって行くべき所を持つことは、自らの思いを超えた目標を得、未来を見ることです。飢え渇きは人に力を与えますが、幸福感は人を無気力にすると言えます。ですから、人は、自らが据える目標以上の目標を必要とするのです。それは、光なる神によって与えられる目標です。が、それを人は自らの思いで知ることはできません。

エゼキエルは語ってくれます。25節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」。神が私どもを清めてくださると語られております。「すべての偶像」とは「神以外の一切のもの」を指すのです。「すべての汚れとすべての偶像」とは、つながりのあることです。「偶像」とは、人の作った木や金の像というものだけではありません。神以外の何かに依り頼むこと、唯一の神から人を遠ざけるもの、それが偶像なのです。
 エゼキエルは祭司の子でしたが、26歳のとき、イスラエルはバビロン捕囚となり、捕囚の地において祭司の働きをなすことはできませんでした。しかし神は、エゼキエルを預言者としてお立てになりました。「イスラエルは偶像に依り頼んで汚れたゆえに神によって裁かれた」と、預言者エゼキエルは見ているのです。自分は大丈夫だと思う自分本位な日常、自分の利益にのみ没した日常、それが「汚れ」です。自分の思いが作り出す偶像に依り頼むことは「汚れ」なのです。例えば、お金というものは、本来用いる道具であるべきであって、依り頼むべき価値はないのですが、拝金主義の社会にあって、人はお金に縛られています。人自らが作ったものを制御できず、却って縛られているのです。また例えば、人権主義の危うさをも知らなければなりません。神抜きに人権を語ることは、本当の人の尊厳を失わせることです。神抜きでは、人は一人一人が神になり、それは無秩序を生むのです。神抜きの人と人との交わりは、身勝手ゆえに、却って人を孤独にするのです。人は、自ら作ったものに縛られ行き詰まってしまう。神を見失った時代は光なき時代であり、行き詰まってしまうのです。

そういう時代、世界に、エゼキエルを通して語られる御言葉が響きます。
 神は「自ら悔い改めよ」とは言われないのです。「わたしが清める」と言ってくださっております。
 「神が清める」とは、どういうことでしょうか。26節「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」。「新しい心を与える」と言われております。「新しい心」とは、自分自身が持つということではなく、「与えられる」ことです。「お前たちの中に新しい霊を置く」、それが「新しい心」となるのです。神は、私どものうちに聖霊を送ってくださる。そして聖霊が働いてくださって、私どもの心は新しくされるということです。
 更に、新しい心が与えられることによって「お前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」と言われております。「肉の心」とは何でしょうか。27節「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と続きます。「わたしの掟、わたしの裁き」とは「神の言葉」を意味するのです。ですから「わたしの霊をお前たちの中に置き」とは、新しく神の御言葉が私どものうちに据えられるということです。それによって、私どもの心は新しくなるのです。
 聖霊は御言葉と共に働く、と度々語ってきました。御言葉によって「石の心が取り除かれる」のです。「頑な石の心」とは何でしょうか。それは「自分のために」という心、自らの利益を求めるということです。そこに頑さがあるのです。人は本来、自分の利益のために生きるべきものではありません。自分が基準となり、すべてとなると、そこでは行き詰まりしかないのです。
 「肉の心となる」とは「本当の人の心を持つことができる」ということです。

32節「わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる」。自分たちのためにではなく、「神のために」ということです。今日は読みませんでしたが、21節に「そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」と言われております。神は「聖なる名を惜しまれた」ゆえに、このことをなされました。人々が、神を神として崇め、聖なる方として仕えるようになるためです。

私どもは皆、それぞれに先の見えない状況にあります。それは、自分の思いに捕らえられ行き詰まっ心ですが、神はそのような心を、人が自分の力で変えることを求めてはおられないのです。人が自分で自分を変えることは不可能であることを、神はご存知だからです。だからこそ、私どもの心に神が霊を注ぎ、新しい心を与えると言ってくださっているのです。

新約聖書の時代を生きる私どもにとっては、「神の言葉」は「主イエス・キリスト」です。自分に捕われて行き詰まる私どもに、十字架の主イエス・キリストによる罪の赦しの御言葉が与えられているのです。日々新たに与えられる言葉、それは「罪の赦しの言葉、慈しみと恵みの言葉」です。旧約聖書の預言者エゼキエルも同じことを語っております。

今、覚えるべきことがあります。私どもは、日々に新しい心を神から与えられて生きる者であるということです。神によって、常に新しい者とされているのです。日々、御言葉に生きる者として神を崇め、神の栄光を現すのです。そして神との尽きることのない交わり、永遠の命の希望を与えられているのだということを覚えたいと思います。

神が御言葉をもって私どもを新しくしてくださいます。ですから、私どもにとって「神のために」という歩みは、恵みに満ちた歩みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。