2011年 元旦礼拝 |
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元旦の日、愛宕町教会では、早朝に元旦礼拝を行いました。
新しい年の初めに、まず教会で神の言葉に聴き、 励まされて一年を歩み始めて参りましょう。 |
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2011年元旦の朝、私どもを招き、愛してくださる神の身許に集い、礼拝できますことを感謝いたします。私どもを愛し、集めてくださるのは神です。ですから、神は今、喜んでいてくださいます。2011年の始めに当たり、私どもの歩みは「神に喜ばれての第一歩」であることを覚えたいと思います。 昔、人が飢えている時代には、働くことは喜びでした。しかし今、物に満ち足り、存在を喪失している時代にあって、人は自分の定めた目標を達成すると、新しい目標を見出せなくなってしまいます。 エゼキエルは語ってくれます。25節「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める」。神が私どもを清めてくださると語られております。「すべての偶像」とは「神以外の一切のもの」を指すのです。「すべての汚れとすべての偶像」とは、つながりのあることです。「偶像」とは、人の作った木や金の像というものだけではありません。神以外の何かに依り頼むこと、唯一の神から人を遠ざけるもの、それが偶像なのです。 そういう時代、世界に、エゼキエルを通して語られる御言葉が響きます。 32節「わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる」。自分たちのためにではなく、「神のために」ということです。今日は読みませんでしたが、21節に「そこでわたしは、イスラエルの家がその行った先の国々で汚したわが聖なる名を惜しんだ」と言われております。神は「聖なる名を惜しまれた」ゆえに、このことをなされました。人々が、神を神として崇め、聖なる方として仕えるようになるためです。 私どもは皆、それぞれに先の見えない状況にあります。それは、自分の思いに捕らえられ行き詰まっ心ですが、神はそのような心を、人が自分の力で変えることを求めてはおられないのです。人が自分で自分を変えることは不可能であることを、神はご存知だからです。だからこそ、私どもの心に神が霊を注ぎ、新しい心を与えると言ってくださっているのです。 新約聖書の時代を生きる私どもにとっては、「神の言葉」は「主イエス・キリスト」です。自分に捕われて行き詰まる私どもに、十字架の主イエス・キリストによる罪の赦しの御言葉が与えられているのです。日々新たに与えられる言葉、それは「罪の赦しの言葉、慈しみと恵みの言葉」です。旧約聖書の預言者エゼキエルも同じことを語っております。 今、覚えるべきことがあります。私どもは、日々に新しい心を神から与えられて生きる者であるということです。神によって、常に新しい者とされているのです。日々、御言葉に生きる者として神を崇め、神の栄光を現すのです。そして神との尽きることのない交わり、永遠の命の希望を与えられているのだということを覚えたいと思います。 神が御言葉をもって私どもを新しくしてくださいます。ですから、私どもにとって「神のために」という歩みは、恵みに満ちた歩みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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