2010年の夜明けに、神のみ前に共々に礼拝を捧げられる幸いを感謝します。
16節「肉に従ってキリストを知る」とは、キリストの十字架を知ることですが、「十字架」は人間の知識によっては何も見出せず、悲惨を生むだけなのです。
「主イエス・キリストの十字架の死」は、「すべての人の『罪の贖い』としての死」でした。しかし、人間の思いでは、死は絶望です。
肉に従って知るのではなく、「聖霊による認識」では、十字架は「神との和解・救いの恵み」であることを知るのです。誰もが、主イエス・キリストの十字架により贖い出され、罪赦され、主の復活を通して神との交わりをいただくのです。視点の転換です。
神において私どもを見るということ、それは聖霊の出来事です。
まず最初に示されていることは、「罪が贖われて、神との交わりにある」ということです。ですから言葉を変えて言うと、17節「神の新しい創造」なのだと言われているのです。キリストと結ばれることによって、誰でも新しく、神の子として創造されるのです。主イエス・キリストを信じる者は「神の子として創られた」のです。神の御子イエス・キリストと等しく、神との交わりに生きる恵みを与えられているのです。創造の御業は、徹頭徹尾、神のなさる業です。
自分の思いは薄れ行くものです。思いは新しくなっても、古くなっていくのです。そして、罪人は古き者です。しかし、新しく創造された人は、古き人に返ることはないのです。老いようと病にあろうと、神の子としての存在を失うことはないのです。
「救い」は創造の御業です。古いものは過ぎ去ったのです。新しい、神の子としての存在が与えられているのです。私どもは常に新しいのです。神の子としての喜び、恵みの内にあるのです。
18節、救いの出来事を「神との和解」として示しております。罪赦されると同時に「神との和解の中に入れられている」のです。
そして、新しくされた存在に与えられている使命が次に語られております。和解の言葉、救いの言葉を委ねられた者は、「救いの言葉を宣べ伝える」ことを新しい生き方として覚えなければなりません。私どもは「神との和解の使者」として「平和の使者」として、まさに新しく形創られたのです。
福音の宣教を通して、私どもは救いの御業に参与し、神の御業に仕える者となっているのです。
今、本当の新しさ、新たにされて生きることの恵みを語りました。
神のものとして生き、神にすがって生きる、これこそが「救いの恵み」です。家族が、友が、主の慰めをいただき、救いをいただくことのために仕えることができますように。
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