元旦礼拝/説教要旨です

2008年 元旦礼拝

元旦の日、愛宕町教会では、早朝に元旦礼拝を行います。
新しい年の初めに、まず教会で神の言葉に聴き、
励まされて一年を歩み始めて参りましょう。
元旦礼拝

2008年1月1日(火)元旦 午前6時30分〜7時30分
説教「新しく創造される」
北 紀吉牧師
聖書 ガラテヤの信徒への手紙 第6章14〜16節

聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第6章14〜16節

6章<14節>しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。<15節>割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。<16節>このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。

神を賛美することをもって、一年の始まりを感謝できることを喜びたいと思います。「喜び」それは、私どもが感謝を覚えることだと思います。

礼拝をもって始まる。神の赦しがあってこそ、私どもは集っているのです。神の呼び出しにより礼拝が成り立っている。神が私どもを呼び出し、神の御名を呼ぶことを良しとしてくださる、そこに神の働きを見るのです。一年の始まりに神の働きを見させていただいている、だから感謝なのです。

「日々悔い改め、感謝」ルターの言葉です。神へと向きなおり感謝することが私どもの生き方です。もともと日本人は「感謝」と言わず「御陰さまで有り難い」と言いました。その言葉は信仰の出来事があって言われていたことです。しかし今は不遜になっているのです。
 「礼拝する」それは神が私どもに働きかけ、集め、神の民としてくださる、だから賛美するのです。感謝なのです、神の民とし賛美する者としてくださるのです。神の働きに与っているのです。私どもの思いで集まったのではなく、神の働きがあって集められた、そのことを感謝として受け止めたいと思います。

礼拝において、私どもは「新しい創造」を見るのです。暗き夜から明るい光のもとへ導き出されているのです。神がいまさぬ世界は混沌の世界です。さまざまなことで空しさを感じ、格差社会においては、無気力・行き詰まりで混沌になってしまいます。
 新しい、光なる世界への転換、それは神の支配の世界への転換です。それは、朝に礼拝することでもあります。神の民としての創造は神の世界への転換ということです。不安・無力から、拠り所、根拠を見い出すことです。力を与えられているのです。神への賛美は、力を与えられてできることです。本来、人は自分を賛美するものです。神を賛美することができるのは聖霊の働きによるのです。神の民としての創造は、神を讃える力を与えられているということです。それが教会です。教会は神から権能を授かっているのです。

神の民とされた恵みに生きるということ、それはどういうことか。それは十字架の他に誇るものがあってはならないということです。十字架により裁かれるべき者が救いの恵みに与っている、それは罪の贖いがあるからです。神の救いの出来事に他なりません。罪の赦しに与ったキリスト者は、十字架をこそ誇りとするのです。
 私どもは、自らのプライドがあるから立っているところがある。自らを誇ることは、神からの遠さを示しております。それは罪です。自らのプライド、そこに罪があるのです。それを打ち砕くものは、神の恵みなのです。頑な私どもの罪を、神の方でその罪を担い、命をくださって贖い出してくださったのです。それが主イエス・キリストの十字架の出来事です。その神の恵みに立っている以外に無い、ということです。そのことにより、私どもは真実の慰めを受け、自分の存在を潤いあるものとするのです。
 今、神の民とされているということは、主イエス・キリストの十字架の恵みゆえなのです。十字架は敗北ではなく勝利です。救いとは、キリストに依り頼んで生きることに他なりません。自らの力によって生きる生き方から、神に依り頼み、神の憐れみと慈しみの内に生きるのです。