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18節に、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」と記されております。 主イエスは、ユダヤ人として生きられました。ユダヤ人にとって大事な断食の日は、7月10日の大贖罪日です。レビ記に記された清めの日、罪の贖いの日として、この日には、ユダヤ人であれば誰でも断食するのです。 このように断食にもいろいろあるのですが、主イエスと主の弟子たちは断食をしませんでした。聖書の他の箇所にも、人々が、なぜ断食しないのかと主の弟子たちに問う場面がありますが、ここでは主イエスに向かって「なぜ、弟子たちに断食を教えないのか」と問うております。 ユダヤ人にとって「婚礼」は、重んじられておりました。ですから、婚礼の時に断食などしません。ユダヤの教師であるラビでさえ、町中村中が婚礼を祝っている一週間は、教えることを中断するほどでした。ここで、「婚礼」によって主が示しておられることは「喜び」です。「主イエスの弟子である」ことの中心は「喜びである」ことが、ここでまず示されているのです。 主の弟子であることがどうして喜びなのか、知らなければなりません。先程、ヨハネの弟子たちのような悲しみ・苦しみは、主イエスの弟子たちには無いと言いましたが、もちろん、主の弟子たちにも様々な悲しみがあり、また後に、主の弟子たちは、主の弟子であるがゆえに大いなる苦難を味わうことになるのです。けれども、そうであっても、主の弟子たちが「十字架と復活の主イエス・キリスト」を宣べ伝えたのは、なぜでしょうか。苦難や悲しみが無かったからではありません。「苦難を恐れずに、耐え忍んで」主イエスを宣べ伝えたということなのです。苦難の中にあっても、その根底に「喜び」があることを知らなければなりません。なぜ、苦難を耐え忍んでまで、主イエスを宣べ伝えることができたか。それは、苦難が弟子たちを支配するのではなく、「主にある喜び」が弟子たちを満たしていたからです。だから、苦難をも耐え忍べたのです。 その人の心を占めているものは何か。「主にある喜び」が占めているならば、現実のどんな困難にあったとしても、それを乗り越えて生きていくことができます。 救いの恵みによって、私どもは、悲しみ・苦しみがあることが人にとっての問題なのではないことを知ります。悲しみ・苦しみがあっても、いかに生きるかは、主の恵みに満たされているかどうかにかかっているのです。 同時に、ファリサイ派の人々の出来事を知らなければなりません。ファリサイ派の人々は、自分の敬虔さを表すために断食をする、それは、真面目さの呪縛にあるということです。勤勉であるがゆえに、信じたからには信仰深く、神に相応しく真面目に誠実に生きなければならないと思うのです。しかし、それは自らを束縛すること、呪縛です。一生懸命やらなければならないと考える真面目さによって、洗礼を決断できない人もいるのです。それは、自分に強いて落ち度ない信仰生活をするということであり、それは不自由なことです。 信仰とは、人を自由にするものであることを知らなければなりません。キリスト者には自由が与えられているのです。聖書の語る「喜び」とは何か。それは「主イエスにある喜び」です。主にある喜びが人の心を満たすとき、その人は、ああもこうもしなければならないという呪縛から解き放たれるのです。罪贖われた恵みによって、そのままの自分を愛し、大切にすることができます。こうでなければならないという自らに対する強制から、人を解き放ち自由にする、それが「主にある喜び」なのです。 真面目であることが駄目なのではありません。主の救いの恵みを思うことによって、真面目に生きなければならないと思う苦しみから解き放たれるのです。自分の力で真面目に生きようとすることは、捕われた生き方です。完璧にはできないゆえに開き直るか、あるいは他者と比べて上であることを誇る傲慢ということが起こるのです。そうではなくて、自分自身の背丈で生きることが大事です。背伸びせず、卑屈にならず、自分の身の丈で生きる。それが「信仰の恵み、主イエスを信じること」であることを覚えたいと思います。 解き放たれて生きることは、なかなか難しいことです。けれども、主イエスに支えられ、主に覆われているからこそ、私どもは手足を伸ばして解き放たれた者として生きることができるのです。主イエスに委ねつつ、自分自身を愛すべき者として生きて良いのです。そのことが、人々へのこの主の答えに示されていることです。 けれども、この時点で、このことを主の弟子たちは自覚しておりません。しかし、自覚していなくて、なお、神の恵みのうちにあるのです。この恵みのうちにあるからこそ、苦難のとき、悲しみのとき、「主にある喜び」を思い起こすことができるのです。自覚のなかったときにも、主に支えられていたことを思い起こすことができるのです。 喜びの中心にあることは、「主にある救いの出来事」です。そして、その喜びは「神の国の到来」を示すことであることを忘れてはなりません。主イエスが来られたことによって、神の国は始まっているのです。主がこの地上に来られ、私どもは主の弟子とされる。それは、神の支配のうちに入れられる、神の民とされるということです。それは神の国の支配ですから、地上の支配とは違うのです。地上の支配は人の欲望を満たす支配であり、それは人の命をも蝕み、尊厳を奪う支配なのです。今の安楽な生活を保つために、人の欲望に切りはないのです。 しかし、そのような地上の支配にあることから、神の支配へと変えられること、そのことをキリスト者は知らされているのです。永遠の命の恵みを与えられて、喜びのうちに置かれているのです。 「主にある喜び」、それは「神の国の民とされ、永遠の命の約束を与えられている」ということです。罪贖われ、永遠の命の約束が与えられているという喜びのうちにあることの幸いを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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ただ今、新約聖書の使徒言行録14章8節〜22節までを、ご一緒にお聞きしました。この直前の6節と7節を見ますと、パウロとバルナバの2人が、リストラやデルベといったリカオニア州の町で福音を告げ知らせていたことが述べられています。 ところが、少し前から、そういう広場の様子が少しだけ変わってきたことに、この人は気がついたのでした。リカオニア地方に暮らし、この土地の言葉を話す彼からしてみると、見るからによそ者で、土地の言葉も分からないような2人組が、非常に訛の強いギリシア語で、道行く人々に熱心に何事かを語りかけています。当然ながら、彼らに耳を貸すようなヒマ人はほとんどいません。それでもこの2人は、毎朝広場にやってきては、夕暮れまで、一生懸命になって福音を伝えようとしています。 幾日も、そんな勧めの言葉を聞いているうちに、この男の中に、あるひとつの思いが芽生えます。この外国人宣教師の言う、まことの神とやらを、自分も信じていきてみようかという思いです。 しかし、ひとたびそういう思いが芽生えた先には、周囲の人たちが、あっと驚くようなことが待っていました。9節、そして10節をお聞きします。「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」。 こういうことは、信じさえすれば、いつでも引き起こせるのだといった具合に、安直に考えてはならないように思います。かつてイエス様は、しるしを見たがったり、有り難がったりする信仰を、上辺だけの見せかけのものとして退けられました。信じたら、何でも思いのままに病気を治すことができる、というような信仰は、結局は、自分の願いや思いを実際するために神を信じるという、ご利益信仰になってしまうのです。 たとえば、私自身が関わることを許された教会員の方々の中にも、病にあって、医学的には理解できないような不思議な出来事によって生き、召された方々がおられました。しかし、信仰を持てば医学の常識が覆ると決まっているのではありません。また、そのご本人が望んだり目指したという訳でもないと思います。 今日の、この足の不自由だった人の場合には、不思議と立ち上がることができ、それどころか躍り上がって立つことができました。多くの人々の注目は、その点に集まるのですが、しかし本当は、この出来事の起きる以前のところで、その不遇な境遇にも拘らず、それでも自分の上に置かれている神様の導きを信じることができたという、そのこと自体がこの人に生じた最初の奇跡です。御言葉をまっすぐに信じることができた、そのことが、この人の場合には、歩けなかったはずなのに歩けてしまったという仕方で、人々の目に留まるようになっているのです。 ところで、その後に起きたことは、何とも奇怪です。この男の人が立ち上がるのを見た町の人々は、パウロとバルナバを、ギリシア神話の神々が現れたのだと思い込みました。 パウロとバルナバがこのような惨事に見舞われながらも、しかし、このリストラの町に御言葉の種は着実に蒔かれました。放り出され倒れているパウロを取り囲むように何人かの人の輪ができます。その中には、あの置かれていた男もいたでしょう。皆、広場で、パウロの言葉に耳を傾けた人たちであり、パウロが決してペテン師ではないことを分かっている人たちです。 こういう聖書の記事から、私たちは教えられ、また励まされるのではないでしょうか。イエス様の御業を伝え、永遠の命を得させようとする信仰の言葉は、表向きには激しい抵抗にあって、なかなかこの世の多くの人々に浸透できないと見えるかもしれません。しかしそれでも、御言葉の種は繰り返し根気よく蒔かれ、そして着実にその町に根付いて行くのです。 他ならない私たちが、今日ここに集まって礼拝を捧げている事実こそ、福音の種まきがここで行われたことのしるしです。リストラの町に福音の種が蒔かれ、芽生えたように、ここ甲府の町でも主の御業が語り伝えられ、そして主の御業に慰められ力を受け、感謝して生きる生活が、私たちのもとで強められますように、心から祈りを捧げたいのです。 |
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今日は20節からお話をいたします。 20節は、18・19節と趣きが違うのです。断食をしない主イエスの弟子たちについて、18・19節では、主イエスの弟子たちは救い主が共にいてくださる恵みのうちにあるのだから「断食はしない」と、主イエスは言われました。断食することによって、ヨハネの弟子のように悲しみを表す必要も、ファリサイ派の人々のように自分の敬虔さを表す必要もないと言われたのです。 「花婿が奪い取られる時」とは、明らかに「主イエスの十字架」を覚えてのことです。「その日には」とは、主の十字架の日「金曜日」を指しております。 今日、私どもの教会は、信徒に断食を勧めているわけではありません。けれども、日本の教会は大変敬虔です。毎年、イースター前の受難週と金曜日の「受難日礼拝」を重んじております。また、私ども愛宕町教会では、毎月一度、主のご受難を覚え、金曜礼拝を守っているのです。ですから、20節に言われていることは、私どもの教会と無関係なのではなく、私どもの教会が、今行っていることの内容そのものなのだということを覚えたいと思います。 私どもは、どのようにして「主イエス・キリストを知る」のでしょうか。 2009年年に、日本伝道150年の宣言を、日本基督教団としていたしました。それは「イエスはキリスト(救い主)である」という宣言です。「十字架に架かられたイエスこそ、救い主キリストである」ということを明確に言い表したのです。十字架のキリストを抜きにするならば、教会はもはや教会ではありません。ですから、私どもの教会が、「十字架のキリスト」を覚えて礼拝を守ってきたことは大事なことです。教会は、クリスマス以上に「主の十字架の出来事、主の復活の出来事」を、「私どもの救い」として覚えなければなりません。私どもは、十字架の主イエス・キリストを覚えて、受難日礼拝を、金曜礼拝を守っているのだと言うことを、改めて覚えていただきたいと思います。 さて、20節が挿入されたために、18・19節と21・22節との断絶が起こってしまいましたが、19節そして21節と読めば繋がりが良いのです。 そこで思うことがあります。今の時代は、楽で綺麗なことが大事にされますが、それは言葉を変えれば、すべてがお金で代えられるということです。しかしそれは、同時に、生きる知恵を失うことです。創意工夫して何とかする、それは人を自立させます。自立して、人はそこで尊厳を見出すのです。例えば「おばあちゃんの知恵」と言われることがそういうことでしょう。生活の知恵、それは主体的な生活を生んできた、大切なことだったと思います。 さて、21節の言葉で言われていることは何でしょうか。それは、主が共におられる主イエスの弟子たちの断食は、ヨハネの弟子やファリサイ派の人々の断食とは違っているのだから、その信仰のあり方を無理矢理合わせようとすることは破綻を招くことになる、と言っているのです。 「新しい信仰生活」とは、「主イエス・キリストが共にいてくださる信仰生活」です。キリスト者、即ち「キリストが共にある者に相応しく、自ずと生まれて来るあり方」が大事なのです。ファリサイ派の人々のように、こうでなければならないと律法主義になり、自らの敬虔さを表すあり方に戻ってはならないのです。 「主イエス・キリストの恵みに満たされている者の生活」は、「喜びの生活」です。ファリサイ派の人々の生活とは相容れないものなのです。自らの敬虔さを表すことの主体は自分ですが、キリストの恵みに満たされての生活の主体、中心はキリストなのです。新しい信仰に相応しい新しい生活、それは主の恵みに満たされての、喜びをもっての生活であります。 主にある信仰の出来事は、自らの正当性を表すことではありません。そうではなくて「キリストがすべてとなる、キリストの栄光のためのあり方」です。そこに主の恵みが表される、そういう生活なのです。そしてそれは、「礼拝の生活、御言葉に聴く生活」であります。「キリストの恵みを頂く生活」は、「神に聴き、祈る生活」なのです。 更にここで、もう一つ大切なことがあります。主イエスは、主共にある新しい生活を古い生活に合わせてはならないと言われました。けれども、そこで、古い生活、古いあり方を否定してはおられないのです。ファリサイ派の人々に、ユダヤ教を改宗せよとは言っておられません。 自分を基準にして相手を変えようとする、そういう人間の罪深さを思わなければなりません。人は、他者に強いられて変わるということは出来ません。「自ずと変えられる」ことを待つしかないのです。 私どもキリスト者の生活は、主の恵みに満たされていることを喜ぶ、喜びの生活です。主の恵みに満たされた者として、ただ主をのみ表す者として、主を御名を崇め、礼拝し、祈る日々の歩みをなす者でありたいと思います。 |
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23節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」と記されております。この記述は、直訳すると大変面白く、「イエスが麦畑を通りがかるということが生じた」というぎこちない表現なのです。「主イエスが来られると何かが起こる」ということを期待させる、そういう語り口です。 ここで起こったことは何でしょうか。「安息日に、弟子たちが麦の穂を摘んだ」という事態が発生しました。「麦の穂を摘み始めた」というのは、ただ単に穂先を摘んだ、ということではありません。弟子たちは、麦を食べるために摘みました。がばっと摘み、手で揉んで食べたのです。これは、安息日にしてはならない「労働」に当たります。また、「歩きながら」とありますが、これも、安息日には「800メートル以上歩いてはならない」という規定に違反するものです。このことは、私どもにとっては問題ではありませんが、律法を厳しく守るファリサイ派の人々にとっては重大な問題なのです。 24節、ファリサイ派の人々が主イエスに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言ったと記されております。彼らは弟子たちに直接言わずに、主イエスに問うております。「安息日規定に対する違反」について、主に問うのです。ここでは、「歩いたこと」よりも、「摘んで食べた」ことを問題にしていると思われます。実は、このことは、「安息日とは何か」ということを主イエスが明らかにしてくださるために起こった出来事だと言えるのです。 「弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」、これは直訳すると「自分たちのために、麦の穂を摘んで食べた」となります。安息日に「自分たちのために働いていること」、このことが問題なのです。そもそも「安息日」は、6日間で天地を創造し7日目に休まれた「神の創造の業」を覚えて、また、出エジプトにおける「神の救いの業」を覚えて、7日目には「神を礼拝せよ」と定められた日です。ですから、安息日は「神のための日」なのです。自分のために働いてはならないのです。 6日間の私どもの歩みは様々です。喜びの日々もあれば、課題を抱えたまま自力では完結できない歩みもあります。しかし7日目、私どもは神の前に立ち、様々あった自分の6日間が、神によって「良し」とされていることを知るのです。それが「礼拝」です。私どもは7日目に、礼拝において、」神の祝福をいただくのです。例えば、王制や、あるいはギリシャの神々であれば、人は、働いた分は王に、神に捧げます。つまり、労働は神のためです。 ですからそう考えますと、この弟子たちの振る舞いは問題でありましょう。しかし、主イエスは問題にしておられません。なぜでしょうか。それは主イエスが来てくださり、主が弟子たちと共にいてくださるからなのです。 25節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」と、主は言われます。「空腹」と出てきますので、理由の一つは、弟子たちが「空腹」だったということでしょう。また、弟子たちは律法を知らない「無知」な者だったという理由かもしれません。どちらにせよ、律法に禁止されているにも拘らず、弟子たちが「麦の穂を摘む」ことが出来たのは、主イエスがそのことを「良し」として許して下さっているからなのです。理由を問うならば、答えは「主イエスが良しとされた」からです。理由の主体は「主イエス」なのです。だからこそ、理由を問うこの問いに、主が答えてくださいました。このことは素晴らしいことです。 「一度も読んだことがないのか」とは、主イエスがファリサイ派をいかにも見下しているような言い方だと思えるのですが、そうではありません。この言葉は、当時、律法の教師ラビが聖書を教える際によく使った常套句でした。ですから、ここで主がこう言われたということで分かることは、主イエスもまた、聖書に精通しておられるということです。主イエスは聖書をよくご存知なのです。いえ、それどころか、聖書の精神を、主イエスこそが担っておられるのです。 26節「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と、主イエスは言ってくださっております。これはサムエル記からの引用です。「祭司だけが供えのパンを食べる」ことが律法の規定ですが、ダビデは空腹のときに食べたと言うのです。つまり、律法とは、すべてを禁じるものではないということを、主は示しておられるのです。律法とは、人を束縛するものではないことが示されております。 ですから、今ここで礼拝を守っていること、それは神の憐れみのうちに生きること、神の慈しみのうちにあるという出来事です。 27節、そして主は更に言われます「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。律法を守ることは、人の信仰深さを証明するためではないと言われております。 28節「人の子は安息日の主でもある」と言われます。主イエスは、恵みそのものなる方です。その主が共にいてくださって、弟子たちを慈しんでくださいました。主の憐れみの中にあったからこそ、弟子たちは「麦の穂を摘んで食べる」ということができました。 主イエスの十字架は、ただただ神の恵みです。主イエスの復活は、ただただ神の恵み、神の憐れみそのものなのです。主イエスは「安息日の主」としてご自分を宣言してくださいました。ですから、その主を崇めるという新しい礼拝が始まりました。主イエスは、安息日の主として、ここに、この礼拝に臨んでくださっております。主が共にあってくださる礼拝、主イエスによって新しい礼拝の形が与えられているのです。 礼拝は、私どもの一週の歩みが祝福される恵みのときであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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主イエスが再び、会堂に入っておられます。日常の働きのすべてを休み神を覚える日として、主イエスは「安息日」を守られるのです。主イエスが安息日を守られたことの意味を、私どもも覚えたいと思います。 今朝の招詞はイザヤ書62章、交読詩編は102編でした。詩編102編には「礼拝を守ることの意味」が示されております。そして、イザヤ書62章5節に「あなたの神はあなたを喜びとされる」と言われております。私どもが「礼拝を守る」ということは、神が私どもを顧み、ここに集うことを良しとし「喜んでくださる」恵みなのです。 今、私どもがこの礼拝にあることは、「神の喜びの内にある」ということです。不平不満、不安の多い私どもです。自分で喜ばなければと思っても難しいのです。ですからこそ、「喜ばれていることを知る」ことは大事なことです。他者から喜ばれているならば、人は自らの存在を確かにします。しかしもし、他者が喜んでくれないとしても、神が喜んでくださっていることを知るならば、私どもは孤独ではありません。主日ごとに、礼拝を守るごとに、私どもの存在を神が喜び、祝福してくださるのです。それは、「神にある平安を与えられる」ということです。神の平安のうちに、人としての歩みをなすことができるのです。 主イエスは、ユダヤ人の安息日礼拝(土曜日)を守っておられます。「守る」と言うと、人は保守的になります。「守らなければならない」ということになる、それが律法主義、ファリサイ派のあり方です。「〜ねばならない」と義務化すると、それは「恵み」とはならず、自己正当化と裁きになるのです。 「恵み」の中心は、自由にされ解き放たれることです。主イエスは安息日を義務として守っておられるのではありません。安息日を守りながら、安息日に対して自由なお方です。主イエスは、この前のところで、ご自身について「人の子は安息日の主である」と言われました。「主」それは「主人、主権者」ということです。主イエスは「神の恵み、平安」を具現化しておられる方なのですから、主権者であることは当然のことです。 私どもは、安息日に思うことがあります。日曜日の礼拝で、「あの人には会いたくない」と思う時がある。しかしそこに「とらわれ」があります。しかし、主イエスは、誰に対してもとらわれなく臨み、招いてくださる方です。私どもがこの礼拝に集うことは、この場に相応しい者であるからではなく、「主に招かれている」から集い得ているのです。この招きは、とらわれ無き方、主権者たる主イエス以外になし得ないことであることを覚えたいと思います。主権者なる主イエスが招いてくださるから、許されて、私どもはここにあることを覚えたいと思います。 主イエスはとらわれなく、安息日を守っておられます。2節、そこに、この出来事が起こるのです。会堂に片手の萎えた人がなぜいたのか、記されておりませんので分かりません。生まれつき萎えていた人なのかどうかも分かりません。いろいろな学説がありますが、しかし、私どもがここで知るべき大事なことは、「主イエスが、この片手の萎えた人を見出しておられる」ということです。主イエスは「この人には、神の恵みが必要である」ことを見出してくださったのです。主イエスは、安息日に「神の恵みがこの人に与えられることが大事」だと思っておられるのです。 安息日に主イエスがなそうとされることは「神の恵みを現す」ことです。しかし人々は、安息日を、主を訴えるための、他者を貶めようとするための機会とするのです。これは、悪意以外の何ものでもありません。 ファリサイ派の人々は、「主イエスがいやされる」ことを期待しております。しかしそれは、片手の萎えた人が癒されることを期待しているのではありません。そうではなくて、その行為によって、主を訴える口実にしようと期待しているのです。 4節、主イエスは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。「善=神の恵みを表すこと」か「悪=悪意を抱いて神に敵対すること」か、「命=神からのもの」か「殺す=敵意は殺意になる」かと問われます。「安息日に律法で許されていること=律法の精神」は、敵意ではなく、神の恵みが満ちることです。人々がここで注目すべきことは、この片手の萎えた人に「神の恵みが満ち溢れること」なのです。 神の忍耐とは、人の罪に耐えることです。そしてそこに、私ども罪人の救いがあるのです。 5節「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」と記されております。主イエスは、主を、神を受け入れようとしない人々の頑さに怒り、そして悲しみながら、片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」との言葉をくださいます。 私どもは、神の怒りの許にあることを覚えなければなりません。主に敵対する者に対して、主の怒りの恵みが臨んでいるのに、人々はへりくだれない。主は救いたもう方として、そのことを悲しまれるのです。 裁きのないところに救いはありません。神の怒りとは、ご自身の愛を貫いておられる出来事であることを忘れてはなりません。神に敵対するしかないファリサイ派の人々の救いも、そこにかかっているのです。 主イエスは「手を伸ばしなさい」と言われました。片手の萎えた人は、ずっと手を伸ばしたかった、けれども今まで手を動かすことはできませんでした。しかし、主の言葉によって「伸ばすと、手は元どおりになった」と、手を伸ばすことができました。主イエスの言葉は、力です。主イエスが「伸ばしなさい」と言ってくださるから、伸ばせたのです。主イエスの言葉を聴くことは、主の力をいただくことです。自分ではなし得ないことを、なし得ること、主の祝福が与えられることなのです。 ところが、神の恵みの御業を見れば見るほどに、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は、共に主を敵として殺意を持つのです。この2つの派の人々は、普段は全く相容れない者同士であるにもかかわらず、主に敵対する者同士として一緒に「相談し始めた」と記されております。ここから、主イエスの十字架への道が始まります。人の敵意が殺意となる出来事、それが神の恵みを恵みとできなかった者のあり方なのです。 主イエスの十字架は、人々の悪意ゆえにあります。しかし、主イエスは、この人々の悪意ゆえの「十字架」を、救いの業と変えたもう全能の方であります。主の十字架という、人の罪の頂点で、救いがなされるのです。恵みを受け入れず、自ら滅ぶしかない者を、主は悲しみ憐れんでくださるのです。 今、この礼拝おいて、神は、主を救いと受け入れる者が集うことを喜んでくださっていることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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