聖書のみことば/2012.9
2012年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
断食しない主の弟子たち」 9月第1主日礼拝 2012年9月2日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章18〜22節

第2章<18節>ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」<19節>イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。<20節>しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。<21節>だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。<22節>また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

18節に、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」と記されております。
 まず「断食」とは、どういう意味を持つことなのか知らなければなりません。「断食」は、私ども日本人には馴染みがありませんので、断食で思うことと言えば、健康のため、ということでしょうか。

主イエスは、ユダヤ人として生きられました。ユダヤ人にとって大事な断食の日は、7月10日の大贖罪日です。レビ記に記された清めの日、罪の贖いの日として、この日には、ユダヤ人であれば誰でも断食するのです。
 けれども、この他にも断食する時があります。一つは、大きな苦難や悲しみに遭った時です。断食によって深い悲しみを表し、悔い改めて神の憐れみを乞うのです。この断食が、ここに言う「ヨハネの弟子たちの断食」です。
 しかし更には、誰でもがするわけではない断食があります。それは自分の信仰深さ、敬虔さを表すための断食です。律法の規定以上に精進して、自ら進んで断食し、自分の信仰の姿勢を表すのです。この断食が「ファリサイ派の弟子たちの断食」です。
 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」とありますように、バプテスマのヨハネ自身が断食していたとは記されておりません。主イエスの公生涯の始まりは、バプテスマのヨハネが捕らえられた時がきっかけですから、そうしますと、この時バプテスマのヨハネは領主ヘロデによって捕らえられ、既に殺されていたと考えられます。ヨハネは正しく信仰を言い表し、悔い改めをヘロデに求めましたが、そのことによって捕らえられ殺されました。従って、「ヨハネの弟子たちの断食」は、師であるヨハネを失った苦しみ・悲しみを表す断食だったのであり、また、ヨハネの志を継いで、神の御心が成るようにとの祈りの断食であったのです。

このように断食にもいろいろあるのですが、主イエスと主の弟子たちは断食をしませんでした。聖書の他の箇所にも、人々が、なぜ断食しないのかと主の弟子たちに問う場面がありますが、ここでは主イエスに向かって「なぜ、弟子たちに断食を教えないのか」と問うております。
 この問いに対して、主イエスは、19節「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」と答えられます。どうして主の弟子たちは断食しないのか。それは、主イエスが共におられるのだから、主イエスの弟子たちは、ヨハネの弟子たちのように喪に服して悲しみを表す必要はないし、ファリサイ派の弟子たちのように自分の敬虔さを表す必要はない、人にまさって信仰深く生きなければならないという呪縛のうちにはない、ということなのです。

ユダヤ人にとって「婚礼」は、重んじられておりました。ですから、婚礼の時に断食などしません。ユダヤの教師であるラビでさえ、町中村中が婚礼を祝っている一週間は、教えることを中断するほどでした。ここで、「婚礼」によって主が示しておられることは「喜び」です。「主イエスの弟子である」ことの中心は「喜びである」ことが、ここでまず示されているのです。

主の弟子であることがどうして喜びなのか、知らなければなりません。先程、ヨハネの弟子たちのような悲しみ・苦しみは、主イエスの弟子たちには無いと言いましたが、もちろん、主の弟子たちにも様々な悲しみがあり、また後に、主の弟子たちは、主の弟子であるがゆえに大いなる苦難を味わうことになるのです。けれども、そうであっても、主の弟子たちが「十字架と復活の主イエス・キリスト」を宣べ伝えたのは、なぜでしょうか。苦難や悲しみが無かったからではありません。「苦難を恐れずに、耐え忍んで」主イエスを宣べ伝えたということなのです。苦難の中にあっても、その根底に「喜び」があることを知らなければなりません。なぜ、苦難を耐え忍んでまで、主イエスを宣べ伝えることができたか。それは、苦難が弟子たちを支配するのではなく、「主にある喜び」が弟子たちを満たしていたからです。だから、苦難をも耐え忍べたのです。

その人の心を占めているものは何か。「主にある喜び」が占めているならば、現実のどんな困難にあったとしても、それを乗り越えて生きていくことができます。
 「主の弟子」とは、「主の十字架によって救いに与った者」です。現実の苦しみや悲しみに決して打ちひしがれることなく、却って、苦難に遭うからこそ、主の救いの恵みが鮮やかになるのです。
 「主にある喜び」とは、「このわたしのために、贖いの主の十字架がある」ことを知ることです。苦しみに遭うことによって、私どもは「このわたしが、主イエスと一つなる者とされている」ということを深く知ることになるのです。主イエスとの深い結びつきを知り、感謝をもって覚えることができるのです。
 もし、主イエスを知らなければ、苦難に遭うことは人を孤独にします。苦しみ・悲しみに絶望し、孤立し、やがて孤独となるのです。人は、主の救いの恵みにあり、救われた喜びがあるからこそ、決して絶望しない、それが聖書が語っていることです。

救いの恵みによって、私どもは、悲しみ・苦しみがあることが人にとっての問題なのではないことを知ります。悲しみ・苦しみがあっても、いかに生きるかは、主の恵みに満たされているかどうかにかかっているのです。
 苦しみや悲しみは、誰もが経験することです。だからこそ、その人の心が何で満たされているのかが大事なのです。
 幸いなことに、主イエスは、私どもの苦しみ・悲しみを、十字架によってご自分のものとして下さいました。私どもが「主のものである」ことを覚えるとき、このわたしの痛み、苦しみ、そして死をも、「十字架の主が共にしてくださっている」ことを思い起こして感謝できるのだということを覚えたいと思います。

同時に、ファリサイ派の人々の出来事を知らなければなりません。ファリサイ派の人々は、自分の敬虔さを表すために断食をする、それは、真面目さの呪縛にあるということです。勤勉であるがゆえに、信じたからには信仰深く、神に相応しく真面目に誠実に生きなければならないと思うのです。しかし、それは自らを束縛すること、呪縛です。一生懸命やらなければならないと考える真面目さによって、洗礼を決断できない人もいるのです。それは、自分に強いて落ち度ない信仰生活をするということであり、それは不自由なことです。

信仰とは、人を自由にするものであることを知らなければなりません。キリスト者には自由が与えられているのです。聖書の語る「喜び」とは何か。それは「主イエスにある喜び」です。主にある喜びが人の心を満たすとき、その人は、ああもこうもしなければならないという呪縛から解き放たれるのです。罪贖われた恵みによって、そのままの自分を愛し、大切にすることができます。こうでなければならないという自らに対する強制から、人を解き放ち自由にする、それが「主にある喜び」なのです。

真面目であることが駄目なのではありません。主の救いの恵みを思うことによって、真面目に生きなければならないと思う苦しみから解き放たれるのです。自分の力で真面目に生きようとすることは、捕われた生き方です。完璧にはできないゆえに開き直るか、あるいは他者と比べて上であることを誇る傲慢ということが起こるのです。そうではなくて、自分自身の背丈で生きることが大事です。背伸びせず、卑屈にならず、自分の身の丈で生きる。それが「信仰の恵み、主イエスを信じること」であることを覚えたいと思います。

解き放たれて生きることは、なかなか難しいことです。けれども、主イエスに支えられ、主に覆われているからこそ、私どもは手足を伸ばして解き放たれた者として生きることができるのです。主イエスに委ねつつ、自分自身を愛すべき者として生きて良いのです。そのことが、人々へのこの主の答えに示されていることです。

けれども、この時点で、このことを主の弟子たちは自覚しておりません。しかし、自覚していなくて、なお、神の恵みのうちにあるのです。この恵みのうちにあるからこそ、苦難のとき、悲しみのとき、「主にある喜び」を思い起こすことができるのです。自覚のなかったときにも、主に支えられていたことを思い起こすことができるのです。
 徴税人レビの家での食事は何であったかを思い起こしていただきたいと思います。レビは、主の弟子とされたことを喜んで、その喜びを、主と共にある食卓として表しました。恵みの交わりの時を持ったのです。

喜びの中心にあることは、「主にある救いの出来事」です。そして、その喜びは「神の国の到来」を示すことであることを忘れてはなりません。主イエスが来られたことによって、神の国は始まっているのです。主がこの地上に来られ、私どもは主の弟子とされる。それは、神の支配のうちに入れられる、神の民とされるということです。それは神の国の支配ですから、地上の支配とは違うのです。地上の支配は人の欲望を満たす支配であり、それは人の命をも蝕み、尊厳を奪う支配なのです。今の安楽な生活を保つために、人の欲望に切りはないのです。

しかし、そのような地上の支配にあることから、神の支配へと変えられること、そのことをキリスト者は知らされているのです。永遠の命の恵みを与えられて、喜びのうちに置かれているのです。

「主にある喜び」、それは「神の国の民とされ、永遠の命の約束を与えられている」ということです。罪贖われ、永遠の命の約束が与えられているという喜びのうちにあることの幸いを、感謝をもって覚えたいと思います。

生い育つ福音」 9月第2主日礼拝 2012年9月9日 
宍戸俊介 牧師(日下部教会)
聖書/使徒言行録 第14章8〜20節

第14章<8節>リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。<9節>この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、<10節>「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。<11節>群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。<12節>そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。<13節>町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。<14節>使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行き、叫んで<15節>言った。「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。<16節>神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。<17節>しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」<18節>こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。<19節>ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。<20節>しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。<21節>二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、<22節>弟子たちを力づけ、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。

ただ今、新約聖書の使徒言行録14章8節〜22節までを、ご一緒にお聞きしました。この直前の6節と7節を見ますと、パウロとバルナバの2人が、リストラやデルベといったリカオニア州の町で福音を告げ知らせていたことが述べられています。
 その活動が、どれほどの期間続いたのかということは、聖書にはっきり記されておりません。でもおそらくそれは、数日や数週間というような短い期間ではなくて、少なくとも数ヶ月、あるいはことによると一年以上も粘り強く続けられたものだったようです。そのように地道に続けられた伝道の取り組みがあってこそ、今日聞いている箇所の出来事につながります。8節〜10節を、もう一度お聞きいたします。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」。
 リストラの町にはユダヤ人の住民が少なく、おそらくユダヤ教の会堂はなかったものと思われます。もし会堂があったなら、パウロたちはまず会堂に入って、イエス様の御業を宣べ伝えたに違いありません。そうしていないのは、即ち、この町に会堂がなかったためなのです。
 会堂がありませんので、やむを得ずパウロたちは、人々が多く集まる町の広場に出かけて行って、そこで辻説法でイエス様の御業を伝えました。
 当然のことながら、町の広場は往来が騒がしいですから、落ち着いて話を聞けるような雰囲気ではありません。パウロとバルナバは声を嗄らしながらも道行く人々に懸命に福音を語ったに違いないのですが、そこには、ひっきりなしに人間や動物たちが行き交い、また商売の呼び込みの声なども盛んに聞こえていたはずです。話を聞いてゆっくり考えるのには、いかにも不向きな場所で、不利な条件を抱えながらも、パウロたちは忍耐強く語り続けたのでした。
 すると、ごく少数ですが、その語る言葉にじっと耳を傾ける人が出てきたのです。大方の人たちにとって、広場は通り抜け、通り過ぎる場所だったのですが、中には動こうにも動けない人たちがいたのです。例えば、8節にこう言われます。「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた」。この人にとって、広場は通り過ぎてゆける場所ではありません。足が悪く、歩けない。そのために、この人物は一日中を広場で過ごしていました。おそらくは、施しでも受けるようにと、家族か近しい者がこの人を朝、この場所に運んできて座らせ、夕方にはまた運ばれて行ったのでしょう。
 この人にとって、広場は離れることのできない居所でしたが、それは過酷な居場所だったろうと思います。他に居るところがないので、ここに仕方なく置かれている、そして、ここにいる間、彼は孤独だったに違いないのです。

ところが、少し前から、そういう広場の様子が少しだけ変わってきたことに、この人は気がついたのでした。リカオニア地方に暮らし、この土地の言葉を話す彼からしてみると、見るからによそ者で、土地の言葉も分からないような2人組が、非常に訛の強いギリシア語で、道行く人々に熱心に何事かを語りかけています。当然ながら、彼らに耳を貸すようなヒマ人はほとんどいません。それでもこの2人は、毎朝広場にやってきては、夕暮れまで、一生懸命になって福音を伝えようとしています。
 置かれていた男は、聴くともなく2人の言葉に耳を傾けました。強い訛があるので、細かいことまではよく分かりません。けれども、この2人は、どうやら外国の神の知識を広めようとしているようです。
 ほとんどがその脇を通り過ぎ、たまに一時足を止める人があっても、いずこともなく去ってゆきます。そんなことが繰り返されるうちに、この2人の外国人も、置かれている男の存在に気づきました。いつの間にか、この2人の話すことに、真剣に耳を傾けるようになっていたのです。2人は広場の雑踏を渡ってこちら側にやってきます。そして、男の傍らに立つと、再び、見知らぬ神のことを話し始めます。
 そんなふうにして、この男の傍らで、2人の外国人宣教師たちは、来る日も来る日も、神のなさりようを人々に向かって熱心に語り続けました。幾度も繰り返し、続けて聞いているうちに、訛の強い聞きづらい言葉であっても、この2人の伝えようとする事柄が、おぼろげながら理解できるようになってきます。
 この2人は、要するに、神々というものがたくさんあるのではなくて、本当はただお一人の造り主である神様がおられるだけである、あなた方リストラの人たちはそれを知らないため、銘々が思い思いの神々を拝みながら、これまで本当の神様抜きに過ごしてきた、けれども今や、そのお一人の神様を知る時がやってきているのだと、話しかけているようです。
 この神様を信じたなら、たとえどんな困難に直面しようとも、どんなに不遇の身の上になろうとも、必ずこのお一人の神様があなたのことをご覧になり、たえず守り、支えて下さる。そういう唯一の神様を、あなたは信じて生きる者になりなさいと、そう勧めているようです。

幾日も、そんな勧めの言葉を聞いているうちに、この男の中に、あるひとつの思いが芽生えます。この外国人宣教師の言う、まことの神とやらを、自分も信じていきてみようかという思いです。
 これまで、こんな風に生きるという事柄について、繰り返し真剣に語りかけてくれた人はいませんでした。しかも、この2人は、広場で大勢の人々に語りかけているようでありながら、不思議と自分に向かって語りかけてくれているようだという思いを、この人は持つようになったのです。
 自分に向かって語りかけてくれる言葉であるのなら、それなら、この言葉を信じて生きてみようという気持ちが、この人の中に芽生えます。もちろんそれは、一朝一夕に成ったことではありません。パウロたちは、少し話しただけで魔法のようにこの男の心を捉えたのではありません。同じ事柄を、辛抱強く、繰り返し心を込めて、真剣に語り聞かせる営みがそこにはありました。伝道の業は、決して一朝一夕に成るものではありません。

しかし、ひとたびそういう思いが芽生えた先には、周囲の人たちが、あっと驚くようなことが待っていました。9節、そして10節をお聞きします。「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」。
 何とも不思議です。合理的には、とても説明がつきそうにありません。生まれつき歩けなかった人が、どういう訳か実際に歩いたというのです。こういうことは、どのように考えるのが良いのでしょうか。

こういうことは、信じさえすれば、いつでも引き起こせるのだといった具合に、安直に考えてはならないように思います。かつてイエス様は、しるしを見たがったり、有り難がったりする信仰を、上辺だけの見せかけのものとして退けられました。信じたら、何でも思いのままに病気を治すことができる、というような信仰は、結局は、自分の願いや思いを実際するために神を信じるという、ご利益信仰になってしまうのです。
 自分の願いや思いが実現するために神様を信じる、というのでは、信じ方の順序や目的の点で誤りがあります。そうしたご利益目当ての信仰というのは、どんなに熱心そうに見えても、結局は自分の思いが満足させられるまでの一時的なものでしかなく、祝福されないのです。
 心から神様を信じる時には、私たちの願いや思いが先に立つのではありません。もちろん、私たちはどうしたって自分自身の願いや思いを持っているものですけれども、しかし、それが必ず実現しなければどうにも気が済まないというのではなくて、自分の願いは願いとして、それが実現するもしないも、最後は神様がお決めになることだと、ひとまず認めるのです。
 そして、たとえどういう結果が生じたにせよ、そのとき、神様は造り主として私のことをご存知であり、いちばん良い結果に至る道に私を置いて下さる。だから、この私の願いや思いはあるけれども、それを超えて、どうか神様が、もっと相応しい道をお与えくださいますように、という祈りへと導かれるのです。丁度イエス様が、ゲッセマネの園で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカによる福音書22章42節)と祈られたのに似た祈りの思いが、まことの神様への信頼からは生まれてくるようになります。
 そして、そんなふうに神様を信頼申し上げるあり方からは、ある落ち着きが生まれてきます。自分の願いや思いはあるけれども、それと別に、神様は必ず要りような全てを備えてくださり、良い道に導いて下さるのだという確信から生まれる落ち着きは、普通では説明できないような結果を引き起こす場合があるのです。

たとえば、私自身が関わることを許された教会員の方々の中にも、病にあって、医学的には理解できないような不思議な出来事によって生き、召された方々がおられました。しかし、信仰を持てば医学の常識が覆ると決まっているのではありません。また、そのご本人が望んだり目指したという訳でもないと思います。
 しかしそれでも、もし信仰を持っていなかったなら、決して乗り越えられないような険しい事態が、信仰を持つ人によって不思議と乗り越えられていく場合があるというのも、また事実なのです。

今日の、この足の不自由だった人の場合には、不思議と立ち上がることができ、それどころか躍り上がって立つことができました。多くの人々の注目は、その点に集まるのですが、しかし本当は、この出来事の起きる以前のところで、その不遇な境遇にも拘らず、それでも自分の上に置かれている神様の導きを信じることができたという、そのこと自体がこの人に生じた最初の奇跡です。御言葉をまっすぐに信じることができた、そのことが、この人の場合には、歩けなかったはずなのに歩けてしまったという仕方で、人々の目に留まるようになっているのです。

ところで、その後に起きたことは、何とも奇怪です。この男の人が立ち上がるのを見た町の人々は、パウロとバルナバを、ギリシア神話の神々が現れたのだと思い込みました。
 町の人がそう思い込んだのには、それなりの理由があります。実は、この町に一つの言い伝えがありました。その昔、ゼウスが人の姿をとってこの町に現れたのですが、町の人はよそ者に冷淡でゼウスをもてなしませんでした。ただ町外れに住んでいた貧しい夫婦だけがゼウスをもてなし、機嫌を直したゼウスがこの2人の願いを聞いてやったという言い伝えです。それで、リストラの人たちは、今度こそゼウスの機嫌を損ねてはならないと張り切り、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとするのです。人々の騒ぎの目的が自分たちだと知って慌てたパウロとバルナバは、服を裂き、金切り声をあげて群衆の中に飛び込み、何とか自分たちを拝むことを思いとどまらせるのですが、そうなってみると、その直後に、今度はこの2人がリンチを受ける羽目になりました。2人に悪意を持つユダヤ人たちが、2人をペテン師であるかのように言いふらしたからです。なぜ、こんな子どもだましのようなデマがまことしやかに広まったのか、いかにも不思議です。しかし興奮状態にある人間というのは、案外こういうものなのかも知れません。結局2人は石を投げつけられ、パウロは気絶し、死んだと思われて町の外へ放り出されました。

パウロとバルナバがこのような惨事に見舞われながらも、しかし、このリストラの町に御言葉の種は着実に蒔かれました。放り出され倒れているパウロを取り囲むように何人かの人の輪ができます。その中には、あの置かれていた男もいたでしょう。皆、広場で、パウロの言葉に耳を傾けた人たちであり、パウロが決してペテン師ではないことを分かっている人たちです。
 彼らの手当によって息を吹き返したパウロは、起き上がると再び町に戻りました。パウロを介抱した兄弟姉妹たちに、このような出来事によってもひるまず、これからも信仰を持ち続けていくようにと最後の勧めをするためです
 このようにして、リストラの町に主の福音がもたらされました。この町での伝道の業は、大方の人の目には挫折のように見えたかも知れません。信じた者は少なかったかもしれない。しかしそれでも、とにもかくにも、この町に主を信じて生きる人の群れが生み出されたのでした。

こういう聖書の記事から、私たちは教えられ、また励まされるのではないでしょうか。イエス様の御業を伝え、永遠の命を得させようとする信仰の言葉は、表向きには激しい抵抗にあって、なかなかこの世の多くの人々に浸透できないと見えるかもしれません。しかしそれでも、御言葉の種は繰り返し根気よく蒔かれ、そして着実にその町に根付いて行くのです。

他ならない私たちが、今日ここに集まって礼拝を捧げている事実こそ、福音の種まきがここで行われたことのしるしです。リストラの町に福音の種が蒔かれ、芽生えたように、ここ甲府の町でも主の御業が語り伝えられ、そして主の御業に慰められ力を受け、感謝して生きる生活が、私たちのもとで強められますように、心から祈りを捧げたいのです。

新しい革袋」 9月第3主日礼拝 2012年9月16日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章20〜22節

第2章<20節>しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。<21節>だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。<22節>また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

今日は20節からお話をいたします。

20節は、18・19節と趣きが違うのです。断食をしない主イエスの弟子たちについて、18・19節では、主イエスの弟子たちは救い主が共にいてくださる恵みのうちにあるのだから「断食はしない」と、主イエスは言われました。断食することによって、ヨハネの弟子のように悲しみを表す必要も、ファリサイ派の人々のように自分の敬虔さを表す必要もないと言われたのです。
 けれども、20節に「断食することになる」と記されております。この20節は、後になって挿入されました。「弟子たち」とは、すなわち「教会」を指しますが、主イエスが十字架にかかられた後の教会(弟子たち)は、早い時期から断食をしたのです。それは「聖金曜日の断食」と言われ、「主イエスの十字架の死、受難」を覚えて、断食をいたしました。ですから、「主の弟子は断食しない」ということでは済まされなかったのです。

「花婿が奪い取られる時」とは、明らかに「主イエスの十字架」を覚えてのことです。「その日には」とは、主の十字架の日「金曜日」を指しております。
 教会は、原始教会の始めから、「主イエス・キリストの十字架の恵み」を覚えて「聖金曜日」を定め、「断食」していたことを覚えたいと思います。「十字架上の主の御苦しみ」、それは「罪なき方の罪人としての死」であり「罪ある私どもの贖いのための死」でした。ですから、教会は「十字架に自らの罪を見て」断食したのです。しかし、この断食は、私どもの敬虔さを表すためのものではありません。私どものために主が苦しみ、十字架に死なれて、そのことによって私どもは「罪の贖いに与った」その恵みを「痛みをもって覚える」、そういう断食なのです。

今日、私どもの教会は、信徒に断食を勧めているわけではありません。けれども、日本の教会は大変敬虔です。毎年、イースター前の受難週と金曜日の「受難日礼拝」を重んじております。また、私ども愛宕町教会では、毎月一度、主のご受難を覚え、金曜礼拝を守っているのです。ですから、20節に言われていることは、私どもの教会と無関係なのではなく、私どもの教会が、今行っていることの内容そのものなのだということを覚えたいと思います。
 大切なことは、断食しているということではありません。十字架の主イエス・キリストの恵みを畏れ多いこととし、痛みをもって知ることなのです。

私どもは、どのようにして「主イエス・キリストを知る」のでしょうか。
 かつて日本基督教団においては、教会が、社会活動家としてのイエスを語って知るということがありました。それは大変巧みな語りで、人の生き方を聖書に聞き、虐げられた人々に対してどうあるべきかを、聖書にある人間イエスのあり方を通して聞く、と言ったのです。イエスがどうしたかを模範とし、倣えと言いました。それは巧みな言い方です。彼らは、イエスを「キリスト(救い主)」とは言いません。「キリスト抜き」の人間イエスのあり方を、人生の模範としようとしたのです。
 「キリスト抜き」とは、すなわち「救い抜き」ということです。そして、「キリスト抜き」にイエスを語るならば、それはキリスト教、宗教ではないのです。それは一つの思想、イデオロギーに過ぎません。キリスト抜きのキリスト教など、本来は無いのです。そういう危機に陥った教会があり、闘いがありました。

2009年年に、日本伝道150年の宣言を、日本基督教団としていたしました。それは「イエスはキリスト(救い主)である」という宣言です。「十字架に架かられたイエスこそ、救い主キリストである」ということを明確に言い表したのです。十字架のキリストを抜きにするならば、教会はもはや教会ではありません。ですから、私どもの教会が、「十字架のキリスト」を覚えて礼拝を守ってきたことは大事なことです。教会は、クリスマス以上に「主の十字架の出来事、主の復活の出来事」を、「私どもの救い」として覚えなければなりません。私どもは、十字架の主イエス・キリストを覚えて、受難日礼拝を、金曜礼拝を守っているのだと言うことを、改めて覚えていただきたいと思います。

さて、20節が挿入されたために、18・19節と21・22節との断絶が起こってしまいましたが、19節そして21節と読めば繋がりが良いのです。
 21節「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」と記されております。これは「布の継ぎはぎ」をする人なら当然分かることですが、現代ではどうでしょうか。継ぎ当てしてまで服を大事に着ることは少ないことでしょう。しかし当時、服に継ぎはぎをすることは当たり前のことでした。織りたての布は強く、使い古しの布は弱いのです。

そこで思うことがあります。今の時代は、楽で綺麗なことが大事にされますが、それは言葉を変えれば、すべてがお金で代えられるということです。しかしそれは、同時に、生きる知恵を失うことです。創意工夫して何とかする、それは人を自立させます。自立して、人はそこで尊厳を見出すのです。例えば「おばあちゃんの知恵」と言われることがそういうことでしょう。生活の知恵、それは主体的な生活を生んできた、大切なことだったと思います。

さて、21節の言葉で言われていることは何でしょうか。それは、主が共におられる主イエスの弟子たちの断食は、ヨハネの弟子やファリサイ派の人々の断食とは違っているのだから、その信仰のあり方を無理矢理合わせようとすることは破綻を招くことになる、と言っているのです。
 そして、22節のぶどう酒を入れる「革袋」も、内容は同じです。新しいぶどう酒は発酵が盛んですので、使い古して弱くなった革袋に入れれば破れてしまいます。当時は誰もがぶどう酒を造りましたから、ここに言われている「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」とは、当たり前のこととして言われているのです。ファリサイ派の人々の信仰生活と、主イエスが共にいてくださる弟子たちの信仰生活とは違うのだから、それを同じように考えることは出来ないのだと、主イエスは言っておられます。

「新しい信仰生活」とは、「主イエス・キリストが共にいてくださる信仰生活」です。キリスト者、即ち「キリストが共にある者に相応しく、自ずと生まれて来るあり方」が大事なのです。ファリサイ派の人々のように、こうでなければならないと律法主義になり、自らの敬虔さを表すあり方に戻ってはならないのです。

「主イエス・キリストの恵みに満たされている者の生活」は、「喜びの生活」です。ファリサイ派の人々の生活とは相容れないものなのです。自らの敬虔さを表すことの主体は自分ですが、キリストの恵みに満たされての生活の主体、中心はキリストなのです。新しい信仰に相応しい新しい生活、それは主の恵みに満たされての、喜びをもっての生活であります。

主にある信仰の出来事は、自らの正当性を表すことではありません。そうではなくて「キリストがすべてとなる、キリストの栄光のためのあり方」です。そこに主の恵みが表される、そういう生活なのです。そしてそれは、「礼拝の生活、御言葉に聴く生活」であります。「キリストの恵みを頂く生活」は、「神に聴き、祈る生活」なのです。
 神に聴き、祈りをもって生きる、そういう者として、神の御名を崇める。それは即ち「礼拝する生活」です。礼拝において神の恵みが語られる、そこで「恵みを恵みとして聴き分け、アーメンと言い表す」、それが「キリスト者の生活」なのです。

更にここで、もう一つ大切なことがあります。主イエスは、主共にある新しい生活を古い生活に合わせてはならないと言われました。けれども、そこで、古い生活、古いあり方を否定してはおられないのです。ファリサイ派の人々に、ユダヤ教を改宗せよとは言っておられません。

自分を基準にして相手を変えようとする、そういう人間の罪深さを思わなければなりません。人は、他者に強いられて変わるということは出来ません。「自ずと変えられる」ことを待つしかないのです。
 自分を基準として他者に強いてはならないことを、主が言っておられることを覚えたいと思います。

私どもキリスト者の生活は、主の恵みに満たされていることを喜ぶ、喜びの生活です。主の恵みに満たされた者として、ただ主をのみ表す者として、主を御名を崇め、礼拝し、祈る日々の歩みをなす者でありたいと思います。

麦の穂を摘む弟子たち」 9月第4主日礼拝 2012年9月23日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章23〜28節

第2章<23節>ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。<24節>ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。<25節>イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。<26節>アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」<27節>そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。<28節>だから、人の子は安息日の主でもある。」

23節に「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」と記されております。この記述は、直訳すると大変面白く、「イエスが麦畑を通りがかるということが生じた」というぎこちない表現なのです。「主イエスが来られると何かが起こる」ということを期待させる、そういう語り口です。
 このことは、とても重要なことです。「主イエスが来られる」、このことによって、人の人生は変わります。自分の力では、なかなか変わることのできない私どもです。だからこそ、この言葉は意味深いのです。「主イエスが来られる」ということは、私どもの人生に「何かが生ずる」ということです。私どもの人生は、さまざまなことを経験する中で時には苦しみや困難に遭い、虚しさを味わうこともあります。けれども、そういう苦しみや困難の淵で、主イエスが共にいてくださるということを知るならば、人生は虚しいものではなく、主に支えられた豊かなものであるということを知るのです。
 主イエスが来られることによって、人は新たな事態を得、人生を受け止め直し、豊かな人生へと変えられるのだということを覚えたいと思います。

ここで起こったことは何でしょうか。「安息日に、弟子たちが麦の穂を摘んだ」という事態が発生しました。「麦の穂を摘み始めた」というのは、ただ単に穂先を摘んだ、ということではありません。弟子たちは、麦を食べるために摘みました。がばっと摘み、手で揉んで食べたのです。これは、安息日にしてはならない「労働」に当たります。また、「歩きながら」とありますが、これも、安息日には「800メートル以上歩いてはならない」という規定に違反するものです。このことは、私どもにとっては問題ではありませんが、律法を厳しく守るファリサイ派の人々にとっては重大な問題なのです。

24節、ファリサイ派の人々が主イエスに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言ったと記されております。彼らは弟子たちに直接言わずに、主イエスに問うております。「安息日規定に対する違反」について、主に問うのです。ここでは、「歩いたこと」よりも、「摘んで食べた」ことを問題にしていると思われます。実は、このことは、「安息日とは何か」ということを主イエスが明らかにしてくださるために起こった出来事だと言えるのです。

「弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた」、これは直訳すると「自分たちのために、麦の穂を摘んで食べた」となります。安息日に「自分たちのために働いていること」、このことが問題なのです。そもそも「安息日」は、6日間で天地を創造し7日目に休まれた「神の創造の業」を覚えて、また、出エジプトにおける「神の救いの業」を覚えて、7日目には「神を礼拝せよ」と定められた日です。ですから、安息日は「神のための日」なのです。自分のために働いてはならないのです。
 「自分のために働く」ことは、いけないことなのでしょうか。私どもは「自分のために働く」ことも許されているということを覚えなければなりません。神は「6日間、自分のために働いて良い」と言ってくださっております。そして、7日目は、神を覚える日として、休めと言われるのです。

6日間の私どもの歩みは様々です。喜びの日々もあれば、課題を抱えたまま自力では完結できない歩みもあります。しかし7日目、私どもは神の前に立ち、様々あった自分の6日間が、神によって「良し」とされていることを知るのです。それが「礼拝」です。私どもは7日目に、礼拝において、」神の祝福をいただくのです。例えば、王制や、あるいはギリシャの神々であれば、人は、働いた分は王に、神に捧げます。つまり、労働は神のためです。
 けれども、私どもの神は、自分で労して得たものを自分で食べ用いることを「良い」と言ってくださっております。自分のために働き、食べることを祝してくださるのです。だからこそ、労したことの恵みがいかなるものであるかということを、私どもは知らなければなりません。私どもにとっての安息日は、労したことを神が祝してくださる、私どもが祝福を受ける、大切な日なのです。

ですからそう考えますと、この弟子たちの振る舞いは問題でありましょう。しかし、主イエスは問題にしておられません。なぜでしょうか。それは主イエスが来てくださり、主が弟子たちと共にいてくださるからなのです。
 安息日の規定は36項目もありました。麦の穂を摘むという収穫は、労働ですから禁止、麦の穂を手で揉むことは、脱穀するという労働ですから禁止です。実はここで、ファリサイ派が「なぜ、そうするのか?」と問うているということは大変示唆的です。つまりそれは「どういう理由で、そうするのか?」と問うているということです。安息日に弟子たちが労働をした、このことには「何か理由がある」ということが示されているのです。もちろん、ファリサイ派がそう示唆して問うたわけではありません。そんなことは思ってもいないのです。しかし、理由が問われるゆえに、主は答えてくださっております。

25節「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」と、主は言われます。「空腹」と出てきますので、理由の一つは、弟子たちが「空腹」だったということでしょう。また、弟子たちは律法を知らない「無知」な者だったという理由かもしれません。どちらにせよ、律法に禁止されているにも拘らず、弟子たちが「麦の穂を摘む」ことが出来たのは、主イエスがそのことを「良し」として許して下さっているからなのです。理由を問うならば、答えは「主イエスが良しとされた」からです。理由の主体は「主イエス」なのです。だからこそ、理由を問うこの問いに、主が答えてくださいました。このことは素晴らしいことです。
 人に理由があるならば、人は自分で理由を説明しなければなりません。例えば「なぜ救われたのか」と理由を問われて、私どもは答えることができるでしょうか。言えないでしょう。私どもが救われたのは、主が「あなたを救う」としてくださったからに他なりません。

「一度も読んだことがないのか」とは、主イエスがファリサイ派をいかにも見下しているような言い方だと思えるのですが、そうではありません。この言葉は、当時、律法の教師ラビが聖書を教える際によく使った常套句でした。ですから、ここで主がこう言われたということで分かることは、主イエスもまた、聖書に精通しておられるということです。主イエスは聖書をよくご存知なのです。いえ、それどころか、聖書の精神を、主イエスこそが担っておられるのです。
 聖書が示すことは何か。それは「神の御心を示す」ということです。そしてその担い手は誰かというと、それが主イエスなのです。聖書の「聖」とは、「神のもの」ということです。「神を証しする書」、それが聖書です。聖書は人生訓ではないのです。
 そして旧約聖書は、「主イエス・キリストを証しする書」です。主イエスは、「神の言葉なる方」、聖書に言い表されている「神の御心そのものなる方」なのです。ですから、主イエスが語られることは、神の御心そのもの、神の御言葉そのものなのです。
 聖書は、主イエス・キリスト抜きに語れば、それは聖書を語っていることにはなりません。神抜き、キリスト抜きに語れば、聖書はただの人生訓になるのです。そのことを覚えておかなければなりません。ですから、律法学者、ファリサイ派の人々が聖書によく精通しているということと、主イエスが聖書をよくご存知であるということは、まったく別なのです。
 教会において「聖書を学ぶ」というとき、それは「主の言葉に聴く、神の言葉に聴く」ということです。知識を得るということではありません。

26節「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」と、主イエスは言ってくださっております。これはサムエル記からの引用です。「祭司だけが供えのパンを食べる」ことが律法の規定ですが、ダビデは空腹のときに食べたと言うのです。つまり、律法とは、すべてを禁じるものではないということを、主は示しておられるのです。律法とは、人を束縛するものではないことが示されております。
 律法は、神の恵みとして与えられたものです。律法は「こうしなければならない、こうしてはならない」定めなのではありません。そうではなくて、神の恵みに応える者として、神が与えてくださった「生き方の指針」です。どのように生きたら神の恵みに応えられるのか、分からない者たちに対して、神が慈しみをもって与えてくださったもの、それが律法です。ですから、律法は「神の慈しみそのもの」なのです。自分ではどうしたらよいか分からない、だから神が教えてくださったのです。

ですから、今ここで礼拝を守っていること、それは神の憐れみのうちに生きること、神の慈しみのうちにあるという出来事です。
 律法は神の慈しみであるということを、ファリサイ派の人々も頭では理解しております。けれども、彼らにとって安息日を守ることは、自分の敬虔さを示すことがらになってしまっているのです。律法を守ることは正しいこと、だから一生懸命守ろうとします。そして守れたら、自分の信仰深さの証明になってしまう、それが律法主義の問題です。人は、この誘惑から逃れることはなかなか難しいと言えます。人は一生懸命やればやるほど、それによって、多くの満足感を得ることができるからです。
 しかし、弟子たちは、無知な者、律法を守れない者たちです。そのように無力に過ぎない者だからこそ、彼らは、神の憐れみを必要とするのです。

27節、そして主は更に言われます「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。律法を守ることは、人の信仰深さを証明するためではないと言われております。

28節「人の子は安息日の主でもある」と言われます。主イエスは、恵みそのものなる方です。その主が共にいてくださって、弟子たちを慈しんでくださいました。主の憐れみの中にあったからこそ、弟子たちは「麦の穂を摘んで食べる」ということができました。

主イエスの十字架は、ただただ神の恵みです。主イエスの復活は、ただただ神の恵み、神の憐れみそのものなのです。主イエスは「安息日の主」としてご自分を宣言してくださいました。ですから、その主を崇めるという新しい礼拝が始まりました。主イエスは、安息日の主として、ここに、この礼拝に臨んでくださっております。主が共にあってくださる礼拝、主イエスによって新しい礼拝の形が与えられているのです。
 ですから、もはやこの当時のような、土曜日の安息日を、私どもは守るのではありません。7日目、主の復活の日を覚えての、日曜日の朝の礼拝なのです
 主イエス・キリストによって現されている神の恵みに生かされている者として、神より与えられているもの、それが主日の礼拝です。礼拝において、私どもも神の慈しみのうちにあるのです。

礼拝は、私どもの一週の歩みが祝福される恵みのときであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

手を伸ばしなさい」 9月第5主日礼拝 2012年9月30日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第3章1〜6節

3章<1節>イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。<2節>人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。<3節>イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。<4節>そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。<5節>そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。<6節>ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

主イエスが再び、会堂に入っておられます。日常の働きのすべてを休み神を覚える日として、主イエスは「安息日」を守られるのです。主イエスが安息日を守られたことの意味を、私どもも覚えたいと思います。

今朝の招詞はイザヤ書62章、交読詩編は102編でした。詩編102編には「礼拝を守ることの意味」が示されております。そして、イザヤ書62章5節に「あなたの神はあなたを喜びとされる」と言われております。私どもが「礼拝を守る」ということは、神が私どもを顧み、ここに集うことを良しとし「喜んでくださる」恵みなのです。
 では、なぜ神は、私どもを「喜び」としてくださるのでしょうか。詩編102編 19節に「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」とあります。伝えられ、私どもが受け止め、後の世代に伝えることとは「創造主なる神を誉め讃える(賛美する)」ことだと記されております。「礼拝」とは、まさしく「神を誉め讃えること」であり、そのことを神は喜ばれるのです。
 礼拝を守ることは、人が真実に「人となる」ことです。それは恵みです。「創造主、造られた方として神を誉め讃える」こと、それは「人が自らの本分に立つ」ことなのです。神を礼拝しない者は、創造主なる神を崇めず、自らを神とするのです。

今、私どもがこの礼拝にあることは、「神の喜びの内にある」ということです。不平不満、不安の多い私どもです。自分で喜ばなければと思っても難しいのです。ですからこそ、「喜ばれていることを知る」ことは大事なことです。他者から喜ばれているならば、人は自らの存在を確かにします。しかしもし、他者が喜んでくれないとしても、神が喜んでくださっていることを知るならば、私どもは孤独ではありません。主日ごとに、礼拝を守るごとに、私どもの存在を神が喜び、祝福してくださるのです。それは、「神にある平安を与えられる」ということです。神の平安のうちに、人としての歩みをなすことができるのです。

主イエスは、ユダヤ人の安息日礼拝(土曜日)を守っておられます。「守る」と言うと、人は保守的になります。「守らなければならない」ということになる、それが律法主義、ファリサイ派のあり方です。「〜ねばならない」と義務化すると、それは「恵み」とはならず、自己正当化と裁きになるのです。

「恵み」の中心は、自由にされ解き放たれることです。主イエスは安息日を義務として守っておられるのではありません。安息日を守りながら、安息日に対して自由なお方です。主イエスは、この前のところで、ご自身について「人の子は安息日の主である」と言われました。「主」それは「主人、主権者」ということです。主イエスは「神の恵み、平安」を具現化しておられる方なのですから、主権者であることは当然のことです。
 しかし、私どものあり方はどうでしょうか。私どもの場合は、「ねばならない」と思うところで、律法(法)が主権者となり、「ねばならない」法を「守る者」となるのです。これは「法の精神」と関わることですが、本来「法」は、目的を具現化するためにあるのであって「守らなければならないもの」なのではありません。けれども、法は守るべきもので、一旦決めたからには変えてはならないとし、法に支配されているという現実があります。法は、事態の変化によっては、変えていかなければならないこともあることを忘れてはなりません。

私どもは、安息日に思うことがあります。日曜日の礼拝で、「あの人には会いたくない」と思う時がある。しかしそこに「とらわれ」があります。しかし、主イエスは、誰に対してもとらわれなく臨み、招いてくださる方です。私どもがこの礼拝に集うことは、この場に相応しい者であるからではなく、「主に招かれている」から集い得ているのです。この招きは、とらわれ無き方、主権者たる主イエス以外になし得ないことであることを覚えたいと思います。主権者なる主イエスが招いてくださるから、許されて、私どもはここにあることを覚えたいと思います。
 「人を見ず、神を見よ」と言われても、忍耐できない我が儘な私どもです。そんな不自由な私どもをも、主は招いてくださるのです。そこで、神の恵みに触れ、自由になれる。恵みを恵みとして感じられることが大事なことです。

主イエスはとらわれなく、安息日を守っておられます。2節、そこに、この出来事が起こるのです。会堂に片手の萎えた人がなぜいたのか、記されておりませんので分かりません。生まれつき萎えていた人なのかどうかも分かりません。いろいろな学説がありますが、しかし、私どもがここで知るべき大事なことは、「主イエスが、この片手の萎えた人を見出しておられる」ということです。主イエスは「この人には、神の恵みが必要である」ことを見出してくださったのです。主イエスは、安息日に「神の恵みがこの人に与えられることが大事」だと思っておられるのです。
 しかし、ファリサイ派の人々の思いは違います。彼らにとって安息日は、守ることが大事なのです。またここでは、それ以上に、主イエスに対する悪意があります。安息日規定において、「いやし」は労働です。命にかかわる病のいやしなら許されますが、それ以外は禁じられているのです。この箇所において、ファリサイ派の人々の視点はどこにあるかと言いますと、主イエスが安息日に労働するかどうかであり、このことを、主を訴えるための機会としております。

安息日に主イエスがなそうとされることは「神の恵みを現す」ことです。しかし人々は、安息日を、主を訴えるための、他者を貶めようとするための機会とするのです。これは、悪意以外の何ものでもありません。
 私どもは果たして、安息日を「神にある平安の日」としているでしょうか。大いに考えねばならないことです。安息日を守ろうと頑張っている、というならばまだしも、他者を排除しようとする思いがないでしょうか。
 安息日は神の恵みの日、そして主イエスはその御業をなさるのです。ファリサイ派の人々は、安息日を自らの敵意を表す日とする、そこに平安などなく、神の恵みに満ちることはありません。神が「あなたを喜びとする」と言ってくださっていることに「アーメン」と言えるところに平安があります。そう言えない人には、残念ながら平安はないのです。

ファリサイ派の人々は、「主イエスがいやされる」ことを期待しております。しかしそれは、片手の萎えた人が癒されることを期待しているのではありません。そうではなくて、その行為によって、主を訴える口実にしようと期待しているのです。
 主イエスは、片手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われます。ファリサイ派の人々は、この人のことなど全く見ておりません。ましてや、この人の負った苦しみ悲しみに注目することはなく、ただ主イエスが彼にどうするかを見ています。しかし、主イエスは違います。主はその人自身を見られる、そして彼を真ん中に立たせて、人々を彼に注目させようとなさっているのです。
 主イエスは、その人を真ん中に、会堂の中心に据えられました。そして「この人には、神の恵みが与えられるべきだ」としてくださったのです。

4節、主イエスは人々に問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。「善=神の恵みを表すこと」か「悪=悪意を抱いて神に敵対すること」か、「命=神からのもの」か「殺す=敵意は殺意になる」かと問われます。「安息日に律法で許されていること=律法の精神」は、敵意ではなく、神の恵みが満ちることです。人々がここで注目すべきことは、この片手の萎えた人に「神の恵みが満ち溢れること」なのです。

神の忍耐とは、人の罪に耐えることです。そしてそこに、私ども罪人の救いがあるのです。
 人は、行き詰まるとどうなるでしょうか。「沈黙」するのです。「ああ、悪かった」としみじみ感じて言えるかといえば、言えないのです。敵意がある、だから「沈黙」するよりないのです。「沈黙」は、神に対しての最も悪しき答えであります。「神の恵みが現れること、命を救う」と答えられれば良かったのに、しかし人々は答えませんでした。

5節「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」と記されております。主イエスは、主を、神を受け入れようとしない人々の頑さに怒り、そして悲しみながら、片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」との言葉をくださいます。
 ここで、私どもは「主イエスの怒り」こそが大事であることを覚えなければなりません。主イエスは、神の救いが宣べられていることを受け入れない頑さに怒っておられます。「怒る」ということは、主がその人に真実に向き合っておられるということです。神の怒りが臨むからこそ、人は、そこで砕かれるのです。

私どもは、神の怒りの許にあることを覚えなければなりません。主に敵対する者に対して、主の怒りの恵みが臨んでいるのに、人々はへりくだれない。主は救いたもう方として、そのことを悲しまれるのです。
 人の怒りは、そこに悲しみを含みません。けれども、神の怒りには悲しみが含まれていることを覚えたいと思います。その神の怒りと悲しみにこそ、頑な者に対する救いの糸口があるのです。神は、なお悲しみ憐れんでくださる、だからこそ、私どもの救いが実現するのだということを覚えたいと思います。

裁きのないところに救いはありません。神の怒りとは、ご自身の愛を貫いておられる出来事であることを忘れてはなりません。神に敵対するしかないファリサイ派の人々の救いも、そこにかかっているのです。

主イエスは「手を伸ばしなさい」と言われました。片手の萎えた人は、ずっと手を伸ばしたかった、けれども今まで手を動かすことはできませんでした。しかし、主の言葉によって「伸ばすと、手は元どおりになった」と、手を伸ばすことができました。主イエスの言葉は、力です。主イエスが「伸ばしなさい」と言ってくださるから、伸ばせたのです。主イエスの言葉を聴くことは、主の力をいただくことです。自分ではなし得ないことを、なし得ること、主の祝福が与えられることなのです。
 片手の萎えたこの人は、安息日を、神の恵みと憐れみを与えられて祝うことができました。神にある恵み、平安こそが、安息日に相応しいのです。

ところが、神の恵みの御業を見れば見るほどに、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々は、共に主を敵として殺意を持つのです。この2つの派の人々は、普段は全く相容れない者同士であるにもかかわらず、主に敵対する者同士として一緒に「相談し始めた」と記されております。ここから、主イエスの十字架への道が始まります。人の敵意が殺意となる出来事、それが神の恵みを恵みとできなかった者のあり方なのです。

主イエスの十字架は、人々の悪意ゆえにあります。しかし、主イエスは、この人々の悪意ゆえの「十字架」を、救いの業と変えたもう全能の方であります。主の十字架という、人の罪の頂点で、救いがなされるのです。恵みを受け入れず、自ら滅ぶしかない者を、主は悲しみ憐れんでくださるのです。

今、この礼拝おいて、神は、主を救いと受け入れる者が集うことを喜んでくださっていることを、感謝をもって覚えたいと思います。