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前回7月22日の礼拝において、今日のこの箇所から、中風の人を主イエスのもとにつれて来た「四人の男の信仰」について聴きました。主イエスは、この4人の男たちの非常識な業を「信仰」と見てくださって、中風の人に「罪の赦しの宣言」をなしてくださいました(5節)。 今日は、私どもの教会がなした大切な信仰の告白について、この御言葉から聴いていきたいと思います。 私どもは信仰告白を、この礼拝においてしております。しかし、私どもの教会は、2001年6月、末木おすず姉妹の洗礼式に際して、一つの新しい信仰告白を作り告白いたしました。そしてそのときに、この聖書の箇所から聴きました。 末木おすず姉妹は、認知症になり寝たきりになられました。それで、信徒である家族の希望により定期的に家庭集会を持ちました。その家庭集会で、おすず姉妹は、本当に分かっていたかどうか定かではありませんが、いつも「今日もいい話だった」と喜んでおられました。そのうちに、キリスト者以外の親族も、おすず姉妹の葬儀は教会でと話すようになり、であれば洗礼をということを教会として考えました。そして、そこで問われたことは「認知症の人の洗礼は可能か」ということでした。 現代は、延命治療の技術も発展し、たとえ植物状態になっても長く生きるということが可能になりました。では、植物状態になった人の洗礼をどう考えるのか。このことは、プロテスタント教会においては大きな問題なのです。プロテスタント教会は、洗礼に際して、本人の「自覚的な信仰告白」を必要とすると考えます。「洗礼」とは「救いのしるし、救いの保証」です。それでは、プロテスタント教会においては、自覚的な信仰と言い難い人々の救いをなすことは出来ないのでしょうか。 しかし、私どもの教会は、主イエス・キリストより「人々の救い」を託されているのです。そこで、私どもの教会は、「幼くして死んだ者、自覚的な告白をできない者の救い」について記した「いと小さき者の信仰」という神学論文に基づいて、このことを考えました。そして、役員会で議論を重ね、認知症である末木おすず姉妹に洗礼を授けたのです。 主イエスは、中風の人のあり方に信仰を見て、救いの宣言をなしてくださいました。今日の説教題は「中風の人の信仰」といたしました。聖書には「四人の男の信仰」と記されておりますが、「中風の人の信仰」とは記されておりません。 「信仰」とは、「神に自らのすべてを委ねること」です。「神に、私の存在のすべてを委ねる」それが「信仰」なのです。 この中風の人は、他者に全てを委ねました。他者に委ねるということは、なかなか出来ることではありません。相手を自己同一化するならば可能でしょう。しかしそれは相互依存であり自立に繋がりません。親子関係はこの危険をはらんでいます。 寝たきりとなり、自らのすべてを家族に、他者に、おすず姉妹は委ねました。その姿に、そこに「存在としての信仰告白を見て」、私どもの教会は、おすず姉妹に洗礼を授けたのでした。 ここに、おすず姉妹の洗礼式に際しての誓約文があります。寝たきりですから、もちろん、教会での洗礼式ではありません。自宅で、そこに集まった信徒、役員が、おすず姉妹の洗礼に際して作った信仰告白を告白し、信徒の誓約をいたしました。その誓約文をお読みします。 まさしく、ここに言い表されていることは、「中風の人のあり方に信仰を見る」ということです。その存在のあり方は「他者に自らのすべてを委ねる」というあり方でした。そこに中風の人の信仰を見、罪の赦しの宣言をなしてくださった「主イエス・キリスト」に従って、私どもの教会も、おすず姉妹のあり方に信仰を見、神より託された権能によって洗礼を授けました。「救いの宣言」こそ、教会が神より託されている業であります。 このことは、幼子の洗礼についても言えることと思います。幼子は、存在のすべてを他者に、母親に託さざるを得ない者です。そういう者に救いの宣言を与える権能が授けられていること、それは教会に与えられている信仰の恵みであると思います。ですから、幼児洗礼についても、していかなければならないこととして覚えたいと思っております。 この主イエスの言葉に対して、律法学者たちは、「心の中であれこれと考えた」(6節)と記されております。7節「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と思ったというのです。 ここに、主イエスを人として知っていることの間違いを知らなければなりません。「主イエスは神の御子である」、このことは当たり前のことですが、改めて明確にしておかなければならないことでもあります。教会であっても、主イエスを神の御子とせず、人として見る間違いを犯してきた歴史があるのです。 8節「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた」と記されております。私どもは知らなければなりません。私どもの「隠された思い」を、主イエスは知っておられます。それゆえに、主は全知全能なる方なのです。 病が癒されたから、神を讃美するのではありません。「神の赦しを見、確信する」だからこそ、そこで喜びに満ち溢れて、神を讃美するのです。「癒し」それは「神の赦しの業を証しするための癒し」であることを忘れてはなりません。 そして、教会は、どんなにか大切な業を神より託されているのか、知らなければなりません。その人の為したことを見るということではありません。「その人に信仰を見る」こと、それが、教会のなすべきことなのです。そして「救いのしるし」である「洗礼を授ける」こと、「救いの宣言をなす」こと、それが教会のなすべきことであることを、神より教会に与えられた恵みとして、感謝を持って覚えたいと思います。 |
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13節「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」と記されております。主が「再び来られた湖」とはガリラヤ湖です。前に主がガリラヤ湖に来られた時、主は漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネをご自分の弟子として招いてくださいました(1章16節以下)。「再び」とは、その出来事を思い起こさせる言葉です。福音書を読む誰もがその出来事を思い出し、主が新たなる活動をなさる予感を与え、期待を抱かせる、そういう記述なのです。 主がおられる所、そこで起こることは何でしょうか。「群衆が皆そばに集まって来たので」と記されております。人々がいかに主を必要としているかが表されております。群衆は主イエスを必要としている、それは主イエスが「神の御子、神なる方」だからです。 主イエスはそこで「教えられた」とあります。マルコによる福音書は、主が「教えを下さる方」であることを強調いたします。1章においても、主は安息日に会堂に入り、教えられました。そして、その主の教えに人々は大変驚いたことが記されております。主が「権威ある者」として教えられたゆえに、そこに人々は「神の力」を感じて驚いたのです。 ここで、私は大変麗しく思う言葉に出会いました。「皆そばに」と記されております。人々は、主イエスの「そばに」集まったのだということに心惹かれました。人々は、「主のそばに」行きたいのです。「そばに」行きたくなる人とは、どんな人でしょうか。人々が、主イエスに対しての麗しい思い、主に迎えられるというような思いを抱いているということでしょう。そこに主イエスの慈しみがあって初めて、人々は主のそばに行きたいと思うのです。そのように、主イエスは人々から「親しい者」として覚えられていることが分かります。 けれどもここで、人々が主を親しい者として慕い、そばに集い、はべろうとしているとは、驚くべきこと、畏れ多いことです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、主イエスが「人となって下さった神」だからです。主イエスが、人の友として、人とまでなって、私どものところにおいでくださったゆえに、人々は主のそばに集い、はべることが許されていることを覚えたいと思います。 「主のそばに」ということの麗しさを覚えたいと思います。そして、この「礼拝」こそが、「主のそばに」主が私どもを招いてくださり、神との親しい交わりに入れてくださるめぐみであることを覚えたいと思います。 14節「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて」と記されております。主イエスは、通りすがりに見出した者を、見過ごしにはされないで、目を止めてくださるのです。 主イエスは、「レビ」という人を見られました。それは「収税所に座っているレビ」です。そこに、主がレビをどのようにとらえられたかが示されております。 主イエスが「見て」くださるのは、そういうレビなのです。 人々は、レビを見て蔑む。しかし、主イエスは、レビを見て「従いなさい」と招いてくださる。それが蔑みの言葉であれば、レビにとっては日常でありますから、やり過ごすことでしょう。しかし、この主の言葉にレビは何を思ったでしょうか。誰も自分を仲間にしようとしない。ましてや、弟子にしようなどと思う人はいない。なのに、主イエスはこのわたしを、弟子と、友としようと招いてくださっている。そこに主の慈しみを感じるのです。主イエスの声に、レビは、神の憐れみ、慈しみを感じとったのです。そして、そこに自分の存在を見出したのです。ですから、それで十分、何の言葉も要らない。レビは「主に従う」のです。 主イエスの御声は、慈しみの声、存在なき者に存在を与える「力ある言葉」、人の飢え乾いた心を満たしてくださる言葉です。何と有り難いことでしょう。 主の御言葉が私どもに存在を与え、満たしてくださっております。主の御言葉こそ、私どもを主の友として招いてくださる恵みの御言葉です。そしてそれは、私どもに「主の弟子」としての恵みが与えられるということです。 今日の聖書の箇所の最後まで語ることはできませんでした。続きは次回としたいと思います。 |
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1節、ペトロとヨハネは神殿にやってきました。夕方の祈りの時間が近づいていたからです。ペトロは、多くの人たちに神様の新しい契約のできごと、つまり主イエス・キリストを宣べ伝えるため、神殿でも説教をしていました。イエス・キリストがアブラハム、イサク、ヤコブの神によって栄光に入れられたことを語っていたのです。ですから今日も神殿に上っていったのであります。 2節、すると、生まれながら足の不自由な男が、運ばれてきました。「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに毎日置いてもらっていたのです。きっと家族のものが、祈りの時間にこの男を置いておけば、神殿に上ってくる人たちに施しをしてもらえると思って置いていたのでしょう。 3節、彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。例に漏れず、彼は見ました。そこを通りかかる二人の男が施しをくれるように、見たのです。 4・5節、ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。 わたしたちの内側にも、このような思いがあります。何か自分にとって利益のあること、関心のあることにおいてのみ、その人と関わる。それ以外は面倒くさいから関わらない。この足の不自由な男こそが、そのようにしか関わってもらうことのない、人生を歩んできたのです。ユダヤ人達が施しをするという意味で、彼らの徳を高めるためにはこの男も用いられたかも知れない。しかし、それ以上の者として扱われることはなかったのです。彼はそのように扱われ、お金をくれる人に頼り、またお金そのものに頼るという生活を余儀なくされていたのです。人との交わりということに期待はなかったのです。交わりのない状態、これは生きているとは言えない状態です。 6節、決定的な言葉が告げられるのです。「わたしには金や銀はないが、持っている者を挙げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり歩きなさい!」 ここにいる救われた者たちも同じであります。出会いと救いは突然やってくるのです。誰も意図することはできません。キリスト者の家庭に生まれた者も、自分であの家に生まれようと思って誕生したのではありません。 金や銀にまさるもの。それはナザレの人イエス・キリストの名です。キリストの名。名というのはキリストご自身のことです。キリストは今や復活され、死に打ち勝たれたのです。人がそれによって本当に生きる者とされるためです。ペトロもヨハネも、もう何も持っていなかったのです。持っているものはキリストご自身だけだったのです。神によって、キリストにすべてを委ねる者とされていたのです。 7・8節、彼は、立ち上がった。しかし、ここで驚くべきことは、彼が神を賛美する者へと変えられたことであります。日々の食事の分の施しを手に入れること、それだけが彼の関心事でした。しかし、彼はそれで本当に満足することはなかったのです。神との交わりに生きるものされること。神との交わりにおいてのみ、人は本当に満たされるのです。彼はキリストの名によって、変えられてしまったのです。神を賛美する者へと、変えられたのです。その名を知らず、本当の満たしがどこにあるか知らず、日々を生きることで精一杯の男でした。しかし、神は憐れみによって、神は彼を賛美する者にして下さったのです。キリストの名、キリストご自身の力、聖霊の力は、人々の視線、人々の関心を捉えて、神を見る者に変えてしまう力なのです。 何時間も座って人が通るのを眺め、施しがあるかどうかを気にするだけの生活。これは孤独なことであったでしょう。 9・10節、キリストの名はさらに救いをもたらします。一人の人の救いを用いて、神の言に聞く者を起こし、救いを広げられます。 教会では、洗礼式の際に「父と子と聖霊の名によって、洗礼を授ける」との宣言がなされます。 キリストの名。これこそ私たちに与えられるもの。私たちのすべてであります。私たちの自覚があろうと、なかろうと、キリストの名によってのみ、私たちは神を賛美する者と造りかえられるのであります。 どんな孤独な者も、自分を満たすものが何かを知らない者も、神はすでにすべてをご存知でいて下さり、そして、救おうと見つめていて下さるのです。キリストの名において、救おうとされておられるのです。 私たちに与えられているもの、それはキリストの名であります。それ以外は二の次なのであります。この名が与えられ、神に満たして頂いた私たちは、主を賛美させて頂く他ないのであります。 |
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レビの家での食事の様子が語られております。 15節「食事の席に着いて」と訳されておりますが、原文は「食事のために、横たわって」と記されております。私ども日本人には馴染みませんが、当時のユダヤでは、左肘を床に付け、横たわって食事をしました。この食事の有り様を思いますと、大変寛いだ、和やかで豊かな交わりの食事であることが分かります。そして、この食事は、その内容から「もてなしの食事」であり、通常の食事とは違うため、「祝宴」と訳される場合もあります。 徴税人レビは、主イエスを迎えて、主イエスとの親しい交わりをいただいております。15節に「イエスが」とありますように、その食卓の主体は、主イエスです。レビの家での食事なのですが、レビの方が、主イエスとの親しい交わりに入れていただいていることが示されております。 13・14節で聴きましたように、レビは主イエスによってその存在を見出され、そして主に従いました。「主に従う」とはいかなることなのか、そのことがここに示されております。 まさしく、私どもも、主の名をいただく者として、主との親しい交わりの中にあります。このことは、現代社会にとって、とても大きいことです。なぜならば、「交わりを失っている」ことこそが、現代社会の課題だからです。核家族化によって家族との繋がりも希薄になり、地域社会の交わりも失われつつあります。それは、高齢化社会にあって、老後も家族や地域で支えられないという深刻な現実をもたらすのです。長生きすればするほど、人との交わりは失われてゆくのですから、もし、人との交わりだけが全てであれば、いずれは孤独となるでしょう。 しかし幸いなことに、キリスト者は「神の家族」として「共同体の一員としての交わり」を与えられております。「神との交わ」りをいただいているのです。それは、決して失われることのない交わりです。 また、この食事は「喜びの食事」であることが示されております。「主イエスとの食事」の根底には「喜び」があるのです。それは13・14節に記された出来事を受けてのことです。 そして、レビは、自分と同じように孤独な者を、この食卓に、主イエスとの交わりへと招いております。まさしく、麗しい食卓です。彼らはレビに招かれたことによって、主との交わりのうちに入れられ、主に覚えられる者となるのです。 しかし、16節には、喜べなかった者がいることが記されております。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」とあります。 直接、主イエスに言わないこと、ここに私どもに示されることがあります。日本人は元来、直接言うことを避け、対峙してぶつかり合うことを避ける民族ですから、ここで律法学者が弟子たちに言っていることに、あまり疑問を感じないかも知れません。直接対峙せず、陰で周囲にいろいろと言うのです。確かに、直接向かい合うことは難しいことです。言われれば答えなければならないし、言ったことの内容を問われます。しかし、向き合わなければ、言いたいことは陰で言い、呪ってさえしまうのです。悪しき習慣と思わなければなりません。 主イエスが見ておられるのは、そのように「罪」と定められ、交わりを失っている者の救いです。ここに主イエスと律法学者との、大いなる違いがあります。 律法学者が罪人との交わりを避けるのは、自らが汚れることを恐れるがゆえです。自分のためにだけ、人を断罪し、切り捨ててしまうのです。「罪」と定められてしまった人のことは考えないのです。 主イエスの「受肉」、それは、神なる方が「人とまでなってくださった」という出来事です。それは、主イエスにとって、まったく得なことではありません。却ってご自分を低くすることです。私どもは、低くなれるでしょうか。どこまでも低くなれない者なのです。主は、自ら低くなってくださり、苦難を負い、十字架にかかられる。それは、私どもの、人の罪のための苦しみです。主イエスは、人々の救いのために苦しまれるのです。私どもは自分のために、しかし、主イエスは私どものために、他者のために、低きに下り人とまでなって、交わりの回復を与えてくださいました。それが「罪人の救い、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵み」なのです。 私どもは、信仰においても、「自分のため」という罪を犯します。シュライエルマッハーは、「絶対の他者は神」と言いました。私どもは、信仰においても、例えばボランティア活動においても、「他者のために」という視点を失ってしまえば、すべては自分のためになってしまうという罪深さを持っていることを忘れてはなりません。信仰もボランティアも、自分のためであれば、麗しいものではないのです。 けれども、感謝です。自分のためでしかない私どもを、主イエスは、なお「弟子として、主との交わりに生きる者として」招き入れてくださるのです。私どものために、その人のために、主は来て下さり、十字架にかかってくださったことを、感謝をもって覚えたいと思います。 律法学者は「罪を避ける」ということしか出来ませんから、この食事を共にすることは出来ません。罪人と向き合うことは出来ないのです。罪人を無視し、視野から外し、抹殺することはできても、罪人を救うことは出来ないのです。そして、それが彼らの清さです。 しかし、主イエスの清さ(聖)は、「罪人の罪を購う清さ」です。人を清め、正しくする清さです。 主イエスは、律法学者の弟子たちへの言葉を聞いて、答えてくださいます。17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言ってくださいます。主は、向き合えない者、陰口しか言えない者の思いを知っておられます。人のつぶやきを、悪しき思いを、主は知っておられるのです。そして、知った上で、語りかけてくださる方であることを覚えなければなりません。人がどういう思いで語っているのか、主は知っておられます。人が語った言葉の中にある不平不満、いかに神から遠く生きているかを知って下さって、なお、言葉を下さるのです。 罪人に必要なのは、主イエス・キリストです。主こそ、すべての者に必要なお方です。自らを正しい者として自己義認でしか生きられない者にも、主は語りかけて下さいます。不平不満を言う者に、主は向き合って、語ってくださるのです。 主が語ってくださる、そこでこそ、自らの愚かさに気付く者でなければなりません。自らの愚かさに気付き、主に向き合うようにと、主が語りかけ導いてくださっていることを知らなければなりません。 |
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