聖書のみことば/2012.8
2012年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
中風の者の信仰」 8月第1主日礼拝 2012年8月5日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章1〜12節

<1節>数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、<2節>大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、<3節>四人の男が中風の人を運んで来た。<4節>しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。<5節>イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。<6節>ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。<7節>「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」<8節>イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。<9節>中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。<10節>人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。<11節>わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」<12節>その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

前回7月22日の礼拝において、今日のこの箇所から、中風の人を主イエスのもとにつれて来た「四人の男の信仰」について聴きました。主イエスは、この4人の男たちの非常識な業を「信仰」と見てくださって、中風の人に「罪の赦しの宣言」をなしてくださいました(5節)。
 これからお話することですが、教会は、主イエスがなしてくださったこのこと、「主イエスの権能」を授かっているのだということを、まずは覚えたいと思います。教会は、その人に「信仰を見、赦しの宣言をする権能」を、神より頂いているのだということを忘れてはなりません。このことが大事なことです。

今日は、私どもの教会がなした大切な信仰の告白について、この御言葉から聴いていきたいと思います。

私どもは信仰告白を、この礼拝においてしております。しかし、私どもの教会は、2001年6月、末木おすず姉妹の洗礼式に際して、一つの新しい信仰告白を作り告白いたしました。そしてそのときに、この聖書の箇所から聴きました。
 ですから今日は、普段の聖書の御言葉を中心にした説教ではなく、教義学を中心とした説教をいたします。

末木おすず姉妹は、認知症になり寝たきりになられました。それで、信徒である家族の希望により定期的に家庭集会を持ちました。その家庭集会で、おすず姉妹は、本当に分かっていたかどうか定かではありませんが、いつも「今日もいい話だった」と喜んでおられました。そのうちに、キリスト者以外の親族も、おすず姉妹の葬儀は教会でと話すようになり、であれば洗礼をということを教会として考えました。そして、そこで問われたことは「認知症の人の洗礼は可能か」ということでした。

現代は、延命治療の技術も発展し、たとえ植物状態になっても長く生きるということが可能になりました。では、植物状態になった人の洗礼をどう考えるのか。このことは、プロテスタント教会においては大きな問題なのです。プロテスタント教会は、洗礼に際して、本人の「自覚的な信仰告白」を必要とすると考えます。「洗礼」とは「救いのしるし、救いの保証」です。それでは、プロテスタント教会においては、自覚的な信仰と言い難い人々の救いをなすことは出来ないのでしょうか。
 これは、乳幼児についても言えることです。現代では、乳幼児の死亡率も多くはありませんが、自覚的な信仰を言い表すことなく幼くして死んだ者の救いについて、どう考えるのか。確かに、信仰の自覚ということは、信仰の大切な要素であり、それを重んじたプロテスタント教会のあり方は、それによって伝道も進展してきたと言えるでしょう。

しかし、私どもの教会は、主イエス・キリストより「人々の救い」を託されているのです。そこで、私どもの教会は、「幼くして死んだ者、自覚的な告白をできない者の救い」について記した「いと小さき者の信仰」という神学論文に基づいて、このことを考えました。そして、役員会で議論を重ね、認知症である末木おすず姉妹に洗礼を授けたのです。

主イエスは、中風の人のあり方に信仰を見て、救いの宣言をなしてくださいました。今日の説教題は「中風の人の信仰」といたしました。聖書には「四人の男の信仰」と記されておりますが、「中風の人の信仰」とは記されておりません。
 一体、中風の人は、主の救いを望んでいたでしょうか。例えばちょっと考えてみて、他者のお世話になってまで、教会に来ようと思うかと言えば、躊躇するのではないでしょうか。4人の友人が主イエスの所に自分を連れて行こうとしていることを知ったら、「そこまでしなくても、もういい」と言うのではないでしょうか。
 けれども、この中風の人は、4人の男に自分のすべてを委ねました。「自らの存在の全てを他者に委ねた」のです。ここに、主イエスはこの人の「信仰を見て」くださいました。

「信仰」とは、「神に自らのすべてを委ねること」です。「神に、私の存在のすべてを委ねる」それが「信仰」なのです。

この中風の人は、他者に全てを委ねました。他者に委ねるということは、なかなか出来ることではありません。相手を自己同一化するならば可能でしょう。しかしそれは相互依存であり自立に繋がりません。親子関係はこの危険をはらんでいます。
 「絶対の他者、それは神」です。神は、決して、私どもと同一になることはありません。そのような他者に委ねること、それが信仰なのです。

寝たきりとなり、自らのすべてを家族に、他者に、おすず姉妹は委ねました。その姿に、そこに「存在としての信仰告白を見て」、私どもの教会は、おすず姉妹に洗礼を授けたのでした。

ここに、おすず姉妹の洗礼式に際しての誓約文があります。寝たきりですから、もちろん、教会での洗礼式ではありません。自宅で、そこに集まった信徒、役員が、おすず姉妹の洗礼に際して作った信仰告白を告白し、信徒の誓約をいたしました。その誓約文をお読みします。
 「あなたがたは、この床に臥す末木おすず姉妹が、何一つ自らにより頼むことなく、主イエス・キリストの贖いにより、その存在の全てをまったく神の支配と愛に委ねていることを、その全存在をもっての信仰告白とし、自らの信仰として告白しますか。また、この信仰の告白を聖書に基づいたものとして、日本基督教団信仰告白に言い表されていると信じ告白しますか」。
 私どもの教会は、そこで「告白します」と信仰を告白し、信徒の誓約をいたしました。これが、私どもの教会がなした新しい信仰の告白であります。私どもの教会が一つの大きな決断をした「信仰告白」です。2001年6月のことでした。信仰告白はこのように、常に新たに告白されるものでなければならないのです。

まさしく、ここに言い表されていることは、「中風の人のあり方に信仰を見る」ということです。その存在のあり方は「他者に自らのすべてを委ねる」というあり方でした。そこに中風の人の信仰を見、罪の赦しの宣言をなしてくださった「主イエス・キリスト」に従って、私どもの教会も、おすず姉妹のあり方に信仰を見、神より託された権能によって洗礼を授けました。「救いの宣言」こそ、教会が神より託されている業であります。

このことは、幼子の洗礼についても言えることと思います。幼子は、存在のすべてを他者に、母親に託さざるを得ない者です。そういう者に救いの宣言を与える権能が授けられていること、それは教会に与えられている信仰の恵みであると思います。ですから、幼児洗礼についても、していかなければならないこととして覚えたいと思っております。
 まったく弱くされ、すべて他者に委ねている人々に信仰を見ることの大切さを思います。

この主イエスの言葉に対して、律法学者たちは、「心の中であれこれと考えた」(6節)と記されております。7節「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と思ったというのです。
 律法学者たちが、「神を冒涜している」と思う、その言い分は正しいことです。「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」、まさしく「神のみ、罪を赦すことのできるお方」なのです。
 けれども、彼らは間違っております。何を間違っているのか。「主イエスこそ神であられる」ということを知らないのです。「主イエスは神の御子」だからこそ、主は中風の人のあり方に信仰を見、罪の赦しの宣言をなしてくださったのです。彼らの間違いは、主イエスを神の御子として知らないということです。

ここに、主イエスを人として知っていることの間違いを知らなければなりません。「主イエスは神の御子である」、このことは当たり前のことですが、改めて明確にしておかなければならないことでもあります。教会であっても、主イエスを神の御子とせず、人として見る間違いを犯してきた歴史があるのです。

8節「イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた」と記されております。私どもは知らなければなりません。私どもの「隠された思い」を、主イエスは知っておられます。それゆえに、主は全知全能なる方なのです。
 自分自身にも分からない、思いがけない思いを持つ、そういう私どもです。そのような私どものすべてを、主はご存知であるがゆえに、そのような私どもを真実に導くことのおできになる方なのです。
 主は、中風の人を立たせてくださいました。12節「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」と記されております。
 病の癒しの業は、主イエスが神の力を宿しておられる方であることを示す業です。主イエスが「罪を赦す力を持っておられる方」であることを示す業なのです。そして、「神の力を知る」ということは「罪の赦しの恵みをいただくこと、救いを確信すること」です。そこでこそ、私どもは神を讃美する者となるのです。

病が癒されたから、神を讃美するのではありません。「神の赦しを見、確信する」だからこそ、そこで喜びに満ち溢れて、神を讃美するのです。「癒し」それは「神の赦しの業を証しするための癒し」であることを忘れてはなりません。

そして、教会は、どんなにか大切な業を神より託されているのか、知らなければなりません。その人の為したことを見るということではありません。「その人に信仰を見る」こと、それが、教会のなすべきことなのです。そして「救いのしるし」である「洗礼を授ける」こと、「救いの宣言をなす」こと、それが教会のなすべきことであることを、神より教会に与えられた恵みとして、感謝を持って覚えたいと思います。
罪人を招くために」 8月第2主日礼拝 2012年8月12日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章13〜17節

2章<13節>イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。<14節>そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。<15節>イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。<16節>ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<17節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

13節「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」と記されております。主が「再び来られた湖」とはガリラヤ湖です。前に主がガリラヤ湖に来られた時、主は漁師であったシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネをご自分の弟子として招いてくださいました(1章16節以下)。「再び」とは、その出来事を思い起こさせる言葉です。福音書を読む誰もがその出来事を思い出し、主が新たなる活動をなさる予感を与え、期待を抱かせる、そういう記述なのです。
 福音書は神の霊感によって成ります。書き手は何らかの意図をもって書くのですが、そこに神の意図が働き、その行間に神の御心が示されるのです。

主がおられる所、そこで起こることは何でしょうか。「群衆が皆そばに集まって来たので」と記されております。人々がいかに主を必要としているかが表されております。群衆は主イエスを必要としている、それは主イエスが「神の御子、神なる方」だからです。
 人の存在は、神なくして人ではありません。神を畏れかしこまなければ、人は「真実な人」とはなれないのです。神がなければ、人は自分が神となる。人には、意識として明確でないとしても、真実な人となりたいという求め、飢え乾きがあります。人は、人であるがゆえに、主イエスを、神を求めているのです。

主イエスはそこで「教えられた」とあります。マルコによる福音書は、主が「教えを下さる方」であることを強調いたします。1章においても、主は安息日に会堂に入り、教えられました。そして、その主の教えに人々は大変驚いたことが記されております。主が「権威ある者」として教えられたゆえに、そこに人々は「神の力」を感じて驚いたのです。
 主の教えに神の力を感じる、「主イエスが教える」とは如何なることなのかを、ここで覚えたいと思います。安息日に会堂で行われていたことは、聖書の説き明かしでした。主イエスは聖書を教え、神の御言葉を説き明かしておられたのです。それが「主イエスが教える」ことの内容です。
 ですから、主を必要とする者に主が教えられたということは、主イエスが人々を「神の御言葉をもって満たしてくださる」ということなのです。私どもは、このことを覚えたいと思います。「神の御言葉が説き明かされる」、そこに「神が臨んでくださる」ゆえに、人々は「満たされる」のです。
 主のもとに集まった人々は、病の癒しを求めて来たかも知れません。けれども、人々にとって必要なことは「神の御言葉」であることを、主は「教える」ことによって示して下さっているのです。人は、神の御言葉によってのみ満たされることを覚えたいと思います。

ここで、私は大変麗しく思う言葉に出会いました。「皆そばに」と記されております。人々は、主イエスの「そばに」集まったのだということに心惹かれました。人々は、「主のそばに」行きたいのです。「そばに」行きたくなる人とは、どんな人でしょうか。人々が、主イエスに対しての麗しい思い、主に迎えられるというような思いを抱いているということでしょう。そこに主イエスの慈しみがあって初めて、人々は主のそばに行きたいと思うのです。そのように、主イエスは人々から「親しい者」として覚えられていることが分かります。
 しかし、主イエスは「神の御子にして神なる方」です。ですから、本来ならば畏れ多く近寄り難い方であり、そばに行くことなど有り得ないのです。旧約の時代、人々は、神の臨在に会うことは滅びと思っておりました。神に会うことは、神に圧倒され耐えられず滅びるという恐れを持っていたのです。このことは、私どもも受け止めるべきことです。私どもは、神を畏れ多い方として受け止めているでしょうか。人は、神の臨在に耐えることはできません。神は聖なる方、汚れなき方。けれども、人は俗であり、裏切り、偽りある者なのです。人は不義ゆえに、正しく裁かれる方、義である神に耐えられません。
 ですから、本来、人が神と親しく交わるということは、考えられないことだということを覚えなければなりません。

けれどもここで、人々が主を親しい者として慕い、そばに集い、はべろうとしているとは、驚くべきこと、畏れ多いことです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、主イエスが「人となって下さった神」だからです。主イエスが、人の友として、人とまでなって、私どものところにおいでくださったゆえに、人々は主のそばに集い、はべることが許されていることを覚えたいと思います。
 主イエスは人を遠ざけない。主イエスの方から人に近づいてくださるのです。畏れ多いことであるのにも拘らず、私どもは、主と親しく交わるという恵みをいただいているのだということを覚えたいと思います。主から親しく御言葉をいただく者として、私どもは招かれているのです。「主のそばに」ということは、主の憐れみの出来事であることを忘れてはなりません。主イエスの方から、私どもを招いてくださっている、だからこそ、集うことが許されているのです。

「主のそばに」ということの麗しさを覚えたいと思います。そして、この「礼拝」こそが、「主のそばに」主が私どもを招いてくださり、神との親しい交わりに入れてくださるめぐみであることを覚えたいと思います。

14節「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて」と記されております。主イエスは、通りすがりに見出した者を、見過ごしにはされないで、目を止めてくださるのです。
 ここでレビは、主に「従いなさい」と言われて、すぐに従います。しかし、なかなか普通はそうはいかないでしょう。けれども、レビは従いました。主は何を見られたのでしょうか。そして、人はなぜ、主に従うのでしょうか。
 ここに聖書の智恵を思います。マルコによる福音書では、この人は「レビ」と言われておりますが、マタイによる福音書では「マタイ」と言われております。レビとマタイは同じ人物です。なのに、なぜ違っているのでしょうか。この人は「レビでありマタイである」ということは、この名を変えても良いということです。つまり、そこに私どもの名を入れても良いのです。「従いなさい」という主の呼びかけは、レビに、マタイに、私に対する呼びかけであるということを覚えたいと思います。主は私どもを見、目を止められる。そして、私どもの名が呼ばれているのだということを覚えたいと思います。

主イエスは、「レビ」という人を見られました。それは「収税所に座っているレビ」です。そこに、主がレビをどのようにとらえられたかが示されております。
 「収税所に座る」とは、どういうことかを知らなければなりません。ここで、レビが「徴税人であること、収税所に座っていること」が大事なのです。それは、レビの日常がどういう日常かを示しております。
 当時の徴税人とは、どういう者だったでしょうか。当時、ユダヤはローマ帝国の属国でした。ローマの支配の下で、集められた税金はローマに納められたのです。自分たちの税金が支配者に納められるとは、ユダヤの人々にとっては憎しみの出来事でしかありません。ローマのずる賢いことは、徴税のためにローマ人を使わず、ユダヤ人を使ったことです。それは、憎しみの対象をローマにではなく、裏切り者の同胞に向けるためでした。ですから、徴税人は、同国人から憎まれ、嫌われた者です。
 「収税所に座る」ということは、徴税人レビの日常ですが、その日常を生きるレビを人々がどう見ていたか。それは「蔑み」でありました。それは、単に嫌われ者というだけではなく、宗教上の理由によっても「蔑み」の対象でありました。ユダヤ人にとって異邦人と交わることは「汚れ」と、律法に定められておりますから、徴税人として税をローマに納めるレビは、異邦人と交わる「汚れた者」とされたのです。「汚れ」として蔑まれ、律法に反する「罪ある者」として呪われてさえいた者、それが「収税所に座るレビ」の姿、それがレビの日常の姿でした。
 ユダヤの共同体から疎外された者。それは、存在を失った者であります。それが「収税所に座るレビ」なのです。
 また、レビの税の取り立ては、憎しみをなお駆り立てるものでありました。税金は先にローマに納め、後から税金を集め、余ったお金を自分のものとする。自分を蔑んでいる人々から集めるのですから、親切な態度であるわけがありません。憎しみが憎しみを生む、憎しみの連鎖のただ中に、レビは座っております。
 そして、そのことを、人々からどのように思われているのかを、レビその人自身が知っているのです。交わりを絶たれ、疎外され、憎しまれ、蔑まれている、そういう自分でしかないことを、レビは知っております。

主イエスが「見て」くださるのは、そういうレビなのです。

人々は、レビを見て蔑む。しかし、主イエスは、レビを見て「従いなさい」と招いてくださる。それが蔑みの言葉であれば、レビにとっては日常でありますから、やり過ごすことでしょう。しかし、この主の言葉にレビは何を思ったでしょうか。誰も自分を仲間にしようとしない。ましてや、弟子にしようなどと思う人はいない。なのに、主イエスはこのわたしを、弟子と、友としようと招いてくださっている。そこに主の慈しみを感じるのです。主イエスの声に、レビは、神の憐れみ、慈しみを感じとったのです。そして、そこに自分の存在を見出したのです。ですから、それで十分、何の言葉も要らない。レビは「主に従う」のです。
 レビの飢え乾いた心に、主の慈しみが沁みとおる、だからレビは主に従いました。そこで、レビにとって、一切のことは何の価値も無くなるのです。主の憐れみが彼を覆い尽くすからです。

主イエスの御声は、慈しみの声、存在なき者に存在を与える「力ある言葉」、人の飢え乾いた心を満たしてくださる言葉です。何と有り難いことでしょう。
 主イエスの御言葉こそ、私どもに存在を与える言葉です。そこでこそ、私どもは慰めを受けるのです。ですから、私どもは、主の御言葉にすがります。主の御言葉に支えられている、ですから私どもは、主の御言葉を求め、御言葉に聴くのです。

主の御言葉が私どもに存在を与え、満たしてくださっております。主の御言葉こそ、私どもを主の友として招いてくださる恵みの御言葉です。そしてそれは、私どもに「主の弟子」としての恵みが与えられるということです。
 私どもが「主に従う者」とされているということは、ただただ主の憐れみがあってこそであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

今日の聖書の箇所の最後まで語ることはできませんでした。続きは次回としたいと思います。

立ち上がり、歩きなさい」 8月第3主日礼拝 2012年8月19日 
山田詩郎 神学生 
聖書/使徒言行録 第3章1〜13節

3章<1節>ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。<2節>すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。<3節>彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。<4節>ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。<5節>その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、<6>ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」<7節>そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、<8節>躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。<9節>民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。<10節>彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

1節、ペトロとヨハネは神殿にやってきました。夕方の祈りの時間が近づいていたからです。ペトロは、多くの人たちに神様の新しい契約のできごと、つまり主イエス・キリストを宣べ伝えるため、神殿でも説教をしていました。イエス・キリストがアブラハム、イサク、ヤコブの神によって栄光に入れられたことを語っていたのです。ですから今日も神殿に上っていったのであります。

2節、すると、生まれながら足の不自由な男が、運ばれてきました。「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに毎日置いてもらっていたのです。きっと家族のものが、祈りの時間にこの男を置いておけば、神殿に上ってくる人たちに施しをしてもらえると思って置いていたのでしょう。
 この足の不自由な男。どんな毎日を送っていたのでしょうか。
 4章には40歳を過ぎていたとあります。自分で自由に歩いたことが40年間ありませんでした。現代のように社会保障がない時代ですから、施しを乞うて生きるということが生きるための手段だったのです。ずっとこのようにして施しを求めて生きてきたのでしょう。神殿ですから、信心深い人たちならば、祈りの途中に、いくばくかの施しをくれることがありました。彼は人々の神を信じる心と、金銭に頼って生きなければなりませんでした。彼の頼みは人とお金だったのです。
 障害のある人たちは汚れた者と言われていました。神殿の門のところまでは入っては良くても、祭壇の近くや至聖所と呼ばれるところに近づくことは認められていませんでした。そのように汚れた者として見なされていたので、どんなに敬虔な人たちが施しをくれたとしても、その人達が、この男と本当に関わる人というのはいなかったのです。男の方も、もしかしたら若いときには誰かと親しく関係を持ったり、立って神殿に入ってみたいと思ったりしたことがあったかも知れません。しかし、もう40年も同じ事を繰り返しているうちに、そのような願いを持つことは止めてしまっていたでしょう。自分の人生に変化を求めることなどはもう止めていたのです。生きることの希望や期待など持つことも忘れて、ただ、今日施しをもらえれば、それでよいと思う毎日を過ごしていたのです。心の奥には願いがあったかも知れない、しかし、もうそのような願いも忘れていたのです。ただ、人が通る度に、施しが自分のところに投げられるかどうか、金銭が与えられるかどうか、それだけが関心事として生きていたのです。

3節、彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞いました。例に漏れず、彼は見ました。そこを通りかかる二人の男が施しをくれるように、見たのです。

4・5節、ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言いました。
 今回はいつもと違うことが起こりました。男が「しっかり見なさい」と自分に話しかけてくる。どういうことなのだろうか?
 しかし、男の関心はまだお金がもらえるかどうか、施しがもらえるかどうか。この男が価値あると思っているものそれは、金銭以外のなにものでもなかった。彼を支配していたのは、施し、金銭だったのです。「しっかり見なさい」と言われても、何かもらえるとしか思えない、男はそれほどまでに誰かと一対一で向かい合うということをしていなかったのです。自分の前を通っていく人たちとの関係は施しをくれるかどうか、それだけの関係なのです。

わたしたちの内側にも、このような思いがあります。何か自分にとって利益のあること、関心のあることにおいてのみ、その人と関わる。それ以外は面倒くさいから関わらない。この足の不自由な男こそが、そのようにしか関わってもらうことのない、人生を歩んできたのです。ユダヤ人達が施しをするという意味で、彼らの徳を高めるためにはこの男も用いられたかも知れない。しかし、それ以上の者として扱われることはなかったのです。彼はそのように扱われ、お金をくれる人に頼り、またお金そのものに頼るという生活を余儀なくされていたのです。人との交わりということに期待はなかったのです。交わりのない状態、これは生きているとは言えない状態です。
 しかし、人々が上っていく先、神殿で礼拝されている神、神はこの男を捉えたのです。この男をご自分の交わりの中に入れるため、今日、ここで、救うことを決めてくださっていたのです。

6節、決定的な言葉が告げられるのです。「わたしには金や銀はないが、持っている者を挙げよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ちあがり歩きなさい!」
 神は、この日、この場所でこの男を救うと決められたのです。だから、聖霊に満たされたペトロ達は、神に用いられて、その男と、一瞥して去るという間柄では終わらせなかったのです。神の救いの権能を頂いて、そこに委ねて救いの言葉を告げたのです。

ここにいる救われた者たちも同じであります。出会いと救いは突然やってくるのです。誰も意図することはできません。キリスト者の家庭に生まれた者も、自分であの家に生まれようと思って誕生したのではありません。
 足の不自由な男が何か救いにいたる条件を持ち合わせていたわけではありません。いつものことを繰り返していただけなのです。この世では、いないも同然のように扱われていました。彼自身も自分の人生なんてこんなもんさ、と決め込んでいました。しかし、人間の決定は神の前では力を持ちません。神が救いに決められたのです。そこで、ペトロとヨハネを通して救いの言葉が語られたのです。

金や銀にまさるもの。それはナザレの人イエス・キリストの名です。キリストの名。名というのはキリストご自身のことです。キリストは今や復活され、死に打ち勝たれたのです。人がそれによって本当に生きる者とされるためです。ペトロもヨハネも、もう何も持っていなかったのです。持っているものはキリストご自身だけだったのです。神によって、キリストにすべてを委ねる者とされていたのです。

7・8節、彼は、立ち上がった。しかし、ここで驚くべきことは、彼が神を賛美する者へと変えられたことであります。日々の食事の分の施しを手に入れること、それだけが彼の関心事でした。しかし、彼はそれで本当に満足することはなかったのです。神との交わりに生きるものされること。神との交わりにおいてのみ、人は本当に満たされるのです。彼はキリストの名によって、変えられてしまったのです。神を賛美する者へと、変えられたのです。その名を知らず、本当の満たしがどこにあるか知らず、日々を生きることで精一杯の男でした。しかし、神は憐れみによって、神は彼を賛美する者にして下さったのです。キリストの名、キリストご自身の力、聖霊の力は、人々の視線、人々の関心を捉えて、神を見る者に変えてしまう力なのです。

何時間も座って人が通るのを眺め、施しがあるかどうかを気にするだけの生活。これは孤独なことであったでしょう。
 金銭的な収入、経済的な利益があるかどうかばかりを考えているのは、この男だけではありません。現代に生きる私たちも同じであります。これは、孤独な姿であります。経済が永久に安定するということはないからです。それをずっと追い求めるだけでは、人は満たされないのです。むなしいのです。
 しかし、このような孤独な者に、神は近づいて下さいました。神は神殿の中に閉じこもっておられる方ではないのです。
 この男にとって主イエスがすべてになってしまった。主イエスの名がそのようにこの男を変えてしまった。主イエスの名によって満たされたのです。だからおどりあがって、神を賛美しているのであります。

9・10節、キリストの名はさらに救いをもたらします。一人の人の救いを用いて、神の言に聞く者を起こし、救いを広げられます。
 このあとの場面では、この男が変えられたことによって、多くの民衆がペトロの話を聞くために集まってきます。
 人々の視線は、むなしいものから救われた人へ向けられ、そして神ご自身、主イエスの名へと集められていくのであります。

教会では、洗礼式の際に「父と子と聖霊の名によって、洗礼を授ける」との宣言がなされます。
 神の名、キリストの名によって救われるということの力が、私たちにもここであきらかになるのです。ひとたびキリストの名によって救いが宣言されるならば、そこに神の力が働くのです。教会の洗礼の出来事がどんなに力をもち、その出来事が恵み深いことかを知るのです。キリストの名によって、私たちの見つめるものも神のみへと変えられるのです。私たちはそれ以外のものにとらわれる必要はないのです。神にとりこにさせて頂くので、何ものからも自由にされるのです。

キリストの名。これこそ私たちに与えられるもの。私たちのすべてであります。私たちの自覚があろうと、なかろうと、キリストの名によってのみ、私たちは神を賛美する者と造りかえられるのであります。

どんな孤独な者も、自分を満たすものが何かを知らない者も、神はすでにすべてをご存知でいて下さり、そして、救おうと見つめていて下さるのです。キリストの名において、救おうとされておられるのです。

私たちに与えられているもの、それはキリストの名であります。それ以外は二の次なのであります。この名が与えられ、神に満たして頂いた私たちは、主を賛美させて頂く他ないのであります。

レビの家での食事」 8月第4主日礼拝 2012年8月26日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第2章15〜20節

2章<15節>イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。<16節>ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<17節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」<18節>ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」<19節>イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。<20節>しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

レビの家での食事の様子が語られております。

15節「食事の席に着いて」と訳されておりますが、原文は「食事のために、横たわって」と記されております。私ども日本人には馴染みませんが、当時のユダヤでは、左肘を床に付け、横たわって食事をしました。この食事の有り様を思いますと、大変寛いだ、和やかで豊かな交わりの食事であることが分かります。そして、この食事は、その内容から「もてなしの食事」であり、通常の食事とは違うため、「祝宴」と訳される場合もあります。

徴税人レビは、主イエスを迎えて、主イエスとの親しい交わりをいただいております。15節に「イエスが」とありますように、その食卓の主体は、主イエスです。レビの家での食事なのですが、レビの方が、主イエスとの親しい交わりに入れていただいていることが示されております。

13・14節で聴きましたように、レビは主イエスによってその存在を見出され、そして主に従いました。「主に従う」とはいかなることなのか、そのことがここに示されております。
 「主イエスに従う」とは、「主イエスとの親しい交わりに入れていただくこと」です。「主イエスに従う」とは、勇猛果敢に主について行く、ということではありません。「主イエスに従う」とは「主の御名をいただく」こと。それは「主の名を呼ぶ者とされる」ということです。ですからそれは、「礼拝」であり「祈り」なのです。主の名を呼び、主と語らう、主の語りかけてくださる御言葉に聴くことです。「主の名によって祈る」ことで、私どもは主イエスとの親しい交わり、語らいを与えられるのです。そして、それこそが「主に従う者に与えられる恵み」です。

まさしく、私どもも、主の名をいただく者として、主との親しい交わりの中にあります。このことは、現代社会にとって、とても大きいことです。なぜならば、「交わりを失っている」ことこそが、現代社会の課題だからです。核家族化によって家族との繋がりも希薄になり、地域社会の交わりも失われつつあります。それは、高齢化社会にあって、老後も家族や地域で支えられないという深刻な現実をもたらすのです。長生きすればするほど、人との交わりは失われてゆくのですから、もし、人との交わりだけが全てであれば、いずれは孤独となるでしょう。

しかし幸いなことに、キリスト者は「神の家族」として「共同体の一員としての交わり」を与えられております。「神との交わ」りをいただいているのです。それは、決して失われることのない交わりです。
 帰宅しても、共に親しく語り合う者がいなければ、それは、自分の存在を失うことに繋がります。けれども、キリスト者は、語り合う人が誰もいなくても、神と語らうことができる、そこに神との交わりがある、ゆえに、人は「人格ある者」であり得るのです。たとえ人と人との交わりがなくても、キリスト者は人格を持つのです。そこに「主に従う者」であることの麗しさがあります。それは「主との親しい交わりをいただく」という麗しさなのです。

また、この食事は「喜びの食事」であることが示されております。「主イエスとの食事」の根底には「喜び」があるのです。それは13・14節に記された出来事を受けてのことです。
 徴税人レビは、呪われた者とさえされて、交わりから、共同体から疎外されていました。そのレビが「主イエスに従う者」とされたことによって、主との交わりを与えられ、自らの存在を与えられる、そこに「喜び」があるのです。レビは大いに喜んで、主イエスを招き、主との親しい交わりに満たされているのです。
 自らの存在を見出す喜び、親しい交わりによって常に満たされる喜び、それは言い換えますと「主イエスに見出された者としての喜び」であり、そういう者として「親しく主との交わりに生きるという喜び」、その「喜びと感謝」が、この食事の出来事に言い表されていることです。

そして、レビは、自分と同じように孤独な者を、この食卓に、主イエスとの交わりへと招いております。まさしく、麗しい食卓です。彼らはレビに招かれたことによって、主との交わりのうちに入れられ、主に覚えられる者となるのです。
 ここに教会の一つの働きが示されております。それは、存在を失った孤独な者たちを、恵みの交わりへと導く、という働きです。15節には「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」と記されております。マルコによる福音書は、流暢なギリシャ語でというよりも、ぎこちなく語る書ですので、この箇所の記述も、「弟子と同席していた。大勢の者がそこにいた。彼らは主に従っていた」と区切った言い回しなのですが、しかし、このような切れ切れの表現が、却って「大勢の者が主に従っていた」ことを印象づけていると思います。

しかし、16節には、喜べなかった者がいることが記されております。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」とあります。
 律法学者は、この食事の席にいたのでしょうか。「見て」とありますので、いなかったのでしょう。そして、主イエスに直接言わずに、弟子たちに言っております。ここで、律法学者のこの言葉を「なぜかという問い」と解釈すべきではありません。彼らの言葉は、非難、咎めの言葉なのです。

直接、主イエスに言わないこと、ここに私どもに示されることがあります。日本人は元来、直接言うことを避け、対峙してぶつかり合うことを避ける民族ですから、ここで律法学者が弟子たちに言っていることに、あまり疑問を感じないかも知れません。直接対峙せず、陰で周囲にいろいろと言うのです。確かに、直接向かい合うことは難しいことです。言われれば答えなければならないし、言ったことの内容を問われます。しかし、向き合わなければ、言いたいことは陰で言い、呪ってさえしまうのです。悪しき習慣と思わなければなりません。
 律法学者は、主イエスと直接向き合あおうとしませんが、陰で自己主張をしております。直接向き合うことには力を必要としますから、その力を持っていない者は、向き合うことを避けざるを得ないのです。
 律法学者は、徴税人レビを「罪」と断罪しております。律法には罪人と交わってはならないという規定があり、罪ゆえにレビを共同体から追放するのです。律法学者は、レビを罪と定め、罪人というレッテルを貼りました。それこそが正しいい行いだと思っているのです。しかし、そこに起こっている問題を考えようとはしません。断罪され、人格性を失ってしまった人々の存在を見ようとしないのです。救いを必要とする人がいることを、見ようとしないのです。

主イエスが見ておられるのは、そのように「罪」と定められ、交わりを失っている者の救いです。ここに主イエスと律法学者との、大いなる違いがあります。

律法学者が罪人との交わりを避けるのは、自らが汚れることを恐れるがゆえです。自分のためにだけ、人を断罪し、切り捨ててしまうのです。「罪」と定められてしまった人のことは考えないのです。
 主イエスが見てくださるのは、失われた存在の回復です。人は交わりを必要とします。交わりの回復の必要を、その人に見て、与えてくださり、満たしてくださるのです。自分のためにその人を見る律法学者と、その人の必要は何かを見てくださる主イエス。主イエスと人との大いなる視点の違いを覚えなければなりません。

主イエスの「受肉」、それは、神なる方が「人とまでなってくださった」という出来事です。それは、主イエスにとって、まったく得なことではありません。却ってご自分を低くすることです。私どもは、低くなれるでしょうか。どこまでも低くなれない者なのです。主は、自ら低くなってくださり、苦難を負い、十字架にかかられる。それは、私どもの、人の罪のための苦しみです。主イエスは、人々の救いのために苦しまれるのです。私どもは自分のために、しかし、主イエスは私どものために、他者のために、低きに下り人とまでなって、交わりの回復を与えてくださいました。それが「罪人の救い、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵み」なのです。

私どもは、信仰においても、「自分のため」という罪を犯します。シュライエルマッハーは、「絶対の他者は神」と言いました。私どもは、信仰においても、例えばボランティア活動においても、「他者のために」という視点を失ってしまえば、すべては自分のためになってしまうという罪深さを持っていることを忘れてはなりません。信仰もボランティアも、自分のためであれば、麗しいものではないのです。

けれども、感謝です。自分のためでしかない私どもを、主イエスは、なお「弟子として、主との交わりに生きる者として」招き入れてくださるのです。私どものために、その人のために、主は来て下さり、十字架にかかってくださったことを、感謝をもって覚えたいと思います。

律法学者は「罪を避ける」ということしか出来ませんから、この食事を共にすることは出来ません。罪人と向き合うことは出来ないのです。罪人を無視し、視野から外し、抹殺することはできても、罪人を救うことは出来ないのです。そして、それが彼らの清さです。

しかし、主イエスの清さ(聖)は、「罪人の罪を購う清さ」です。人を清め、正しくする清さです。

主イエスは、律法学者の弟子たちへの言葉を聞いて、答えてくださいます。17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言ってくださいます。主は、向き合えない者、陰口しか言えない者の思いを知っておられます。人のつぶやきを、悪しき思いを、主は知っておられるのです。そして、知った上で、語りかけてくださる方であることを覚えなければなりません。人がどういう思いで語っているのか、主は知っておられます。人が語った言葉の中にある不平不満、いかに神から遠く生きているかを知って下さって、なお、言葉を下さるのです。

罪人に必要なのは、主イエス・キリストです。主こそ、すべての者に必要なお方です。自らを正しい者として自己義認でしか生きられない者にも、主は語りかけて下さいます。不平不満を言う者に、主は向き合って、語ってくださるのです。

主が語ってくださる、そこでこそ、自らの愚かさに気付く者でなければなりません。自らの愚かさに気付き、主に向き合うようにと、主が語りかけ導いてくださっていることを知らなければなりません。
 自分のためしか考えられない愚かさと、そこに、存在を失った人がいるということを気付かせるために、主が向き合ってくださっていることを覚えたいと思います。