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40節「さて、」と始まっております。これまでの続きではなく、2章につながっていくということです。 ここでは「重い皮膚病」と記されておりますが、「らい病」と記された版をお使いの方もおられると思います。「らい病」は差別用語とされ配慮あってのことですが、このように言葉を変えると、その内容も変わってしまいます。私は、敢えて「らい病」と言った方が良いのではないかと思っております。 彼は「イエスのところに来てひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』」と言うのです。「御心ならば」とは「御意志があるならば」という強い言葉が使われております。 らい病を患うとは、いかなることでしょうか。不治の病、共同体からの疎外、隔離。どれほどの痛みを負うていたことでしょうか。当時、ラビたちは彼らのことを「生きながら死せる者」と言いました。らい病を癒すことは、死人を甦らせるのと同じくらい難しいと受け止めていたのです(復活を信じる人々は)。ですから思います。歴史がつい最近まで語ってきた「らい病」という病の悲惨さを「重い皮膚病」という言葉で表せるかと言うと、表すことはできないのです。 共同体が汚れ・死と定めた、その人が、律法の規定を破ってまで主イエスのもとに来てその身を投げ出してひざまずいている、これは尋常なことではありません。そして「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言うのです。その人の思いを知らなければなりません。抹殺され死とされている、一切の望みは失われている、まさに絶望の淵に立たされている。誰も自分に近づけないようにと、近づくことを拒まねばならない。それは一切の望みを持ち得ないあり方、それがらい病を患う人なのです。 この人は絶望の淵にあります。命さえ認められていないのです。しかしそれでもなお、彼は、自らを投げ出す場を持っている。それは「神」なのです。主イエスに「神の力、神」を見ているのです。ここに彼の信仰があるとすれば、その信仰は「望みの尽きたところで神に一切を託する、神にすがる」という信仰です。 その彼を、主は深く憐れまれ「よろしい。清くなれ」と言ってくださいました。 ですから、この言葉を無視して、この所を語ることはできません。主イエスが彼の思いを受け止めて「憤りに満ちた」とは、すごいことです。一体何に憤っておられるのか。 主イエスは憤りに満ちて「手を差し伸べてその人に触れ」てくださいます。「わたしは汚れ。近寄らないでください」と呼ばわっている、その人に、主は自ら手を触れる。その手の温もりたるや、どれほどに大きいことでしょう。偏見を持つ私ども自身のことを思えば、その人に触れるということがどれ程に大きい出来事かを思います。 「清くなれ」という言葉は「わたしの意志だ、清くなれ」というのが直訳です。ここにも、主イエスの癒しの特徴があります。当時、病の癒しは宗教的な儀式によるものでした。しかし、主イエスの癒しは言葉のみ、「御言葉」によるのです。 そして、今、私どもにも、その主の御言葉が臨んでいてくださるのです。 |
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先週は40節〜42節までで終わってしまいましたので、今日は43節以下から聴きたいと思います。 40節〜45節は一つの物語のように思いますが、前半の40節〜42節と後半の43節〜45節では、内容の中心点が違っております。前半は「癒し」が中心であり、後半は「誰にも話してはならない」ということが中心となるのです。 そして、この主の「沈黙命令」のあり方そのものが異様です。まずはそこから聴かなければなりません。 44節を読みますと、主がその人を立ち去らせる理由が分かります。「ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。実は癒されただけでは、事は終わっていないのです。らい病は、癒されただけでは、まだ「人として」生き返ったことにはならないのです。 43節に「厳しく注意して」と記されております。これはどういう意味でしょうか。「厳しく注意する」ということは「話してはならない」ということの強調だと感じることでしょう。しかし、ここで用いられる言葉は「厳しい」という意味ではありません。「馬のように鼻を鳴らす、いななく」というのが直訳です。つまり、ご自分が癒したその人に対して、主イエスは「いら立って」おられるというニュアンスなのです。 主イエスは「柔和な方、優しい方」と、私どもは勝手に思っております。しかし、ただ単に「優しい」ということでは、相手に対して本当に向き合っているかどうか、と思います。優しさは、関わり合おうとしないあり方でもあるのです。それは、優しさにおける罪深さです。ここはなかなか理解の難しい言葉であるゆえに、「厳しく注意して」と訳されたのでしょう。 一体何を主イエスは怒って、憤っておられるのでしょうか。そしてそれは何を意味しているのでしょうか。 40節で、このらい病の人は「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました。 主イエスほど真剣に、私どもの救いを願ってくださる方はいません。これほどまでに真剣に、私どもに向き合ってくださる方はいないのです。それがこの強い言葉に表されていることです。 主イエスは、苦しみを担ってまで、人の罪を贖うために十字架についてくださるお方です。私どもの救いのために憤っておられる、それゆえに、苦難をもいとわず十字架についてくださるのです。主イエスが真実に、私どもの救いを願ってくださっているがゆえに、私どもの救いがあるのです。 ですから、「厳しく注意して」という言葉では、主の救いを聴き取ることはできません。主が憤っておられることを知るならば、救いを聴くことができるのです。上辺の優しさには、救いを見出すことはできません。このような主イエスの思いを、人々は全く知りません。罪深いことです。 45節「しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」。これは当然のことでしょう。癒された人は嬉しいのです。ですから、しゃべるでしょう。彼は、主の禁止命令を守りません。これは、救いから遠くなるということです。彼は癒されたことで良しとし、良かったから、それで終わりとなるのです。「叱られる」ということは、そこで終わらないことです。駄目だと言われなければ、人は前には進めないのです。 けれども、もし彼が弁えていたならば、しゃべらないで済んだでしょう。「わたしを癒してくださった、その主が怒っておられる」、そこで、主に求めるべきことは癒しではなく救いであることに気付くべきでした。救いを必要とする自分のあり方、罪なるあり方を、主の憤りによって気付くべきでした。けれども、彼は癒されたことを喜んで、それで終わってしまいました。しかしそれも仕方ないことでありましょう。 45節後半「それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」と記されております。人々が癒しを求めて主イエスのもとに押し掛けたということです。 けれども、主イエスが「私どもの救いのために憤っておられる」ことを受け止められるならば幸いです。 |
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ペンテコステがあってから弟子たちは活動をはじめ、語り始めます。それまで弟子たちは、十字架から逃げ、逃亡し、閉じこもり、イエスのよみがえりがあっても、まだ立ち上がることができませんでした。それだけ挫折が大きかったのです。 しかし、信仰の炎が与えられ彼らは立ち上がり、言葉を回復し語り始めたのです。 その第1歩が今日の箇所です。大変面白い箇所です。 ペトロとヨハネが、ユダヤ人の習慣に従って祈るために神殿に赴きました。1日に数回祈りを欠かしていなかったことがうかがえます。習慣化している道では、素通りしてしまうことが普通ですが、この日2人の弟子たちは違っていました。そこに何十年も同じようにして置かれていた生まれつき足の不自由な男に目が留まりました。彼らにはペンテコステ後変化が起こっていました。弟子たちは、この男を「じっと見た」と書かれています。素通りしなかったのです。そこに置かれていた男に関心を持ったのです。 この男は、4章22節にありますが、40歳あまりの人とありますので、毎日のように家族の者が連れてきては、そこに置いていったのでしょう。それも何十年にもわたって、毎日あいも代わらずされるがままでした。この人は、地面だけを見て、誰も話しかける人もなく、ただ明日を信じることもなく過ごしていたことでしょう。1日が長い。そのこと自体が悲劇的なことですが、それ以外に彼には何もできない状態でした。 その男に、ペトロは上を見上げることを促したのです。彼は、当然何かを恵んでくれることを期待していたことでしょう、が、ペトロは金や銀はない。与えることができるのは、「ナザレ人イエス ・キリストの名によって歩け」との言葉です。 それは、ある神学者(カール ・バルト)が、「人間の世界は、括弧の中に入って、その( )の前にマイナスがくっついているものだ」といっています。つまり、私たちは人生で諸々のものを吸収、獲得しています。富を得たり、名誉、地位も得たりしますが、その括弧の前にマイナスがつけば、全部がマイナスになってしまいます。しかし、「キリストの名によって生きる」ということは、そのマイナスを取り去ることだというのです。信仰とは、そういうことだと言います。 それは、この世的なもので自分の人生を埋めないということであり、「キリストに自分の人生を明け渡す」ことであり、「自分の人生の主人公をキリストにする」ことであります。つまり、「キリストの名によって歩く」ということは、「わたしは神のもの」ということです。それは透明な自分にされるということです。別の表現にすれば、「神のものになる」ということです。 最近手にした本に「なぜわたしだけが苦しむのか」というユダヤ教のラビH.S.クッシュナーが書いたものがあります。自分の3歳の息子アーロンがプロゲリアという難病に見舞われ、人の何十倍もの速さで老化していく難病だったのです。ラビだけに苦しみ、旧約聖書を読み、ある結論に達しました。 この記事の中で、ペトロは「イエスを十字架にかけたこと、神がよみがえらせたこと」を指摘し、3章16節で「それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなた方一同の前でこの人を完全に癒したのです」と説教します。 この名、つまり「キリストの名」によって、私どもも癒され、不条理の中でさえ喜びと希望を持って生きることが許されているのです。 |
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1節に「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると」と言われております。物語が新しい展開になっているということです。主イエスは1章38節で「近くのほかの町や村へ行こう」と言われて、カファルナウムから出られました。そしてここで「再びカファルナウムに戻って来られた」ということです。つまり、カファルナウムは、主イエスの活動の中心地であることが分かるのです。 そして「家におられることが知れ渡り」と続いております。「家におられる」、私どもは何気なく読んでしまいますが、そこは一体誰の家だったのでしょうか。当時の人々には分かったのでしょうが、後の顛末を考えますと、誰の家でもよいわけではありませんので、問わなければならないことです。その家には大勢の人が押しかけ、挙げ句の果てに屋根まで剥がされてしまうのです。 ここに、主の御業の麗しさを思います。主イエスは一つの家庭に入ってくださり、その家を主の御業、伝道の拠点としてくださいました。それは、私どもの家庭こそが、主の御業、伝道の拠点となることを示すことです。 続けて、主イエスが家におられることが「知れ渡り」と記されております。なぜ、こう言うのでしょうか。主イエスはらい病人を癒されました。その癒しの出来事は言いふらされてしまい、主は活動できなくなったことが、前のところに記されております。主イエスは「救い主」として来られたのであり、病を癒す者ではない。ゆえに、癒しの出来事を口止めなさったのでした。ですから、主イエスはこのシモンとアンデレの家に、公然と行かれたということではなく、人知れず休むために行かれたのではないかということが、この「知れ渡り」という言葉がほのめかしていることだと思います。 人々は、何を求めているのでしょうか。そこに求めるものがあれば、人は来るのです。人々が主イエスを求めて止まない、ゆえに、人々は主のおられる家に殺到しました。2節「大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」とあります。「戸口の辺りまですきまもない」とは、すごい数です。人々は主イエスの側に集いたいのだということを覚えなければなりません。 人は、さまざまなものを欲します。癒しを願うのです。しかし、そういう者であるからこそ、神の御言葉が必要なのです。確かに病が癒されることは喜びですが、しかし、それで完結するわけではありません。人は病む者なのです。人は癒しを必要とする者である、だからこそ、人は自分で意識していなくても、本当は神の御言葉を必要とするのです。 3節、ここで驚くべきことが起こります。「四人の男が中風の人を運んで来た」というのです。病人を運んで来た、それだけなら分かりますが、何とか主イエスに触れていただこうと、4節「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」と言うのです。当時、イスラエルの家は、屋根の骨組みの上に粘度を乗せて作ったもので、雨期の前には修繕するために外階段が備えてありました。ですから、ここで4人の男が「屋根をはがして穴をあける」ことは、今の私どもの感覚では信じられないことですが、さほど難しいことではなかったと言えます。しかし、この行為は、非常識極まりないことでしょう。 けれども、ここで主イエスがなさることには、もっと驚きます。そこにいた人々もどれほど驚いたことでしょうか。5節、主イエスは「その人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」と言うのです。主イエスは、非常識としか思えない4人の行為を「信仰」と言い、中風の人に「赦しの宣言」をなさいました。 私どもは、「あなたの信仰はどのようなものか?」と問われて、はっきりと答えることができるでしょうか。この4人の男の行為から、彼らの信仰とは何か、どのようなものかを突き詰めて考えると、とても理解はできません。 「信仰」とは「神の憐れみ、神の憐れみをいただくこと」です。そして、信仰は何をもたらすでしょうか。それは「罪の赦しの宣言をいただく」ことに繋がります。それゆえに「信仰」とは、「罪の赦しの出来事、神の憐れみによる罪の赦しの出来事である」ことを覚えなければなりません。私どもも、主の憐れみを受けて、赦しの宣言をいただきました。私どもには、到底、信仰と言えるようなものはありません。何もない。にもかかわらず、主の赦し、救いに与っているのです。 ですから、ここで4人の男の行為に主が信仰を見てくださったという出来事は、恵み深く、有り難いことなのです。 そして思わされることがあります。ここで「救いの宣言」をいただいたのは、4人の男ではなく、寝たきりの中風の人でした。この中風の人の信仰はどうであったのでしょうか。 |
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この箇所はクリスマスの時に読まれることの多い箇所であります。冬至にいたって太陽の光が最も弱まる時、暗闇の時間が最も長くなるときに読まれる箇所なのです。今は、冬至とは全く逆の季節、暑い季節にいますわたしたちです。しかし、世の闇、人間の闇に季節は関係ありません。今日の説教題を「人間を照らす光」といたしました。光ということを知るために、まず闇を理解しなければなりません。今日の聖書の箇所でも、暗闇という言葉が出てきます。暗闇、これは「人間の罪」のことです。5節で「暗闇は光を理解しなかった」と言われます。それは、人間の罪が光を理解しないと言っているのです。人間の罪とは一体何でしょうか? それは人間がこの世を、この世界を自分の所有物であると思い込んでいることでしょう。自分の人生、自分という存在を、我が物としている姿。これが人間の罪、暗闇なのです。それは、自己中心と言ってもいいでしょうし、すべての事柄において自分を出発点として見ていくということでしょう。自分の安全を守りたい、自分が心地よくいたいと願うことは当たり前のことです。それ自体は悪いことではないのです。しかし、それが人間を、自分を第一に、出発点として考えていくならば、際限が無く自己実現を求めていくことになるでしょう。それは延いては他者をないがしろにし、結局は自分に与えられた命をもないがしろにすることになるのです。自らを出発点にするとき、わたしたちの貪欲さは留まるところを知りません。自らに与えられていることに満足せず、現状に飽きたらず、どこまでも欲しい欲しいと求めるのです。このように今の自分、等身大の自分に満足できないということは、結局自分に与えられている命をないがしろにしていることなのです。まことに自我という物は、わたしたちを支配しようとするかのように思われる物であります。しかし、それは、自らの出発点を自分においていること、人間においていることからくる問題なのです。このような自己を出発点とする闇から、孤独も生まれるでしょう。自己を中心にするとき、他者との関係をもつことの意味がうしろに退いてしまうからです。孤独が生み出されるとき、闇は深まるばかりなのです。人間の罪の結果として、孤独があるのです。 しかし、そのようにして人間を出発点として考えてしまう、気づかないうちにそのようにして生きてしまっているわたしたちに、聖書はこう申します。 自己を出発点としていたわたしたちにとってこれは驚くべき知らせです。出発点がイエス・キリストであるということはどういうことでしょうか。もう人間が出発点ではない、つまり、求める物は自己実現ではなくなったということです。わたしたちの生の目的が、全く違うところに根拠づけられることになったのです。自分の思いが実現するよりも、神の思いが実現すること、自己が他者を支配することよりも、神の国がこの世に実現すること、世のすべてのものがこのイエス・キリストに根拠をもつことこそが目的となったのです。そして、実は、ここに光があるのです。闇とは全く別のものが証しされているのです。光です。初めに言があった。それは光があったということなのです。 「この言は、神と共にあり、言は神であった」と言います。2節においても 「この言は、初めに神と共にあった」と言われます。言が神と共にあるというとき、それは、イエス・キリストが神との交わりの中におられることを言っているのです。交わり、神はそのご自身の内において孤独な方ではないのです。一人にして父・子・聖霊の交わりをもっておられる方なのです。その存在が交わりのお方で、父と子と聖霊の交わりの内に、わたしたちを招いて、わたしたちと関わってくださるのです。それも言によってです。言によって語りかけ、名前を呼んで、お交わりくださるのです。 「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった」。 でも人間が光ではないということが繰り返されます。その人間の一人としてヨハネが登場します。ヨハネはその時代、多くの人に知られていました。それだけでなく、この福音書を読んだ教会には、もともとヨハネの弟子たちが多くいたと言われています。ですから、すぐにヨハネのことを思い起こすことができました。このヨハネを模範として示しています。ヨハネは光ではない。しかし、光を知った者として、照らされたものとして、光を証しするために遣わされた者であると言うことです。もう自分が輝く必要はない。むしろ自分は退くのです。自分が前に出ないと寂しいなどと考えてしまうようなわたしたちなのです。しかし、自分が退くと言うことは、孤独とは違うのです。命との関わりの中にあることこそ、わたしたちの平安の源であります。わたしたちが前面に出るとき、それは主イエスを不要なものとしていることになるのです。 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。ここに神の約束があります。すべての人を照らすと言うのです。光は罪有る者を、そのまま照らします。罪が明るみに出るときわたしたちは恐れます。本当の自分、ありのままの自分に嘘をついて罪の中を生きているからです。しかし、罪の赦しの中に、照らされるのです。わたしたちは光のもとにおいてのみありのままの姿でいられるのです。神の前にへりくだって、ありのままが赦される。そのとき感謝することができるのです。 人が神の子とされるというのは、人間の領域、人間の側から生まれ出ると言うことではないのです。血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によってです。信仰は神が与えてくださる奇跡なのです。ユダヤ人達は、自分たちの民族が、その血統によって神の民であることが相続されると信じていたでしょう。しかし、人間の血筋や家柄、その人の背後に人間的な何があると言うことには関係ないのです。 ただただ、神が起こしてくださる奇跡なのです。それによって神の子とされるのです。 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。わたしたちには、もう約束されています。わたしたちが受け入れる、受け入れないということの前に、言は肉となって、人間の姿と成ってわたしたちの間に宿られ、語り、交わってくださるのです。 わたしたちもいつも問われます。あなたの第一とするものは何か?と。すでに主は来てくださいました。14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われている通りです。神はわたしたちと交わるために、独り子イエスをわたしたちと同じ肉、人間の姿として歴史の中に介入してきてくださったのです。 わたしたちが信じ、第一とするものは何でしょうか? わたしたちが第一にするものを誤り、交わりを失い孤独である中で、神の言イエス・キリストはわたしたちと真に交わるために、人となってわたしたちの孤独を味わいきり、わたしたちと同様になってくださいました。何より、語りかけて、お交わりくださいます。この神の言であるイエス様は、今日も、わたしたちの側の如何に関わらず、つねに光としてわたしたちのありのままの姿を照らしていてくださり、赦していてくださるのです。このお方を、感謝し、第一とするほかありません。 |
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