聖書のみことば/2012.6
2012年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
シモンとアンデレの家」 6月第1主日礼拝 2012年6月3日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章23〜34節

<23節>そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。<24節>「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」<25節>イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、<26節>汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。<27節>人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」<28節>イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。<29節>すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。<30節>シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。<31節>イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。<32節>夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。<33節>町中の人が、戸口に集まった。<34節>イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

前回、23節から28節までを十分にお話しできませんでしたので、区切りが不自然と思われるかも知れませんが、今日は23節から、まず聴いていきたいと思います。

主イエスが安息日の礼拝のために会堂に入っておられます。そこに、23節「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」と記されております。本来、汚れた霊は、会堂という聖なる場所には居られないはずですので、ここには有り得ないことが起こっていることが記されているのです。汚れた霊=「悪霊」と言えども、主イエスを無視はできない、主の前に立たざるを得ない、ひざまづかずにはいられないということです。
 悪霊は、神に敵対する者であったとしても、神に並び立つ者ではありません。悪霊は、神なしには、その存在は無いのです。神から人を遠ざける、それが悪霊の働きです。ですから、神と人との交わりということがあってこそ、悪霊の働きは成り立つのです。
 神との交わりにあることは、人の生を麗しくすることです。神との交わりによって、人は麗しい命を生きるのです。けれども、人を神から遠ざけ、麗しい命を喪失させる、それが悪霊の力です。

悪霊の存在意義とは何でしょうか。私どもは、悪しきものに存在の意味などないと思っておりますが、そうではありません。
 人は素直に神との交わりに生きるかというと、そうは生きられないものです。そこで、人を神から遠ざける力(悪霊の力)は、神から遠ざかるように人を誘うのです。自己を喪失させ、生きている実感を失わせる。しかし、そこにどんな意味があるのでしょうか。
 人が交わりを失うことは、孤独になるということです。そして、孤独は、人に飢え渇きを覚えさせるものです。孤独ゆえに、人は神を渇望する。神へ、命へと飢え渇くということが起こるのです。
 そして、そのような飢え渇きが無ければ、信仰は自覚化しません。孤独の中で、自らの欠け、弱さ、求め、虚しさを感じる、だから、自ずと「求める」ということが起こる。そして、求めて与えられたときに、信仰の実感を得るのです。何の障害も無ければ、信仰に実感はありません。神を切実に求めるゆえに与えられ、神を実感できるのです。
 ですから、神から人を遠ざける力なくして、人は神を求めることはできません。悪霊にも存在の意味があるのです。悪霊の力は、人に飢え渇きを覚えさせ、信仰を自覚する契機をもたらすのです。
 そういう意味で、悪霊の力が存在するということも有り難いことです。たとえば、私どもは、不本意にも悪霊の力に加担することもある。しかし、そのような出来事ですら、神が用いてくださり、神を求める思いが与えられるとするならば有り難いことなのです。悪霊も、そのように「神に仕える者」です。神に仕える者として、神の前に、主イエスの前にひざまずかざるを得ないのです。

主イエスは、25節「この人から出て行け」と、悪霊に命じられますが、「滅びよ」とは言っておられません。悪霊が自ら滅びることはあっても、主が滅びを命じてはおられないのです。悪霊とは、主イエスの存在によって、自ずと滅びる者です。神との交わりを失い、苦しみ、飢え渇きを覚える人が、主によって救われる恵みを知るならば、もはや神から遠ざかる必要はありません。ですから、悪霊はその存在意味を失うのです。それほどまでに、主の福音は圧倒的な恵みの出来事であることを覚えたいと思います。

悪霊のいない社会は危うい社会です。悪霊を失うということは、同時に神を失うことだからです。悪霊を失えば、人は、自分が神から遠いということを感じなくなる。悪霊を信じない社会は、飢え渇きを覚えない社会なのです。まだ、悪霊の力を感じる方がましだと思います。宗教改革者マルティン・ルターは、悪霊を感じて、壁にインク壷を投げつけました。それほどまでに悪霊の力を感じたことが、神を深く求めること、信仰の自覚を持つことの大切さに至り、宗教改革へと至るのです。カトリック教会では、信者は年に一度、懺悔の時を持てば良く、個人の信仰の自覚を問われることはありません。個人の信仰は教会の信仰であると言えば良いのです。けれども、私どもプロテスタント教会の信仰は、自らの信仰を言い表さなければなりません。信仰の自覚が重んじられれば、悪霊の力ということも思わなければならないのです。神から遠いことの自覚を持つことは、自らの信仰の自覚に立つことであり、大事なことです。

24節、悪霊は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。主は「滅ぼす」と言っていないにもかかわらず、悪霊は自ら滅びると思っているのです。「正体は分っている」と悪霊は言いますが、当時、相手の名を正しく言うことは、相手を支配できることと思われておりました。しかしここで、悪霊が主イエスを「神の聖者だ」と言ったことは、断末魔の叫びであり、存在を失う恐怖を感じているのです。主を「聖者」だと正しく知っていても、主を支配できないのです。悪霊は、主に従う者だとしても、主を支配する者ではありません。主イエスは神の子であり救い主、神なる方として主権者です。主権者たる主を、その名を知っていたとしても支配することはできません。人を神から遠ざけるという働きによって、悪霊は神に仕えているのです。

25節、主イエスは悪霊に「黙れ、出て行け」と言われます。人が主イエスを救い主だと理解できるのは、悪霊の力によるのではありません。「聖霊の力」によるのです。それは、神が臨み、神が働かれるということです。
 けれどもこの時、まだ主の復活は起こっておりません。十字架の贖いも永遠の命の約束も始まっていないのです。まだ、聖霊の出来事を語るときではない、そこで「黙れ」と言われるのです。

26節「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と言われます。けいれんを起こし、大声をあげている姿は、悪霊に取りつかれた可哀想な姿だと見えますが、そうではありません。これは、悪霊が出て行ったことの印なのです。

27節「人々は皆驚いて、論じ合った」。人々は、悪霊が出て行ったことが分ったので、驚きました。この「驚いた」ということは大事なことですが、「論じ合った」ことは論外です。主イエスの出来事は信じるべきことであって、論ずることではないからです。「驚き」がなぜ大事かと言いますと、この「驚き」が無ければ、28節の「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」ということは起こらないからです。
 「驚き」とは、理解できない、受け止められないということです。もし、この出来事が理解できて、受け止めることができたならば、このことの評判は広がっていかなかったでしょう。人々は「驚いて」、この出来事を受け止められないから、言いふらしたのです。受け止められないことだから、誰かに話して、話すことで何かを理解しようとするのです。
 自分が理解していること、分っていることを、他者に伝えるということは難しいことです。しかし、分らないことなら、いろいろと話したいし、話せるのです。人々が驚いて受け止められなかった、だから、この出来事は「ガリラヤ地方の隅々にまで広まった」のです。大変面白いことだと思います。
 理解しているということは、案外、宣教に繋がらないかもしれません。内容が分らないから語れないのではない。少しは分っていると思っている、でも謙虚なので、謙虚さという不遜さによって、私どもは語れないのです。もし、「なんでこんな私が救われたのか、分らない。。。」と語れるならば良いのです。分らないから証しできるのではないでしょうか。「人々が驚いた」ことが、「主イエスの評判が広まった」ことであるとは、大きな出来事です。
 聖書に記される一言一言には、深い意味があることを改めて思います。その当時にあった出来事が、私どもの今にも展開されるのです。

さて、29節に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」と記されております。安息日の礼拝を終えて、「すぐに」主イエスの一行が向かったのは「シモンとアンデレの家」だと言うのです。しかしこれは、少しおかしくないでしょうか。16節〜を読みますと、漁師だったシモンとアンデレは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスの御言葉に従って、「二人はすぐに網を捨てて従った」と記されております。全てを捨てて主イエスに従ったはずの「シモンとアンデレ」が、主と共に自分の「家」に帰るのです。

ここで、私どもは知ります。二人が「網を捨てて従った」ということは、「生活の糧を捨てた」ということです。けれども二人は、家族を捨てたのではなかったのです。私どもは、16節以下を読みながら、二人は生活の糧も家族も何もかも捨てて主に従ったと思い込んでしまうのですが、そうではないことを、ここで読み取らなければなりません。
 彼らが「網を捨てて従った」ということは、「生活の基軸を変えた」ということです。経済中心の生活から、御言葉に生きることを第一とする生活へと「生きる根本」を、主イエスによって変えられたということです。何が一番大事なことかという、価値観が変えられたのです。

そして、29節以下で示されることは何か。シモンとアンデレが主を信じ従うことは、彼らの「家族も救われる」ことだということです。神に依り頼むこと、それは、その人だけではなく、その家族をも救うことなのです。
 「網を捨てる」ということ、「生き方の基軸を変える」こと、それは、生活に追われて疲れるだけの日々にあって、疲れた自分が「神に、主イエスに、受け止められていることを知るという生き方」へと変えられるということです。それが自分の救いとなり、そして、家族の救いともなるのです。主の一行が「シモンとアンデレの家」に行かれたということは、そういう意味を持つことです。

私どもは、この「網を捨てて従う」というところで、私どもも伝道者にならなければならないのだと錯覚しているところがありますが、そうではありません。日常生活を送る私どもも、主の弟子となれるのです。
 「主の弟子となる」ということは、「主イエス・キリストのみ中心、主にのみ従って生きる」ということです。伝道者となること、教会が伝道者と生み出すことの大切さは、もちろんありますが、私どもにとって、伝道者となることだけが全てなのではありません。「主にのみ従って生きる」、それは私どもの日常生活において為し得る出来事であり、だからこそ、私どもも主の弟子として生きられるのだということを覚えたいと思います。

安息日の礼拝を終えて、まず最初に、主イエスが「シモンとアンデレの家」に行かれたということ、これも印象深い出来事であることを覚えたいと思います。なぜならば、主の救いは、信じる者にとどまらない、家族にも及ぶ恵み深い出来事だからです。

シモンとアンデレの家-2」 6月第2主日礼拝 2012年6月10日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章29〜34節

<29節>すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。<30節>シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。<31節>イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。<32節>夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。<33節>町中の人が、戸口に集まった。<34節>イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

29節「一行」とは、主イエスと、主が弟子として召されたシモン、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人です。一行は「シモンとアンデレの家」に行きました。安息日にラビ(教師)を迎えることは、その家の誉れであり、多くの家でなされたことです。ですからここで、「シモンとアンデレの家」も、ラビ以上の方、主イエスを迎えるのですから、田舎の敬虔な信仰深い家であるということが分るのです。
 また更に、ここで分ることは、主イエスが「シモンとアンデレの家」をカファルナウムでの活動の拠点とされたということです。主イエスはカファルナウムでこの4人の弟子を立て、初めに安息日に会堂で教えられました。主の宣教の業はここから始められたのです。主はシモンとアンデレを弟子とされただけではなく、彼らの家をも用いられました。

私どもは「あなたが信じれば、あなたもあなたの家族も救われる」という御言葉を知っております。一人の人が信仰を持つことは、その家族、その家も、主の栄光に与る場とされる、神が働かれる場とされるということを意味しております。このことは、家族単位の信仰者の多い私どもの教会にとって、大切な示しです。家庭には様々なことがありますが、その家庭がどのような状況にあったとしても、主が各々の家を祝してくださったからこそ、栄光を現してくださったからこそ、家族単位の信仰が与えられるという恵みに与っているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。
 なんと麗しいことでしょう。主が「シモンとアンデレの家に行かれた」ということは、私どもにとって慰め深く、恵み豊かな出来事であることを覚えたいと思います。

30節、一行が家に入ると、人々は早速、熱を出したシモンのしゅうとめのことを主イエスに話したと記されております。これもまた麗しいことです。考えてみてください。その家の主婦が臥しているということは、お客様をもてなす人がいないということです。普通ならば、迎えることを避けようとするかもしれません。
 しかしここでは、主イエスを迎えます。十分にはもてなせないかもしれない、けれど、是非とも主をお迎えしたいのでどうぞ、と。ラビを迎えることは、その家の誉れなのです。
 そして、そのように迎えられた主がなさったことは、31節「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」と記されております。しゅうとめの病は癒されました。ここに示されていることは何でしょうか。主イエスは「もてなせなくてもいいよ。そのままで」とは言われません。主イエスは進んでしゅうとめ癒されました。つまり「しゅうとめのことを人々が話してくれた」だから、そのことは「主に委ねられたこと」として、主は「しゅうとめを引き受けてくださった」のです。
 話しても無駄だと、私どもは思います。しかし「主イエスに話す」ということは「主イエスに委ねる」ということです。ですから、話を聞いた主イエスは、しゅうとめの所へ行ってくださいました。

祈りにおいて、私どもは、主に話すのです。そこで私どもがどのような思いで話すとしても、主イエスは、その祈りを「委ねられたもの」として受け止め、慈しんでくださいます。
 「祈り」とは、「主イエスの御名に委ねる」ということです。私どもが祈るとき、私どもは自らを主に委ねているのだということを知っておかなければなりません。私どもが、家族あるいは友人の名を挙げて祈るとき、それは、それらの人々を主に委ねているということです。そして、そのように祈られ、委ねられた人を、主イエスは引き受けてくださるのです。何という恵みでしょう。
 私どもは期待もせず形だけで、あるいは言い訳として祈るかも知れません。しかし、「祈る」ということは「神に委ねる」という「信仰の業」であるということを、改めて覚えたいと思います。
 委ねられたものに対して、主は進んで為してくださいます。神なる方、力ある方だからこそ、癒す力のある方だからこそ、自ら進んで行ってくださるのです。
 そしてそれは、主イエスだから為せることなのであって、私どももそうあるべきということではないことを併せて覚えたいと思います。

ここで、主イエスが「手を取って起こされた」とは、印象的です。人が「起きる、立つ」とはどういうことなのか、示されております。人は、自分の力で立つのではありません。主イエスの御手をいただいて、人は立つのです。「主が力をくださって立つ」のだということを覚えたいと思います。
 人が頑張って立とうとすることは、辛いこと、焦ること、果ては自暴自棄になること、他者を恨むこと、と難しいのです。セルフコントロール、自制することは難しいからです。自制、それは自分との戦い、心の葛藤。葛藤を持つことは、やがて心身共なる病を持つことになるのです。それが更に、他者との関わりの中での自己コントロールとなると、尚、至難の業でしょう。

「主イエスが立たせてくださる」それが「自律」することの意味です。私どもは、無理をしても駄目なのです。無理に自分でと思えば、心を病み、肉体を疲れさせ、立ち上がろうと思えば思うほど立ち上がれなくなるでしょう。
 そんな私どもが、主を感じるならば、主は力をくださって立たせてくださいます。立つのではありません。立たせてくださるのです。自らの思い、この世のしがらみに打ちひしがれるとき、そこで主を感じ、主に委ねるとき、私どもは力をいただいて、立つことが許されるのです。

なぜ、主を感じる、思うことによって立てるのでしょうか。それはそこで、がんじがらめな思いが解き放たれるからです。「委ねる」とは「解かれる」ことです。「解かれる」から、自分自身を見出せるのです。人は、主によって立つのです。自力で立つのではありません。
 私どもが主の憐れみを感じるとき、私どもは、力を抜くことができるのです。ですから覚えたい。力が無くて立てないのではありません。力が入りすぎて立てないのです。主によって、力を抜いていただいて、立てるのです。
 「人生を健やかに生きる」ことは、力んで生きることではありません。主イエスに担っていただいてこそ、真実な自分を生きられるのです。

 人が立つ時、自らがたつのではなく、主が立ち上がらせてくださる。立たせてくださるのです。主を思うことによって何故たてるのか?雁字搦めから解き放なたれるからです。主に委ねられた時、主の憐れみを感じたとき、立つことを許されるのです。
力が入りすぎて立てなかった。
人生を健やかに生きるのは、力んでではなく、主に委ねて生きる時です。
主に力をいただいて、シモンのしゅとめは癒され、立ち上がります。「彼女は一同をもてなした」とは、素晴らしいことです。ここで、彼女が主に感謝したとは語られておりません。彼女にとっての感謝は何か。それは「主イエスとその一行をもてなす」ことでした。彼女は、自分のできる仕方で、主への感謝を表しているのです。それが「もてなした」ということです。自分の与えられている賜物をもって感謝を表したということです。
 ここで、彼女の「感謝としてのもてなし」は、とても大きい出来事です。それは、彼女が、主イエスに対してだけではなく、他者に対しても「仕える者」となっているからです。神への感謝とは、そういう出来事です。主への感謝は、主への奉仕であり、同時に他者に仕えることなのです。

私どもはどうでしょうか。「できる」ことに対して、人はプライドを持ちます。ですから「自分にできることをする」ことは、案外難しいのです。「できるのだから、しなさい」と言われると、なかなかやらない。できることを素直になし得る、それは「感謝」がなければ、できないことなのです。人は「できる」だから「やる」のではありません。やれることをやらない、それはプライド高き人のあり方なのです。
 「感謝の行為」だから「奉仕」できるのです。それは自らが献げられるからです。何の見返りも求めない行いだからです。プライドがあれば、自分を表し、誉められることを求めるのです。
 信仰の姿勢は「献身」であることを覚えたいと思います。神への感謝をもって自らを献げることです。シモンのしゅうとめは、一同をもてなしました。それは感謝として、喜びに満ち溢れてのことです。もてなしをもって、彼女は自らを献げ、献身したのです。
 ですから、牧師になることだけが献身なのではありません。生活の中で、感謝をもって自らにできることをなす。それは献身の業なのです。
 教会の交わりは、奉仕する交わりです。しかし、その奉仕によって誉められようとすることは、プライドを求めることであって、それは教会の誉れではありません。それは教会の恥であることを覚えたいと思います。

32節「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」と記されております。日没を待って病人を連れて来たのは何故でしょうか。夜の暗闇に、病人を連れて歩くのは大変だったはずです。
 しかし、これには理由があります。日没前、それは安息日でした。ユダヤ教の一日は、日没から始まります。日没で安息日が終わって、次の日になって、安息日に禁じられていた労働ができるようになったのです。病人を連れて来ることも労働ですから、人々は、主がしゅうとめを癒されることを目の当たりにしても、日中には連れて来れませんでした。日が沈んで、人々は一気に主の許にやって来たのです。

33節「町中の人が、戸口に集まった」とは、素晴らしいことです。訳すると「町がこぞって、戸口に集まった」というニュアンスです。町ごと丸ごと、主の許に集まったということです。とても面白いことです。人々はこぞって、主イエスを必要としているのです。病ある者だけが主の前に集っているのではなく、健常な者も集っている。いえ、病を持たない者などいません。悪霊に取り憑かれない者もいない。神以外を神とする者は皆、悪霊に取り憑かれた者です。それらの者が主の前に集ったのです。

34節「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。主は憐れみ、多くの者を癒してくださいました。感謝です。

ここで、なぜ主は「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」のでしょうか。
 このとき、人々はまだ「十字架と復活」を知りません。十字架と復活の時はまだ来ていないのです。そこで、軽々しく、主のことを言うことは、主イエスが神であられることの不敬に当たるのです。
 私どもは、軽々しくおしゃべりをする愚かさを持つ者であることを知っておきたいと思います。私どもは、主に対する尊敬を持たなければなりません。ですから、主の名をみだりに呪文のように軽々しく使ってはならないのです。
 私どもあり方は、大変、浅はかです。知識で知っていることは、つい人に言いたくなるのです。しかし、弁えなければなりません。私どもが聖霊によって知らされたことは重いことです。福音をもって聴くべきその重い出来事を、おしゃべりによって軽いものとしてはならないのです。

主イエス・キリストの御名は「崇めるべき御名」であることを、弁え、覚えたいと思います。

キリストの最初の奇跡」 6月第3主日礼拝 2012年6月17日 
大木正人 牧師(山梨英和学院)
聖書/エレミヤ書 第31章10〜14節、
   ヨハネによる福音書 第2章1〜11節

エレミヤ書第31章<10節>諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした方は彼を集め/羊飼いが群れを守るように彼を守られる。」<11節>主はヤコブを解き放ち/彼にまさって強い者の手から贖われる。<12節>彼らは喜び歌いながらシオンの丘に来て/主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは穀物、酒、オリーブ油/羊、牛を受け/その魂は潤う園のようになり/再び衰えることはない。<13節>そのとき、おとめは喜び祝って踊り/若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変え/彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。<14節>祭司の命を髄をもって潤し/わたしの民を良い物で飽かせると/主は言われる。

ヨハネによる福音書 第2章<1節>三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。<2節>イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。<3節>ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。<4節>イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」<5節>しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。<6節>そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。<7節>イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。<8節>イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。<9節>世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、<10節>言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」<11節>イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

しばらく前に読んだ本に、“一人の作家が生涯をかけて追い求めるテーマは、最初の作品に何らかの形で出ているものである”とありました。最初の言葉や行動にはそれくらい大きな意味があるというのです。それに倣うなら、主イエスが最初に仰った言葉や、最初になさった業に注目するのは、そのお働きを理解するために意味あるものといえましょう。面白いことに新約聖書にある4つの福音書は、主イエスの最初の言葉や行動について、それぞれ大変特徴的な事を語っています。たとえば4つの福音書の中で一番遅い時期に書かれたとされる「ヨハネによる福音書」が、主イエスの最初の言葉として記しているのは、「何を求めているのか」、「来なさい。そうすれば分かる」というお言葉(1:38.39)です。“求める思いをもって、主イエスに従えば、大切な事がきっと分かる”。ヨハネ福音書は信じて従うことの大切さをこれによって語っているのでありましょう。

それではそのように告げられる主イエスが、公の場所で為された最初の業は何か。それをヨハネ福音書は、今日読んだ所で語っています。その出来事はヨハネ福音書にしかありません。

今からおよそ2000年前、主イエスがおられた頃のユダヤでは結婚式はだいたい水曜日に新郎の家で行い、その後1週間位、長い時には2週間近く家庭を開放して婚礼を催したそうです。結婚ということをどんなに喜び、大切にしていたかがうかがえますが、このための準備はかなり大変だったろうと思われます。準備は花婿側の責任でした。結婚は神様の恵みと祝福の出来事ですから、花婿にとっては一世一代の大仕事です。ましてや多くの客人を招く宴となれば、かなりお金も気も遣ったことでしょう。ふだんは貧しい生活を強いられた人々も、この日ばかりは、大いに食べて、飲んで、歌って、踊って、おしゃべりに花を咲かせます。新しい生活を始める二人の門出を祝うはずんだ声が婚礼を催す家からは湧き溢れます。そんなガリラヤのカナの村の輪の中に、主イエスと母と弟子達がいました。

ところがそんな楽しい集いが、ある一言で、俄かにざわめきます。「ブドウ酒が足りなくなった」のです。ブドウ酒は祝いの席には欠かせません。「ブドウ酒がなければ喜びはない」と教えるユダヤ教の先生もいたほどです。たかがブドウ酒、されどブドウ酒。めでたい席にブドウ酒がなくては不満が吹き出てしまいます。
 もちろんそういうことがないように、花婿達は精一杯準備をしたはずです。しかし人が行うことに完全はありません。そもそも準備不足だったのか。それとも予想を超える人々がお祝いに駆けつけてくれたのか。それとも花婿は、宴の途中でなくなってしまう位しか、最初からブドウ酒が買えなかったのか。そうだとしたら可哀想な事ですが、10節の言葉から想像すると、花婿が用意したブドウ酒は、必ずしも上等の良いブドウ酒ではなかったようですから、彼は良いブドウ酒を買いたくても買えなったのかもしれません。花婿は有り余る中から準備をしたのではなく、貧しい中、爪に火をともすように蓄えてきた財産を使って婚宴の準備をしたのかもしれません。彼は彼なりに精一杯頑張って準備をした。それでもって彼はありったけの感謝と喜びを示そうとした。しかし、案の定というか、予想に反して意外に早くというべきか、宴の途中で「ブドウ酒が足りなくなってしま」います。

こうした事情を知っていたのでしょうか。主イエスの母は、「ブドウ酒がたりなくなった」ことに気付いて心を痛めます。彼女は台所を手伝っていたのでしょうか。それともブドウ酒が足りなくなった席にいたのでしょうか。彼女は息子のイエスに「ブドウ酒がなくなりました」と伝えます。元の言葉では、「彼らはブドウ酒をもっていません」と書かれています。ここで言われている「彼ら」が、花婿を指すのか、それとも、招かれている人達を指すのか、正確には分かりません。どちらとも取れますが、おそらくは準備をしてきた花婿達のことでしょう。
 主イエスの母は婚礼の責任を負っている花婿達の困惑や不安を思って、息子に言ったのです。「彼らはブドウ酒をもっていません。」
 この言葉には母マリアの、息子イエスに対する期待が込められています。母はただ「ブドウ酒が足りなくなった」という事実を、他人事のように、客観的に報告しているのではありません。息子であるイエスに“何とかならないだろうか。このままでは花婿がかわいそうです。面目が立ちません。”と持ちかけているのです。何とかしてほしいという願いを込めて、母は息子に、「彼らはブドウ酒をもっていません」と告げたのです。
 華やかな宴がブドウ酒の不足で白け始めたのかもしれません。花婿を祝福する言葉に代わって、花婿の準備不足を非難する声が、出始めたのかもしれません。挙句の果てには、「だからあいつはダメなんだ」とか、「こんなことでは先が思いやられる」と言った心無い言葉さえ交わされ始めたのかもしれません。
 ただブドウ酒が足りなくなっただけなのに、それがさも重大な事であるかのようにものを言う、冷たい振る舞いに母マリアは心痛めたのかもしれません。これと似たようなことが、私達の周りにもよくあります。本当は大したことではないのに、本末転倒して人を非難するようなこと。冷静に見れば、取るに足りない些細なことなのに、それを理由にその人の人格を否定するような冷たい言動で責めてしまうこと。そんな過ちを犯したり、逆にそうした言葉や態度で傷ついた経験のある人は少なくありません。主イエスの母は、そうした人々の態度にいたたまれなくなって、息子のイエスに話しかけたのではないでしょうか。
 「ブドウ酒がたりなくなりました。」「彼らはブドウ酒をもっていません。」

これに対する主イエスの答えが、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです」という返事です。これは一見したところ実に冷たい言葉です。母はこの言葉にショックを覚えたかもしれません。いやこの言葉に戸惑うのは私達も同じです。およそイエス様らしくない言葉に思えます。そんなこともあってか、この言葉には幾つもの訳があります。
 たとえば、ある者は、ここを「お母さん、何をしてほしいのですか」と聞き返す感じに訳しています。また、ある者は、「女の人よ、そっとしておいて下さい」と退ける感じに訳しています。またある者は、「女よ、それが私とあなたにとってどうしたというのです」と、拒否する言葉に訳しています。さらには「だから、どうだというのですか」と突き放す感じの訳さえあります。それらの中でも、とりわけ興味深い訳に、「婦人よ、このことについて私とあなたとは考えが違います」という訳があります。
 「婦人よ、このことについて私とあなたとは考えが違います。」
 母親に対して「婦人よ」と呼びかけている所には、やはり少し戸惑いますが、しかしそれはべったりとした親子関係から距離を置く、主イエスの冷静さを示しているのかもしれません。それに続く、「このことについて私とあなたとは考えが違います」という言葉からは、主イエスが「ブドウ酒が足りなくなってしまった」ことを、さして重要とは考えていないことが分かります。主イエスはブドウ酒が足りなくなったことを気にかける母に向けてだけではなく、ブドウ酒が足りなくなったことが不満な人々に向けても、こう仰っているのではないでしょうか。
 「このことについて、私とあなたとは考えが違います。」「ブドウ酒が足りなくなったことが…だから、どうだというのですか。」
 このように言うことで、主イエスは、今、ここで一番大切なことに注意を向けさせたいのではないでしょうか。今、ここで一番大切こと。それはブドウ酒があることではありません。結婚する2人が祝福されることです。2人をみんなで祝福することです。それが一番大切なことのはずです。そのために人々はそこに来ているのです。主イエスも母もそのためにナザレからここに来ているのです。それなのに人々は、そしてお母さん、あなたまでがブドウ酒が足りなくなってしまったことが問題だと思われるのですか?主イエスはそう告げたいのではないでしょうか。
 「そんなことは関係ない。そんなことは、私は全然気にしない。」
 主イエスは、この言葉でもって、精一杯準備を進めてきた花婿達をいたわります。“ブドウ酒のことはまったく気にしなくてよい”。一方、たかがブドウ酒ごときで不満な人達には冷静さを求めて、「このことについて、私はあなたとは考えが違います。」「(ブドウ酒と祝福の間に、いったい)それが…どんな関わりがあるのですか。」だから、なのです。息子であるイエスに向かって、“何とかならないだろうか”と訴える母に、キリスト・イエスは、こう言われます。
 「お母さん、私の出る幕ではないのです。」
 これが、「私の時はまだ来ていません」という言葉に込められた主イエスの思いではないでしょうか。この箇所について書かれた解説を読むと幾つもの難しい説明がありますが、私にはこう言い代えると一番しっくりきます。主イエスの一見冷たく突き放すように感じられる言葉も、このように考えてみると、まことに情の深いものに思われます。イエス・キリストは、何が一番大切なのかをわきまえ、ご自分の出る幕を心得ておられるのです。

しかし、ここで、さらにも興味深いのは、それを聞いたマリアの態度です。彼女は主イエスの思いを無視してドンドン動いてしまいます。「しかし、母は召し使い達に『この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい』と言った。」
 何とも強引なお母さんです。主イエスの言葉を完全に無視しています。聞き流しています。このような母の態度に少しあきれた表情を浮かべて、苦笑する主イエスの姿がふと想像されます。しかしこの強引な母の行動がこの後の奇跡に繋がって行くのが、まことに興味深いところです。
 主イエスにとっては、ブドウ酒があるかないかは、どうでも良いことです。しかしブドウ酒が足りなくなって窮地に陥り、面目を失い、悲しんでいる花婿花嫁達は気にかかります。そして、そんな彼らの事をまるで自分のことのように心配している母にも主イエスは心を動かされたのでしょう。「私の出る幕ではありません」といったんは断った主イエスですが、ご自分の考えを改めて具体的な行動に出られます。主イエスは、たまたま近くにあった「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」に「水をいっぱい入れなさい」と召使い達に言われます。
 水がめの容量は、「いずれも2ないし3メトレテス入りのもの」であると説明されています。新共同訳聖書の後ろについている度量衡の説明を見ますと、1メトレテスは約39?とありますから、2ないし3メトレテスといえば大体80?〜120?です。それが6つあったというのですから、合計すれば約600?。かなりの量です。これだけの水を井戸から汲んで「かめの縁まで水を満たす」のは骨の折れる仕事です。本来はしなくて良いはずの余計な仕事です。しかし召し使い達はマリアの言葉に従って、主イエスが言われたように行動します。

奇跡はここから始まります。もし召使い達がマリアの言葉を聞き入れなかったら、もし彼らが主イエスに近づいて行かなかったら、そしてまた、もし彼らが労を惜しんで、主イエスの言葉に聞き従わなかったら、奇跡は起こりません。しかも彼らが井戸と水瓶の間を何往復もして、何百リットルもの水を満たし終えると、今度は、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と主イエスは言われます。ようやく水を入れ終わったと思ったら、今度は「それを汲んで…運んで行け」というのです。「だったら最初からそう言ってほしい」という召し使い達の呟きが聞こえるようです。しかし彼らはともかくも、言われたとおりにします。もし、彼らが、面倒くさがって主イエスの言葉を無視したら、奇跡のブドウ酒はみんなに届きません。私達は、主イエスの言葉を聞いた人々が、多少いぶかしく思い、ブツブツ呟きながらも、ともかく井戸から水を汲み上げ、何回も何回も重い水桶を運んで、甕を縁まで満たす地味な働きを続けたからこそ、ここでの奇跡が準備され、それを目の当たりにでき、そしてそのブドウ酒をみんなで思う存分味わうことができた事を覚えておきたいと思います。キリストの奇跡は主イエスの言葉に聞き従い、行動する人達を通して初めて実現する。奇跡のブドウ酒は主イエスの言葉を信じて働く人々の手の中で起こる。キリストの奇跡は信じて働く人々を通して分かちあわれます。
 召使い達が手にする器の中には、「ブドウ酒に変わった水」があります。器からは、きっと芳醇なブドウ酒の馥郁たる香りが広がっていたことでしょう。彼らは、この不思議な出来事に戸惑い、驚きのあまり何も言えないまま「ブドウ酒に変わった水」を宴会の世話役の所に持って行きます。世話役は運ばれてきたブドウ酒の味見をします。それは前に出したものとは比べられないほどに素晴らしい、上質のブドウ酒でした。驚いた世話役は、「花婿を呼んで言います。『誰でも初めに良いブドウ酒を出し、酔いが回った頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いブドウ酒を今まで取って置かれました!』」世話役は最高の言葉で花婿を褒めます。
 “あなたは真実で、ごまかしのない人だ。しかもそれを微塵も自慢しない。あなたは何と謙虚で立派な人だろう!実に頼もしい花婿だ!!すばらしい!!!”
 世話役は花婿を高く高く評価します。しかしその言葉に何を言われているのか理由が分からない花婿は、多分きょとんとしている。でも褒められて悪い気はしない。思わず顔がほころんでしまう。その様子を主イエスは遠くから微笑みながら見守っておられる。主イエスもまた、決して、ご自分が水をブドウ酒に変えたとは仰いません。それどころか主イエスは、そもそも、ブドウ酒のことなど最初は全く必要とも思ってもおられなかったのです。しかしそんな主イエスがこの奇跡を起こされたのは、花婿達を祝福するためです。ブドウ酒が足りなくなったことで途方に暮れ、悲しんでいる、本当は祝福されるべき人達の名誉を守り、何とかしてあげたいからです。そのために、主イエスはご自分の思いさえ変えて、極上のブドウ酒を彼らに提供されます。芳醇なブドウ酒は、主イエスから贈られる祝福のしるしです。しかも、それは、どこにでもあるありふれた水から生まれた最高のブドウ酒です。そしてこのブドウ酒は、主イエスの言葉を聞いて、一所懸命に水を汲み上げ運んだ召使い達の労苦を通してもたらされました。

イエス・キリストが為された、最初の、そして、公の出来事は、このようにして、辺境の貧しい土地、ガリラヤのカナの祝宴の席で起こった!これがヨハネ福音書のメッセージです。この出来事は祝福されるべき人々の悲しみを放っておけない一人の女性の優しさから始まり、主イエスの言葉を受けとめて行動した人々の労を通して実現した奇跡だ。このようにして、主「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」それは今も変わらない!
 イエス・キリストの栄光は、悲しむ人々に寄り添う一人から始まり、退けられてもそれを訴える熱意を介して強められ、キリストの言葉に聞き従う一人一人の働きを通して、この世界に示される。ヨハネ福音書が語る主イエスの最初の奇跡は、婚礼という大きな喜びを祝福されるキリストの業として告げられます。ここには、神様が、イエス・キリストを通して、この世界を喜び祝福しておられることが示されています。キリストの栄光はそのためのものです。それを現す器として、イエス・キリストは私達一人一人を用いられます。

昔、ある人が、ここでの奇跡の物語をあざ笑って、キリスト者にこう言ったそうです。「6つの大きな水瓶に口一杯のブドウ酒ならば500〜600?はあったろう。そんなに膨大な量のブドウ酒を一体婚礼の客達は飲み切れたのか?何と馬鹿げた話だろう。」
 これに対して、そのキリスト者はこう答えたそうです。「そう、確かに飲みきれなかった。だからこそ、私達はみな、今日もなおそこから飲んでいるのです。」
 その通り。私達は今もなお、このイエス・キリストからあふれるほどに注がれる汲めども尽きない恵みと祝福を、世にある人々と分かちあうために、ここに集い、そしてここからそれぞれの場所へと遣わされて行きます。イエス・キリストは、私達が、このことを心に記して、真理を携えて共に歩むことを望んでおられます。

「来てみなさい。そうすれば分かる。」これが主イエスの最初の言葉です。この言葉をもってイエス・キリストは今日も私達を招いておられます。

人里離れた所」 6月第4主日礼拝 2012年6月24日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章35〜39節

<35節>朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。<36節>シモンとその仲間はイエスの後を追い、<37節>見つけると、「みんなが捜しています」と言った。<38節>イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」<39節>そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

35節、主イエスは祈るために、朝早く起きておられます。まだ弟子たちも起きていない時間ということです。
 人々が主に癒しを求めて押しかけておりましたから、人と同じ時間に起きたのでは、祈れたかどうか分りません。ですから主イエスは、誰にも、弟子たちにも気付かれない時間に起きられたことが記されております。そして、祈るために出かけられました。私どもは、主イエスがそれ程までに「祈り」を必要としておられたことを覚えなければなりません。私どもは心痛みます。私どもは、祈ることなく済まして生きていないでしょうか。主の弟子であるにもかかわらず、神から遠いのです。主イエスが祈っておられるのですから、主の弟子(キリスト者)は、祈りを必要とするべき者のはずです。
 主イエスは、何にもまして神との交わりを大事にしておられます。人々が主に癒しを求め、人々から頼られているのですから、私どもの思いからすれば、先ずは「その人々のために」と思うことでしょう。しかし主イエスは、それ以上に「神のために、神を第一として」おられる。神との関係こそが第一であることを、ここに主は示してくださっているのです。
 主へと心を向けることによって、私どもは解き放たれます。解き放たれるから、だから「他者へと心を向ける」ことができるのです。神無しでは、私どもは束縛を受ける、いえ自ら束縛し、他者との関わりを杓子定規にしようとしてしまうのです。私どもは、解き放たれなければ、本当に自由な他者との良い交わりを持つことはできません。ですから、人との関わりが多ければ多いほどに、私どもには祈ることが必要なのです。

ここで「人里離れた所」と記されておりますが、「人里離れた」を「寂しい」と訳する場合もあります。この「寂しい」という言葉も魅力的です。「寂しい」とは「孤独」を表すからです。人との交わり以上に神との交わりが大事であることを示すためには「人里離れた所」で良いでしょう。しかし主イエスが「孤独の中に立ってくださる方である」という意味では「寂しい所」という訳も良いのです。

主イエスは「父なる神と一つなる方」「父の御心こそが主イエスの御心」ですから、主イエスは祈りなくしてはいられないのです。主イエスは、人々との交わりでは満たされておられない。主は「神との交わりによって」満たされるのです。
 人々は押しかけて来ます。しかし、主イエスが来られたのは癒しが目的なのではありません。人々の「救い」のために来られたのです。癒す力ある方として人々を「癒す」ということではありません。癒しは「主の憐れみ」です。病の癒し、それは悪霊の支配から人々を解き放つ出来事として大事なのです。「癒し」には2つの意味があります。一つは「主イエスの憐れみ」です。そして、その憐れみによって人々が悪霊から解き放たれる、それは「神の権威」が示されることです。けれども、癒しそのものが主のあり方なのではありません。

主イエスは神の御心によって「私どもの救いのために」来られました。ですから主が祈られる、その祈りの根拠は「神」です。「神の御心を畏む者」として祈っておられるのです。「神の御心としての業」が「救い」であることを、主イエスは知っておられます。

私どもに示されていることは何でしょうか。祈りが主イエスを満たしております。「祈り」とは「神を拠り所とするあり方」です。「神を拠り所とする」ことによって、私どもは満たされるのだということを覚えたいと思います。私どももまた、主イエスと同じく、祈り、神との交わりによって満たされるのです。
 私どもは、自分の思いを披瀝することが祈りだと勘違いするのですが、そうではありません。私どもが祈り満たされる根拠は「神の御心を畏む」ことです。神との語らいとは、自分の思いを神に押し付けたり、望みを神に知っていただくことではありません。神の御心を畏むことです。

私どもは、神から賜物を与えられて生きているのです。私どもは皆、神により、意味ある者として存在しているのです。ですから、その人だけが表し得る栄光があります。神から与えられた賜物とは、神の栄光を現すものです。ですから賜物を与えられて生きているということは、一人ひとり皆、意味ある存在を与えられているということなのです。
 今の社会では、損得が大事であって皆自分の利益を求める、だから人の尊厳は失われます。一人ひとりが神の栄光を現す大切な存在として賜物を与えられ、この世に使命を与えられている。しかしそれは、与えてくださっている神によってのみ、示されて知ることができるのです。この世にあって自分がどれほど尊い存在なのかということは、神に祈ることによって初めて知る恵みなのです。

ですから、祈りとは、私どもの自然な「なりわい」です。命と存在をくださった神に祈ることは、私どもにとって自然なことなのです。それゆえに「祈りに生きる」ことこそが、人が人であるということです。

人は愚かにも、自分本位に自分の思いや願望を並べ立てて祈ってしまいます。しかし、そうしてはいけないわけではありません。人とはそういう存在に過ぎないのです。だからこそ、それは恵み深いことです。思いを並べ立てるしかない、だから「神の御心を求めざるを得なくなる」からです。
 もしも自分の思いを吐き出せなかったら、自分の力で神の御心を知ろうとしたり、これが御心に違いないからしようと、行いを善として立てようとする。善においても、いえ、善においてこそ、人は罪深いのです。並べ立てて、吐き出して知る、自分の醜さを知ります。だからこそ、吐き出して良いのです。自分の罪が言い表されるのです。
 旧約聖書、ヤコブの祈りは我の強い祈りでした。欲しいものを手に入れるために、神に何とかして欲しいと祈るのです。しかし、そのヤコブは祝されます。そして知ったのです。神の祝福なくしては、憐れみなくしては済まされないことを知ったのです。神の御心を頂くことこそが幸いであることを知ったのです。そうするしかない、それ程までに罪深い者として自らの罪を知る、だからこそ、神の御心に飢え渇く、神の御心を必要とする者であることを覚えたいと思います。

主イエスが祈っておられる、そこに36節「シモンとその仲間はイエスの後を追い」と記されております。「シモンとその仲間」とは「弟子たち」のことですが、どうして「弟子たち」と記されないのでしょうか。
 「後を追い」という言葉が難問です。ここでの「追い」は、正確に訳すと「悪意をもって追いかける」という意味合いです。主の弟子たちが「悪意をもって追いかけた」のでしょうか。「悪意」という意識を持っていたでしょうか。分り易く「後を追い」と訳されていますが、本当は聖書は「悪意をもって」と言っているのです。
 37節を見ますと、弟子たちは「見つけると、『みんなが捜しています』と言った」と記されております。「主イエスを見つけて喜んだ」とは記されない。「捜していた」と主を責めているのです。
 「99匹の羊」に示されるように、主イエスは、私どもを見つけて喜んでくださる方です。しかし、人々は主を見つけて喜ばないのです。マルコによる福音書は、この「悪意をもって追う」という言葉を9回使っています。人々が主イエスを求める捜し方は「悪意のある追い方」だというのです。もちろん、人々は自分が悪意を持っているとは思っておりません。それなのに「悪意をもって」という言葉を使っている、それは「人々の無理解」を示しております。人の「無理解」を「悪意」と表しているのです。弟子たちは「主イエスを理解していない」。主を見つけて、「主イエスは祈っておられたのか」と思えずに、「主はどこで何をしていたのか」と思うのです。

私どもは、本当に主イエスを「救い主」と理解して、主を求めているでしょうか。自分にとって都合の良い方として求めているのではないでしょうか。それが「悪意・敵意」として示されているのです。だからこそここで、弟子たちは「弟子」と言われず「シモンとその仲間」と記されております。
 弟子たちは、無理解に主を求めております。主は祈っておられる。その主イエスの御心に反して、主を求めているのです。しかし主イエスは、それらの思いに応えてくださる方です。神に敵対する者の思いを受け止めてくださるのです。そして、神に敵対し、神の御心に反する者をも「弟子」としていてくださるのです。何という大いなることでしょう。

私どもは、理解して欲しいとばかり思う者です。しかし主イエスは、理解できない、理解しようとしない者を見捨てず、救ってくださる方。まさしく私どもの理解を超えた大いなる方であることが、ここに示されております。
 無理解ゆえに悪意・敵意ある者、主に反するしかない者であることが、この「後を追い」という言葉で示されていることです。それでも「弟子とされている」とは、感謝のほかありません。「それでも弟子とされている」ことを、改めて感謝したいと思います。

弟子でさえ理解できない、それ程に、主のあり方は孤独です。主は理解されない方、人には理解できない方、それゆえに、主イエスはこの世にあって孤独です。「人里離れた所、寂しい所」とは、主の孤独を表しているのです。主は、人々の中にあって満たされることはありません。人々は無理解です。無理解な者が主に癒されて喜ぶ、癒しによる喜びがあったとしても、主は満たされません。本当の意味で満たされないゆえに、一層の孤独を深めるのです。それ程までに、主イエスは孤独な方です。孤独な方として「父なる神との交わりを必要としておられる」のです。父なる神は、主イエスを知っておられます。そして、主イエスも神の御心を知っておられる、だからこそ「祈りにおいて」主は満たされるのです。

主イエスを見つけた弟子たちに、主イエスは言われます。38節「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。主イエスは、弟子たちの無理解を受け止めておられます。「お前たちのために祈っていたのではないか」と言って、弟子たちの無理解を責めたりはなさらないのです。そして、そうではなくて「近くのほかの町や村へ行こう」と言われる。ご自分は癒し人ではなく「福音を宣べ伝える者である」と言っておられるのです。ここで、主イエスは「福音によって人々を救う方である」ことが明らかにされております。
 この会話はちぐはぐです。「捜していたのか。では、人々のところへ行こう」とは言われない。「ほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する」と言われる。「福音」は「宣べ伝えられる」のです。「宣教」とは「悪霊を追い出す」ことと一つのこととされております。宣教によって神の支配が起こる、そこで悪霊は追放されるからです。

今日は最後に、「癒し」とは何か、考えたいと思います。私は幸か不幸か、病を得ました。そして知りました。癒されることによって、却って、自らが必ず病を負う者であることを知ったのです。癒されることがなければ、病を負う者であることを知りません。癒されることによって、しかしそれは完全な癒しではないことを知る、自らが病む者であることを知るのです。それゆえに「病の癒し」は一時的なものであることを知ります。
 病を得ることは、そこで「魂の癒しこそが、真実な癒しである」ことを知ることです。病むことは、癒しを繰り返し必要とする存在であるということを知ること。癒されたということは、また病むということを知るのです。しかしそこで、どんな淵にあったとしても、私どもは「慰められる者である」ことを知ります。病み、癒されて、癒され切れない存在であることを知り、ただ「福音の宣教」によってのみ「真実の癒し、主イエス・キリストの救いを知る」のです。
 宣べ伝えられた福音を信じることによって、真実な魂の癒しを得るのです。

そして覚えたい。「主イエス・キリストの救い」は「死を超えた真実の救い、癒しである」ことを感謝をもって覚えたいと思います。