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前回、23節から28節までを十分にお話しできませんでしたので、区切りが不自然と思われるかも知れませんが、今日は23節から、まず聴いていきたいと思います。 主イエスが安息日の礼拝のために会堂に入っておられます。そこに、23節「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」と記されております。本来、汚れた霊は、会堂という聖なる場所には居られないはずですので、ここには有り得ないことが起こっていることが記されているのです。汚れた霊=「悪霊」と言えども、主イエスを無視はできない、主の前に立たざるを得ない、ひざまづかずにはいられないということです。 悪霊の存在意義とは何でしょうか。私どもは、悪しきものに存在の意味などないと思っておりますが、そうではありません。 主イエスは、25節「この人から出て行け」と、悪霊に命じられますが、「滅びよ」とは言っておられません。悪霊が自ら滅びることはあっても、主が滅びを命じてはおられないのです。悪霊とは、主イエスの存在によって、自ずと滅びる者です。神との交わりを失い、苦しみ、飢え渇きを覚える人が、主によって救われる恵みを知るならば、もはや神から遠ざかる必要はありません。ですから、悪霊はその存在意味を失うのです。それほどまでに、主の福音は圧倒的な恵みの出来事であることを覚えたいと思います。 悪霊のいない社会は危うい社会です。悪霊を失うということは、同時に神を失うことだからです。悪霊を失えば、人は、自分が神から遠いということを感じなくなる。悪霊を信じない社会は、飢え渇きを覚えない社会なのです。まだ、悪霊の力を感じる方がましだと思います。宗教改革者マルティン・ルターは、悪霊を感じて、壁にインク壷を投げつけました。それほどまでに悪霊の力を感じたことが、神を深く求めること、信仰の自覚を持つことの大切さに至り、宗教改革へと至るのです。カトリック教会では、信者は年に一度、懺悔の時を持てば良く、個人の信仰の自覚を問われることはありません。個人の信仰は教会の信仰であると言えば良いのです。けれども、私どもプロテスタント教会の信仰は、自らの信仰を言い表さなければなりません。信仰の自覚が重んじられれば、悪霊の力ということも思わなければならないのです。神から遠いことの自覚を持つことは、自らの信仰の自覚に立つことであり、大事なことです。 24節、悪霊は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。主は「滅ぼす」と言っていないにもかかわらず、悪霊は自ら滅びると思っているのです。「正体は分っている」と悪霊は言いますが、当時、相手の名を正しく言うことは、相手を支配できることと思われておりました。しかしここで、悪霊が主イエスを「神の聖者だ」と言ったことは、断末魔の叫びであり、存在を失う恐怖を感じているのです。主を「聖者」だと正しく知っていても、主を支配できないのです。悪霊は、主に従う者だとしても、主を支配する者ではありません。主イエスは神の子であり救い主、神なる方として主権者です。主権者たる主を、その名を知っていたとしても支配することはできません。人を神から遠ざけるという働きによって、悪霊は神に仕えているのです。 25節、主イエスは悪霊に「黙れ、出て行け」と言われます。人が主イエスを救い主だと理解できるのは、悪霊の力によるのではありません。「聖霊の力」によるのです。それは、神が臨み、神が働かれるということです。 26節「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と言われます。けいれんを起こし、大声をあげている姿は、悪霊に取りつかれた可哀想な姿だと見えますが、そうではありません。これは、悪霊が出て行ったことの印なのです。 27節「人々は皆驚いて、論じ合った」。人々は、悪霊が出て行ったことが分ったので、驚きました。この「驚いた」ということは大事なことですが、「論じ合った」ことは論外です。主イエスの出来事は信じるべきことであって、論ずることではないからです。「驚き」がなぜ大事かと言いますと、この「驚き」が無ければ、28節の「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」ということは起こらないからです。 さて、29節に「すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った」と記されております。安息日の礼拝を終えて、「すぐに」主イエスの一行が向かったのは「シモンとアンデレの家」だと言うのです。しかしこれは、少しおかしくないでしょうか。16節〜を読みますと、漁師だったシモンとアンデレは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスの御言葉に従って、「二人はすぐに網を捨てて従った」と記されております。全てを捨てて主イエスに従ったはずの「シモンとアンデレ」が、主と共に自分の「家」に帰るのです。 ここで、私どもは知ります。二人が「網を捨てて従った」ということは、「生活の糧を捨てた」ということです。けれども二人は、家族を捨てたのではなかったのです。私どもは、16節以下を読みながら、二人は生活の糧も家族も何もかも捨てて主に従ったと思い込んでしまうのですが、そうではないことを、ここで読み取らなければなりません。 そして、29節以下で示されることは何か。シモンとアンデレが主を信じ従うことは、彼らの「家族も救われる」ことだということです。神に依り頼むこと、それは、その人だけではなく、その家族をも救うことなのです。 私どもは、この「網を捨てて従う」というところで、私どもも伝道者にならなければならないのだと錯覚しているところがありますが、そうではありません。日常生活を送る私どもも、主の弟子となれるのです。 安息日の礼拝を終えて、まず最初に、主イエスが「シモンとアンデレの家」に行かれたということ、これも印象深い出来事であることを覚えたいと思います。なぜならば、主の救いは、信じる者にとどまらない、家族にも及ぶ恵み深い出来事だからです。 |
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29節「一行」とは、主イエスと、主が弟子として召されたシモン、アンデレ、ヨハネ、ヤコブの4人です。一行は「シモンとアンデレの家」に行きました。安息日にラビ(教師)を迎えることは、その家の誉れであり、多くの家でなされたことです。ですからここで、「シモンとアンデレの家」も、ラビ以上の方、主イエスを迎えるのですから、田舎の敬虔な信仰深い家であるということが分るのです。 私どもは「あなたが信じれば、あなたもあなたの家族も救われる」という御言葉を知っております。一人の人が信仰を持つことは、その家族、その家も、主の栄光に与る場とされる、神が働かれる場とされるということを意味しております。このことは、家族単位の信仰者の多い私どもの教会にとって、大切な示しです。家庭には様々なことがありますが、その家庭がどのような状況にあったとしても、主が各々の家を祝してくださったからこそ、栄光を現してくださったからこそ、家族単位の信仰が与えられるという恵みに与っているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 30節、一行が家に入ると、人々は早速、熱を出したシモンのしゅうとめのことを主イエスに話したと記されております。これもまた麗しいことです。考えてみてください。その家の主婦が臥しているということは、お客様をもてなす人がいないということです。普通ならば、迎えることを避けようとするかもしれません。 祈りにおいて、私どもは、主に話すのです。そこで私どもがどのような思いで話すとしても、主イエスは、その祈りを「委ねられたもの」として受け止め、慈しんでくださいます。 ここで、主イエスが「手を取って起こされた」とは、印象的です。人が「起きる、立つ」とはどういうことなのか、示されております。人は、自分の力で立つのではありません。主イエスの御手をいただいて、人は立つのです。「主が力をくださって立つ」のだということを覚えたいと思います。 「主イエスが立たせてくださる」それが「自律」することの意味です。私どもは、無理をしても駄目なのです。無理に自分でと思えば、心を病み、肉体を疲れさせ、立ち上がろうと思えば思うほど立ち上がれなくなるでしょう。 なぜ、主を感じる、思うことによって立てるのでしょうか。それはそこで、がんじがらめな思いが解き放たれるからです。「委ねる」とは「解かれる」ことです。「解かれる」から、自分自身を見出せるのです。人は、主によって立つのです。自力で立つのではありません。 人が立つ時、自らがたつのではなく、主が立ち上がらせてくださる。立たせてくださるのです。主を思うことによって何故たてるのか?雁字搦めから解き放なたれるからです。主に委ねられた時、主の憐れみを感じたとき、立つことを許されるのです。 私どもはどうでしょうか。「できる」ことに対して、人はプライドを持ちます。ですから「自分にできることをする」ことは、案外難しいのです。「できるのだから、しなさい」と言われると、なかなかやらない。できることを素直になし得る、それは「感謝」がなければ、できないことなのです。人は「できる」だから「やる」のではありません。やれることをやらない、それはプライド高き人のあり方なのです。 32節「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た」と記されております。日没を待って病人を連れて来たのは何故でしょうか。夜の暗闇に、病人を連れて歩くのは大変だったはずです。 33節「町中の人が、戸口に集まった」とは、素晴らしいことです。訳すると「町がこぞって、戸口に集まった」というニュアンスです。町ごと丸ごと、主の許に集まったということです。とても面白いことです。人々はこぞって、主イエスを必要としているのです。病ある者だけが主の前に集っているのではなく、健常な者も集っている。いえ、病を持たない者などいません。悪霊に取り憑かれない者もいない。神以外を神とする者は皆、悪霊に取り憑かれた者です。それらの者が主の前に集ったのです。 34節「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」。主は憐れみ、多くの者を癒してくださいました。感謝です。 ここで、なぜ主は「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」のでしょうか。 主イエス・キリストの御名は「崇めるべき御名」であることを、弁え、覚えたいと思います。 |
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しばらく前に読んだ本に、“一人の作家が生涯をかけて追い求めるテーマは、最初の作品に何らかの形で出ているものである”とありました。最初の言葉や行動にはそれくらい大きな意味があるというのです。それに倣うなら、主イエスが最初に仰った言葉や、最初になさった業に注目するのは、そのお働きを理解するために意味あるものといえましょう。面白いことに新約聖書にある4つの福音書は、主イエスの最初の言葉や行動について、それぞれ大変特徴的な事を語っています。たとえば4つの福音書の中で一番遅い時期に書かれたとされる「ヨハネによる福音書」が、主イエスの最初の言葉として記しているのは、「何を求めているのか」、「来なさい。そうすれば分かる」というお言葉(1:38.39)です。“求める思いをもって、主イエスに従えば、大切な事がきっと分かる”。ヨハネ福音書は信じて従うことの大切さをこれによって語っているのでありましょう。 それではそのように告げられる主イエスが、公の場所で為された最初の業は何か。それをヨハネ福音書は、今日読んだ所で語っています。その出来事はヨハネ福音書にしかありません。 今からおよそ2000年前、主イエスがおられた頃のユダヤでは結婚式はだいたい水曜日に新郎の家で行い、その後1週間位、長い時には2週間近く家庭を開放して婚礼を催したそうです。結婚ということをどんなに喜び、大切にしていたかがうかがえますが、このための準備はかなり大変だったろうと思われます。準備は花婿側の責任でした。結婚は神様の恵みと祝福の出来事ですから、花婿にとっては一世一代の大仕事です。ましてや多くの客人を招く宴となれば、かなりお金も気も遣ったことでしょう。ふだんは貧しい生活を強いられた人々も、この日ばかりは、大いに食べて、飲んで、歌って、踊って、おしゃべりに花を咲かせます。新しい生活を始める二人の門出を祝うはずんだ声が婚礼を催す家からは湧き溢れます。そんなガリラヤのカナの村の輪の中に、主イエスと母と弟子達がいました。 ところがそんな楽しい集いが、ある一言で、俄かにざわめきます。「ブドウ酒が足りなくなった」のです。ブドウ酒は祝いの席には欠かせません。「ブドウ酒がなければ喜びはない」と教えるユダヤ教の先生もいたほどです。たかがブドウ酒、されどブドウ酒。めでたい席にブドウ酒がなくては不満が吹き出てしまいます。 こうした事情を知っていたのでしょうか。主イエスの母は、「ブドウ酒がたりなくなった」ことに気付いて心を痛めます。彼女は台所を手伝っていたのでしょうか。それともブドウ酒が足りなくなった席にいたのでしょうか。彼女は息子のイエスに「ブドウ酒がなくなりました」と伝えます。元の言葉では、「彼らはブドウ酒をもっていません」と書かれています。ここで言われている「彼ら」が、花婿を指すのか、それとも、招かれている人達を指すのか、正確には分かりません。どちらとも取れますが、おそらくは準備をしてきた花婿達のことでしょう。 これに対する主イエスの答えが、「婦人よ、私とどんなかかわりがあるのです」という返事です。これは一見したところ実に冷たい言葉です。母はこの言葉にショックを覚えたかもしれません。いやこの言葉に戸惑うのは私達も同じです。およそイエス様らしくない言葉に思えます。そんなこともあってか、この言葉には幾つもの訳があります。 しかし、ここで、さらにも興味深いのは、それを聞いたマリアの態度です。彼女は主イエスの思いを無視してドンドン動いてしまいます。「しかし、母は召し使い達に『この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい』と言った。」 奇跡はここから始まります。もし召使い達がマリアの言葉を聞き入れなかったら、もし彼らが主イエスに近づいて行かなかったら、そしてまた、もし彼らが労を惜しんで、主イエスの言葉に聞き従わなかったら、奇跡は起こりません。しかも彼らが井戸と水瓶の間を何往復もして、何百リットルもの水を満たし終えると、今度は、「さあ、それを汲んで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と主イエスは言われます。ようやく水を入れ終わったと思ったら、今度は「それを汲んで…運んで行け」というのです。「だったら最初からそう言ってほしい」という召し使い達の呟きが聞こえるようです。しかし彼らはともかくも、言われたとおりにします。もし、彼らが、面倒くさがって主イエスの言葉を無視したら、奇跡のブドウ酒はみんなに届きません。私達は、主イエスの言葉を聞いた人々が、多少いぶかしく思い、ブツブツ呟きながらも、ともかく井戸から水を汲み上げ、何回も何回も重い水桶を運んで、甕を縁まで満たす地味な働きを続けたからこそ、ここでの奇跡が準備され、それを目の当たりにでき、そしてそのブドウ酒をみんなで思う存分味わうことができた事を覚えておきたいと思います。キリストの奇跡は主イエスの言葉に聞き従い、行動する人達を通して初めて実現する。奇跡のブドウ酒は主イエスの言葉を信じて働く人々の手の中で起こる。キリストの奇跡は信じて働く人々を通して分かちあわれます。 イエス・キリストが為された、最初の、そして、公の出来事は、このようにして、辺境の貧しい土地、ガリラヤのカナの祝宴の席で起こった!これがヨハネ福音書のメッセージです。この出来事は祝福されるべき人々の悲しみを放っておけない一人の女性の優しさから始まり、主イエスの言葉を受けとめて行動した人々の労を通して実現した奇跡だ。このようにして、主「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。」それは今も変わらない! 昔、ある人が、ここでの奇跡の物語をあざ笑って、キリスト者にこう言ったそうです。「6つの大きな水瓶に口一杯のブドウ酒ならば500〜600?はあったろう。そんなに膨大な量のブドウ酒を一体婚礼の客達は飲み切れたのか?何と馬鹿げた話だろう。」 「来てみなさい。そうすれば分かる。」これが主イエスの最初の言葉です。この言葉をもってイエス・キリストは今日も私達を招いておられます。 |
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35節、主イエスは祈るために、朝早く起きておられます。まだ弟子たちも起きていない時間ということです。 ここで「人里離れた所」と記されておりますが、「人里離れた」を「寂しい」と訳する場合もあります。この「寂しい」という言葉も魅力的です。「寂しい」とは「孤独」を表すからです。人との交わり以上に神との交わりが大事であることを示すためには「人里離れた所」で良いでしょう。しかし主イエスが「孤独の中に立ってくださる方である」という意味では「寂しい所」という訳も良いのです。 主イエスは「父なる神と一つなる方」「父の御心こそが主イエスの御心」ですから、主イエスは祈りなくしてはいられないのです。主イエスは、人々との交わりでは満たされておられない。主は「神との交わりによって」満たされるのです。 主イエスは神の御心によって「私どもの救いのために」来られました。ですから主が祈られる、その祈りの根拠は「神」です。「神の御心を畏む者」として祈っておられるのです。「神の御心としての業」が「救い」であることを、主イエスは知っておられます。 私どもに示されていることは何でしょうか。祈りが主イエスを満たしております。「祈り」とは「神を拠り所とするあり方」です。「神を拠り所とする」ことによって、私どもは満たされるのだということを覚えたいと思います。私どももまた、主イエスと同じく、祈り、神との交わりによって満たされるのです。 私どもは、神から賜物を与えられて生きているのです。私どもは皆、神により、意味ある者として存在しているのです。ですから、その人だけが表し得る栄光があります。神から与えられた賜物とは、神の栄光を現すものです。ですから賜物を与えられて生きているということは、一人ひとり皆、意味ある存在を与えられているということなのです。 ですから、祈りとは、私どもの自然な「なりわい」です。命と存在をくださった神に祈ることは、私どもにとって自然なことなのです。それゆえに「祈りに生きる」ことこそが、人が人であるということです。 人は愚かにも、自分本位に自分の思いや願望を並べ立てて祈ってしまいます。しかし、そうしてはいけないわけではありません。人とはそういう存在に過ぎないのです。だからこそ、それは恵み深いことです。思いを並べ立てるしかない、だから「神の御心を求めざるを得なくなる」からです。 主イエスが祈っておられる、そこに36節「シモンとその仲間はイエスの後を追い」と記されております。「シモンとその仲間」とは「弟子たち」のことですが、どうして「弟子たち」と記されないのでしょうか。 私どもは、本当に主イエスを「救い主」と理解して、主を求めているでしょうか。自分にとって都合の良い方として求めているのではないでしょうか。それが「悪意・敵意」として示されているのです。だからこそここで、弟子たちは「弟子」と言われず「シモンとその仲間」と記されております。 私どもは、理解して欲しいとばかり思う者です。しかし主イエスは、理解できない、理解しようとしない者を見捨てず、救ってくださる方。まさしく私どもの理解を超えた大いなる方であることが、ここに示されております。 弟子でさえ理解できない、それ程に、主のあり方は孤独です。主は理解されない方、人には理解できない方、それゆえに、主イエスはこの世にあって孤独です。「人里離れた所、寂しい所」とは、主の孤独を表しているのです。主は、人々の中にあって満たされることはありません。人々は無理解です。無理解な者が主に癒されて喜ぶ、癒しによる喜びがあったとしても、主は満たされません。本当の意味で満たされないゆえに、一層の孤独を深めるのです。それ程までに、主イエスは孤独な方です。孤独な方として「父なる神との交わりを必要としておられる」のです。父なる神は、主イエスを知っておられます。そして、主イエスも神の御心を知っておられる、だからこそ「祈りにおいて」主は満たされるのです。 主イエスを見つけた弟子たちに、主イエスは言われます。38節「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。主イエスは、弟子たちの無理解を受け止めておられます。「お前たちのために祈っていたのではないか」と言って、弟子たちの無理解を責めたりはなさらないのです。そして、そうではなくて「近くのほかの町や村へ行こう」と言われる。ご自分は癒し人ではなく「福音を宣べ伝える者である」と言っておられるのです。ここで、主イエスは「福音によって人々を救う方である」ことが明らかにされております。 今日は最後に、「癒し」とは何か、考えたいと思います。私は幸か不幸か、病を得ました。そして知りました。癒されることによって、却って、自らが必ず病を負う者であることを知ったのです。癒されることがなければ、病を負う者であることを知りません。癒されることによって、しかしそれは完全な癒しではないことを知る、自らが病む者であることを知るのです。それゆえに「病の癒し」は一時的なものであることを知ります。 そして覚えたい。「主イエス・キリストの救い」は「死を超えた真実の救い、癒しである」ことを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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