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16節、主イエスがガリラヤ湖畔を歩いておられます。 このことは、私どもにとっても同じことです。主イエスの福音を聴く、この「礼拝」の場が、神の支配の場となっていることを覚えたいと思います。私どもにとっては何の変わりもない日常ですが、そこに神の支配が始まっているとは感謝です。人にばかり目を向けていれば、救いを見出すことはできません。しかし、この「礼拝」の場に「神の支配が臨んでくださっている」のです。それは、この甲府の地にも、主が臨んでくださっているということです。そういう意味で「主イエスが歩かれる」ことの幸いを思います。 主は歩きながら、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」と記されております。彼らは漁師でした。ここで面白いことが言われております。「シモンとシモンの兄弟アンデレ」と名を記されているのです。ただ単に「漁師たちが漁をしている」と、その場の風景、一コマの場面を記しているのではありません。主イエスは、漁師たちの漁の場面を見ているのではなく、「シモンとアンデレを見ておられる」のです。 「漁師が網を打っている」、それは漁師にとって当たり前な日常の出来事です。 17節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主イエスは、シモンとアンデレを弟子とし、ご自分のなさる業を託すると約束してくださっております。「人間をとる(漁る、すなどる)」とは、エレミヤ書では「裁く」ためにすることと言われております。私どもは、この「人間をとる」は、「弟子にするため」であることを知っておりますが、当時の人々にとってはそうではないのです。主の十字架を知りませんし、罪の贖いもない。「人間をとる」と言えば、当然「裁き、滅び」と思うのです。しかし、主イエスは、この滅びの言葉を「救いへと招く言葉」としてくださいました。それは、滅ぶべき者を救いへと導くことがお出来になる方、主イエスだからこそ言える言葉なのです。裁きの言葉でしかない言葉を、救いへの約束として語ってくださり、滅びゆく者を「すなどり(漁り)」救ってくださる。それが「主の召し」です。本来、滅びのために集められる者が、救いへと招かれているのです。主の御業は大いなる業です。そしてその御業を、主は弟子に託してくださっております。 18節「二人はすぐに網を捨てて従った」と記されております。ここは、ほとんどの人が理解不可能なところです。「どうして、すぐに従ったのか」と思うでしょう。どうして従ったのか。主イエスの眼差しは、人を存在たらしめる眼差しです。ですから、主の眼差し、御言葉には力があるのです。真実な言葉には力があります。その言葉が、神の言葉だから、真実な言葉だから、人は惹き付けられる。それはそこに「聖霊」が働くから、「神の力」が及んでいるからです。ですから、その言葉は現実のものとなるのです。主の御言葉は人に存在を与え、そこで出来事を起こす、力ある言葉なのです。 シモンとアンデレは主に従いました。「主に従う」とは、従うという決断を求められていると、普通は考えるでしょう。しかし、そうではありません。主の御言葉は真理の御言葉であり、力ある言葉です。ですから、「従わざるを得なかった」のです。もし、従わないとすれば、人は何かしらの理由を上げて信じない。信じるに足る理由は何かと問うてしまうのです。人の理由は、信じないためにあります。理由のない人は信じられるのです。 日常に埋没する私どもを、主の御言葉が呼び出し、導いてくださいます。主の御言葉こそ、真実な力ある言葉、確かな言葉です。その主が約束してくださっている、だから、私どもの救いは確かなのです。 私どもの存在の確かさ、救いの確かさは、ただ「神のうちにある」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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主イエスが弟子たちと共に、カファルナウムに入っておられます。カファルナウムはヨルダン川河口に近い湖畔の町ですが、この地で、主イエスはご自身の活動を始められます。「主イエスが来られる」ということは、そこが「神の支配の到来の場となる」ということです。28節には「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とありますが、厳密に翻訳しますと「ガリラヤ地方を超えて」という意味合いですので、主イエスの出来事が「全世界に及ぶ」ことを、このマルコによる福音書は示しているのです。 21節に、主イエスが「安息日に会堂に入って教え始められた」と記されております。マルコによる福音書は「教える」という言葉を特徴的に用いて、「主イエスは教える方である」ことを示しております。そして、主の教えは、単なる「ラビ」としてではなく、「権威ある者、神の聖者」としての教えである(22節)ことが記されております。ですから、「主イエスの教え」は「神の教え」です。主イエスは「権威そのものなる方」、主ご自身が「神なる方」なのです。 今日、私どもの社会において「宗教的習慣を守ることの大切さ」が語られるべきだと思います。「宗教的習慣を守る」ということは「宗教的な感性を養う」ことに繋がるからです。「宗教的な感性」とは、自分を超えた存在に対する「畏敬する心を持つ」ということです。「畏敬する心を持つ」それが「人間性を持つ」ということなのです。畏敬する心が育たなければ、自分が中心となり、神となってしまいます。 主イエスは、ユダヤ人の宗教的習慣である「安息日」を守られました。それは、主イエスが宗教的習慣を大事にされたということです。宗教性を失うことは、個に対する尊厳を失うこと、それは「滅び」を意味します。しかし、そんな「滅びゆく者の救い」が「主イエス・キリストの救い」です。そしてそれが「神の御心」であることをも、ここで覚えたいと思います。 どのような町・村にも「会堂」があり、「安息日礼拝」は重んじられておりました。「祈り、賛美、預言書の朗読と律法の説き明かし(説教)」、それが「安息日礼拝」です。本来、ユダヤ人の安息日礼拝は神殿でなされるべきですが、エレミヤ時代に捕囚の民となり、ギリシャ世界に散らばったユダヤ人が、安息日毎にエルサレム神殿に行くことは困難でした。そこで「会堂での礼拝」が広まりました。「会堂での礼拝」は「御言葉を中心とした礼拝」です。イスラエルにとって捕囚という信仰の危機の時代に、神殿礼拝ではなく、「御言葉に立つ礼拝」ということが起こりました。それこそが、私どもの礼拝の中心であることを覚えたいと思います。 会堂では、律法を良く理解する者、伝承を深く知る者に聖書が渡され、説教がなされました。人々から尊敬を受ける者なら誰でも、説教に当たったのです。 22節「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と記されております。 律法学者と主イエスの教えの違いは何でしょうか。 私どもの「礼拝」も、主が主導してくださっている出来事であることを覚えたいと思います。礼拝は、自分の思いで行ったり行かなかったりするものではありません。「今日の礼拝には、行きたくても行けなかった」とすれば、礼拝に来れた時には、「神の赦しがあったから来れた。礼拝できた」と、神への感謝と、礼拝への喜びに満たされるのです。「主の導きによって礼拝に来れた」と知ることによって、神への感謝が明らかになるのです。 23節「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」と続きます。「そのとき」とは、この出来事が、主が主権者であることを表すために起こった出来事であることを示しております。 「悪霊(汚れた霊)」とは「神から人を遠ざける者」です。人を神との交わりから疎外する、聖なる交わりから遠ざける、だから汚れるのです。当時、悪霊に取りつかれることは、病、特に精神的な病にかかることと考えられたのですが、私どもが悪霊を思う時には、神から人を遠ざける力として悪霊を覚えるべきです。 主イエス・キリストの権威、それは一切の力を無力にする力であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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ペンテコステを来週にして、今日共に礼拝を守る幸いを感謝いたします。 旧約聖書の小預言者ヨエルの言葉に聞きました。小見出しに「神の霊の降臨」とあります。「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と預言しています。そしてこの預言が、原始教会誕生の日の説教につながって、「老人は夢を見、若者は幻を見る」(dreamとvision)との言葉が語られています。神の霊が注がれるところからすべてのことが起こることを伝えています。人間も神の息が吹き込まれて生きるものになりました。聖霊が注がれて、老人も夢を見ることが出来ます。神がすべての始まりをお決めになるということです。 ヨハネによる福音書14章15〜31節まで、少し長いところを読んでいただきましたが、ここの小見出しは「聖霊を与える約束」と記されています。 これがどのような状況で語られたか。イエスさまは、十字架を目前にしておられました。そこで、弟子たちのことが気がかりであったのです。弟子たちは、不安の中にあり、恐れていたことが、イエスさまの言葉の中に伺われます。 これは3つの部分からなっています。 まず、最初は、23〜24節ですが、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」。ここを、カトリックの神父の本田哲郎師は、「小さくされた人々のための福音」で、「わたしを愛する人は」のところを、『大切に思うのであれば』と訳しておられます。弟子たちが、イエスなしに生きることは、最後的なものではないといといわれます。イエスなしでも、イエスが死(十字架)にいたったとしても、それを超えて私たちのうちに住んでくださるとの約束を語っておられます。 第2の贈物は、25〜26節です。弁護者、つまり聖霊を下さるというのです。 15節で『別の弁護者』とありますが、それはキリストご自身が弁護者であられ、助け主であられるのですから、キリストとは別の弁護者、つまり聖霊を下さるというのです。この弁護者という言葉は、聖書によっていろいろな訳がなされています。口語訳では「助け主」となっていました。英語の聖書ではヘルパー(helper)であったり、カウンセラー(counselor)、友、世話をするもの(befriend)、傍にいるもの、頼りになる人(stand by)などの訳があります。つまり、イエスさまが常に離れずいてくださるということです。本田訳は協力者となっています。 J・F・ケネディーアメリカ大統領の就任演説で引用されたことで有名になりました、『Foot prints』(足跡)という夢物語があります。ご存知の方が多くおられると思います。それは次のようなものです。 聖霊ということが分りにくいということをよく聞きます。確かにそうかもしれません。しかし、それはそれほど難しいものではありません。私どもがこうして信仰を与えられ生きていること、教会の交わりの中にいること、罪赦されていること、言うに足りないほどの小さな信仰しか持ち合わせていませんが生かされていること、そのことが聖霊の働きとしか説明がつかないことなのです。信仰は理屈や説明ではありません。ただ、聖霊の導きによって与えられるもので、それは神の働きであり、キリストの恵み以外のものではありません。自分が中心になって生きているのではなく、最終的には神にゆだねること、それが聖霊の導きということです。 夢のようなことですが神の真実なのです。これが第2の贈り物です。 最後の贈り物は27節に記されています。 神の平安そのものが、私たちを守ってくださるのです。ですから確かなもの、確実なもの、揺るぎなき平安なのです。それはイエス・キリストご自身が平和であり、平安だからです。エフェソの信徒への手紙2章14節で「キリストはわたしたちの平和であって…」と言われているからです。その確かさは、イエスご自身が十字架にかかられることによってもたらされたものだからです。 イエス・キリストが弟子たちに約束された3つの贈物は、私たちにもお与えくださるものであることを感謝し、喜びたいと思います。 |
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ペンテコステ(聖霊降臨日)に、このように招かれ、共々に礼拝を守れます幸いを感謝いたします。 弟子たちは、復活された主イエスが現れて「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1章4節)と言われた言葉に従って、エルサレムで心を一つにして祈っておりました。 1節「五旬祭の日が来て」。五旬祭とは、過越の祭から50日目の祭です。これは明らかにユダヤ教の祭ですが、キリスト教ではどうとらえてきたかと言いますと、主イエスが十字架にかかり、罪の贖いとなってくださったことを「過ぎ越し」として覚えるのです。ですから十字架から50日目であり、そのことが大切です。その日は「聖霊を受ける」という祝いの時なのです。 弟子たちが一つになり得ているのはどうしてでしょうか。それは「神の約束に基づいて一つ」だからです。そのことが大事です。教会に集う者は、各々有り様が違い、考え方も違います。けれども、共に神の約束の上にあるのです。ですから、教会が一つであるのは「聖霊において一つ」なのです。同じ約束、同じ保証を頂いていることにおいて一つなのです。そこに「聖霊が臨んでいる」、それが教会の前提であることを、1節の御言葉は示しております。 2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「突然」そこには、人の意図を見出せません。人の計画ではないところに、神が臨まれるのです。そこに人の思いを超えた神の働きを見ること、それは私どもにとって「神の御心を畏こむ」という大切な在り方です。 ここで、弟子たちが経験したことは何でしょうか。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」た。つまり、音だけが響いたのであって、誰も激しい風が吹くところを見てはおりません。激しい風、嵐は、旧約聖書においては「神の力」を意味しました。「聖霊」は「人の思いを超えた力」として表されております。 3節「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されております。「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった(出エジプト記13:22)」と言われますように、「炎」は「神の臨在」を示すのです。そして、炎が「一人一人の上にとどまった」ということは「神の臨在が一人ひとりの上にある」ことを示しております。聖霊が私ども一人ひとりに臨み、そして教会となるのです。 このようにして教会が成立し、弟子たちがなしたことは何だったのでしょうか。4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記されます。「語る」ということが起こったということです。全世界に向かって語り出す、それが聖霊の出来事なのです。 今日は、このことだけに止まらず、やはりどうしてもエゼキエル書の御言葉から聴きたいと思います。なぜならば、今の時代は「聖霊を必要としている」と思うからです。 今の時代、すべてにおいて、形は整っていて美しく見える。にもかかわらず、人は霊を失っているようにしか見えません。先に希望が持てないでいる。人自らが作った様々なものにとらわれてしまっているのです。 ですから、教会のなすべきことは「御言葉を語ること」であることを覚えたいと思います。「聖霊を受けよ」と語ること、聖霊が働く「主の御言葉」を語ること、それが教会のなすべきことです。 3節の「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』」とは、エゼキエルの神に対する不信の言葉です。自ら「信じる」とは言えない。しかし、ただ「あなたのみがご存じです」と答えるエゼキエルに対して、神は「語れ」と言われております。 ですからこそ、今、私どもも語らなければなりません。人を真実に「生きた人」とする「主の御言葉を語る、宣べ伝える」、それが私どものなすべき業であることを覚えたいと思います。
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