聖書のみことば/2012.5
2012年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
ガリラヤ湖のほとり」 5月第1主日礼拝 2012年5月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章16〜20節

1章<16節>イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。<17節>イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<18節>二人はすぐに網を捨てて従った。<19節>また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、<20節>すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

16節、主イエスがガリラヤ湖畔を歩いておられます。
 「湖のほとりを歩く」とは、心地よく、慰めに満ちたことだと思います。まさに思いを巡らしながらの散策も良し、何も考えずにぼおっとして歩くのも良いでしょう。水面に魚の影を追い、湖畔の風景に季節を楽しむ。。。「湖のほとりを歩く」という記述に、私どもは何か親しみを覚え、情緒的、牧歌的な場面を思い浮かべます。
 けれども、主イエスが湖のほとりを歩かれるのは、私どものそのような思いと同じ事柄ではありません。14節に「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」と記されているように、主は福音宣教をなさっておられ、歩いておられるのです。ですから「主イエスが歩かれる」ということは、「神の国の福音が主イエスと共に到来している、現実のものとなっている」ということです。主イエスの歩かれる所「ガリラヤ湖のほとり」、そこは「神の福音がもたらされる所」なのです。湖畔に住む人々の日常の中に、神の支配が始まったということです。

このことは、私どもにとっても同じことです。主イエスの福音を聴く、この「礼拝」の場が、神の支配の場となっていることを覚えたいと思います。私どもにとっては何の変わりもない日常ですが、そこに神の支配が始まっているとは感謝です。人にばかり目を向けていれば、救いを見出すことはできません。しかし、この「礼拝」の場に「神の支配が臨んでくださっている」のです。それは、この甲府の地にも、主が臨んでくださっているということです。そういう意味で「主イエスが歩かれる」ことの幸いを思います。

主は歩きながら、「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」と記されております。彼らは漁師でした。ここで面白いことが言われております。「シモンとシモンの兄弟アンデレ」と名を記されているのです。ただ単に「漁師たちが漁をしている」と、その場の風景、一コマの場面を記しているのではありません。主イエスは、漁師たちの漁の場面を見ているのではなく、「シモンとアンデレを見ておられる」のです。
 このことは意味深いことです。主イエスはシモンとアンデレの2人の人を「見出しておられる」ということだからです。主イエスの眼差しは鋭く、そして豊かで慈しみ深いのです。その場の一コマとして人を見るのではなく、「一人の存在」として人を見てくださる眼差しです。主イエスの眼差しは、見ることによって「人の存在を見出してくださる」柔らかな眼差しなのです。
 そして「主が見てくださる」ことは、言葉を変えて言うならば「主の御言葉に触れる、聴く」ということです。主の御言葉に触れることによって、私どもの存在は、神に、主に覚えられているのです。

「漁師が網を打っている」、それは漁師にとって当たり前な日常の出来事です。
 日本人の宗教的な感性では、「日常」は「汚れ」です。毎日毎日同じことの繰り返しで、気持ちが萎える、気力を失う、「気が枯れる」それが「汚れ」となる。ですから日本人は、日常性に「自分の存在の虚しさ」を見るのです。日常性に豊かさを見ないのです。しかしキリスト者は、来る朝毎に祈り、神の恵みを感謝して一日を始めることが許されている、それは幸いなことです。
 ですから、主イエスがシモンとアンデレを「御覧になった」という御言葉は、私どもにとって幸いです。日常に埋没している私どもを「主の眼差し」が見出してくださり、そして「従いなさい」と導き出してくださるからです。主の眼差しは、私どもに存在を与えるだけでなく、汚れから導き出し、解放してくださるのです。私どもが「主の御言葉に与る」ことの恵み深い意味が、ここに表されております。主の御言葉は、私どもに力を与えてくださる言葉なのです。
 日本人は汚れを「祭り」によって解放します。祭りによって日常を離れて元気を取り戻すのです。しかし、それは必ずまた汚れに戻りますし、一人で解決できないことです。けれども、私どもキリスト者は常に「御言葉により、祈りにより、自分の存在を新たにできる」幸いなのです。

17節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主イエスは、シモンとアンデレを弟子とし、ご自分のなさる業を託すると約束してくださっております。「人間をとる(漁る、すなどる)」とは、エレミヤ書では「裁く」ためにすることと言われております。私どもは、この「人間をとる」は、「弟子にするため」であることを知っておりますが、当時の人々にとってはそうではないのです。主の十字架を知りませんし、罪の贖いもない。「人間をとる」と言えば、当然「裁き、滅び」と思うのです。しかし、主イエスは、この滅びの言葉を「救いへと招く言葉」としてくださいました。それは、滅ぶべき者を救いへと導くことがお出来になる方、主イエスだからこそ言える言葉なのです。裁きの言葉でしかない言葉を、救いへの約束として語ってくださり、滅びゆく者を「すなどり(漁り)」救ってくださる。それが「主の召し」です。本来、滅びのために集められる者が、救いへと招かれているのです。主の御業は大いなる業です。そしてその御業を、主は弟子に託してくださっております。

18節「二人はすぐに網を捨てて従った」と記されております。ここは、ほとんどの人が理解不可能なところです。「どうして、すぐに従ったのか」と思うでしょう。どうして従ったのか。主イエスの眼差しは、人を存在たらしめる眼差しです。ですから、主の眼差し、御言葉には力があるのです。真実な言葉には力があります。その言葉が、神の言葉だから、真実な言葉だから、人は惹き付けられる。それはそこに「聖霊」が働くから、「神の力」が及んでいるからです。ですから、その言葉は現実のものとなるのです。主の御言葉は人に存在を与え、そこで出来事を起こす、力ある言葉なのです。

シモンとアンデレは主に従いました。「主に従う」とは、従うという決断を求められていると、普通は考えるでしょう。しかし、そうではありません。主の御言葉は真理の御言葉であり、力ある言葉です。ですから、「従わざるを得なかった」のです。もし、従わないとすれば、人は何かしらの理由を上げて信じない。信じるに足る理由は何かと問うてしまうのです。人の理由は、信じないためにあります。理由のない人は信じられるのです。
 シモンとアンデレを主は見出してくださいました。もし、シモンとアンデレが主を見出したのなら、理由ができるでしょう。しかし、彼らが弟子になったことの理由はありません。ただ「主が見出してくださった」から「従った(弟子となった)」のです。
 人は、自ら理由を考えるならば信じないでしょう。私どもが信じ、救いの恵みに与ったのは、ただ「見出してくださった神の憐れみ」によるのです。
 シモンとアンデレは、弟子となるには余りにも頼りない人たちでした。信仰的な内容を説明できるような人たちではありません。彼らには、主の弟子になる理由は無かったのです。ただ、主が見出してくださって、その主が「従え」と言ってくださったから、従うしかない。そして、内容を分らなくても「従う」ということで十分なのです。
 私どもの根拠は揺らぐものです。ですから、私どもが信じること、私どもの信仰の確かさは、私どものうちにあるのではありません。私どもを、ただ憐れみによって見出してくださった「神」にこそ、根拠があります。神が捕らえてくださっているのですから、揺るぎないのです。私どもの信仰が揺らぐとすれば、それは、神を見ないで人を見ているからです。

日常に埋没する私どもを、主の御言葉が呼び出し、導いてくださいます。主の御言葉こそ、真実な力ある言葉、確かな言葉です。その主が約束してくださっている、だから、私どもの救いは確かなのです。

私どもの存在の確かさ、救いの確かさは、ただ「神のうちにある」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。

神の聖者」 5月第2主日礼拝 2012年5月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章21〜28節

1章<21節>一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。<22節>人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。<23節>そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。<24節>「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」<25節>イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、<26節>汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。<27節>人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」<28節>イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

主イエスが弟子たちと共に、カファルナウムに入っておられます。カファルナウムはヨルダン川河口に近い湖畔の町ですが、この地で、主イエスはご自身の活動を始められます。「主イエスが来られる」ということは、そこが「神の支配の到来の場となる」ということです。28節には「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」とありますが、厳密に翻訳しますと「ガリラヤ地方を超えて」という意味合いですので、主イエスの出来事が「全世界に及ぶ」ことを、このマルコによる福音書は示しているのです。

21節に、主イエスが「安息日に会堂に入って教え始められた」と記されております。マルコによる福音書は「教える」という言葉を特徴的に用いて、「主イエスは教える方である」ことを示しております。そして、主の教えは、単なる「ラビ」としてではなく、「権威ある者、神の聖者」としての教えである(22節)ことが記されております。ですから、「主イエスの教え」は「神の教え」です。主イエスは「権威そのものなる方」、主ご自身が「神なる方」なのです。
 ですからここで、ご自身が神なる方である主イエスが、ユダヤ人の宗教的習慣である「安息日を守る」ことは、本来、必要のないことです。しかし主イエスは、その習慣を守ってくださっております。

今日、私どもの社会において「宗教的習慣を守ることの大切さ」が語られるべきだと思います。「宗教的習慣を守る」ということは「宗教的な感性を養う」ことに繋がるからです。「宗教的な感性」とは、自分を超えた存在に対する「畏敬する心を持つ」ということです。「畏敬する心を持つ」それが「人間性を持つ」ということなのです。畏敬する心が育たなければ、自分が中心となり、神となってしまいます。
 では、どこで「畏敬する心」を養うかと言うと、それは、家庭や社会における「宗教的な営み」の中でしか養えないのです。子どもに対して「宗教は、大人になってから自分で選択すれば良い」などと言われますが、意識の世界でだけ宗教を理解できると思うことは大きな間違いです。宗教的な感性を失うことは、人間の尊厳が失われることであることを忘れてはなりません。「畏敬の念」を継承していかなかったことが、自己中心によって人と人とのつながりを大事に出来ない、我慢出来ない、個のことしか考えられないという現代の現実に映し出されております。
 ですから、訳が分らなくても、家庭において「祈る」こと、宗教的な習慣の中で子どもを育てることの大切さを思います。
 本当の公教育に、宗教が無いということは考えられないことです。人間の存在の豊かさを知るためには、宗教が必要なのです。本来、教育は、家庭や宗教が行ってきました。公教育は、民主主義の担い手となる人材を育てるための教育としてあるのです。自分を超えた存在への畏敬、個の存在を尊重し、存在に対して畏敬する心を養うことがなければ、本当の民主主義は育ちません。ですから、宗教的感性を養うことは大事なことなのです。

主イエスは、ユダヤ人の宗教的習慣である「安息日」を守られました。それは、主イエスが宗教的習慣を大事にされたということです。宗教性を失うことは、個に対する尊厳を失うこと、それは「滅び」を意味します。しかし、そんな「滅びゆく者の救い」が「主イエス・キリストの救い」です。そしてそれが「神の御心」であることをも、ここで覚えたいと思います。

どのような町・村にも「会堂」があり、「安息日礼拝」は重んじられておりました。「祈り、賛美、預言書の朗読と律法の説き明かし(説教)」、それが「安息日礼拝」です。本来、ユダヤ人の安息日礼拝は神殿でなされるべきですが、エレミヤ時代に捕囚の民となり、ギリシャ世界に散らばったユダヤ人が、安息日毎にエルサレム神殿に行くことは困難でした。そこで「会堂での礼拝」が広まりました。「会堂での礼拝」は「御言葉を中心とした礼拝」です。イスラエルにとって捕囚という信仰の危機の時代に、神殿礼拝ではなく、「御言葉に立つ礼拝」ということが起こりました。それこそが、私どもの礼拝の中心であることを覚えたいと思います。

会堂では、律法を良く理解する者、伝承を深く知る者に聖書が渡され、説教がなされました。人々から尊敬を受ける者なら誰でも、説教に当たったのです。
 しかし主イエスは、カファルナウムの初めて入られた会堂で、主を知らない人々に対して、突然、教え始められた(21節)と言うのです。その理由は記されておりません。
 主イエスは、なぜ教えられたのか。しかし、主イエスに理由は必要ないのです。主イエスは「神なる方」だからです。旧約聖書は「律法と預言」ですが、主イエスは「聖書そのものなる方」「御言葉そのものなる方」として、理由を超えて、語り始められる。主が教え始められる、それは自然なことなのです。
 牧師がここで語るのには理由があります。あれこれの手続があるのです。しかし、主イエスの御業は、理解を超えた神の御業なのです。

22節「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と記されております。
 人々が驚いたのはなぜか。それは、律法学者のようにではなく、権威ある者の「ように」でもない、主イエスが「権威ある者として」教えられた、だから人々は驚いたのです。「権威ある」とは、つまり「主権者」ということです。主は主権者として教えられたということです。聖書の世界の主権者とは、神です。ですから、主イエスはまさに、神として教えられた、だから人々は驚いたのです。そこに、神の臨在があったということです。

律法学者と主イエスの教えの違いは何でしょうか。
 律法学者は、伝承を深く知る者として、こうするべきと教える、律法の実践を目標とします。ですから、微に入り細に入り、律法を解釈し守ろうとする。ある意味、律法学者、ファリサイ人と呼ばれる人たちは立派です。教えを自ら実践するのです。しかし、律法の実践によっては、神の恵みを表すことはできません。逆に、自分がいかに敬虔で誠実な者であるか、その人を表すことになるのです。
 「信仰」とは「神を表す」ことであって、個人を表すことではありません。本来、律法とは、神の民として神を表すために守るべきものであるのに、人の思いの熱心さによって個人が表されてしまうということは残念なことです。
 主イエスが「権威ある者として教えられる」、そこでは「神が表されて」おります。だからこそ、人々は驚くのです。
 律法学者の在り方は人間主導ですが、主の教えは、そこに神が働かれる「神主導」なのです。神が主導権を持ち、神が働いてくださる。そこに神が表される。それが「主が権威ある者として教えられた」ということの内容です。

私どもの「礼拝」も、主が主導してくださっている出来事であることを覚えたいと思います。礼拝は、自分の思いで行ったり行かなかったりするものではありません。「今日の礼拝には、行きたくても行けなかった」とすれば、礼拝に来れた時には、「神の赦しがあったから来れた。礼拝できた」と、神への感謝と、礼拝への喜びに満たされるのです。「主の導きによって礼拝に来れた」と知ることによって、神への感謝が明らかになるのです。
 今私どもが守っているこの礼拝においても、主権者は神です。私どもをこの恵みの座に集わせてくださる、これほどに恵み深いことはないのです。
 「主権、権威」とは、ただ単なる「力」ということではありません。神が主権者として私どもに働いていてくださる出来事であることを覚えたいと思います。

23節「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」と続きます。「そのとき」とは、この出来事が、主が主権者であることを表すために起こった出来事であることを示しております。
 ここで、多くの注解書が疑問として語ることは、会堂という聖なる場所に汚れた者がいるのはおかしいということです。
 しかし私は、この「そのとき」という出来事は、意味ある出来事だと思っております。なぜか。本来、汚れた者は聖なる場所に来たくないはずです。本来、来たくない場所に、主イエスの元に、しかし、この汚れた霊に取りつかれた人は「来ざるを得なかった」ということが、この出来事です。
 主イエスは、汚れた霊(悪霊)の力を超えた、力ある方、権威ある方です。悪霊の力をも退ける権威者であることが、ここに示されていることなのです。ですから、主の権威とは如何なる権威であるかを示すために、この出来事は記されているのだということを覚えたいと思います。

「悪霊(汚れた霊)」とは「神から人を遠ざける者」です。人を神との交わりから疎外する、聖なる交わりから遠ざける、だから汚れるのです。当時、悪霊に取りつかれることは、病、特に精神的な病にかかることと考えられたのですが、私どもが悪霊を思う時には、神から人を遠ざける力として悪霊を覚えるべきです。
 しかし、その悪霊ですら、主イエスの前に屈服せずを得ない。いかなる力も、主の前には無力です。悪霊は「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫びます。かまわれたくない、しかし、主イエスを無視しては通れないのです。「かまわないでくれ」と叫びつつも、主の前に行かざるを得なかったのです。

主イエス・キリストの権威、それは一切の力を無力にする力であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

キリストからの贈物」 5月第3主日礼拝 2012年5月20日 
小島章弘 牧師 
聖書/ヨエル書 第3章1〜5節、ヨハネによる福音書 第14章23〜27節

ヨエル書3章<1節>その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。<2節 >その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。<3節>天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。<4節>主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。<5節>しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

ヨハネによる福音書14章<15節>「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。<16節>わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。<17節>この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。<18節>わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。<19節>しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。<20節>かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。<21節>わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」<22節>イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。<23節>イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。<24節>わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。<25節>わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。<26節>しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。<27節>わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。<28節>『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。<29節>事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。<30節>もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。<31節>わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

使徒言行録2章<17節>『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。

ペンテコステを来週にして、今日共に礼拝を守る幸いを感謝いたします。

旧約聖書の小預言者ヨエルの言葉に聞きました。小見出しに「神の霊の降臨」とあります。「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と預言しています。そしてこの預言が、原始教会誕生の日の説教につながって、「老人は夢を見、若者は幻を見る」(dreamとvision)との言葉が語られています。神の霊が注がれるところからすべてのことが起こることを伝えています。人間も神の息が吹き込まれて生きるものになりました。聖霊が注がれて、老人も夢を見ることが出来ます。神がすべての始まりをお決めになるということです。
 したがってペンテコステの出来事は大切な日なのです(使徒言行録2章17節)。 そのことを踏まえて、今日はヨハネによる福音書から御言葉を聞きたいと思います。

ヨハネによる福音書14章15〜31節まで、少し長いところを読んでいただきましたが、ここの小見出しは「聖霊を与える約束」と記されています。
 この部分は、14章のはじめからイエスさまの告別説教のはじめのところに当たります。この前後は、弟子たちの足を洗われたことや、ユダの裏切りの予言、イエスさまは弟子たちに対して、ご自分が「道、真理、いのち」である宣言しておられます。そして今日の聖霊をあたえる約束をされ、「わたしは、ぶどうの木である」と、神とご自分とのつながりを印象づけておられます。
 特にその中で、23〜27節が古来ペンテコステの礼拝で読まれたといわれています。そこを中心に聞いてまいります。

これがどのような状況で語られたか。イエスさまは、十字架を目前にしておられました。そこで、弟子たちのことが気がかりであったのです。弟子たちは、不安の中にあり、恐れていたことが、イエスさまの言葉の中に伺われます。
 「心を騒がせるな」(14:1)、「わたしはあなた方を孤児(みなしご)にはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる。」(14:19)との言葉の中にあります。これらの言葉は、その当時90年以降の教会にも向けられたものですが、今日の私たちにも語られたものといってよいでしょう。時間を越えて、イエスさまは語りかけておられます。孤児、孤児にしない。現代こそ、この言葉は切実さを持って迫ってきています。それほど弟子たちが怖じ惑い、心騒がせていたのです。お前の神はどこにいるのか? と突きつけられています。(詩編42編3節)
 そのときにイエスさまは、弟子たちに、私たちに約束の言葉を語られます。その中心が、23〜27節です。

これは3つの部分からなっています。
 弟子たちが次から次へとイエスさまを質問攻めにしています。
(1)23〜24節、(2)25〜26節、そして(3)27節です。これはイエスさまの約束であり、贈物、形見とも言えるものです。

まず、最初は、23〜24節ですが、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」。ここを、カトリックの神父の本田哲郎師は、「小さくされた人々のための福音」で、「わたしを愛する人は」のところを、『大切に思うのであれば』と訳しておられます。弟子たちが、イエスなしに生きることは、最後的なものではないといといわれます。イエスなしでも、イエスが死(十字架)にいたったとしても、それを超えて私たちのうちに住んでくださるとの約束を語っておられます。
 パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で、「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」と言いましたが、あれはパウロだけの神秘的な体験ではありません。私たちが神を愛し、キリストを愛するということが、感情的なことや、情緒的なことではなく、神を第一のものと思い、本田訳では「大切にすること」として神を、キリストを信じて生きるならば、それがどれほどちっぽけな愛であってもキリストが、「一緒に住む」と言ってくださるのです。これが第1の贈物です。

第2の贈物は、25〜26節です。弁護者、つまり聖霊を下さるというのです。 15節で『別の弁護者』とありますが、それはキリストご自身が弁護者であられ、助け主であられるのですから、キリストとは別の弁護者、つまり聖霊を下さるというのです。この弁護者という言葉は、聖書によっていろいろな訳がなされています。口語訳では「助け主」となっていました。英語の聖書ではヘルパー(helper)であったり、カウンセラー(counselor)、友、世話をするもの(befriend)、傍にいるもの、頼りになる人(stand by)などの訳があります。つまり、イエスさまが常に離れずいてくださるということです。本田訳は協力者となっています。

J・F・ケネディーアメリカ大統領の就任演説で引用されたことで有名になりました、『Foot prints』(足跡)という夢物語があります。ご存知の方が多くおられると思います。それは次のようなものです。
 「ある晩一人の人が、夢を見ました。彼は小高い丘の上に立ち、今まで歩いてきた人生の砂丘を振り返って眺めています。そこには二組の足跡が刻まれ、続いていました。一組は彼自身のものであり、もう一組は主ご自身のものでした。ところが、ところどころに足跡が一組しかついていない箇所もあります。しかもそれは彼の人生において最もつらく、悲しいときでした。 驚き主に尋ねました。「主よ、あなたは、私があなたに従い行くと一度決心したときから、いつも共に歩まれるとおっしゃいました。しかし、わたしの人生においてとても困難なときに一人分の足跡しかありません。私にはわかりません。なぜあなたをもっとも必要としたとき、わたしをお見捨てになったのですか。
 主は答えられました。「わがいとし子よ。私はあなたを愛し、決して見捨てない。あなたが苦しい試みにあったときに一人分の足跡しかなかったのは、私があなたを抱き上げて歩いたからなのだよ。」
 
この話は、主が弁護者、カウンセラーとして、私たちの人生にいつもどんなときも伴っていてくださるということを伝えるものであります。

聖霊ということが分りにくいということをよく聞きます。確かにそうかもしれません。しかし、それはそれほど難しいものではありません。私どもがこうして信仰を与えられ生きていること、教会の交わりの中にいること、罪赦されていること、言うに足りないほどの小さな信仰しか持ち合わせていませんが生かされていること、そのことが聖霊の働きとしか説明がつかないことなのです。信仰は理屈や説明ではありません。ただ、聖霊の導きによって与えられるもので、それは神の働きであり、キリストの恵み以外のものではありません。自分が中心になって生きているのではなく、最終的には神にゆだねること、それが聖霊の導きということです。 夢のようなことですが神の真実なのです。これが第2の贈り物です。

最後の贈り物は27節に記されています。
 「わたしは平安をあなた方に残していく」とあります。しかも、その平安はこの世のものとは違うといわれました。イエスさまは、たびたび「安心していきなさい」と言われました。それは『平安の中に入れ』と訳されるものです。普通わたしたちが、お大事にとか、お元気にとか挨拶を交わすときには、その人が平安であるようにと願って言います。イエスの時代にも、この言葉は日常的に使われていたと言われます。それは、不安とか心配、恐れとは逆の意味で使っています。そういうものが取り除かれたときに、平安になった、心が静かになったというときに使うのが普通です。しかし、それは、単に精神的な気持ちの状態を言っています。それだからあぶなっかしもの、危ういものでしかありません。平安な状態を守るという極めて主観的なものとして用いられることが多いのです。しかし、イエスさまが言われるこの世のものとは違うといわれるときに、どのように違うのでしょうか。

神の平安そのものが、私たちを守ってくださるのです。ですから確かなもの、確実なもの、揺るぎなき平安なのです。それはイエス・キリストご自身が平和であり、平安だからです。エフェソの信徒への手紙2章14節で「キリストはわたしたちの平和であって…」と言われているからです。その確かさは、イエスご自身が十字架にかかられることによってもたらされたものだからです。

イエス・キリストが弟子たちに約束された3つの贈物は、私たちにもお与えくださるものであることを感謝し、喜びたいと思います。

霊を吹き込む」 5月第4主日礼拝 2012年5月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/エゼキエル書 第37章1〜14節、使徒言行録 第2章1〜21節

エゼキエル書37章<1節>主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。<2節>主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。<3節>そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」<4節>そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。<5節>これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。<6節>わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」<7節>わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。<8節>わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。<9節>主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」<10節>わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。<11節>主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。<12節>それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。<13節>わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。<14節>また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。

使徒言行録2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

ペンテコステ(聖霊降臨日)に、このように招かれ、共々に礼拝を守れます幸いを感謝いたします。

弟子たちは、復活された主イエスが現れて「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒言行録1章4節)と言われた言葉に従って、エルサレムで心を一つにして祈っておりました。
 主イエスが約束してくださったものとは何でしょうか。それは「聖霊」です。「聖霊が臨み、弟子たちの群れは『教会』となって全世界に主の福音を宣べ伝えた」、それが使徒言行録が語っていることです。
 「教会」とは何か、今日はそのことを聴いていきたいと思います。

1節「五旬祭の日が来て」。五旬祭とは、過越の祭から50日目の祭です。これは明らかにユダヤ教の祭ですが、キリスト教ではどうとらえてきたかと言いますと、主イエスが十字架にかかり、罪の贖いとなってくださったことを「過ぎ越し」として覚えるのです。ですから十字架から50日目であり、そのことが大切です。その日は「聖霊を受ける」という祝いの時なのです。
 弟子たちが復活の主イエスにお会いし、集まり、心を合わせて祈っている、その所に聖霊が臨み、教会ができたのです。
 ここに、「教会」の前提が述べられております。それは「教会」は、父なる神の約束、主の約束に基づいているということです。神の約束の出来事の元に、ここに、私どもは集められているのです。自らの思いによってではなく、神の約束によって、私どもは集められております。このことは大事なことです。それは「神の約束による」ゆえに、確かなことだからです。神の約束とは、確かな保証です。教会は「神によって確かに立てられた」ということ、それが教会の前提です。

弟子たちが一つになり得ているのはどうしてでしょうか。それは「神の約束に基づいて一つ」だからです。そのことが大事です。教会に集う者は、各々有り様が違い、考え方も違います。けれども、共に神の約束の上にあるのです。ですから、教会が一つであるのは「聖霊において一つ」なのです。同じ約束、同じ保証を頂いていることにおいて一つなのです。そこに「聖霊が臨んでいる」、それが教会の前提であることを、1節の御言葉は示しております。

2節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」とあります。「突然」そこには、人の意図を見出せません。人の計画ではないところに、神が臨まれるのです。そこに人の思いを超えた神の働きを見ること、それは私どもにとって「神の御心を畏こむ」という大切な在り方です。
 更に「突然、神が臨まれた」ことは、「弟子たちが一つ心で祈っていた」から起こったということではありません。「その時」は、神の御心によるのです。一つ心で祈っていたのは、神の約束に対する応答として祈っていたのであって、祈ることが、聖霊が臨むことの条件だったのではありません。ややもすると、祈りは結果に対する条件と化してしまいがちですが、あくまでも「祈りとは、神の恵みに対する応答である」ことを忘れてはなりません。
 各々に有り様の違うばらばらな者たちが「一つ心で」祈れているのは、そこに「神の約束がある」からであることを覚えたいと思います。私ども一人ひとりが、神の恵みの応答として祈るならば、その時、教会は一つ心で祈れるのです。

ここで、弟子たちが経験したことは何でしょうか。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」た。つまり、音だけが響いたのであって、誰も激しい風が吹くところを見てはおりません。激しい風、嵐は、旧約聖書においては「神の力」を意味しました。「聖霊」は「人の思いを超えた力」として表されております。
 ですから「聖霊が臨む」ということは、大いなる力が私どもに臨むということです。「音」は、その聖霊が臨んだ印です。聖霊が臨むということは、「神の力が付与される」ということです。ですから「教会」は、神の力を頂き、宿すところであるということが、ここに示されていることです。何と幸いなことでしょう。教会は、この世の一切に勝る神の力を頂いているのです。

3節「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されております。「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった(出エジプト記13:22)」と言われますように、「炎」は「神の臨在」を示すのです。そして、炎が「一人一人の上にとどまった」ということは「神の臨在が一人ひとりの上にある」ことを示しております。聖霊が私ども一人ひとりに臨み、そして教会となるのです。
 「炎」は、神が教会に臨み、私ども一人ひとりに臨まれることの印です。何と幸いなことでしょう。神が私どもに臨む、それは「神が私どもと共にいてくださる」ということだからです。「いつも共にいる」ということは、私どもが、そうしようと思うならば出来ないことです。四六時中、私どもは神を思い続けていることが出来るでしょうか。旧約聖書には「収穫の時期であっても安息日を守れ」という厳しい言葉がありますが、それはなかなか難しいことです。
 ところが、ここに言われていることは「神の方で、共にいてくださる」ということなのです。何と幸いなことでしょう。
 しかし、だからと言って、私どもが何もしなくて良いというわけではありません。「共にいてくださる神」に対する応答は必要なのです。そこで、私どもは努力しようとするかもしれません。いつも神と共にあろうと努力する。善なることとして行おうとする。しかしそれは、ただ人を縛ることでしかありません。
 そうではなくて、いつも共にはいられない、そういう者でしかないのに、そんな私どもと共に神がいてくださることを「思い起こす」こと、それが私どもにとっての慰めであり、「思い起こす」こと、それが神の恵みに対する感謝、応答です。
 私どもが、自ら神と共にあろうと努力することは欺瞞です。神の方で臨み、神が共にいてくださることを思い起こす信仰、それは慰め深いのだということを覚えたいと思います。

このようにして教会が成立し、弟子たちがなしたことは何だったのでしょうか。4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記されます。「語る」ということが起こったということです。全世界に向かって語り出す、それが聖霊の出来事なのです。
 何を語ったのか。11節「神の偉大な業を語っている」、それが教会の使命であることが示されております。
 「神の偉大な業」とは何か。それは2章22節〜39節にペトロの説教として記されております。すなわち「人々が十字架につけて殺したイエスは、人々の罪を贖う救い主であり、その主イエスを救い主として告白する者には聖霊が与えられる」ということです。
 「十字架による罪の贖い、罪人の救い」それが「神の偉大な業」です。
 罪人は本来、滅ぶべき者です。その「滅ぶべき者を救う」という「有り得ないことを語る」、それが教会の宣教の業なのです。そして更に、それだけではなく、十字架の主の福音を信じる者に「洗礼を授け、罪の赦しの宣言を与える」、それが教会に託された神の業、権能です。「罪の赦しの宣言」、それはこの世のどこにもない、教会にしか出来ないことです。罪の赦しは、神のみなし得る業であって、人にはできません。その神の業、権能を、教会は「聖霊によって」与えられているのです。
 人は、人を許せない者です。そんな私どもに聖霊が与えられ、そして「罪の赦しの宣言」をなす権能が与えられているとは、何ということでしょうか。万人祭司という考え方は、キリストの罪の赦しの権能は、キリスト者一人ひとりに与えられているということです。普段は、その権能を教会に委ねているのですが、今どうしても牧師のいない時、所で、罪の告白と洗礼を望む人がいるならば、私どもはその権能によって洗礼を授けなければなりません。人の些細な罪をも許せないような私どもに、罪の赦しを宣言する力が与えられているとは、驚くべきことです。
 教会とは何か。聖霊をいただき、神の力をいただいて「救いを宣べ伝え、信じる者に赦しの宣言をなす信仰者の群れ」、それが「教会」なのです。すると聖霊にみたされ、霊がかたるままに全世界に語った。神の偉大な業を語った。罪の贖いの救い。罪人の救い。教会に与えられている力は罪人の救い、そればかりでなく、洗礼を授け罪の許しの宣言の力があたえられていること。その権能をもつ。
その力は一人一人に与えられている。

今日は、このことだけに止まらず、やはりどうしてもエゼキエル書の御言葉から聴きたいと思います。なぜならば、今の時代は「聖霊を必要としている」と思うからです。
 エゼキエルは、イスラエルがバビロンに捕囚された、捕囚の地にあっての預言者でした。信仰に破れた絶望の民、それが捕囚の民です。その民と共にあって、エゼキエルは預言します。そして、枯れた骨が集まり、そこに肉がつき、人の形が作られる。しかしどうでしょう。生きていないその姿は恐ろしいのです。9節に「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」と言われます。そこに聖霊が臨まなければ、人は生きた者とはなりません。「預言(御言葉)を聞け」と言われ、その御言葉によって「霊が吹き込まれ」、人は「生き返る」のです。

今の時代、すべてにおいて、形は整っていて美しく見える。にもかかわらず、人は霊を失っているようにしか見えません。先に希望が持てないでいる。人自らが作った様々なものにとらわれてしまっているのです。
 そこに必要なものは何か。それは「神の霊」です。今のこの状況から脱し得ない、そして、仕方ないと諦める。また、文化的な生活から脱して昔の生活に戻ろうと思ったとしても、どれだけのことが出来るでしょうか。今の生活から抜けられない。それは諦めざるを得ないことです。
 諦めるしかない、先が見えない、希望が持てない。そういう中で必要なものは、もはや人の力ではありません。人の思いを超えた神の力、神の息吹をこそ、私どもは必要としているのです。それが、このエゼキエル書の語っていることです。

ですから、教会のなすべきことは「御言葉を語ること」であることを覚えたいと思います。「聖霊を受けよ」と語ること、聖霊が働く「主の御言葉」を語ること、それが教会のなすべきことです。

3節の「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。』わたしは答えた。『主なる神よ、あなたのみがご存じです。』」とは、エゼキエルの神に対する不信の言葉です。自ら「信じる」とは言えない。しかし、ただ「あなたのみがご存じです」と答えるエゼキエルに対して、神は「語れ」と言われております。

ですからこそ、今、私どもも語らなければなりません。人を真実に「生きた人」とする「主の御言葉を語る、宣べ伝える」、それが私どものなすべき業であることを覚えたいと思います。