聖書のみことば/2012.4
2012年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
その傷によって」 棕櫚の主日礼拝 2012年4月1日 
小島章弘 牧師 
聖書/ペトロの手紙一 第2章18〜25節

2章<18節>召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。<19節>不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。<20節>罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。<21節>あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。<22節>「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」<23節>ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。<24節>そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。<25節>あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

今日から受難週に入ります。この週の日々イエスさまの歩みを福音書記者は克明に、注意深く、丁寧に、祈りを持って記しています。ホサナと歓迎されてエルサレムに入城したイエスさまの、1週間はまさにめまぐるしく、十字架へと進まれるものでありました。今朝は、ペトロの手紙からみ言葉に聞きたいと思います。

高校野球の選手宣誓で、「人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです」との言葉がありました。その一言が昨年の3月11日の震災のすべてを言い表しているように思います。「苦しみは沈黙する」といわれます。あれから1年が過ぎました。映像や目撃の証言、経験などが明るみに出てきています。でもまだまだ口に出せず、沈黙している方が数多くおられるのではないでしょうか。3月7日の「天声人語」に岩手県の電器店主の40歳の男性、その方は妻と7歳の娘を津波で失った方ですが「泣きたえけど上手に泣けねえ。涙が出ねんだ」との気持ちが書かれていました。苦しみは確かに沈黙すると感じます。また、自死した家族間では20年以上、家庭内でそのことにまったく触れないできたとも聞きました。同じ津波で家族を失ったもの同士でも苦しみを分かち合えないとも聞きました。互いにわからないのです。分かろうとしても、とても分からないのです。苦しみというのは、そのようなものかもしれません。ましてや直接その経験を持たなかった者にとってはなおさらです。

とうてい私どもにはイエスさまの苦しみを想像しようもないものでありました。十字架を前にしたイエスさまは、無口になっていくことが聖書を読んで伝わってきます。それは苦しみを耐え、かみ締めておられたからでしょう。その苦しみについて、与えられたみ言葉に聞いてまいりましょう。

今、使徒信条を告白いたしましたが、その中に短い言葉が書かれています。「ポンテオ・ピラトの下で、苦しみを受け」とあります。この信条はまことに簡潔に、まとめられたもので、無駄なことがなく十分にキリスト教の信仰を見事に表しているものです。特に毎回告白するたびに、処女マリアより生まれに続いて、この言葉が書されていることに胸が締め付けられるのです。
 ルター派の信仰問答書ですが、ハイデルベルク信仰問答書は、37問で次のように書いています。
 問37 「苦しみを受け」という小さな句は、何を意味していますか。
 答 主が、この世のご生涯のすべのときにおいて、ことにその終わりにおいて、絶えず全人類の罪に対する神の怒りを身と魂とをもって受けて、そのみ苦しみを、唯一のなだめの供え物として、われわれの身と魂を、永遠の刑罰より救い、われわれのために、神の恵みと義と永遠の生命とを得てくださるに至ったということ、ということであります。

与えられましたペトロの手紙一2章18以下ですが、そこには「キリストもあなた方のために苦しみを受け、そのお受けになった傷によって、あなた方は癒された」とあります。キリストは、苦しみをお受けになりました。この箇所の小見出しは「召使たちへの勧め」となっています。主人に従いなさい、よい主人でも悪い主人にも、不当な苦しみを受けることになっても、それは神が望まれていることだから、その苦しみに耐えなさい。罪を犯して罰を受けるのであれば、それは何の誉れにもならないのです。しかし、善をして苦しみを受け、それを忍耐するならば、神の喜ばれることなのだといわれています。神が召されたのは、実にそのためだというのです。ペトロの手紙では、そこから逃げ出せとは勧めていません。そのことを呪え、殺してしまえても言っていません。キリストの苦しみは、まさに神に対して従順であり、それはキリストを信じる者たちの模範であるということです。イエス・キリストの苦しみは、そのことを如実に示したものだというのです。イエスは不当な苦しみを受けられたのだと。それはあなた方のためだというのです。あなたのために苦しまれたということです。気難しい主人に傷を負わされるような仕打ちをされるかもしれない。しかし、わたしたちの魂の傷は癒されているのです。

21節以下はキリスト賛歌の一つではないかといわれています。いくつか聖書にキリスト賛歌は記されています。よく知られているのはフィリピの信徒への手紙2:5〜11、ヘブライの手紙、黙示録にも5:9〜10に見られます。この箇所はすでに旧約聖書のイザヤ書53章にありますので、教会ではこれがいろいろな場面で賛美されていたものと考えられます。
 「キリストはわたしたちのために苦しみを受けられた」とあります。それが基調になっています。ここにはいくつかのことが指摘されています。
 まず、基調になっていることは、キリストには罪がない、その口に偽りがない(コリント二5:11、ヨハネ8:46、ヨハネの手紙一3:5、ヘブライ4:15など)。罪なき者が殺される不条理、それがキリストの苦しみに表されています。その死を死んでくださったというのです(イザヤ53:9、ゼファニア3:13)。
 次に、キリストは、苦しみをどのように受けとめられたのかが記されています。
 ☆ののしられてもののしり返さず。☆苦しめられても、人を脅さず(ルカ23:39)。正しく裁かれる方、神にゆだねれた。☆十字架にかかり、私どもの罪を背負ってくださった。罪に死んで義に生きるために(ヘブライ12:2)。☆そのお受けになった傷によって、癒された。この傷という言葉は、鞭よって負った傷と言うことです。みみず腫れの傷です。パッションという映画は、その場面を描いていました(英語では、stripe が使われています。縞模様ということです)。

そのイエスの苦しみと死が模範だとペトロは語ります。それはキリストの十字架で受けられた傷によって癒されるのです。それはわたしたちを根底から救う力となりました。その死は罪をあがない、罪を取り除くものであることを示しています。イエス・キリストの苦しみは、私どもにとってお手本です。
 インドの聖人として知られているサンダー・シング牧師、この方はヒンズー教シーク派の方でしたが、回心しキリスト教の牧師となったのですが、その方の有名な逸話があります。それは、雪の日に歩いていたら助けを求める人がいて、シング牧師は一人でも歩くことが困難な状態でしたが、その人を背負い宿までようやっとたどり着いたのです。途中数人の人が凍死していたのを見かけました。その人たちは、助けを求めたのに通り過ぎていった人たちであることがわかりました。そのときシング牧師は、わたしがあなたを助けたのではない。あなたの体温で暖められ豪雪の中を歩くことができたのだ。苦しみは担うことによって、かえって救われるものです。
 もうひとつは、イエスさまが、捕らえられ、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架を背負いゴルゴダの丘に辿っていかれる嘆きの道で、そこを通りかかったクレネ人シモンという人が、ローマ兵から無理やり十字架を背負わされたという逸話が残されています。それは、望んだことではなく、わけもわからず、答えのないことであったのです。マルコ15:21に、それだけが記されています。この人は、イエスの後姿を見つめながら、何故自分がこんな目に遭わなければならないのか問い続けながらゴルゴタまで十字架を担いでいったのではないか。これは、わたしたちの信仰の歩みを示しているように思います。イエスの後ろから、イエスの背中を見ながら歩くこと、それが信仰だということを聖書は示しています。
 この十字架を理由もなく背負わせたクレネ人シモンは、この後パウロの書いたローマの信徒への手紙に出てきます。16章13節ですが、ローマ教会の一員となっていたのです。私どもの信仰の歩みは、まさにイエスさまの後姿を見つめつつ、十字架(苦しみ)を背負っていくことを示しています。

この人は神の子だ」 受難日礼拝 2012年4月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第27章45〜56節

<45節>さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた<46節>三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<47節>そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。<48節>そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。<49節>ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。<50節>しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。<51節>そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、<52節>墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。<53節>そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。<54節>百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<55節>またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。<56節>その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。

45節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されております。最も明るい昼日中に、全地は暗くなる。「この世の暗さ、闇」を、マタイによる福音書は語っております。この世の闇、それは主イエス・キリストに敵対するこの世のあり方を示すのです。主イエスに何の罪も認めなかったにも拘らず、群衆の声に負けて主を十字架につけたポンテオ・ピラト。主が愛してくださった弟子たちの裏切り。主に敵対し、主を十字架につけようとするこの世のあり方が「闇」として言い表されております。

46節、主イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれる。この世に見捨てられ、神にも見捨てられた者の絶望の叫びをあげられるのです。
 けれども主イエスは、その絶望の淵で、人に対して叫ばれるのではありません。「わが神、わが神」と、主イエスはどこまでも「神」に対して叫ばれるのです。救いを見出せない、その淵で、主イエスは神を呼び求めておられる。主イエスは知っておられるのです。救いを見出せない絶望の淵で、しかし、ただ「神にのみ救いがある」ことを知っておられるのです。「わが神」、「わが」とは、なお神に信頼して止まない言葉です。
 ここに、人の望みがあります。神にまで見捨てられたその淵で、全く神に信頼して神を呼ばれる主。主はそこで、神と一つなる方となっておられるのです。そして、そこにこそ人の希望があります。絶望の淵に、主イエス・キリストがおられる。それが人の希望であると聴いてよいのです。

人にとって「死」とは何か。地上を生きることを望みとする者にとっては、死は全ての終わりとなるのです。一切を失って、死を共にしてくれる者は誰もいません。一人ひとり、地上の歩みは違うゆえに、皆が皆同じ思いに立つことはできません。一人の人の死を、誰も担うことはできない。地上の死とは、人の孤独な、望みなき死なのです。

しかし、主イエスの死はどうでしょうか。見捨てられた絶望の死を、主は死んでくださいました。それが「十字架の死」です。望みなき淵の死を、主は死んでくださった。それは、誰も担うことのできない一人ひとりの死を死んでくださったということです。主イエスは見捨てられた者として十字架に死に、孤独な私どもの死と一つになってくださるのです。
 ですから、そういう意味で、主の十字架の死は私どもの希望です。それは、望みなき淵で「主と一つなるものとされる」という希望なのです。主イエスが、神に見捨てられた望みなき者の死を死んでくださったゆえに、私どもは、死において主と一つとなるのです。

「主の十字架の出来事」を、これまでは「贖い」として語ってきましたが、今日はそのこと以上に「神、臨みたもう出来事」として語りたいと思います。そもそも「贖い」は、弟子たちが復活の主イエス・キリストと出会わなければ理解できないことです。ただ、私どもは「十字架と復活」を一つのものとして聴くことが許されているから分るのです。しかし今日は「神、臨みたもう」こととして聴きたい。そこに希望があるからです。
 絶望の淵に、神が、主イエス・キリストが立っておられる。それは言葉を変えて言いますと、見捨てられた者のただ中に主が臨んでくださることによって、その者は新しく存在を与えられるということです。「見捨てられた者の死」それは「存在を失わせる死」です。人々から存在を抹殺され、追いやられた者の死なのです。主が十字架の死を死んでくださるということは、そのように存在を失った者のただ中に、主が、神が臨んでくださるということです。それが「神の現臨」ということです。人は「神によって存在を得る」のです。失われた淵で、そこに神が臨みたもうことによって、その存在は明らかにされ、新しく存在を与えられるのです。

救いを見出せない、絶望のゆえに存在を失っている者に「神が臨みたもう出来事」それが「主イエス・キリストの十字架の出来事」です。見捨てられた者に、なお神が臨んでくださる。そして、存在を与えてくださる。それが「救い」です。創造の神としての救いです。十字架の主として臨んでくださる神は、創造の神であられるのです。十字架の主イエス・キリストの現臨によって、失われた存在に新しい息吹が与えられるのです。ゆえに、主イエス・キリストの十字架は、私どもの喜びです。

私どもは忘れている。しかし、十字架の主イエス・キリストは忘れたまわない。忘れ去られたその淵で、主はその者と同じ者となって、臨んでくださる。そして、存在を与えてくださる。永遠の命に生きる希望を与えてくださるのです。
 私どもも、いずれは存在を確実に失い、忘れられた者となります。しかし幸いなことに、主イエス・キリストは「忘れられた者そのもの」となってくださる。ゆえに、私どももまた、失われたその淵で主と共に甦り、神の子として永遠の命を生きる者とされるのです。十字架の主イエス・キリストの出来事は、創造主なる神の出来事であることを覚えられれば幸いです。

主が「エリ、エリ」と叫ばれた言葉を、人々は「エリヤ」と聞き間違えて「エリヤを呼んでいる。エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言い合います。そして50節「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」とは、味わい深い御言葉です。十字架の死を死ぬとは、苦しみの死です。十字架上で苦しみ抜いて、苦しみの果てに疲れ果てて、死ぬのです。しかしここでは、「大声で叫び、息を引き取られた」と、主が十字架ですぐに死なれたことが記されております。それは、主がご自分の命を神に返された、自ら引き渡されたということです。それは、主の十字架の死が、自ら進んでの死であることを示しております。
 主イエスは、神なる方、力ある方であるからこそ、自ら進んで絶望の淵に立つことができるのです。自ら絶望の淵に立つことなど、人にはできないことです。

51・52節「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とは、丁寧に訳すならば受動形で語られております。「裂けられ、起こされ、裂かれ、開かれ、」と訳してよいのです。それは、誰かの意志が働いていること、即ち神がそうなさったことを示しております。それは、主の十字架によって「この地に神が臨んでおられる」ということを語っております。人中心の世界、この世の営みを、主の十字架によって神が中断させられた出来事です。
 「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とは、死人が甦らされる様です。地上の生は、死に向かっての歩みです。私どもは、この地上において死の束縛から解き放たれることはできません。しかし、主イエス・キリストの十字架によって人の死への歩みが中断され、人には「主と一つなる者、神の子として主と共に甦る約束」が与えられたのです。

54節「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」と記されております。そこに神が臨んでおられることを知って、異邦人だった百人隊長も、主を「神の子」と言い表すのです。神の現臨により、そう告白せざるを得なかったということです。

改めて覚えたいと思います。「十字架の主イエス・キリストこそ、神の子」であられるのです。主は「十字架の主」として、私どもに臨んでくださいます。

十字架の主の現臨は、忘れ去られ存在を失う私どもに、永遠に尽きることのない神の子としての存在を与えてくださる恵み、救いであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

あなたがたと共にいる」 イースター礼拝 2012年4月8日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第28章11〜20節

<11節>婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。<12節>そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、<13節>言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。<14節>もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」<15節>兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。<16節>さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。<17節>そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。<18節>イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。<19節>だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、<20節>あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

この一週間、マタイによる福音書の御言葉を通して、主のご受難と十字架の出来事に聴きつつ過ごし、今日イースターを迎えることができましたこと、感謝です。
 洗足木曜日、受難日礼拝と、主のご受難を覚えつつ過ごすこと、これは日本の教会の特長です。それは「十字架の信仰に生きる」という敬虔さであり、私どもも大事にしていきたいことです。

今日は、どのように人々が主の復活を受け止めたか、聴きたいと思います。普通は「復活をどのように受け止めたか」を語りますが、11節には「どのように受け入れなかったか」が記されております。聖書は面白いのです。こんなふうに信じられない人がいることが語られているのです。

11節「婦人たちが行き着かないうちに」とは、マグダラのマリアともう一人のマリアが「弟子たちのところに行き着かない先に」ということです。28章1節〜その次第が記されております。週の初めの日の早朝、主イエスの遺体に油を塗るために墓に行った二人のマリアは、石でふさがれ番兵が見張っているはずの墓に天使が現れ、石は取り除かれ「十字架に死んだ主イエスを探しているのか。主は死(墓)の中にはおられない」と、天使から「主イエスの復活」を告げられます。そして二人は、主の復活の印として示された「空の墓」を見て、「このことを急いで弟子たちに告げなさい」という使命を与えられ、「恐れながらも大いに喜び…弟子たちに知らせるために走って」行く、その間に「番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」というのです。
 つまり、墓にいた番兵たちも、二人の婦人と同じことを「祭司長に報告した」のです。28章2節には、神の顕現を見た番兵たちは「恐ろしさに震え上がり、死人のようになった」とあります。番兵たちは天使が婦人に語ったことを聞きました。彼らも「主イエスの復活」を聞いた、そして報告したのです。これも面白いことです。私どもは、「主イエスの復活」の最初の証人は婦人たちだと思っていますが、ここを読みますと、主の復活を最初に証言したのは番兵たちでした。
 「復活」の出来事は、人の思いで信じることはできません。神が告げてくださる、だから自分の思いを変えて信じることができるのです。甦りの主イエスに会ったから信じたのではなく、「天使に告げられた」から信じた、それがここでの「信じる」に至る筋道です。主イエスの復活を最初に告げたのは番兵たち、主イエスの復活を最初に聞いたのは祭司長でした。主に敵対する者たちも「主イエスの復活」を聞いたということです。同じことを聞いたけれども、一方は受け入れ、もう一方は受け入れられませんでした。ここで私どもは、信じられない者たちも「神を現す」のだということ、そして信じられないという現実があっても「神の救いは揺るぎない、確かである」ということを受け止めたいと思います。

告げられたことは「神の臨在」です。「石が取りのけられる」とは「墓が開かれた」ということです。それは「主は甦られた」ということ、「主が死を打ち破った」ことを示すのです。死は閉ざすものです。しかし主の復活により、「開かれ」ました。

「主イエスの復活」を聞いた祭司長たちはどうしたでしょうか。12節「兵士たちに多額の金を与えて」とあります。本来ユダヤの処刑は「石打」であって、「十字架刑」はローマの罪人としての刑なのです。ですから、番兵たちはローマの兵であるはずで、そうであれば彼らはローマの総督ピラトのもとに報告に行くはずです。それなのに、なぜユダヤの祭司長に報告したのでしょうか。27章62節〜、祭司長たちが主の遺体が盗まれることを恐れて、主の墓に番兵を置くことを願い出ていることが記されております。ですから、ピラトがローマの監視のもとに番兵を置いたのではありません。この番兵たちは、祭司長たちに頼まれて、お金で雇われた番兵だった、だから祭司長のところに行ったのです。ピラトは、群衆の声に負けて罪なき主イエスを十字架にかけたために、一切、主イエスの出来事に関わりたくはありませんでした。それが、主を十字架に定めたとき「群衆の前で手を洗った」ということです。

報告を受けた祭司長たちが相談して言ったことは、13節「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」ということでした。総督ピラトに真実を告げるのではなく「説得する」というのです。祭司長たちの言は、既に破綻した内容です。盗まれないように番兵を置いたのに盗まれたのですから、本当は番兵の落度であるはずなのに、盗んだ者を悪者にする。事実をいかに受け止められなかったかということです。事実を曲解して説明しようとしているのです。「主イエスの復活」を信じられない、だから何とか合理的な説明をしようとする。それは真実を曲げるためです。人は真実を受け止めずに、合理的な説明をしてつじつまを合わせようとするのです。この度の原発事故に対する種々の対応にも見られることですが、「合理的」ということには、まやかしがあり危ういのです。それは、事実を受け入れないための人の罪深さであることを覚えたい。合理性は、事柄の真実を見えなくするのです。人の知恵の範囲で合理的に説明できると考える、またそれだけが真実だと思うことの愚かさ、人の驕りを思います。人の思いを超えた真実があるのです。神を畏れることのない者の悲惨さを思います。
 「敬虔さ」は、低さ、謙虚さにあります。科学を神とし万能とすることの愚かさ、傲慢さを知らなければなりません。

祭司長たちはここで、「主イエスは墓にいない」ことを「盗まれた」という言葉で言い表すことによって、怪しい愚かな論理を展開し、却って「主イエスの復活」を現すことになるのです。真実を否定するという形で、しかしなお、真実を証ししている。皮肉なことです。それほどまでに、神の御業は偉大です。
 15節「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている」と、隠そうとしている真実を、結果としてユダヤ人全体が知るに至ったのです。

16節「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」と記されております。二人の婦人は弟子たちの所に着いたのでしょう。婦人たちから天使の言葉を告げられた弟子たちは「主イエスの言葉に従った」のです。まさしくこれが、私どもの姿勢です。御言葉に従って、そこで復活の主にお会いするのです。

17節「しかし、疑う者もいた」とあります。疑う者もいた、けれども「疑う者」も「主の弟子」なのです。自らの思いでは信じられない者がいる。しかしそういう者が排斥されるのではありません。真実を否定する者は、主の弟子とはなれないのです。信じられなかった、けれども真実を拒まなかった、だから復活の主イエスはそういう者にも臨んでくださり、語ってくださるのです。

18節〜「『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、復活の主イエスは弟子たちに言われました。主は弟子たちにご自分に与えられた権能「天と地の一切の権能」を与えるとおっしゃっているのです。「主イエス・キリストの権能」それは「罪を赦す救いの権能」です。人々に「救いを与えよ」と言われているのです。
 11人の主の弟子たち、それは「教会」です。ですから、主は「教会」に「救いの権能」を与えられたのです。「父・子・聖霊」なる「三位一体の神」の御名による洗礼を授け、罪の赦しと救いの宣言をなすのです。
 しかし、間違ってはなりません。主より与えられている権能は「救いの権能」であって、裁きの権能が与えられているのではありません。信じられない者の裁きを語ることはできても、自ら裁く者となってはならないのです。完全な裁きは、神にのみ可能なことです。

主の御言葉を告げること、それが教会の使命です。その教会に、主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、約束してくださっております。復活の主イエスによって、教会は救いの御業をなし、福音を宣べ伝える。それは、教会が主イエス・キリストの宣教の恵みに与るということです。その教会に「主が共にいて」くださるのです。ですから、人は、福音を宣べ伝える教会において甦りの主イエスに出会うのです。そしてそこで、罪の赦しと永遠の命の約束を確かにすることができるのです。恵み深いことです。
 たとえ疑う者があったとしても、主の救いは揺るぎないことを覚えたいと思います。今この場に、主が共にいてくださる、臨んでいてくださるのです。あるいは疑う者も、この群れの中にあるかもしれない。しかし、疑う者も、この群れの中にあることによって、恵みの内にあることを覚えたいと思います。

改めて、主イエスの復活の出来事によって、私どもは「罪の赦しと救いの宣言」を与えられているのだということを感謝をもって覚えたいと思います。

御心に適う者」 4月第3主日礼拝 2012年4月15日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章1〜11節

1章<9節>そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。<10節>水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。<11節>すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。<12節>それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。<13節>イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

9節に、「そのころ」と言われております。
 それは、バプテスマのヨハネがメシア(救い主)の先駆者として現れ、来るべきメシアの到来を告げ知らせて、荒野で人々に「水による悔い改めの洗礼」を授けていた「そのころ」ということです。つまり「メシア到来」の知らせを受けての、次の展開を示す言葉として「そのころ、」と言われております。

そして、その内容は「イエスはガリラヤのナザレから来て」と記されております。メシア到来の知らせを受けた「そのころ」、ここで「イエスの登場」が告げられる、それは「イエスがメシアである」ことを示しているということです。「イエスの登場によってメシアの到来がなされた」ことを印象づける、「メシア到来の時来る!」、それが「そのころ」という言葉によって示される内容なのです。
 まさしく聖書の一言一言は、主イエス・キリストの出来事を受け止めながら語られている、そしてその一言にメッセージがあるということを改めて思います。このように印象づけられた言葉によって、今ここで聖書に聴く私どものところにも「福音が来る」ことを示してくれているのです。

「メシアの到来」が語られていることは、「来て」という言葉が如実に表しております。救い主イエス・キリストは「来てくださった」のです。「救いが来る」ということは、とても重要なことです。私ども人の歴史の中に「救い主が来てくださった」からです。人の思いの先に救いがあるのではありません。人の思いで、自分で救いに至るのであれば、その救いは人の功績でしかありません。
 しかし「救いが来てくださる」、それは、救いが人の思いや行いによるのではなく、「救いは神にある。神から来るものである」ということです。そのことを覚えなければなりません。それが、「イエスはガリラヤのナザレから来て」と、「主イエスが来てくださった」と語られているところに示されている大事なことです。

主イエスは「ガリラヤのナザレ」から来た、と記されております。今でこそ私どもは「ガリラヤのナザレ」を主イエスの育った村として知っておりますが、当時「ナザレ」は、人に知られていない村でした。旧約聖書には出て来ませんし、ヨセフスの著した「ユダヤ古代史」の中にも出て来ない。ユダヤの歴史の中にはない、誰にも分らない村、そういう所から、救い主(イエス)が来たと、聖書はわざわざ記しているのです。なぜか。だからこそ、そこに意図があります。もし、ナザレが名の知れた村であれば、そこの出であるイエスという人物のことも、ある程度理解しやすいことでしょう。しかし、誰も知らない所から来たということになると、誰にも全くイエスという人物を理解できないのです。
 このように、聖書がわざわざ理解できないように記しているということは、主イエスという方が、誰もが氏素性を知り得ない方としておいで下さったということを示しております。そしてそれは、主は人としての氏素性の知れない方であることを暗示しております。つまり主イエスは、人の思いを超えた所から、人の思いを超えた方として来られる。人ではなく「神から来られた方」であるということを暗に示しているのです。

人に知られているということが幸いなわけではありません。誰にも知られていないことの幸いもあります。知られていない者と共に、神がいてくださるからです。知られている人は、既に人から覚えられることによって存在を得、神を必要としません。また、知られている者を忘れ去って存在を失わせてしまう、それが人の知り方です。
 知られざる者を知っていてくださる方、それが神です。知られていない者を知っていてくださる、そして存在を与えてくださる、それが神に知られていることの幸いなのです。

さて、聖書には、多くのつまづきを生む言葉が記されております。
 主イエスが「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」という記述によって、多くの教会、多くの神学者がつまづき、注解書が混乱しました。人の知恵で考えるならば、それは当然のことです。
 バプテスマのヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」であり、主イエスの洗礼は「聖霊による、救いの印としての洗礼」ですから、当然、主の洗礼の方が上です。ですから、マタイによる福音書によれば、主イエスがヨハネから洗礼を受けようとされた時、ヨハネはそれを拒んで「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3章14節)と言い、それに対して主が「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)と言われたと記されております。マタイ福音書はマルコ福音書よりも後に書かれたものですから、イエスがヨハネから洗礼を受けられたことを受け入れ難く、この記述を付け加えたのでしょう。主イエスがヨハネの洗礼を受けるということは「罪なき神の子が悔い改める」ということであり、それはおかしい。主イエスは悔い改める必要はないはずであると、多くの者が考え、つまづいたのです。
 しかし、マルコによる福音書は、ただ「ヨハネから洗礼を受けられた」と記します。多くの者の様々な詮索がある、しかしそのことによっても「主イエスがヨハネから洗礼を受けられたことが真実である」ことが示されるのです。

しかしここで、私どもは「ではなぜ、主イエスは悔い改めの洗礼を受けられたのか」を真実に問い、その意味を考えたいと思います。
 私どもの洗礼は、主イエスによって「救いの印」として与えられておりますが、それは当然のこととして「悔い改めが含まれている」のです。私どもの洗礼は「悔い改めの洗礼」であり「救いの洗礼」なのです。その私どもが受けるべき悔い改めの洗礼を「主イエスが受けてくださった」、それが大事なことです。主には必要ない洗礼、けれども主は受けてくださった。ですからそこで、私どもは洗礼において「主イエスと一つなるものとなる」ということです。それは、「主と一つなるものとされる恵み」なのです。
 私どもの洗礼は「主イエスが受けてくださった洗礼」であることを覚え、弁えなければなりません。神の御子なる主イエスが受けてくださった、だからこそ、私どもも「神の子と一つとされる、神の子とされる」のです。
 主にとって洗礼は無用であり、不必要なものです。けれども、主が受けてくださった洗礼だからこそ、私どもにとって洗礼とは必要不可欠なものであることが分ります。私どもは、洗礼を受けないわけにはいかないのです。
 ですから「主イエスがヨハネから洗礼を受けられた」、それは「私どもの救いのために不可欠な洗礼であった」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。

しかしここで、マルコによる福音書がこのことを記す意図は、悔い改めの洗礼がどうこうということではありません。主イエスが洗礼を受けられたことによって明らかにされることがあるのです。主イエスの洗礼に対する疑問は、ここには一切ありません。
 主イエスの洗礼によって明らかにされること、それをマルコによる福音書は示そうとしております。11節「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」と記されております。
 「主イエスこそ、神の愛する子、神の御心に適う者、神の御心そのものなる方」であること、それが、この福音書に聴く者に対し、明らかにされていることです。主イエスは神のひとり子であり、そのひとり子を神が愛しておられること、そして主イエスこそ神の御心に適う者であることが明らかに示されております。

ここに言われる「神の御心に適う者」とは、どういうことでしょうか。「主イエスは神の子でありながら、人としてこの世においでくださった」こと、それが「神の御心」です。この後、主は苦難の道を歩まれ「十字架につけられる」、それが「神の御心」であることが、ここに示されていることです。そして「主イエスの十字架こそが私どもの救いである」こと、それが神の御心であることを示しております。

「人としてのすべてを、主イエスが担ってくださる」、それが「神の御心」であるとするならば、それは何と麗しいことでしょう。救い主イエス・キリストによって、「私どもの人生のすべては、神の御心である」と受け止めることができます。主イエスは私どもの喜びだけではなく、人の苦しみ、苦しみの果てなる死までも担ってくださる方です。私どもには受け止めきれないさまざまなことを、主は受け止めてくださるのです。
 私どもの人生は、私どもの思いによっては、神の御心に適う人生を送ることなど誰一人できません。しかし、主イエスが「神の御心に適う者」であってくださる。ですから、主を信じる者、主の洗礼に与る者は、その人生のすべてが神の御心として受け入れられている人生であり、神の御心として神の祝福のうちにあるのだということを覚えたいと思います。

そして、知らなければなりません。
 主イエスが「名を知られない村から来られた」こと、「悔い改めの洗礼を受けてくださった」こと、「神の御心として、私どもの救いのために十字架にかかり苦しみを担ってくださった」こと、このすべてに共通することは、「神が低きに至ってくださった」ということです。
 人はどうでしょうか。人は、ひとかどの者になりたいと、自分を大きく高くしようとするのです。しかし、主イエスは「低く」なってくださいました。低くなって、ご自分には必要のない洗礼を受けてくださいました。神の子でありながら、自ら低くなって「人となり、十字架につかれた」こと、それは「父なる神の御心に適う者」として、主がなしてくださったことです。十字架につき、人の悲しみ、苦しみをご自分のものとしてくださった、それは神なる方、主イエスが低くなってくださったということです。
 ですから、「わたしの心に適う者」という言葉には、神が低くなってくださったことの恵みが示されているのです。

弱さを引き受けることは辛いことです。弱さを担う、低くなる、それは人にはできないことなのです。しかし、最も低いそのところで「主が担ってくださる」。主が担ってくださるから、そこで初めて、私どもは自らの弱さを受け入れることができるのです。そこでこそ、自分を真実に生きることができる。弱さのままで、高ぶらず尊大にならずに生きられる、その出発点となるのです。真実に、謙遜な者として生きることができるようになるのです。

私どもは高ぶろうとし、弱さを担えない者です。けれども私どもの現実は、衰えいく者に過ぎません。その弱さの中にあって、しかし私どもは、自分らしく生きることができます。自ら低くなって人となり、私どもの近くにいたもう神、主イエス・キリストを覚えることによって、弱さのまま、自然なままを生きることができるのです。

十字架の主イエス・キリストこそ、私どもに存在を与え、私どもの人生のすべてを担ってくださり、私どもの存在を豊かにしてくださる方であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

誘惑を受けられる主」 4月第4主日礼拝 2012年4月22日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章12〜15節

1章<12節>それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。<13節>イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。<14節>ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、<15節>「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

主イエスがヨハネから洗礼を受けられると、天が裂け、霊が鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたと、この前の箇所で語られております。これは、主イエスが神の愛する独り子であり、神の御心として人の救いをなされる方であることを、神が宣言してくださっているという出来事です。主イエスが活動を始められる前に、主イエスとはどういう方なのか、マルコによる福音書はここに記しております。

そして12節、普通であれば、主がどのように活動を始められたかが語られるところでしょう。14節から始まってもよいのです。しかし、その前に前史として12・13節が語られております。
 12・13節、「救い主」を「荒れ野」に送り出す、と記されております。「荒れ野」とは、人の住まない場所です。イエスは人々を救う救い主であるのに、人のいない場所に何をしに行くのでしょうか。「送り出す」という言葉は、ギリシャ語の本来の意味からすると弱いニュアンスです。むしろ「投げ出す」とか「追いやる」という、霊が主イエスを荒れ野に「強いて送り出す」というニュアンスです。ですから、主が荒れ野に行かれることは、「神の意志」であることを表しております。神は主イエスに、サタンの誘惑を受けさせておられるのです。当時、「荒れ野」はサタンの住まいだとされていました。ですから、荒れ野に送り出すことはサタンの元に送るということなのです。「サタンの誘惑を受ける」ということが、救い主にとって必要なことであるとすれば、それは即ち、私どもの救いにとって必要な出来事であったということです。

「40日間」とは、いろいろと思い起こされる日数です。旧約の預言者エリヤは40日間祈りました。新約・使徒言行録によれば、復活の主イエスは40日間、弟子たちに現れてくださいました。40日間とは、神の設けられた聖なる期間であり、神が定められた大切な時なのです。
 「サタン」ということについては、時代と共に内容の変遷がありました。元々ヘブルの思想の中にサタンはありませんでしたが、バビロン捕囚後、ゾロアスター教などの影響により入ってきたと思われます。ヘブルは一神教ですから、サタンは神に敵対する者という立場ではない。ヨブ記を読みますと、サタンは天上の天使の一員でであり、人々の行状を神に知らせる告発者です。しかし、後々ユダヤ教では、サタンは悪魔の頭として、神に敵対する者というニュアンスに変わり、ここではそういう存在として記されております。

荒れ野で、主イエスは「サタンから誘惑を受けられ」ました。「サタンの誘惑」とは何か。「サタンの誘惑」とは「人を神から遠ざけること」です。「サタンの誘惑」に人は勝てません。「試練」は人の思いを清めますが、「誘惑」は貶めるのです。どうして人は誘惑に勝てないのでしょうか。それは、誘惑が、人の欲することを提示してくれるものだからです。だから、人はそれに引きずられてしまうのです。そういう恐ろしいものでありながら、サタンは、恐ろしい姿形で近寄って来るのではありません。サタンは人の思いを知っておりますから、その人にとって心地よい、いいなと思う姿でやって来る。それは、お金や美しさというようなことだけではありません。人の誠実さや正義感、熱心さなどでもあるのです。社会正義などもそうです。教会もかつて、そのような誘惑に翻弄されました。しかし、そういうことは人に完結できることではありません。ですから、誘惑によって人は自己分裂を起こし、破滅してしまうのです。サタンとは実に巧妙であり、人がサタンに勝つことは難しいのです。
 「試練」は、自分の欲していないことを強いられるわけで、そのことに耐えれば耐えるほどに、人の思いは純化されていきます。信仰者になぜ試練が多いか。それは、キリストが自分のすべてになるからです。神がすべてであれば、この世の価値観は自分を苦しめるものとなる。神と一つとなっているから、神の支えがあるから、試練なのです。神なしに生きるならば、この世の価値観は誘惑であり、勝てない。このように同じ事柄であっても、神にある者(信仰者)にとっては試練であり、神なしに生きる者にとっては誘惑となるのです。

私どもは、誘惑に生きなければならない者です。だからこそ「主イエスが誘惑を受けられた」ということは、私どもにとって、とても大事なことです。「受けられた」という言葉は、本来のギリシャ語の内容からすると、過去形ではなく「40日間受け続けられ、そして今も受け続けられている」というニュアンスです。ここに大切なことがあります。主は誘惑を退けられました。主は誘惑に勝利された、だから「受けられた」と訳さざるを得ない。マルコによる福音書では、誘惑の内容を詳細に語っておりませんが、「40日間、受けられた」という表現によって、主イエスが「ありとあらゆる誘惑に遭われた」ことが示されております。

主イエスは誘惑に勝利されました。では、今なお「誘惑を受け続けている」とは、どういう意味なのでしょうか。使徒パウロは、教会の迫害者であり、復活の主イエスに出会ったとき、主に「なぜ、わたしを苦しめるのか」と問われます。しかしパウロは、キリスト者を迫害していたのであって、主イエスを苦しめているつもりはなかったはずです。この主の問いで示されることは何か。主イエスは教会そのものであられるということです。迫害され、殉教する者たちと一つであってくださる方なのです。キリスト者と結びあってくださる主イエスが、キリスト者の苦しみを共にしてくださるということは、誘惑に生きるキリスト者と同じく、主が誘惑を受けてくださるということです。私どもキリスト者が苦しむとき、主イエスが共に苦しんでくださる、そして今も共に苦しんでくださっているのです。

そして主は、キリスト者の苦しみ、誘惑に勝利してくださいました。私どもは誘惑に勝つことはできません。しかし幸いなことに、私どもと同じ誘惑を主が受けてくださって、そして退けてくださっているのです。何と感謝なことでしょう。今、この時も、主が誘惑を退けてくださって、私どもを守っていてくださるのです。私どもは「主の祈り」を祈ります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈る。悪には勝てない私どもだから「守ってください」と祈る他ないのです。
 ですから「主イエスが誘惑を受けてくださった」ことは、私どもの救いのために必要なことであったことを忘れてはなりません。神は知っておられるのです。人は誘惑に勝てない者であることを知っておられる。だから神は主イエスを荒れ野へと遣わし、主が私どもの救い主であることを示してくださったのです。メシア(救い主)は、私どもと共にあり結び合う者として、誘惑に勝利し、私どもを守ってくださる方なのです。このことが、12・13節に、主の活動の前史として語られていることです。

自分が得意とし誇りとする、そういうことに溺れてしまう私どもです。主イエスは、そういう誘惑をも退け、私どもを守っていてくださる方であることを感謝したいと思います。

続けて「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と記されております。「野獣」とは、人や家畜に害を加えるものですが、しかしここでは、主は野獣の害を受けなかったと言われております。
 創世記、エデンの園(楽園)で、人(アダム)は「園のどの木から取って食べてもよいが、善悪の知識の木からは決して食べてはならない」と神に命じられますが、誘惑に負け、食べてはならない実を食べ、楽園を追われるのです。しかし、失楽園以前のアダムは、野獣の王でした。野獣も天使も、人(アダム)に仕えていたというニュアンスです。
 「主イエスが誘惑のただ中に来られる」こと、それは「主イエスが一人の義人として来られた」ことを示しております。つまり、この世を本来あるべき神との正しい関係に変えてくださる義人として、主が来られたことを示しているのです。ですから、野獣も主の支配のうちにあるので、主を害さない。モーセやエリヤは荒れ野では断食していましたが、主は荒れ野で食事をしておられる。「天使たちが仕えていた」とは、天使たちが食事を作っていたというイメージです。つまりここでは、主イエスが「失われた楽園の回復者として来られた」ことを示しているのです。一人の義人として、世界を失楽園以前に回復させてくださる方として、主イエスが来られた。「義なる方、主イエスによって神との関係が回復される」、これはキリスト教にとって大事な考え方です。

人は、正しくいることはできません。主イエスが十字架につき、義を貫いてくださったことによって、私どもはその主の義をいただき、義なる者とされ、神との正しい交わりに生きることができる、そのことを覚えたいと思います。「主が荒れ野で誘惑を受けられる」、ここには、終末における神との完全な交わり、神との正しい関係ということが示されているのです。

私どもが主イエスを信じるとき、主は、私どもと一つなる者として結び合い、苦しみを共にしてくださいます。私どもは苦しみに勝つことはできない、けれども、私どもは、主がその苦しみに勝利してくださるという「慰め」のうちにあるのです。マルコによる福音書は、主イエス・キリストの前史として、主が「義なる方」として「救い主」であることを語ってくれております。

時は満ちた」 4月第5主日礼拝 2012年4月29日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章12〜15節

1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」<9節>そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。<10節>水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。<11節>すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。<12節>それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。<13節>イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。<14節>ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、<15節>「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

1節〜15節までは、マルコによる福音書の「序」となる箇所です。この後、「主イエス・キリストの御業」が具体的に語られていくのです。
 この序において「主イエスは神の独り子であり、神の御心に適う者としてメシア(救い主)であられる」ことが明らかにされ、福音書全体の要約がなされます。そして、15節、序の締めくくりは「時が満ち」た、ということです。

14節から聴いていきます。「ヨハネが捕らえられた後」と記されております。この「捕らえられ」とは、通常の「捕らえられた」ということとは違って、「獄に引き渡された」という意味合いです。ヨハネは主イエス・キリストの先駆者として、主が「聖霊による洗礼を与える方」であり、「聖書(旧約)が預言しているメシア」であることを宣べ伝えました。このヨハネが「引き渡された」ということは、ヨハネの時が終わったことを示しているのです。そして「主イエスの時が来た」、それが「時は満ち」が示すことです。「時が満ちる」それは「神が定められた時が来た」ということなのです。

ここで、ヨハネが「引き渡された」ということについて、更に聴いておかなければなりません。「引き渡された」という言葉が使われていることは重要なことです。それは、後に主イエスご自身が使われる言葉だからです。ご自分が「十字架に引き渡される」と、主は予告されました。9章31節「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」、10章33節「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す」と、主ご自身がこの言葉を用いておられます。ですからここで「ヨハネが『引き渡された』」という言葉は、「主イエスが十字架へと引き渡される」ことを暗示して使われているのです。ヨハネは、主イエスを証ししただけではなく、「主イエスの十字架の先駆け」となって、主が「メシアとして」、しかし「メシアでありながら、人々の手に引き渡される方」であることを示しているのです。
 そして、主イエスは、ご自身が「十字架に引き渡される」ことを自覚して、ガリラヤへ向かわれます。この「主イエスの自覚、メシアとしての自覚」とは何でしょうか。それは「十字架において人々の贖いをなすメシアである」という自覚です。

14節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」と記されております。主イエスは、人の罪の贖いのために「十字架に引き渡されることを自覚して」苦難への道を「ガリラヤ」に向かわれる、それが主イエスの活動の初めでした。
 しかし、主はなぜ、活動の初めにガリラヤに行かれるのでしょうか。主は「神の福音を宣べ伝え」るために、荒れ野からガリラヤへ向かわれます。メシアを待望しているユダヤ人たちにとって、ガリラヤは相応しい場所なのでしょうか。いえ、相応しいのは、神殿のある「エルサレム」です。エルサレムには、信仰深く敬虔な者たちが集まっております。そういう者たちが待ち望むメシアとして、主イエスは来られた、しかし主はエルサレムではなくガリラヤに行かれるとは、人の思いでは理解できないことです。

ガリラヤは、旧約聖書の預言でしばしば「異邦人の町」と記されております。しかし実際には、そうではありません。ただ、異邦人の町との境にあって異邦人との交流のある地でありました。来週語る予定の「ガリラヤの漁師」たち、彼らは、とても信仰熱心な者とは言えない者たちですから、エルサレムの人々から見れば、ガリラヤの者とは田舎者という感じです。
 しかし、田舎であり信仰篤い地とは言い難い、そんなガリラヤが「主の活動の初めの場、栄光の場」と定められたこと、それは旧約の預言に語られていることです。知性と教養から遠い町ガリラヤ、主はまず、そういう所に行かれるのです。

もし、主がまずエルサレムに行かれていたとしたら、どうだったでしょうか。待望のメシアとして、信仰熱心な人たちの所に主が行かれたならば、大いに盛り上がったことでしょう。そこで起こることは熱狂であり、静まって、主を「メシア」として受け止めることはできなかったでしょう。熱狂は暴動ともなる。人々の思い込みは大騒動を引き起こし、本来の「メシア」の意味を失って、人の思い込みによるメシア像へとすり替わってしまったことでしょう。熱狂は、人に冷静さを失わせます。
 信仰とは、平常心を養うことです。自らを「神にある平安」に置くことです。ユダヤ人の挨拶は「シャローム」であり、それは「平安」という意味です。平安のない所で、しかし「神にある平安を生きる」こと、それが「信仰」なのです。
 だからこそ、主が最初に行かれるのは、エルサレムではない。そこでは、熱狂によって、神の真実よりも人の思いが勝ってメシアを迎えてしまうからです。熱狂によって、神にある秩序が損なわれ、破壊されてしまい、人が人を傷つけ裁くということが起こる。神にある秩序こそが平安です。それゆえに、エルサレムではないのです。

ではなぜ、ガリラヤなのでしょうか。ガリラヤは、何も分っていない場所です。信仰の薄い場と言われております。熱狂や暴動は起きませんが、しかし、信仰をもって迎えるべきメシアを正確には受け止められない、単に「無理解」な場所なのです。
 主は、何も分らない、信仰薄い者のところで活動される。しかしそれは、そこでこそ、主の救いが必要だから、だからこそ主はガリラヤに行かれるのです。
 信じることができない、無理解な者たちこそ、救いを必要としております。主イエスは「人の罪を贖う」ことの自覚をもって、無理解な、信仰薄き者たちの救いのために、ガリラヤへと向かわれるのです。自分自身で信仰に至ることからほど遠い者のために、主は十字架への自覚のゆえに、ガリラヤへと向かわれる。それは、信仰を理解できず、救いからほど遠い者たちに、主がご自身が臨み、友となってくださったという出来事です。
 このことは、私どもにとって大事なことです。ガリラヤ同様に無理解で信仰薄い私どものところに、主がおいでくださっていることが示されているからです。それが、主のガリラヤ行きなのです。敬虔な信仰深い者たちの所にではなく、いわゆる俗物たる者の地で、主は福音を宣べ伝えてくださるのです。

ここで「神の福音を宣べ伝えて」とありますが、「神の福音」と「主イエス・キリストの福音」とは同じものなのでしょうか。「主イエス・キリストの福音」は、十字架と復活、すなわち「贖いと救いの福音」です。
 そして、ここで主イエスが宣べ伝えておられる福音は、「神の国は近づいた」というものですが、「神の福音」とは「神の国の到来を告げる喜びの知らせ」です。
 そして「神の国」とは「神の支配」です。このことは、今の時代に大切なことです。人の支配ではなく、神の支配が告げられることが福音であると言われております。今まさに、私どもは、人の支配の悲惨さを味わっていることを思います。そして、神の国の福音の恵み深さを思います。なぜならば、人の支配の愚かさにも拘らず、その愚かさのただ中で、しかしなお、ここに「神の支配がある」ことが告げられているからです。何と幸いなことでしょう。
 愚かさ、悲惨さのただ中にあって、なお、私どもが平安を見出すことができるのは、「神の国の支配」があってくださるからです。神の支配を望み見るときに、人は平安なのです。

ですから、神の国の到来は、今の私どもにとって不可欠なことです。何よりも必要なことです。信じないでは済まされない出来事なのです。神が「十字架の主イエス・キリスト」までくださって私どもを救ってくださるとは、どんなに大きな恵み、幸いであるかを思います。

「時が満ちた」とは、「神の時、神の支配が始まった」ことを告げる恵みの言葉です。「こんな私どもの所に、神の支配がある」その神を信じるならば、私どもは平安の中に生きることができるのです。

「神の支配が始まる」、それは「主イエスの御業がなされる時に始ま」ります。ですから、私どもは、主イエスの御業を聴くことによって、神の支配の内にあることを聴くことができるのです。それが、これからこの福音書に語られていることを聴いていくことの恵みです。

そして、ここで問われ、示されていることがあります。それは、人の支配にではなく「神の支配に目を向けないさい」ということです。「悔い改めて、信じること」が求められております。
 神の支配が告げられているにも拘らず、不平不満はあっても、平安のない私どもです。そのような日常にうなだれるしかない、諦めるしかないと、諦めとしての信仰を持つべきではありません。諦めしかない、うなだれるよりない、しかしその中で「神にある平安を見る、神を信じる」ことが求められております。人の支配から「神の支配へと目を向けよ」と、主は言っていてくださるのです。
 そしてこのことが、福音書全体を覆っていることです。

御言葉が語られる、その都度都度に、私どもには「信じる」ことが求められております。そういう意味で、14・15節は、福音書全体の「序」であり、これから語られることを私どもがどう受け止め、どう聴いたらよいのかを示してくれているのです。
 短い簡潔な文章ですが、大変整えられた御言葉であり、そこに示されていることの恵み深さを思わされます。感謝です。