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今日から受難週に入ります。この週の日々イエスさまの歩みを福音書記者は克明に、注意深く、丁寧に、祈りを持って記しています。ホサナと歓迎されてエルサレムに入城したイエスさまの、1週間はまさにめまぐるしく、十字架へと進まれるものでありました。今朝は、ペトロの手紙からみ言葉に聞きたいと思います。 高校野球の選手宣誓で、「人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです」との言葉がありました。その一言が昨年の3月11日の震災のすべてを言い表しているように思います。「苦しみは沈黙する」といわれます。あれから1年が過ぎました。映像や目撃の証言、経験などが明るみに出てきています。でもまだまだ口に出せず、沈黙している方が数多くおられるのではないでしょうか。3月7日の「天声人語」に岩手県の電器店主の40歳の男性、その方は妻と7歳の娘を津波で失った方ですが「泣きたえけど上手に泣けねえ。涙が出ねんだ」との気持ちが書かれていました。苦しみは確かに沈黙すると感じます。また、自死した家族間では20年以上、家庭内でそのことにまったく触れないできたとも聞きました。同じ津波で家族を失ったもの同士でも苦しみを分かち合えないとも聞きました。互いにわからないのです。分かろうとしても、とても分からないのです。苦しみというのは、そのようなものかもしれません。ましてや直接その経験を持たなかった者にとってはなおさらです。 とうてい私どもにはイエスさまの苦しみを想像しようもないものでありました。十字架を前にしたイエスさまは、無口になっていくことが聖書を読んで伝わってきます。それは苦しみを耐え、かみ締めておられたからでしょう。その苦しみについて、与えられたみ言葉に聞いてまいりましょう。 今、使徒信条を告白いたしましたが、その中に短い言葉が書かれています。「ポンテオ・ピラトの下で、苦しみを受け」とあります。この信条はまことに簡潔に、まとめられたもので、無駄なことがなく十分にキリスト教の信仰を見事に表しているものです。特に毎回告白するたびに、処女マリアより生まれに続いて、この言葉が書されていることに胸が締め付けられるのです。 与えられましたペトロの手紙一2章18以下ですが、そこには「キリストもあなた方のために苦しみを受け、そのお受けになった傷によって、あなた方は癒された」とあります。キリストは、苦しみをお受けになりました。この箇所の小見出しは「召使たちへの勧め」となっています。主人に従いなさい、よい主人でも悪い主人にも、不当な苦しみを受けることになっても、それは神が望まれていることだから、その苦しみに耐えなさい。罪を犯して罰を受けるのであれば、それは何の誉れにもならないのです。しかし、善をして苦しみを受け、それを忍耐するならば、神の喜ばれることなのだといわれています。神が召されたのは、実にそのためだというのです。ペトロの手紙では、そこから逃げ出せとは勧めていません。そのことを呪え、殺してしまえても言っていません。キリストの苦しみは、まさに神に対して従順であり、それはキリストを信じる者たちの模範であるということです。イエス・キリストの苦しみは、そのことを如実に示したものだというのです。イエスは不当な苦しみを受けられたのだと。それはあなた方のためだというのです。あなたのために苦しまれたということです。気難しい主人に傷を負わされるような仕打ちをされるかもしれない。しかし、わたしたちの魂の傷は癒されているのです。 21節以下はキリスト賛歌の一つではないかといわれています。いくつか聖書にキリスト賛歌は記されています。よく知られているのはフィリピの信徒への手紙2:5〜11、ヘブライの手紙、黙示録にも5:9〜10に見られます。この箇所はすでに旧約聖書のイザヤ書53章にありますので、教会ではこれがいろいろな場面で賛美されていたものと考えられます。 そのイエスの苦しみと死が模範だとペトロは語ります。それはキリストの十字架で受けられた傷によって癒されるのです。それはわたしたちを根底から救う力となりました。その死は罪をあがない、罪を取り除くものであることを示しています。イエス・キリストの苦しみは、私どもにとってお手本です。 |
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45節「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されております。最も明るい昼日中に、全地は暗くなる。「この世の暗さ、闇」を、マタイによる福音書は語っております。この世の闇、それは主イエス・キリストに敵対するこの世のあり方を示すのです。主イエスに何の罪も認めなかったにも拘らず、群衆の声に負けて主を十字架につけたポンテオ・ピラト。主が愛してくださった弟子たちの裏切り。主に敵対し、主を十字架につけようとするこの世のあり方が「闇」として言い表されております。 46節、主イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれる。この世に見捨てられ、神にも見捨てられた者の絶望の叫びをあげられるのです。 人にとって「死」とは何か。地上を生きることを望みとする者にとっては、死は全ての終わりとなるのです。一切を失って、死を共にしてくれる者は誰もいません。一人ひとり、地上の歩みは違うゆえに、皆が皆同じ思いに立つことはできません。一人の人の死を、誰も担うことはできない。地上の死とは、人の孤独な、望みなき死なのです。 しかし、主イエスの死はどうでしょうか。見捨てられた絶望の死を、主は死んでくださいました。それが「十字架の死」です。望みなき淵の死を、主は死んでくださった。それは、誰も担うことのできない一人ひとりの死を死んでくださったということです。主イエスは見捨てられた者として十字架に死に、孤独な私どもの死と一つになってくださるのです。 「主の十字架の出来事」を、これまでは「贖い」として語ってきましたが、今日はそのこと以上に「神、臨みたもう出来事」として語りたいと思います。そもそも「贖い」は、弟子たちが復活の主イエス・キリストと出会わなければ理解できないことです。ただ、私どもは「十字架と復活」を一つのものとして聴くことが許されているから分るのです。しかし今日は「神、臨みたもう」こととして聴きたい。そこに希望があるからです。 救いを見出せない、絶望のゆえに存在を失っている者に「神が臨みたもう出来事」それが「主イエス・キリストの十字架の出来事」です。見捨てられた者に、なお神が臨んでくださる。そして、存在を与えてくださる。それが「救い」です。創造の神としての救いです。十字架の主として臨んでくださる神は、創造の神であられるのです。十字架の主イエス・キリストの現臨によって、失われた存在に新しい息吹が与えられるのです。ゆえに、主イエス・キリストの十字架は、私どもの喜びです。 私どもは忘れている。しかし、十字架の主イエス・キリストは忘れたまわない。忘れ去られたその淵で、主はその者と同じ者となって、臨んでくださる。そして、存在を与えてくださる。永遠の命に生きる希望を与えてくださるのです。 主が「エリ、エリ」と叫ばれた言葉を、人々は「エリヤ」と聞き間違えて「エリヤを呼んでいる。エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言い合います。そして50節「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」とは、味わい深い御言葉です。十字架の死を死ぬとは、苦しみの死です。十字架上で苦しみ抜いて、苦しみの果てに疲れ果てて、死ぬのです。しかしここでは、「大声で叫び、息を引き取られた」と、主が十字架ですぐに死なれたことが記されております。それは、主がご自分の命を神に返された、自ら引き渡されたということです。それは、主の十字架の死が、自ら進んでの死であることを示しております。 51・52節「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」とは、丁寧に訳すならば受動形で語られております。「裂けられ、起こされ、裂かれ、開かれ、」と訳してよいのです。それは、誰かの意志が働いていること、即ち神がそうなさったことを示しております。それは、主の十字架によって「この地に神が臨んでおられる」ということを語っております。人中心の世界、この世の営みを、主の十字架によって神が中断させられた出来事です。 54節「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」と記されております。そこに神が臨んでおられることを知って、異邦人だった百人隊長も、主を「神の子」と言い表すのです。神の現臨により、そう告白せざるを得なかったということです。 改めて覚えたいと思います。「十字架の主イエス・キリストこそ、神の子」であられるのです。主は「十字架の主」として、私どもに臨んでくださいます。十字架の主の現臨は、忘れ去られ存在を失う私どもに、永遠に尽きることのない神の子としての存在を与えてくださる恵み、救いであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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この一週間、マタイによる福音書の御言葉を通して、主のご受難と十字架の出来事に聴きつつ過ごし、今日イースターを迎えることができましたこと、感謝です。 今日は、どのように人々が主の復活を受け止めたか、聴きたいと思います。普通は「復活をどのように受け止めたか」を語りますが、11節には「どのように受け入れなかったか」が記されております。聖書は面白いのです。こんなふうに信じられない人がいることが語られているのです。 11節「婦人たちが行き着かないうちに」とは、マグダラのマリアともう一人のマリアが「弟子たちのところに行き着かない先に」ということです。28章1節〜その次第が記されております。週の初めの日の早朝、主イエスの遺体に油を塗るために墓に行った二人のマリアは、石でふさがれ番兵が見張っているはずの墓に天使が現れ、石は取り除かれ「十字架に死んだ主イエスを探しているのか。主は死(墓)の中にはおられない」と、天使から「主イエスの復活」を告げられます。そして二人は、主の復活の印として示された「空の墓」を見て、「このことを急いで弟子たちに告げなさい」という使命を与えられ、「恐れながらも大いに喜び…弟子たちに知らせるために走って」行く、その間に「番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」というのです。 告げられたことは「神の臨在」です。「石が取りのけられる」とは「墓が開かれた」ということです。それは「主は甦られた」ということ、「主が死を打ち破った」ことを示すのです。死は閉ざすものです。しかし主の復活により、「開かれ」ました。 「主イエスの復活」を聞いた祭司長たちはどうしたでしょうか。12節「兵士たちに多額の金を与えて」とあります。本来ユダヤの処刑は「石打」であって、「十字架刑」はローマの罪人としての刑なのです。ですから、番兵たちはローマの兵であるはずで、そうであれば彼らはローマの総督ピラトのもとに報告に行くはずです。それなのに、なぜユダヤの祭司長に報告したのでしょうか。27章62節〜、祭司長たちが主の遺体が盗まれることを恐れて、主の墓に番兵を置くことを願い出ていることが記されております。ですから、ピラトがローマの監視のもとに番兵を置いたのではありません。この番兵たちは、祭司長たちに頼まれて、お金で雇われた番兵だった、だから祭司長のところに行ったのです。ピラトは、群衆の声に負けて罪なき主イエスを十字架にかけたために、一切、主イエスの出来事に関わりたくはありませんでした。それが、主を十字架に定めたとき「群衆の前で手を洗った」ということです。 報告を受けた祭司長たちが相談して言ったことは、13節「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」ということでした。総督ピラトに真実を告げるのではなく「説得する」というのです。祭司長たちの言は、既に破綻した内容です。盗まれないように番兵を置いたのに盗まれたのですから、本当は番兵の落度であるはずなのに、盗んだ者を悪者にする。事実をいかに受け止められなかったかということです。事実を曲解して説明しようとしているのです。「主イエスの復活」を信じられない、だから何とか合理的な説明をしようとする。それは真実を曲げるためです。人は真実を受け止めずに、合理的な説明をしてつじつまを合わせようとするのです。この度の原発事故に対する種々の対応にも見られることですが、「合理的」ということには、まやかしがあり危ういのです。それは、事実を受け入れないための人の罪深さであることを覚えたい。合理性は、事柄の真実を見えなくするのです。人の知恵の範囲で合理的に説明できると考える、またそれだけが真実だと思うことの愚かさ、人の驕りを思います。人の思いを超えた真実があるのです。神を畏れることのない者の悲惨さを思います。 祭司長たちはここで、「主イエスは墓にいない」ことを「盗まれた」という言葉で言い表すことによって、怪しい愚かな論理を展開し、却って「主イエスの復活」を現すことになるのです。真実を否定するという形で、しかしなお、真実を証ししている。皮肉なことです。それほどまでに、神の御業は偉大です。 16節「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」と記されております。二人の婦人は弟子たちの所に着いたのでしょう。婦人たちから天使の言葉を告げられた弟子たちは「主イエスの言葉に従った」のです。まさしくこれが、私どもの姿勢です。御言葉に従って、そこで復活の主にお会いするのです。 17節「しかし、疑う者もいた」とあります。疑う者もいた、けれども「疑う者」も「主の弟子」なのです。自らの思いでは信じられない者がいる。しかしそういう者が排斥されるのではありません。真実を否定する者は、主の弟子とはなれないのです。信じられなかった、けれども真実を拒まなかった、だから復活の主イエスはそういう者にも臨んでくださり、語ってくださるのです。 18節〜「『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、復活の主イエスは弟子たちに言われました。主は弟子たちにご自分に与えられた権能「天と地の一切の権能」を与えるとおっしゃっているのです。「主イエス・キリストの権能」それは「罪を赦す救いの権能」です。人々に「救いを与えよ」と言われているのです。 主の御言葉を告げること、それが教会の使命です。その教会に、主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、約束してくださっております。復活の主イエスによって、教会は救いの御業をなし、福音を宣べ伝える。それは、教会が主イエス・キリストの宣教の恵みに与るということです。その教会に「主が共にいて」くださるのです。ですから、人は、福音を宣べ伝える教会において甦りの主イエスに出会うのです。そしてそこで、罪の赦しと永遠の命の約束を確かにすることができるのです。恵み深いことです。 改めて、主イエスの復活の出来事によって、私どもは「罪の赦しと救いの宣言」を与えられているのだということを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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9節に、「そのころ」と言われております。 そして、その内容は「イエスはガリラヤのナザレから来て」と記されております。メシア到来の知らせを受けた「そのころ」、ここで「イエスの登場」が告げられる、それは「イエスがメシアである」ことを示しているということです。「イエスの登場によってメシアの到来がなされた」ことを印象づける、「メシア到来の時来る!」、それが「そのころ」という言葉によって示される内容なのです。 「メシアの到来」が語られていることは、「来て」という言葉が如実に表しております。救い主イエス・キリストは「来てくださった」のです。「救いが来る」ということは、とても重要なことです。私ども人の歴史の中に「救い主が来てくださった」からです。人の思いの先に救いがあるのではありません。人の思いで、自分で救いに至るのであれば、その救いは人の功績でしかありません。 主イエスは「ガリラヤのナザレ」から来た、と記されております。今でこそ私どもは「ガリラヤのナザレ」を主イエスの育った村として知っておりますが、当時「ナザレ」は、人に知られていない村でした。旧約聖書には出て来ませんし、ヨセフスの著した「ユダヤ古代史」の中にも出て来ない。ユダヤの歴史の中にはない、誰にも分らない村、そういう所から、救い主(イエス)が来たと、聖書はわざわざ記しているのです。なぜか。だからこそ、そこに意図があります。もし、ナザレが名の知れた村であれば、そこの出であるイエスという人物のことも、ある程度理解しやすいことでしょう。しかし、誰も知らない所から来たということになると、誰にも全くイエスという人物を理解できないのです。 人に知られているということが幸いなわけではありません。誰にも知られていないことの幸いもあります。知られていない者と共に、神がいてくださるからです。知られている人は、既に人から覚えられることによって存在を得、神を必要としません。また、知られている者を忘れ去って存在を失わせてしまう、それが人の知り方です。 さて、聖書には、多くのつまづきを生む言葉が記されております。 しかしここで、私どもは「ではなぜ、主イエスは悔い改めの洗礼を受けられたのか」を真実に問い、その意味を考えたいと思います。 しかしここで、マルコによる福音書がこのことを記す意図は、悔い改めの洗礼がどうこうということではありません。主イエスが洗礼を受けられたことによって明らかにされることがあるのです。主イエスの洗礼に対する疑問は、ここには一切ありません。 ここに言われる「神の御心に適う者」とは、どういうことでしょうか。「主イエスは神の子でありながら、人としてこの世においでくださった」こと、それが「神の御心」です。この後、主は苦難の道を歩まれ「十字架につけられる」、それが「神の御心」であることが、ここに示されていることです。そして「主イエスの十字架こそが私どもの救いである」こと、それが神の御心であることを示しております。 「人としてのすべてを、主イエスが担ってくださる」、それが「神の御心」であるとするならば、それは何と麗しいことでしょう。救い主イエス・キリストによって、「私どもの人生のすべては、神の御心である」と受け止めることができます。主イエスは私どもの喜びだけではなく、人の苦しみ、苦しみの果てなる死までも担ってくださる方です。私どもには受け止めきれないさまざまなことを、主は受け止めてくださるのです。 そして、知らなければなりません。 弱さを引き受けることは辛いことです。弱さを担う、低くなる、それは人にはできないことなのです。しかし、最も低いそのところで「主が担ってくださる」。主が担ってくださるから、そこで初めて、私どもは自らの弱さを受け入れることができるのです。そこでこそ、自分を真実に生きることができる。弱さのままで、高ぶらず尊大にならずに生きられる、その出発点となるのです。真実に、謙遜な者として生きることができるようになるのです。 私どもは高ぶろうとし、弱さを担えない者です。けれども私どもの現実は、衰えいく者に過ぎません。その弱さの中にあって、しかし私どもは、自分らしく生きることができます。自ら低くなって人となり、私どもの近くにいたもう神、主イエス・キリストを覚えることによって、弱さのまま、自然なままを生きることができるのです。 十字架の主イエス・キリストこそ、私どもに存在を与え、私どもの人生のすべてを担ってくださり、私どもの存在を豊かにしてくださる方であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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主イエスがヨハネから洗礼を受けられると、天が裂け、霊が鳩のように降り、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたと、この前の箇所で語られております。これは、主イエスが神の愛する独り子であり、神の御心として人の救いをなされる方であることを、神が宣言してくださっているという出来事です。主イエスが活動を始められる前に、主イエスとはどういう方なのか、マルコによる福音書はここに記しております。 そして12節、普通であれば、主がどのように活動を始められたかが語られるところでしょう。14節から始まってもよいのです。しかし、その前に前史として12・13節が語られております。 「40日間」とは、いろいろと思い起こされる日数です。旧約の預言者エリヤは40日間祈りました。新約・使徒言行録によれば、復活の主イエスは40日間、弟子たちに現れてくださいました。40日間とは、神の設けられた聖なる期間であり、神が定められた大切な時なのです。 荒れ野で、主イエスは「サタンから誘惑を受けられ」ました。「サタンの誘惑」とは何か。「サタンの誘惑」とは「人を神から遠ざけること」です。「サタンの誘惑」に人は勝てません。「試練」は人の思いを清めますが、「誘惑」は貶めるのです。どうして人は誘惑に勝てないのでしょうか。それは、誘惑が、人の欲することを提示してくれるものだからです。だから、人はそれに引きずられてしまうのです。そういう恐ろしいものでありながら、サタンは、恐ろしい姿形で近寄って来るのではありません。サタンは人の思いを知っておりますから、その人にとって心地よい、いいなと思う姿でやって来る。それは、お金や美しさというようなことだけではありません。人の誠実さや正義感、熱心さなどでもあるのです。社会正義などもそうです。教会もかつて、そのような誘惑に翻弄されました。しかし、そういうことは人に完結できることではありません。ですから、誘惑によって人は自己分裂を起こし、破滅してしまうのです。サタンとは実に巧妙であり、人がサタンに勝つことは難しいのです。 私どもは、誘惑に生きなければならない者です。だからこそ「主イエスが誘惑を受けられた」ということは、私どもにとって、とても大事なことです。「受けられた」という言葉は、本来のギリシャ語の内容からすると、過去形ではなく「40日間受け続けられ、そして今も受け続けられている」というニュアンスです。ここに大切なことがあります。主は誘惑を退けられました。主は誘惑に勝利された、だから「受けられた」と訳さざるを得ない。マルコによる福音書では、誘惑の内容を詳細に語っておりませんが、「40日間、受けられた」という表現によって、主イエスが「ありとあらゆる誘惑に遭われた」ことが示されております。 主イエスは誘惑に勝利されました。では、今なお「誘惑を受け続けている」とは、どういう意味なのでしょうか。使徒パウロは、教会の迫害者であり、復活の主イエスに出会ったとき、主に「なぜ、わたしを苦しめるのか」と問われます。しかしパウロは、キリスト者を迫害していたのであって、主イエスを苦しめているつもりはなかったはずです。この主の問いで示されることは何か。主イエスは教会そのものであられるということです。迫害され、殉教する者たちと一つであってくださる方なのです。キリスト者と結びあってくださる主イエスが、キリスト者の苦しみを共にしてくださるということは、誘惑に生きるキリスト者と同じく、主が誘惑を受けてくださるということです。私どもキリスト者が苦しむとき、主イエスが共に苦しんでくださる、そして今も共に苦しんでくださっているのです。 そして主は、キリスト者の苦しみ、誘惑に勝利してくださいました。私どもは誘惑に勝つことはできません。しかし幸いなことに、私どもと同じ誘惑を主が受けてくださって、そして退けてくださっているのです。何と感謝なことでしょう。今、この時も、主が誘惑を退けてくださって、私どもを守っていてくださるのです。私どもは「主の祈り」を祈ります。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈る。悪には勝てない私どもだから「守ってください」と祈る他ないのです。 自分が得意とし誇りとする、そういうことに溺れてしまう私どもです。主イエスは、そういう誘惑をも退け、私どもを守っていてくださる方であることを感謝したいと思います。 続けて「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と記されております。「野獣」とは、人や家畜に害を加えるものですが、しかしここでは、主は野獣の害を受けなかったと言われております。 人は、正しくいることはできません。主イエスが十字架につき、義を貫いてくださったことによって、私どもはその主の義をいただき、義なる者とされ、神との正しい交わりに生きることができる、そのことを覚えたいと思います。「主が荒れ野で誘惑を受けられる」、ここには、終末における神との完全な交わり、神との正しい関係ということが示されているのです。 私どもが主イエスを信じるとき、主は、私どもと一つなる者として結び合い、苦しみを共にしてくださいます。私どもは苦しみに勝つことはできない、けれども、私どもは、主がその苦しみに勝利してくださるという「慰め」のうちにあるのです。マルコによる福音書は、主イエス・キリストの前史として、主が「義なる方」として「救い主」であることを語ってくれております。 |
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1節〜15節までは、マルコによる福音書の「序」となる箇所です。この後、「主イエス・キリストの御業」が具体的に語られていくのです。 14節から聴いていきます。「ヨハネが捕らえられた後」と記されております。この「捕らえられ」とは、通常の「捕らえられた」ということとは違って、「獄に引き渡された」という意味合いです。ヨハネは主イエス・キリストの先駆者として、主が「聖霊による洗礼を与える方」であり、「聖書(旧約)が預言しているメシア」であることを宣べ伝えました。このヨハネが「引き渡された」ということは、ヨハネの時が終わったことを示しているのです。そして「主イエスの時が来た」、それが「時は満ち」が示すことです。「時が満ちる」それは「神が定められた時が来た」ということなのです。 ここで、ヨハネが「引き渡された」ということについて、更に聴いておかなければなりません。「引き渡された」という言葉が使われていることは重要なことです。それは、後に主イエスご自身が使われる言葉だからです。ご自分が「十字架に引き渡される」と、主は予告されました。9章31節「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」、10章33節「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す」と、主ご自身がこの言葉を用いておられます。ですからここで「ヨハネが『引き渡された』」という言葉は、「主イエスが十字架へと引き渡される」ことを暗示して使われているのです。ヨハネは、主イエスを証ししただけではなく、「主イエスの十字架の先駆け」となって、主が「メシアとして」、しかし「メシアでありながら、人々の手に引き渡される方」であることを示しているのです。 14節に「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて」と記されております。主イエスは、人の罪の贖いのために「十字架に引き渡されることを自覚して」苦難への道を「ガリラヤ」に向かわれる、それが主イエスの活動の初めでした。 ガリラヤは、旧約聖書の預言でしばしば「異邦人の町」と記されております。しかし実際には、そうではありません。ただ、異邦人の町との境にあって異邦人との交流のある地でありました。来週語る予定の「ガリラヤの漁師」たち、彼らは、とても信仰熱心な者とは言えない者たちですから、エルサレムの人々から見れば、ガリラヤの者とは田舎者という感じです。 もし、主がまずエルサレムに行かれていたとしたら、どうだったでしょうか。待望のメシアとして、信仰熱心な人たちの所に主が行かれたならば、大いに盛り上がったことでしょう。そこで起こることは熱狂であり、静まって、主を「メシア」として受け止めることはできなかったでしょう。熱狂は暴動ともなる。人々の思い込みは大騒動を引き起こし、本来の「メシア」の意味を失って、人の思い込みによるメシア像へとすり替わってしまったことでしょう。熱狂は、人に冷静さを失わせます。 ではなぜ、ガリラヤなのでしょうか。ガリラヤは、何も分っていない場所です。信仰の薄い場と言われております。熱狂や暴動は起きませんが、しかし、信仰をもって迎えるべきメシアを正確には受け止められない、単に「無理解」な場所なのです。 ここで「神の福音を宣べ伝えて」とありますが、「神の福音」と「主イエス・キリストの福音」とは同じものなのでしょうか。「主イエス・キリストの福音」は、十字架と復活、すなわち「贖いと救いの福音」です。 ですから、神の国の到来は、今の私どもにとって不可欠なことです。何よりも必要なことです。信じないでは済まされない出来事なのです。神が「十字架の主イエス・キリスト」までくださって私どもを救ってくださるとは、どんなに大きな恵み、幸いであるかを思います。 「時が満ちた」とは、「神の時、神の支配が始まった」ことを告げる恵みの言葉です。「こんな私どもの所に、神の支配がある」その神を信じるならば、私どもは平安の中に生きることができるのです。 「神の支配が始まる」、それは「主イエスの御業がなされる時に始ま」ります。ですから、私どもは、主イエスの御業を聴くことによって、神の支配の内にあることを聴くことができるのです。それが、これからこの福音書に語られていることを聴いていくことの恵みです。 そして、ここで問われ、示されていることがあります。それは、人の支配にではなく「神の支配に目を向けないさい」ということです。「悔い改めて、信じること」が求められております。 御言葉が語られる、その都度都度に、私どもには「信じる」ことが求められております。そういう意味で、14・15節は、福音書全体の「序」であり、これから語られることを私どもがどう受け止め、どう聴いたらよいのかを示してくれているのです。 |
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