聖書のみことば/2012.3
2012年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の子イエス・キリスト」 3月第1主日礼拝 2012年3月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章1〜8節

1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」。先週は「福音の初め」について、お話しいたしました。本来の順序は「初め、福音、神の子イエス・キリスト」ですので、その順序で今日は「神の子イエス・キリスト」について語ります。

「イエス・キリスト」という言葉は、既に信仰告白の言葉です。「ナザレのイエスをキリストと信じる」という告白の言葉なのです。

「キリスト」とは、名前・名字ではありません。まず「キリスト」について話したいと思います。「キリスト」とは、王とか天皇ということと同じで「称号」です。つまり「イエスというキリスト」だということです。そして「キリスト」とは「救い主」という称号です。「イエスという救い主」それが「イエス・キリスト」という言葉の意味であり、そこに信仰告白が表されているのです。キリスト教徒ではない一般の人は、意味を知ってか知らずか「イエス・キリスト」と言っておりますが、ユダヤ人たちは決してイエス・キリストとは言いません。ユダヤ人にとっては、まだメシア(救い主)は来ていないのですから、イエスは偉大な預言者かラビでしかないのです。
 「イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰」それが「キリスト教信仰」です。イエスをキリストと信じるならば、それで私どもはキリスト者なのであり、救いに入れられるのです。イエスを「わたしの救い主、キリスト」と言い表せればよい。内容が分からなくてもよいのです。
 とはいえ、牧師は語らなければなりませんので、「キリスト」という形で言い表されている「救い」とは何なのか、お話ししたいと思います。

「メシア」とは「キリスト」です。メシアというヘブライ語の子音を並べてギリシャ語で読むと「キリスト」となるのです。では、メシア(キリスト)とは何か。メシアが救い主となる経緯はと言いますと、ユダヤはローマ帝国の支配下にあって、その支配から解放してくれる理想の王を希求しました。それが、ユダヤ人の待ち望んだメシアなのです。そして、キリスト教会は、イエスをそのメシアとしました。
 「メシア」は「油注がれた者」という意味を持ちます。では「油注ぎ」とは何か。聖別するということです。神が油を注いで聖別し、清め、神のみに仕える者とされた、それが油注がれた者です。油注がれた者には、神の前に仕える3つの務め(職)があります。それは「祭司」、祭司職から派生したと考えられる「預言者」、そして「王」です。この3つの職は旧約聖書においてはそれぞれ別々になされる務めですが、主イエス・キリストの場合には一つのことです。

まず「祭司」の中心となる務めは何か。汚れない清き羊・牛の血を贖いとして神に献げ、民の罪を贖うという務めです。「人の罪を贖う」それは「買い取る」ということです。旧約の時代、血は生命と考えましたので、汚れない家畜の血を人の罪の代価として払い、清算したのです。
 新約の時代になり、その務めは主イエス・キリストが負っておられるのですが、しかし、主は旧約の祭司とは違うのです。旧約の祭司による贖いは完全なものではありません。それは他者犠牲による贖いだからです。家畜の血によっては、人の罪を完全に贖うことはできません。人の罪の完全な贖いは、汚れなき、罪なき人の血によるしかないのです。
 主イエスは「神でありながら、人となられた方」です。主イエスこそ汚れなき完全な方であり、その方が、人の罪の贖いのために十字架に死んでくださいました。主を十字架につけた人の罪、罪ゆえに神に耐えられない人の罪の頂点において、主イエスは十字架によって人の罪の贖いとなってくださいました。それによって、私ども人の罪は完全に贖われたのです。それが「救い」ということです。主イエス・キリストの救いは「十字架の救い」です。主の十字架の贖いによって、私どもは神との交わりを回復されました。そして、それが「福音」なのです。

私どもは、主イエスの十字架の贖いを信じることによって、罪の贖いを与えられているのです。自分で自分の罪を清算することはできません。贖われて、そこで神との交わりに入れられるのだということを忘れてはなりません。
 今日は聖餐の恵みに与ります。聖餐のパンとぶどう酒を、私どもの贖いであると覚えつつ与れるならば幸いです。旧約と新約の違いは何かを知らなければなりません。旧約の贖いにおいて、献げるのは人、受け取るのは神、献げられているものは家畜(他者)です。他者犠牲では罪を完全に贖うことはできません。
 新約、主イエス・キリストの贖いは、献げるのは神、受け取るのも神、献げられるものも神ご自身です。神の自己犠牲による贖いです。そしてそれが「聖餐」です。一貫して揺るぎない神の恵みによる「聖餐」なのです。
 そして、この「神の自己犠牲」を聖書は「愛」と言います。私どもは聖餐に与るとき、徹底した神の救いに、神の愛に与るのだということを覚えたいと思います。
 自分が損をしてまで他者を救うなど、できることではありません。しかし、ご自分が損をしてまで、罪なる者の救いをなそうとなさる、それが神の愛なのです。

更に、主イエスは、ご自身の命を代価として私どもを買い取ってくださいました。それは、私どもが「神のものとされる」ということです。私どもは「神に買い取られた者である」ことを忘れてはなりません。
 神のものとされることの幸いを思います。人は、自分を自分のものだと思うから苦しいのです。自分は神のものであることを知るならば幸いです。神が私どもをご自分のものとされたからといって、神に何か得があるでしょうか。あるはずがありません。私どもであれば「あの人は要らない、この人は嫌だ」と思う。しかし神は、どのような者をも、多大な代価を払ってまで買い取ってくださり、必要ないなどと言わず、ご自分のものとしてくださるのです。
 そうまでして、私どもを清い者、善き者としてくださる。それが「聖餐」の恵みです。私どもは罪赦されている、神に愛されている。どんなにつたない者であっても、私ども一人ひとりを「尊い一人」として下さっている。それが「聖餐」によって思い起こす恵みであることを覚えたいと思います。

メシアのもう一つの務めは「預言者」としての務めです。「預言者」の務めは、神の言葉を預かって人々に伝えることです。御言葉を語ることです。かつて教会は、この世に警鐘を鳴らす見張りの役目として、この預言の務めを重んじました。御言葉によって神の御心を明らかにすること、それによって人々が悔い改めへと促され、神に立ち帰るということが起こるのです。
 主イエス・キリストは「神の御言葉そのもの」であられる方です。主イエス・キリストは神の御旨そのものです。主は神の子として、神の御言葉、神の御旨なる方なのです。ですから、主イエス・キリストは預言そのものです。主イエス・キリストと出会うことによって人々は神を知り、信じることによって神の御旨を知り、神の御心を生きる者となるのです。何と幸いなことでしょう。何かを学ぶ必要はありません。ただ御言葉に聴き、主と出会い、主を知ることによって、私どもは、神の御心を知り、神の御旨に生きる者とされるのです。

更に、キリストとは「王」という称号です。王は、神の御心に則って民を治める者です。主イエス・キリストは、王として「神の支配をこの世に現す者」なのです。主は「憐れみと慈しみなる神の支配」を現される王です。この神の恵みとしての支配を、旧約時代の諸王たちは現すことができませんでした。なぜか。なぜ偶像礼拝をしたのか。王たちは、神に立てられた王であっても、ただ神に従うのではなく、人気取りのために人々の思いに心を向けたからです。他国の動向が気になって異教徒の妃を迎え、人々の思いが気になって神に従い得ない。完全な神の憐れみによる支配を現せませんでした。
 では、主イエス・キリストがなさる王としてのお働きは何か。主は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。右の頬を打つことは、その人を侮辱することです。侮辱されることによって心に残る憎しみに対して、主は「憎しみではなく愛をもって応えよ」と言われます。それは「神の慈しみが支配する」ことを、そこに現せと言われているのです。ですから、主イエス・キリストがもたらされる支配とは、「平和」です。

私どもが主イエス・キリストを信じて生きるということは、どういう出来事なのでしょうか。罪が贖われ、神のものとされ、神との平安つまり神との和解が与えられ、神の支配のうちに生きるという恵みの出来事なのです。

「神の子イエス・キリスト」と言われております。「神の子」という言葉は、初めの福音書にはなく、後に付けられた言葉だと考えられております。主は「神の子」として「神なる方が人となってくださった」ということが現されているのです。神なる方が人となってくださった、だから私どもは、神に出会い神との交わりに入れられるという恵みを頂いているのです。

初代教会の信仰告白の言葉は「イクスース(ΙΧΘΥΣ)=魚」という言葉です。ギリシア語でΙησουs(イエス)、Χριστοs(キリスト)、Θεου(神の)、Υιοs(息子)、Σοτερ(救い主)のという言葉(「イエス=キリストは神の御子・救い主」=Iesous Christos Theou Uios Soter)のそれぞれの頭文字を並べたのです。

私どももまた、この初代教会の信仰の言葉を、私どもの信仰として告白してゆけば良いのです。

荒れ野で叫ぶ声」 3月第2主日礼拝 2012年3月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第11章1〜9節、マルコによる福音書 第1章1〜8節

創世記11章<1節>世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。<2節>東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。<3節>彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。<4節>彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。<5節>主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、<6節>言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。<7節>我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」<8節>主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。<9節>こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

マルコによる福音書1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

今日は3月11日、東日本大震災を覚える日であります。この日が日曜日に当たるため、礼拝において3.11を覚えて祈ってほしいと、日本基督教団では「祈りのしおり」を作りました。追悼のための集会を持つことも大事ですが、教会が各々の場で覚えることも大事だと考えたからです。どの教会も今日は3.11を覚える礼拝であり、またそれに相応しいメッセージがなされることが当然と、皆思われることと思います。
 私もまた、そのことに躊躇はないのですが、しかし今日の御言葉をどうするか、準備しながらぎりぎりまで迷っておりました。と言いますのも、私としてはこの一年、折に触れ、3.11を覚えつつ、神の救いと罪の告白についてのメッセージを語ってきて、一つの区切りをつけた気持ちでいたからです。けれども、今、日本中が「神の御心はどこにあるのか」と神に向かい、語っていることを思い、ぎりぎりになって創世記のこの箇所を入れました。実は、まだ一つ、語っていないことがあるのです。いつか語らなければならないと思い、しかし十分に語れるかどうかと思いつつ先延ばにしてきたことを、今朝、語ります。そしてそのことは、当初予定のマルコ福音書「荒れ野で叫ぶ声」のメッセージとも関係しております。

創世記11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とは、今日的状況であります。今、社会においては世界共通の一つの言語が求められ、幼い時から教育されておりますし、世界経済においてもグローバル化の中、世界共通基準が求められる、しかし、そこには隠された大きな問題があるのです。
 11章には人々が「バベルの塔」を築いたことが記されております。「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」とは、人が文化による力を持ったということです。聖書は、人が文化を持つことの危険を語っております。バベルの塔の出来事は、人が力を持つ、そこで引き起こされる問題は何かということを示しております。

東日本大震災は、神からの大きな警告であったと言わなければなりません。地震、津波、そして放射能汚染、これらの出来事に、私ども、人の歩みが問われているのです。
 人は、文化を手にして様々なものを作りました。高度な文明によって原発は作られ、その恩恵に浴した私どもは、もはやそれを手放すことはできません。そこには人の奢りがあります。世界基準の中でエネルギー確保を求め、クリーンで安価なエネルギーだとの謳い文句を掲げて原発政策を推進したのです。しかし実は、クリーンでも安価でもなかった。このことを神からの問いとして考えなければなりません。それは単に原発のことだけではない、人が文化を用いて手にした力とは何なのかということが問われているのです。
 原発について言えば、最終処分の出来ない物を使うべきではなく、本来止めるべきだと思います。しかし、一旦手にしたこと、やり始めたことを放棄することはできないことをも思うのです。再稼働への動きに、人の罪深さを思います。人は、文化を持つことに伴って、危険を持つことになったのです。それゆえ、原発事故は、現代文明に対しての神からの警告と受け止めて良いと思います。
 原子力開発は画期的であり、もはや手放せない。人はそれによって強大な力を持ちました。それが「れんがやアスファルト」が示すことです。そして4節「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と、人は神より大いなる者になろうとする。手にした力を背景に、そういう奢りを持ち、神なしに生きようとしたのです。そこで、5節「主は降って来て…」、塔は作れなくなりました。今ここで原発を止めなければならないことになった、私どもの現実と重なります。
 ここに示される文化の問題は何か。文明によって得た力を、神に反抗する力とした、ということです。人が中心になって世界を支配しようとしたこと、それが問われているのです。
 貨幣経済、お金、原子力、それは何のためにあるのか。健康で文化的な生活を送るためであり、健康で文化的な生活を送ることが人の幸せだと思ってしまった。しかし、健康で文化的な生活は、神抜きであるならば、本当の意味での健やかな生活であるはずはないのです。今更、江戸時代に戻ることは出来ません。鎖国していた江戸時代は幸いだったかもしれないけれど、戻れないとなれば、グローバル化の中に参加せざるを得ないし、その強迫観念に追い立てられてしまうのです。
 文化を手にする、それは本来、人が健康で文化的な生活を送ることを求めてのことであったのに、文化を手にしたことによって、人は「神を必要としない」という生活になってしまいました。原発事故は、そのことに対する神からの警告であると思います。

聖書は、文化を否定しているかと言いますと、そうではない。そこが難しいところです。文化の力に奢った、ゆえに「れんがやアスファルト」が一掃されたかというと、されていないのです。そうではなく「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と記されております。言葉を混乱させること、それが警告でした。文化が人を「神を必要としなくなることへと誘惑することの危険」に対する警告なのです。

文化を持つということは、人を「直接的な人間の欲望」から遠ざけてくれます。文化的なルールの中にいれば、人は、あからさまな剥き出しの欲望に制限をかけることができます。貨幣経済の中にいればお金、快適な生活の中にいれば文明の力は当たり前のものになり、オブラートに包まれ、問題性は曖昧になるのです。本当に文化を活かすためには、それをいかに利用するかということが大事なことです。そこで奢ることが危険なのです。低くなることが大事なことです。
 しかし、人は力を持つと低くなることはできません。お金を持てば、もはやお金のない生活はできない。その力が大きければ大きいほど、その力に魅了されてしまいます。そしてそれが欲望に駆られてのことではないことが、却って問題になってしまうのです。文化は剥き出しの欲望から人を守ります。しかし、人はそこに安住してしまい、これで良しとしてしまう、そういう危険があるのです。
 文化は、罪における人の感性を鈍らせ、真実な人の姿を見ることを妨げてしまう。それが、この度の原発事故で示されていること、文化的な生活の中に隠されている危険なのです。誰かが特別に悪いわけではないし、裁かれているのでもないのです。私どもすべてが問われ、打たれているのだということを忘れてはなりません。神は東日本を打たれたのではありません。日本を、世界を打たれたのです。文化という力により頼み、神を見失う。文化が人を滅ぼす危険があることを、私どもに突きつけてくださったのです。

原発事故によって、もしかしたら、日本は滅んでしまっても良かったのかも知れません。今になって「よくこの程度で済んだものだ」という声を聞きます。そのことを思うとき、これほどまでに人の罪深さ、奢り、救い難さが示されているのにもかかわらず、この程度で済んだのかとも思わされる。そして思います。ここに尚、「神の憐れみがあった」と思うのです。神は滅ぼし尽くされない。今日、私どもはぎりぎりの所で止まっていられる。そこに神の憐れみがあると思います。
 日本中が放射能に覆われ、海洋汚染が広がりを止められない状況であったかもしれない。人の思いではそれを偶然と言うのでしょう。しかし、偶然という神の必然によって、私どもは守られたのではないかと思うのです。ここに神の憐れみがあると思います。人の破れのただ中に神が立っておられる。滅びでしかない者を、神は尚、支え、守ってくださったのではないかと思うのです。神は、私どもを目覚めさせてくださる憐れみの神として、私どもに臨んでくださっているのです。

文化の力に依り頼み、オブラートに包まれて生温く、神を見ず、人としての感性を失ってしまった私どもを、神へと立ち帰るようにと、神が招いてくださっているのではないか。ここで打たれたこと、それこそが神の憐れみではなかったか。神は決して見捨てておられない。。。。。このことを語るまでには時間が必要であったと思います。直接に打たれた人々を前に、語ることはできませんでした。

私どもは、神がいてくださるからこそ、どこかで止まり、振り返ることができるのではないでしょうか。振り返って、神へと向かうことができるのではないでしょうか。この度の事故が、神の憐れみであるとするならば、救いはただ神にのみあるのです。打ってくださることに神の真実があり、憐れみがあり、そこには救いがある、このことを知ることの大切さを思っております。

そして、これこそが「荒れ野」なのです。バプテスマのヨハネは「荒れ野」で悔い改めを叫びました。文化的な生活をする都市で叫んだのではありません。文化から外れた何もない所、それが「荒れ野」です。イスラエルの民は出エジプトの後、荒れ野で40年、神の導きを受けつつ生きました。欠乏のただ中で「神が共にいます」経験をしたのです。
 「荒れ野」とは「神が共にいます場」です。主イエスの時代、文明に守られた都市を離れて、人々は荒れ野に赴き、ヨハネから悔い改めのバプテスマを受けました。「神なくしては済まされない」、そのことために荒れ野に向かったのです。

「神が共にいます」、そのことによってのみ、私どもは生きる。それがこの「荒れ野で叫ぶヨハネの声」によって知らされていることを覚えなければなりません。「荒れ野」とは、全てが欠乏している場、しかしそこで「神が共にいてくださる」から人は生きるのです。文化に頼るのでなく「神にのみ頼って生きる」それが人の在り方でなのです。

私どもにとっての「荒れ野」とは、どこでしょうか。それは「礼拝」です。文化的な生活に埋没し、罪を実感できない日々を過ごす私どもが、その日常生活から離れて過ごす場、それが礼拝です。神が共にある場、それが荒れ野。そこはまさしく私どもにとっての必要の場。一切を離れての祈りの場です。
 今改めて思います。私どもには荒れ野の経験が必要なのです。一切を離れての祈りの時、御言葉をこそ必要とすることを覚えたいと思います。

オブラートに包まれた、神を見ない曖昧な生活。罪を罪として知らず、神なくやっていけると錯覚させる、それが文化的生活であったこと。そこに警告が発せられたことを、御言葉により示されました。

神は、打たれるほどに、私どもを憐れみたもう方。神の愛は尽きることがないことを覚えたいと思います。

悔い改めの洗礼」 3月第3主日礼拝 2012年3月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章1〜8節

1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

2節「預言者イザヤの書にこう書いてある」、旧約聖書イザヤ書からの引用であると記されておりますが、厳密に言うと少し違います。
 前半の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」はマラキ書3章1節、後半「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(3節)はイザヤ書40章3節です。けれども、いずれも、そのままの引用ではありません。マラキ書には「あなたより先に」という言葉は入っていないのです。「わたし」は「神」です。「わたし(神)の使者」であることが前提にあり、それは「神を迎えるための備えとしての使者」なのです。神が直接来られるという内容ではありません。では「あなた」とは誰か。それはメシアである「主イエス・キリスト」を指すのです。ですから「神が、キリストを送るのに先立って、使者を遣わす」という意味合いです。
 ここには、初代キリスト教の雰囲気がよく出ています。ユダヤは数々の支配の中にあり、メシア(救い主)を待望しておりました。メシア到来のためには、それに先立つ偉大な預言者が立てられると考えられていたため、そのことが、このバプテスマのヨハネの出現によって起こったと考えたのでしょう。

ここで、「神が来られる」ということは、「メシアとしておいでになる」のだという視点を持つことが大事です。神が直接来られたならば、人はそれに耐えることはできません。神と本質を同じくする方「救い主イエス・キリスト」が「人として」おいでになる。「神が人としておいでくださる」ことによって、人は神と「人同士として」お会いすることが可能になったのです。そうでなければ、人は、神の前に立つことはできません。ですから「神が人として来られる」ということに「神の憐れみ」があります。それは「神の方で低くなってくださった」という、恵みの出来事なのです。神がおいでくださることの恵みを改めて覚えたいと思います。

「神が来られる」ことの道備えをする者として、バプテスマのヨハネが現れました。旧約聖書イザヤ書には「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあります。「神のために道を整備せよ」とは、神が来られることへの緊張感を感じさせます。神が来られるための備え、相応しい道とは、どういう道でしょうか。イザヤ書では「広い道」ですが、ここでは「道筋をまっすぐにせよ」とあります。「まっすぐ」と「広い」では違います。「まっすぐに」とは、迎える側の姿勢を言っているのです。「まっすぐ」という言葉は、旧約聖書において「信仰」を表す言葉として用いられております。「神に向かってまっすぐ」であることが「信仰」であり、神にまっすぐでなければ逸れる、それは「的外れ」であり、それが「罪」なのです。これは新約に通じることです。
 バプテスマのヨハネの役割は何か。それは人々を悔い改めさせ「心を神に向かってまっすぐにさせる」ということです。しかし「まっすぐ」とは、難しいことです。「まっすぐ」であるためには「真実で正しく」なければなりません。当たり前のことが当たり前でなくなり、何が正しく何が正しくないのか分らない、そんな現代の状況においては、特に難しいことでしょう。
 「神は正しく真実な方」であるがゆえに、人が「神にまっすぐに向かう」ということは難しいのです。なぜならば、正しく真実な神の前に、私ども(人)の正しさ・真実が問われるからです。真実で有り得ない。ですから、人は神から遠ざかる、隠れるのです。神から離れてやり過ごそうとするのです。

「まっすぐにせよ」という言葉で問われていることは、正しさ・真実とは何かということです。このことをバプテスマのヨハネはどう表し務めたのでしょうか。4節に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ヨハネは人々に「悔い改め」を迫りました。「悔い改める」ことが「まっすぐにする」ということの内容なのです。
 「悔い改め」とは、私どもが反省したり、悔やむ、後悔するということではありません。「悔い改め」それは「神の前に、真実な自分を言い表すこと」です。「悔い改め」の中心にあることは、自分で自分を知ることではありません。「神との関わりにおいて自分を知る」ことです。ですから「悔い改め」は「神への方向転換」であり、そこで起こることは何かというと「罪の告白」なのです。神の前に立ち、罪に過ぎない自分であること、神から離れていたことを言い表す、告白する以外にないのです。「悔い改め」とは「罪の告白」であり、それが「まっすぐにする」ことです。
 「わたしは、こんなに正しいです」と一生懸命言うことが「まっすぐ」ということではありません。そのように言えば言うほど、弁明に終始し、ますますまっすぐになれないのです。「自分の罪を認めること」「認めて告白すること」それが「悔い改め」です

「私どもの真実、正しさ」は「罪を自覚し告白する」ところにあります。しかしそれは、人同志の関係ではできないことです。ただ、神との関係によってのみ可能なことです。
 神は人を「神の形にかたどって」造られました。それは「神との関わりに生きる者」として造られたということです。それが「人格性」であり、人は、神と向かい合う者として、他者との関わりに生きるべき者なのです。

「悔い改め」とは、自分の心の中の葛藤ではありません。「悔い改め」は、人格性の問題として捉えなければなりません。「悔い改め」は「神との関わりの中で真実な人となる」ということです。そして「真実な人としての有り様」とは「神に委ねる」という在り方なのです。
 日本人はなかなか前向きになれないところがあります。「後悔」するのです。後悔、それは神に委ねられないところにあります。神に委ねられないから、自分で悔いるのです。「悔い改め」と言うと自分にマイナス、後ろ向きのことのように思いがちですが、そうではありません。「悔い改め」とは前向きな姿勢です。あれこれ悔いること、それは後ろ向きなことです。しかし、なかなか委ねられない。だからこそ、救いを必要とするのです。

さて、4節には「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあるのですが、これはプロテスタント教会にとっては由々しき問題です。「罪の赦しのための、悔い改めの洗礼」とある。人の悔い改めが罪の赦しになるのでしょうか。いえ、否と言わなければなりません。「罪の赦し」は、ただ「主イエス・キリスト」によってのみ与えられるからです。
 では、ここで言う「悔い改めの洗礼」とは何か。「悔い改め」は「主イエス・キリストを信じるために為すべきこと」です。そして「主イエス・キリストを信じる」とは何か。「罪の赦しを得る」ことなのです。「罪の赦しを与える救い主を信じる」道備えのための洗礼、それが「悔い改めの洗礼」であると読んでいただきたいと思います。
 人が率直に神の前に立てるとするならば、それは、そこで神が働いてくださるからできることです。「悔い改め」も、神の働きがあってのことであり、恵みの出来事であることを忘れてはなりません。「神が受容してくださる」からこそ、人は率直になれるのです。

もう一つ大切なことがあります。私どもが悔い改め、罪を告白するとき、私どもは「既に神の憐れみの内にある」ということです。それは、「罪人である」と自らの真実を正しく言い表した者に対して「神が真実に応えてくださる」からです。私どもの悔い改めに対して、神は真実に応えてくださる。そして私どもの悔い改めを正しいこととしてくださって、憐れんでくださるのです。
 その神の憐れみの具体的な形、それが主イエス・キリストの十字架と復活です。ただ神の義によって、救いがあるのです。ですから、悔い改めは、そこで既に神の憐れみの内にあるという、救いの糸口を与えられていることなのです。

真実であること。それこそが、人を本当に慰め、力を与えます。ですから、真実なる神に至ることなく、本当の慰めを得ることはできないことを覚えたいと思います。

今日は「洗礼」ということをお話しなければなりませんが、もう時間がありません。バプテスマのヨハネの洗礼と主イエス・キリストの洗礼。今日はヨハネの洗礼のことを語りましょう。
 「洗礼」とは、元々軍隊の入隊式のことでした。自分の思いに死に、上官に対して絶対服従するための式です。そのことに表されている大切さは何か。それは「入会の印」ということです。洗礼はユダヤ教にもあるのです。ユダヤ教の洗礼は異邦人に対して授けるもので、ユダヤ教への入会を意味します。
 「入会する」、洗礼を受けることによって、神の民の、教会共同体の一員になるのです。
 ここで、バプテスマのヨハネの洗礼は、何の印なのでしょうか。記述によれば、本来洗礼を受けないはずのユダヤ人がバプテスマのヨハネから洗礼を受けております。バプテスマのヨハネの洗礼、それは「悔い改めの印としての洗礼」です。それは「神の憐れみを受けるに相応しくなったことの印」としての洗礼なのです。
 それ故に、それまでのユダヤの洗礼とは違う、神を迎えるに相応しい道備えとしての洗礼なのです。

主イエス・キリストの洗礼については次週のことといたします。

聖霊による洗礼」 3月第4主日礼拝 2012年3月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章1〜11節

1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」<9節>そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。<10節>水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。<11節>すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

今日は、5節を振り返りつつ、6節以降を中心に語ります。

5節に「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されております。「住民は皆」このことは2つの意味を持つのです。それは「人は皆、悔い改めを必要としている」そして「人は皆、洗礼を必要としている」ということです。
 バプテスマのヨハネの場合は「悔い改めと洗礼」は一つのことなのですが、マルコによる福音書はここで、示したい一つのメッセージとして「人は皆、洗礼を必要としている」のだということを語っております。

今日は「主イエス・キリストの御名による洗礼」ということを中心に聴いていきたいと思います。「主イエス・キリストの御名による洗礼」それは何か。8節「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とは、何を意味するのか。このことを語らなければなりません。
 洗礼を受けている者にとっては違和感はありませんが、「人は皆、洗礼を必要としている」と言われても、一般の人にはピンと来ないことでしょう。

6節にまず「バプテスマ(洗礼者)ヨハネ」の生活について語られております。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」というのです。このことは一つのことを示しております。当時、伝統的なこととして、メシア(救い主)の到来には先駆者が来ると考えられており、旧約においては預言者エリヤがメシアの先駆者ですから、ヨハネのこのような格好はメシアの先駆者エリヤを連想させたのです。はっきりとは言いませんが、このヨハネの生活の描写によって、ヨハネは先駆者エリヤとして来ているのだと、当時の人に思わせているのです。ヨハネはエリヤの役割をする人物だと示しているのです。

けれども、それだけではなく、ここに示されるヨハネの生活は「半遊牧民の日常の生活」であったということが大事なことです。荒れ野での生活ということから、それは隠遁生活あるいは禁欲生活であると考える場合があり、教会もそう捉えてきた歴史があるのですが、しかしここでは、そういうことを意味しておりません。
 「半遊牧民の日常の生活」それは「神の憐れみによってのみ生きる」というイスラエルの原点を示しているのです。イスラエルは半遊牧のさすらい人、有象無象の民、価値なき民、顧みられない民、取るに足りない民でした。しかし、そのような民を神は憐れみ「神の民」としてくださいました。ヨハネの生活はそのことを表しているのです。だからこそ大事なのです。もう一度、その原点に立って神の民を招集しようとしているのです。「人は神の憐れみによってのみ生きる」ということを、荒れ野での生活は示しているのです。

そのヨハネが、7節「彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言うのです。この言葉は、ヨハネがメシアと自分を比べて言っているように思われがちですが、ヨハネはそう思っておりません。人は、他者と自分を比べることで自分を位置づけようとするものですが、ヨハネはそうではないのです。それは「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」という言葉によって分ります。
 「履物のひもを解く」とは、奴隷の仕事であり、その仕事は誇れるようなものではありません。ヨハネは自分を、奴隷にも及ばない取るに足らない者だと言っております。自分を何の値打ちもない者だと言っている、このことは大きなことです。メシアと自分は比べるに価しない。自分は何も誇るものはない。ヨハネは自らを、メシア(神)の前に、何の値打ちも無い者だと言い表している、この言葉によって、ヨハネは自らの信仰を言い表しているのです。
 信仰とは、神の恵みを語ることです。けれども、自分を語ることによって信仰を言い表すこともできます。「自分は神の前に取るに足りない者にすぎない」という告白ができるからです。なぜ、この告白が信仰を言い表すことになるのか。それは、この告白によって「神の大きさ」を言い表すことができるからです。
 人は誰でも、心のうちに密かに自負心を持つ者です。自分が第一という高慢な心です。それは神から遠いことです。私どもは自負心を持っているとは正面切って言いませんが、誉められれば喜び非難されれば傷つくのです。だからこそ「神の憐れみ」を必要とするのですし、悔い改めが必要であり、神の憐れみのしるし(洗礼)が必要なのです。
 主イエスはヨハネを「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11)と評価してくださいました。けれどもヨハネ自身は、自分は主イエスの前に何の価値もない、取るに足りない者だと言い表している、だからこそ「神を神として現す」ことができるのです。そういう者だからこそ、ヨハネはメシアの先駆者としてここに記されているのです。メシアを証しする者として相応しい、大いなる者だと、聖書は語っているのです。それは、ヨハネが自分を表すのではなく、神を現す者として誉めていただいているということです。

そして、私どももまた、神の前に何の値打ちも無い者です。だからこそ、主イエス・キリストの証人として用いられる者とされているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。ここには、人はただ神の憐れみを必要とする存在であることが述べられているのです。「無力な者だからこそ、主を証しし得る者である」それが、このヨハネの在り方が示していることです。そして、そうだからこそ、私どもは神の憐れみを受け、メシアの救いに与っているのだということを覚えたいと思います。

8節「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。主イエス・キリストの洗礼は「聖霊による洗礼」であることが示されております。先週お話ししましたように、旧約における洗礼は軍隊の入隊の印としての洗礼(それは異邦人のユダヤ教への改宗)、そしてヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼ですが、主イエス・キリストの洗礼は、それらの枠を超えて「聖霊による洗礼」です。聖霊による洗礼を受けた者は「主イエス・キリストの焼印を押されている者」ということです。焼印は所有を表すのです。すなわち「キリストのものである」という印が与えられているということ、「神のもの」であることを表しているのです。
 私どもは、ついつい自分は自分のものだと思っているのですが、そうではありません。私どもは「キリストのもの、神のもの」ですから「聖なるもの」であることを覚えたいと思います。主イエス・キリストを信じ、公に告白して、キリストの御名による洗礼を受ける。それは、主イエスの命によって罪を「贖われている」ことを信じること、贖われた者として「赦されている」ことを信じることです。主の血潮によって、主の命をもって贖われた、それは代価を払ってくださった「主のもの」とされるということです。

主の御名による洗礼とは、罪を贖われキリストのものとされる、神に属するものとされるということです。そしてそれは、神との交わりを回復するということ、聖なるものとされ、終わりの日に永遠の命をいただく者とされるということです。キリストと一つのものとされ、神の子とされる。キリストと共に甦る、永遠の命を頂くのです。

そして、これらは一切が神の出来事、神の成してくださったこと、だから「聖霊の出来事」なのです。人の行いによらない。人の悔い改めによるのではありません。主の御名による洗礼は、聖霊が私どもに働いてくださって起こる神の業なのです。洗礼によって、私どもは「キリストの贖い、罪の赦し、永遠の命の約束」を保証されるのです。ですから、なぜ洗礼が必要かと言えば、洗礼は神の保証だからです。神の保証、印があるからこそ、「贖い、赦し、永遠の命」は確かなもの、揺るぎないのです。洗礼を受けることによて、私どもは「罪贖われていること、赦されて神の子であること、永遠の命を生きること」を保証されているのです。

今、聖餐の乱れということが起こっています。神の保証を頂かずして(洗礼を受けないまま)聖餐を受けても意味はありません。神の保証を頂いている者にこそ、聖餐は意味があるのです。ですから、洗礼と聖餐は一つのことです。

現代社会は何を以て成り立っているでしょうか。契約です。契約とは「確かな約束」ということです。確かな約束、契約の根底にあることは、その保証が「真実」であるということです。「真実」は、神にのみあります。

ですから、すべての人は、神の確かな保証である「洗礼」を必要としているのです。