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1節「神の子イエス・キリストの福音の初め」。先週は「福音の初め」について、お話しいたしました。本来の順序は「初め、福音、神の子イエス・キリスト」ですので、その順序で今日は「神の子イエス・キリスト」について語ります。 「イエス・キリスト」という言葉は、既に信仰告白の言葉です。「ナザレのイエスをキリストと信じる」という告白の言葉なのです。 「キリスト」とは、名前・名字ではありません。まず「キリスト」について話したいと思います。「キリスト」とは、王とか天皇ということと同じで「称号」です。つまり「イエスというキリスト」だということです。そして「キリスト」とは「救い主」という称号です。「イエスという救い主」それが「イエス・キリスト」という言葉の意味であり、そこに信仰告白が表されているのです。キリスト教徒ではない一般の人は、意味を知ってか知らずか「イエス・キリスト」と言っておりますが、ユダヤ人たちは決してイエス・キリストとは言いません。ユダヤ人にとっては、まだメシア(救い主)は来ていないのですから、イエスは偉大な預言者かラビでしかないのです。 「メシア」とは「キリスト」です。メシアというヘブライ語の子音を並べてギリシャ語で読むと「キリスト」となるのです。では、メシア(キリスト)とは何か。メシアが救い主となる経緯はと言いますと、ユダヤはローマ帝国の支配下にあって、その支配から解放してくれる理想の王を希求しました。それが、ユダヤ人の待ち望んだメシアなのです。そして、キリスト教会は、イエスをそのメシアとしました。 まず「祭司」の中心となる務めは何か。汚れない清き羊・牛の血を贖いとして神に献げ、民の罪を贖うという務めです。「人の罪を贖う」それは「買い取る」ということです。旧約の時代、血は生命と考えましたので、汚れない家畜の血を人の罪の代価として払い、清算したのです。 私どもは、主イエスの十字架の贖いを信じることによって、罪の贖いを与えられているのです。自分で自分の罪を清算することはできません。贖われて、そこで神との交わりに入れられるのだということを忘れてはなりません。 更に、主イエスは、ご自身の命を代価として私どもを買い取ってくださいました。それは、私どもが「神のものとされる」ということです。私どもは「神に買い取られた者である」ことを忘れてはなりません。 メシアのもう一つの務めは「預言者」としての務めです。「預言者」の務めは、神の言葉を預かって人々に伝えることです。御言葉を語ることです。かつて教会は、この世に警鐘を鳴らす見張りの役目として、この預言の務めを重んじました。御言葉によって神の御心を明らかにすること、それによって人々が悔い改めへと促され、神に立ち帰るということが起こるのです。 更に、キリストとは「王」という称号です。王は、神の御心に則って民を治める者です。主イエス・キリストは、王として「神の支配をこの世に現す者」なのです。主は「憐れみと慈しみなる神の支配」を現される王です。この神の恵みとしての支配を、旧約時代の諸王たちは現すことができませんでした。なぜか。なぜ偶像礼拝をしたのか。王たちは、神に立てられた王であっても、ただ神に従うのではなく、人気取りのために人々の思いに心を向けたからです。他国の動向が気になって異教徒の妃を迎え、人々の思いが気になって神に従い得ない。完全な神の憐れみによる支配を現せませんでした。 私どもが主イエス・キリストを信じて生きるということは、どういう出来事なのでしょうか。罪が贖われ、神のものとされ、神との平安つまり神との和解が与えられ、神の支配のうちに生きるという恵みの出来事なのです。 「神の子イエス・キリスト」と言われております。「神の子」という言葉は、初めの福音書にはなく、後に付けられた言葉だと考えられております。主は「神の子」として「神なる方が人となってくださった」ということが現されているのです。神なる方が人となってくださった、だから私どもは、神に出会い神との交わりに入れられるという恵みを頂いているのです。 初代教会の信仰告白の言葉は「イクスース(ΙΧΘΥΣ)=魚」という言葉です。ギリシア語でΙησουs(イエス)、Χριστοs(キリスト)、Θεου(神の)、Υιοs(息子)、Σοτερ(救い主)のという言葉(「イエス=キリストは神の御子・救い主」=Iesous Christos Theou Uios Soter)のそれぞれの頭文字を並べたのです。 私どももまた、この初代教会の信仰の言葉を、私どもの信仰として告白してゆけば良いのです。 |
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今日は3月11日、東日本大震災を覚える日であります。この日が日曜日に当たるため、礼拝において3.11を覚えて祈ってほしいと、日本基督教団では「祈りのしおり」を作りました。追悼のための集会を持つことも大事ですが、教会が各々の場で覚えることも大事だと考えたからです。どの教会も今日は3.11を覚える礼拝であり、またそれに相応しいメッセージがなされることが当然と、皆思われることと思います。 創世記11章1節「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」とは、今日的状況であります。今、社会においては世界共通の一つの言語が求められ、幼い時から教育されておりますし、世界経済においてもグローバル化の中、世界共通基準が求められる、しかし、そこには隠された大きな問題があるのです。 東日本大震災は、神からの大きな警告であったと言わなければなりません。地震、津波、そして放射能汚染、これらの出来事に、私ども、人の歩みが問われているのです。 聖書は、文化を否定しているかと言いますと、そうではない。そこが難しいところです。文化の力に奢った、ゆえに「れんがやアスファルト」が一掃されたかというと、されていないのです。そうではなく「彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と記されております。言葉を混乱させること、それが警告でした。文化が人を「神を必要としなくなることへと誘惑することの危険」に対する警告なのです。 文化を持つということは、人を「直接的な人間の欲望」から遠ざけてくれます。文化的なルールの中にいれば、人は、あからさまな剥き出しの欲望に制限をかけることができます。貨幣経済の中にいればお金、快適な生活の中にいれば文明の力は当たり前のものになり、オブラートに包まれ、問題性は曖昧になるのです。本当に文化を活かすためには、それをいかに利用するかということが大事なことです。そこで奢ることが危険なのです。低くなることが大事なことです。 原発事故によって、もしかしたら、日本は滅んでしまっても良かったのかも知れません。今になって「よくこの程度で済んだものだ」という声を聞きます。そのことを思うとき、これほどまでに人の罪深さ、奢り、救い難さが示されているのにもかかわらず、この程度で済んだのかとも思わされる。そして思います。ここに尚、「神の憐れみがあった」と思うのです。神は滅ぼし尽くされない。今日、私どもはぎりぎりの所で止まっていられる。そこに神の憐れみがあると思います。 文化の力に依り頼み、オブラートに包まれて生温く、神を見ず、人としての感性を失ってしまった私どもを、神へと立ち帰るようにと、神が招いてくださっているのではないか。ここで打たれたこと、それこそが神の憐れみではなかったか。神は決して見捨てておられない。。。。。このことを語るまでには時間が必要であったと思います。直接に打たれた人々を前に、語ることはできませんでした。 私どもは、神がいてくださるからこそ、どこかで止まり、振り返ることができるのではないでしょうか。振り返って、神へと向かうことができるのではないでしょうか。この度の事故が、神の憐れみであるとするならば、救いはただ神にのみあるのです。打ってくださることに神の真実があり、憐れみがあり、そこには救いがある、このことを知ることの大切さを思っております。 そして、これこそが「荒れ野」なのです。バプテスマのヨハネは「荒れ野」で悔い改めを叫びました。文化的な生活をする都市で叫んだのではありません。文化から外れた何もない所、それが「荒れ野」です。イスラエルの民は出エジプトの後、荒れ野で40年、神の導きを受けつつ生きました。欠乏のただ中で「神が共にいます」経験をしたのです。 「神が共にいます」、そのことによってのみ、私どもは生きる。それがこの「荒れ野で叫ぶヨハネの声」によって知らされていることを覚えなければなりません。「荒れ野」とは、全てが欠乏している場、しかしそこで「神が共にいてくださる」から人は生きるのです。文化に頼るのでなく「神にのみ頼って生きる」それが人の在り方でなのです。 私どもにとっての「荒れ野」とは、どこでしょうか。それは「礼拝」です。文化的な生活に埋没し、罪を実感できない日々を過ごす私どもが、その日常生活から離れて過ごす場、それが礼拝です。神が共にある場、それが荒れ野。そこはまさしく私どもにとっての必要の場。一切を離れての祈りの場です。 オブラートに包まれた、神を見ない曖昧な生活。罪を罪として知らず、神なくやっていけると錯覚させる、それが文化的生活であったこと。そこに警告が発せられたことを、御言葉により示されました。 神は、打たれるほどに、私どもを憐れみたもう方。神の愛は尽きることがないことを覚えたいと思います。 |
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2節「預言者イザヤの書にこう書いてある」、旧約聖書イザヤ書からの引用であると記されておりますが、厳密に言うと少し違います。 ここで、「神が来られる」ということは、「メシアとしておいでになる」のだという視点を持つことが大事です。神が直接来られたならば、人はそれに耐えることはできません。神と本質を同じくする方「救い主イエス・キリスト」が「人として」おいでになる。「神が人としておいでくださる」ことによって、人は神と「人同士として」お会いすることが可能になったのです。そうでなければ、人は、神の前に立つことはできません。ですから「神が人として来られる」ということに「神の憐れみ」があります。それは「神の方で低くなってくださった」という、恵みの出来事なのです。神がおいでくださることの恵みを改めて覚えたいと思います。 「神が来られる」ことの道備えをする者として、バプテスマのヨハネが現れました。旧約聖書イザヤ書には「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあります。「神のために道を整備せよ」とは、神が来られることへの緊張感を感じさせます。神が来られるための備え、相応しい道とは、どういう道でしょうか。イザヤ書では「広い道」ですが、ここでは「道筋をまっすぐにせよ」とあります。「まっすぐ」と「広い」では違います。「まっすぐに」とは、迎える側の姿勢を言っているのです。「まっすぐ」という言葉は、旧約聖書において「信仰」を表す言葉として用いられております。「神に向かってまっすぐ」であることが「信仰」であり、神にまっすぐでなければ逸れる、それは「的外れ」であり、それが「罪」なのです。これは新約に通じることです。 「まっすぐにせよ」という言葉で問われていることは、正しさ・真実とは何かということです。このことをバプテスマのヨハネはどう表し務めたのでしょうか。4節に「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ヨハネは人々に「悔い改め」を迫りました。「悔い改める」ことが「まっすぐにする」ということの内容なのです。 「私どもの真実、正しさ」は「罪を自覚し告白する」ところにあります。しかしそれは、人同志の関係ではできないことです。ただ、神との関係によってのみ可能なことです。 「悔い改め」とは、自分の心の中の葛藤ではありません。「悔い改め」は、人格性の問題として捉えなければなりません。「悔い改め」は「神との関わりの中で真実な人となる」ということです。そして「真実な人としての有り様」とは「神に委ねる」という在り方なのです。 さて、4節には「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあるのですが、これはプロテスタント教会にとっては由々しき問題です。「罪の赦しのための、悔い改めの洗礼」とある。人の悔い改めが罪の赦しになるのでしょうか。いえ、否と言わなければなりません。「罪の赦し」は、ただ「主イエス・キリスト」によってのみ与えられるからです。 もう一つ大切なことがあります。私どもが悔い改め、罪を告白するとき、私どもは「既に神の憐れみの内にある」ということです。それは、「罪人である」と自らの真実を正しく言い表した者に対して「神が真実に応えてくださる」からです。私どもの悔い改めに対して、神は真実に応えてくださる。そして私どもの悔い改めを正しいこととしてくださって、憐れんでくださるのです。 真実であること。それこそが、人を本当に慰め、力を与えます。ですから、真実なる神に至ることなく、本当の慰めを得ることはできないことを覚えたいと思います。 今日は「洗礼」ということをお話しなければなりませんが、もう時間がありません。バプテスマのヨハネの洗礼と主イエス・キリストの洗礼。今日はヨハネの洗礼のことを語りましょう。 主イエス・キリストの洗礼については次週のことといたします。 |
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今日は、5節を振り返りつつ、6節以降を中心に語ります。 5節に「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されております。「住民は皆」このことは2つの意味を持つのです。それは「人は皆、悔い改めを必要としている」そして「人は皆、洗礼を必要としている」ということです。 今日は「主イエス・キリストの御名による洗礼」ということを中心に聴いていきたいと思います。「主イエス・キリストの御名による洗礼」それは何か。8節「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とは、何を意味するのか。このことを語らなければなりません。 6節にまず「バプテスマ(洗礼者)ヨハネ」の生活について語られております。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」というのです。このことは一つのことを示しております。当時、伝統的なこととして、メシア(救い主)の到来には先駆者が来ると考えられており、旧約においては預言者エリヤがメシアの先駆者ですから、ヨハネのこのような格好はメシアの先駆者エリヤを連想させたのです。はっきりとは言いませんが、このヨハネの生活の描写によって、ヨハネは先駆者エリヤとして来ているのだと、当時の人に思わせているのです。ヨハネはエリヤの役割をする人物だと示しているのです。 けれども、それだけではなく、ここに示されるヨハネの生活は「半遊牧民の日常の生活」であったということが大事なことです。荒れ野での生活ということから、それは隠遁生活あるいは禁欲生活であると考える場合があり、教会もそう捉えてきた歴史があるのですが、しかしここでは、そういうことを意味しておりません。 そのヨハネが、7節「彼はこう宣べ伝えた。『わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言うのです。この言葉は、ヨハネがメシアと自分を比べて言っているように思われがちですが、ヨハネはそう思っておりません。人は、他者と自分を比べることで自分を位置づけようとするものですが、ヨハネはそうではないのです。それは「かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」という言葉によって分ります。 そして、私どももまた、神の前に何の値打ちも無い者です。だからこそ、主イエス・キリストの証人として用いられる者とされているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。ここには、人はただ神の憐れみを必要とする存在であることが述べられているのです。「無力な者だからこそ、主を証しし得る者である」それが、このヨハネの在り方が示していることです。そして、そうだからこそ、私どもは神の憐れみを受け、メシアの救いに与っているのだということを覚えたいと思います。 8節「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。主イエス・キリストの洗礼は「聖霊による洗礼」であることが示されております。先週お話ししましたように、旧約における洗礼は軍隊の入隊の印としての洗礼(それは異邦人のユダヤ教への改宗)、そしてヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼ですが、主イエス・キリストの洗礼は、それらの枠を超えて「聖霊による洗礼」です。聖霊による洗礼を受けた者は「主イエス・キリストの焼印を押されている者」ということです。焼印は所有を表すのです。すなわち「キリストのものである」という印が与えられているということ、「神のもの」であることを表しているのです。 主の御名による洗礼とは、罪を贖われキリストのものとされる、神に属するものとされるということです。そしてそれは、神との交わりを回復するということ、聖なるものとされ、終わりの日に永遠の命をいただく者とされるということです。キリストと一つのものとされ、神の子とされる。キリストと共に甦る、永遠の命を頂くのです。 そして、これらは一切が神の出来事、神の成してくださったこと、だから「聖霊の出来事」なのです。人の行いによらない。人の悔い改めによるのではありません。主の御名による洗礼は、聖霊が私どもに働いてくださって起こる神の業なのです。洗礼によって、私どもは「キリストの贖い、罪の赦し、永遠の命の約束」を保証されるのです。ですから、なぜ洗礼が必要かと言えば、洗礼は神の保証だからです。神の保証、印があるからこそ、「贖い、赦し、永遠の命」は確かなもの、揺るぎないのです。洗礼を受けることによて、私どもは「罪贖われていること、赦されて神の子であること、永遠の命を生きること」を保証されているのです。 今、聖餐の乱れということが起こっています。神の保証を頂かずして(洗礼を受けないまま)聖餐を受けても意味はありません。神の保証を頂いている者にこそ、聖餐は意味があるのです。ですから、洗礼と聖餐は一つのことです。 現代社会は何を以て成り立っているでしょうか。契約です。契約とは「確かな約束」ということです。確かな約束、契約の根底にあることは、その保証が「真実」であるということです。「真実」は、神にのみあります。 ですから、すべての人は、神の確かな保証である「洗礼」を必要としているのです。 |
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