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今日は15節後半から聴きたいと思います。説教が予定通り進んでおりませんので、今日も内容は説教題と違っております。ヤコブの手紙のあとはマルコによる福音書を予定しておりますが、ヤコブの手紙が終わるまで、まだあと2・3回は必要かと思います。 先週、15節では「病の癒し」ということが語られました。 マタイによる福音書16章 13節〜19節において、主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問うてくださいました。弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人」と答えますが、主は更に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。それに対してシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるのです。主イエスはペトロのこの言葉を、天の父なる神がペトロに現してくださった信仰告白の言葉であり、そこに「教会を建てる」と言われました。「主イエス・キリストを神の子救い主と信じる」そこに「教会が建てられる」のです。 人の罪を赦すことは、人にはできないことです。なぜならば、人には罪があるからです。 人には誰にでも罪があります。けれども、誰一人として自分の罪を処理しきれる人はいません。何故でしょうか。それは人は罪に耐えられないからです。自分の罪を負いきれないのです。罪に耐えられない、自分の罪も処理し得ない者は、人の罪を赦すことはできません。 罪の自覚ということをはっきり示している聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書8章いわゆる「姦通の女」と言われる女性の話です。この女性の罪を問い、主イエスを試して訴える口実にしようとしたファリサイ派の人々に対して、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。9節「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」と記されております。皆、自分に罪があることを知っている、だから去っていきました。人は罪に耐えられないゆえに、自分の罪を処理しきれないことを忘れてはなりません。ここで主イエスは「自分の罪と真実に向き合うように」と、御言葉をくださいました。主イエスの前に立つということは「自分の罪と向き合う」ということです。何よりもまず自分の罪を省みて、そして人の罪を裁けと言われております。自分の罪を処理できない者が、人を裁くことはできないのです。人は裁きすらできない、大きな罪を持つ者であることを忘れてはなりません。ですから、裁けない者が赦すことなどできないのです。 主イエスは神の子でありながら人となられ、人の罪を負って十字架に死に、人の罪を贖ってくださいました。主は、罪ある者ではありません。主は、罪なき神の子羊であるがゆえに、罪を赦し、贖えるのです。罪ある者は、裁きも赦しもできません。罪なき方だけが罪を処理できる、すなわち罪の裁きも赦しも、神のみ為し得ることを忘れてはなりません。その「神のみ為し得る赦しの権能」が、この世にただ一つのこととして、教会に与えられているのです。「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」とのヤコブの言葉は、この主イエス・キリストの出来事の故にあるのです。 そして、教会が赦しの宣言を為し得るということ以上に覚えなければならないことは「主イエス・キリストが教会を建ててくださった」ということです。罪の赦しの宣言をさせるために、主は教会を建てたもうたことを覚えなければなりません。罪の赦しの宣言を為す、それが主の建てられた教会の使命であり、そこでこそ教会が教会となるのです。 では、「赦し」はどのようになされるのでしょうか。 真実な憐れみは、ただ神にのみあります。神は、御子なる主イエスを十字架につけるほどまでに、罪なる私どもを憐れんでくださいました。十字架の主の前に立ち、罪の告白をした者は、その神の憐れみに満ち溢れるのです。 共々に神の前に罪を告白し祈る、それはプロテスタント教会では「礼拝」という形でなされていることを覚えたいと思います。 共々に罪を告白し合い、祈り合うこと、それがこの礼拝の場においてなされていることを、何よりも覚えたいと思います。ここに神の赦しがある、罪の赦しがあるのです。ここでこそ、あなたの罪は赦されたとの主の宣言を受けているのです。 今日は第一主日であり、私どもは聖餐に与ります。主の御言葉において示された罪の赦しの恵みを、私どもは、聖餐という形で身をもって受けるのです。 |
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今日は16節から聴きたいと思います。 「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と記されております。「正しい人」とはどういう人なのか、問わざるを得ません。「正しい人」すなわち「義人」ですが、私どもは「義人によってこの世は救われる」と考えております。「一人の義人、すなわち主イエス・キリストによって、この世の救いがなされる」それが聖書の基本です。 「義人による救い」で思い起こすのは創世記18章ソドムとゴモラの話です。神は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」との訴えを聞き、見に来られる。そこでアブラハムは「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と神に訴え、正義を行うことこそが神のあり方ではないか問うのです。そして神は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」言われますが、その神にアブラハムは食い下がり「義人が10人しかいなくても、それでも赦す」と言っていただくのです。そこには「正義が行われることがこの世の救いになる」、そして正しい人(義人)のゆえに悪の町が救われることが示されております。 では、どうしてここで「正しい人の祈りには力がある」と言うのか問わなければなりません。ヤコブは「正しい人はいる。正しい人の祈りがある」と言っております。しかし、真実に義人と言える人はいません。ただ主イエス・キリストのみ、義なる方なのです。 ですから「正しい人(義人)の祈りには力がある」その通りです。それは「神の力」だからです。思い起こす聖書の箇所があります。ルカによる福音書22章、主イエスは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とペトロの裏切りを予告されます。しかし主は「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。主がペトロのために祈ってくださったというのです。後にペトロは3度主イエスを知らない否み、決して主を裏切らないと思っていた自らの信仰に破れる。しかしそこで「こんなわたしのために、主が祈ってくださっている」ことを思い起こし、主の恵みを身をもって知る者となるのです。 ペトロは祈る者となりました。絶望する者のために執り成しを祈る者となりました。自らの裏切りを痛み、主の憐れみを知る者として、祈る者となったのです。そして、そのペトロの祈りを主は良しとされました。覚えておくべきことがあります。私どもが祈るとき、私どもは既に祈られているのです。それは、親が子のために祈るということだけではありません。そうではなくて、誰よりも、誰にも勝って私どものために祈ってくださっているのは、主イエス・キリストだということです。裏切りでしかない者、罪なる私どものために、主が祈っておられることを覚えたいと思います。 そして、主が祈っていてくださるからこそ、私どもは祈ることができるのです。私どもの祈りは、主の御心として受け入れられていることを覚えたいと思います。ですから、私ども祈りの根本にあることは、主の祈りです。 では「正しい者の祈り」とは、どのようなものなのでしょうか。人としての正しさとは、どこにあるのでしょうか。 正しい者とは、神にすがるよりない者です。それは誰にも勝って「神を神としている」ということです。神を神とするところ、そこに神の憐れみが臨んでくださるのです。熱心に祈るから正しい祈りなのではありません。神にすがるよりない者、ただ神に生かされている者の祈りだけが、他者の心を打つ祈りであり、そこでこそ、本当に慰められるのです。 17・18節「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました」と、存在のすべてが神の憐れみによる者の祈りの実例として、ヤコブはエリヤの祈りをあげております。雨を降らせなかったり降らせたり、エリヤの祈りは、そのことが目的なのではありません。エリヤの祈りは「神を現す祈り」でした。ですからその結果として、雨が降らず、雨が降ったのです。それは、そこで人々が神を神として知る、神が現される祈りでした。神に全てを依り頼み、神の御心を祈る祈りなのです。そこにこそ大きな神の力が、神の恵みがもたらされるのだということを覚えたいと思います。 私どもの祈りはどうでしょうか。願う思いが強ければ強いほどに、私どもの祈りは、ここに神が在すことを感じることが出来ない祈りになるのではないでしょうか。自分の思いの中にあれば、主の恵みを思えず、感謝もなく、慰めとならないのです。 正しい者の祈りとは、ただ神にのみ依り頼み、神の御心を求める祈りです。 |
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今日でヤコブの手紙を終わります。 終わりに当たって思い起こしたい言葉があります。それは、ヤコブが繰り返し使った「わたしの兄弟たち」という言葉です。ヤコブは「愛する兄弟たち」と、親愛の情を込めて繰り返し呼びかけました。 通常、手紙はどのように終わるかと言いますと「祝福」をもって終わるのです。しかし、このヤコブの手紙は違っています。最後まで、実践的な勧めをもって終わっております。それはキリスト者として真実に生きることを願っての勧めです。 19節・20節、ここに勧められていることは何でしょうか。まず受け止めるべきことは「真理とは何か」ということであり、それが明確にされなければなりません。聖書における「真理」とは「主イエス・キリスト」を指すのです。イエスなる方は、地上においでくださった「神の御子」であり「救い主」であられる。聖書における真理は「救いの真理」なのです。主イエス・キリストをおいて他に「救いの真理」はありません。主イエス・キリストは神の子でありながら、敢えて人となられ、罪なる人の罪を負ってくださいました。人の罪、すなわち自我が先立ち他者を許せないという苦しみ・悲しみ、赦しなき者の罪を主が負ってくださっているのです。罪なる者の罪を、汚れなき主ご自身の血潮によって贖ってくださった、それが救いの真理であり、私どもキリスト者の中心にあることです。 では「真理から迷い出る」とは、どういうことでしょうか。それは、主イエス・キリストから、すなわち「救い」から迷い出ることです。主イエス・キリストから迷い出るということは「主による救いの確信を失うこと」なのです。自分の罪の贖いを信じられなくなることです。「主による救い」は全く揺るぎないものですから、迷い出るのは、確信が持てなくなる側に責任があります。信じること、救いの確信を失えば、迷わざるを得ません。主の救いの真理は決して揺るぎないものであることを忘れてはなりません。迷い出るのは、人の側の問題なのです。 人は、他者から罪を指摘されても受け入れられないものです。特に、日本人は罪の感覚が乏しいと言えます。横の繋がりを重んじるため、皆と一緒の横並びが身の安全と考える。悪いことはいけないという感覚に乏しいのです。悪であっても皆と同じであれば、自分が特別に悪者とは思わない。ですから罪の認識が深まらないのです。それは集団の中で個人を埋没させる生き方であり、罪を罪として真実に受け止めてこなかったということです。そこに問題があります。 罪の自覚のないところで罪を指摘しても、人は受け入れることはできません。一人ひとりが神の前に立つ以外にない、十字架の主イエス・キリストの前に立つ以外にないのです。「このわたしのために主が十字架に釘付けにされ、血潮を流してくださった」、そのことに、まっすぐに目を向けること、そこで初めて私どもは自らの罪深さを自覚するのです。罪の指摘が罪の自覚を生むのではありません。十字架の主を仰ぎ見ることによってのみ、自覚できるのです。まっすぐに、挫けずに、主の十字架を仰ぎ見る、そこでこそ、滅びでしかない自らの罪深さを知り、そこに救いを見るのです。 「人を真理に連れ戻す」とは、私どもが主の十字架を直視し、ひざまずき、真実に十字架の主に祈る他ありません。主に心を向け、へりくだる以外に、他者を真理に連れ戻すことはできないのです。誰よりも誠実に、十字架の主を仰ぎ、祈る。ひたすらに十字架の主の前にひざまずき、祈るところに、神が臨んでおられるのです。十字架の主が臨んでおられる、だから、そこにいる者にも主の憐れみが臨むのです。私ども自身が神の前にひざまずき、真理を示す、すなわち主の臨在を証しすること以外に、人々を真理に連れ戻すことはできないのです。 そして、そればかりではなく「多くの罪を覆うことになる」と言われております。どういうことでしょうか。それは「連れ戻した、その人の多くの罪をも覆われる」と言っているのです。十字架に、信仰に生きるということは、人を救いへと導くだけではなく、その人自身の多くの罪をも覆われるということです。すなわち、キリスト者である私ども自身の多くの罪が覆われ、赦されるという恵みなのです。 十字架の主イエス・キリストにまっすぐに心を向けるとき、私どもの罪は覆われ、罪赦されていることを改めて覚えたいと思います。そこにこそ、真実の慰めがあるのです。 |
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今日からマルコによる福音書の御言葉に聴いて参ります。 伝記は、偉大な人物の生涯を著すのですが、その場合は個人史です。 福音書はなぜ書かれたのでしょうか。書く必要性があったのでしょうか。「福音書」は、必要があって記されました。 1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されております。この1節に「イエス・キリストは救い主である」というキリスト表現が明らかに示されております。 「福音」という言葉は、どういう言葉でしょうか。ギリシャ語で「evangelion(エウアンゲリオン)」、「勝利の知らせ」という意味です。「 救いの喜び」と「永遠の命の喜び」、そしてそれは「死に対する勝利」です。「十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの喜びの知らせ」それが「福音」なのです。 それは、神が一切をなさってくださる出来事です。福音書には、救いの出来事が記されているのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは、神が私どもになしてくださる救いの強い宣言、表明であることを覚えたいと思います。 |
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