聖書のみことば/2012.2
2012年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
真理へ連れ戻す」 2月第1主日礼拝 2012年2月5日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章13〜18節

5章<13節>あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。<14節>あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。<15節>信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。<16節>だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。<17節>エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。<18節>しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

今日は15節後半から聴きたいと思います。説教が予定通り進んでおりませんので、今日も内容は説教題と違っております。ヤコブの手紙のあとはマルコによる福音書を予定しておりますが、ヤコブの手紙が終わるまで、まだあと2・3回は必要かと思います。

先週、15節では「病の癒し」ということが語られました。
 今日はその後半で、「罪の赦し」の出来事を「癒し」として語っております。「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と、ここでヤコブは「主イエス・キリストによる赦しの宣言」をしております。これは大事なことです。それは「教会の使命」「教会の祈りとは何か」を明らかにしているからです。私どもキリスト者は、ヤコブが罪の赦しの宣言をしているということを受け止めなければなりません。ヤコブは主イエス・キリストの弟子であり、「主の弟子」それは即ち「教会」ですから、まさに教会に託されていることは「罪の赦しの宣言」だということなのです。

マタイによる福音書16章 13節〜19節において、主イエスは弟子たちに「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問うてくださいました。弟子たちは「洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人」と答えますが、主は更に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われます。それに対してシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えるのです。主イエスはペトロのこの言葉を、天の父なる神がペトロに現してくださった信仰告白の言葉であり、そこに「教会を建てる」と言われました。「主イエス・キリストを神の子救い主と信じる」そこに「教会が建てられる」のです。
 また主は「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。それは「罪を解く力」を教会に与えてくださったということです。
 ヨハネによる福音書20章22・23節には「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」との主イエスの言葉が記されております。教会は聖霊を受け、聖霊の働きに導かれて「罪を赦す権能を与えられている」ことが、ここにはっきりと示されているのです。

人の罪を赦すことは、人にはできないことです。なぜならば、人には罪があるからです。
 また、人の罪を裁こうとするならば、ますますその荷の重さを思わずにはいられません。一昨年から日本でも裁判員制度が始まりました。このことによって一般の人も裁きに関わることとなり、人々は「自分が人を裁けるか」と問わずにはいられなくなりました。裁くことは難しいことです。しかし、断罪する以上に難しいことは「罪を赦す」ということです。万が一裁くことが出来たとしても、赦すということは決してできないのです。罪の赦しは、人には為し得ないことを覚えなければなりません。
 本来、裁きによって罪は清算され、贖われて罪は終わり、赦されなければなりません。しかしどうでしょうか。人の裁きは、裁ききれない裁きであるがために、裁きとしての刑を受け刑を終えた者であっても、前科者として社会的心情的な裁きの目に晒される、それが私どもの現実です。このことの意味することは何でしょうか。人には、口には出さなくても心の底で人を赦せないという思いがあるのです。

人には誰にでも罪があります。けれども、誰一人として自分の罪を処理しきれる人はいません。何故でしょうか。それは人は罪に耐えられないからです。自分の罪を負いきれないのです。罪に耐えられない、自分の罪も処理し得ない者は、人の罪を赦すことはできません。

罪の自覚ということをはっきり示している聖書の箇所があります。ヨハネによる福音書8章いわゆる「姦通の女」と言われる女性の話です。この女性の罪を問い、主イエスを試して訴える口実にしようとしたファリサイ派の人々に対して、主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。9節「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」と記されております。皆、自分に罪があることを知っている、だから去っていきました。人は罪に耐えられないゆえに、自分の罪を処理しきれないことを忘れてはなりません。ここで主イエスは「自分の罪と真実に向き合うように」と、御言葉をくださいました。主イエスの前に立つということは「自分の罪と向き合う」ということです。何よりもまず自分の罪を省みて、そして人の罪を裁けと言われております。自分の罪を処理できない者が、人を裁くことはできないのです。人は裁きすらできない、大きな罪を持つ者であることを忘れてはなりません。ですから、裁けない者が赦すことなどできないのです。
 もしも裁けないにも拘らず裁いたとすると、どうなるでしょうか。人は罪の重さに苦しみ、相手をも苦しめることになるのです。なぜならば、人は自己正当化するからです。裁く側に責任はない、裁かれる側に責任があると言わざるを得ないのですから、いつまでも裁かれた側の責任となる。「罪は終わった」と、裁く側が言わない限り、罪は終わりません。しかし人は自分の罪に耐えられませんから、赦す力を持たないのです。
 主イエスは誰もいなくなったところで、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と問い、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言ってくださいました。人々は去り、最後までとどまってくださったのは主イエスのみでした。そして、その主イエスに罪赦されて、女は去って行くのです。主イエスのみ「罪は終わった」と宣言してくださるお方です。「罪赦されて」女は去ることができたのです。主イエスのみ、裁きも赦しも為し得る方であることを忘れてはなりません。
 その主の赦しの権能が、教会に与えられているのです。

主イエスは神の子でありながら人となられ、人の罪を負って十字架に死に、人の罪を贖ってくださいました。主は、罪ある者ではありません。主は、罪なき神の子羊であるがゆえに、罪を赦し、贖えるのです。罪ある者は、裁きも赦しもできません。罪なき方だけが罪を処理できる、すなわち罪の裁きも赦しも、神のみ為し得ることを忘れてはなりません。その「神のみ為し得る赦しの権能」が、この世にただ一つのこととして、教会に与えられているのです。「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」とのヤコブの言葉は、この主イエス・キリストの出来事の故にあるのです。

そして、教会が赦しの宣言を為し得るということ以上に覚えなければならないことは「主イエス・キリストが教会を建ててくださった」ということです。罪の赦しの宣言をさせるために、主は教会を建てたもうたことを覚えなければなりません。罪の赦しの宣言を為す、それが主の建てられた教会の使命であり、そこでこそ教会が教会となるのです。

では、「赦し」はどのようになされるのでしょうか。
 16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」と言われております。「罪の告白」が大事なのです。しかし、罪の告白ほど難しいことはありません。
 自虐的に「悪いのはわたし」と言うことはあるでしょう。しかし、それは人の憐れみを乞おうとする気持ちから言うことです。「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とは人同志でなすこととして示されておりますが、しかし人に向かったのでは出来ないことです。「共々に、神の前に自らの罪を告白し祈ること」です。「神の前で共々に」ということでなければ、罪の告白を受け止めることなどできません。神の前で共々に告白する、そこでこそ、真実な赦しがなされるのです。
 「罪を告白せよ」と言われることの前提にあることは、教会が赦す権能を持っているということです。人が真実な罪の告白をしたから赦されるということではありません。それでは赦しが人の真実さにかかってしまうのです。そうではなく、「罪を赦すとの宣言がなされる」だから「告白」できるのです。
 カトリック教会では、罪の告白と赦しが「告解」という制度でなされています。懺悔室においてなされた告白には、必ず赦しの宣言がなされます。罪が語られ、赦しが語られるのです。罪を赦す力を頂いている交わりの中で、自らの罪を共々に言い表すことができるのです。

真実な憐れみは、ただ神にのみあります。神は、御子なる主イエスを十字架につけるほどまでに、罪なる私どもを憐れんでくださいました。十字架の主の前に立ち、罪の告白をした者は、その神の憐れみに満ち溢れるのです。

共々に神の前に罪を告白し祈る、それはプロテスタント教会では「礼拝」という形でなされていることを覚えたいと思います。
 礼拝の「招詞」においては、神が私どもを呼び集めてくださっていることを覚えなければなりません。私どもが思いを持って礼拝に集うのではありません。一週をこの世で歩む私どもを「神が招いてくださる」のです。ですから「招詞」は読むのではなく聞かなければなりません。共々に集められた恵みを覚え、一週の自らの歩みを省み、神の憐れみに相応しかったかどうかを思う。そして自らの罪を告白する。そこで、御言葉が与えられるのです。説教において主イエス・キリストが語られることは、罪の赦しの出来事が語られることです。ですから、説教は罪の赦しの宣言として語られなければなりません。

共々に罪を告白し合い、祈り合うこと、それがこの礼拝の場においてなされていることを、何よりも覚えたいと思います。ここに神の赦しがある、罪の赦しがあるのです。ここでこそ、あなたの罪は赦されたとの主の宣言を受けているのです。

今日は第一主日であり、私どもは聖餐に与ります。主の御言葉において示された罪の赦しの恵みを、私どもは、聖餐という形で身をもって受けるのです。
 聖餐に与ることにより、神共にある恵みをこの身をもって味わい知ることの出来ます幸いを覚え、感謝をもって聖餐に与りたいと思います。

魂を死から救う」 2月第2主日礼拝 2012年2月12日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章13〜18節

5章<13節>あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。<14節>あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。<15節>信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。<16節>だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。<17節>エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。<18節>しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

今日は16節から聴きたいと思います。

「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」と記されております。「正しい人」とはどういう人なのか、問わざるを得ません。「正しい人」すなわち「義人」ですが、私どもは「義人によってこの世は救われる」と考えております。「一人の義人、すなわち主イエス・キリストによって、この世の救いがなされる」それが聖書の基本です。

「義人による救い」で思い起こすのは創世記18章ソドムとゴモラの話です。神は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」との訴えを聞き、見に来られる。そこでアブラハムは「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」と神に訴え、正義を行うことこそが神のあり方ではないか問うのです。そして神は「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」言われますが、その神にアブラハムは食い下がり「義人が10人しかいなくても、それでも赦す」と言っていただくのです。そこには「正義が行われることがこの世の救いになる」、そして正しい人(義人)のゆえに悪の町が救われることが示されております。
 私どもは、なぜ10人か、一人では駄目なのかと追求したくなりますが、アブラハムは謙遜です。「正しい者のゆえに悪しき者をも救う」ということが神の御心であることを確信したからこそ、アブラハムはそれ以上神に食い下がる必要はなかったのです。結果はどうか。アブラハムの甥ロトと家族を除いて、ソドムとゴモラの町は滅びました。ロトが救われたのは、ロトが義人だったからではありません。ただアブラハムの甥だったゆえです。ロトは悪の町に染まっていて正しく生きることは出来ませんでした。ロトの妻は慣れ親しんだ悪の町を慕い、振り向いたために塩の柱となるのです。「正しい人のゆえに世を救う」と、はっきり聖書は語っております。けれども同時に、ソドムとゴモラには正しい人は一人もいなかったことが示されているのです。
 アブラハムは義と認められて、悪に染まったソドムとゴモラのために「執り成しの祈り」をなすことを赦されました。そして、ひとかけらの義があれば赦されることを知りました。しかし、義人はいなかったのです。聖書の様々な箇所に示されているように、義人は一人もいないし、人は自ずと偽る者であり、神に従い得ない者、全ての人は罪に染まっているのです。

では、どうしてここで「正しい人の祈りには力がある」と言うのか問わなければなりません。ヤコブは「正しい人はいる。正しい人の祈りがある」と言っております。しかし、真実に義人と言える人はいません。ただ主イエス・キリストのみ、義なる方なのです。
 主は罪なき神の御子であって、人となってくださった方です。その「十字架と復活の主イエス・キリストの義をいただくこと」それが「私どもの救い」です。主の十字架によって私どもの罪は終わりとされました。そしてそこで、私どもは「義である」との宣言をいただくのです。
 私どもの救いとは何か。私どもの救いとは、単に罪赦されたということだけではありません。私どもの救いとは「救い主イエス・キリストの義が、衣のように、私どもを覆い尽くしている」ということです。「義とされる」ということが「私どもの救い」なのです。神の義が罪なる者を覆い尽くす、それが救いなのです。

ですから「正しい人(義人)の祈りには力がある」その通りです。それは「神の力」だからです。思い起こす聖書の箇所があります。ルカによる福音書22章、主イエスは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」とペトロの裏切りを予告されます。しかし主は「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました。主がペトロのために祈ってくださったというのです。後にペトロは3度主イエスを知らない否み、決して主を裏切らないと思っていた自らの信仰に破れる。しかしそこで「こんなわたしのために、主が祈ってくださっている」ことを思い起こし、主の恵みを身をもって知る者となるのです。
 自らのどんなに決心であっても裏切ざる得ない者、そこに「主イエス・キリストの祈り」があります。それはペトロのためだけの祈りなのではありません。主の弟子たち全ての者のための祈りなのです。そして、背き、裏切りでしかない私どもをも、主はご自分の弟子として知っていてくださるのです。

ペトロは祈る者となりました。絶望する者のために執り成しを祈る者となりました。自らの裏切りを痛み、主の憐れみを知る者として、祈る者となったのです。そして、そのペトロの祈りを主は良しとされました。覚えておくべきことがあります。私どもが祈るとき、私どもは既に祈られているのです。それは、親が子のために祈るということだけではありません。そうではなくて、誰よりも、誰にも勝って私どものために祈ってくださっているのは、主イエス・キリストだということです。裏切りでしかない者、罪なる私どものために、主が祈っておられることを覚えたいと思います。

そして、主が祈っていてくださるからこそ、私どもは祈ることができるのです。私どもの祈りは、主の御心として受け入れられていることを覚えたいと思います。ですから、私ども祈りの根本にあることは、主の祈りです。
 主イエスは弟子たちに「?主の祈り」を教えてくださいました。弟子たちは祈れなかったのです。主の祈りは、主イエスご自身の祈りです。その祈りを弟子たちに、口写しで教えてくださったのです。ですから、祈りとは、自らの思いを整理して独白するということではありません。祈りは与えられているのです。どのように祈るかは、主が「主の祈り」によって教えてくださっているのです。

では「正しい者の祈り」とは、どのようなものなのでしょうか。人としての正しさとは、どこにあるのでしょうか。
 罪人だから祈れない、というものではないのです。罪人に過ぎない、だから「神の憐れみにすがるしかない者」として祈る、その者の祈りは聞かれるのです。人としての正しさは、自分で自分を正しいとすることではありません。罪でありながら義とされている、だから正しい者なのです。
 罪人でありながら義とされている者、それがキリスト者です。キリスト者の祈りこそが、義人の祈り、正しい者の祈りなのです。それは、ただただ主の憐れみにすがるよりない者の祈りです。
 自らの罪にくずおれる者の祈り、主の執り成しがあることを知って祈る祈り、深く自らの罪を知り神の憐れみを知る者の祈りに、人の心は打たれます。ですから、キリストの義をいただいている者の祈りには力があるのです。神に、義にすがるよりない者、他に頼るべきものを持たない者を神は憐れんでくださり、その者の祈りを神は聞いてくださるのです。それは、全てを神により頼む者の祈りです。自らの確信による祈りではないのです。?

正しい者とは、神にすがるよりない者です。それは誰にも勝って「神を神としている」ということです。神を神とするところ、そこに神の憐れみが臨んでくださるのです。熱心に祈るから正しい祈りなのではありません。神にすがるよりない者、ただ神に生かされている者の祈りだけが、他者の心を打つ祈りであり、そこでこそ、本当に慰められるのです。
 ですから、祈りとは「神を現す」ことです。神の御心が現されることです。神によって義とされた者、神の恩寵がこの身に沁みている者の祈り、それは神の臨在を現す、力ある祈りなのです。

17・18節「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました」と、存在のすべてが神の憐れみによる者の祈りの実例として、ヤコブはエリヤの祈りをあげております。雨を降らせなかったり降らせたり、エリヤの祈りは、そのことが目的なのではありません。エリヤの祈りは「神を現す祈り」でした。ですからその結果として、雨が降らず、雨が降ったのです。それは、そこで人々が神を神として知る、神が現される祈りでした。神に全てを依り頼み、神の御心を祈る祈りなのです。そこにこそ大きな神の力が、神の恵みがもたらされるのだということを覚えたいと思います。

私どもの祈りはどうでしょうか。願う思いが強ければ強いほどに、私どもの祈りは、ここに神が在すことを感じることが出来ない祈りになるのではないでしょうか。自分の思いの中にあれば、主の恵みを思えず、感謝もなく、慰めとならないのです。

正しい者の祈りとは、ただ神にのみ依り頼み、神の御心を求める祈りです。
 そして、神の御心こそが全てとなるところに、神の慈しみが満ち溢れるのです。

迷いの道から連れ戻す」 2月第3主日礼拝 2012年2月19日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章19〜20節

5章<19節>わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、<20節>罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです。

今日でヤコブの手紙を終わります。

終わりに当たって思い起こしたい言葉があります。それは、ヤコブが繰り返し使った「わたしの兄弟たち」という言葉です。ヤコブは「愛する兄弟たち」と、親愛の情を込めて繰り返し呼びかけました。
 そして、数々の勧めをなしました。「試練」を語り「忍耐」を勧め「信仰による行い」を勧めました。そして「祈り」を繰り返し語りました。ヤコブの手紙は、キリスト教の本質を語るということ以上に、「キリスト者はどのように生きるべきか」を語っている手紙でした。キリスト者の実際の生活、信仰生活を語るものであったことを忘れてはなりません。
 「忍耐の勧め」によって、主の再臨の日、終わりの日を待ち望む日々の大切さを示されました。また「信仰による行いの勧め」によって、信仰者の倫理的な在り方、すなわち一人ひとりのために祈ることの大切さを示されました。そして、それらの勧めに聴きながら、私どもは問われるのです。私どもの信仰生活は果たして実践的なものであったか、何よりも祈っていたか。すべては神がなされるということを信じて祈っていただろうか、神の御旨をかしこんでいたか、ただ単に自分の思いを披瀝する祈りになっていなかったか、問われます。

通常、手紙はどのように終わるかと言いますと「祝福」をもって終わるのです。しかし、このヤコブの手紙は違っています。最後まで、実践的な勧めをもって終わっております。それはキリスト者として真実に生きることを願っての勧めです。

19節・20節、ここに勧められていることは何でしょうか。まず受け止めるべきことは「真理とは何か」ということであり、それが明確にされなければなりません。聖書における「真理」とは「主イエス・キリスト」を指すのです。イエスなる方は、地上においでくださった「神の御子」であり「救い主」であられる。聖書における真理は「救いの真理」なのです。主イエス・キリストをおいて他に「救いの真理」はありません。主イエス・キリストは神の子でありながら、敢えて人となられ、罪なる人の罪を負ってくださいました。人の罪、すなわち自我が先立ち他者を許せないという苦しみ・悲しみ、赦しなき者の罪を主が負ってくださっているのです。罪なる者の罪を、汚れなき主ご自身の血潮によって贖ってくださった、それが救いの真理であり、私どもキリスト者の中心にあることです。

では「真理から迷い出る」とは、どういうことでしょうか。それは、主イエス・キリストから、すなわち「救い」から迷い出ることです。主イエス・キリストから迷い出るということは「主による救いの確信を失うこと」なのです。自分の罪の贖いを信じられなくなることです。「主による救い」は全く揺るぎないものですから、迷い出るのは、確信が持てなくなる側に責任があります。信じること、救いの確信を失えば、迷わざるを得ません。主の救いの真理は決して揺るぎないものであることを忘れてはなりません。迷い出るのは、人の側の問題なのです。
 なぜ人は迷い出るのでしょうか。それは、自分の「罪深さ」を知ろうとしないからです。私どもは、自分の罪ということを知らないわけではありません。ある程度は自分の限界や不完全さを知っていますし、間違いを犯したり、うそぶいたり、他者を傷つけたり、裁くこともあることを知っております。けれども、知っていても自分の罪として深く感じているかと言うと感じていない。自分の罪の深さが分らないのです。それが迷い出ることの中心にあることです。罪の認識に至り得ていない、罪人としての実感を持ち得ない、そのために神の恵みを知り得ないのです。

人は、他者から罪を指摘されても受け入れられないものです。特に、日本人は罪の感覚が乏しいと言えます。横の繋がりを重んじるため、皆と一緒の横並びが身の安全と考える。悪いことはいけないという感覚に乏しいのです。悪であっても皆と同じであれば、自分が特別に悪者とは思わない。ですから罪の認識が深まらないのです。それは集団の中で個人を埋没させる生き方であり、罪を罪として真実に受け止めてこなかったということです。そこに問題があります。
 なぜ日本においてキリスト教が浸透しないのか。それは、個人の罪深さということを思わないからです。他と比べれば、自分が悪いとは思えない。それでは本当の意味での罪深さを確信することはできません。しかし、今は段々と個の自覚が求められる時代になりました。そのことは、キリスト教の救いを必要とするようになるということであり、そこで教会の責任は重いと言えましょう。
 けれども、そのことを待っていては駄目なのです。果たして罪の自覚・救いの確信に至れるかどうか、問われなければなりません。

罪の自覚のないところで罪を指摘しても、人は受け入れることはできません。一人ひとりが神の前に立つ以外にない、十字架の主イエス・キリストの前に立つ以外にないのです。「このわたしのために主が十字架に釘付けにされ、血潮を流してくださった」、そのことに、まっすぐに目を向けること、そこで初めて私どもは自らの罪深さを自覚するのです。罪の指摘が罪の自覚を生むのではありません。十字架の主を仰ぎ見ることによってのみ、自覚できるのです。まっすぐに、挫けずに、主の十字架を仰ぎ見る、そこでこそ、滅びでしかない自らの罪深さを知り、そこに救いを見るのです。
 自らの罪に涙し心傷めるとすれば、それは、そこに十字架の主がおられるからです。私どもが十字架の主を仰ぎ見るからです。私どもの罪のために、その罪を覆ってくださる、そのために十字架に裁かれてくださった主イエス・キリストを仰ぎ見ることの他に、自分の罪を知り涙することは有り得ないのです。
 それは、限りない「神のご恩寵」を知るということです。愛という言葉では、十字架の出来事を現し尽くすことはできません。罪の赦しにおいて「神のご恩寵、神への恩義」を思い起こすほどに、主イエス・キリストの愛、救いを思うことが大事なのです。ただ「神に愛されているから、それで良かった」ということでは駄目なのです。
 かつて武士道が生きていた時代には、「恩寵」という言葉も生きておりました。その方が、キリスト教の救いの確信に至り得たかもしれません。権威が失われていることが今の問題なのです。
 恩義なきところに、救いの喜びはありません。何よりも「神のご恩寵」ということが大事であることを覚えたいと思います。そして、主の十字架に目をそむけず、仰ぎ見続けること、心を向けること、そこでこそ私どもの真実な姿、罪を見出すことができることを覚えたいと思います。救いの確信、罪の自覚は、ただ十字架の主にのみあるのです。

「人を真理に連れ戻す」とは、私どもが主の十字架を直視し、ひざまずき、真実に十字架の主に祈る他ありません。主に心を向け、へりくだる以外に、他者を真理に連れ戻すことはできないのです。誰よりも誠実に、十字架の主を仰ぎ、祈る。ひたすらに十字架の主の前にひざまずき、祈るところに、神が臨んでおられるのです。十字架の主が臨んでおられる、だから、そこにいる者にも主の憐れみが臨むのです。私ども自身が神の前にひざまずき、真理を示す、すなわち主の臨在を証しすること以外に、人々を真理に連れ戻すことはできないのです。
 私どもの日々、日常が、祈りであり感謝である、そこに主が臨み働いてくださる。そしてそこでこそ、人は主へと導かれるのです。
 私どもは、言葉をもっては何も示すことはできません。ただ私どもの日常にキリストが現されること、そこにこそ力があるのです。ですから、信仰に生きる者こそが人を真理へと連れ戻すのです。

そして、そればかりではなく「多くの罪を覆うことになる」と言われております。どういうことでしょうか。それは「連れ戻した、その人の多くの罪をも覆われる」と言っているのです。十字架に、信仰に生きるということは、人を救いへと導くだけではなく、その人自身の多くの罪をも覆われるということです。すなわち、キリスト者である私ども自身の多くの罪が覆われ、赦されるという恵みなのです。
 ヤコブは、連れ戻された者の幸いを言っておりません。連れ戻す者の幸いを言っているのです。十字架の主の前にひざまずき祈るとき、自分の罪が覆われ、赦される。主の十字架の恵みに覆われて、真実の慰めを与えられていることを知るのです。

十字架の主イエス・キリストにまっすぐに心を向けるとき、私どもの罪は覆われ、罪赦されていることを改めて覚えたいと思います。そこにこそ、真実の慰めがあるのです。

福音の初め」 2月第4主日礼拝 2012年2月26日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第1章1〜8節

1章<1節>神の子イエス・キリストの福音の初め。<2節>預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。<3節>荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、<4節>洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。<5節>ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。<6節>ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。<7節>彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。<8節>わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

今日からマルコによる福音書の御言葉に聴いて参ります。

伝記は、偉大な人物の生涯を著すのですが、その場合は個人史です。
 マルコによる福音書は主イエス・キリストの生涯を記すのですが、しかし、主イエスの個人史を記しているのではありません。
 「福音書」とは、主イエス・キリストによる福音の物語です。主は十字架に死に、甦って、今も生きて働いておられるお方です。ですから、主イエスは「偉人」とは違うのです。

福音書はなぜ書かれたのでしょうか。書く必要性があったのでしょうか。「福音書」は、必要があって記されました。
 福音書が記された時代には、主イエスの直接の弟子たちは死に、次世代の弟子たちになっていきました。直接に主イエスを知っている証人は既にいなくなっておりますから、聞き伝えられた主イエスの出来事も「それは本当のことか」ということになるのです。ですから、切実に求められたことは「権威をもってキリストを表現する」ということでした。教会が主イエス・キリストを証しする必要性を痛切に感じ、信仰の表現するものとして「神の啓示による証し」を記した、それが「福音書」なのです。
 大切なことは、「神の啓示とキリスト告白」それが「聖書」であるということです。福音書は、個人史ではなくて「神の救いの書」なのです。
 マルコによる福音書は、いつごろ書かれたかと言いますと、紀元70年頃と言われております。いわゆる「マルコ」として言い表された「教会」の表現としての証しであり、それがこの福音書です。福音書には「教会の信仰」が言い表されているのです。

1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」と記されております。この1節に「イエス・キリストは救い主である」というキリスト表現が明らかに示されております。
 元々は「初めに」という形で表現されておりました。「初めに」という言葉で思い起こすのは、創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された」です。「初めに」という言葉によって、「神が意図して万物を創った」という神の意思を強く示しております。ですから、この「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉は、神の意思に基づく神の介入があることを示している言葉です。神が救いの御業をなさる、神の直接的救いの業のために「イエス・キリスト」を用いられるのだということがはっきりと示されております。「初めに」神があり、「救う」という神の御意志が示されているのです。
 ですから、私どもの「救い」の確かさは、神にあります。「あなたは何者か」ということが問題なのではない。ただ「あなたを救う」という、神の好意が示されているのです。神の一方的なご好意によって救われる、それが一義です。

「福音」という言葉は、どういう言葉でしょうか。ギリシャ語で「evangelion(エウアンゲリオン)」、「勝利の知らせ」という意味です。「 救いの喜び」と「永遠の命の喜び」、そしてそれは「死に対する勝利」です。「十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの喜びの知らせ」それが「福音」なのです。

それは、神が一切をなさってくださる出来事です。福音書には、救いの出来事が記されているのです。「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは、神が私どもになしてくださる救いの強い宣言、表明であることを覚えたいと思います。