聖書のみことば/2012.12
2012年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
御言葉は実を結ぶ」 12月第1主日礼拝 2012年12月2日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章13〜20節

4章<10節>イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。<11節>そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。<12節>それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」<13節>また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。<14節>種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。<15節>道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。<16節>石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、<17節>自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。<18節>また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、<19節>この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。<20節>良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

10節「イエスがひとりになられたとき」とあります。群衆が帰り、主イエスが一人になられたことを示しております。

主イエスが「ひとりになられた」ことについて、私どもは弁えなければなりません。「主イエスがひとりになられるとき」、それは「祈りの時間」なのです。「父なる神に祈るとき」を持つ、それが「ひとり」ということです。ですから、主イエスにとって「ひとり」とは、孤独を意味しません。孤独ではなく、「神との交わりのとき、満ち足りたとき」を過ごされるのです。

ですから、キリスト者にとっても、「ひとりのとき」は、なんの妨げもなく「神の御名を呼ぶとき」であることを覚えたいと思います。それは「恵みに満ちたときを持つ」ということなのです。「ひとりを持て余して孤独に思う」ということが多々あります。けれども、キリスト者にとっての「ひとり」は、とても重要な時なのです。

「ひとり」とは、今日的課題であると思います。高齢化社会の中で、高齢になればなるほど、一人暮らしを強いられることになるでしょう。ですから「ひとり」とは、いかなる恵みであるかを知っておく必要があるのです。そうでなければ、一人であれこれと考え、自分自身を苛むことになるでしょう。
 改めて、「ひとり」とは、主を信じ、神の御名をいただいた者として「神との交わりに満たされるとき」であることを覚えたいと思います。ここに現代人へのメッセージがあります。長寿社会の孤独を思うからです。しかし、キリスト者は孤独ではありません。「ひとり」になって神のみと向き合い、却って、自分自身を見出すという大切な時が与えられるのです。

人と人との交わりも大切なものです。しかし同時に、煩わしくもあります。忍耐や理解を必要とするからです。そして、それは難しいことです。ですから、人と人との交わりが全てであることは困難を持つことになるのです。
 神との交わりは、煩い無き交わり、満たされた恵みのときであることを覚えたいと思います。一人暮らしにも、主イエス・キリストにある豊かさを覚えられるならば幸いなのです。

「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた」とあります。ひとりになられたのに、周りに人がいたとは、ややこしい表現ですが、これは、群衆は去り、主イエスの側にいる人たちが尋ねたということでしょう。

11節「そこで、イエスは言われた」とあります。人々は主イエスに「たとえで語られる理由」を尋ねました。そのたとえは「種まきのたとえ」でした。主イエスは、当時の人々の日常を用いて語られました。主がたとえで語られるのは、人々が日常生活の中で神を思い、自分自身を見出すためです。

けれども、たとえを聞いた人々には、理解できませんでした。主イエスのたとえは、日常の出来事を語りながら、しかし、謎でもあったのです。主イエスは「神の国の秘密」をたとえによって語ると言われました。「謎、秘密」は分からないのです。身近な例を用いて、「謎、秘密」の話をなさるとは、難しいことです。

しかし、人は「謎解き」が好きです。知恵を持つと、人は謎を好むのです。「謎がある」ということは、謎解きができたとき、理解できたときには、そこに喜びがあります。聞いてすぐに分かることは、喜びになりませんし、身にも付かないでしょう。謎が解ける、それは深い理解へと人を導くのです。

私どもは、「理解できない」ということを、恥ずべきこと、愚かなことと思っておりますが、しかしそうでしょうか。理解できないことは、愚かなことではありません。
 「神の国の出来事」は「謎、秘密」の出来事です。謎であり秘密である「神の国」のことを、理解できるわけがないのです。「神の国」とは、人の理解の及ばない出来事であることを覚えなければなりません。

理解することが信仰なのではありません。人の理解によって、信仰が与えられるのではないのです。私どもには、「信仰によって、理解が与えられる」のです。
 「神の国の秘密」は、打ち明けられる出来事です。神ご自身が、この秘密を打ち明けてくださって、初めて、私どもに分かることです。ですから「神秘」です。そうであれば、理解できないことは当たり前ですし、なお言うならば、それは幸いなことなのです。
 0点が大事です。それは何故かと言いますと、ここで主の周りにいた人たちは、理解できなかったゆえに「主イエスに聞く者」とされたからです。すぐ理解できたら、聞かないでしょう。理解できない、だから主に聞く。そこで主はそのことを良しとしてくださって、教え示してくださるのです。

「救いの出来事」は、「神が示してくださる」のであり、「与る(あずかる)」出来事です。私どもが自ら至るべき事柄ではありません。
 主イエスは、人々が理解できないことを無視なさらず、分からないことは当然のこととして語ってくださいます。

「神の国の秘密」は、3つあります。まず、「主イエスと共に、神の国が来ている」ということです。そして、「神の国」とは「神の支配」であり、それは神が御子イエスによってこの世の罪の贖いをなしてくださり、「この世と和解し、神の国を立ててくださる」ということです。それゆえに、「主イエスを信じることによって、私どもは神の支配(神の国)に移される」のです。まさしく「父・子・聖霊なる、三位一体の神」であられるがゆえに、3つの秘密なのです。

私どもは、神の国を理解できない。けれども「信じ、告白し、洗礼を受ける」ことによって、神の国の一員であることのしるし、保証をいただく幸いに与っております。ただ「聖霊」によって、私どもは、救いを知り得るのです。

ですから、理解できないことは幸いです。「主に聞く者でしかない」から幸いなのです。主に聞くとき、主は聖霊をもって教えてくださいます。
 もしも、自分の知恵、力によって理解したと思うならば、それは「恵み」として受け止められないでしょう。「与えられた、授けられた」と知るから、「恵み」と思えるのです。
 福音書に表される「弟子たち」とは「無理解な者たち」です。しかし、その無理解な者たちが弟子であることの中心は「キリスト告白」です。それは弟子の側からは「罪の告白」であり、そこで自らを無知な者と言い表すとき、その人にとって「神がすべて」となるのです。そしてそれは、「神の栄光を表す」ことです。神は、無理解な者たちに聖霊をもって臨み、働きかけ、救いの真理を打ち明け、示してくださいます。神は、弟子たち(私ども)に聖霊をもって臨み、知ることを得させてくださる「恵みの神」なのです。

私どもにとって「主イエス・キリストを知る」ことは、「神から与えられた恵み」です。それが「信仰」なのです。神の恵みをいただいているからこそ、主に祈り、信仰告白もできるのだということを覚えたいと思います。

「主イエスの出来事、救いの真理」は、人の理解をこえた出来事であることを覚える中で、もう一度、私どもが信仰をどのように捉えているか考えなければならないと思います。私どもは、聖書について、しばしば「分からない、難しい」と言うのです。しかし、神の国の出来事は人には謎であって分からないこと、ただ聖霊によってのみ知り得ることなのですから、「分からないと分かったことは幸い」なのです。分からなければならないと思うことは、傲慢です。分からないからこそ、「主に任せる」以外にないのです。任せない、だから分からないことは、いつまでも分かりません。「主に任せる」、それはそこで「主に聞く、神に聞く」ことが起きているということです。神の国は分かりようがないのですから、「示してください」と「神に祈れる」のだということを覚えなけれなりません。

なぜ、聖書を開けないのでしょうか。分からない、理解できないと思うからです。そうではなくて、分からないことは主に示していただかなければ分からないのですから、聖書を開き、御言葉に聴くべきなのです。分からないことは恵みの出来事であることを知らなければなりません。
 「分からない」と開き直ることは、自己中心、自らを甘やかし、自らを神から遠ざけることです。「わけの分からない者、理解できな者の救い」、それが「主イエス・キリストの救い」です。だからこそ、「全ての者の救い」ということが起こるのです。人の意識による救いではないからです。人の思いを超えた、神の御心による救いだからです。
 自分の能力に頼り、分からないところで留まってしまってはなりません。自分は分からない者に過ぎないことを知ったとき、主の聞く以外にない者となり、そこでこそ、主は教え示してくださるのです。

11節に「外の人々」と言われております。「外の人々」とは、自分の力で知ろうとする人のことです。「主の周りの人たち」とは「内なる人々」であり、それは「主に聞く人」だと、主は言われます。

私どもは、今、「内なる人」として、ここにあることを覚えたいと思います。私どもは、主の内なる者として、神の温もりの中にあるのです。主がそう語ってくださっております。

外なる人々は、主イエスを見ましたが、主をキリスト(救い)と見ることはできませんでした。主イエスの御言葉を聴きましたが、キリスト(救い)の言葉を聞かなかったのです。そして、主の救いを見たのに、信じられませんでした。外の人々は、自分の思いや能力を自分の中心に据えている、だから救いに至れなかったのです。

私どもは幸いです。難しくて分からないと思えることは幸いなのです。神の国のことが分からない、難しい、だから神に聞くために、聖書を開けばよいのです。そこで、主が示してくださるのですから、幸いなのです。
 分からないことは恵み、「神の力、聖霊によって示される恵み」であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

喜ばしい知らせ」 12月第2主日礼拝 2012年12月9日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ルカによる福音書 第1章5〜25節

1章<5節>ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。<6節 >二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。<7節>しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。<8節>さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、<9節>祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。<10節>香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。<11節>すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。<12節>ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。<13節>天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。<14節>その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。<15節>彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、<16節>イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。<17節>彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」<18節>そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」<19節>天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。<20節>あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」<21節>民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。<22節>ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。<23節>やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。<24節>その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。<25節>「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

教会の一年は、アドヴェント(待降節)から始まります。そうしますと、今日は第2日曜日です。今日はルカによる福音書第1章から、「救い主イエス・キリストの誕生の道備えをする者」として生まれた「バプテスマのヨハネの誕生」の出来事について聴きたいと思います。

まず、5節に「ユダヤの王ヘロデの時代、…」と記されて、救い主の誕生に際しての大ざっぱな時代の説明がなされております。「ヘロデの時代」と言われるのです。ヘロデ大王は大変有能な王で、神殿や宮殿を拡張し、町に水道を敷設するなど、大規模な土木工事を行った力ある王でした。当時ユダヤはローマの属国でしたが、属国でありながらも王として認められ、広くパレスチナ全土を治めたのです。ですから、ヘロデ大王の時代は繁栄の時代でした。
 しかし、紀元前4年に大王が死に、その後、領土は3人の子どもに分割されますが、彼らは王とは認められませんでした。

ですから、救い主イエス・キリストの誕生の時、それはヘロデ大王の時代ですが、主が活動をなさった時、それは大王死後の時代であります。このことは、バプテスマのヨハネと主イエス・キリストの誕生が、時代の転換期に起きたことを示しているのです。歴史の一つの転換点、そこに主イエス・キリストがおられたこと、時代の転換点の中心が「主イエス・キリスト」であることを、ここに意味付けていることが分かります。私どもキリスト者は西暦を重んじますが、まさしく、主イエス・キリストの誕生が紀元とされて、今日に至っております。ですから、紀元後の歴史は、「神の救い・救済史観」に立っているのです。時代はただ流れていくのではありません。歴史の中に「神の救いの出来事を見る」ことが明確にされているのです。

今の時代は、暗く、行き詰まりを覚えて未来が見えない時代と言われます。けれども、キリスト者は、この歴史のただ中に「神の救いが働いている」ことを教えられている、そのことを覚えたいと思います。どこにも希望を見出せない、けれども、「だからこそ、神が働いておられる」ということは、今の時代に大切なメッセージですし、語らなければならないことです。

「…アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった」と続き、エリサベトについての説明がされております。当時、祭司の妻は祭司であるべきと決まっていたわけではありません。しかし、わざわざ「アロン家の娘」と説明されていることから、それは祭司としては理想的な妻であることを言っているのです。アロンは最初の祭司です。ですから、由緒正しい祭司の家系ということです。祭司ザカリアは、祭司として申し分のない家庭を築いていることを示しているのです。
 更にそれだけではなく、6節に、2人が「正しい人で、非のうちどころがなかった」と記されております。「正しい人」とは、間違いのない人という意味ではありません。「敬虔な人」ということです。間違えたら懺悔できるということです。「罪を罪として知り、悔い改める」こと、それが「神との正しい関係」ですから、敬虔ということです。自分自身の気づかないところで犯した罪に対しても、悔い改めの献げものをする、ヨブ同様にザカリアとエリサベトは「真実に悔い改められる人」として神に認められている人たちなのです。
 まさしく「悔い改めと、神への感謝に生きた人」です。宗教改革者マルティン・ルターは、「キリスト者の生活は、悔い改めと感謝である」と言っております。

ここで、申し分のない2人であるだけに、7節「エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」とは、深刻な現実でしょう。子がないことは、未来がないことです。実は、2人は行き詰まりを生きているのです。

けれども、彼らは「なぜ?」と神に問うて現実を呪うのではなく、それでも尚「神に従順に生きた」のでした。抱えている問題は実に深刻、しかし尚、そこで「神に従う、神を神とする」、このことが大事です。
 人の力の、知恵の尽きたところ、一切の望みを自分のうちに見出せない、そこにこそ「神が臨み、神が働かれる」、それが「聖書が語っている」ことです。人の行き詰まりのあるところで、そこで既に、神は救いの業を始めておられるのです。それが「聖書の語る救い」ということです。行き詰まり、一切に希望を見出せない、だからこそ「すべてが神の出来事である」ことを、骨身に沁みて感じることができるのです。
 人はいつも、どこかで自分を誉めたいと思っています。ですから、自分のうちに可能性があり、力があるうちは、神を誉め讃えることはできません。それは、「神がすべてである」と思えないからです。そうではなくて、「神こそがすべて、神こそが希望である」ことを覚えなければなりません。

8節、9節、ユダヤには24の組がありました。「アビヤの組」はその8番目であることが分かっております。その組に幾つかの祭司職の一族がおり、その中でくじ引きをしてザカリアが「主の聖所に入って香をたく」当番になったと記されております。これは大変光栄な務めです。もしかすれば、一生の間に一度も当たらないかもしれない業なのです。ですから、「くじ引きに当たる」ということ、ここに既に「ザカリアを用いる」ための神の働きがあり、神の選びがあるのです。

11節「主の天使が現れ、香壇の右に立った」とあります。「右」と言われることは、「天使が神の全権を受けて来た」ということを示しております。ですから、ここでザカリアは、12節「不安になり、恐怖の念に襲われた」のです。人は、神の臨在に耐えないからです。

「神が臨まれる」とき、そこでは「神の前にひざまずく」ことのみ求められております。けれども、人は、ひざまずくには余りにも自己中心であって、神を神とできないゆえに、神を恐れざるを得ないのです。

13節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と記されております。天使はザカリアに、「恵みをもたらす」ために臨んでいるのです。「あなたの願いは聞き入れられた」とは、ザカリアが子を求めて与えられるということではありません。もはや人の経験では全く望みがないことをザカリアは知っているのですから、そのような願いを神に祈り求めていたとは思えません。もちろん、子どもが与えられることは存外の喜びであったでしょう。しかし、敬虔な2人が祈り願っていたことは、「神がイスラエルを憐れんでくださること」です。

「ヨハネ」という名前は、「神が恵みをくださる」という意味の名前です。生まれた子にこの名を付けるように命じられたことによって、「イスラエルに恵みがある」ことを示しているのです。
 「ヨハネ」は、「人々の救い主である主イエス・キリストの誕生を告げる者」です。「神の恵みに仕えること」、それがヨハネの務めなのです。

ですから、14節「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と言われております。

15節、16節には、ヨハネが「救い主の道備えをする者」であることが示されております。ヨハネは預言者として「神の霊に満たされた者」なのです。来たるべき救い主を証しし、人々が救い主を受け入れるために、その備えとして「人々に悔い改めを勧める」、それは、人として最も大事な務めです。

けれどもここで、ザカリアは、天使の言葉(神のお告げ)を受け入れることができませんでした。「子(ヨハネ)が生まれる、そんなことはあるはずがない」と言ってしまうのです。ザカリアは、自らの経験によって結論を出しております。
 人がなぜ信仰へと至らないか、そのことがここに示されております。「信仰」ということは、自分自身の体験や実感では、とても考えられることではないからです。よく「常識で考える」と言いますが、その人にとっての「常識」は、その人の体験によって、その人がどう思うかによって変わるものです。自分の実感が一番確かだと、人は思うのです。

自分の持つ常識によって「絶対にそんなことは有り得ない」と言うザカリアに対して、19節、天使は「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」と語ります。「ガブリエル」であると名乗るのです。名を名乗ることは、相手に対して敬意を払っているということです。実存的な関わりを持ってくださるということです。そして、神からの言葉、「喜ばしい知らせ」を伝えるのです。

「神からの言葉は、時が来ると成る」ことを信じなかったために、ザカリアは打たれて、口がきけなくなりました。
 このところは、受胎告知を受けるマリアと同じように思われますが、ザカリアとマリアでは違っております。マリアの場合には、誰もが有り得ないと思うエリサベトの妊娠の事実が公になるという「しるし」をいただいてから、天使が臨んでくださるのです。マリアは信じない、そのことが前提とされているがゆえに、マリアには先に「しるし」が与えられました。ここで分かることは、信じないから救われないのではないということです。信じないことは分かっているのです。だから「しるし」が与えられ、どう反論しようもないので、「お言葉どおりに、この身になりますように」と、マリアは言わざるを得なかったのです。

しかし、ザカリアに「しるし」は与えられておりません。ザカリアの場合は、信じることが前提にあるのです。ですから「しるし」は与えられません。ザカリアは、神から敬虔な者、信じる者と認められておりました。しかし、にもかかわらず、信じられなかったのです。どんなに敬虔な者であったとしても、なお信じられなかった。それゆえに、彼は打たれました。

しかし、この「打たれた」ことが大事なことです。なぜならば、ザカリアは「打たれた」ことによって知ったからです。神の言葉は本当だったことを知ったのです。ですから、打たれても、ザカリアはおろおろしません。打たれたことは痛みですが、しかし、喜びになるのです。天使の告げてくれた言葉が本当だったことを、身に沁みて知ったのです。打たれたことによって、知り、悔い改めたのです。口がきけなくなるという痛みにも拘らず、彼は喜びに満たされました。
 自分にとって、良いことだけが幸せなことではないことを知らなければなりません。つまづき、痛みの中で、神を知るのです。自力であれば、人は謙遜になることはできません。つまづき、失敗は、恵み、幸いです。神の導き、神の祝福なのです。そこでこそ、「神がすべて、すべてが恵み」であることを知るからです。

ザカリアは、打たれて、そこで実感しました。「救い主を迎えるに当たって、道備えをする者の誕生が告げられた」ことを知ったのです。それが、ザカリアが打たれて、そこで知った喜びでした。

つまずきの中で、そこに尚、神が働きたもうことを知る恵みを、感謝をもって覚えたいと思います。

貧しさの中に光が」 12月第3主日礼拝 2012年12月16日 
小島章弘 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第2章7節、
   フィリピの信徒への手紙 第2章6〜8節

ルカによる福音書第2章<7節>「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

ルカによる福音書2章7節「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(新共同訳)「初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」(口語訳)これは、ルカによる福音書が伝えるクリスマスの出来事の一節です。ルカは、大変象徴的に、この一言で救い主イエスのご降誕を伝えています。ここに使われている「飼い葉桶」は、ここにだけ使われている言葉です。

神が、この世に、人類の只中に突入するとき、入り口がありませんでした。それだけ人間は、神の介入を歓迎せず、拒絶していました。「泊まる場所がなかった」と、また口語訳聖書では、「客間には彼らのいる余地がなかった」と伝えています。マタイによる福音書では、ヘロデ王が幼児の殺害を実行したことを伝えていますが、それも拒絶の表れです。

さて、神が、御子イエス誕生のための入り口としたのは、馬小屋であり、飼い葉桶でした。そこしかなかった。それは、人間のどん底であり、家畜の小屋です。温かい布団ではなく、わらを敷いただけの粗末なものでした。

飼い葉桶は、第1に、苦しみを表しています。人は、生涯食べることに労苦します。飼い葉桶は、家畜のえさ箱です。それは、この世のパン、金銭、栄達、地位名誉、権力などを包括しています。それのみならず、超自然的なパン、心のパン、精神的な充足なども含めることができます。それらを得るために苦悩します(マタイによる福音書第24章12節参照)。私たちは、生涯苦しみを抱えて生きるのです。

第2に、飼い葉桶は、空虚(ニヒル)を象徴しています。救いなき人間の姿、パスカルの言葉を借りれば、「宇宙の恐るべき空間」(194)、笑いもこわばる言いがたい不安、絶対的なものを求める飢えた思いのことです。誰しも「宇宙の恐るべき空間」を抱えています。むなしさ、孤独を示しています。

第3に、飼い葉桶は、汚れと破れを表します。絶対にきれいにすることができないものを人間は抱えています。人間の心です。決して清めることが不可能なもの。桶のたがが外れてしまっている状態です。
 かつてアメリカで、一緒に働いていた黒人の母親から、こんなことを聞きました。自分の子供が、シャワーを浴びて、石鹸を全部使い切っても白くならないと嘆いたというのです。自分では、どんなに努力しても、どんなに善行をしたとしても洗い清められないものを抱えているということです。

飼い葉桶は、苦悩、空虚、汚れ、破れの場です。
 それはとりもなおさず、キリストの十字架と重なります。神の子イエスは、この世では飼い葉桶と十字架にしか、その場所を埋めることが出来なかったのです。それほどまでに、この世は、イエスを拒み、無きものにしたのです。救い主を捨て去ったのです。この世はイエスを拒絶したのです。
 しかし、神は、敢えてそこをイエス誕生の場にされたのです。それがクリスマスの出来事です。この世に拒絶されたものが、その身を横たえた空間は、家畜のえさ箱でありました。そこまで下ってくださったのです。

この質素なえさ箱に伏しておられるイエスを凝視いたしましょう。イースターは死に勝ったことを示しますが、クリスマスは、幼子イエスに、無条件に目を留める日です。そこには、わだかまりや理屈がありません。飼い葉桶のイエスにだけに目を留める時です。

マザー・テレサについて書かれたM・マゲッツリッジの「マザー・テレサーすばらしいことを神さまのためにー」に、次のように記されていました。
 「マザー・テレサがよく口癖のように言うには、社会福祉とはひとつの目的のためで、すばらしく必要なことである。それと違って、キリスト的愛は、一人の人のためのことである。」
 マザーは、インドのカルカッタで、路上で死んでいく人たちに寄り添い、朝早くに、その人たちを連れ帰り、「死に行く人たちの家」で看取ることをしておられたのですが、それは誰からも愛されないことは辛いという思いで、その一人に心を寄せることをされておられたのです。
 この言葉で、心に響いてきたのは、「キリスト的愛」という言葉です。一般的には、キリスト教的愛ということは耳にしますが、キリスト的愛は、新鮮ではないでしょうか。キリスト教は、長い歴史の中で、変貌したり脚色されたりしてきました。しかし、「キリスト的愛は、飼い葉桶に伏しておられるイエス・キリストを凝視すること」です。そこに、神の愛を見ることができます。私たちの貧しい飼い葉桶に、神はイエスさまをくださいました。わたしを心に留めてくださいました。それで生きることが出来ます。

それは、私たちを謙遜にします。心を無にして、心砕いて、メシア・イエスを迎えたいと思います。わたしの貧しい飼い葉桶に、お迎えしたいと思います。へりくだって、キリストを礼拝いたしましょう。

ロシアの文豪ドストエフスキーが、政治犯として逮捕され、シベリヤに送られるとき、教会の婦人会から贈られた聖書を読み、次のように言っております。「たとえこれがうそであるにしても、自分はこの心を打つ真実なもの、これと一緒に立ったり、倒れたり、生きたり、死んだりしたい。」と。

私たちも、このクリスマスの時を、すばらしい時にしたいと思います。

神は我々と共におられる」 クリスマス礼拝 2012年12月23日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第1章18〜25節

1章<18節>イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。<19節>夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。<20節>このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。<21節>マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」<22節>このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。<23節>「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。<24節>ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、<25節>男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

共々に、クリスマス礼拝を守れますことを嬉しく思います。
 クリスマスは「キリスト礼拝」という言葉ですので、まさしく、今この礼拝こそが真実のクリスマスなのです。感謝です。
 クリスマスのメッセージは「共にある」ということです。そこに喜びがあります。ですから今日は、「神が私どもと共にあってくださる」ことの恵みを語りたいと思います。

18節に「イエス・キリストの誕生の次第」と記されております。聖書は「主イエスの誕生日」とは記しておりません。「イエス・キリストの誕生」として語っております。これはどういうことでしょうか。
 多くの人が、「イエス・キリスト」とは、姓名だと思っていますが、そうではありません。「イエス」はありふれた名ですが、「キリスト」は称号です。アラム語の「メシア」をギリシャ語にすると「キリスト」となるのです。「キリスト」とは「王」という称号です。「メシア」とは「油注がれた者」であり、それは「神に聖別され、神に仕える者とされる」ということです。ですから「メシア」は「祭司、預言者、王」としての務めを負う者です。それが理想化された者として「メシア=救い主」なのです。
 「キリスト」は「救い主」ですから、「イエス・キリスト」は「イエスという方が救い主である」ということです。福音書では「イエス・キリスト」と記しますが、パウロは「キリスト・イエス(救い主イエス)」という言い方をいたしました。その方が、称号としてぴったりくるかも知れません。

ですから「イエス・キリストの誕生」というとき、単にイエスという人物が生まれたということではなく、「救い主が生まれた、その名はイエスである」というメッセージが既にそこにあるのです。「救い主」は、私どもを様々な囚われから解放してくださるお方として「救い主」です。その救い主が、「赤ちゃんとして」乙女マリアから生まれてくださる。私どもと同じ「人間」として、私どものただ中に生まれてくださるのです。私どもの前に突然降り立って支配する王、ということではないのです。
 「イエス・キリストを物語る」、それが福音書です。福音書は、イエスという人の伝記なのではありません。人の出来事ではなく、神の御業を語っているのです。ですからそれは、人の物差しで測るならば、理解できません。福音書は神の御業を語るのですから、そこには、人の思いの及ばないことが記されているということを知らなければなりません。

「イエスという救い主についての物語」、そこに「神の御心」が示されております。「イエス・キリストの誕生」と記す、そこに既に「神が人となってくださる」というメッセージがあるのです。神は、高いところから私どもに語られるのではありません。最も低いところから語ってくださるのです。高いお方が「低きに至ってくださる、語ってくださる」、それが神のあり方です。
 本当に力があるから、低くなれるのです。低くなって他者に仕えることができるのです。聖書の語る「愛」は、「愛するがゆえに仕えることができる」ということです。低くなる、仕えることは、力を要することなのです。神が低くなってくだった、それは神が真実に力ある方だからです。低くなることが愛なのです。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、」と記されております。マリアは「母」と語られております。マリアは「イエス・キリストの母」であるということです。マリアの出産は神の出来事であって、人の出来事ではありません。マリアが母である、ということではないのです。「マリアを母として、イエス・キリストが生まれてくださった」ということです。神がマリアを母としてくださったのであって、マリアが人の行為として子をもうけたということではありません。ですから、マリアの出産の主体は、神なのです。神は有り得ないことを為してくださいました。ですから、そこに私どもの望み(希望)があることを覚えたいと思います。
 私どもの社会の現実は、今、仕方なくある現実であり、そこで生き、行き詰まっております。そのような現実に対して、私どもの視点でではなく、神の視点に立つことが大事です。このような状況にも「神が臨んでくださっている」ということを覚えなければなりません。

「母マリアはヨセフと婚約していたが」とありますように、マリアはヨセフのいいなずけでした。結婚について、当時と今とでは状況が違っており、当時の婚約は公には結婚の始まりでした。一緒に暮らしていませんが、しかし法的には既にマリアはヨセフの妻なのです。ですから、夫ヨセフ、妻マリアと記されております。

「二人が一緒になる前に」とあります。婚約の後、一週間の婚礼の儀があってから共に暮らすのですが、その前に、聖霊の出来事がマリアに臨んだのです。

「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」と記されます。このことは、信じられないことです。しかし、ヨセフはその優しさによってマリアを受け入れたと、私はこれまで語っておりました。しかし今日は、19節「夫ヨセフは正しい人であったので」ということを受け止める必要があると思いました。ヨセフはマリアの妊娠の次第について、マリアから聞いて知っていたことでしょう。それでも信じられなかったから「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と読んでもよいのです。
 けれども、「ヨセフは正しい人だった」とは、どういうことでしょうか。「正しい人」とは「敬虔な人」ということです。間違いを犯さない人ということではありません。間違えても「悔い改める」ということです。「懺悔できる」ということは、なかなか大変なことです。罪を罪として受け入れられない、それが人の現実です。しかし、ここに記されているヨセフは、そうではないということです。

人は、正しいことと思っても間違ってしまうこともあります。ですから、間違わないことが大事なのではありません。「間違っても、悔い改める」ことが大事なのです。「自分は過ちある者である」ことを知っているヨセフです。そういうヨセフがマリアをどう受け止めたか、ということです。マリアに起こったことが神の出来事である以上、自分がマリアに関わって良いかどうかを、ヨセフは考えたのではないかと思うのです。ヨセフは正しい人だった、ですから、神の出来事としてのマリアの出来事を「神に委ねる」以外にないと思ったのではないでしょうか。そういう意味で「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」のではないかと思うのです。
 公に離縁するならば、理由を人々に問いただされ、マリアの不貞を示すことになります。それはヨセフには出来ませんし、ヨセフの思いは、自分が担うのではなく神に任せるべきであるということであって、それが「ひそかに」という言葉に示されていることです。

「信仰」とは、頑なことではありません。信仰とは「神に任せる」ということです。自らの罪を知り、悔い改めることができる。そこで「こんなわたしも神に受け止められている」ことを知る。だからこそ「委ね、平安を得る」のです。信仰の出来事は平安の出来事です。自分が自分がという思いではなく、「委ねることができるから平安」なのです。
 心に平安を持っている、だからヨセフは、マリアの出来事を神に委ねることができたのではないでしょうか。ここでのヨセフのあり方は、信仰の決心としてのあり方だと受け止めても良いと、改めて思いました。信仰ゆえに、ヨセフはマリアを慈しんだのです。

けれども、結論として、ヨセフは離縁を考えました。マリアと「共にある」という決心ではなかったのです。正しい人ヨセフであっても、マリアとも、マリアの胎の子とも共にあろうとは思えませんでした。
 そういうヨセフに対して、20節〜「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」と、主の天使が語ってくださいます。「主の天使」の言葉とは、神が天使を通して語ってくださる言葉です。ですから、そこに「神の臨在」があるのです。神の言葉を聞く者が集う場、まさしくこの礼拝の場に、神の臨在があることを覚えたいと思います。御言葉の告知、そこに神の臨在があるのです。

「ダビデの子ヨセフ」と記されております。ダビデの子孫からメシアが生まれるという旧約の預言ゆえに、ヨセフが「ダビデの子ヨセフ」であることが大事なのです。そして、ヨセフがマリアを受け入れることは、神の御心です。

「この子は自分の民を罪から救うからである」と言われております。「自分の民」とは、「イエスをキリストと信じる者」です。ですから「主イエスを信じるとき」、私どもも「神の民」なのです。
 「罪」とは、神との交わりを失っていることです。「主イエスを信じる」ことによって「神との交わりに入れられる」のです。人と人との交わりは、いずれ失われるものであって限界があります。しかし人は、交わりなく生きることはできません。地上の交わりだけでは、人は交わりを完結することはできないのです。
 けれども、主にある交わり、この礼拝における交わりは「地上を超えた永遠の交わり」であることを覚えたいと思います。

22節・23節「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」と記されております。預言者イザヤの預言が成就する、そこに語られるメッセージは「神は我々と共におられる」ということです。
 人と人との交わりにおいては、いずれ必ず別れのときがやってきます。けれども、神は永遠に「私どもと共にあってくださる」のです。人がいくら願い努力したとしても「永遠に共にいる」ことはできません。「神のみ、生死を超えて、私どもと共にあってくださる」のです。私どもが共にある、ということではありません。神が、永遠に、私どもと共にあってくださるのです。
 このように、「あなたと共にいる」と言ってくださる神から差し出された恵みの出来事を受け入れるかどうか、その決断は、私どもに任されていることです。

24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」とは、麗しいことです。受胎告知の場面で、マリアは天使の言葉を信じることはできませんでした。しかし、ヨセフは従順です。天使の言葉に聴き従いました。そして、御言葉に聴き従ったことによって、ヨセフは、マリアと主イエス・キリストと共にある者となることができたのです。
 自分の思いによっては、共にあることを決断できなかったヨセフです。しかし、御言葉を告げられ、従うとき、共にある者とされました。

私どもが主イエスを受け入れるとき、私どもは、この世の限界を超えて、共にある交わりを天においても持つことができます。それはなぜでしょうか。神が私どもと共にあってくださるからです。
 限界ある地上の交わりを超えて、終わりなく永遠に清められ、愛する者と真実に共にあることができるのです。

今は高齢化社会です。「死を受け止める」こと、死を永遠の命として、どう受け止めたらよいのでしょうか。
 それは、「神が我々と共におられる」ことによって受け止めるのです。人が自分のすべてを打ち明けられる方、そのすべてを受け止めてくださる方、それは、ただ神のみであることを覚えたいと思います。

神は私どものすべてを知り、そして「共にあってくださる」のです。この恵みの出来事を感謝をもて覚えたいと思います。

灯は燭台の上に」 歳晩礼拝 2012年12月30日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章13〜25節

4章<13節>また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。<14節>種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。<15節>道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。<16節>石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、<17節>自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。<18節>また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、<19節>この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。<20節>良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」<21節>また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。<22節>隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。<23節>聞く耳のある者は聞きなさい。」<24節>また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。<25節>持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

13節、主イエスは弟子たちに「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか」と言っておられます。その前の11節で、譬えで話される理由について「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」と言われ、主の弟子たちには神の国の秘密は分かるが、主に従わない者たちには分からないので「立ち帰って赦されることがない」(12節)と、悔い改めに至らないことを示されました。しかしここで、主に従う者でありながら、弟子たちは譬えを理解できません。何とも嘆かわしいことであることを覚えたいと思います。

弟子であっても、立ち帰って悔い改め、赦しへと至らなければ理解できないのです。弟子たちが理解できたのは、主の十字架を知り、甦りの主に出会ったからです。ですから、理解することの本質は、自らの罪を知り、罪の赦しを知ることなのです。主イエスを論ずることが理解することではありません。
 この段階では、弟子たちには理解できません。復活の主が臨んでくださるまで、そこで主に出会うまで、分からないのです。人が主イエスを理解するのは、十字架と復活の主イエスが臨んでくださってこその出来事であることを覚えたいと思います。そこでしか、私どもが救いを知ることはありません。自らの罪があらわになることなしに、救いはないのです。そこでこそ、罪が鮮やかになるのです。
 今を生きる私どもが主イエスと出会う、キリストを知るのは、どのようにしてでしょうか。「十字架と復活の主を知る」、それは「御言葉を聴く」ことによってです。聖書が、教会が語る十字架と復活の主の出来事、その出来事に聴くことによって知るのです。聴くことによって「十字架と復活の主を想起する」、そこで主と出会うのです。主の出来事を想起すること、それが新約聖書の信仰です。旧約聖書はメシア到来を預言しているのですから、その信仰は、メシアを待ち望むことです。

聴くことによって救い主を思い起こす、それが信仰の筋道です。パウロは「信仰は聴くことによる」と言いました。ですから、教会は主を証しし宣べ伝えるのです。十字架と復活の主を語る、そこでこそ、教会は教会であるのです。
 信仰は想起すること、この罪の身が赦されていることを知ることです。神が尊い御子をもってまでして、御子がご自身を捨ててまで、そうまでして私どもの罪を引き受けてくださった、その神に委ねることです。
 今年を終わるに当たり、神の恵みを覚え、全てを委ねて、アーメンと唱えつつ新しい年を迎えたいと思います。信仰者の幸いは、キリストの恵みに満たされることです。感謝をもって新しい年を始めたいと思います。

13節〜20節には、「聴く」ということが繰り返し語られております。共通していることは「聴く」ということなのです。多くの人が御言葉を聴くけれども、聴き続けることができるかどうかが問題なのです。「聴き続ける」とは、どういうことでしょうか。

「種を蒔く人」は、特定の人としないことが一般的ですが、しかし、主を証しする人、教会が「種を蒔く人」ということでしょう。「種を蒔く」とは、神の言葉を蒔くのです。「神の言葉」それは「主イエス・キリスト」です。神は御言葉によって万物を創造されました。ですから、「神の言葉」は「命」です。「命なる方、主イエス・キリスト」を宣べ伝えるのです。命なる方、主イエス・キリストによって、私どもは命満たされます。聖書も教会も、救いをもたらす神の言葉として、主イエスを証しし、語るのです。
 その御言葉に聴き続けることができない困難が人にはあるということを、ここで主は言っておられます。

15節、道端に蒔かれた種は、すぐにサタンが奪い取ると言われます。サタンとは、誘惑者です。この世の誘惑に負けて、聴き続けられない者がいるということです。これは、初代教会の痛み、経験が示されているとも言われております。すぐに教会を去ってしまう、留まれない人がいたことが分かります。そしてそれは、時を超えて、私どもの現実でもあります。
 この世の誘惑に、人はなぜ弱いのでしょうか。この世の価値観に立っているからです。お金に価値を置く者は、お金に向かってしまって、キリストを忘れます。名誉を求めれば、へりくだって神の言葉に聴くことはできませんし、武力に頼れば、それ故に、キリストに聴くことはできません。正義もそうです。人の作り出す価値に、人は魅了されます。それは、自分で作り出す価値ですから、その誘惑には勝てません。魅了されたものに従うしかなく、キリストから離れるのです。
 しかし、この世の価値は、この世限定のものです。時に応じて移り行くものに過ぎません。そこに頼ることは、滅びへと身を委ねることなのです。

何に価値を置くべきでしょうか。十字架と復活の主イエス・キリストにこそ、価値を見出すこと、それが私どもの全てです。

16節「石だらけの所」とは、どういうことでしょうか。「艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」と続きます。艱難や迫害によってつまずくのは仕方ないことだと思うかも知れませんが、そうではないのです。挫折の理由は何なのでしょうか。初めは熱心に始めるけれど、迫害によって去ってしまう。それは多くの人がご利益を求める信仰を持つからです。ご利益宗教は、人を熱心にします。熱心に信仰すれば、尚ご利益があると思うからです。けれども、熱心であればあるほど、にも拘らずご利益がなければ、見返りを求める人にはつまずきになります。こんなに熱心なのにこんな目に遭うとはとか、人からあれこれ言われるとかの艱難や迫害がつまずきとなるのです。人は、自分の利益のためには熱心になりますが、神の栄光のためにはなかなか熱心になれません。
 キリスト教信仰は、ご利益を求めるものではありません。ただキリストのみ、キリストが全てとなることです。自分が大きくされることではありません。神、キリストが大きくなる、全てであることを覚えたいと思います。
 一生懸命なのに報われないと思えば、なかなか続かなくなるのです。それが熱心さの問題です。

18節「茨の中」とは、この世の思い煩い、欲望を指します。「思い煩うこと」、それは「わたしが、わたしが」という思いです。神にまったく委ねている人には、思い煩いはありません。「わたしが…」と思っているから、あれこれが不満になるのです。自己中心、自分が主体となるということです。自分の欲望を満たしたくなるのです。「わたしが…」と思っていれば、他の人の意見は聞けなくなります。「わたしが…」という思いが、「思い煩い」を生むのです。ですから、せっかく神の言葉を聴いても、聞き続けることができないのです。

これらに共通している根本問題は何でしょうか。自分の罪を見出せなかったことです。罪赦された恵みに与っているにも拘らず、自分の罪を見出せないことです。せっかく、主が十字架について罪を贖ってくださり、救いの宣言をなしてくださっているのに、聴き続けられなくなるのです。

罪を自覚できないことは残念なことです。自らの罪を知る。それは、十字架と復活の恵みのうちに自らの罪を思い、救いの恵みの御言葉を必要とすること、だから聴き続けることができるのです。赦された恵みの中で自らの罪を知るからこそ、見るからこそ、聴き続けることなくしては済まされない、繰り返し繰り返し聴かざるを得ないのです。そして、それが「良い土地」(20節)なのです。
 「良い土地」とは、良い人になるということではありません。罪の赦しの中で、罪なる自分であることを知るから、聴き続けるのです。罪深いわたしだと知る者のみ、聴き続けることができるのです。

では、この世に価値を置く者の救いはないのでしょうか。そういう者の救いのために、主イエスは十字架にかかられました。この世に魅了されるしかない、そういう弱さの中に自らの罪を見出すこと、そこでこそ、その人は「良い土地」になれるのです。様々に打ち拉がれて、自らの弱さを知ります。だからこそ、御言葉を必要とすることを知るのです。そしてそのとき、その人は「良い土地」なのです。

この世に価値を置かない人はおりません。しかし、そこに罪があることを知っている人、その人こそが、御言葉を必要とし、聴く人なのです。
 自力では魅了するものに勝つことはできないことを知り、だからこそ、御言葉なくして生きられないことを、そこに罪があることを痛む、その時に、その人こそ救われるのです。

私どもは、この世に価値を置かざるを得ないことを知らなければなりません。そして、そこに罪があることを知らなければならない。けれども、そこで既に、罪赦されていることが宣言されているからこそ、私どもは自らの罪を告白できるのです。
 何よりも先ず、主の赦しがあってこそ、私どもは自らの罪を知るのです。そしてそこにこそ、主が全てとなる恵みがあることを、感謝をもって覚えたいと思います。