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20節に「イエスが家に帰られると」と記されておりますことに、まずは注目してよいかと思います。私どもは、主は「来られる方」というイメージを持っておりますが、「家に帰られる」のですから、主イエスがどこかの家に行かれたのではなく「帰る家を持っておられた」ということです。主はどこに帰られるのか、丁寧に聴いていきたいと思います。 マルコによる福音書をここまで読んできた中で、主イエスが行かれた家は、徴税人レビの家、そしてシモンとアンデレの家です。レビの家では、食卓を共にすることを通して「罪人を救いへと招いて」くださいました。また、シモンとアンデレの家では「姑の癒し」という出来事があり、その後、シモンの家には、主イエスの癒しを求めて群衆が集まって来るようになったのです。 主イエスが弟子の家を自ら帰られる場、活動の拠点としておられることの恵みを覚えたいと思います。「主イエスの弟子」と言いますと、私どもは「家を捨てる」と考えます。しかし、聖書を丁寧に読んでいきますと、そうではありません。シモンとアンデレの家がそうであったように、弟子となったからと言って家を捨てるのではなく、主の弟子とされるとき、主イエスは弟子の家の一員となってくださっているのです。 「主の家」とは「教会」であると、私どもは思います。しかし、それだけではなく、主イエスは、信じる者一人ひとりの家をも、ご自身の家としてくださるのです。それは幸いなことです。殊に、今の時代には幸いです。高齢化社会において、長寿であればあるほど、一人暮らしの孤独な家が増えるのです。また未婚率の高さも同様の孤独を生むでしょう。「一人暮らしの家」とは、果たして「家」と言えるのかどうか。「家」というのは、ただ単に、住む場所ということではありません。「家」は、夫婦を中心とした血縁による共同体ですから、そこに交わりがあるのです。けれども、一人暮らしの家は孤独です。一人暮らしでも孤独ではないことが、今、求められていると思うのです。その家に、共同体があることが大事なのです。 それゆえに、主イエスが私どもの家の住人になってくださることは幸いです。たとえ一人暮らしであっても、主イエスが共に住いしてくださる、それは、主がその家を「主と共にある共同体」としてくださるという豊かな恵みなのです。 共に住んでくださる主イエスに朝の挨拶をして、新しい朝を迎える。それが、新しい朝を感謝して「祈る」ということです。祈り、主との語らいによって一日を始められるならば幸いなのです。それはまさしく、家庭の(交わりの)恵みです。「祈り」において、私どもには「神との語らい」という交わりが与えられているのですから、まさしく孤独ではないのです。たとえ一人暮らしであっても、そこは麗しい家庭です。孤独と不安の中で眠るのではない。主イエスに全てを委ねて眠れるとは、幸いなことなのです。 そして更に、私どもが主と共に生きるとき、その家を訪れる人は、その家にある「主と共にある豊かさ、恵み」を覚えるようになるのです。「主にある家庭」は「祈りのある場」、そこは「宣教の場」とされるのです。私どもは家庭において、親しい者たちを覚えて祈ります。それこそが宣教の業です。家庭は、祈りにおいて、主が働いてくださる宣教の場となるのです。ですから、祈りとは豊かなものです。 20節後半「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されております。群衆は、癒しを求めて集まって来ております。そこで、弟子たち一同、その家の家族一同が巻き込まれて、食事をする暇もないのです。このようにして、この家庭は、主の業に参与しております。群衆は、主イエスを必要としている、だから集まってくるのです。 しかし、群衆が集まって来ると言われている中で、21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」と記されております。主は人々に教え、悪霊を追放し、癒しをなさってくださっている。にも拘らず、「身内の人たち」がどうして主を取り押さえに来たのか。身内の人たちは、主イエスのことを心配して取り押さえに来たと推測されるのです。 昔の日本には、「家の恥」という文化がありました。その点については、日本とヘブル社会は共通する感覚を持っております。共同体性でなく個中心であれば、こういうセンスにはなりません。「あの男は気が変になっている」、つまり「精神疾患」は、当時のユダヤでは「悪霊に取り憑かれている」と考えられておりました。22節「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」と続いております。律法学者たちが、主イエスのことをそのように言っている、だから、それは家の恥として、主を家に連れ帰ろうとしたのです。 では、なぜ身内の人たちが、律法学者たち、つまりユダヤの指導者たちの意見に動揺したのでしょうか。 群衆が主を求めているにも拘らず、主をそこから離そうとする、ここにユダヤ人指導者たち、律法学者たちのあり方が分かります。 「ベルゼブル」は「悪霊の頭、悪霊の王」とされております。元々は、シリアのベルゼブールという神の名で「家の神」という意味でしたが、その「家の神」という言葉をユダヤ人は揶揄して「はえの神」と言い、後に「悪霊」を指す言葉となったのです。 イエスの母マリアにも理解できません(31節以下)。しかし、理解できないからこそ、主の救いが必要なのです。「主イエス・キリストの救い」とは、「理解できない者たちの救い」だからです。 律法学者たちの悪意に満ちた意味付けは、自分の立場を守るための理由づけであることに気づかねばなりません。彼らは、主イエスに癒していただいた者、慰められた者たちに目を向けていないのです。 主イエスは、主を求める者のために、食事をする暇もなく教えてくださっております。そこまでしてくださるのは、「心動いて」のことです。頭では分かっていても、なかなか行動できないことがあります。他者に対して、心動ことがなければ、思っていても行動できないでしょう。同情し、心痛むときに、行動できるのです。 律法学者たちは、人々の上に立ち続けるために、権力を守り続けるために主を非難するのであって、痛む人々に心動かすことはありません。 私どもが知るべきことは何でしょうか。民の指導者たちは、どこまでも支配する者となろうとしていますが、主イエスは群衆を慈しみ、心痛んでくださり、仕えてくださっているということです。ここに私どもの救い、慰めがあります。 主イエスは、この私どものためにも心動かし、心痛んでくださる方であることを覚えたいと思います。私どもは、開き直り、諦めるしかない者です。そういう私どものために心痛み、心動かし、私どもを神の憐れみの内に置いていてくださるのです。 私どもの日々の歩みの内に、主イエス・キリストが心動かして臨んでくださっております。主が心動かして臨んでくださる日々の歩み、主共にある日常、それが私どもの生活、私どもの人生そのものであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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今日は23節から聴いていきます。 22節には、律法学者たちが主イエスのことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったことが記されております。「悪霊の頭」とは、主イエスに対する悪意に満ちた言葉です。 そして23節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」と続くのですが、主イエスに対してそのような悪意を抱く者たちを、ここで主が「呼び寄せて」おられるとは驚くべきことです。律法学者たちは、ユダヤの宗教上の指導者であり、権力を持つ者として、主イエスに対して悪意をむき出しにしております。そういう者たちを「呼び出す」というのですから、驚くのです。普通であれば、そのような相手とは挨拶もしないでしょうし、むしろ避けるでしょう。また、呼び出された方も、来ることはないでしょう。 自分を嫌っていると分かっているのに、主イエスは彼らを呼び寄せられました。ここで、彼らは主イエスに呼ばれたことによって「来ざるを得なかった」ことを覚えなければなりません。「主イエスの呼び出しには、力がある」ことを示しているのです。主イエスの呼びかけを、人は無視することはできないのです。そして、従わざるを得ないのです。それは、主の呼びかけは「権威がある」ということなのです。 また同時に、このことは恵みに満ちた出来事であることを覚えたいと思います。主イエスは、敵意ある者をも招いてくださっているということです。主に悪意を抱く者も、主の許に招かれているのです。それは、主イエスに従えない、十分には理解できない私どもを招いてくださり、主の許に集めてくださる、恵みに満ちた方であることを示しております。主イエスの力とは、決して抗えない力なのです。 続けて「たとえを用いて語られた」と記されております。この「たとえ」という言葉は、「賢い言葉、説明の物語」というヘブル語を基としたギリシャ語です。知恵を用いて語られる言葉なのです。ですから、「たとえ」は分かりにくいのです。知恵を用いて聴かなければならないからです。神である主イエスが知恵を用いて語られるのですから、私どもに分かるはずがありません。分からない、そこに主イエスの秘密、神秘があるのです。 このところでは、弟子をはじめ人々は、まだ「主イエスの十字架と復活」を知りません。主イエスが「すべての人の救い主である」ということは、秘められた真実なのです。「主イエスは救い主」であることは秘密ですから、主は「たとえ」を用いて話されるのです。 神によってしか知り得ない、それは「聖霊によって」しか知り得ないということです。この世にはさまざまな神秘的なことがありますが、「神の救い、神秘」は、神の霊、聖霊によってしか知り得ません。このことをストレートに語っても、分かることはできない。だから「たとえ」を用いて語られるのです。 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」と主は言われます。人が人を追い出すことはあるでしょう。仲間を追い出すということはあるのです。しかしここで「サタンがサタンを…」とは、サタンが自分自身を追い出すことは出来ないだろうということです。 では、キリスト者にとっての自信はどこにあるのでしょうか。もしも自分を根拠にするならば、人は挫折するのです。けれども、神を根拠とするならば、どんなに行き詰まってしまったとしても、虚しさを感じたとしても、そんな私の存在を神が貴んでくださる、そこで自分自身を取り戻し、自信を持つことができるのです。「神にある確かさによって、自らの存在を見出す」、それがキリスト者にとっての自信です。 24〜26節「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」と記されております。内輪で争っているからと言って、国家が、あるいは家が無くなってしまうわけではありません。しかし「内部分裂しているところは無力である」ということを示しております。 27節「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」。人々は、主イエスが悪霊を追い出しておられることを知っております。主イエスが悪霊を追い出しているということは、主イエスは悪霊に勝った力ある方であるということです。主をサタンの頭と言うならば、その強い者をまず縛り上げなければ、サタンを追い出すことは出来ないだろうということです。 28節「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と、主イエスは「赦し」を宣言されます。神に対する「冒涜の言葉」さえも赦されると言われております。ですから、律法学者たちの主イエスに対する敵意も、それが彼らの率直な気持ちであるならば、赦されるのです。 しかし、29節「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われます。主イエスは、悪霊を追い出すことのできる力ある方です。主イエスの力は、悪霊を超えた力、それは「神の力を宿す力」です。主イエスは「神の権威を持つ方」なのです。主イエスが悪霊を追い出しておられることを知っているとするならば、それは、主が神なる方であることを知っているということです。このことを知りながら、この真実を受け止めない者は赦されない、それが「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ということです。 聖霊の働きによって、私どもは「主イエスは救い主である」ことを知ります。聖霊によって「主イエスは神なる方、救い主だ」という思いが与えられたのに、しかしそれを自分の思いによって受け入れないならば、赦されないのです。否定することがいけないということではありません。「否定」は、聖霊に抗っての否定ですから、否定するから赦されないのではありません。受け入れない、拒むことが赦されないのです。 私どもは、「赦されている」ことを信じて、「洗礼」に与ります。「洗礼」それは「赦されていることのしるし、保証をいただくこと」です。 「主イエスこそ救い主である」ことを、神によって、聖霊によって示されることは、「神秘の出来事」です。ですから、示されたならば、素直に受け入れれば良いのです。「受け入れる」、そこで「洗礼」によって「救いのしるし、保証までも与えられる」、その恵み、その豊かさを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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31節「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。なぜ、主の母と兄弟が来たのかは、21節に記されております。自分の身内が「気が変になっている」と言われて、取り押さえて、家に連れ帰ろうとしているのです。 ここで「外に立ち」と言われていることは象徴的です。あえて「外に立ち」と記しております。それは、主イエスの家族は、身内でありながら、主に対して内なる者ではなく、外にいる者であることを表しているのです。 今、覚えてよいことがあります。震災以降、「絆」という言葉がよく使われるようになりました。心惹かれる言葉です。けれども、「絆」という言葉は必ずしも良い意味ばかりを含まないのです。 「絆」は大切なものです。けれども、「絆」には限界があるのです。絆の大切さは、それによって「共同体」を保つことです。家族とは、一番小さな共同体ですから、子どもは「家族という共同体の絆」の中で育ちます。 しかしここでは、主イエスの家族の絆は、主を束縛するものであるのです。 真実な認識とは、どこにおいて起こるのでしょうか。完全に客観的な真理に基づく認識とは何か。聖書が言い表す真理とは、「主イエスは神の御子、救い主である」ということです。しかしこの真理は、人の主観によっては認識できません。ただ神の力、聖霊によってだけ理解できることです。人の主観によっては、主イエスのなされた業(奇跡や癒し)を理解はできないのです。 「信仰」というと、しばしば、その人の主観的な出来事だと思われがちですが、そうではありません。信仰は人の思い込みのように言われますが、そうではないのです。 更に言いますと、信仰における「絆」とは(絆という言葉は相応しくありませんが)、それは「関係概念」です。自立した者同志としての関係を構築することなのです。 キリスト教における「愛」は、そのようなものではありません。真実の愛は、客観的な関係であり、それは「義」なのです。「神との正しい関係」それが「義」です。その「義」の中に「愛」があるのです。「信仰」とは、愛による救いということではなく、「神の義による救いである」ことを覚えたいと思います。 32節「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」と、主の家族とは対照的に、主イエスの周りには大勢の人がおりました。主イエスの「内」と「外」の情景を描いております。 その呼びかけに対して、主イエスはどう答えられたでしょうか。34節「周りに座っている人々を見回して言われた」と記されております。主イエスは、外にいる家族ではなく、主の周りにいる人々を見てくださるのです。主イエスの眼差しは、主の周りにいる人々に注がれております。私どもは、主イエスがどこを見ておられるかを知らなければなりません。家族を見ておられるのではなく、名も知らない大勢の人々を見ておられる、そして、語ってくださるのです。 なぜこのことが大事なのでしょうか。私どもは、今ここに集まっております。それはどうしてかと言いますと、「主イエスの名」ゆえなのです。「主イエスに招かれ、主の周りに座っている者として」集まっているのです。主イエスは、私ども一人ひとりを見てくださっている、主の眼差しがここに注がれております。主イエスの視線は、外にではなく、内側にある者に注がれているのです。主イエスは、私どもに向かって視線を注いでいてくださるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。主イエスの慈しみの眼差しによって、私どもは今、この礼拝の場にあることを、感謝したいと思います。 主イエスはここで、33節「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、主の周りにいる人たちに問われます。ここに「問い」を与えられることの大切さがあります。問われることは、考えることに繋がるからです。疑問を持つからです。「えっ? あの人は、主イエスの母ではないの? 兄弟ではないの?」との疑問です。ですから、そこから得た答えは印象深く、自覚することになるのです。それゆえに、主イエスは問うてくださっております。人々に驚きを与え、与えられた答えを自覚的に受け止められるようにしてくださっているのです。 そして34節「見なさい」と言われます。「見る」という主体的な視線に立って、「見る」ことを促しておられます。そして宣言してくださるのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。 そして、主イエスの家族とはどのような者なのか、35節に「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と記されております。「神の御心を行う人」は「神の御言葉に聴き従う人」と言った方が分かり易いでしょう。「御言葉に従う」ことは「神に従う」ことなのです。「主イエスから聞いたことを受け入れて、従う人」、その人こそ「主イエスの母、兄弟」です。 ここで、一つの疑問があります。どうして「父」は出て来ないのでしょうか。これにはいろいろな解釈があります。父ヨセフは既に死んでいたのかも知れません。しかし、覚えなければならないことは、主イエスにとって「父」とは、「父なる神のみ」であるということです。母や兄弟はたくさんいます。主イエスの家族、すなわち「神の家族」は、「主イエスを長子とする神の家族」なのです。 私どもが「神の家族」とされていることは幸いなことです。私どもの方から家族になったということではなく、家族にならせていただいたのだということを覚えなければなりません。私どもは、「永遠に、神の家族」とされているのです。「神、主イエス・キリストは永遠なる方」ですから、私どもが「永遠に神の家族である」ことは、揺るぎないのです。 私どもの肉親、家族は、地上限定の家族です。ですから、人間の絆は、永遠なものではありません。必ず終わりの時を迎えるのです。 さらに、覚えておくべきことがあります。32節、35節には「わたしの母、わたしの兄弟、姉妹」と言われております。33節でも分かるように、主イエスを取り押さえに来たのは「母と兄弟」だけだったはずです。けれども、ここに「姉妹」と付け加えられているのは、このことを、後の教会が重んじたからです。当時の社会は男性社会で女性が重んじられることはありませんでした。けれども、男性だけではなく、女性たちもまた、主イエスの許に集う者であり、主に従う者として神の家族であることが、ここで強調されているのです。後々の教会にとって、その大きな担い手となったのは女性たちであったことが分かります。 今この礼拝に、主が私どもを招き、集め、そして「あなたたちは、わたしの家族である」と宣言してくださっていることを、自覚をもって覚え、感謝したいと思います。 |
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1節「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」と記されております。 主の活動はガリラヤが拠点でした。そして、その活動の中心は「教え」でした。「癒し」だと考えてはなりません。人々の求めに応じて、癒しもなさいましたが、しかしそれは中心の出来事ではありません。あくまでも「教え」をもって人々を導かれるのです。 では、主イエスの教えの中心は何でしょうか。「山上の説教」で、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書5章3節)と言われました。率直に「貧しい」ということが、主イエスの思いです。「貧しい」がゆえに、人から相手にされない。お金にも、人にも頼れない。神にしかより頼むすべがないからです。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(同6節)。「義」は「神」です。主イエスの教えは、「神を教える」のです。人生訓を教えるのではありません。「神の御業、神との関係」を教えてくださるのです。私どもは、神について教えていただくのです。 「おびただしい群衆が、そばに集まって来た」とあります。群衆は一人ひとり、求めも思いも違います。押し合うようにして、「主イエスのそばに」来るのです。それは、主イエスの活動にとってマイナスにもなってしまうことです。 私どもが神の教えを聴く時、肌を触れ合うような緊密な関係ではなく、適度の間合いが必要なことを示しております。間合いによって、心を静めて、主の御言葉が聴けるからです。人間は、神に耐えない存在です。ですから、神の御言葉を聴くためには「畏敬の念」が必要です。礼拝は、神への畏敬の念をもって聴くのです。畏敬の念をもって御言葉を聴き、神を神として知るのです。礼拝は、神が私どもに与えてくださった恵みです。神と人の関係を聴く、そこに畏れをもって聴く謙虚さが必要であることを教えられているのです。礼拝により、私どもは、静まって主イエスの御言葉に集中できる時が与えられていることの幸いを覚えたいと思います。 2節「イエスはたとえでいろいろと教えられ」と言われております。神について「たとえ」で教えられるのです。 3節「よく聞きなさい」とは、ちゃんと聞いて理解しなさいということでなく、「聴き従え」と言っているのです。「聴き従う」、それは、自分が全く変わることです。 そして言われます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。種は植えるのではなく、種を「蒔く、落とす」のです。道端は畦です。 4節以下、この「種蒔きのたとえ」で、2つのこと覚えたいと思います。 「御言葉に信頼して、御言葉を語り続けること」を、主イエスは教えてくださいました。私どももまた、救いの喜びを持って、御言葉を語りたいと思います。 |
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