聖書のみことば/2012.11
2012年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
身内の人たち」 11月第1主日礼拝 2012年11月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第3章20〜30節

3章<20節>イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。<21節>身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。<22節>エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。<23節>そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。<24節>国が内輪で争えば、その国は成り立たない。<25節>家が内輪で争えば、その家は成り立たない。<26節>同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。<27節>また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。<28節>はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。<29節>しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」<30節>イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

20節に「イエスが家に帰られると」と記されておりますことに、まずは注目してよいかと思います。私どもは、主は「来られる方」というイメージを持っておりますが、「家に帰られる」のですから、主イエスがどこかの家に行かれたのではなく「帰る家を持っておられた」ということです。主はどこに帰られるのか、丁寧に聴いていきたいと思います。

マルコによる福音書をここまで読んできた中で、主イエスが行かれた家は、徴税人レビの家、そしてシモンとアンデレの家です。レビの家では、食卓を共にすることを通して「罪人を救いへと招いて」くださいました。また、シモンとアンデレの家では「姑の癒し」という出来事があり、その後、シモンの家には、主イエスの癒しを求めて群衆が集まって来るようになったのです。
 主イエスが「帰られる」場所、そこは親しくくつろげる場であり、また活動の拠点となる場ですから、そう考えますと、親しい弟子の家であり、主の活動の拠点として群衆が集まって来る「シモンとアンデレの家」が、「主イエスが帰られる家」だったと考えてよいのです。

主イエスが弟子の家を自ら帰られる場、活動の拠点としておられることの恵みを覚えたいと思います。「主イエスの弟子」と言いますと、私どもは「家を捨てる」と考えます。しかし、聖書を丁寧に読んでいきますと、そうではありません。シモンとアンデレの家がそうであったように、弟子となったからと言って家を捨てるのではなく、主の弟子とされるとき、主イエスは弟子の家の一員となってくださっているのです。
 「主を信じる」ということは、「主が私どもの家に住まいしてくださる」ことであることを覚えたいと思います。そして、主は、その家で宣教の業をなしてくださるのです。

「主の家」とは「教会」であると、私どもは思います。しかし、それだけではなく、主イエスは、信じる者一人ひとりの家をも、ご自身の家としてくださるのです。それは幸いなことです。殊に、今の時代には幸いです。高齢化社会において、長寿であればあるほど、一人暮らしの孤独な家が増えるのです。また未婚率の高さも同様の孤独を生むでしょう。「一人暮らしの家」とは、果たして「家」と言えるのかどうか。「家」というのは、ただ単に、住む場所ということではありません。「家」は、夫婦を中心とした血縁による共同体ですから、そこに交わりがあるのです。けれども、一人暮らしの家は孤独です。一人暮らしでも孤独ではないことが、今、求められていると思うのです。その家に、共同体があることが大事なのです。

それゆえに、主イエスが私どもの家の住人になってくださることは幸いです。たとえ一人暮らしであっても、主イエスが共に住いしてくださる、それは、主がその家を「主と共にある共同体」としてくださるという豊かな恵みなのです。

共に住んでくださる主イエスに朝の挨拶をして、新しい朝を迎える。それが、新しい朝を感謝して「祈る」ということです。祈り、主との語らいによって一日を始められるならば幸いなのです。それはまさしく、家庭の(交わりの)恵みです。「祈り」において、私どもには「神との語らい」という交わりが与えられているのですから、まさしく孤独ではないのです。たとえ一人暮らしであっても、そこは麗しい家庭です。孤独と不安の中で眠るのではない。主イエスに全てを委ねて眠れるとは、幸いなことなのです。
 ですから、現代社会において、「主イエスを信じる」ことは、主と共なる共同体を持つという豊かさなのです。孤独ではありません。「主イエスが家に帰られる」ことの恵みを覚えたいと思います。私どもが主を信じるとき、主は私どもの家族なのです。主を信じることは孤独な歩みではなく、恵まれた歩みです。今は一人暮らしでなくても、いずれ一人になってしまうという不安の中にある私どもです。だからこそ、主を信じることの恵みを覚えたいと思います。

そして更に、私どもが主と共に生きるとき、その家を訪れる人は、その家にある「主と共にある豊かさ、恵み」を覚えるようになるのです。「主にある家庭」は「祈りのある場」、そこは「宣教の場」とされるのです。私どもは家庭において、親しい者たちを覚えて祈ります。それこそが宣教の業です。家庭は、祈りにおいて、主が働いてくださる宣教の場となるのです。ですから、祈りとは豊かなものです。

20節後半「群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」と記されております。群衆は、癒しを求めて集まって来ております。そこで、弟子たち一同、その家の家族一同が巻き込まれて、食事をする暇もないのです。このようにして、この家庭は、主の業に参与しております。群衆は、主イエスを必要としている、だから集まってくるのです。

しかし、群衆が集まって来ると言われている中で、21節「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」と記されております。主は人々に教え、悪霊を追放し、癒しをなさってくださっている。にも拘らず、「身内の人たち」がどうして主を取り押さえに来たのか。身内の人たちは、主イエスのことを心配して取り押さえに来たと推測されるのです。
 ここで「身内の人」という言葉は、友とも、隣人とも取れる曖昧な言葉が使われております。けれども、後のところから分かることは、「身内の人」は群衆のように家の中に入らず、外にいる、主イエスの家族であることが分かります。「『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあるように、主を心配して、来ているのです。

昔の日本には、「家の恥」という文化がありました。その点については、日本とヘブル社会は共通する感覚を持っております。共同体性でなく個中心であれば、こういうセンスにはなりません。「あの男は気が変になっている」、つまり「精神疾患」は、当時のユダヤでは「悪霊に取り憑かれている」と考えられておりました。22節「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」と続いております。律法学者たちが、主イエスのことをそのように言っている、だから、それは家の恥として、主を家に連れ帰ろうとしたのです。

では、なぜ身内の人たちが、律法学者たち、つまりユダヤの指導者たちの意見に動揺したのでしょうか。
 後のエルサレム教会の中心的な指導者は、主イエスの兄弟ヤコブでした。主の兄弟ゆえに指導者となったのです。ヤコブは主の弟子たちの中で、ペトロやパウロよりも優位でありました。例えば、ユダヤの律法規定によれば、異邦人との食事は厳禁でした。ヤコブを指導者とするエルサレム教会は、律法規定を守り続けました。しかし、パウロの宣教によって広がった異邦人教会では、全く律法にとらわれずに異邦人と食事を共にしました。そのことにエルサレム教会が異議を唱えたとき、ペトロはその言葉に従うのです。ここに、ヤコブが律法を厳格に守る者だったことが分かります。それはつまり、主イエスの家庭は律法を重んじるユダヤ人家庭だったということです。ですから、身内の人たちは律法学者の意見を尊重し、主に悪霊が取り憑いたと心配して、取り押さえにやって来たのです。

群衆が主を求めているにも拘らず、主をそこから離そうとする、ここにユダヤ人指導者たち、律法学者たちのあり方が分かります。
 「エルサレムから下って来た律法学者たち」とあります。エルサレムからガリラヤまでは、かなりの距離があるのに、彼らはわざわざやって来たということです。このことが意味することは何か。それは主イエスの教えが、遠くエルサレムにまで聞こえた、人々への影響の大きい教え、活動だったということです。だからこそ、律法学者たち、ユダヤの指導者たちはわざわざやって来て、主イエスに敵対する者として、主の活動を非難したのです。

「ベルゼブル」は「悪霊の頭、悪霊の王」とされております。元々は、シリアのベルゼブールという神の名で「家の神」という意味でしたが、その「家の神」という言葉をユダヤ人は揶揄して「はえの神」と言い、後に「悪霊」を指す言葉となったのです。
 ここで、「悪霊の頭の力」と、律法学者たちが言っていることは面白いことです。一つ言えることは、彼らは、主イエスの業(例えば癒し)そのものを否定することは出来なかったということです。現実に起こったことを否定はできない、けれども、その事実を受け入れられないのです。そして、受け入れられないことを意味付けするために、悪意とするのです。現実を受け入れられないことと、現実を否定できないことのギャップの大きさを思います。人は、否定できない現実を見たからと言っても、受け入れるわけではありません。受け入れられない現実に意味付けするために、悪意によって真実を曲げてしまうのです。そのような指導者たちの悪意に、主イエスの身内の人たちは巻き込まれております。

イエスの母マリアにも理解できません(31節以下)。しかし、理解できないからこそ、主の救いが必要なのです。「主イエス・キリストの救い」とは、「理解できない者たちの救い」だからです。

律法学者たちの悪意に満ちた意味付けは、自分の立場を守るための理由づけであることに気づかねばなりません。彼らは、主イエスに癒していただいた者、慰められた者たちに目を向けていないのです。

主イエスは、主を求める者のために、食事をする暇もなく教えてくださっております。そこまでしてくださるのは、「心動いて」のことです。頭では分かっていても、なかなか行動できないことがあります。他者に対して、心動ことがなければ、思っていても行動できないでしょう。同情し、心痛むときに、行動できるのです。
 主イエスは、病む者、痛む者のために心動かしてくださり、仕えてくださいました。自ら低くなってくださったのです。それは、主が「力ある方」だからこそ、できることです。

律法学者たちは、人々の上に立ち続けるために、権力を守り続けるために主を非難するのであって、痛む人々に心動かすことはありません。

私どもが知るべきことは何でしょうか。民の指導者たちは、どこまでも支配する者となろうとしていますが、主イエスは群衆を慈しみ、心痛んでくださり、仕えてくださっているということです。ここに私どもの救い、慰めがあります。

主イエスは、この私どものためにも心動かし、心痛んでくださる方であることを覚えたいと思います。私どもは、開き直り、諦めるしかない者です。そういう私どものために心痛み、心動かし、私どもを神の憐れみの内に置いていてくださるのです。

私どもの日々の歩みの内に、主イエス・キリストが心動かして臨んでくださっております。主が心動かして臨んでくださる日々の歩み、主共にある日常、それが私どもの生活、私どもの人生そのものであることを、感謝をもって覚えたいと思います。
赦されないこと」 11月第2主日礼拝 2012年11月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第3章20〜30節

3章<20節>イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。<21節>身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。<22節>エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。<23節>そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。<24節>国が内輪で争えば、その国は成り立たない。<25節>家が内輪で争えば、その家は成り立たない。<26節>同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。<27節>また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。<28節>はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。<29節>しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」<30節>イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

今日は23節から聴いていきます。

22節には、律法学者たちが主イエスのことを「あの男はベルゼブルに取りつかれている。悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったことが記されております。「悪霊の頭」とは、主イエスに対する悪意に満ちた言葉です。

そして23節「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた」と続くのですが、主イエスに対してそのような悪意を抱く者たちを、ここで主が「呼び寄せて」おられるとは驚くべきことです。律法学者たちは、ユダヤの宗教上の指導者であり、権力を持つ者として、主イエスに対して悪意をむき出しにしております。そういう者たちを「呼び出す」というのですから、驚くのです。普通であれば、そのような相手とは挨拶もしないでしょうし、むしろ避けるでしょう。また、呼び出された方も、来ることはないでしょう。

自分を嫌っていると分かっているのに、主イエスは彼らを呼び寄せられました。ここで、彼らは主イエスに呼ばれたことによって「来ざるを得なかった」ことを覚えなければなりません。「主イエスの呼び出しには、力がある」ことを示しているのです。主イエスの呼びかけを、人は無視することはできないのです。そして、従わざるを得ないのです。それは、主の呼びかけは「権威がある」ということなのです。
 律法学者たちは教える者として権威ある者のはずですが、しかし、主イエスこそが真実に権威ある方だということです。この世の権威に勝って、主イエスは権威ある方であるということ、それが、この「主イエスが彼らを呼び寄せられた」ことに示されていることです。

また同時に、このことは恵みに満ちた出来事であることを覚えたいと思います。主イエスは、敵意ある者をも招いてくださっているということです。主に悪意を抱く者も、主の許に招かれているのです。それは、主イエスに従えない、十分には理解できない私どもを招いてくださり、主の許に集めてくださる、恵みに満ちた方であることを示しております。主イエスの力とは、決して抗えない力なのです。

続けて「たとえを用いて語られた」と記されております。この「たとえ」という言葉は、「賢い言葉、説明の物語」というヘブル語を基としたギリシャ語です。知恵を用いて語られる言葉なのです。ですから、「たとえ」は分かりにくいのです。知恵を用いて聴かなければならないからです。神である主イエスが知恵を用いて語られるのですから、私どもに分かるはずがありません。分からない、そこに主イエスの秘密、神秘があるのです。

このところでは、弟子をはじめ人々は、まだ「主イエスの十字架と復活」を知りません。主イエスが「すべての人の救い主である」ということは、秘められた真実なのです。「主イエスは救い主」であることは秘密ですから、主は「たとえ」を用いて話されるのです。
 主イエスは悪霊の頭ではありません。主は救い主ですが、それはまだ秘密なのです。「神秘」とは「神の秘儀の出来事」です。「主イエスは救い主」であることは、まさしく「神の秘儀」なのです。そして、この「神の秘儀の出来事」は、神によってしか知り得ないことです。神が明らかにしてくださらなければ、私どもが知ることはできません。神の知恵、神の力を頂かなければ、知り得ないことなのです。それが「神秘」です。「神秘」とは、隠された救いの真実、秘められた神の真実です。ですから、「たとえ」で語られるのです。

神によってしか知り得ない、それは「聖霊によって」しか知り得ないということです。この世にはさまざまな神秘的なことがありますが、「神の救い、神秘」は、神の霊、聖霊によってしか知り得ません。このことをストレートに語っても、分かることはできない。だから「たとえ」を用いて語られるのです。
 教える者、権威ある者と自負する律法学者たちであっても、神の神秘を教えることはできません。真実に神の神秘を教えることができる方は、主イエスのみです。

「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」と主は言われます。人が人を追い出すことはあるでしょう。仲間を追い出すということはあるのです。しかしここで「サタンがサタンを…」とは、サタンが自分自身を追い出すことは出来ないだろうということです。
 「こんな自分を追い出したいけれど追い出せない」と苦しむとすれば、それは病的なことです。自分で自分を追い出そうとする、それは自己分裂であり病んでいるのです。そして、そのような状態は、無力な状態です。私どももそうです。自分に自信がなく、自分の存在を実感出来なければ、自己分裂してしまうのです。

では、キリスト者にとっての自信はどこにあるのでしょうか。もしも自分を根拠にするならば、人は挫折するのです。けれども、神を根拠とするならば、どんなに行き詰まってしまったとしても、虚しさを感じたとしても、そんな私の存在を神が貴んでくださる、そこで自分自身を取り戻し、自信を持つことができるのです。「神にある確かさによって、自らの存在を見出す」、それがキリスト者にとっての自信です。

24〜26節「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」と記されております。内輪で争っているからと言って、国家が、あるいは家が無くなってしまうわけではありません。しかし「内部分裂しているところは無力である」ということを示しております。

27節「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない」。人々は、主イエスが悪霊を追い出しておられることを知っております。主イエスが悪霊を追い出しているということは、主イエスは悪霊に勝った力ある方であるということです。主をサタンの頭と言うならば、その強い者をまず縛り上げなければ、サタンを追い出すことは出来ないだろうということです。

28節「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と、主イエスは「赦し」を宣言されます。神に対する「冒涜の言葉」さえも赦されると言われております。ですから、律法学者たちの主イエスに対する敵意も、それが彼らの率直な気持ちであるならば、赦されるのです。

しかし、29節「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と言われます。主イエスは、悪霊を追い出すことのできる力ある方です。主イエスの力は、悪霊を超えた力、それは「神の力を宿す力」です。主イエスは「神の権威を持つ方」なのです。主イエスが悪霊を追い出しておられることを知っているとするならば、それは、主が神なる方であることを知っているということです。このことを知りながら、この真実を受け止めない者は赦されない、それが「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ということです。

聖霊の働きによって、私どもは「主イエスは救い主である」ことを知ります。聖霊によって「主イエスは神なる方、救い主だ」という思いが与えられたのに、しかしそれを自分の思いによって受け入れないならば、赦されないのです。否定することがいけないということではありません。「否定」は、聖霊に抗っての否定ですから、否定するから赦されないのではありません。受け入れない、拒むことが赦されないのです。
 「永遠に罪の責めを負う」とは、「救いを拒む」ということです。せっかく赦されているのに、自らの思いで赦しを拒んでいる、それが責めを負うことです。
 主の救いの宣言がなされております。赦されないことの前提には、まず「赦し」があるのです。赦されているのに、自ら拒む、受け入れない、だから永遠に赦されないのです。

私どもは、「赦されている」ことを信じて、「洗礼」に与ります。「洗礼」それは「赦されていることのしるし、保証をいただくこと」です。

「主イエスこそ救い主である」ことを、神によって、聖霊によって示されることは、「神秘の出来事」です。ですから、示されたならば、素直に受け入れれば良いのです。

「受け入れる」、そこで「洗礼」によって「救いのしるし、保証までも与えられる」、その恵み、その豊かさを、感謝をもって覚えたいと思います。

主イエスの兄弟、姉妹」 11月第3主日礼拝 2012年11月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第3章31〜35節

3章<31節>イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。<32節>大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、<33節>イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、<34節>周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。<35節>神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

31節「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた」とあります。なぜ、主の母と兄弟が来たのかは、21節に記されております。自分の身内が「気が変になっている」と言われて、取り押さえて、家に連れ帰ろうとしているのです。

ここで「外に立ち」と言われていることは象徴的です。あえて「外に立ち」と記しております。それは、主イエスの家族は、身内でありながら、主に対して内なる者ではなく、外にいる者であることを表しているのです。
 主イエスに対して「内なる者」と「外なる者」とは、どういう者なのか。結論は34節に言われておりますので、今日はそこまでを語りたいと思います。

今、覚えてよいことがあります。震災以降、「絆」という言葉がよく使われるようになりました。心惹かれる言葉です。けれども、「絆」という言葉は必ずしも良い意味ばかりを含まないのです。
 今日の箇所でも、主イエスの母と兄弟は、子を、兄弟を心配してやって来る、その根拠は「家族の絆」ゆえなのです。この「家族の絆」は何を意味しているでしょうか。ここでは、主イエスを家族の絆ゆえに連れ戻し、主を家族に従わせようとしております。ですから、自分たちからイエスの許に行くのではなく、人を介して、外からイエスを呼びつけているのです。家族の絆によって、家族は、主イエスを「従わせようとする」のです。親兄弟の心配とは、そのようなものかも知れません。また、その本人のことよりも周りへの体裁も気になるものです。

「絆」は大切なものです。けれども、「絆」には限界があるのです。絆の大切さは、それによって「共同体」を保つことです。家族とは、一番小さな共同体ですから、子どもは「家族という共同体の絆」の中で育ちます。
 けれども、人はいずれ、家族の共同体から巣立って、独立・自立しなければなりません。人は自立に向かって、絆の中での葛藤を必要とするのです。自立にとって、共同体の絆は、妨げともなるのです。絆の持つ不自由さを知らなければなりません。
 震災以前には、「絆」という言葉は、その束縛性ゆえに避けられ、あまり好んで使われなかったと思います。その「絆」が復権したことは喜ばしいことではあります。しかしそこには問題もあるのです。だから「絆」を断ち切るべきだと言っているのではありません。絆は大切であり、必要です。それは、各々が自立し、新しい共同体を作る上で必要ですし、そこで、今まであった共同体を再構築するために必要なのです。まず、自立する。そしてそこで、絆をもう一度見直すことが大事なのです。そういう意味では「絆」を重んじなければなりません。

しかしここでは、主イエスの家族の絆は、主を束縛するものであるのです。
 家族というものは、客観的認識に立っていない、主観的な認識のもとにあります。ですから「わたしの母、わたしの兄弟」なのです。主の家族は、主イエスを客観的に受け止めてはおりません。主観的に見ているのですから、イエスが気が変だと言われれば、自分のことを言われているように思うのです。
 ここで、家族の主観としての主イエスに対する認識が間違っているわけではありません。そうではなくて、主観的に自分たちが思っていること、それが全てであると思っていることが間違っているのです。

真実な認識とは、どこにおいて起こるのでしょうか。完全に客観的な真理に基づく認識とは何か。聖書が言い表す真理とは、「主イエスは神の御子、救い主である」ということです。しかしこの真理は、人の主観によっては認識できません。ただ神の力、聖霊によってだけ理解できることです。人の主観によっては、主イエスのなされた業(奇跡や癒し)を理解はできないのです。
 人は自分を客観視することは出来ませんので、自分の主観に頼るしかない、ですから、なかなか信じることが出来ないのです。神とは「人を超えた存在」であることを覚えなければなりません。自分の主観がすべてなのではありません。外からの視点、神の視点をもってしか、自分を客観化、相対化できないのです。神は、人と(私と)決して同一化しないお方です。その神の力を頂かなければ、「主イエスは救い主である」ことを理解すること、受け入れることはできないのです。
 ですからここで、主イエスの家族の思いがそうであったことは仕方ないことではあります。けれども、それは自分たちの主観でしかないことを知らなければならない。主観を客観化して捉えることが大事なのです。

「信仰」というと、しばしば、その人の主観的な出来事だと思われがちですが、そうではありません。信仰は人の思い込みのように言われますが、そうではないのです。
 信仰あることの恵みは何でしょうか。「自分自身を外から見る、自分自身を客観化しつつ生きる」ということです。幼いうちから信仰ある中で育つことは、幸いなことです。自分を絶対化しない、自分を相対化できる、そういうあり方を体得するからです。それは、信仰の中に育つことの恵みです。主観的に知る世界だけが世界の全てなのではないことを知るからです。そのことが大事です。

更に言いますと、信仰における「絆」とは(絆という言葉は相応しくありませんが)、それは「関係概念」です。自立した者同志としての関係を構築することなのです。
 キリスト教と言えば「愛」という言葉を思いますが、私は、「愛」という言葉を避けて語ります。それは、日本において「愛」という言葉は、「汚れた関係」という主観的な関係を想像させるからです。

キリスト教における「愛」は、そのようなものではありません。真実の愛は、客観的な関係であり、それは「義」なのです。「神との正しい関係」それが「義」です。その「義」の中に「愛」があるのです。「信仰」とは、愛による救いということではなく、「神の義による救いである」ことを覚えたいと思います。

32節「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」と、主の家族とは対照的に、主イエスの周りには大勢の人がおりました。主イエスの「内」と「外」の情景を描いております。
 そして、主イエスを呼びに行った人は「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と言うのです。「御覧なさい」と、主イエスに対して「家族=外に立つ者を見なさい」と言っています。この人の呼びかけは、主イエスの視線を家族へ、外へと向けさせようとするものでした。

その呼びかけに対して、主イエスはどう答えられたでしょうか。34節「周りに座っている人々を見回して言われた」と記されております。主イエスは、外にいる家族ではなく、主の周りにいる人々を見てくださるのです。主イエスの眼差しは、主の周りにいる人々に注がれております。私どもは、主イエスがどこを見ておられるかを知らなければなりません。家族を見ておられるのではなく、名も知らない大勢の人々を見ておられる、そして、語ってくださるのです。

なぜこのことが大事なのでしょうか。私どもは、今ここに集まっております。それはどうしてかと言いますと、「主イエスの名」ゆえなのです。「主イエスに招かれ、主の周りに座っている者として」集まっているのです。主イエスは、私ども一人ひとりを見てくださっている、主の眼差しがここに注がれております。主イエスの視線は、外にではなく、内側にある者に注がれているのです。主イエスは、私どもに向かって視線を注いでいてくださるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。主イエスの慈しみの眼差しによって、私どもは今、この礼拝の場にあることを、感謝したいと思います。

主イエスはここで、33節「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、主の周りにいる人たちに問われます。ここに「問い」を与えられることの大切さがあります。問われることは、考えることに繋がるからです。疑問を持つからです。「えっ? あの人は、主イエスの母ではないの? 兄弟ではないの?」との疑問です。ですから、そこから得た答えは印象深く、自覚することになるのです。それゆえに、主イエスは問うてくださっております。人々に驚きを与え、与えられた答えを自覚的に受け止められるようにしてくださっているのです。

そして34節「見なさい」と言われます。「見る」という主体的な視線に立って、「見る」ことを促しておられます。そして宣言してくださるのです。「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と。
 主イエスは、憐れみをもって人々をご自分の周りに集めてくださり、慈しみをもって「あなたがたは、わたしの家族である」と宣言してくださっております。主イエスの眼差しの内にある者は「主イエスの家族」なのです。そして、この宣言は、今ここにある私どもに対しても与えられている宣言なのです。このことを、主は「家族とはだれか」と問うことによって、深く認識させてくださっているのです。ですから、私どもも「主イエスの家族」であることを深く思って良いのです。何という幸いでしょうか。私どもは「主イエスの家族」なのです。

そして、主イエスの家族とはどのような者なのか、35節に「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と記されております。「神の御心を行う人」は「神の御言葉に聴き従う人」と言った方が分かり易いでしょう。「御言葉に従う」ことは「神に従う」ことなのです。「主イエスから聞いたことを受け入れて、従う人」、その人こそ「主イエスの母、兄弟」です。

ここで、一つの疑問があります。どうして「父」は出て来ないのでしょうか。これにはいろいろな解釈があります。父ヨセフは既に死んでいたのかも知れません。しかし、覚えなければならないことは、主イエスにとって「父」とは、「父なる神のみ」であるということです。母や兄弟はたくさんいます。主イエスの家族、すなわち「神の家族」は、「主イエスを長子とする神の家族」なのです。

私どもが「神の家族」とされていることは幸いなことです。私どもの方から家族になったということではなく、家族にならせていただいたのだということを覚えなければなりません。私どもは、「永遠に、神の家族」とされているのです。「神、主イエス・キリストは永遠なる方」ですから、私どもが「永遠に神の家族である」ことは、揺るぎないのです。

私どもの肉親、家族は、地上限定の家族です。ですから、人間の絆は、永遠なものではありません。必ず終わりの時を迎えるのです。
 けれども、主の家族、神の家族に終わりはありません。このことの恵みを忘れてはなりません。神の家族であることは揺るぎないのです。たとえ、この地上において、私どもが孤独であったとしても、私どもが「神の家族」として「永遠の家族の交わりを与えられている」ことを覚えたいと思います。

さらに、覚えておくべきことがあります。32節、35節には「わたしの母、わたしの兄弟、姉妹」と言われております。33節でも分かるように、主イエスを取り押さえに来たのは「母と兄弟」だけだったはずです。けれども、ここに「姉妹」と付け加えられているのは、このことを、後の教会が重んじたからです。当時の社会は男性社会で女性が重んじられることはありませんでした。けれども、男性だけではなく、女性たちもまた、主イエスの許に集う者であり、主に従う者として神の家族であることが、ここで強調されているのです。後々の教会にとって、その大きな担い手となったのは女性たちであったことが分かります。

今この礼拝に、主が私どもを招き、集め、そして「あなたたちは、わたしの家族である」と宣言してくださっていることを、自覚をもって覚え、感謝したいと思います。

再び湖のほとりで」 11月第4主日礼拝 2012年11月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第4章1〜9節

4章<1節>イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。<2節>イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。<3節>「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。<4節>蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。<5節>ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。<6節>しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。<7節>ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。<8節>また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」<9節>そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

1節「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた」と記されております。

主の活動はガリラヤが拠点でした。そして、その活動の中心は「教え」でした。「癒し」だと考えてはなりません。人々の求めに応じて、癒しもなさいましたが、しかしそれは中心の出来事ではありません。あくまでも「教え」をもって人々を導かれるのです。

では、主イエスの教えの中心は何でしょうか。「山上の説教」で、主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイによる福音書5章3節)と言われました。率直に「貧しい」ということが、主イエスの思いです。「貧しい」がゆえに、人から相手にされない。お金にも、人にも頼れない。神にしかより頼むすべがないからです。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(同6節)。「義」は「神」です。主イエスの教えは、「神を教える」のです。人生訓を教えるのではありません。「神の御業、神との関係」を教えてくださるのです。私どもは、神について教えていただくのです。

「おびただしい群衆が、そばに集まって来た」とあります。群衆は一人ひとり、求めも思いも違います。押し合うようにして、「主イエスのそばに」来るのです。それは、主イエスの活動にとってマイナスにもなってしまうことです。
 「そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」と記されております。主イエスは舟に乗って湖におられ、群衆は岸にいる。距離を取られたのです。間合いを取られたのです。群衆は、主イエスと距離があることによって、静かに座って聴く姿勢が出来たのです。

私どもが神の教えを聴く時、肌を触れ合うような緊密な関係ではなく、適度の間合いが必要なことを示しております。間合いによって、心を静めて、主の御言葉が聴けるからです。人間は、神に耐えない存在です。ですから、神の御言葉を聴くためには「畏敬の念」が必要です。礼拝は、神への畏敬の念をもって聴くのです。畏敬の念をもって御言葉を聴き、神を神として知るのです。礼拝は、神が私どもに与えてくださった恵みです。神と人の関係を聴く、そこに畏れをもって聴く謙虚さが必要であることを教えられているのです。礼拝により、私どもは、静まって主イエスの御言葉に集中できる時が与えられていることの幸いを覚えたいと思います。

2節「イエスはたとえでいろいろと教えられ」と言われております。神について「たとえ」で教えられるのです。
 人間は、地上という限界を持っております。永遠の神を知り尽くすことはできません。主はなぜ「たとえ」で教えられるのでしょうか。全てを語り尽くせないとき、「たとえ」で語るのです。日常生活の中で、自分たちの活動の中で「神を理解できるように」示してくださるのです。私どものあれこれの日常のことを「意味づけて」くださるのです。主イエスは「神の智恵なる方、神の秘儀を教えてくれる教師」です。

3節「よく聞きなさい」とは、ちゃんと聞いて理解しなさいということでなく、「聴き従え」と言っているのです。「聴き従う」、それは、自分が全く変わることです。

そして言われます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。種は植えるのではなく、種を「蒔く、落とす」のです。道端は畦です。

4節以下、この「種蒔きのたとえ」で、2つのこと覚えたいと思います。
 私どもが「御言葉を宣べ伝える」という時、誰彼考えずに語っているかというと、語らないのです。私どもは、知っているつもりになると語らないのです。なかなか語らない、それは確信がないからです。「この人に話しても無駄だろう」と自分勝手に判断して、語らないのです。けれども、そうしてはいけません。自分で勝手に判断してはならないのです。この種蒔このたとえは、誰にでも宣べ伝えることを教えているのです。
 2つ目は「実を結ぶ」ということです。「実を結ぶ」とは「救いをもたらす」ということです。「御言葉に信頼して」蒔くことの大切さを示しております。御言葉は大いなる実を結ぶのです。

「御言葉に信頼して、御言葉を語り続けること」を、主イエスは教えてくださいました。私どももまた、救いの喜びを持って、御言葉を語りたいと思います。