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7節「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」と記されております。この前のところで、主イエスは安息日に手の萎えた人を癒されました。これを安息日規定違反だとして、ファリサイ派とヘロデ派の人々は結託して主イエスを訴えようとしました。そのことを、主イエスは知っておられます。ですから、「立ち去られた」というと、主イエスが難を逃れるために「立ち去られた」と思うところですが、そうではありません。 私どもが「福音を信じる」ということ、それは「公のこと」です。救いの出来事は、公の出来事であることも、ここで併せて覚えたいと思います そしてここに「弟子たちと共に」と記されております。「人々を召すために、主イエスはガリラヤに行かれる」、この主イエスの宣教の業に参与するために、弟子たちは主と共にあるのです。弟子とは、主イエスの働きを共に担う者として、幸いな者です。 「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」と続きます。弟子たちだけではなく、おびただしい数の群衆が主イエスに従いました。この群衆は、強いられてではなく、主イエスの業を知って、自らの思いによって従っているのです。主イエスの業とは、人を強制する業ではなく、心震える業であることが示されております。私どもは、つい人を動員することを考えます。人の思いとは愚かなものです。人は主イエスの御言葉にとらえられ、癒され、砕かれて、それによって心が変えられて、主に従うということが起こるのです。主の業とは、人々を活気づける業なのです。 8節「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて…」と記されております。直接主イエスの業を見たわけではないけれど、主の業を聞き知った人々が、ガリラヤを中心に集まって来る、しかしそれだけに留まらず、ユダヤの中心エルサレムからも、また異境のティルスやシドンからも、つまり世界中から、主を慕って止まない人々が主のもとに来るのです。このことは、誰もが主イエスを必要としていることを示しております。誰もが、主のもとに行きたいのです。 ここで、主イエスに悪意を抱く人々を指導者とする群衆たちは、多くの苦しみを担っております。だからこそ、群衆は進んで主に救いを求めているのです。主を必要としている、それは主の憐れみを必要としているということです。ですから人々は、主のもとに集まって来ざるを得なかったのです。 ですから、人々は今、主の救いを必要としております。人々は救い主イエス・キリストを求めざるを得ないのです。主こそ救い主、キリストです。だからこそ、主を求めて人々は集って来るのです。 9節、主は弟子たちに、小舟を用意するように言われました。なぜでしょうか。「群衆に押しつぶされないためである」と記されております。「おびただしい群衆」は、パニック状態になるのです。主イエスは多くの病人を癒されました。ですから、人々は主のもとに殺到するのです。主イエスに触り、それによって、癒されたその主の力を頂いて、自らも癒されたいと願っているのです。しかしこの群衆の思いは、混乱でしかありません。 ここで、マルコによる福音書には、実際に主が舟に乗られたのかどうか、記されておりません。それは、マルコによる福音書の関心事はそこにはないということです。例えば、ルカによる福音書5章1〜3節には「そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」と記されております。情景は同じですが、強調点が違っているのです。ですから、ここには記されておりませんが、主イエスが小舟に乗られたこと、人々は主に触れることは出来なかったことが分かります。 主イエスは、舟に乗り、静かに座って話し出されます。すると、人々も静かに聴くのです。大声を上げて、「静かに」と言われているわけではない。主イエスは、人々と距離を置かれることによって、人々の心に静けさを与えておられるのです。主が間を取ってくださるがゆえに、人々には聴く姿勢が自ずと与えられるのです。いくら「静まれ」と言われても、静まることはできません。私どもが聴くことのできる姿勢を、主が作ってくださっているとは、素晴らしいことです。 私どもは、主の言葉を「神の言葉」として聴くために、そういう「間」を必要としております。人の思いは傲慢で、主に触れることによって、触れ合いによって知り合えると思っております。しかし、人と人との触れ合いは、摩擦を起こすということも知っておかなければなりません。 人々は静かに主の御言葉に聴きます。そこで、主の御言葉が人々の心に沁み入るのです。主イエスに触り、癒しを求めて来た群衆に、主は御言葉をお与えになります。「主の御言葉を聴く」ことは、まさしく「主に触れる」ことなのだということを、マルコによる福音書はここに示しているのです。 今、私どもは、地上の主イエスに触れることはできません。しかし、私どもは、「復活の主イエス・キリストに触れる」ことができるのです。主の御言葉に触れることによって、私どもは復活の主に触れている、永遠の命なる主に触れている、そのことが大事なことです。 人と人との親しい交わりも大切です。しかし、それが第一ではないことを覚えなければなりません。教会の交わりの中心にあることは、「神への畏敬の念をもっての交わり」であるということです。それは「礼拝中心の交わり」であるということを覚えたいと思います。 11節「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ」と記されております。主の御言葉によって人々は癒されて、悪霊の束縛から解き放たれました。そして、悪霊は主の前に破れて、主にひれ伏さざるを得ないのです。 ここで知るべきことがあります。悪霊は、主イエスを神の子と知っていたのに、救われておりません。弟子たちはというと、主イエスが神の子であることを、ここではまだ知らない、にもかかわらず主の救いに入れられているということです。私どもが、いかに教理の知識を持っていたとしても、それは、救いとは関係がないということです。「救い」は、知っているからということではなく、「主に従うかどうか」にかかっているのです。悪霊は主を知っていた、けれども従わなかった、だから救われないのです。 12節「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた」とあります。まだこの時点では、主の十字架の出来事は起こっておりません。十字架の前のことですので、救いについて、きちんと伝わることは出来ない、ゆえに、主は「言いふらして公にしないように」と言われました。 改めて思います。主の御名による洗礼を与えられていることの、私どもの幸いを思います。人の理解はいずれ揺らぐものでしかありません。しかし、主の救いの宣言は決して揺らぐことはなく、決して破綻することはない。そのような神の力が、私どもに臨んでいるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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13節、主イエスが山に登っておられます。主が山に登られるのは何のためでしょうか。祈るためです。主イエスは「12使徒を任命する」に当たって、まずは山に登り祈られました。なぜ、山で祈るのでしょうか。当時、人々は、神は天に在すと考えておりましたので、神に近い場、山に登って祈ったのです。ですから、人々は主イエスが「祈るために」山へ行かれたことを知っております。 事を始めるに当たって何をなすべきか。まず「祈りをもって」事を始めるのだということを覚えなければなりません。祈りは、自らの願望を述べることではありません。祈りは「神の御旨を畏こむこと、神の御心を頂く」ことです。「神の御旨を畏こむ」ということがあって、事が始まるのです。それが、主イエスがここで、私どもに示してくださっていることです。 この「12人」については、主イエスが「これと思う人々」だと記されております。「これと思う」というと、選ばれるに相応しい何かがある人かと思ってしまいますが、そうではありません。「これぞ」と思う人なのではなく、主イエスが「欲するままに」選ばれた、というニュアンスです。選ばれた人たちの後のことを考えますと、「これぞ」という選ばれるに相応しい基準からは外れているのではないでしょうか。人の思いからすれば選ばれない人々を、主は「思いのままに」選ばれるのです。ここに神の御心があります。神の御心は、人の評価とは違うのです。その人に賜物があるかないかではない。賜物は神からの恵みであるのに、人は、与えられた賜物によって自らを誇るのです。 そして、「神の主権者としての選び」は「憐れみ」であることを知らなければなりません。それが神の恵みのあり方です。そこに神の豊かな慈しみを思います。 ここで、選びの目的ははっきりしております。14節に「使徒と名付け…、彼らを自分のそばに置くため…」と記されております。しかし、13節にも「彼らはそばに集まって」とありますように、「主イエスのそばに」ということが強調されております。私どもは、「使徒としての選び」ということに目を向けがちですが、実は、ヘブル語の聖書には、この「使徒と名付けた」という記述はありません。「使徒と名付けた」という言葉は、初代教会が用いた「70人訳ギリシャ語聖書」に入っていたために、初代教会の意を受け継いで、私どもも用いているのです。 ですから、選びの目的、それは「主イエスの御そばに置くため」であることを覚えたいと思います。麗しいことです。「選ばれた使徒として宣教のために働く」ということが第一なのではないのです。「主がご自分のそばに置き、共にあってくださるため」、それがこの選びだということです。 主イエスを信じるということ、それは主イエスが私どもを「ご自分のそばに置いていてくださる」ということです。では、「主がそばに置いてくださる、主が共にいてくださる」とは、どういうことでしょうか。 12という数字は、イスラエルにとっては大切な数字です。イスラエルは12部族であり、イスラエル12部族は神の国の共同体、神の民であることを示しているからです。 ここで「任命する」という言葉は、日本語としてはニュアンスが違っており、「造る、創造する」という言葉です。実は、「任命する」というよりも、「12人を造った、立てた」という内容なのです。「創造する」では訳しにくかったのでしょう。ここで「12人を任命する」ことによって、主イエスは「新しい神の民を創造された」のです。これは、とても大切なことです。新しい神の民が創造されたのですから、それはイスラエル12部族としての神の民とは違うのです。 主イエスの到来は、「終末における神の国の到来」を意味しております。振り返りますと、元々ユダヤ教である共産主義の根本思想は、神の国を地上に実現しようとした歴史の試みでしたが、失敗に終わりました。それは、キリスト抜きの神の国だったからです。本当の神の国とは、「天地が滅び去ってなお残る神の国」です。主イエスはここで、12人を使徒に任命し「終末における神の国の民を創造された」ということなのです。 私どもは、主を信じる者として「キリスト者」と名乗ることが相応しいと思います。「キリスト者」とは「キリストの名を頂く者」ということです。「キリストの名を頂いている者として、終末における神の国の一員とされている」、それは「新しい神の国の一員とされている」ことの恵みであります。ですから、この「12人の使徒の任命」は、「新しい神の国の到来が告げられている出来事」であると言ってよいのです。何と幸いなことでしょうか。私どもは、この世の一切が消え失せて、なお、「神の国の一員として、神との尽きることのない交わりに生きる」のです。 続けて、「派遣して宣教させ」と記されております。これは「使徒」ということと関係いたします。「派遣」とは、単に伝道のためにあちらこちらに遣わす、宣べ伝えられていない場所に遣わすということではありません。 私どもは、生活の場で何をするのでしょうか。「祈り、神の恵みを語り、主を証しする」のです。生活のさまざまな場面で、「祈るとき、御言葉に聴くとき、讃美するとき」、それはすべて「宣教の業」です。置かれた生活の場で「キリスト者」として生きること、それが私どもの宣教なのです。 そして、「悪霊を追い出す権能を持たせるため」と続きます。「悪霊を追い出す」とは、悪魔払いというようなことではありません。しかし「悪霊を追い出す権能を持たせる」とは、私どもに悪霊を追い出す力などあるのでしょうか。 私どもが頂いているのは、まさしく「キリストの名」です。そして、そのキリストの名を語ることが許されているのです。「キリストの名を語る」、そこに慰めが与えられます。キリストの名が与えられているということは、どんなに恵み深いことかを知らなければなりません。 聖霊が働くことによって、悪霊は敗れます。諸々の思い、呪縛が悪霊です。私どもは、御言葉を頂くことによって、神の恵みに満たされて、その呪縛から解き放たれるのです。ですから、「悪霊を追い出す力、権能」とは、「御言葉を与えられている」ということに他なりません。私どもは、御言葉を蓄えることが大事なのです。 |
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今日は愛宕町教会にお招きいただき、皆さんと一緒に礼拝を捧げることができることを嬉しく思います。共に主の御言葉に聞きましょう。 今日与えられた御言葉は新約聖書のマルコ14章です。これは、ナルドの壺の物語が記されている箇所です。主イエスがベタニアのシモンの家にいて、食事の席に着いておられたときのことです。そこに一人の女がやってきて、主イエスの前で高価な香油の壺を割り、その香油を主イエスの頭に注ぎかけました。この女は、恐らく大理石でできた壷を粉々に割って、惜しげもなく香油を主イエスのために注いだということが読み取れます。まったく思いがけない出来事で、シモンの家の人々はあっけにとられ、うろたえてそれを見ていたに違いありません。なんというもったいないことをしたのか、あの香油は300デナリオンで売れるはずのものではないかと呟き、女をとがめる人もいました。300デナリオンというと、労働者のほぼ1年分の給料に相当しますから、今で言うと、200万円とか300万円になるでしょうか。極めて高価な香油だったということがわかります。それをこの女は主イエスに惜しげもなく注いで使い果たしてしまった。なんという無駄なことを、と思う人がいても不思議ではなかったのです。けれども、主イエスはこう言われました。「この人は私のためにできる限りのことをしたのだ。」そして、この女のしてくれたことは福音が宣べ伝えられる所ではきっと語り伝えられるであろう、と主イエスはその行為を賞賛されたのです。 この出来事は、主イエスが捉えられて十字架に掛けられるほんの直前におこった出来事でした。主イエスは御自分の十字架の死を前にして、この女の精一杯の愛の行為を喜んで受け入れてくだった。この出来事には隠された意味もあります。それは、香油を注ぐという行為が埋葬の準備であると同時に、メシアが王として即位するしるしでもあったということです。この女はその意味を知っていたのでしょうか。重要なことは、この女は主イエスの死という終わりの時を見つめていた、ということです。それゆえに、このような大胆な行動を取ることができたということです。終わりの時、終末の到来を見つめて、この女は主イエスのために途方もなく高価な香油を注ぎました。それは愛の浪費と言っても良いかも知れません。この女のしたことは、私たちの心を打ちます。私たちは人生の終わりに何を残すでしょうか。 終わりを見つめて、信仰者としてキリストのために精一杯のことをする。ナルドの香油の物語はそういう生き方を私たちに促しているように思われます。終わりを知って生きる、このナルドの香油の物語に結びつく言葉が、旧約聖書のコヘレトの言葉にあります。そのコヘレトの言葉12章1節に「青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ」という有名な言葉があります。前の口語訳では「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」でした。この御言葉の後にこういうことが書かれています。「苦しみの日々が来ないうちに。年を重ねることに喜びはない、という年齢にならないうちに。」驚くべきことですが、造り主を覚えよ、という命令は、私たちの人生の終わりを見つめるところから発せられている、ということです。コヘレトは終わりを見つめ続けます。やりきれない、すべてを空しくさせる人間の死を見つめます。 けれども、ここが決定的に大事なところです。このコヘレトの言葉は、人間が死ぬという非常にリアルな空しい現実をじっと見詰めていますが、けれども、そこから決して否定的な結論を出しません。人間は結局は死ぬのだから、どうせ何をしたって無駄だ、人生は無意味だ、という結論を決して出さないのです。むしろ、全くその逆を教えるのです。死という暗闇に向かっているからこそ、今という時が永遠でかけがえのない時であることに気づかされるではないか、と言っているのです。終わりが近づけば近づくほど、逆に、残された時間は永遠化するのです。 考えてみますと、時間というものは、限られているからこそ大切になるのです。残りの時間がわずかだからこそ、その残りの時間がかけがえのないものになるのです。もし、時間が無限にあれば、時間は大事ではなくなります。時間は限られているからこそ、大事なのです。人生もそうです。残りの時間がわずかだからこそ、その残りの時間が大切になる。私たちは病気で死を覚悟するとき、残りの時間がかけがえのないものとなります。そのわずかの時間を決して無駄にはしない。残りの時間が少なければ少ないほど、その時間は光を放つのです。 逆説的な論理です。人間は死に向かっているからこそ、逆に、今という、生きている時が何よりも大切になるのです。終わりがあるからこそ、私たちの人生には意味があるのだということです。コヘレトが語るとおり、青春の日々も空しいことがたくさんあります。けれども、死という終わりを見つめる時、今この生きている、生かされている一瞬の時が輝いてくるのです。そして、そのような掛け替えのない「時」を私たちのためにお造りになった創造主なる神様がおられる、という確かな事実に私たちははっと気づかされる。それだから、青春の日々にこそお前の創造主に心を留めよ、とコヘレトは書き記すのです。これはナルドの壷を惜しげもなく割って主イエスに香油を注いだ、あの女の行動と繋がっています。私たちは終わりに何を残すでしょうか。 黒沢明監督の古い映画に「生きる」という映画があります。ある役所に勤める男が定年前に、ふとしたきっかけで自分が末期癌に冒されていることを知るのです。彼はそれまでまったく無気力な役人でした。住民が公園を造ってほしいと持ってきた嘆願書も、面倒くさいと握りつぶしていました。けれども、自分の命が短いことを知って、この役人は夢中になって公園建設に奔走するのです。愛の浪費を自ら引き受けました。そして、ついに完成した公園のブランコに乗って、彼は満面の笑顔で歌を歌いました。これは聖書とはまったく無関係な映画のストーリーですけれども、これが、実は、聖書が私たちに強く勧める生き方です。これは私たちの福音理解に直結します。宗教改革者マルチン・ルターも同じことを言いました。それはこういう言葉です。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」。印象深い言葉です。明日、世の終わりが来るかも知れません。そうだとすれば、リンゴの木を植えることは全く無意味になってしまいます。けれども、ルターは「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」と言いました。たとえ明日が終わりでも、今日という日を決して無駄にはしない。決して悲観的にならない。決して投げ出さないのです。いや、むしろ積極的に、明日に向かって今日、リンゴの木を植えようと立ち上がることができる。それは、神様がこの私という人間をお造りになり、この私を罪から救うために独り子イエス・キリストを遣わし、十字架に引き渡されたからです。計り知れないほど大きな恵みをキリストから受けているのです。だから、私たちは終わりにあってもキリストのために「生きる」という責任を放棄しないのです。投げ出さないのです。これが私たちプロテスタント教会の生き方だといことです。 ナルドの香油の物語は私たちに問います。残りの時間が短い、その時私たちは何を考えるでしょうか。 私たちは人生の終わりに、何を残すでしょうか。このナルドの香油を注いだ女の生き方は私たちに一つのヒントを与えてくれます。私たちは高価なナルドの香油を持っていないかも知れません。けれども、残りの時間を自分のためではなく、キリストのために捧げるという生き方ができるのではないでしょうか。ささやかであっても愛の浪費に生きることができるのではないでしょうか。キリストに喜んでいただくために。キリストのために自分の最後の時間を捧げる生き方、自らの利益のためでなくて愛の浪費を選び取る生き方、そういう生き方ができるのではないでしょうか。 今年の春、私が教鞭を執っております東京神学大学で、75歳を越える後期高齢者の学生が卒業し、伝道者として教会に遣わされていきました。自分の残りの時間をキリストのために捧げたい。キリスト者として悔いのない生き方をしたい。ただその一心で神学を学び、伝道者になりました。75歳を越えていったい何ができるかといぶかる人もいるでしょう。けれども、どれほど有用かが大事ではないのです。キリストに香油を注いだ女がそうであったように、キリストに喜んでいただけるのです。自分の最後の時間を主に捧げる。そういう生き方を私たちもしたいと思います。 |
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主イエスは、ご自分のそばに置くために、12人の使徒をお立てくださいました。ここには彼らの名が挙げられております。 主は、シモンを「ペトロ」と名付けられました。マルコによる福音書でシモンと記されるのは、この後、ゲッセマネの祈りの折に、主イエスがシモンと呼びかける場面の一度だけです。ですから、福音書の語る名前としては「ペトロ」です。 マタイによる福音書16章13節以下に《イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた》と記されております。主イエスとは一体何者なのか、人々がいろいろと言っていることを挙げた上で、主は弟子たちに「あなたたちはどう思っているのか」と問われました。それに対して、シモンは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答え、そこで主は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言って「ペトロ」と名付けてくださり、更には「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言ってくださるのです。 この12人の弟子とは、「教会」です。世の人はいろいろ言っているけれども、「教会は主イエスをメシアと告白している」ということです。 そして、このことは「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(マタイ16:18)と記されているように、人の思いで言えることではなく、聖霊によって言い表されていることなのです。神の霊(聖霊)が臨んで、私どもは信仰を言い表すことができます。ですから、「救いは神のもの」と言われるのです。私どもが救いを実感するのは、神の力、聖霊の力によるのです。「父・子・聖霊」なる「三位一体の神」だからこその「救い」なのです。聖書全体によって私どもは「三位一体の神」を知るのですが、この御言葉によっても、救いは全く神のものであることが分かるのです。 「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言って「ペトロ」と名付けてくださり、更には「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と、主イエスは言われました。このことは、とても大事なことです。 ペトロは教会を代表して告白をいたしました。それゆえに、第一番目の使徒として名を挙げられているのです。 そして、弟子たち(教会)は「天の国の鍵を授けられて」おります。このことも大事なことです。私どもの教会も、主を信じる者として、今ここに神の霊が注がれております。私どもは、信仰告白することによって、神の国の鍵を与えられるのです。それは「天の国の一員とされている」ということです。主イエスをメシアと告白する者はだれでも、天の国に至るのです。 教会は、そこに神の御業が現され、救いの宣言がなされるために建っているのです。ただ単に、そこに人を増やすために建っているのではありません。 17節「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた」と続きます。「雷」の解釈にはいろいろありますが、一つには「大きな声でどやすような者」という解釈です。しかし、主イエスがその人の性格であだ名を付けたとは思えないのです。 18節「アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン」と続きます。アンデレ、フィリポはギリシャ名です。このことは、ユダヤ・アラム語社会だったガリラヤ地方にも、ギリシャ世界が広がっていたことを示しております。ギリシャ、それは当時、全世界を意味しておりました。ですから、このことは「誰であっても、主の弟子となった」ということを示しております。 また、名が記されていても、その人がどういう人なのか分からないことも大事です。私どもの教会においても、後々、その人がどういう人だったのか分からなくなる場合もあるのです。後世に名を知られる人もいれば、いずれは名を忘れられる人々もいる。しかし、忘れられた人々であっても「神の民の一員とされていることは揺るぎない」ことを確信して良いのです。名のある者も、名の忘れられた者も、共に同じ神の民の一員であることを覚えたいと思います。 「熱心党のシモン」とは、政治信条を持った人ということです。例えば、ペトロが政治信条を持っていたとは思えません。ですから、政治信条が違っていても、あるいは持っていてもいなくても、皆同じく主の弟子であることを示しております。 時代の流れの中で、歴史は繰り返します。しかし、神の救い、主の救いは決して変わることはありません。違いがあって、なお、一つとされているという出来事は、「主イエス・キリストの救い」のみです。 19節「それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである」。「イスカリオテ」の意味は、よく判りません。ここで私どもが注目すべきことは、「ユダが主イエスを裏切った」ということです。主の弟子の中には「裏切る者もある」という、恵みなのです。裏切る者であっても、なお、主の弟子としてくださるのです。裏切る者を許せないのではありません。許せない者でも、主はご自分の弟子としてくださるのです。なんという恵みでしょう。 主イエスに、私どもは常に従い得るかどうか、私どもにはとても難しいことです。時として、私どもも、裏切らざるを得ない者なのです。しかし、そのような者をも、主は弟子としてくださるのです。何という恵みでしょう。だからこそ、私どもは、主の弟子であり得るのです。主はどこまでも、私どもを弟子から外されることはありません。裏切ったユダも、弟子から外されていないことを知らなければなりません。ユダは主を裏切り、その末路は自ら命を絶つというみじめなものでした。けれども、だからといって、ユダが弟子から外されたとは記されておりません。 裏切りに過ぎない私どもです。けれども、私どもが一旦「主イエスをメシアと告白する」ならば、たとえ従いきれなかったとしても、主は私どもを弟子としてくださるのです。その主のあり方は揺るぎないのだということを覚えたいと思います。 人には動揺があります。ですから、揺るぎなく立つことなど出来ないのです。しかし「主イエス・キリストは揺るぎない」ゆえに、その主を信じるとの告白は恵み深いのです。 キリスト者であることの確かさは、ただただ神にのみあります。 |
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