聖書のみことば/2012.1
2012年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
地の塩、世の光として」 新年礼拝 2012年1月1日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第5章13〜16節

5章<13節>「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。<14節>あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。<15節>また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。<16節>そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

2012年1月1日新年礼拝に、神が私どもを集めてくださり、共々に礼拝できますことを感謝いたします。
 私どもの地上での日々は皆それぞれに違った歩みですけれども、このようにして集うところに神の導きと選びとがあることを覚え、新しい年、私どもの交わりが神の導きのもとに歩んでいくものでありたいと願います。思いも新たに、教会の歩みを確かなものとし、またこの世にあってのキリスト者の務めを覚えたいと思います。

13節「あなたがたは地の塩である」。「あなたがた」とは「弟子たち」であり、それは一般的には「教会」を示しております。ですから、5章は教会に対する説教とされているのです。

「あなたがたは地の塩である」と言われておりますが、教会が塩そのものであると言っているわけではありません。なぜならば、塩そのものが塩気を失うということはないからです。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」と言われるように、塩味とは他に代えられないものであって、教会は塩のように、他に代えられないこの世に対する役割があると言っているのです。教会だけが担っている役割を失ってしまえば、教会はこの世に埋没してしまいます。

教会に与えられた業とは何でしょうか。マタイによる福音書28章の終わりのところで、復活の主イエス・キリストは弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。「天の地の一切の権能」それは「神の権能」であり、その権能を、主は教会に託されました。すなわち「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」という「三位一体の神の名による救いの宣言」をなす業を託されているのです。

教会には様々な業があります。愛の業としての社会福祉施設やキリスト教主義の学校、ホスピスなど、教会から生み出された業はたくさんあり、社会において大きな働きをしています。しかし、そのことが教会の第一の使命なのではありません。それらのことは、教会を離れて独立した業としてやっていけるのです。
 このことがなくなれば教会ではなくなってしまう、それは「救いの宣言」です。「主イエス・キリストの十字架による神の救いの業を宣べ伝え、それを信じる人にバプテスマを与える」それが教会だけに与えられている権能なのです。

教会が頂いているのは「神の言葉」であり、それは「主イエス・キリスト」です。教会にしかないもの、それは神の言葉、キリストです。ですから、神の言葉を聴くこと、それが教会のあるべき姿なのです。
 改めて、教会が「地の塩」として、神の御言葉にこそ依り頼み、宣べ伝え、信じる者に救いの宣言をするべきことを覚えたいと思います。
 この世が私どもに求めているのは、神の御言葉、すなわち救い主イエス・キリストです。それゆえに、教会は語り、救いを宣言するのです。

14節「あなたがたは世の光である」と言われております。「光」とは何でしょうか。光とは、神の出来事です。ヨハネによる福音書では、光とはキリストを表しております。教会はこの世に対して光を灯す者ということです。すなわち、光なる神を宣べ伝えることです。救いとは、神が光として私どもに臨んでくださることです。ですから、教会は光なる神を証しし、救いを言い表すのです。教会は、この世の終わりの時まで、終末の時まで、神から救いの権能を与えられている者として「神の救いを宣言する」のです。それが教会の業です。

「神を神とする」こと、それが「人が人となる」ということであり、それが「救い」ということです。神を神として崇め、自らが低くなるところで、救われるのです。神を神として思わなければ、人は自分自身が神となってしまう。神を畏れ敬うことなく、人は、真実な人となれないことを覚えたいと思います。

神を畏れ敬う者として、真実な者として生きる者のあり方とは何でしょうか。それは「礼拝者として生きる」ということです。礼拝は、救いの出来事です。礼拝において、神は神として崇められ、人は人として低くなるからです。礼拝において、神が神として臨んでくださるが故に、私どもは真実に人となることができるのです。自分の力によって低くなるのではありません。神が臨んでくださって初めて、人は自分を相対化させ、弁えを知ることができるのです。

この世に対して、私どもは何をかかげるのでしょうか。神こそ救いであるという証しです。救いの灯火は、隠すべきではありません。この世に対して教会が言い表すべきことなのです。

16節「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われております。「輝かす」とは宣べ伝えることです。「立派な行い」とは、神をはっきりと現すこと、宣べ伝えることです。
 大切なことは、私どもが救いを宣べ伝えることによって、私どもは救い主イエス・キリストと一つとされるということであり、そのことをこの福音書は語っております。

救い主イエス・キリストを宣べ伝え、救いの宣言をなすこと、それが教会の業であり、それは具体的には「礼拝」として行われているのです。私どもが礼拝し、神の言葉であるキリストを宣べ伝える、それは、この世に対して、人々を信仰へと招いていることです。開かれた神の御業、それが礼拝です。礼拝によって、主を救い主と証しし救いの宣言をなす、それ故に、教会は地の塩、世の光なのです。

「あなたがたの天の父をあがめるようになる」、それは「神の栄光」ということです。礼拝を守ることは、神を神として崇め、人は人としてひざまずくことだからです。教会は、礼拝する群れです。そして付け加えるならば、キリスト者は礼拝者であると言えます。礼拝者として神の栄光を現すのです。ですから、一人の人のこととして言えば、キリスト者がキリスト者として礼拝する者であること、それが、その人がこの世に対して、地の塩世の光であるということです。キリスト者が礼拝者であることによって、その人は神の救いを現わすのです。

改めて、私どもは、神がこの世に臨んでいてくださることを覚えつつ、礼拝を守ることを中心とした歩みをなしていく群れでありたいと思います。
主の時が迫っている」 1月第2主日礼拝 2012年1月8日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章7〜11節

5章<7節>兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。<8節>あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。<9節>兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。<10節>兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。<11節>忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。

クリスマス、新年をはさんで休んでおりました、ヤコブの手紙から聴いていきたいと思います。7節については、12月の2週に語りましたので、今日は8節からになります。

「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです」と、ここで再び「忍耐しなさい」と勧められております。ここでの忍耐の根拠は何でしょうか。それは「主が来られる時が迫っている」ということです。つまり、十字架ののち復活して天に帰られた主イエス・キリストが再び来られる「再臨のキリスト」の近さゆえに、忍耐せよと言っているのです。

新約聖書は、終末的な緊張感を持って語られております。主イエス・キリストが天に帰られたことは、終末の始まりであり、終末の先取りとして神の救いの出来事を聴く、それが当時の教会の信仰の中心でした。ヨハネの黙示録は、22章に「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」と記されて終わります。「すべてを証しする方」、すなわちキリストが「すぐに来る」と言われて、キリスト者は「アーメン、主イエスよ、来てください」と応答しているのです。とりもなおさず、それは「主が来る」という「救いの宣言」がなされ、「主よ、来てください」と応答する「礼拝」という形であり、礼拝は繰り返しなされるのです。ですから、私どもの礼拝も、「主が来られる」という終末への緊張感を持ってなされているのだということを覚えたいと思います。

そして、終末の緊張感を持っていることの恵みを思います。私どもは、終わりの日の救いの約束を頂いているがゆえに、終末の近さは、その確かさをもって私どもの信仰を豊かにするのです。信仰が生き生きとするのです。また個々人の終末(死)である小終末も、キリストの再臨の時の救いの確かさを背景としていることです。例えば、病気によって余命の宣告を受けたとしても、その告知によって却って生きていることの緊張感が与えられ、生きていることの重さが増し、充実するのです。死なない人はおりません。ですから、必ず死ぬ者として、この地上を生きるのです。そこで、終わりの日の緊張感を持って生きるならば、それは人生の糧となり、充実した人生を送ることになるでしょう。

しかし、教会はその歴史の中で多くの変遷を経験しました。
 ヤコブの手紙の書かれた当時においては、再臨の日までの時間の短さを信じていたのです。もう明日にも主が来られる、だから日常性を土返しして礼拝に集中し、その過度な情熱によって、不平が起こったのです。つまり、終末が遅れているという不平であり、そこで緊張感は失われたのでした。

このことに対して教会はどう答えてきたでしょうか。教会は、二つの態度をもって受け止めました。

一つは、神の時間と人の時間の違いに立つ信仰です。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロの手紙二3章8節)と言われます。例えば、人は、肉体のどこかが痛ければその苦痛の間は長く感じますが、その出来事が過ぎ去ってしまえば短かったと思うのです。人にとって時間は相対的なものですから、人の時間の概念が全てなのではなく、時間の概念を、神こそ時の支配者であると知る、ということです。そうでなければ、一瞬一瞬の出来事、時に捕われて、生きなければなりません。神が時の支配者であると知れば、時の束縛から解き放たれる、時間に対して主体的になれる、それは大事な信仰なのです。

もう一つは、再臨が遅れていることを神学的に捕らえるという信仰です。そこに神の意図を思うということです。今日にも主が来られたら、用意ができていなくて間に合わない人がいる。それでは困るので、神は皆の準備ができるまで待っていてくださる、と考えるのです。全ての人の救いのために神が時を遅らせておられると考えることによって、まだ救われていない者の救いを望むという信仰が与えられる、これも大事な信仰です。

しかし、この箇所で語られていることの焦点は、終末の近さ、緊張感ということです。終末の緊張感によって、信仰が生き生きとされ、充実して生きるのです。それは終わりの日の救いの完成、救いの確かさゆえのことです。
 新しい年、私どもも、終末の緊張感をもって礼拝することを願います。明日、主が来られれば、救いが完成するのです。神にある救いの確かさゆえに、緊張感ゆえに、キリスト者は、この世での一時的な困難に耐え忍ぶことができると言われているのです。

そして9節に「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」と続きます。信仰生活は、自分の信念における生活ということではなく、「交わりにおける生活」です。私どもの信仰生活は、教会の信仰に同意した、信仰を同じくする者たちの交わりであり、共同の礼拝、祈りなのです。ですから、信仰生活と、礼拝・祈りの生活は、一つのことです。交わりなくして信仰生活はないのです。

しかし、交わりほど面倒なものはありません。交わりが深ければ深いほどに愚痴になるのです。共同生活の背景にあることは不平不満であり、それによって他者を非難し、告発する、つまり裁いてしまうのです。人の裁きは交わりを危うくします。共々に、終わりの日に神の裁きの前に立つ者として、裁きを神に委ねよ、とヤコブは勧めております。
 そして、裁き主である主イエス・キリストが来られて私どもを裁かれる時、裁かれると同時に「赦される」という恵みがあることを知らなければなりません。愚痴や不平不満でしかない私どものために、主が十字架にかかり、罪を贖い、赦してくださったのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

11節「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と、忍耐の必要性を語っております。この「忍耐」は、もともとのギリシャ語では「気が長い」という言葉が使われております。身を固くして頑張って耐えるということではなく「気長に待つ」ということであり、それは「寛容・寛大」につながる、そういうニュアンスなのです。事柄に捕われずに、その事柄に対して気長に対応するということです。つまり、捕われないことが忍耐することだと言っております。キリスト者の忍耐は、捕われない寛容さであることを示しております。しかし「気長に」とは、なかなか難しいことです。それは、自分を根拠にすれば難しいのです。ただ、神の救いの出来事を、神の寛容を覚えるならばできるのです。

様々な困難、課題に捕われてしまえば、人には耐えられません。それが私どもの現実であり、ついには自分自身にも耐えられなくなるということが起こるのです。今まで出来ていたことが出来なくなっていく高齢化ということや、自分の能力の無さを感じる劣等感などの現実を前に、自分自身に耐えられるということは、とても大事なことです。

今日の社会にあって、忍耐力を身に着けることは求められていることです。もちろん、一部の人には、強い精神力を養うという方法もあるかもしれません。しかし多くの場合、人は、自分の力によっては忍耐することはできません。「赦されている、受容されている」ということが無ければ、できないのです。神の赦しと救いの望みを確信しているから、現実を、自分自身を受容できるのです。自力で現実に耐えることはできません。神の恵みの出来事として現実に対応するならば、どのような現実に対しても寛容になれるのだということを覚えたいと思います。

ですから、自分の力で頑張る必要はありません。神の恵みを覚えられるならば、頑張る必要はないのです。忍耐とは信仰の出来事であることを覚えたいと思います。

10節「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」と言われております。当時は、キリスト者に対する迫害がありました。迫害される、それは報われないことなのでしょうか。そうではありません。「主の名によって語った預言者たち」と記されているように、彼らには「主の名」が与えられていると言われております。どんなに迫害され、働きが認められなくても「主が覚えていてくださり、主の名が与えられている」、それがキリスト者なのです。決して揺るがず失われることのない「救い主キリストの恵み」を頂いていることは幸いなことです。キリストに属しているという、所属がはっきりしているのです。自分が位置づけられている、それは幸いなのです。どのような出来事によっても、私どもキリスト者に与えられている「主の名」は決して失われることはありません。「キリストのもの、キリストに属する」という事実は決して取り去られることはないのであり、それは何にも勝る恵みであることを覚えたいと思います。

最後に、ヨブの信仰について語られております。ヨブ記から知るべきことは何でしょうか。それは「神は、苦しむ者を大いに顧みられる」ということです。どんな苦しみがあったとしても、そこに神の慈しみがある。苦しむ者を憐れんでくださる方、それが神なのであり、神が憐れみであること、それが主イエス・キリストの苦難と十字架の死の出来事であることを忘れてはなりません。

死の苦しみの淵にあっても、十字架と復活の主イエス・キリストの憐れみは、絶えず私どもと共にあってくださるのだということを感謝をもって覚えたいと思います。
然りは然り、否は否」 1月第3主日礼拝 2012年1月15日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章12〜18節

5章<12節>わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。<13節>あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。<14節>あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。<15節>信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。<16節>だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。<17節>エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。<18節>しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

12節「わたしの兄弟たち」と、ヤコブは親愛の情を込めて呼びかけております。7節、9節、10節も「兄弟たち」との呼びかけですが、ここでは「わたしの」と付けており、親愛の情を深めて言っているのです。それ程に、ヤコブは、よく聞いて欲しいという思いなのでしょう。

そして「何よりもまず、誓いを立ててはなりません」と言うのです。大事なこととして、キリスト者のあり方を示しております。ここでマタイによる福音書5章33節〜37節の主イエスの御言葉が思い起こされます。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。
 主イエスは「然りは然り、否は否とせよ」と弟子たちに命じられました。具体的に「エルサレムにかけて、頭にかけて誓ってはならない」と記されていますが、これは間接的に神を引き合いに出しているということです。エルサレムは神の神殿、人の頭は神の創造物だからです。ヤコブは具体的には言いませんが、主の御言葉とほぼ同じ言葉で「神の名を引き合いに出して誓ってはならない」と言っているのです。神の名を引き合いに出すことは、神の力を自分のために利用することになる、ゆえに退けれられるのです。人は、自分の正しさを証明するために、神の名を引き合いに出して誓います。なぜならば、人の言葉は信用できないからです。信用できないことの保証として神の名を用いるとは、キリスト者にとって、神を冒涜する悪しき業に他なりません。

人は有限な存在です。ですから完全では有り得ないのです。どうしても欠けがあるのです。限界があり完全ではないがゆえに「真実である」ことは出来ないのです。人が真実であろうとするとき、どうしてもそこに偽りが生まれてしまうのです。そこで大事なことは何か。それは「人は真実では有り得ないということを弁えるべきだ」ということです。人の真実というのは逆説的であって、真実であろうとすると、真実になれないのです。ですから「真実で有り得ないことを弁える」ことが大事なのです。
 神の名を道具として軽々しく用いてしまう、そこにあることは「神に対する畏敬の念が薄い」ということです。「神の名をみだりに唱えてはならない」と十戒に命じられておりますが、自分のために神の名を用いることは神を軽視していることですし、それはとりもなおさず、本当には神に信頼していないということなのです。
 私どもは、確かに「神の前に誓う」ということもあります。教会での結婚式は、神の前での誓いです。しかしそれは、自らを正しいとすることではありません。それは「神の憐れみによって、神の真実に与ることができる」ということです。
 何かに誓うというところに、神への信頼の薄い姿があることを知らなければなりません。そのことをヤコブは語っているのです。

「自らの不真実を知ること、弁えを知ること」、それがここに示されていることです。そして今、ここでもう一度、私どもは、3.11の出来事を捕らえ直す必要があります。原発事故という人災は何だったかということです。「原発は安全である」と言って真実を隠してきた、いや見ようとしなかったのです。エネルギー政策の破綻があったにも拘らず十分に知ろうとせず、人のパニックに対しては数値によっての安全宣言によって、真実から目を反らせているのです。
 ここで問われたことは何か。日本社会は、また私どもは「真実を本当に求め、見ようとしていたか」が問われたのです。確かに、国や企業に問題があり責任があるのです。しかし、そこに責任を課すだけで、私ども自身の不真実を覆い隠せる訳ではありません。私ども自身が、神の前に「自らの罪の出来事」として、どれだけ捕らえられるか、それが大事なことなのです。

真実に、神の救いの恵みがもたらされるために、改めて「罪の自覚」ということが示されております。

神の救いの恵みを確かにする中で、人は、自分の罪を知り、罪を告白する者となれます。救いの宣言は、罪の告白を伴うのです。ですから今、教会も、私どもも、罪の告白をなさねばなりません。私どもがどんなに罪深かったかを告白しなければならないのです。

完全ではない、だから真実を貫くことは人にはできません。ですから、どこかで偽りを感じていても押し通すしかない、そういう者であることを弁えねばなりません。それは、事の当事者を責めるだけでは意味のないことです。私ども「人」のあり方を深く思い直すべきなのです。
 今、だれかを非難することは簡単なことです。原発、そこには多くの研究があり、研究者たちは多くの時間を費やし、労し、誠実にやってきたという事実があります。しかし、いかに誠実にやってきたとしても、誠実だったから真実だったかというと、そうではなかったのです。誠実だから真実なのではありません。「真実を求め極めようとしたけれども極められなかった、だからこうするしかなかったのだ」ということを弁え知ることが大事だったのです。にも拘らず、弁えを忘れ、自らの行為に驕ったのです。

人は「謙遜な者であってこそ人」なのです。「低き者として人」なのです。「神を畏れる」ことによって「人」となるのです。自分自身では真実で有り得ないことを知らなければなりません。不真実に過ぎない者である、にも拘らず、神の憐れみによって立たされ、生かされていることを知らなければなりません。どんなに精一杯やったとしても、真実では有り得ない存在であることを弁えていること、それが大事なことなのです。
 神への畏敬なくして、人は低くなることはできません。神への畏敬を失っていることが問題なのです。科学技術が悪いのではないのです。そうではなくて、科学を誇ることが間違っているのです。それは人が自分のやってきたこと、行為を誇ることだからです。

ただ「自分の低さを知る」ところに救いがあります。罪深い自分自身の姿を知ることによって、初めて、自分自身を受け入れることができるのです。人は理想を追います。しかしそれを、自分の力でなすということではなく、なせたならばそれは「神が与えてくださった恵み」として覚えられるならば幸いなのです。

私どもは「ただ神のみ真実である」ということを知るべきです。そして、自らは無力であり真実で有り得ないことを知り、神を畏れかしこむことです。

そして知らなければなりません。この社会の抱えている「罪の問題を告白する」そのとき、人々は真実の慰めを受けるのです。罪が告白されるところ、そこにこそ、癒しがあり、慰めがあり、救いを見るのです。

神のみ真実であること、人は不真実でしか有り得ないことを弁え知ることができたならば、私どもは軽々しく神の名をとなえて、神の名を用いて誓うことはなくなるでしょう。

弁えを知ることの中でこそ、神の示される「然りを然り」と知り、「否を否」と知るのです。

私どもが神を畏れかしこみ、「然りを然り、否を否とする」ことによって、そこで、神が現されるのです。

私どもは、どれほどちっぽけな存在でしょう。全てのことを知り尽くすにはあまりにも小さいのです。有限であるがゆえに、永遠な者ではないのです。老いて死にゆく者であること、それが「人」です。
 そのように不完全な私どもを完全な者とするために、主イエス・キリストは十字架に死んでくださいました。主の十字架の死によって、私どもの罪は贖われ、私どもは「主のもの」とされているのです。

主の贖いの恵み、救いに与ってのキリスト者のあり方を弁えつつ生きることができるならば幸いです。
 「主のもの」として、背伸びすることも卑屈になることもなく、生きることができるのです。

祈りなさい」 1月第4主日礼拝 2012年1月22日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章13〜18節

5章<13節>あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。<14節>あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。<15節>信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。<16節>だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。<17節>エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。<18節>しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

ヤコブの手紙の最後の勧めの部分です。13節「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」と記されております。「人には苦しみがある」ということが前提にあるのです。喜びからではなく苦しみから勧めている、それは「人生とは苦しみの伴うものである」ことを示しているのです。その上で「祈りなさい」と勧められております。

「苦しみ」とは人にとって不幸なことなのでしょうか。必ずしもそうではないのです。今日、この世の多くの者が苦しみを受け止めなければならない時代になりました。また昨年の大震災以降、私どもは「苦しみ」ということを思わないではいられない日々を過ごしております。
 「苦しみ」とは何でしょうか。私は「苦しみは幸いである」と申し上げたいのです。苦しみにおいても「神にある祝福がある」ことを覚えたいと思います。

創世記3章を思い起こしてみましょう。神に従えなかったアダムとエバは、神から離れて隠れました。その2人に神は「どうして隠れるのか」と問うてくださるのです。罪を犯した者を裁くのではなく「なぜ」と問うてくださる、それは神の憐れみです。アダムは「あなたが与えてくださった女の言う通りにしたのだ」と神に責任転嫁します。しかし、呪われたのは女(エバ)ではなく蛇でした。エバには「産みの苦しみ」という苦しみが増しました。またアダムも呪われず、その代わりに「地」が呪われるのです。人の罪・驕りのゆえに大地が呪われる、このことに心痛まざるを得ません。人は呪われなかったのです。人には労働という苦しみが与えられ、苦しみつつ食物を得るようにされました。アダムもエバも苦しみが増しますが、しかしそれは呪いではないのです。苦しみは死に至らない。苦しみはやがて喜びに変えられるのです。大いなる産みの苦しみの先には、苦しみに勝る喜びが与えられます。労働の苦が大きければ大きいほど、収穫の喜びも大きいのです。ですから、苦しみは人に大きな喜びを与える源にもなるのです。苦しみも「神がくださる恵み」であることを覚えたいと思います。

罪ゆえに苦しみがあります。人であれば苦しまざるを得ないのです。人は、関わり(交わり)の中でこそ、人です。誰も一人で生きることはできません。しかし、交わりがあればあるほど苦しむのです。人が精神的に病むのは、人と人との交わりゆえのことです。他者に関われば関わるほど、苦しみを担うのです。人は、真実に正しい関係を保つことはできません。自分の思いがあり、相手の思いがあるところでは、様々な誤解や困難を抱えざるを得ないのです。
 創世記3章に示されていることは、人が神との正しい関係を壊し、関係が損なわれたことによる苦しみということです。人が人であるがゆえに、人には罪があり苦しみがあるのです。人は関わりの中で生きる者として苦しむのです。
 しかし、その苦しみは呪いなのではありません。「罪ゆえの呪い」とは何でしょうか。聖書の言う罪の結果は、死です。罪ゆえに交わりが破綻する、それは自己喪失であり孤独であり、それは死の世界なのです。
 けれども神は、罪ゆえに人を呪い滅ぼすのではなく「喜びに通じる苦しみを与えてくださる」のです。人は、苦しんでいるうちは破綻してはいないのです。むしろ、苦しみの増すところに「神による導き」があります。それは「神を呼ぶことへの導き」です。人には苦しみがあり、苦しみつつ、やがて喜びに至るまでに、その苦しみの果てで「神を呼ぶ」ということが起こるのです。
 サタンは甘美な言葉で人を誘惑します。これは苦しいことだとは言わず、良いことだと言ってさせようとするのです。苦しみは神から人を遠ざけませんが、誘惑は神から人を遠ざけるのです。

神は苦しみを与えることによって、人を神へと向かわせてくださいます。人は苦しみゆえに呻き、祈り、神を呼ぶのです。神へと導かれ、神へと至らせて頂くことによって、そこに「神を見、慰めを受ける」のです。
 苦しむ人は謙虚です。なぜならば、神にひざまずく者となるからです。苦しみゆえに神を呼び、人はそこでこそ最も神に近いのです。今日は交読詩編77番を読みました。助けを求めて神を呼ぶ、そこに苦しみがあり、神へと至る。苦しみの中で神から遠ざけられるのではなく、神が近くにいますという幸いの中にあるのです。
 キリスト者は、神を近き方として覚えられる恵みのうちにあります。苦しみの中で、主イエス・キリストと深く結びついていることを覚えなければなりません。「苦しみの頂点」それが「十字架」です。人の罪のゆえの苦しみを、十字架の死において、主イエス・キリストはご自分のものとしてくださいました。私どもの苦しむとき、既に主が私どもの苦しみを苦しんでいてくださるのです。主は苦しみを引き受けてくださることをもって、苦しみにおいて、私どもと結びついていてくださるのです。苦しみは、私どもを神へと至らせるだけではなく「神と結び合い、神のものとされる恵み」であることを覚えたいと思います。

「神と結び合う」ということを「祈り」として表します。フォーサイスは、祈りは神へと向かう姿勢であると言いました。思いが神へ向かう、その姿勢が祈りなのです。この礼拝も神に向かう祈りの形です。
 苦しみによって人は祈りを与えられ、祈る者とされます。苦しみゆえに祈る者とされるとは、何と幸いなことでしょう。祈りを、言葉をつなぐことだと思うことは間違いです。言葉に捕われてはいけません。神へ至る、神へと向かう姿勢が、祈りとして神に受け止められていることを覚えたいと思います。
 人は傲慢になるのです。しかしそこで、苦しみを与えられることによって低くなり、神へと向かい得る、それは幸いなことなのです。

祈りなさいとの勧めに続けて「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と勧められております。この喜びとは表面的な喜びではありません。苦しむことのゆえに与えられている喜びです。苦しみゆえに与えられた喜び、その恵みは、神への感謝となるのです。苦しみのない喜びは、讃美に至らないでしょう。苦しみが喜びに変えられることを覚えながら、この箇所を読みたいと思うのです。心からの深い喜びによって、神に感謝し讃美せざるを得ない、そういう喜びがあることを覚えておきたいと思います。
 苦しみは喜びへと至る、そのように考えますと、私どもは安易な喜びを求めすぎているのかもしれません。喜びの価値が薄くなっているのかもしれません。
 深い喜びは、苦しみがあってのことです。苦しみのある人生でありながら、喜びある豊かな人生を送ることができるのです。苦しみにあることは、喜びの深い人生とされることをしみじみと思います。そこには神の憐れみがあり慈しみがある、ゆえに感謝せざるを得ないという喜びに変えられることを覚えたいと思います。それは、神の恵みの出来事なのです。

さらに「賛美の歌をうたいなさい」と言われます。歌を歌えと言うのです。神への讃美は歌となるのです。
 神にある喜びを、多くの者が讃美として作りました。教会生活にとって、讃美の歌は切り離すことのできないことであると思います。コロサイの信徒への手紙3章 16節には「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と、讃美を「歌」によって表したことが示されております。初代教会は、神への讃美を歌った教会だったのです。
 神の恵みを感謝し神へと向かう。信仰生活の中心とは何かを改めて思います。信仰生活の中心、それは礼拝生活です。礼拝において、私どもは神を讃美するのです。讃美は、私どもが神を現す証しとなっていることを、改めて覚えたいと思います。

14節「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と記されております。私には忘れられない出来事があります。重篤な病にある信徒の方が、この聖書の箇所を示して、病院に行くことよりも前に、まず牧師に祈って欲しいと願われました。牧者として深く示された出来事でした。
 病に対し、医療の最善がなされるためには、祈りを必要とします。人の力を尽くす前に、神の導きと力を必要とするのです。手の業が祝されることを祈るのです。
 けれども、最善が尽くされたとしても叶わないこともある。そこでなお、祈りが必要です。神の御手に委ねることなく、私どもが現実を受け止めることはできません。人事を尽くして駄目であれば、そこに神の慰めを、神の癒しを必要とするのです。神の救いを祈らなければならないのです。

「教会の長老を招いて」と言われます。ここに、他者のために祈るべきことを示されております。殊に、長老の立場にある者は、他者のために祈るべきことを覚えたいと思います。

祈りなさい 2」 1月第5主日礼拝 2012年1月29日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章13〜20節

5章<13節>あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。<14節>あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。<15節>信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。<16節>だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。<17節>エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。<18節>しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。

15節「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」と記されております。
 しかし、信仰深い者の祈りが病を癒すということではありません。病ある人を起き上がらせてくださるのは誰でしょうか。「主がその人を起き上がらせてくださる」のです。病ある者のために、私どもは祈らずにはいられません。しかし、救いと癒しは主のなさること、神のなさることであることを覚えなければなりません。

信仰とは、祈りとは何かということを、私どもは確かめておかなければなりません。信仰とは「神がすべてとなる」ことです。信仰とは、自分の確信ではないことを忘れてはなりません。全くの神への信頼、すべてを神に委ねること、それが信仰です。
 病によって、私どもの心は萎えてしまいます。しかしそこで「主に委ねる」ことが大事なのです。祈りは、神に思いを押し付ける祈願ではありません。もちろん、病が癒されること、治癒を祈るのです。しかし、祈りとは「神との対話」であることを忘れてはなりません。私どもは思いを述べます。しかしそこで「神の御心を頂くこと」それが祈りです。神の御心を知り、神を畏れかしこむこと、それが祈りです。神が何を示しておられるのか、御心をかしこむこと、それは私どもが神に押し付けることではなく、私どもが神から受けるということです。「神に聴き従う」それが祈りなのです。
 ですから、信仰も祈りも、病の癒しのための手段ではないし、手段としてはなりません。しばしば、信じれば病は癒えると、信仰を間違って用いることがあるのです。信仰とは、神がすべてであり、神の栄光を現すこと、そこに神の恵みが満ち溢れることです。

病に立ち向かうという意志を持つことは大切なことです。病と闘う姿勢は大事なのです。闘う気力がなければ、誰もその人を支えることはできません。
 しかし、もっと大事なことは「病を受容すること」です。どうしても癒されないこともあることを覚えなければなりません。今の時代、事故死を除けば、すべての人の死因は病死でなければなりません。つまり年をとって自然死したということは許されない。何らかの病名によって死の宣告がされるのです。ですから、病ということをどう捕らえるか、大事なことです。

死に対する準備としての「死の受容」ということについて、最近の医療の現場では取り組みが進んでおりますが、それはなかなか一般化しているとは言えません。例えば、セレモニーホールでの葬儀は、死を受容するという形の葬儀でしょうか。葬儀におけるあれこれの面倒を、他人に迷惑をかけないようにとお金で済ませてしまう、それは本来の日本人の美意識にはなかった感覚です。
 死の受容がなしうるか、それは大事なことです。私どもキリスト者は、葬儀を教会でいたします。教会での葬儀は大変ですが、なぜそうするのでしょうか。それは、共同体全体で死を受け止めるということが大事だからです。葬儀を通し、共々に信仰に基づいて死を受け止め、死が、主イエス・キリストにあって「永遠の命の始まり」であることを知るのです。私どもはそこで、死を受容するばかりではなく、永遠の命へと目開かれるのです。
 ですから、死の受容を思うならば、病の受容、病をも受け入れることの大切さを思わずにはいられません。

単に、病に勝利することだけが大事なのではありません。病は人にとって誰もが経験しなければならないことですから、例えば持病のある人であれば、その人はその持病と付き合って生きていくのであり、それがその人の人生なのです。
 病を受容することは、自分を真実に生きるということです。もし受容できなければ、その人は苦しまなければなりません。障害があるということを考えてみてもそうです。障害を受け入れるならば、その人は自分らしく生きることができるのです。皆さん、よくご存知の星野富弘さんの生き方は、人々に感銘を与えております。事故によって障害を負った星野さんは、一人の信仰者として、その障害を受容したとき、記した言葉と絵によって人々に大きな感銘を与えました。自分の弱さを、病を、そういう人生を受け入れるとき、人は真実に生きることができます。
 ですから、病がないことが幸いなのではありません。人は必ず病むのです。病む、そこでこそ、病も自分の一部となるならば、その人は自分らしく生きるのです。病ある現実においても豊かに生きるのだということを、病あることの豊かさを知らなければなりません。

しかしここで、教会として考えておかなければならないことがあります。
 教会の中であっても、病を隠すということが多くなりました。病であることは嫌なことであり、人には知られたくない、と思う時代になったのです。牧師にすら、入院していることが知らされないこともあるのです。病ある辛さを話したくない、隠したいと思う人が多くなったことは、とても残念なことです。
 病を受容できない、自分を受容できないとすれば、人はそこで祈ることはできません。受容できない、そこにあることは、人の孤独です。人は、交わりがあってこそ互いに担い合う者として人、人間であるのに、孤独だということは人格性を失っているということです。
 病のゆえに人との交わりを絶つ、それは大変悲しい状況です。病ゆえに人を遠ざけてしまう、そこに慰めを見出せるでしょうか。本当は見捨てられてなどいないのに、自ら見捨てられたところに身を置いてしまう。そういう時だからこそ祈りが必要なのに、それは人を遠ざけているというだけではなく、神を遠ざけているということです。私どもは、神よりの慰めを頂くために祈る。なのに祈りを拒んでしまう。人との交わり、神との交わりを絶つということは、人としての存在を失っていることに他なりません。

病あるとき、人と会うことは辛いことかもしれません。しかし、交わりがあることによって、そこで「受け止められている」ことを知ることができるのです。ですから覚えたいと思います。病のときだからこそ人の支えが必要ですし、病のときだからこそ「神の憐れみ、慈しみが必要」なのです。神の憐れみと、人の支えを通して、病ある自分が受け入れられていることを知ることが大事です。そうでなければ、自分がどれほどに大切な存在であるか、貴い存在であるかを知ることはできなくなってしまうのです。

交わりに生きる、そこでこそ、人は輝くことができます。病があったとしても、そこで人は他者に感銘を与えることもできるのです。辛いからと言って、自分自身に逃げ込んではなりません。交わりに生きることが大事なのです。

病は、人を遠ざけ、神を遠ざけることの理由にはなりません。病を受容できないことの悲惨さを思わずにはいられません。病あることも、本来の生き方を切実に求める時となることを覚えたいと思います。

そして知らなければなりません。自らを受け入れられない者を、神はご存知でいてくださいます。神は知っていてくださるのです。そして、その者が自分を受容できないことを、神は裁いたりはなさらない。神はその人を受容してくださっているのです。
 病を担うことは、人にはできないことです。しかし主イエス・キリストは「私どもの病を担った」と言ってくださっております。イザヤ書53章にはこう記されております。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。このイザヤの預言は、十字架の主イエス・キリストによって成就されているのです。
 主イエス・キリストが人となってくださったということは、私どもの死を引き受けてくださっただけではなく、私どもの病をも引き受けてくださっっているということです。何と驚くべきことでしょうか。それは、主イエス・キリストが「病む私どもと同じ者になってくださっている」ということです。
 自分の病を呪うことは、自分自身を呪うことです。しかし、自分を呪うしかない者をも、主は担ってくださっているのです。主が人となってくださったことの恵みの大きさを思わずにはいられません。

様々な現実を負いきれない、そんな私どものすべてを、主が担ってくださっております。そして、主が担ってくださっていることを見出すならば幸いなのです。このようなわたしを、主がご自分のものとしてくださっている、ご自分と一つなる者となっていてくださる、それがイザヤ書に言われている「主のあり方」なのです。
 病む者にまでなってくださっている主イエス・キリスト。病あるその時も、主は私どもをご自分のものとしてくださっているのです。これほどに大きな恵みはありません。

自分自身を受け入れられないことの罪深さを思います。それは交わりを失い、存在を失っている孤独の中にあるということです。しかし主は、その者と共にあってくださり、担ってくださっていることを覚えたいと思います。

病の淵で、人を、神を遠ざけてしまう私どもを、主が担ってくださる、そこに本当の慰めがあり、そこに本当の救いがあることを覚えたいと思います。

自分自身を受け入れられないとき、思い出して欲しいのです。こんなわたしを主が受け入れてくださっていることを思い出せるならば幸いなのです。

受け入れることができない、そこでこそ、受け入れなければならないのです。しかし受け入れられないのです。ただそこに、私どものすべてを担ってくださっている主イエス・キリストを見出す他にないのです。

罪人にすぎない私どもをご自分のものとして受け入れ、担っていてくださる主を見出せるならば幸いです。その主に委ねる他ないことを覚えたいと思います。