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今日の箇所は、とても難解なところです。 18節「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と記されております。このように「あなた」「わたし」と特定されると分りにくいのではないでしょうか。口語訳では「しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい…」と訳されており、その方が分り易かったと思います。新共同訳ではギリシャ語に近くなるよう訳すために、このような表現になったのです。 ここで使徒ヤコブは、行いを伴う信仰についてはアブラハムやラハブという具体的な実例を挙げて語っております。そしてその他に、19節・20節「神が唯一だ」と信じたからといって、それが何か益になるのかと問うのです。「神が唯一だ」と信じることは確かに結構なことだけれども、そういう信仰では「役に立たない」と言っているのです。 ここで、この手紙が書かれた当時の状況を考えてみましょう。当時において「神」とは自明の存在であり、全ての人が神の存在を信じておりました。ですから、このヤコブの言葉は、全ての人が神の存在を信じている中で「神は唯一、神を信じる」と言ったからといって、何の役に立つか、何の意味もないではないか、というようなニュアンスなのです。もちろん、当時においても全くインパクトが無かったわけではありません。当時のギリシャ社会は多神教であったことを考えれば、「神は唯一、唯一の神」と言うことにも意味はあったのです。しかしそれでも「神は唯一」だけでは、それは一神教であるユダヤ教の神を示すのであって、キリスト教の「三位一体の神」を表してはいない。明確にキリスト教の三位一体の神を表わさないのであれば、「神は唯一」と言ったとしても、それは役に立たない、とヤコブは言いたいのです。 今の時代、皆が神を信じているわけではない、神の存在を認めない人もいる、そのような時代において「神は唯一」と言うことは一つのメッセージになるでしょう。神を信じない今の時代、しかし今の時代も神を求めてはいるのです。 このような悲惨な現実の中で、しかし私どもには「信じることに救いがある」のです。去る8月29日・30日に日本基督教団主催の緊急シンポジウムが開かれ、わたしは開会礼拝において説教をいたしました。そこで何を語ったか。震災後の被災地でボランティアとして働いた青年から聞いたこと。夜の避難所で、外から、海から「助けて」との声が聞こえ、その声は朝には聞こえなくなる。声が消えていく。みんな死んでいったことが分る。その助けを求める声が耳から離れず、眠ることも出来なくなる。助けを求めつつ亡くなってしまった人たちと結び付いて、ボランティアの青年たちも深く痛み傷つく……ゆえなく亡くなってしまった人たちの救いを語ることなくして、生き残った者たちの本当の慰め、救いはないことを思います。私どもは、亡くなってしまった人たちの救いを知らなければなりません。十字架の主イエス・キリストのみ、救いなのです。主は十字架で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれました。人に見捨てられること、いえそれ以上に神に捨てられたと思うことほど、悲惨な思い、絶望はありません。しかし、その絶望の淵に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた十字架の主イエス・キリストが立っておられる。ゆえなく波間に消えた人々と共に、今、十字架と復活の主イエス・キリストが立っていてくださるのです。この主を信じる以外に、亡くなった方々の救いはありません。 「神は唯一」という言葉に戻りましょう。今の時代、神を信じない、しかし神を心の奥底で求めている、そういう時代だからこそ、信じることこそ救いです。しかし「神は唯一」と言っても、内容がなければ意味はないのです。「十字架の主イエス・キリストこそ救い」であることを語らなければ、「神は唯一」と言っても意味がない、救いの確信に至れないではないか、そのことがここに言われていることです。 21節でヤコブはアブラハムの信仰について語っております。この「イサク奉献」の出来事は、創世記22章に記されております。しかし、23節の「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉は、創世記15章に記されているのです。つまり、ヤコブが言っているように「奉献」があって「義と認められた」ということではありません。アブラハムが「信じて、義と認められた」ことは、イサク奉献のずっと前にあるのです。 22節は、そのように義と認められたことがどこで完成したかというと、行いによるのだと言っているのですが、それはユダヤ教の伝統的な解釈であって、キリスト教はそうではないのです。 「完全に義とされる」ということは「神が義と宣言してくださること」です。 「愛」とは、受け止め、受け入れることなくしては無力なものなのです。受け入れる愛でなければ、愛は強要するものになってしまいます。人は、愛においても罪深い者であることを忘れてはなりません。 ですから「義とされる、義の宣言を与えられる」ことが大事です。 行いによるのではなく、「神が私どもを義とし、私どもの救いを宣言してくださる」だからこそ「救われる」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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今日は、10年前のアメリカ同時テロが起こった日に当たり、また今年3月に起こりました1000年に1回起こるかどうかという大震災から半年に当たる日なりました。これは現代を象徴するものであるように思います。どう生きるかを、何を大切にするかを問われています。21世紀は、目に見えないテロや放射能や、ウイルスなどとの戦いを強いられうことを暗示しているように思われます。 今年使徒言行録をテキストとして、み言葉に聞いていますが、間が開いていますので、前回とのつながりがつかみにくいかもしれません。前回は、「パウロの降参」ということで、当時サウロの時ですが、キリスト者(この途の者)を迫害することに情熱を注いでいましたが、その最中ダマスコ途上において、復活のキリストに出会い、『何ゆえわたしを迫害するのか』と聞き、彼はフォール(降参)して完全敗北しました。いわゆるサウロの回心の出来事を読みました。 ローマ帝国の大帝といわれ、313年にキリスト教公認のミラノ勅令を出したコンスタンティヌスは、死の直前に洗礼を受けたといわれています。彼は、洗礼を受けた後に罪を犯すのを恐れたからだといわれています。作家の椎名麟三は、講演の中で、「洗礼を受けたときに、これでのた打ち回って死ねる」と思ったと言っていました。キリストに捕らえられ、洗礼を受けたときどのように変わったかは、人によって違います。 北紀吉先生は、これまでに100人近い方に洗礼を授けたと言っておられましたが、私は学校で教務教師をしていた期間が長いので、30名ほどの方に洗礼を授けることが許されました。その中には感激した方、今も教会に連なり奉仕しておられる方がおられます。または残念なことですが、キリストを捨てた方もおられます。 30名の中にはさまざまの道を生きておられます。この中にも50年以上の方もおられるし、まだ2、3年という方もおられることでしょう。教団での統計では、約2年が寿命だといわれています。洗礼をお受けになっても、それが長く続かない場合が多いのです。残念ですが、教会を離れ、キリストを捨ててしまうことがありうるのです。 パウロは、ダマスコでの劇的な回心の後、迫害者から宣教者へとなり、パウロなくしてキリスト教なしとまで言われるようになりました。そこで、回心後のパウロがどうしたかを今日のテキストからみていきたいと思います。 ここは、ルカの筆になるのですが、パウロ自身が経緯を書いているのがガラテヤの信徒への手紙第1章15〜24節に記されています。ですから、それを合せて見るとなお、その経緯が見えてきます。 しかし、それだけではなく、パウロはルカの記述には出ていませんが、ガラテヤの手紙には書いていることがあります。それはパウロが、アラビアに行ったということです。それは、イエスご自身が荒野で40日40夜の断食をしておられるように、パウロは、アラビア(荒野)に退いているのです。教会では修養会をいたしますが、それは退くこと(リトリート)を意味します。神の導きによってパウロは回心へと向かわされたのですから、神の導きに従ったのです。 さらにパウロは、早くも迫害される者になったことを伝えています。もっともパウロ自身この道の者、キリスト者を迫害することに情熱を持っていたことは周知のことでありましたから、逆の立場になることは充分分かっていたことでしょう。それにしてもあっという間のことであります。実際にパウロがどれほどダマスコに滞在していたかということは分かりませんが、23節に「かなりの日数がたって」(ガラテヤの手紙は、その期間が3年とあります)とありますから直後ということではなかったかもしれません。いずれにしてもパウロは、迫害を受ける立場になったことは確かなことです。このことは、パウロにとっては想定内のことであったと考えられます。あのステファノのことが思い出されていたことでしょう。あの場面が、自分の身に降りかかってくることをどのようにパウロが受け止めていたかは、ここに記されていません。主キリストのために受ける苦しみや患難を喜んで受けたのではないでしょうか。それは、後にパウロがローマの信徒への手紙で、患難を喜ぶと言っていることから、そのことが伺えます。(ローマの信徒への手紙第5章3節) 現在、キリスト教への迫害ということは目に見える形ではありません。それが良いことであるのか、そうでないかは分かりませんが、かってはそれなりに迫害はありました。英和に遣わされてこられたカナダの婦人宣教師たちの館がありますが、そこに入ってみて、そのことを見ました。そこには迫害からの逃げ場が、数箇所あったのです。聞くところによると石を投げられたりしたので、そこに逃げ込んだということです。それは、彼らの言動が異質であり、理解を超えていたし、力があったからです。 パウロは、このダマスコでは、幸いに、監禁されたところから、かごに乗せられて脱出することができました。 |
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今日は、娼婦ラハブについて記された御言葉から聴きたいと思います。 25節、娼婦ラハブの行動が義とされたというのです。しかしここでは、どうしてラハブがそのようにしたか記されていません。どうしてそのようにしたか、それは、ヨシュア記全体から分るのです。 私どもキリスト者には、信仰者としての行動が伴います。「礼拝すること、祈ること、聖書を読むこと」は、私どもの信仰の行動です。行いは、日常生活の中で形をとるのです。信じるが故に祈り、礼拝する生活、教会生活ということが起こるのです。 ラハブは「行いによって、義とされた」と、ここには記されておりますが、ヨシュア記2章では、義とされたとは書かれていないのです。ヨシュア記には、神がイスラエルになさった出エジプトの出来事を知ったラハブが「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と記されております。誰もが神を畏れかしこむこと、そこに神の憐れみがあります。神は、ラハブが神を畏れて2人の斥候を助けたことを義とされたのです。 では、ラハブの信仰はイスラエルの模範となるのでしょうか。ここで異邦人であり娼婦であるラハブと、イスラエルの信仰の父アブラハムを同列にして語る意図は何でしょうか。 3章1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と記されております。「兄弟たちよ」と、親しく語っております。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」と、教師であることの、神の前での責任の重さの自覚を言っております。 教会の健全性について、ある人は「受洗者、そして献身者が与えられること」であると言っております。教会は、真実に神が立てたもう献身者・伝道者が与えられるように祈ることが大事です。 神に砕かれて、喜びに満たされること。自分中心ではなく、自分自身が砕かれた低いところで喜び悲しみ、神に対する畏れをもって行動すること、それが私どもキリスト者に求められていることです。 |
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1節に「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と記されております。その理由は「教師はほかの人たちより厳しい裁きを受ける」からだと言うのですが、それは何故かと言えば、2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」と結論づけるのです。 ここでは「度々過ちを犯す」と記されておりますが、この言葉から色々と感じさせられます。実は「多くの過ちを犯す」というのが直訳です。ここで「多くの過ち」を「度々過ちを犯す」と表現して、罪の重さを強調しているということではありません。「多くの」と言うよりも「度々」の方が、同じ過ちを繰り返して犯すというニュアンスがあり「救い難さ」を感じさせます。過ちを犯すことを重く受け止める解釈です。しかし、違う解釈をする人もいるのです。「多種多様な過ちを犯す」、同じ罪ではなく「いろいろな罪を犯す」と取るのです。こちらには、一つのことに気をつけてもどうせ他にもまた罪を犯すのだから仕方がないと、どこか諦める感覚があります。ですから「度々」と言った方が、罪を重く受け止める解釈でしょう。 しかし、ここで何よりも大事なことは「罪に対して弁えを持つ」ということです。「弁える」それは「自覚する」ということです。「自分は過ちを犯す者であるという自覚を持つ」こと、そのことの大切さが示されているのです。過ちを過ちとして知らないことは、人の心が驕り、心無き者となるということです。ですから、過ちに対して敏感なことは、人として、人の弁えとして大事なことです。「罪を自覚して生きる」ということが大事なのです。 では、どうやって罪を自覚するのでしょうか。なかなか自分で自覚することは難しいでしょう。「自覚」とは「自ら悟る」、つまり外からの力に依らないで、ということですから難しいのです。では、どう知るか。 外圧を強める、そのことの問題は「人を束縛する、人を責める、人を不自由にする」ことです。人を束縛することの問題性を、主イエスは「律法主義」として示されました。律法主義に傾けば傾くほど相手を支配することになる、そのことを覚えなければなりません。それが、法の弱点なのです。 私どもには「赦されている」ということがあるのです。だからこそ、私どもの内側から、心解かれて知る、自覚するのです。律法は外圧ですが、主の福音は「心に沁み入る恵みの出来事」です。「ああ、申し訳なかった。こんなに罪深かった」と思う、それが人を自覚へと促すのです。私どもの罪を引き受けてくださった主イエスに対する恩を感じて、「感謝します」と、しみじみと罪を自覚できるようになるのです。主の十字架の恵みに与ることによって、骨身に沁みて罪の自覚を為し得るのです。 今日のこの箇所を「罪の指摘」として読むならば、マルティン・ルターの言葉「ヤコブ書は藁の書」との言葉を思います。しかし、そうではありません。ここに記されていることの根底にあることは、「主イエス・キリストの十字架の福音の恵みがあって」ということです。まさに「罪赦されている者」として、この言葉を聴くということです。既に主の福音に与った者として、神に受け入れられ赦された者として、この言葉を聴く、それが前提なのです。 悔い改めて神に向かうとき、知ることは何か。それは罪の赦しを知ること、それは「感謝に生きる」ことに他なりません。それゆえに、ルターの言葉は真実です。悔い改めと感謝の生活、それは祈りの生活、謙遜な生き方、キリスト者の生き方なのです。 2節の「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とは、それは「完全な人になることは有り得ない」ということです。 改めて思います。過ちを過ちと知ることは、恵みなのです。そこでこそ赦されていることを知るからです。罪を罪として覚えられるなら幸いです。そこに神の恵みを知るゆえに、謙遜に、人として真実に生きることができるからです。 |
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