聖書のみことば/2011.9
2011年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神は唯一」 9月第1主日礼拝 2011年9月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章18〜26節
2章<18節>しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。<19節>あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。<20節>ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。<21節>神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。<22節>アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。<23節>「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。<24節>これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。<25節>同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。<26節>魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

今日の箇所は、とても難解なところです。

18節「しかし、『あなたには信仰があり、わたしには行いがある』と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と記されております。このように「あなた」「わたし」と特定されると分りにくいのではないでしょうか。口語訳では「しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい…」と訳されており、その方が分り易かったと思います。新共同訳ではギリシャ語に近くなるよう訳すために、このような表現になったのです。
 しかし「あなた」「わたし」と特定することも魅力的ではあります。「あなたの信仰はどうなのか」と問われるからです。主体的に聴かせる、自分のこととして捉えるという意味では、このような言い回しで聴くことも大事だと思います。

ここで使徒ヤコブは、行いを伴う信仰についてはアブラハムやラハブという具体的な実例を挙げて語っております。そしてその他に、19節・20節「神が唯一だ」と信じたからといって、それが何か益になるのかと問うのです。「神が唯一だ」と信じることは確かに結構なことだけれども、そういう信仰では「役に立たない」と言っているのです。
 では「役に立つ」とは何のことでしょうか。「役に立つ」とは「義と認められる、救いを与えられる」ということです。義と認められることが救いであり信仰なのですから、ここで「役に立たない」ということは、「神は唯一だ」と信じたからといって、それによって義と認められる(救われる)わけではない、とヤコブは言っているのです。
 ヤコブは「悪霊でも神は唯一だと信じておののいている」と語ります。悪霊は、神を信じなくても神を知っているのです。私どもは「信じて初めて神を知る」のですが、悪霊はそうではありません。悪霊は私ども以上に神の実存を知っている、神が全てのものの根源であられることを知っていますから、神の命令に従わざるを得ない、そういう存在なのです。

ここで、この手紙が書かれた当時の状況を考えてみましょう。当時において「神」とは自明の存在であり、全ての人が神の存在を信じておりました。ですから、このヤコブの言葉は、全ての人が神の存在を信じている中で「神は唯一、神を信じる」と言ったからといって、何の役に立つか、何の意味もないではないか、というようなニュアンスなのです。もちろん、当時においても全くインパクトが無かったわけではありません。当時のギリシャ社会は多神教であったことを考えれば、「神は唯一、唯一の神」と言うことにも意味はあったのです。しかしそれでも「神は唯一」だけでは、それは一神教であるユダヤ教の神を示すのであって、キリスト教の「三位一体の神」を表してはいない。明確にキリスト教の三位一体の神を表わさないのであれば、「神は唯一」と言ったとしても、それは役に立たない、とヤコブは言いたいのです。

今の時代、皆が神を信じているわけではない、神の存在を認めない人もいる、そのような時代において「神は唯一」と言うことは一つのメッセージになるでしょう。神を信じない今の時代、しかし今の時代も神を求めてはいるのです。
 少し話が横道に逸れますが、3月11日の大震災以降、メディアにおいて「神は不在、神は殺人者、神は死んだ」などと、神を否定的に呼ぶ言葉を目にするようになりました。そのことで、少なからず動揺した方もおられるのではないでしょうか。しかし私どもは動揺する必要は無いのです。なぜならば、こう叫ばざるを得ないほどに人々が「神を必要としている」からです。呻くほどに神を呼んでいるのです。意識としては分らなくても、心の奥底で感じている、求める心があるのです。

このような悲惨な現実の中で、しかし私どもには「信じることに救いがある」のです。去る8月29日・30日に日本基督教団主催の緊急シンポジウムが開かれ、わたしは開会礼拝において説教をいたしました。そこで何を語ったか。震災後の被災地でボランティアとして働いた青年から聞いたこと。夜の避難所で、外から、海から「助けて」との声が聞こえ、その声は朝には聞こえなくなる。声が消えていく。みんな死んでいったことが分る。その助けを求める声が耳から離れず、眠ることも出来なくなる。助けを求めつつ亡くなってしまった人たちと結び付いて、ボランティアの青年たちも深く痛み傷つく……ゆえなく亡くなってしまった人たちの救いを語ることなくして、生き残った者たちの本当の慰め、救いはないことを思います。私どもは、亡くなってしまった人たちの救いを知らなければなりません。十字架の主イエス・キリストのみ、救いなのです。主は十字架で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになるのですか」と叫ばれました。人に見捨てられること、いえそれ以上に神に捨てられたと思うことほど、悲惨な思い、絶望はありません。しかし、その絶望の淵に「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた十字架の主イエス・キリストが立っておられる。ゆえなく波間に消えた人々と共に、今、十字架と復活の主イエス・キリストが立っていてくださるのです。この主を信じる以外に、亡くなった方々の救いはありません。
 そして、助けたくても助けられなかった、見捨てるほかなかったことに痛み、苦しみつつ生き残った者たちも、主こそ救いであることを信じられるときに、真実に慰められ、生きることができるのです。このことを語りました。

「神は唯一」という言葉に戻りましょう。今の時代、神を信じない、しかし神を心の奥底で求めている、そういう時代だからこそ、信じることこそ救いです。しかし「神は唯一」と言っても、内容がなければ意味はないのです。「十字架の主イエス・キリストこそ救い」であることを語らなければ、「神は唯一」と言っても意味がない、救いの確信に至れないではないか、そのことがここに言われていることです。

21節でヤコブはアブラハムの信仰について語っております。この「イサク奉献」の出来事は、創世記22章に記されております。しかし、23節の「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という言葉は、創世記15章に記されているのです。つまり、ヤコブが言っているように「奉献」があって「義と認められた」ということではありません。アブラハムが「信じて、義と認められた」ことは、イサク奉献のずっと前にあるのです。
 この創世記15章は、「義」を考える上でとても大事なところです。子の無かったアブラハムとサラに、子が与えられると告げられたのはアブラハム99歳、サラ90歳の時でした。人の思いでは、有り得ないことです。しかし、神はアブラハムに満点の星空をお見せになりました。その神の創造の御業を見て、アブラハムは圧倒され、神を信じたのです。
 「神に全面降伏する、神に白旗をあげる」、それが「義とされる」ということ、それが「信仰」です。神は全面降伏した者を、義と認めてくださるのです。神の御業、人には関わることの出来ない圧倒する神の御業に対して白旗をあげる、降伏する、それが信仰ということです。

22節は、そのように義と認められたことがどこで完成したかというと、行いによるのだと言っているのですが、それはユダヤ教の伝統的な解釈であって、キリスト教はそうではないのです。
 信仰に基づいて行為することによって義とされる、と言っております。けれどもアブラハムのしたことは、「イサクを奉げよ」と言われた神の言葉に従ってのことでした。ですから、行いと言ってもそれは「神の言葉に従っての行為である」ということが大事なのです。神の命令に従ったがゆえに、神はアブラハムの行いを良しとしてくださって、神自らイサクに替わる供え物を備えてくださったのです。
 「行い」と言っても、それが神の言葉、神の命令、神に押し出されての「行い」でなければなりません。そういう「行い」であれば、神を表すのです。しかし、自分の思い込みで行動することは、自分のための行いであって、それは信仰を、神を表さないのだということを忘れてはなりません。自分を追求する行い、自己実現のための行為は、救いの役には立たないのです。何故ならば、そこでは神が良しとしてくださることを必要としなくなるからです。

「完全に義とされる」ということは「神が義と宣言してくださること」です。
 キリスト教は誤解されるのですが、「神が愛してくださる、神に愛されている」ということで、救いがなるわけではありません。どんなに愛されているとしても、その愛を受け入れなければ意味はないのです。「神が愛してくださる」それを「ありがとうございます」と受け取り、受け入れられたとき、初めて、神から「義とする」との宣言を与えられ、そして救われるのです。ですから、愛されていることが救いなのではないのです。「信じる」ことなく救いに与ることはできません。神の愛に「感謝します。信じます」と告白するとき、義とされ救われるのです。

「愛」とは、受け止め、受け入れることなくしては無力なものなのです。受け入れる愛でなければ、愛は強要するものになってしまいます。人は、愛においても罪深い者であることを忘れてはなりません。

ですから「義とされる、義の宣言を与えられる」ことが大事です。
 そして教会は、義を宣言する権能を、神から与えられております。教会は、全ての人が神に愛されていることを宣べ伝え、信じますと告白する者に「義とする」との「神の救いを宣言する権能・使命」が与えられているのです。

行いによるのではなく、「神が私どもを義とし、私どもの救いを宣言してくださる」だからこそ「救われる」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

証人パウロ」 9月第2主日礼拝 2011年9月11日 
小島章弘 牧師 
聖書/使徒言行録 第9章19b〜25節
9章<19節b>サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、<20節>すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。<21節>これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」<22節>しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。<23節>かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、<24節>この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。<25節>そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。

今日は、10年前のアメリカ同時テロが起こった日に当たり、また今年3月に起こりました1000年に1回起こるかどうかという大震災から半年に当たる日なりました。これは現代を象徴するものであるように思います。どう生きるかを、何を大切にするかを問われています。21世紀は、目に見えないテロや放射能や、ウイルスなどとの戦いを強いられうことを暗示しているように思われます。

今年使徒言行録をテキストとして、み言葉に聞いていますが、間が開いていますので、前回とのつながりがつかみにくいかもしれません。前回は、「パウロの降参」ということで、当時サウロの時ですが、キリスト者(この途の者)を迫害することに情熱を注いでいましたが、その最中ダマスコ途上において、復活のキリストに出会い、『何ゆえわたしを迫害するのか』と聞き、彼はフォール(降参)して完全敗北しました。いわゆるサウロの回心の出来事を読みました。
 パウロは、そこで自分が死んだという経験をしました。パウロが後に、もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしのうちに生きていると言わしめる劇的なことがパウロに起こったのです。サウロからパウロに、それは迫害者からキリストの証人へというまさに180度の転向でした。今まで、我が物顔で生きてきたパウロは、キリストの証人へと変身したのです。いや、そのように変えられたといったほうがいいかもしれません。
 人間は変わる、あるいは変えられるということがありうるのです。本質的には、罪人でありながら、義とされたものであり、贖われたものでも、罪人であるということには変わりありません。しかし、生き方は変わりうるのです。今まで、エゴイスティックに生きていたものが、キリスト中心に生きるということが起こりえるのです。パウロに起こったのは、そのことでありました。

ローマ帝国の大帝といわれ、313年にキリスト教公認のミラノ勅令を出したコンスタンティヌスは、死の直前に洗礼を受けたといわれています。彼は、洗礼を受けた後に罪を犯すのを恐れたからだといわれています。作家の椎名麟三は、講演の中で、「洗礼を受けたときに、これでのた打ち回って死ねる」と思ったと言っていました。キリストに捕らえられ、洗礼を受けたときどのように変わったかは、人によって違います。

北紀吉先生は、これまでに100人近い方に洗礼を授けたと言っておられましたが、私は学校で教務教師をしていた期間が長いので、30名ほどの方に洗礼を授けることが許されました。その中には感激した方、今も教会に連なり奉仕しておられる方がおられます。または残念なことですが、キリストを捨てた方もおられます。 30名の中にはさまざまの道を生きておられます。この中にも50年以上の方もおられるし、まだ2、3年という方もおられることでしょう。教団での統計では、約2年が寿命だといわれています。洗礼をお受けになっても、それが長く続かない場合が多いのです。残念ですが、教会を離れ、キリストを捨ててしまうことがありうるのです。

パウロは、ダマスコでの劇的な回心の後、迫害者から宣教者へとなり、パウロなくしてキリスト教なしとまで言われるようになりました。そこで、回心後のパウロがどうしたかを今日のテキストからみていきたいと思います。

ここは、ルカの筆になるのですが、パウロ自身が経緯を書いているのがガラテヤの信徒への手紙第1章15〜24節に記されています。ですから、それを合せて見るとなお、その経緯が見えてきます。
 パウロは、回心の後、直ちにダマスコで語り始めています。自分の過去を知っている人たちがいるところで伝道するということは、厳しいものがあったと思いますが、あえてパウロはそこで証するのです。見ず知らずの人のいるところで証するという楽な道を選ばなかったのです。イエスはメシアであると伝えるのです。
 どんな時代でもメシアを必要としています。救われたい、神を必要としている人たちがいるのです。飢え渇き、本当の癒しを求めている人は、自分を含めて、すぐそばにいるかもしれません。この時代ほど、悲惨で救いようのない時ですから、本当の救いを求めているのです。パウロは、回心後直ちに伝道を始めています。そうせざるを得ない状況であることを感じていたのでしょう。

しかし、それだけではなく、パウロはルカの記述には出ていませんが、ガラテヤの手紙には書いていることがあります。それはパウロが、アラビアに行ったということです。それは、イエスご自身が荒野で40日40夜の断食をしておられるように、パウロは、アラビア(荒野)に退いているのです。教会では修養会をいたしますが、それは退くこと(リトリート)を意味します。神の導きによってパウロは回心へと向かわされたのですから、神の導きに従ったのです。
 それはヘブライ人への手紙第12章2節にあるように、「信仰の導き手であり、完成者であるキリストを見つつ歩こうではないか」ということです。わたしたちが、こうして日曜日毎に教会に帰ってくるのと同じだといえましょう。わたしたちは、偶像にまみれて1週間生きていますので、教会で礼拝を守ることによって偶像礼拝から解放され、真実の神に帰っていくことが望まれるわけです。そして同じヘブライ人への手紙第13章8節に「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることがない方です」とありますように、決してぶれることなく、揺るぐことのない方に従って生きることをはっきりとさせることから、パウロはアラビアに退いたのです。

さらにパウロは、早くも迫害される者になったことを伝えています。もっともパウロ自身この道の者、キリスト者を迫害することに情熱を持っていたことは周知のことでありましたから、逆の立場になることは充分分かっていたことでしょう。それにしてもあっという間のことであります。実際にパウロがどれほどダマスコに滞在していたかということは分かりませんが、23節に「かなりの日数がたって」(ガラテヤの手紙は、その期間が3年とあります)とありますから直後ということではなかったかもしれません。いずれにしてもパウロは、迫害を受ける立場になったことは確かなことです。このことは、パウロにとっては想定内のことであったと考えられます。あのステファノのことが思い出されていたことでしょう。あの場面が、自分の身に降りかかってくることをどのようにパウロが受け止めていたかは、ここに記されていません。主キリストのために受ける苦しみや患難を喜んで受けたのではないでしょうか。それは、後にパウロがローマの信徒への手紙で、患難を喜ぶと言っていることから、そのことが伺えます。(ローマの信徒への手紙第5章3節)

現在、キリスト教への迫害ということは目に見える形ではありません。それが良いことであるのか、そうでないかは分かりませんが、かってはそれなりに迫害はありました。英和に遣わされてこられたカナダの婦人宣教師たちの館がありますが、そこに入ってみて、そのことを見ました。そこには迫害からの逃げ場が、数箇所あったのです。聞くところによると石を投げられたりしたので、そこに逃げ込んだということです。それは、彼らの言動が異質であり、理解を超えていたし、力があったからです。
 今、迫害がないのは、福音に無関心であるのかもしれません。あるいは、わたしたちが、福音を語る力を失っているからかもしれません。迫害が、バロメーターになるかどうかは分かりませんが、この時代に、時が良くても悪くても福音を語ることの大切さを示されます。
 パウロは、喜んで福音を語ったのでしょう。ですから迫害されることに甘んじていたし、それを喜び、楽しんでいたのかもしれません。(コリントの信徒への手紙二第11章23〜28節=パウロの受けた迫害のリスト)

パウロは、このダマスコでは、幸いに、監禁されたところから、かごに乗せられて脱出することができました。

ラハブが義とされる」 9月第3主日礼拝 2011年9月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章25節〜第3章5節
2章<25節>同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。<26節>魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。3章<1節>わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。<2節>わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。<3節>馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。<4節>また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。<5節>同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。

今日は、娼婦ラハブについて記された御言葉から聴きたいと思います。

25節、娼婦ラハブの行動が義とされたというのです。しかしここでは、どうしてラハブがそのようにしたか記されていません。どうしてそのようにしたか、それは、ヨシュア記全体から分るのです。
 ヨシュア記2章によると、ヨシュアがエリコ攻略のために2人の斥候を送ったことが記されております。2人の斥候は密告のためにエリコの王に追われますが、その2人を城壁近くに住む娼婦ラハブがかくまうのです。ラハブは追っ手に「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした」と言い、日没後、城壁から斥候を逃すということをしました。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています」(ヨシュア記2:9)とラハブは言います。神がエリコをイスラエルに渡される、だからイスラエルの神を恐れ、斥候を逃がしたのです。それは、神を信ずる者としての信仰に基づいた行為でした。
 ここで示されることは「信ずること、思うことは、行動の源泉になる」ということです。行動の源泉になるものが信仰によるか、そうでないか。信仰は「神の前にへりくだること」です。ですから信仰による行動は、謙遜をもっての行動になるのです。信仰によるのでなければ、自らの欲望や思いが全面に出て傲慢になります。信仰に基づくならば、人の思いは本来の謙遜なる行動となるのです。

私どもキリスト者には、信仰者としての行動が伴います。「礼拝すること、祈ること、聖書を読むこと」は、私どもの信仰の行動です。行いは、日常生活の中で形をとるのです。信じるが故に祈り、礼拝する生活、教会生活ということが起こるのです。

ラハブは「行いによって、義とされた」と、ここには記されておりますが、ヨシュア記2章では、義とされたとは書かれていないのです。ヨシュア記には、神がイスラエルになさった出エジプトの出来事を知ったラハブが「それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と記されております。誰もが神を畏れかしこむこと、そこに神の憐れみがあります。神は、ラハブが神を畏れて2人の斥候を助けたことを義とされたのです。

では、ラハブの信仰はイスラエルの模範となるのでしょうか。ここで異邦人であり娼婦であるラハブと、イスラエルの信仰の父アブラハムを同列にして語る意図は何でしょうか。
 ここでは「異邦人であっても義とされる」ことを示しているのです。異邦人のラハブは、ユダヤ人たちからも「神を畏れる者」として賞賛されておりました。
 神を信じていると言いながら、祈らない、礼拝を守らないなどの「行動の伴わない信仰」は死んだも同様だということです。
 もし礼拝に参加できなくなっても、何もできなくなっても、私どもキリスト者は「祈り」によって、神に心を向かわせることができるのです。けれども更に「祈ることもできなくなる」ということもあるかもしれません。しかし、それまでの信仰生活を日常できちんとしているならば、家族にも教会員にも覚えられ、祈られるのです。それは一切を神に委ねることです。

3章1節「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と記されております。「兄弟たちよ」と、親しく語っております。「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」と、教師であることの、神の前での責任の重さの自覚を言っております。
 全ての教師が群れを導くとは限りません。神に全く依り頼み、神の御旨をなすことです。教師がいないことが教会を弱らせることなのではありません。教会が混乱するのは、無用の羊飼い、愚かな羊飼いのゆえに混乱するということがあるのです。ですから、教師は、神に用いられることの謙遜とわきまえを持ち、砕かれることが必要です。

教会の健全性について、ある人は「受洗者、そして献身者が与えられること」であると言っております。教会は、真実に神が立てたもう献身者・伝道者が与えられるように祈ることが大事です。

神に砕かれて、喜びに満たされること。自分中心ではなく、自分自身が砕かれた低いところで喜び悲しみ、神に対する畏れをもって行動すること、それが私どもキリスト者に求められていることです。

大言壮語する口」 9月第4主日礼拝 2011年9月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第3章1節〜12節
3章<1節>わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。<2節>わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。<3節>馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。<4節>また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。<5節>同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。<6節>舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。<7節>あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。<8節>しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。<9節>わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。<10節>同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。<11節>泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。<12節>わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

1節に「あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」と記されております。その理由は「教師はほかの人たちより厳しい裁きを受ける」からだと言うのですが、それは何故かと言えば、2節「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」と結論づけるのです。

ここでは「度々過ちを犯す」と記されておりますが、この言葉から色々と感じさせられます。実は「多くの過ちを犯す」というのが直訳です。ここで「多くの過ち」を「度々過ちを犯す」と表現して、罪の重さを強調しているということではありません。「多くの」と言うよりも「度々」の方が、同じ過ちを繰り返して犯すというニュアンスがあり「救い難さ」を感じさせます。過ちを犯すことを重く受け止める解釈です。しかし、違う解釈をする人もいるのです。「多種多様な過ちを犯す」、同じ罪ではなく「いろいろな罪を犯す」と取るのです。こちらには、一つのことに気をつけてもどうせ他にもまた罪を犯すのだから仕方がないと、どこか諦める感覚があります。ですから「度々」と言った方が、罪を重く受け止める解釈でしょう。
 「度々」と言って「同じ過ちを繰り返すどうしようもない奴」と思うか、「多くの」と言って「人はそういう仕方ない者だと諦め悟る」か……しかし、どちらの解釈を取るかが問題なのではありません。どちらにしても共通していることは「過ち」に対して、ある判断をする、分別を持つ、弁えを持つということです。それは重要なことです。あるいは、ここでは「多くの、いろいろな罪を犯す」という方が相応しいかも知れません。言葉で教える「教師」に対する裁きの重さを言って、2節に「言葉で過ちを犯さないなら完全な人」と言うのですから「人は言葉でいろいろな過ちを犯す」と取った方が流れが良いようにも思うのです。

しかし、ここで何よりも大事なことは「罪に対して弁えを持つ」ということです。「弁える」それは「自覚する」ということです。「自分は過ちを犯す者であるという自覚を持つ」こと、そのことの大切さが示されているのです。過ちを過ちとして知らないことは、人の心が驕り、心無き者となるということです。ですから、過ちに対して敏感なことは、人として、人の弁えとして大事なことです。「罪を自覚して生きる」ということが大事なのです。
 8節に「舌を制御できる人は一人もいません」とあります。誰もが心当たりのあることではないでしょうか。ですから、「舌を制する」という弁えを持って生きることが大事なのです。「罪を自覚する」ということは、人が「謙虚に生きる者となる」ということです。自らの罪を自覚するところでこそ、人は人として謙虚になり、他者をおもんばかって生きることができるのです。それこそが人としての「誠実な生き方」です。

では、どうやって罪を自覚するのでしょうか。なかなか自分で自覚することは難しいでしょう。「自覚」とは「自ら悟る」、つまり外からの力に依らないで、ということですから難しいのです。では、どう知るか。
 一つ挙げるならば、聖書によれば「律法、戒め」、つまり「法」によって罪を定め、罪を示すということです。しかしどうでしょうか。人は、過ちを知ることによって自覚に至るかというと、なかなか難しいのです。法は罪を指摘します。しかし指摘は自覚を促すでしょうか。人は指摘されても、なかなか素直に「そうですか」とは言えず、却って反発するのです。ここに律法の問題があります。人は律法を嫌います。それは何故かと言うと「指摘する」からです。指摘は「外からの力、外圧」だからです。外圧によって人は変わるでしょうか。変わらないのです。律法は一面においては外圧となり、相手をやり込め、屈服させることになり、自覚へと促すことにならないのです。指摘されたことが自覚へと至らない限り、人は頑にさえなってしまいます。自覚して自らが低くなること無くして、人と人との思いは遠くなってしまう、そういう経験を誰もが持っているのではないでしょうか。たとえ頭では罪を理解したとしても、心の内から身に沁みて過ちを思い罪を自覚できないならば、改まることはないのです。それ程に、自覚することは難しいことです。

外圧を強める、そのことの問題は「人を束縛する、人を責める、人を不自由にする」ことです。人を束縛することの問題性を、主イエスは「律法主義」として示されました。律法主義に傾けば傾くほど相手を支配することになる、そのことを覚えなければなりません。それが、法の弱点なのです。
 そのような律法主義から人を解き放つ、それが主イエス・キリストのあり方です。主の福音は、外からの圧力によって罪を指摘することではありません。主の福音は、心の、内側からの自覚へと、私どもを導いてくれるものです。何故ならば、主イエス・キリストは、私どもの罪を指摘しその罪を私どもに負わせるのではなく、私どもの罪を主自らが負ってくださり、私どもの代わりに十字架で罪の裁きを受けてくださったからです。主は私どもの罪を引き受けてくださいました。罪ある私どもをお引き受けくださった、それだけではなく、十字架に死んで私どもの身代わりになって罪の裁きを受けてくださったのです。
 罪を指摘することは罪を負わせることです。しかし主イエス・キリストの福音は「罪を引き受け、赦す」ことです。これは大きな違いであることを知らなければなりません。

私どもには「赦されている」ということがあるのです。だからこそ、私どもの内側から、心解かれて知る、自覚するのです。律法は外圧ですが、主の福音は「心に沁み入る恵みの出来事」です。「ああ、申し訳なかった。こんなに罪深かった」と思う、それが人を自覚へと促すのです。私どもの罪を引き受けてくださった主イエスに対する恩を感じて、「感謝します」と、しみじみと罪を自覚できるようになるのです。主の十字架の恵みに与ることによって、骨身に沁みて罪の自覚を為し得るのです。
 ですから、それは開き直りや卑屈ではなく、自分のありのままを見出して生きることが許されるということです。「ありのまま」それは「赦された罪人としての謙虚さを持った、ありのまま」です。開き直って卑屈に生きることは、本当の自分でない者になることであり、それは苦しみなのです。
 「罪深さを自覚する」こと、それは主の十字架の出来事により、神の恵みによって初めて可能になることです。そこでこそ、自分の身の丈で生きることができるようになるのです。

今日のこの箇所を「罪の指摘」として読むならば、マルティン・ルターの言葉「ヤコブ書は藁の書」との言葉を思います。しかし、そうではありません。ここに記されていることの根底にあることは、「主イエス・キリストの十字架の福音の恵みがあって」ということです。まさに「罪赦されている者」として、この言葉を聴くということです。既に主の福音に与った者として、神に受け入れられ赦された者として、この言葉を聴く、それが前提なのです。
 既に赦された者として、そこに示された自らの罪を聞き、知るのです。これほどまでに救い難い罪を赦されていることの有り難さを思うのです。それが「謙遜に生きる、人としての真実な生き方」なのです。罪を知り、悔い改めに生きる。それが罪を覚える生活です。
 「悔い改めを生きる」ことは「祈りをもって生きる」ことです。悔い改めとは、神へと心を向けること、それは祈りをもって生きること、それが人としての謙遜な生き方なのです。神の恵みを抜きにした謙遜さは、傲慢でしかありません。

悔い改めて神に向かうとき、知ることは何か。それは罪の赦しを知ること、それは「感謝に生きる」ことに他なりません。それゆえに、ルターの言葉は真実です。悔い改めと感謝の生活、それは祈りの生活、謙遜な生き方、キリスト者の生き方なのです。

2節の「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とは、それは「完全な人になることは有り得ない」ということです。
 私どもは、完全な者になることを目指して信仰生活しているのではありません。完全になれなくても、私どもは真実に、謙遜に、自分を見出しつつ生きることは出来るのです。神の恵みと罪の自覚をもって生きることができる、それは自分の身の丈を生きることができるということです。

改めて思います。過ちを過ちと知ることは、恵みなのです。そこでこそ赦されていることを知るからです。罪を罪として覚えられるなら幸いです。そこに神の恵みを知るゆえに、謙遜に、人として真実に生きることができるからです。