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8節「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」と、ヤコブはキリスト者たちに対して言っております。 かつて主イエスが律法学者たちに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問われたとき、主イエスの答えは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコによる福音書12章)というものでした。 ここに「神に愛されていることを前提として、互いに愛し合いなさい」と言われていることは、使徒パウロが教会の中心の教えとして示したことであり、それをヤコブも受け継いで語っております。 「隣人を自分のように愛しなさい」、この戒めが最も尊い律法であると言われております。それは「神に愛されている者」として「神が愛しておられる隣人を愛する」ということです。隣人もまた、神に愛されている存在であることを覚えなければなりません。共に愛されている存在として、互いに愛するのです。 そして、ここでもう一つ注意しておくべきことがあります。「隣人愛は、自分を愛することと結び付いている」ということを忘れてはなりません。自分を愛することなく隣人を愛することはできません。 けれども、人はなかなか自分自身を愛することはできません。愛せない自分をどこで愛することができるでしょうか。それは「神に愛されている」ということ以外にはありません。頭の理解では十分わかっていても、できない。どうすればできるのでしょうか。それは、神に愛されているということのうちに自分自身を見出せるかどうかということにかかっているのです。 9節「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」と言われております。愛することに隔てがあってはならないということです。この前のところで、ヤコブは「貧しい者に過ぎなかったあなた方が愛されて、主のものとされているにも拘らず、人を分け隔てして貧しい者を辱めるとは、何たることか」と言っております。考え違いをしてはなりません。貧しい者も、富む者も、共々に大事にする、分け隔てせずに配慮すべきだと言っているのです。神は「誰に対しても」憐れみと慈しみをもって臨んでいてくださる方であることを覚えなければなりません。 ヤコブは、ヤコブが指導した教会の人々、すなわちキリスト者に対して、「あなたがたは神に愛されている。十字架の命までもってして、主イエス・キリストに愛されているあなたがたである」と語っております。このことを、私どももまた、私どもに語られていることとして聴きたいと思います。 |
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今日は13節までを中心に聴きたいと思います。 まず10節に「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」と記されております。これは8・9節を受けてのことです。旧約聖書全体の中で最も尊い掟だと主イエスが言われた「隣人を自分のように愛しなさい」ということを実行しているならば、それは良いことだけれど、実際には、あなたがたは人を分け隔てしている。それは誰をも隣人とすることにならない。だからそれは律法違反として「有罪」である、とヤコブは言っております。このことは、律法の特色を示していると同時に考えさせられるところです。 自らの罪を知り罪に痛む者は、そこから次に、神へと至ります。方向転換して「心を神へと向ける」ということです。救いを必要としていることを知り、救いを与えてくださる方、神へと心を向けるのです。そしてそれが「悔い改め」です。悔い改めとは神への方向転換であることを覚えたいと思います。 続けて、このことを例をもって挙げているのが11節です。「殺すな」「姦淫するな」という言葉から、律法全体とは「モーセの十戒」に言い表されている戒めであることが示されています。 次に、12節「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として…」と記されておりますが、「自由をもたらす律法」という言葉がいきなり出て来て驚くのです。「罪を定める律法」が「自由をもたらす律法」であるとは、どういうことでしょうか。「自由をもたらす」という言葉がなければ、「律法によっていずれは裁かれる」と素直に読むことができます。なぜならば、罪が明らかにされるのですから、裁かれることは納得せざるを得ないことでしょう。「裁き」となる律法が「自由をもたらす」と、この相反する言葉が一つのこととして語られております。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、本当の意味で「罪が終わりになる」ことを示しているのです。 しかし、律法をくださった方、神は、人の罪を裁き切り、終わりにすることができる方です。人は、いずれは終わりの日に、人にではなく「神によって」裁かれるのです。その神の裁きに服することによって、何と幸いなことか、神が私どもの罪を裁き切ってくださって、私どもは罪から自由にされるのです。忘れてはなりません。私どもは、いずれは神の裁きに服し、人生の総決算をしなければならないのです。裁き切られてこそ、解き放たれるのです。 どのような裁きに服するのでしょうか。13節「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」と言われております。憐れみなき者には、憐れみなき裁きがある、それは当然のことでしょう。人は自らの行いによって裁きを受けざるを得ません。憐れみのないところに憐れみは不釣り合いです。憐れみなき者には憐れみのない裁きこそが、真実な裁きでしょう。 しかしここで、ローマの信徒への手紙でパウロが語った言葉が思い出されます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7章24・25節)」。パウロは、罪の裁きの惨めさの絶頂において、私どもの罪の裁きを「神の御子イエス・キリストが十字架において既に受けていてくださる」だから「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言うのです。 自分自身が本当は裁かれるべき者であることを知る者、その人こそ、主の十字架の贖いを知り、見出す者です。 |
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14節、ヤコブはここで改まって「わたしの兄弟たち」と、キリスト者たちに呼びかけております。一つの文章の間に再度改めて言うのですから、これはヤコブの思いを込めての呼びかけと聴くべきです。 まず理解しておくべきことがあります。それは「信仰義認」は、ルターが独自に考えたことではないということです。「信仰のみ」を中心的に言ったのは使徒パウロでした。初代教会には、律法遵守を重視するユダヤ人キリスト者と、信仰のみを説くパウロとの考え方の不一致があり、闘いがあったのです。もともとは律法を遵守する厳格なファリサイ人であったパウロは、復活の主イエス・キリストと出会い、変えられて救われました。ですからパウロは、「救い」とは律法を守ることによって与えられるのではなく「一方的な神の憐れみによって与えられる」と宣べ伝えたのです。「行いによって救われるかどうか」ということは、ユダヤ教とキリスト教の大きな分岐点でもあります。パウロの宣教によって異邦人教会が確立されていきましたが、そこへ律法を重視するユダヤ人キリスト者がやって来て、救いの完成のためには「割礼と律法遵守」が必要と言って、教会を混乱させたのです。 であれば、ここに記されている「行い」ということをどう捕らえるべきでしょうか。まず、信仰の道筋を語ることにします。 では「信仰を与えられた者としての行い」とは、どういうものなのでしょうか。「信仰」では分りにくいので、信仰を「救い」として考えてみましょう。「救い」とは神の御業、神の行為です。ですから「信仰(救い)を与えられた者の行為」とは「神の御業を表すこと」なのです。それは「十字架と復活の主イエス・キリストを表すこと」です。それがキリスト者の行いです。 このことは、日本基督教団がここ40年の間に問われてきたことです。社会変革を目指し過激な行動を取る教会が現れたことにより、祈りや礼拝は無駄なことと言われて、教団は揺れたのです。もしそこで「信仰告白こそキリスト者、教会の行為である」と明確に言えたならば迷いはなかったはずです。多様な価値観の中で「信仰を告白すること」には力を必要とするのです。 「信仰告白」は、私どもを「礼拝」へと向かわせます。私どもが今日、礼拝に来たこと、これも「行為、行い」です。何よりもまず「神の御業」があって「その恵みに応える」ことによって、私どもは「神を表す」のです。それが信仰者の行為です。礼拝は信仰者の一つの行為であり、それは神の御業を土台としての人の行為なのです。それがここに「信仰に伴う行為」として言われていることです。 私どもキリスト者が礼拝を守ること、それは社会的な面においても決して反古にされる事柄ではありません。社会に目を向けますと、キリスト教を土台とした多くの社会事業が興されております。キリスト者の信仰が形となって、神の御業を表しているのです。例えば山梨英和学院もそうです。キリスト者の信仰によって女子教育への志しが与えられ、キリスト教基盤の学校が建てられました。神の御業を土台にして、キリスト者の信仰に基づいてなされる行為とは、社会に向かっての「証しの業」なのです。そして、多くの企業が社会事業体として成立しております。 15節「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき」とは、信仰は言葉ではないことを言っております。その通りです。信仰とは、単に心の平安だけなのではありません。信仰とは身も心も、その人の全人格の救いなのです。すべてのことに、神の救い、神の恵みを見ることです。 ですから、信仰に伴う行為とは、何か特別なことをするということではありません。特別な業なのではなく「信仰告白」なのです。 今日もまた、神の恵みに応えて「礼拝する」という「信仰に基づく業をなす」ことができましたことを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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4節「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」、皆さんよくご存知の箇所です。 まず「主において」「キリスト・イエスにおいて」喜べ、と言われております。ここに大事な意味があるのです。パウロがよく使う言葉ですが「主において」とはどういうことなのか、私どもは心に留めておく必要があります。ここに「常に喜ぶことができる」秘密があるからです。 私は牧師の息子で聖書をよく知っており、中学生で受洗しました。小学校は2度転校、疎開で山梨の八代に来たのですが、高校は丁度戦後の教育制度変更の時と重なり入学はしたものの馴染めず中退してしまい、働きに出ました。それで、私の青年時代は劣等感の中にあり希望を失っておりました。 もう一つの秘密。それは5節「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」にあります。キリスト者は、どんな時にも喜べるので、寛容になれるのです。キリストを信じるとき、人は寛容を与えられることを覚えたいと思います。 けれどもそれだけではなく、ここにはもう一つの意味があります。「主は近い」ということです。初代教会において、パウロの心を一番大きく占めていた事柄は何かと言うと、それは「主が来られる、主の再臨」ということでした。主イエスはオリーブ山で弟子たちに「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(マルコによる福音書13章)」と、終末について弟子たちに教えられました。キリスト者の最終的な希望、それは「主と共に復活する」ことです。死んで終わらないということです。主と同じように甦り、永遠の命を与えられるということです。そしてそれは「主がもう一度おいでになるとき」と記されております。 しかし、今はどうでしょうか。主の再臨は「信仰告白」にも書いてあることです。けれども、今、私どもキリスト者は主の再臨を本当に信じているでしょうか。 もし明日、再臨の主が来られるとしたら、どうしますか? 「主はすぐ近くにおられます」。それは「いつも共にいてくださる」こと、そして「終わりの日は近い(主の再臨)」ということです。3章にパウロは勧めが記されております。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(3章20節)」。 |
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