聖書のみことば/2011.8
2011年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
人に憐れみをかける」 8月第1主日礼拝 2011年8月7日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章8〜13節
2章<8節>もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。<9節>しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。<10節>律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。<11節>「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。<12節>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。<13節>人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

8節「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」と、ヤコブはキリスト者たちに対して言っております。
 今日私どもは、「隣人を自分のように愛しなさい」ということが「最も尊い律法」であると言われていることについて、聴かなければなりません。

かつて主イエスが律法学者たちに「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と問われたとき、主イエスの答えは「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコによる福音書12章)というものでした。
 ここに「聖書に従って」と言われている「聖書」とは「旧約聖書」のことであり、主イエスが言われたことと同じです。主イエスは「神を愛し、人を愛する」ことが旧約聖書の最も尊い教えであることをお示しくださいました。けれども、今日の箇所では「神を愛せよ」とは出てこないのです。
 ヨハネによる福音書13章において、主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。主イエスは、旧約聖書に「神を愛し、隣人を愛せよ」と言われていることを教えてくださった上で、新しい掟として「神に、主イエスに愛された者として、隣人を愛せよ」と言われるのです。それは「主イエスを信じる弟子たち」に対して言われた言葉であり、「主イエスに愛されている者」であることが背景としてあるのです。主イエス・キリストに愛されている者として、神を愛することと隣人を愛することは一つのこととして語られております。つまり、神の愛のうちにあるから、隣人を愛することができるのです。神に愛されていることへの応答として神を愛する、隣人を愛することによって、神の愛に応えることになる、と主は言われております。

ここに「神に愛されていることを前提として、互いに愛し合いなさい」と言われていることは、使徒パウロが教会の中心の教えとして示したことであり、それをヤコブも受け継いで語っております。
 これらのことを通して言われる一つの事柄、それは「愛されている者として愛する」ということです。
 なぜ愛することができるのか。人は、愛されることなくして愛することはできないのです。今日ではしばしば、児童虐待などが何故起こるのかということの内容が語られるようになりました。愛されることなく虐待されて育った子どもは、自分の子どもを虐待してしまうという問題があるのです。人の愛は、受容することのできない愛であるがゆえに、相手を受容できない、愛せないという形で破綻するということが起こります。人の愛は、破綻を含む愛であることを忘れてはなりません。
 人が愛せるのは、愛されているからです。「わたしが、あなたがたを愛している」と主イエスが言ってくださったことを思い起こすことです。主イエスは私どもの罪のために、十字架で、ご自身の尊い命まで捨ててくださいました。それは、他には有り得ない愛の形です。それ以上ない、そのような主イエス・キリストの愛によって、私どもは愛されているのだということを知る、思い起こすことで、私どもも隣人を愛することができるのだということを覚えなければなりません。主イエスは、この上ない愛をもって私どもを愛してくださって、弟子たち(教会)に「互いに愛せよ」との戒めを与えてくださっているのだということを覚えたいと思います。

「隣人を自分のように愛しなさい」、この戒めが最も尊い律法であると言われております。それは「神に愛されている者」として「神が愛しておられる隣人を愛する」ということです。隣人もまた、神に愛されている存在であることを覚えなければなりません。共に愛されている存在として、互いに愛するのです。
 では「互いに愛する」ことの目的は何でしょうか。それは「神を知る」ことです。「人が神へと至る」こと、それが目的です。「共々に神に愛されていることを覚え、隣人を愛する」ここに「伝道」の意味が示されております。神に愛されている者として自分自身を見出すこと、それは伝道なのです。共々に神に愛されているという自分を知り、神に至る、それが「伝道」です。
 かつて、「伝道とは隣人愛である」と言った優れた説教者がおりました。私どもの伝道とは、隣人を愛することなのです。

そして、ここでもう一つ注意しておくべきことがあります。「隣人愛は、自分を愛することと結び付いている」ということを忘れてはなりません。自分を愛することなく隣人を愛することはできません。
 では「自分」とは、何でしょうか。聖書の語る「自分」とは、この肉体・個体に限定されない、広がりのあるものです。例えば、絵を描く人がいるとします。その人が描いた絵が、他者に不評であった場合、その人は痛み傷つくことでしょう。つまり、自分が表したものも自分自身ということです。個体としての自分だけが自分なのではありません。その人の思い、作り出したものも自分なのですから、それが汚されれば傷むのです。ですから、私どもが思っている以上に、自分というものには広がりがあります。例えば、空間もそうです。自分の家や、職場、学校。それぞれの場所にあって、自分の存在に違和感を覚えるとすれば、それは自分の存在を愛せなくなるということです。自分を呪い、傷つけることになるのです。
 このことが示すことは何か。それは「自分とは、自分に関わるすべてである」ということです。空間も、思いも、関わりあるすべてが自分自身なのです。そのような自分が全て受容されているならば、それらは皆自分として一体化しているのであり、自分として愛することができるのです。私どもは、関わるすべてが自分自身であることを知らなければなりません。そうでなければ、関わるときどきに反発を生んでしまうのです。関わるすべてを大事にできること、愛するものとして受け止めることが大事です。
 ですから、自分を愛することは、隣人を愛することと一つことです。自分自身を愛していれば、自ずと隣人を愛しているのです。隣人を愛するということは特別なことではないのです。

けれども、人はなかなか自分自身を愛することはできません。愛せない自分をどこで愛することができるでしょうか。それは「神に愛されている」ということ以外にはありません。頭の理解では十分わかっていても、できない。どうすればできるのでしょうか。それは、神に愛されているということのうちに自分自身を見出せるかどうかということにかかっているのです。
 「善いサマリア人」のたとえ(ルカによる福音書10章)において、主イエスは、隣人とは「その人を助けた人」であり「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。隣人愛は、隣人とは誰かという定義なのではありません。隣人愛とは、隣人を最も自分の身近な存在として向き合うことです。夫を、子どもを、最も身近な存在として向き合うことです。
 しかしそこで、根本にあることを忘れてはなりません。どこまでも神が、主イエス・キリストが「私どもを愛してくださっている」という事実があってこそ、「愛せよ」と言われているということです。揺るぎなく愛してくださる方が「愛せよ」と言われる、それは「あなたには愛する力がある、愛せるよ」という恵みの言葉であることを忘れてはなりません。
 ですから、神の愛抜きに隣人愛を語ることはできないのです。

9節「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」と言われております。愛することに隔てがあってはならないということです。この前のところで、ヤコブは「貧しい者に過ぎなかったあなた方が愛されて、主のものとされているにも拘らず、人を分け隔てして貧しい者を辱めるとは、何たることか」と言っております。考え違いをしてはなりません。貧しい者も、富む者も、共々に大事にする、分け隔てせずに配慮すべきだと言っているのです。神は「誰に対しても」憐れみと慈しみをもって臨んでいてくださる方であることを覚えなければなりません。

ヤコブは、ヤコブが指導した教会の人々、すなわちキリスト者に対して、「あなたがたは神に愛されている。十字架の命までもってして、主イエス・キリストに愛されているあなたがたである」と語っております。このことを、私どももまた、私どもに語られていることとして聴きたいと思います。
 主イエス・キリストに愛された者として、私どもは、今、ここにある。そのことを覚えたいと思います。主が十字架の命までもってして私どもを愛してくださっている、それゆえに、今、ここに、私どもは存在しているのです。

信仰には行いが伴う」 8月第2主日礼拝 2011年8月14日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章10〜17節
2章<10節>律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。<11節>「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。<12節>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。<13節>人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。<14節>わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。<15節>もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、<16節>あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。<17節>信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

今日は13節までを中心に聴きたいと思います。

まず10節に「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」と記されております。これは8・9節を受けてのことです。旧約聖書全体の中で最も尊い掟だと主イエスが言われた「隣人を自分のように愛しなさい」ということを実行しているならば、それは良いことだけれど、実際には、あなたがたは人を分け隔てしている。それは誰をも隣人とすることにならない。だからそれは律法違反として「有罪」である、とヤコブは言っております。このことは、律法の特色を示していると同時に考えさせられるところです。
 「一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪」、ではこの逆はあるのでしょうか。どれも守れないが、一つだけ守っていれば大丈夫なのか。それは駄目なのです。他の全てを守っていても、たった一つの罪を犯すならば有罪です。
 律法の役割は、守ることによって人の正しさを示すことなのではありません。律法の役割の一つは「人の罪を明らかにする」ことなのです。法とは、人の過ちを明らかにするものです。私どもは誰しも、一点の曇りもなく正しいとは言い切れない者です。そこで、自分の罪深さをどう知るのかと言うと、法によって知るのです。どんなに正しく生きようとして数々の法を守っていたとしても、一つの罪を犯せば、その人の過ちは明らかになるのです。
 ここで使徒ヤコブはキリスト者たちに対して「人を分け隔てすることは隣人愛ではない」と言っております。自分たちが貧しかったとき、キリストの名をいただき、恵みによってキリスト者とされたにも拘らず、貧富によって人を分け隔てして貧しい者を辱める、あなたがたの行いは罪深いと示しているのです。
 このように、律法違反を示されることにより、自らの罪を知るに至る。そういう意味では、律法は有益であり大切です。
 問題なのは、罪を罪として知らないということです。罪を罪として知らなければ、人は救いを求めることはありません。救いの必要を感じない、それは人の悲惨な姿です。罪に傷む悲しみが無いとすれば、それは人としての心を失っているということです。自らの罪を痛み、苦しむところに、人の心はあるのです。過ちを痛むことなく、悲しみを悲しみと感じられないことほど悲惨なことはありません。
 罪の自覚によって示されることは、痛みであり苦しみです。その人の罪を明らかにする、律法が与えてくれることは「罪を知る心」です。間違ってはいけないことは、それは、他者からの指摘によって知ることではないということです。律法という戒めの言葉に真摯に向き合うことによって、自らの罪に向き合うことが大事なのです。ですから、心ある人とは、自らの罪を知り、痛む人です。そういう意味で律法は「人を、心ある者へと導くもの」であることを覚えたいと思います。

自らの罪を知り罪に痛む者は、そこから次に、神へと至ります。方向転換して「心を神へと向ける」ということです。救いを必要としていることを知り、救いを与えてくださる方、神へと心を向けるのです。そしてそれが「悔い改め」です。悔い改めとは神への方向転換であることを覚えたいと思います。
 悔い改める者を、神はそのままに放置されることはありません。神は憐れんでくださり、救ってくださるのです。
 ですから、罪を知り罪を痛むことは、救いへの糸口であると言えます。自らの罪に痛むこと、そこでこそ人は、神の憐れみをいただくことができるからです。罪の自覚は滅びへ向かうことではないのです。救いの糸口です。ですから「律法は、人を救いへと導く恵みである」ことをも覚えたいと思います。自らの罪深さによって「滅び」としか感じられない者を「救い」へと向かわせる糸口、それが律法です。罪を犯したから救われずに滅びるのではありません。救い難く滅びるのは、自らの罪を感じられないこと、罪を罪として知らないことだということを覚えたいと思います。

続けて、このことを例をもって挙げているのが11節です。「殺すな」「姦淫するな」という言葉から、律法全体とは「モーセの十戒」に言い表されている戒めであることが示されています。

次に、12節「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として…」と記されておりますが、「自由をもたらす律法」という言葉がいきなり出て来て驚くのです。「罪を定める律法」が「自由をもたらす律法」であるとは、どういうことでしょうか。「自由をもたらす」という言葉がなければ、「律法によっていずれは裁かれる」と素直に読むことができます。なぜならば、罪が明らかにされるのですから、裁かれることは納得せざるを得ないことでしょう。「裁き」となる律法が「自由をもたらす」と、この相反する言葉が一つのこととして語られております。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それは、本当の意味で「罪が終わりになる」ことを示しているのです。
 本当に裁きがなされることによって、人は罪から解き放たれ、自由な者とされるのです。ですから「裁き」と「自由」は一つのことです。裁かれることなくして、赦しはありません。裁かれることなくして、人は、自由な者とはなれないのです。しかしここで残念なことは「人の力では罪を裁き切ることは出来ない」ということです。人は、決して「憎しみ、恨み」を終わらせることはできません。ですから、そのような思いから解き放たれることはできないのです。どこまでも忘れられない、赦せない。裁いて終わりにすることができない。人には裁く力すらありません。人は、罪の支配からなかなか解き放たれることはできないのです。

しかし、律法をくださった方、神は、人の罪を裁き切り、終わりにすることができる方です。人は、いずれは終わりの日に、人にではなく「神によって」裁かれるのです。その神の裁きに服することによって、何と幸いなことか、神が私どもの罪を裁き切ってくださって、私どもは罪から自由にされるのです。忘れてはなりません。私どもは、いずれは神の裁きに服し、人生の総決算をしなければならないのです。裁き切られてこそ、解き放たれるのです。

どのような裁きに服するのでしょうか。13節「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」と言われております。憐れみなき者には、憐れみなき裁きがある、それは当然のことでしょう。人は自らの行いによって裁きを受けざるを得ません。憐れみのないところに憐れみは不釣り合いです。憐れみなき者には憐れみのない裁きこそが、真実な裁きでしょう。
 そのように真実な裁きとは何かを語りながら、しかし「憐れみのない裁きが下される」と言ったところで、このヤコブの手紙は「憐れみは裁きに打ち勝つ」と言うのです。どういうことでしょうか。ここには、何とも言い得ない「憐れみ」が語られております。罪のゆえに憐れみなく裁かれるしかない、それは何と惨めなことでしょう。裁かれる、そこで、救ってくれる者を見出すことはできません。

しかしここで、ローマの信徒への手紙でパウロが語った言葉が思い出されます。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします(7章24・25節)」。パウロは、罪の裁きの惨めさの絶頂において、私どもの罪の裁きを「神の御子イエス・キリストが十字架において既に受けていてくださる」だから「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と言うのです。
 実は、裁かれることなくして、主イエス・キリストの十字架の恵みを見ることはできないのです。裁かれているところで知るのです。「ああ、このわたしの罪が、主イエス・キリストによって終わりとされている」と知るのです。
 終わりの日の裁きとは、十字架そのものです。主の十字架によって、裁きは既に成し遂げられ、私どもは「罪の赦し」という恵みを受けているのです。
 この身の罪の裁きを見る、そこで私どもは、十字架の主の裁きのみが救いであることを見るのです。裁かれる存在として、主の十字架の贖いを与えられているのです。ですから、主の十字架のできごとを語ることなく、裁きと憐れみを語ることはできません。罪なき者主イエス・キリストが十字架を負うてくださった、だからこそ、私どもの罪の裁きは終わったのです。

自分自身が本当は裁かれるべき者であることを知る者、その人こそ、主の十字架の贖いを知り、見出す者です。
 裁かれる者には、憐れみが与えられるのです。罪なる者、裁かれる者でしかない私どもです。しかし「裁かれる者として神の救いのうちにある」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。

あなたの信仰」 8月第3主日礼拝 2011年8月21日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章14〜26節
2章<14節>わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。<15節>もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、<16節>あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。<17節>信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。<18節>しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。<19節>あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。<20節>ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。<21節>神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。<22節>アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。<23節>「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。<24節>これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。<25節>同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。<26節>魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

14節、ヤコブはここで改まって「わたしの兄弟たち」と、キリスト者たちに呼びかけております。一つの文章の間に再度改めて言うのですから、これはヤコブの思いを込めての呼びかけと聴くべきです。
 「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」とのこの問いかけは、私どもにも大きな問いとして投げかけられております。なぜならば、この箇所は宗教改革者たちがこの手紙を「藁の書」とした根拠となる箇所だからです。宗教改革の中心的人物であるルターは「信仰義認=信仰によってのみ救われる」と説きました。ですからここで「行い」と言われることは戸惑いであり、受け止め難いのです。改めて「信仰」とはどういうことかを明確にしつつ、信仰と行いとはどのように結び付くのか、聴かざるを得ません。

まず理解しておくべきことがあります。それは「信仰義認」は、ルターが独自に考えたことではないということです。「信仰のみ」を中心的に言ったのは使徒パウロでした。初代教会には、律法遵守を重視するユダヤ人キリスト者と、信仰のみを説くパウロとの考え方の不一致があり、闘いがあったのです。もともとは律法を遵守する厳格なファリサイ人であったパウロは、復活の主イエス・キリストと出会い、変えられて救われました。ですからパウロは、「救い」とは律法を守ることによって与えられるのではなく「一方的な神の憐れみによって与えられる」と宣べ伝えたのです。「行いによって救われるかどうか」ということは、ユダヤ教とキリスト教の大きな分岐点でもあります。パウロの宣教によって異邦人教会が確立されていきましたが、そこへ律法を重視するユダヤ人キリスト者がやって来て、救いの完成のためには「割礼と律法遵守」が必要と言って、教会を混乱させたのです。
 パウロは「主イエスの十字架により罪を贖われ、十字架で死なれた主イエスが復活されたことを信じる者は救われる」と強調し、それなのに「行いによって救いが完成すると考えることは、主イエス・キリストの十字架を無意味にすることになる」と言いました。
 そしてまた、私どもプロテスタントの信仰の中心となることは「十字架と復活の主イエス・キリストを信じる」ことであり、それは「全く神の御業を信じる」ということ、「救いは神の御業による」と信じることです。律法を守るという「行い」による救いは、功績主義、人の力による救いであって、私どもの信仰ではないのです。ですから、ヤコブのこの言葉に戸惑わざるを得ない、この箇所の理解はとても難しいと言えます。
 しかしルターでさえ理解できなかったのですから、私どもが分らなくても大丈夫です。私どもは、功績主義ではなく「信仰義認」の信仰に立っているならば大丈夫なのです。私どもの信仰、救いは、律法を守ることによって与えられるものではないのです。

であれば、ここに記されている「行い」ということをどう捕らえるべきでしょうか。まず、信仰の道筋を語ることにします。
 「主イエス・キリストを信じる」とは「十字架と復活の主を信じる」ということです。「十字架の主を信じる」とは「私どもの罪を贖い、罪を終わりにしてくださった方を信じる」こと、「復活の主を信じる」とは「主の復活の命に与る」ことです。「贖い」とは「主イエスが、罪人の死を死んで下さった」ということです。本来、罪ゆえに神から遠く、死すほかない私どもです。主イエスが十字架に死んでくださったということは、神の子なる主が「死すべき私どもと同じ者となってくださった」ということです。このようにして主と結ばれた者として、主の復活と共に私どもも甦ることを信じる、それが私どもの信仰なのです。
 今日の礼拝では、逝去者を覚える逝去者記念式を致します。先に逝去した者たちの地上の命は終わりましたが、主と結ばれた者として、来るべき日に主と共に甦り神の子とされる、それが私どもの信仰の筋道なのです。
 そしてそれは「神の御心」としてなされることです。信仰は「神の御業によって救われる」ということです。聖霊の導きによって「信じる」ことが起こるのです。これがキリスト者の中心にある救い・信仰の出来事です。人の行為による救いはありません。神の御業(行為)なくして、私どもの信仰は無いのです。

では「信仰を与えられた者としての行い」とは、どういうものなのでしょうか。「信仰」では分りにくいので、信仰を「救い」として考えてみましょう。「救い」とは神の御業、神の行為です。ですから「信仰(救い)を与えられた者の行為」とは「神の御業を表すこと」なのです。それは「十字架と復活の主イエス・キリストを表すこと」です。それがキリスト者の行いです。
 そこで「信仰に伴う行為」としてまず挙げられることは「信仰告白(神を言い表すこと)」です。かつて竹森満佐一牧師は「信仰告白は信仰の行為である」と説教いたしました。まさしく、信仰告白に優る「キリストを言い表す行為」は無いと言えます。

このことは、日本基督教団がここ40年の間に問われてきたことです。社会変革を目指し過激な行動を取る教会が現れたことにより、祈りや礼拝は無駄なことと言われて、教団は揺れたのです。もしそこで「信仰告白こそキリスト者、教会の行為である」と明確に言えたならば迷いはなかったはずです。多様な価値観の中で「信仰を告白すること」には力を必要とするのです。

「信仰告白」は、私どもを「礼拝」へと向かわせます。私どもが今日、礼拝に来たこと、これも「行為、行い」です。何よりもまず「神の御業」があって「その恵みに応える」ことによって、私どもは「神を表す」のです。それが信仰者の行為です。礼拝は信仰者の一つの行為であり、それは神の御業を土台としての人の行為なのです。それがここに「信仰に伴う行為」として言われていることです。
 神への応答としての行為であるべきなのに、もし「信仰告白」抜きの行為であれば、それは神を表すのではなく、その人を表すことになるのです。信仰は「神への応答として行いを伴う」のだということの大切さを覚えたいと思います。

私どもキリスト者が礼拝を守ること、それは社会的な面においても決して反古にされる事柄ではありません。社会に目を向けますと、キリスト教を土台とした多くの社会事業が興されております。キリスト者の信仰が形となって、神の御業を表しているのです。例えば山梨英和学院もそうです。キリスト者の信仰によって女子教育への志しが与えられ、キリスト教基盤の学校が建てられました。神の御業を土台にして、キリスト者の信仰に基づいてなされる行為とは、社会に向かっての「証しの業」なのです。そして、多くの企業が社会事業体として成立しております。
 しかしそこで問題なのは、キリスト教基盤の自覚が失われて形骸化することです。何よりもその事業体を担う者たちが神の御業を明確にすること、礼拝者であることが大事です。

15節「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき」とは、信仰は言葉ではないことを言っております。その通りです。信仰とは、単に心の平安だけなのではありません。信仰とは身も心も、その人の全人格の救いなのです。すべてのことに、神の救い、神の恵みを見ることです。
 ですから、日常生活の必要に対する手立てとして、神の家族は互いに分け与えることが必要です。それは、人の善意による行為なのではありません。人の善意の行為は、神を表さず、その人を表すのです。私どもがなすべきことは、あくまでも神の家族として、神を表すものとして、恵みを分け合うということです。神の恵みの業を土台としてのキリスト者の行為です。信仰に基づいた行いによって、証しによって、私どもは神の御業を表すのです。それは「神の救いの業がなされてこそ」起こることです。信仰に基づく私どもの行為、それは「神の救いのしるし」となっているのだということを覚えたいと思います。

ですから、信仰に伴う行為とは、何か特別なことをするということではありません。特別な業なのではなく「信仰告白」なのです。
 もし、私どもがすべてを失ってしまったとしても、しかし、私どもは「信仰告白」という行為をなすことができます。

今日もまた、神の恵みに応えて「礼拝する」という「信仰に基づく業をなす」ことができましたことを、感謝をもって覚えたいと思います。

主はすぐ近くにおられます」 8月第4主日礼拝 2011年8月28日 
中山 忍 牧師(文責・聴者)
聖書/フィリピの信徒への手紙 第4章4〜7節
4章<4節>主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。<5節>あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。<6節>どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。<7節>そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

4節「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」、皆さんよくご存知の箇所です。
 フィリピの信徒への手紙は「喜びの書簡」と言われ、キリスト者の喜びが表されております。また、テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節にも「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。いずれも素晴らしい御言葉であり、キリスト者にはよく知られております。
 けれども、どうでしょうか。「常に、いつも、喜べ」と言われても、そんなにいつも喜んでいられるでしょうか。私どもの日常は、嬉しかったり悲しかったり、ころころと変わるものです。現実のこととなれば、「いつも、常に、どんな時にも喜ぶ」ということは、なかなか難しいことです。
 ではなぜ、パウロはこのように語るのでしょうか。1章でも2章でも、パウロは「わたしは喜ぶ」と語り、3章1節では「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」と、しつこい程に「喜べ」と記しております。なぜこのようにパウロは喜べるのでしょうか。ここに2つの秘密があります。

まず「主において」「キリスト・イエスにおいて」喜べ、と言われております。ここに大事な意味があるのです。パウロがよく使う言葉ですが「主において」とはどういうことなのか、私どもは心に留めておく必要があります。ここに「常に喜ぶことができる」秘密があるからです。
 「主において」とは「主イエス・キリストを信じる」ということです。しかし、信じていても、なかなかいつも喜んではいられません。「主イエス・キリストを信じる」という信仰は「キリストの十字架と復活を信じる」ということであり、それが「福音」です。この「主イエス・キリストの十字架を信じる」とはどういうことなのか、これは分っているようで分っていないことが多いのです。

私は牧師の息子で聖書をよく知っており、中学生で受洗しました。小学校は2度転校、疎開で山梨の八代に来たのですが、高校は丁度戦後の教育制度変更の時と重なり入学はしたものの馴染めず中退してしまい、働きに出ました。それで、私の青年時代は劣等感の中にあり希望を失っておりました。
 そういう中で、ある教会の集会で語られた御言葉によって、私は「キリストの十字架の意味」を初めて理解しました。キリストの十字架の意味、「キリストが十字架につけられたのは、この私のためだったのだ」と分ったのです。
 悶々として自分は駄目だと思っている、そんな私のために「キリストは命を捨てて下さった」そのことが分ったとき、私は驚きました。こんな私のために…命をかけるほどに愛して死んでくださった主イエス・キリスト。この主に私の全てを捧げると決意して、私は神学校へ行きました。
 聖書をよく知っていた私でした。でも「キリストの十字架の意味」を本当には分っていなかったのです。「キリストの十字架は、このようにつまらない私のためだった」と分らないと、信仰は続きません。主が私の罪を担い、愛してくださる、このことを知ったとき、他のことはどうでもよくなるのです。
 「主の十字架の贖いを通して、神は私どもを顧みていて下さる」それが私どもの喜びのベース、源泉です。こんな私のために、主は十字架に死んでくださる程に愛して、いつも共にいてくださる。このことを知ったとき、そこで、私どもは立ち上がれるのです。
 ですから、パウロは「喜べ」と勧めます。主の十字架によって、私どもは、どんな状況においても喜べると語るのです。この「喜びの書簡」は、パウロの獄中書簡です。迫害によって獄中にあるパウロ、とても喜ぶことなどできない状況、辛い目にあっていたとしても、しかし「主イエス・キリストの十字架の恵みに目を向けるとき」喜べるのだと、パウロは語っております。

もう一つの秘密。それは5節「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」にあります。キリスト者は、どんな時にも喜べるので、寛容になれるのです。キリストを信じるとき、人は寛容を与えられることを覚えたいと思います。
 そして「主はすぐ近くにおられます」と続いております。ここには2つの意味があります。一つは「どんな時にも主は共にいてくださる」ということです。十字架に死に3日後に復活された主イエスは、40日間弟子たちに現れた後、天に昇られるその時に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイによる福音書28:20)」と言われました。このことがどのような形で実現したかは、使徒言行録2章に記されたペンテコステの出来事によって分ります。世の迫害を恐れ引きこもっていた弟子たちに、主の約束の聖霊が注がれました。主の約束、それは「あなたがたを決して一人(みなしご)にはしない。助け主(弁護者)を送る(ヨハネによる福音書14章)」との約束、それが「助け主=聖霊」です。聖霊において、主イエス・キリストは、今も私どもの傍にいてくださるのです。
 様々に、目に見えるものに惑わされる私どもです。しかし、そんな私どもと共に、目に見えない主が共にいてくださるのです。主はいつも「聖霊において」共にいてくださる、私どもの内に宿ってくださる、何と素晴らしい恵みでしょう。

けれどもそれだけではなく、ここにはもう一つの意味があります。「主は近い」ということです。初代教会において、パウロの心を一番大きく占めていた事柄は何かと言うと、それは「主が来られる、主の再臨」ということでした。主イエスはオリーブ山で弟子たちに「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(マルコによる福音書13章)」と、終末について弟子たちに教えられました。キリスト者の最終的な希望、それは「主と共に復活する」ことです。死んで終わらないということです。主と同じように甦り、永遠の命を与えられるということです。そしてそれは「主がもう一度おいでになるとき」と記されております。
 テサロニケの信徒への手紙一 4章13〜17節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」、これは葬儀において必ず読まれる聖句です。私どもの「復活の希望」が語られております。そしてそれは何時か? 主の「再臨のとき」なのです。主を信じて死んだ者は「このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」と、復活の希望と同時に復活の体を与えられて天の国に入る、これが初代教会の信仰でした。この復活と再臨の信仰によって、初代教会は迫害を乗り越えることが出来たのです。

しかし、今はどうでしょうか。主の再臨は「信仰告白」にも書いてあることです。けれども、今、私どもキリスト者は主の再臨を本当に信じているでしょうか。
 3月11日の東日本大震災は「想定外」の出来事と言われました。しかし、顧みてみれば災害には周期があり、ある程度は分っていたはず…想定外でしょうか。
 キリスト者は、今、大事なことを忘れていると思います。目の前の出来事に右往左往しているために、伝道は進展しないのです。初代教会が、大ローマ帝国の迫害を撥ね除けた信仰「再臨の主を待ち望む信仰」をこそ、今、語ることが大事だと思うのです。

もし明日、再臨の主が来られるとしたら、どうしますか?
 キリスト者として、本当に心から、主の前に「喜びに満ちて」立つことができますか? 聖書は預言しております。「主は必ず来られる」と。ですから、私どもキリスト者は、いつも備えている必要があるのです。

「主はすぐ近くにおられます」。それは「いつも共にいてくださる」こと、そして「終わりの日は近い(主の再臨)」ということです。3章にパウロは勧めが記されております。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています(3章20節)」。
 主が近くにおられることこそ、キリスト者の究極的な希望であることを覚える日々といたしましょう。