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1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言われております。 ヤコブはここで「わたしの兄弟たち」と、改めて呼びかけます。それは、この書簡を読む教会の兄弟姉妹たちへの、ヤコブの思いが込められていると思うのです。ヤコブのこの書簡の内容は「勧告、勧め」であって、しかもかなり具体的ですから、必ずしも誰もが耳に心地よく聞くものではありません。宗教改革者マルティン・ルターは、この書を「藁の書」と評して、好ましいものとは言いませんでした。ヤコブが「わたしの兄弟たち」との親しい呼びかけをしていたとしても、内容は「こうあるべき」という強制力をも持つ勧めの文章なのです。 今日、私どもは、関わりに重きを持たない時代を生きております。かつては、皆各々に他者の助けを必要としていましたから、それだけ結びつきは強かったのです。ですから、他者の勧告を受け止めるということがありました。しかし今は、何でも自分でやっていけると考えますから、関わりを必要としないのです。そのような状況で「勧告する」ことは大変難しいことです。おせっかいや強制と取られてしまうからです。 さて、この箇所の訳は、大変込み入っていて訳しにくいところです。「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」とありますが、「栄光に満ちた」は「主イエス・キリスト」にかかりますから、並べ方を変えて言いますと「わたしたちの、栄光の主イエス・キリストを信じる者として」「人を分け隔てしてはならない」と言われているのです。 まず「信仰を持つ者として」「人を分け隔てしてはならない」とは、どういうことでしょうか。「誰に対しても等しく扱いなさい」と言われる、それはなぜか。それは「主イエス・キリストを信じる者だから」なのです。そしてそれは「神の御子を、わたしの主と信じる」ということです。ここに、「主」ということの信仰について改めて覚えたいと思います。「神は主」「わたしは従」それが旧約聖書の表す信仰です。私どもは「主」と言うとき、「イエス・キリストを神として信じる」という信仰を言い表しているのです。ですから、神が人を分け隔てしない、公平・公正な方である以上、神を信じる私どもも、人を分け隔てしてはならないのです。 更に「わたしたちの主イエス・キリスト」を信じながら(信じる者)、と言われております。これは「主イエス・キリストを、私どもの救い主と信じ、告白する」ということです。主イエスは、私どもの罪を贖うために十字架に死に、そして甦ってくださいました。主が復活してくださったゆえに、私どもも、主と共に天に住まいする永遠の命の約束をいただいているのです。私どもを神の子とし、甦りの命を与えてくださったのです。その主イエス・キリストは、十字架において、分け隔てなく私どもの救いを成し遂げてくださいました。すなわち主イエス・キリストは「すべての者の贖い主」なのです。分け隔てなく、主は贖ってくださいました。すべての者の「甦りの初め」となってくださり、すべての者を「永遠の命に与る者」としてくださっているのです。分け隔てなく、すべての人を神の子としてくださる、それが主イエス・キリストです。神の救いのできごとは「神の憐れみのできごと」であることを覚えたいと思います。神の憐れみは分け隔てのない憐れみ、そしてそれが神のあり方なのです。 このように「主イエス・キリスト」と表現したので、イエス・キリストは「栄光に満ちた方」とつけたのでしょう。「栄光のキリスト」とは、どういうことでしょうか。栄光は「神が神としてご自分を現すこと」です。すなわち、主イエス・キリストによって、神がご自分を救いとして現しておられる、私どものうちに神の臨在を現しておられるということです。ですから、私どもが主イエス・キリストを思うとき、感じることは、神が私どもに臨んでいてくださるということなのです。そのように、主イエス・キリストによって神を感じる、神が臨んでいてくださる、それが「栄光」ということです。そういう存在として、私どもは人を分け隔てしてはならないのです。 1節にこのように記した後に、分け隔てする実例が挙げられております(2節)。「金の指輪をはめた立派な身なりの人」とは、身分の高い人ということです。3節「その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら」と記されておりますが、このようにしてはいけないと言っているわけではありません。なぜなら、この方なら、と上席を勧めるということもあるからです。 今の時代、本当に価値あるものは何なのか、分らなくなっている現実の中で、この震災を通して、若者たちは「ボランティア」ということを価値あることとし、ボランティア活動が支えになっているという面があります。それは大事なことですが、しかし、ボランティアはやはり、地上を超えた価値観にはなり得ないのです。 等しく神の憐れみのうちにある、そこにこそ、人を分け隔てすることなく共に生きる道が開かれていることを、感謝を以て覚えるものでありたいと思います。 |
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ここは聖書の中でも、今の言葉でいう「超有名」な箇所の一つです。長く教会生活をされた方は、数回、あるいは数十回お読みになったことがあるのではないでしょうか。 信仰を与えられる道は、人まちまちです。突然閃光に出会ったように捕らえられることもありますが、何十年もかかって信仰を与えられることもあります。正宗白鳥のように、信仰を与えられながら途中休教して、死の間際に帰ってくるということもあります。 人さまざまな形で、神はその人に働きかけ、呼びかけられます。サウロの場合には、劇的な形で起こりました。なぜそのようになったのかは分かりません。おそらくサウロ本人も分からないことなのです。使徒言行録に、ルカはこのダマスコ途上での出来事を3回記しています。この9章、22章、26章です。その他パウロ書簡では、ガラテヤの手紙1章、コリント?12章など。その中で、ステファノに触れているのは22章のみです。ステファノの殉教の死は、そのときのサウロに何らかの影響、インパクトを与えたことは想像できます。事実サウロは、ステファノの死後、勢いづいているように思われますから、サウロの心の奥深くに、心のど真ん中にぐさりと突き刺さったものは、サウロにじわじわと変化をもたらしていたのかもしれません。(使徒言行録22:20) 先日、丁度あの3・11より2ヶ月後、6月11日に、NHKラジオで、ノンフィクションライターの柳田邦男さんと福島出身の詩人和合亮一さんが対談をしておりました。その中で、あのような未曾有の災害で、あらゆるものを喪失し、空しさ、苦しみ、痛み、絶望など言葉を失ってしまっている状況で、やはり言葉や音楽が突破口になるということを語っておられました。 『アンパンマン』 歌詞/やなせたかし また、V・フランクルは「意味による癒し」28ページで次のようなことを書いています。 このパウロの回心といわれる出来事で、サウロの中に起こったことは、やはり「言葉」でありました。 だれでも「キリストと出会う」ということは、自分を生きるのではなく「キリストを生きる者となる」ことであり、使命を与えられるということです。 |
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5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と綺麗な言い回しで訳されております。しかし原文では「聞け、わたしの兄弟たち、愛する者たちよ」という並びで、命じているのです。そこにはヤコブの強い意思が感じられますし、強く「聞くことの大切さ」を響かせていると思います。 ヤコブは「わたしの兄弟たち」と言います。そこにヤコブの思いがあるのです。「わたしの兄弟=神の家族」だから「聞いて欲しい」と語りかけているのです。 では、何を勧めるのでしょうか。まず「自分たちキリスト者がどのような者であるのか」そのことを明らかにした上で、勧めております。命じる前に、まず前提となることを思い起こさせ、確認するのです。「キリスト者とは、いかなる者なのか」を確認させるのです。5節は「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と続きます。「神が、貧しい者を、あえて、選んでくださった」と言われております。 「神により頼むほかない」それは「神の憐れみにすがる、神の憐れみを必要とする」ということです。ですから、「貧しい」という言葉は「神」が「憐れみの神である」ということを言い表す信仰の言葉でもあります。「キリスト者は、神の憐れみによってのみ、生きる者である」それが「貧しい」という言葉に言い表されていることです。 「あえて選んで」と言われております。この手紙の聞き手はキリスト者です。キリスト者は「神の特別の選びに与った者」だというのです。しかしそれは「神の一方的な選び」によるのであって、選ばれた者に何らかの根拠があるわけではありません。この世において価値ある者が選ばれたのではなく、価値なき者が選ばれるのです。実力があり、試されて合格し、選抜されたということであれば、それは必然の選びでしょう。しかし、神の選びはそのような必然の選びなのではなく、「神の自由な意志による選び」であることを忘れてはなりません。 人は、なかなか自分の思いを捨てきれないものです。ほんの少しであっても、自分に何かの根拠を持とうとする、自分の小さい何かに頼ろうとする。そうである限り、神に依り頼むことはできません。ただ、それほどに愚かで小さい自分であることを知ることを通して、だからこそ神の憐れみにすがる以外にないことを覚えて、神に依り頼む日々を繰り返す中で、少しずつ変えられていくよりないのです。 私どもは「神の愛」とよく言いますが、「神の愛」には「神の選び」の意味があることを覚えたいと思います。神の愛ゆえに、神の憐れみゆえに、このように小さな価値なき私どもを選んでくださったのです。「神が選び取ってくださった」それが「神の愛」です。信仰における「愛」とは「神の選び」の出来事であることを覚えたいと思います。ただ、仲良く楽しくしていることが愛なのではありません。 「神の愛」はどのようなものか、改めて覚えたいと思います。それは「一方的に神がこの世から私どもを特別に選び取ってくださって、ご自分のものとしてくださった」ということです。そして、それが「私どもがキリスト者である」ということなのです。 「信仰に富ませ」るとは、どういうことでしょうか。信仰深いということでしょか。「信仰」とは「神をこそ頼みとする」ことですから、富ませるという言葉はイメージしにくいことです。「信仰に富む」とは「信仰において豊かになる、富める者となる」ということです。信仰が豊かになるということではなく「信仰において豊かになる」のです。 そして、その神の約束は、決して失われることはありません。なぜならば「神の約束は真実」だからです。人の約束は、人は不完全であるがゆえに果たし得ないものです。果たしたいと願っても出来ないことがあるのです。 ここで確かめておくべきことがあります。「御自身を愛する者に」と言われておりますが、それは人が主イエスを愛したから、ということではありません。何よりもまず「神の愛、神の選び」があって「その愛に応える者として、応答する者としての愛」それがここに言われる「キリスト者の愛」です。 「神の恵みに応える者として愛する」、それが私どもの愛であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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6節「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか」と記されておりますが、これはどういうことなのでしょうか。 更にヤコブは、富める者が貧しい者をひどい目に遭わせるという経験があなた方にもあるでしょう、と思い起こさせております。富める者は、貧しい者の僅かな借財をも返済できなければ裁判所に引っ張っていき、身ぐるみはぐようなことをしたのでしょう。この記述から、当時は、富める者が貧しい者を搾取する、そういう社会だったことが分ります。 7節「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」と記されております。富む者は社会的に強いだけではなく、「尊い名を、冒涜する者」でもあったことが示されております。それなのに「そのようなものに媚びへつらうとは!」と言っているのです。 神は、貧しい者をこそ尊い者としてくださる方です。 そして、何よりも幸いなことは、罪の赦しと復活の希望を、私どもはこの礼拝において繰り返し聴くことができるということです。主によって定められた礼拝の日々に、繰り返し繰り返しキリストの恵みを想起し、満たされて、この世での一週の日々を過ごすことができるのです。この礼拝において、心合わせて祈る。そこで再びキリストの恵みに満たされ、この世の捕われから解き放たれることができるのです。 神の招きのもとに集められ、主に満たされた者として生きることができる、何と幸いなことでしょう。繰り返し繰り返し、主が御言葉をもって私どもに臨んでくださっていることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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(キリスト者の門出) (律法遵守の世界) ここで、パウロが語る律法という言葉の定義について、少々お話ししなければなりませんが、その前に、モーセの時代から受け継がれてきた律法の概念について、しばらくお話ししたいと思います。 (洗礼の効力) (パウロと十字架) (罪からの解放) (罪の残滓) (現在は戦いの時) (神の義を顕すために) 私たちは確かに、律法の下ではなく、恵みの下にいることを覚えたいと思います。 |
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