聖書のみことば/2011.7
2011年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
人を分け隔てしない」 7月第1主日礼拝 2011年7月3日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章1〜13節
2章<1節>わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。<2節>あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。<3節>その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、<4節>あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。<5節>わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。<6節>だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。<7節>また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。<8節>もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。<9節>しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。<10節>律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。<11節>「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。<12節>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。<13節>人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。

1節「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と言われております。

ヤコブはここで「わたしの兄弟たち」と、改めて呼びかけます。それは、この書簡を読む教会の兄弟姉妹たちへの、ヤコブの思いが込められていると思うのです。ヤコブのこの書簡の内容は「勧告、勧め」であって、しかもかなり具体的ですから、必ずしも誰もが耳に心地よく聞くものではありません。宗教改革者マルティン・ルターは、この書を「藁の書」と評して、好ましいものとは言いませんでした。ヤコブが「わたしの兄弟たち」との親しい呼びかけをしていたとしても、内容は「こうあるべき」という強制力をも持つ勧めの文章なのです。
 しかし、ヤコブがこのように強い勧告を送ることができたことの前提は、ヤコブとこの教会とが「深い信頼関係にあった」ということです。そうでなければ、この勧告を受け止めてもらうことはできません。ヤコブとこの教会との結び付きは固かったのです。

今日、私どもは、関わりに重きを持たない時代を生きております。かつては、皆各々に他者の助けを必要としていましたから、それだけ結びつきは強かったのです。ですから、他者の勧告を受け止めるということがありました。しかし今は、何でも自分でやっていけると考えますから、関わりを必要としないのです。そのような状況で「勧告する」ことは大変難しいことです。おせっかいや強制と取られてしまうからです。
 かつて、教会は「お世話共同体」として批判され、また評価されました。牧師は信徒と日常生活においても深い結びつきがあったゆえに、牧師の勧告は受け止められました。それは良しにつけ悪しきにつけ、密接な結びつきがあったということです。けれども、今の教会は違います。今は「御言葉による教会形成」が中心で「御言葉を共にする神の民」としての結びつきなのです。ですから、日常生活における勧告を牧師がすることは難しいと言えます。そういうことはあるのですが、しかし、私どもは「御言葉を共にする者として深い関わりにある」のだということを、大事にしたいと思います。

さて、この箇所の訳は、大変込み入っていて訳しにくいところです。「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」とありますが、「栄光に満ちた」は「主イエス・キリスト」にかかりますから、並べ方を変えて言いますと「わたしたちの、栄光の主イエス・キリストを信じる者として」「人を分け隔てしてはならない」と言われているのです。

まず「信仰を持つ者として」「人を分け隔てしてはならない」とは、どういうことでしょうか。「誰に対しても等しく扱いなさい」と言われる、それはなぜか。それは「主イエス・キリストを信じる者だから」なのです。そしてそれは「神の御子を、わたしの主と信じる」ということです。ここに、「主」ということの信仰について改めて覚えたいと思います。「神は主」「わたしは従」それが旧約聖書の表す信仰です。私どもは「主」と言うとき、「イエス・キリストを神として信じる」という信仰を言い表しているのです。ですから、神が人を分け隔てしない、公平・公正な方である以上、神を信じる私どもも、人を分け隔てしてはならないのです。
 この信仰の根底にあることは、「神が私どもを分け隔てなさらず、等しく臨んでくださっている」ということです。これは、とても大きなことです。なぜならば、今日、私どもは、人を分け隔てする社会に生きているからです。今は自分の好き嫌いによって、わがままに生きることができる時代なのです。昔は、自分の好き嫌いなど言っている余裕はありませんでした。好き嫌いは置いて、助け合うことが必要だったからです。しかし今は違います。人と関わらなくても生きていけるのです。そうであれば「誰に対しても等しく扱う」ことは有り得ないことです。あの人は好きだけれど、あの人は嫌いと、却って「分け隔てして」しか生きられないのです。

更に「わたしたちの主イエス・キリスト」を信じながら(信じる者)、と言われております。これは「主イエス・キリストを、私どもの救い主と信じ、告白する」ということです。主イエスは、私どもの罪を贖うために十字架に死に、そして甦ってくださいました。主が復活してくださったゆえに、私どもも、主と共に天に住まいする永遠の命の約束をいただいているのです。私どもを神の子とし、甦りの命を与えてくださったのです。その主イエス・キリストは、十字架において、分け隔てなく私どもの救いを成し遂げてくださいました。すなわち主イエス・キリストは「すべての者の贖い主」なのです。分け隔てなく、主は贖ってくださいました。すべての者の「甦りの初め」となってくださり、すべての者を「永遠の命に与る者」としてくださっているのです。分け隔てなく、すべての人を神の子としてくださる、それが主イエス・キリストです。神の救いのできごとは「神の憐れみのできごと」であることを覚えたいと思います。神の憐れみは分け隔てのない憐れみ、そしてそれが神のあり方なのです。
 どんなに自分が救いに相応しくない、と思ったとしても、神は私どもを救いの内に入れていてくださっております。いえ、神などいないという者に対しても、神は救い主として臨んでいてくださっているのです。

このように「主イエス・キリスト」と表現したので、イエス・キリストは「栄光に満ちた方」とつけたのでしょう。「栄光のキリスト」とは、どういうことでしょうか。栄光は「神が神としてご自分を現すこと」です。すなわち、主イエス・キリストによって、神がご自分を救いとして現しておられる、私どものうちに神の臨在を現しておられるということです。ですから、私どもが主イエス・キリストを思うとき、感じることは、神が私どもに臨んでいてくださるということなのです。そのように、主イエス・キリストによって神を感じる、神が臨んでいてくださる、それが「栄光」ということです。そういう存在として、私どもは人を分け隔てしてはならないのです。

1節にこのように記した後に、分け隔てする実例が挙げられております(2節)。「金の指輪をはめた立派な身なりの人」とは、身分の高い人ということです。3節「その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら」と記されておりますが、このようにしてはいけないと言っているわけではありません。なぜなら、この方なら、と上席を勧めるということもあるからです。
 4節「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」と続きます。ここで、貧しい人にも上席を勧めたならば良かったのでしょう。つまり「扱いが違う」ことが問題なのです。当時の教会のことを考えてみましょう。当時の教会は、どちらかと言えば貧しい人々の集まりでした。ですから、身分の高い人が来ることは特別なことで、そのような場合には過剰なもてなしで迎えたい気分はあったはずです。しかし、ここでは「等しく」と言われております。それは、人は皆、神の前に平等であることが前提にあってのことです。
 このことで言いますと、プロテスタント教会が今日の社会に訴えてきたこと、それは「神の前に、自由と平等」でした。このことが現代社会を形作ったと言えます。しかし昨今は「自由と平等」よりも「差別化」が言われるようになって、脱近代、脱教会の様相を呈しているのです。等しいことが失われれば、差別につながります。貧富の差を認める時代になったのです。このように自由と平等を失った時代で生きようとしている私どもに、今、「人を分け隔てしてはならない」ことが示されております。
 「誤った考えに基づいて判断を下した」とは「この世の価値観を基準にして判断する」ということです。「この世の価値観」はこの世と共に移り変わる、時代と共に変わって行くものです。ですから、時代を貫く価値観ではないのです。少し前の社会では思想が第一、イデオロギーが重んじられました。では、今の社会は何を重んじているのでしょうか。それはお金でしょう。誰もが自分の利益を優先するこの社会で、語られることは嘘ばかりですし、一体何が本当に価値あることなのかを見失っているのです。お金第一の価値観は、地上と共に滅びる価値観です。そして、ここで言われていることは、そのような地上の価値観に依り頼んではならない、それは誤った考えだということです。

今の時代、本当に価値あるものは何なのか、分らなくなっている現実の中で、この震災を通して、若者たちは「ボランティア」ということを価値あることとし、ボランティア活動が支えになっているという面があります。それは大事なことですが、しかし、ボランティアはやはり、地上を超えた価値観にはなり得ないのです。
 ですから「誤った考えに基づいて」と示されることを通して、私どもは、揺るぎなく真実な価値観に生きることの大切さを思わなければなりません。それは、私どもは「等しく神の憐れみの内に置かれている」ということです。「等しく神の憐れみの内にある」この真実は時代を超えて変わらない価値観であることを覚えたいと思います。

等しく神の憐れみのうちにある、そこにこそ、人を分け隔てすることなく共に生きる道が開かれていることを、感謝を以て覚えるものでありたいと思います。

パウロの降参」 7月第2主日礼拝 2011年7月10日 
小島章弘 牧師 
聖書/使徒言行録 第9章1〜9節
9章<1節>さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、<2節>ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。<3節>ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。<4節>サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。<5節>「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。<6節>起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」<7節>同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。<8節>サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。<9節>サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

ここは聖書の中でも、今の言葉でいう「超有名」な箇所の一つです。長く教会生活をされた方は、数回、あるいは数十回お読みになったことがあるのではないでしょうか。
 パウロなくしてキリスト教なしとも言われるほどに、パウロはキリスト教信仰にとって重要な人物です。しかし、彼はユダヤ教のガマリエルに師事していた生粋のファリサイ派の人でありました。聖書には前回お話しした殉教者ステファノの場面で登場しています。その時には、サウロという名で出てきています。その際、サウロは首謀者ではなかったようですが、ステファノ殺害について賛同していたことは確かなようであります。
 サウロは、さらにキリスト教徒「この道のもの」の殺害に息を弾ませていたとありますので、手を緩めずステファノ殺害の後、勢いを強めていきました。その先頭に立ったようにも見えます。若きサウロは、まさに意気揚々と、自分の信じるところに突き進んでいたのです。ヒーロー気分になって、自己絶対化、自己正当化してユダヤ教の先鋒として励んでいたのです。自分のしていることを微塵も疑わず、活動していたその最中に、神がサウロを捉えたのです。

信仰を与えられる道は、人まちまちです。突然閃光に出会ったように捕らえられることもありますが、何十年もかかって信仰を与えられることもあります。正宗白鳥のように、信仰を与えられながら途中休教して、死の間際に帰ってくるということもあります。

人さまざまな形で、神はその人に働きかけ、呼びかけられます。サウロの場合には、劇的な形で起こりました。なぜそのようになったのかは分かりません。おそらくサウロ本人も分からないことなのです。使徒言行録に、ルカはこのダマスコ途上での出来事を3回記しています。この9章、22章、26章です。その他パウロ書簡では、ガラテヤの手紙1章、コリント?12章など。その中で、ステファノに触れているのは22章のみです。ステファノの殉教の死は、そのときのサウロに何らかの影響、インパクトを与えたことは想像できます。事実サウロは、ステファノの死後、勢いづいているように思われますから、サウロの心の奥深くに、心のど真ん中にぐさりと突き刺さったものは、サウロにじわじわと変化をもたらしていたのかもしれません。(使徒言行録22:20)
 それと同時に、その人がそのことを、その方を否定すればするほど、そのものとのかかわりが深くなるわけです。関心を持てば持つほど、否定すれば否定するほど、そのことに関わらざるを得ないことになります。ついに、サウロは、まさにレスリングや柔道で床に組み伏せれ、フォール(落ちる)で勝負がつくように「神に降参」したのです。

先日、丁度あの3・11より2ヶ月後、6月11日に、NHKラジオで、ノンフィクションライターの柳田邦男さんと福島出身の詩人和合亮一さんが対談をしておりました。その中で、あのような未曾有の災害で、あらゆるものを喪失し、空しさ、苦しみ、痛み、絶望など言葉を失ってしまっている状況で、やはり言葉や音楽が突破口になるということを語っておられました。
 たとえば、坂本九さんの『上を向いて歩こう』とか『アンパンマンの歌』が、被災地では生きる勇気になっているといいます。

『アンパンマン』 歌詞/やなせたかし
 
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
 なんのために 生まれて なにをして 生きるのか こたえられない なんて
 そんなのは いやだ!
 今を生きる ことで 熱い こころ 燃える だから 君は いくんだ ほほえんで
 
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ 胸の傷がいたんでも
 ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
 なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ わからないまま おわる
 そんなのは いやだ!
 忘れないで 夢を こぼさないで 涙 だから 君は とぶんだ どこまでも
 
 そうだ おそれないで みんなのために 愛と 勇気だけが ともだちさ
 ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため
 時は はやく すぎる 光る 星は 消える だから 君は いくんだ ほほえんで
 
 そうだ うれしいんだ 生きる よろこび たとえ どんな敵が あいてでも
 ああ アンパンマン やさしい 君は いけ! みんなの夢 まもるため

また、V・フランクルは「意味による癒し」28ページで次のようなことを書いています。
 「ある年配の開業医が妻を失い、うつ状態になり、フランクルのところにやってきたのです。そこで、彼は、その人に『もしもですよ、ドクター、あなたが先に死んで、あなたの奥さんが後に残ったとしたら、どういうことになっていたでしょうか?』『おお それは恐ろしいことです。どんなに苦しむことでしょう!』と、フランクルは、彼に『そうでしょう、ドクター、そういう苦しみを奥様に味わわせないで済んでいるのですよ』、それを聞いてドクターは、静かに部屋を出て行ったというのです」
 この場合でも、言葉がその苦境を救ったのです。

このパウロの回心といわれる出来事で、サウロの中に起こったことは、やはり「言葉」でありました。
 その顛末は、今日の箇所に出ています。ダマスコに差し掛かったとき、突然光に照らされ、地に倒され、サウロは声を聞いたのです。言葉を聞いたのです。神が働いたのです。そこには光と言葉があったことが暗示されています。
 「なぜ迫害するのか」との声を聞いたサウロは、「主よ、あなたはどなたですか」と問い返す。「あなたが迫害しているイエスである」。こともあろうに、自分にとっての敵であるキリストご自身が、サウロに言葉をかけたのです。言葉は、人を変えます。いい意味でも悪い意味でも。言葉は、場合によっては傷つけてしまうこともあります。牧師という立場にありながら、どれだけの人を傷つけてしまったことか。人を生かす言葉が少なくなっているのかもしれません。説教も例外ではありません。
 そして、サウロは「起きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」という言葉を聞いたのです。サウロは、ダマスコを意気揚々として上ってきたのですが、復活のキリストと出会い、その言葉を聞くことによって、変わり果てた姿になってしまいました。それまでの勇姿はなく、あたかも死んでしまったかのようになってしまったのです。自分ひとりでは歩くことができないほどに変わり果ててしまったのです。ここで何が起こったかを、この出来事から聞くことが出来ます。つまり、サウロになすべきことが知らされると語られたように、それまで自分がやりたいことをやりたいだけして、自分の意志で生きてきた者サウロに「なすべきことを告げられる」ことが起こって、サウロは変わったのです。サウロは、自分で進むべきことを決めるのではなく「ただキリストの導きのまま生きる者」になったのです。自分のしたいことをやめて、キリストの命じられたことをする者へと変えられたのです。したがって、今日は、このところを回心といわず「降参」としたわけです。

だれでも「キリストと出会う」ということは、自分を生きるのではなく「キリストを生きる者となる」ことであり、使命を与えられるということです。

約束の国を受ける者」 7月第3主日礼拝 2011年7月17日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章5〜14節
2章<5節>わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。<6節>だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。<7節>また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。<8節>もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。<9節>しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。<10節>律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。<11節>「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。<12節>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。<13節>人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。<14節>わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

5節「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と綺麗な言い回しで訳されております。しかし原文では「聞け、わたしの兄弟たち、愛する者たちよ」という並びで、命じているのです。そこにはヤコブの強い意思が感じられますし、強く「聞くことの大切さ」を響かせていると思います。

ヤコブは「わたしの兄弟たち」と言います。そこにヤコブの思いがあるのです。「わたしの兄弟=神の家族」だから「聞いて欲しい」と語りかけているのです。
 そして更に「愛する兄弟たち」と言っております。ヤコブは聞く者たちを「神の家族」として「愛している」のです。愛しているがゆえに、強く語りかけております。それは支配的になりたいということではなく、「愛するがゆえに、是非、このことを守ってほしい」と勧めているのだということを覚えたいと思います。

では、何を勧めるのでしょうか。まず「自分たちキリスト者がどのような者であるのか」そのことを明らかにした上で、勧めております。命じる前に、まず前提となることを思い起こさせ、確認するのです。「キリスト者とは、いかなる者なのか」を確認させるのです。5節は「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」と続きます。「神が、貧しい者を、あえて、選んでくださった」と言われております。
 「貧しい者」とは、どういう人でしょうか。社会的に貧しい人は、お金に頼ることができません。お金に頼れない、それゆえに人にも頼れない。だから神に頼るほかない。この世の一切に頼ることができず、神に頼る以外にない。この世の貧しさは、人を信仰へと導くものとなるのです。ですから「貧しい」ことは、社会的貧困であり、かつ「神により頼むほかない」という意味で神学的な「信仰告白」の言葉でもあるのです。「貧しい」という言葉は、信仰を現す一つの言葉であることを、ここで改めて覚えたいと思います。

「神により頼むほかない」それは「神の憐れみにすがる、神の憐れみを必要とする」ということです。ですから、「貧しい」という言葉は「神」が「憐れみの神である」ということを言い表す信仰の言葉でもあります。「キリスト者は、神の憐れみによってのみ、生きる者である」それが「貧しい」という言葉に言い表されていることです。

「あえて選んで」と言われております。この手紙の聞き手はキリスト者です。キリスト者は「神の特別の選びに与った者」だというのです。しかしそれは「神の一方的な選び」によるのであって、選ばれた者に何らかの根拠があるわけではありません。この世において価値ある者が選ばれたのではなく、価値なき者が選ばれるのです。実力があり、試されて合格し、選抜されたということであれば、それは必然の選びでしょう。しかし、神の選びはそのような必然の選びなのではなく、「神の自由な意志による選び」であることを忘れてはなりません。
 このことは、とても大事なことです。「神の自由」それは「神の主権」を現しているからです。主権者の選びに理由など必要ありません。それはこの世の基準ではないのです。そしてそのような選びが「キリスト者の選び」なのです。
 神によって選ばれた者は、自分には何らの選ばれるべき根拠を持たないがゆえに、主権者である神を誉め讃えるほかありません。そして誉め讃えることによって、神が「主権者なる神であられる」ことを現すことになるのです。

人は、なかなか自分の思いを捨てきれないものです。ほんの少しであっても、自分に何かの根拠を持とうとする、自分の小さい何かに頼ろうとする。そうである限り、神に依り頼むことはできません。ただ、それほどに愚かで小さい自分であることを知ることを通して、だからこそ神の憐れみにすがる以外にないことを覚えて、神に依り頼む日々を繰り返す中で、少しずつ変えられていくよりないのです。

私どもは「神の愛」とよく言いますが、「神の愛」には「神の選び」の意味があることを覚えたいと思います。神の愛ゆえに、神の憐れみゆえに、このように小さな価値なき私どもを選んでくださったのです。「神が選び取ってくださった」それが「神の愛」です。信仰における「愛」とは「神の選び」の出来事であることを覚えたいと思います。ただ、仲良く楽しくしていることが愛なのではありません。
 神の愛の出来事は「神がとてつもない損をしてまでの痛み、苦しみ、嘆きを含む自己犠牲によっての愛、選びである」ことを忘れてはなりません。それは「ご自分の御子主イエス・キリストを十字架につけてまでの愛」なのです。
 例えば結婚を例に取ってみますと、結婚における愛とは「この人を選び取った」ということです。「この人とどこまでも関わっていく」という社会的な愛と同時に「この人を選んだ」という仕方での愛であることを覚えたいと思います。
 「愛」とは、愛されることを求めるだけではなく、主体的に自ら選んで愛するのだということを忘れてはなりません。

「神の愛」はどのようなものか、改めて覚えたいと思います。それは「一方的に神がこの世から私どもを特別に選び取ってくださって、ご自分のものとしてくださった」ということです。そして、それが「私どもがキリスト者である」ということなのです。
 選ばれた者はもはやこの世のものではなく「神のもの」となるのです。神に属するという「所属」が明らかになるのです。この世に存在していますが、神に所属しているのだということを覚えたいと思います。
 人にとって、どこに帰属しているかということは、とても大事なことです。帰属は自分の存在を確かにするからです。キリスト者は、自分の存在の確かさを神に持っているのです。そして、この礼拝において、神に帰属していることを確かに知るのです。
 神の選びは、神の愛、神への帰属を意味するのだということを覚えたいと思います。

「信仰に富ませ」るとは、どういうことでしょうか。信仰深いということでしょか。「信仰」とは「神をこそ頼みとする」ことですから、富ませるという言葉はイメージしにくいことです。「信仰に富む」とは「信仰において豊かになる、富める者となる」ということです。信仰が豊かになるということではなく「信仰において豊かになる」のです。
 そして「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった」と、信仰に富むことの内容が示されております。「神の国の相続人となる」というのです。貧しい者が豊かにされる、それは「約束の御国の相続人である」ということです。貧しい者は相続するものなど何もないはずなのに、そのような者が、本来ならば与り得ない、神の国を受け継ぐ者となるというのです。
 私どもは、やがては地上の生を終える者です。この地上で終わるのであれば、地上の富も大事でしょう。しかし、必ず死を迎える私どもにとって、この世の一切は必ず失われるものなのです。
 決して失われないもの、それは神の御国、それが富です。神は「信仰ある者を豊かにしてくださる」それがここに言われていることです。
 「神の支配のうちに永遠に生きること」それが「神から与えられる富」です。キリスト者には「神との尽きることのない交わりに生きるという約束」が与えられているのです。

そして、その神の約束は、決して失われることはありません。なぜならば「神の約束は真実」だからです。人の約束は、人は不完全であるがゆえに果たし得ないものです。果たしたいと願っても出来ないことがあるのです。
 しかし、神の約束は「主イエス・キリストの血による約束」であるがゆえに決して失われないのです。主イエス・キリストの贖い、命をもって、汚れなき血をもっての約束、契約であるがゆえに「揺るぎなく確かな、真実な約束」なのです。
 神の約束は命をささげられての約束。私どもキリスト者は、その確かな約束に与っているのだということを覚えたいと思います。
 終わりの日の「揺るぎない保証」を与えられているということです。何と幸いなことでしょう。主の十字架をもっての保証、神の国に生きるという保証です。

ここで確かめておくべきことがあります。「御自身を愛する者に」と言われておりますが、それは人が主イエスを愛したから、ということではありません。何よりもまず「神の愛、神の選び」があって「その愛に応える者として、応答する者としての愛」それがここに言われる「キリスト者の愛」です。
 一方的な神の愛に対する「応答としての愛」なのです。ここで大事なことは、神は人に「神の愛に応えることができる人格をお与えくださっている」ということです。
 人は、主体的に愛するということはできません。神の愛に応える者として、愛せるのです。人の主体的な愛は、独占的であり見返りを求める、苦しい愛です。しかし、そんな私どもが「愛せる」のは、神の愛への応答として「神を愛するがゆえに、人をも愛せる」のです。自分が主体である愛は、相手を支配する愛になるのです。けれども、そんな私どもを「愛することができる者」と、神はしてくださるのです。それは、神の愛、ご恩寵を知ることによってのことです。

「神の恵みに応える者として愛する」、それが私どもの愛であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

信仰は行いを伴う」 7月第4主日礼拝 2011年7月24日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第2章5〜17節
2章<5節>わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。<6節>だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。<7節>また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。<8節>もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。<9節>しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。<10節>律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。<11節>「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。<12節>自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。<13節>人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。<14節>わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。<15節>もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、<16節>あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。<17節>信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

6節「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか」と記されておりますが、これはどういうことなのでしょうか。
 ヤコブが指導したこの教会の人々は貧しい人たちでした。2・3節を読みますと、その教会に、指輪をはめた身なりの立派な人、つまり富める人が来ると上座に案内し、貧しい人が来ると立っているようにと言って、来る人によって差別する行いをしていたのです。そんな彼らに対して、5節では、神が貧しい者をどのように扱われるか、神は無力な貧しい者を憐れみ、選び取ってくださり、神にあって「存在ある者」としてくださるということを思い起こさせ、そのように神が貧しい者を扱ってくださっているのに、人を差別するあなたがたは「貧しい人を辱めている」とここで言っているのです。自分自身が貧しい者でありながら、そしてまた神の憐れみを受けて選ばれたにも拘らず人を差別するとは、神の憐れみを無にすること、神の御心に反することであると言われております。
 「辱める」とは、神の憐れみに反するということ、そしてそれは、自らに与えられている尊厳をも辱めることになるのです。

更にヤコブは、富める者が貧しい者をひどい目に遭わせるという経験があなた方にもあるでしょう、と思い起こさせております。富める者は、貧しい者の僅かな借財をも返済できなければ裁判所に引っ張っていき、身ぐるみはぐようなことをしたのでしょう。この記述から、当時は、富める者が貧しい者を搾取する、そういう社会だったことが分ります。
 しかしここでヤコブは、だからと言って、貧しい者の集う教会に来た富む者を排斥しよう、追い出そうとは言っておりません。富む者の中にも、貧しい者に同情する者、また信仰を求めて来る者もいたでしょう。
 この世と同じ扱いをすることが、教会のすることではありません。富む者にも「神の憐れみは必要」なのです。ですからヤコブは、富む者であっても、主に招かれた者として等しく扱うべきと言っております。富む者がどうあるべきかを言ってはおりません。貧しい者も富む者も「等しく主イエス・キリストの贖いのうちにあることを知れ」と言っているのです。

7節「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか」と記されております。富む者は社会的に強いだけではなく、「尊い名を、冒涜する者」でもあったことが示されております。それなのに「そのようなものに媚びへつらうとは!」と言っているのです。
 富める者はとは、自分の富に依り頼む者ということです。この世において優位を持ち、この世の価値観を神とする、それが「神を冒涜する」ということです。
 ここで「与えられたあの尊い名」とは「主イエス・キリスト」のことです。主を信じて洗礼を受けた者には「主イエス・キリストの尊い名(御名)」が与えられ、そして「キリスト者」と呼ばれるようになるのです。
 「主の御名を与えられる」とは、どういうことでしょうか。主イエス・キリストは「十字架のキリスト」です。ですから、主の御名を与えられることは「十字架の恵みを頂く」ということです。「十字架」は「私どもの罪の贖いとしての死」です。私どもは、主の十字架によって「罪を贖われ、罪赦されているという恵み」を頂いているのです。それゆえ、主イエス・キリストの御名は尊い。それは「罪の赦しを頂いている」という尊さです。
 更に、主イエス・キリストは「復活の主」です。ですから「キリストの復活の恵みに与る」ということは、主と共に甦る「永遠の命の約束を頂いている」という恵みなのです。
 罪の赦しと永遠の命の約束、この2つの恵みが、主の尊い御名によって与えられるのですから、キリストの御名を頂くことは何にもまして尊いことなのです。キリストの御名は「神の憐れみ」を示します。神の憐れみは神の救い、救い主の御名であるが故に、キリストの御名は尊いのです。
 ですから、主を信じる者にとってキリストの御名は麗しく慕わしく、その名を聞くだけで慰めを受け、満たされる。キリストの御名は、キリスト者にとっての希望です。
 ここで、富める者は、この尊い御名を冒涜していると言われておりますが、それは富める者を責めている言葉ではないのです。信仰の無い者にとっては、キリストの御名は無に等しいのですから、軽んじるのは当たり前でしょう。信仰ある者にとっては尊いのですが、信仰無い者にとっては価値が無いのですから、信仰の無い者を責めても意味はない、そのことを覚えておかなければなりません。
 信仰無い者はその恵みを知らない、けれども、信仰ある私どもにとっては何にも代え難く尊いものであることを知って、それゆえに、教会に来るどのような人をも差別してはならないのです。
 誰がどんなにキリストの御名を冒涜しようとも、キリストこそ「すべての者の救い主」であられます。主を冒涜する者にとっても、救い主なのです。ですから、教会のなすべきことは、排斥ではなく「恵みを宣べ伝えること」です。主を冒涜する者にも救いが用意されていることを知ることが大事なのです。

神は、貧しい者をこそ尊い者としてくださる方です。
 富める者を特別視し貧しい者を軽んずる、それが人の思いであることを知らなければなりません。貧しい者は貧しさに、富む者は富に捕われる。それは何故でしょうか。人は地上を生きる者である限り、捕われた思いを持つことは当然なのです。
 「信仰」とは「捕われない心、解き放たれた思い」です。この世の捕われから解き放たれること、それが信仰の恵みの出来事なのです。キリスト以外の一切のものに捕われない。キリストの恵みに満たされているがゆえに、捕われなくなるということが起こるのです。
 「心が満たされている」そこで人は本当に心が自由になるのです。ただ主の恵みのゆえに贖われ、赦され、キリストに満たされているがゆえに、その他の何ものにも依り頼む必要がなくなるのです。
 キリストの御名のゆえに、欠け多き私どもに、永遠の命の約束、地上を超えた希望が与えられている。それは、地上のこの命からさえも解き放たれるほどに「満たされる」ということです。

そして、何よりも幸いなことは、罪の赦しと復活の希望を、私どもはこの礼拝において繰り返し聴くことができるということです。主によって定められた礼拝の日々に、繰り返し繰り返しキリストの恵みを想起し、満たされて、この世での一週の日々を過ごすことができるのです。この礼拝において、心合わせて祈る。そこで再びキリストの恵みに満たされ、この世の捕われから解き放たれることができるのです。

神の招きのもとに集められ、主に満たされた者として生きることができる、何と幸いなことでしょう。繰り返し繰り返し、主が御言葉をもって私どもに臨んでくださっていることを、感謝をもって覚えたいと思います。

主と共にある死と命」 7月第5主日礼拝 2011年7月31日 
中西康之 神学生 
聖書/ローマの信徒への手紙 第6章1〜14節
6章<1節>では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。<2節>決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。<3節>それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。<4節>わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。<5節>もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<6節>わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。<7節>死んだ者は、罪から解放されています。<8節>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。<9節>そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。<10節>キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。<11節>このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。<12節>従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。<13節>また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。<14節>なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

(キリスト者の門出)
 私たちは普段、「キリスト教」と聞くと、何を想像するでしょうか?…ここにおられる多くの方々は、洗礼を受けて久しいベテランの信徒さんなのに、いったい私は何をお尋ねしているのでしょうか。バカげた質問かもしれません。
 では、キリスト者になるための要件として、私たちは何を想像するでしょうか?…それなら、恐らく答えは一つしかないと思います。…それは、洗礼です。もしかすると、「キリスト者になる」という表現に、不快感を覚える方もおられるかもしれません。
 私たち人間が神を選んで、この愛宕町教会を選んで、それで洗礼を受けて信徒になったのではありません。神が私たちを選び、神がこの教会へと私たちを招き、神が私たちを御自分の民にしようと、洗礼を授けてくださったのです。すべて、主体は神ということになりますね。
 …神と私たちとの出逢いはもちろん、私たちが母の胎にいるときから始まっているのですが、とにかく、目に見える地上の教会における私たちの教会員としての歩みは、洗礼によって始まるといってよいでしょう。洗礼こそが、私たちキリスト者の新しい人生の始まりです。もし、この教会に求道者の方がいらっしゃるのでしたら、その方にも、新しい人生の始まりの日を、是非、心待ちにして頂きたいと思います。

(律法遵守の世界)
 さて、今日の聖書ですが、6:1のパウロの問いかけは、何か違和感を覚えます。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」一見すると、愚かな問いかけです。なぜ、パウロはこのような問いをなしたのでしょうか?
 今日、私たちが拝読した箇所の前になりますが、5:20に、こう書かれています。「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」
 このパウロの言葉を聞き、「なるほど、恵みが増すように、もっと罪を犯そう」…そういう愚かな“揚げ足とり”をする輩がいたのかもしれません。しかし、パウロが取り組んだ問題は、そう単純ではありませんでした。
 ここで問題になるのは、ユダヤ教の伝統を代表する思想の一つ、つまり、「律法をひたすら遵守することにより、神に義と認めて頂く」というものです。この考え方は、行為義認とも呼ばれています。この考え方が行き過ぎると、律法主義になってしまいます。
 ご存知の方も多いかもしれませんが、パウロが生きた時代では、ローマ帝国にとっても、またユダヤ人にとっても、キリスト教はユダヤ教の分派の一つという認識に過ぎず、多くのキリスト者たちは、主イエスを神の子メシアとして信じつつ、なお律法を守る生活を続けていました。当時はまだ、新約聖書がありませんでしたので、旧約聖書に規定されている律法を守ることは、特にエルサレム教会を中心とする多くのキリスト者にとって重要なことだったのです。
 このように、ユダヤ教的価値観が抜けきっていない社会にあって、信徒が神に義と認められるためには、当然、律法を守る生活が求められました。律法を守ることなしに、生活上の道徳や倫理は守られない。彼らがそのように考えることにも、一定の理はあったと思われます。
 そこに、律法からの自由を説くパウロの宣教が始まりました。そうなると、当然のことながら、律法を守り続けるキリスト者との衝突が生まれます。「律法を守らなければ、信徒の生活が乱れるじゃないか。あなたはいったい何を考えているのだ!?」…パウロはそうした人々と対決する必要があったのです。
 しかし、パウロはあくまで、律法によってではなく、神の恵みに与ることによる新しい義を唱えました。その前提となるのが、私たちの主イエス・キリストと結ばれるための洗礼です。

ここで、パウロが語る律法という言葉の定義について、少々お話ししなければなりませんが、その前に、モーセの時代から受け継がれてきた律法の概念について、しばらくお話ししたいと思います。
 本来の律法とは、エジプトで奴隷状態だったイスラエルの民を、神がモーセを通して導き出し、イスラエルの民が二度と人間の奴隷にならないように定めた掟です。また、本来の律法とは、ただ神と隣人に仕える者として、自由な者として平和のうちに生きていけるように定めた、愛に満ちた掟です。
 神が定めた律法とは、無味乾燥な法律とは違い、「あなた」、「あなたたち」と、2人称をもって神が親しく語りかけてくださる掟です。そうした律法によって、イスラエルの民は、神を中心とした自由で平和な生活を送れるはずでした。イスラエルの統治の原則は、神の直接支配です。イスラエルとはヘブライ語で「神、支配したもう」という意味です。
 ところが、イスラエルの民の、神を中心とした平和で幸福な生活は、長くは続きませんでした。王国時代と捕囚期を経て、エズラ記、ネヘミヤ記にも記されている第二神殿の時代になると、ユダヤ教団という、制度的に整えられた宗教国家が生まれ、本来は神と人の親しい交わりにおける愛と恵みのルールだった律法が高度に形式化されて、やがて人々の生活を縛るものへと変わっていってしまいました。
 新約聖書の時代になると、形骸化した律法は、むしろ律法を守ることによって神の祝福に与るという、神と人との恐るべき逆転を生みました。本来の律法の精神だった、神の恵みや奴隷からの自由という中身は失われ、祭司や律法学者たちの地位を守るための道具とされていったのです。このことを、律法主義と呼ぶのはご存知のことでしょう。
 パウロがローマの信徒への手紙で批判している律法とは、まさに形骸化した律法や、律法主義に他なりません。モーセに与えられたばかりの新鮮な律法ではなく、守ることが自己目的化された、古びた律法のことを指しているといえるでしょう。

(洗礼の効力)
 初代教会の洗礼は、全浸礼、つまり、川などに入り、全身を水に沈めるというやり方が主流でした。しかも、父・子・聖霊、三位一体の神の御名により、三回も全身を沈めます。…これは、私たちキリスト者が一度死ぬことを意味しています。6:3に書いてあるように、こうしてキリスト者はキリストに結ばれ、また、キリストの死に与るのです。
 しかも、私たちがキリストに結ばれるということは、ただキリストの死に与るだけではありません。4-5節に書かれているように、キリストが御父の栄光によって復活させられたように、キリストに結ばれた私たちもまた、将来の復活に与ることが約束されています。キリストの死に与って死んでいる私たちは、キリストによる新しい命へ向けた、希望の光の中を歩んでいるのです。
 このように、キリストと信徒との一体性は、この後のパウロの議論を理解するために、不可欠な前提となっていることを覚えたいと思います。

(パウロと十字架)
 6:6で、パウロはこう語っています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」
 …パウロが十字架について語るのは、当然と思われるかもしれません。しかし、手紙の中でパウロが十字架という言葉を使う時には、実は、相当な覚悟があるのです。ローマの信徒への手紙の中で、パウロが十字架という言葉を使っているのは、この6:6だけです。パウロは相当な覚悟をもって、ここぞという時に、十字架という言葉を使っています。なぜでしょうか?
 今日、私たちが十字架と聞くと、何か、「ありがたい」という想いを抱くかもしれません。私たちのために十字架を背負い、私たちのために死んでくださった、あの主イエスの愛を感じるかもしれません。……もちろん、そのように感じることは、全く悪いことではありません。
 むしろ、それは正しい信仰です。
 しかし、パウロが生きていた時代において、十字架という言葉は、今日のキリスト者が抱くような肯定的な想いと同じように受け止められていたわけではありません。
 説明の必要もないかもしれませんが、そもそも十字架とは、古代のローマ帝国において、最も残虐で惨めで、屈辱的な刑罰でした。信仰のない人々にとってナザレのイエスは、弟子たちにも裏切られた惨めな死刑囚に他なりません。自ら“ユダヤの王”を名乗り、祭司長や律法学者たちによって排斥され、最期は憎むべき支配者ローマに引き渡され、処刑された敗北者に過ぎません。
 ユダヤ人にとっても、十字架刑は屈辱そのものでした。申命記21:23には、こう書かれています。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」
 このようにして振り返るとき、十字架とは、必ずしも美しく響く信仰的な言葉ではなく、むしろ、多くの人に躓きを与える言葉になります。十字架とは本来、おぞましいものなのです。十字架につけられた死刑囚を神の子メシアとして宣べ伝えることは、当時の人々にとって、極めて異様な響きがあったことでしょう。
 しかし、それでもパウロは、6:6で十字架という言葉を使いました。この手紙でたった一回しか使われていない言葉です。
 …当時の人々が目を背けようとする、あのおぞましい十字架においてこそ、主は私たちを罪から解放してくださった。パウロはそのことを、力強く語っています。私たちは、十字架で血を流して死んでいった、あの主イエスの惨たらしいお姿から、決して目を背けてはならないのです。
 なぜなら、主イエスは御自分のために死なれたのではなく、私たちの罪のために死んでくださったからです。
 どうせ復活するんだったら、死ななくてもよかったじゃないか?…信仰がない人は、そのように考えるかもしれません。しかし、主イエスの十字架によって、私たちの罪は露わにされています。主イエスの十字架の死が必要ないと思うことこそ、私たちの重い罪です。私たち一人ひとりの中にある罪を思い知らされ、その罪の深刻さに気付かされるとき、私たちは十字架につけられた主イエスにすがりつき、涙を流して神に赦しを乞う他ありません。
 しかし、私たちが赦しを乞うよりも先に、神は私たちを赦してくださっています。私たちはすでに罪赦された者として、神に赦しを乞うのです。私たちの謝罪が、神の憐れみを引き出したのではありません。主イエスの、あの十字架での惨めな死において、神は私たちの罪をお赦しくださったのです。そうした神からの一方的な働きかけによって、私たちは罪から解放されたことを覚えたいと思います。
 ……神のなさることは、私たち人間の理解を遥かに超えています。主イエスの決定的な敗北の中に、勝利と栄光が現れた。パウロが語る十字架には、惨めなキリストのお姿において顕された、神の恵みと救いが対照的に描かれています。

(罪からの解放)
 7節でパウロは、「死んだ者は、罪から解放されています。」と語りました。この「解放された」という言葉は、「不自由な者が自由にされた」という単純な意味よりも、むしろ、「無罪判決を下された」といった、法律用語としての響きを持っています。
 無罪判決を下すお方は、もちろん神です。私たちは、洗礼によってキリストに結ばれ、共にキリストの死に与るとき、神から無罪判決を受けるのです。私たちは罪深いまま、無罪判決を受けるのです。当然ですが、この無罪判決は、神の一方的な恵みとキリストの義によるものです。私たち人間の方から働きかけて、勝ち取ることのできるものではありません。もちろん、誰も覆すことのできない神からの無罪判決を受けるのですから、罪から解放されるのは当然といえるでしょう。
 そしてパウロは8節で、4-5節の言葉を繰り返します。キリストに結ばれ、キリストの死に与っている私たちは、キリストと同じように、やがて復活の命にも与るということです。私たちは将来、復活の命に与るというところが重要です。…それではなぜ、復活が重要なのでしょうか?
 5:12に書かれているように、パウロは罪の結果として死があるのだと語りました。キリスト教において罪と死は、切り離すことのできない問題です。ところが信仰のない多くの人々は、「人間は、病気にかからず、事件や事故にも遭わなければ、肉体の寿命が来て、自然に死んでいく」…というように考えていることでしょう。しかし、そのような考え方では、人間の罪と死の問題を正しく捉えることができないのです。
 罪と死について正しく捉えるとき、罪の問題が解決されるのなら、同じく死の問題も解決されなければなりません。仮に、私たちが罪から解放されていても、死が残っている限り、罪の問題が完全に解決されたとはいえません。これは、人類にとって永遠のテーマと呼べるものでしょう。
 しかし、罪と死の問題は、究極的には、キリストの死と復活においてすでに解決されています。ですから、私たち人間が罪からの救いに与るためには、洗礼によってキリストに結ばれ、キリストの死と復活に与ることがほぼ不可欠な事柄なのです。
 今、私は敢えて「ほぼ不可欠」という、曖昧な言い方をしました。それには、二つの注意点があるからです。一つ目は、洗礼という私たち人間の行為が、神の赦しと救いを引き出すのではない、ということです。洗礼とは、私たちが神の赦しと救いに与り、私たちが神のものとされていることの、目に見えるしるしです。洗礼を人間の側における救いの手段とすることは決してできません。救いはあくまで、神から頂くものなのです。
 二つ目は、洗礼を受けていない人、つまりキリスト者ではない人を、神は救うことがお出来にならないのか、という問題です。もちろん、教会で洗礼を受けてキリスト者になることが、私たちが救いに与るための通常の方法といえるでしょう。しかし、救いとはあくまで神の行為であり、神は全能なるお方です。私たち人間の側から、キリスト者ではない人の救いを決定することはできません。
 さらに、9節に書かれているように、キリストはただ復活したのではありません。「復活させられたキリストはもはや死ぬことがない」と書かれています。ただの復活だったら、いずれ再び死んでしまうことでしょう。そんな復活だったら、私たちが将来与る復活も、全くありがたいものではなくなってしまいます。いずれ死んでしまう復活の命だったら、罪と死の問題についても、全然解決されたことにはなりません。
 しかし、復活のキリストは、二度と死ぬことのない、不死のキリストです。キリストの復活について語るとき、それは同時に、永遠の命について語ることにもなります。私たちが将来の希望として約束されている復活の命が、永遠の命であるからこそ、復活は意義あるものとなります。永遠の命こそ、私たちが罪から完全に解放されていることの証しとなります。
 ……ところで、キリストの復活は、なぜ永遠の命と繋がるのでしょうか?復活と永遠の命は、どのような関係があるのでしょうか?
 パウロは10節でこう語っています。「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」
 この、「ただ一度」という言葉が、大変重要な意味を持っています。先ほど、罪の結果として死があるということをお話ししました。このことを経済的・法律的に譬えるなら、罪は私たち人間に、死という債権を持っていることになります。罪は、私たち人間一人ひとりの罪に支払う報酬として、死を持っているということです。
 ……もっと簡単に言いますと、私たちは罪に対して払い切れない借金を負っていて、借金を清算するためには、死ぬしかないということになるでしょう。…まさに、私たちの罪は、絶望的な状況なのです。
 しかし、そこに決定的な神の介入がありました。罪がすべての人に対して持っている、死という債権そのものを、主イエスは十字架での死において、完全に清算してくださったのです。私たちの主イエスは、ご自分の尊い命と引き換えに、すべての人が負っている借金を帳消しにしてくださったのです。
 もちろん、それだけでは終わりません。神がキリストを復活させることにより、罪と死の力が打ち破られました。罪はキリストの命を呑み込んで、さぞ満足していたことでしょう。しかし、罪と死の勝利は、わずか3日目に打ち砕かれます。そもそも、どれほど恐ろしい罪と死であろうとも、神に敵うはずがありません。万物の支配者であられる神は、罪と死を支配する神でもあられます。
罪は、これまで人類を苦しめてきた、死という、最も恐るべき棘を失ったのです。もはや罪は、私たちを死の力で縛ることはできません。
 しかも、復活させられたキリストの命は、神のものです。ですから、キリストに結ばれた私たちの命も、同じく神のものなのです。私たちを奴隷として支配していた罪の力は、キリストの死と復活の前に敗れ去り、その替わりに、神御自身が私たちを支配してくださっています。…そうです、私たちは神の奴隷とされています。洗礼を受けてキリスト者になるということは、神の僕、神の奴隷となることに他なりません。…奴隷というと、何か不自由になってしまう印象を受けるかもしれませんが、もちろん、神の奴隷になるということは、私たちを束縛するあらゆる偶像や人間の支配者から解放された、真に自由な神の民になるということです。

(罪の残滓)
 そこで、12節でパウロは次のように勧告しました。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。」…さらに、13節後半でパウロは勧告します。「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」
 私たちは罪の奴隷ではなく、神の奴隷とされています。ですから、罪ではなく、神に仕えるのは当然のことですし、私たちの体は、神のために献げなくてはなりません。
 …しかし、ここに、二つの疑問が出てきます。まず一つ目は:私たちは復活の命に与るはずなのに、パウロが私たちの体を「死ぬべき体」と言うのは、いったいどういうことなのでしょうか?…二つ目は:罪はキリストの十字架によって滅ぼされたはずなのに、どうしてなおも私たちを支配することができるのでしょうか?…という疑問です。
 一つ目の疑問、つまり、「私たちの死ぬべき体」に対する答えは、今日、私たちが読んできた聖書の中に、幾つか現れています。……今日の聖書箇所の中で、パウロは何度か復活について語ってきましたが、パウロが私たち人間の復活について語るときは、いつも未来形です。すでに起こったこととしてではなく、将来起こることとして、復活を語っているのです。
 同じくパウロが書いたコリントの信徒への手紙第一、15:26には、やがて来る終末についてこう書かれています。「最後の敵として、死が滅ぼされます。」…つまり、復活とは、終末の事柄であり、その時が来るまでは、残念ながら、私たちの体は相変わらず、死を纏っています。主イエスが再び来られる終末の時まで、私たちの体は死を免れることはできません。
 二つ目の疑問、つまり、「キリストに敗北し、滅ぼされたはずの罪が及ぼす、私たちへの影響」についてですが、一つ目の答えと関係しています。私たちの体は、終末に与る復活の時まで、相変わらず死を纏っていることをお話ししました。
 実は、この死ぬべき体が、非常に厄介なものなのです。確かに罪は、キリストに敗北し、私たちに対する支配権を神に奪われてしまいました。しかし、私たちの体に残っている死の力と同じように、罪の残り滓も依然として、私たちの体に潜んでいます。罪の残り滓は、いつも私たちを誘惑し、隙あらばもう一度、私たちを支配してしまおうとつけ狙っているのです。

(現在は戦いの時)
 このように、復活が将来の事柄である限り、今の私たちは、まだ完全に安心してはいけません。私たちは、将来の復活と永遠の命に与る確かな希望を与えられてはいるのですが、同時に、現在は罪と死の現実に晒されています。この緊迫した状況ゆえに、パウロは12-13節に書かれていることを語ったのです。
 罪と死は、相変わらず現実的な力をもって、私たちを圧迫します。神を知らない人に必ず死が訪れるように、キリスト者にも必ず死が訪れます。私たちにとっても、死は現実なのです。同じように、罪はいつでも、私たちを呑み込もうと待ち構えています。
 しかし、キリストに結ばれた者はみな、罪から解放され、神の奴隷として、罪に打ち勝つ力を与えられています。
 それゆえ、私たちは神の僕として相応しく、勇敢に罪と戦うことができます。死を必要以上に恐れる必要もありません。罪や死と戦うための信仰も希望も、キリストの十字架ゆえに、すべて神が与えてくださっています。
 弱い人間にすぎない私たちは、丸腰のままでいいのです。私たちが弱いからこそ、強いキリストがおられます。しかも、私たちの勝利は、キリストゆえに、すでに約束されています。

(神の義を顕すために)
 ……しかし、それにしても、私たちはなぜ、戦わなくてはならないのでしょうか?私たちは日々の生活で疲れ切っています。…もちろんそれは、罪の誘惑に負けないための戦いでもあります。しかし、もう一つ、重要なことがあります。一見愚かに思える、6:1のパウロの問いかけのことを思い出してください。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」
 …今日、冒頭でお話ししました、律法遵守による義の問題です。結局、パウロの議論は、律法の議論に戻ってくるのです。
 繰り返しになりますが、パウロが生きた時代では、ユダヤ人も、また、多くのキリスト者も、律法を守ることによって、神に義と認められると信じていました。また彼らは、律法を守る生活こそが、倫理・道徳にも適い、神の救いに与る生活であると信じていました。
 しかし、ご存知のように、パウロは律法による救いを否定しました。パウロが説いたキリストの福音は、律法ではなく、神の恵みによる救いです。ところが、律法を否定したとしても、神の義を否定することはできません。神は正しいお方、義なるお方ですから、もし、パウロが律法を守る必要がないと主張するのなら、律法がないところにも義があるということを証明する必要があるのです。本来、義を満足させるはずだった律法遵守を放棄したキリスト者において、義がいかに現実のものであるかを示す必要があるのです。
 もちろん、パウロが主イエスを通して神から示された解決方法は、キリストの死と復活であり、私たちがキリストに結ばれてその死に与ることです。
 しかし、主イエスの受難・復活と昇天の後は、神の義も、神の愛も、残念ながら、私たち人間の目で直接的に見ることはできません。御父と御子は、遥か天上におられるお方であり、地上におられるはずの聖霊も、私たちの目で捉えることはできません。そういう状況で、私たち人間は、どのように神の義を知ることができるのでしょうか?どのように神の愛を見るのでしょうか?
 しかし、私たちキリスト者の役割を忘れてはいけません。キリスト者は一人ひとり、キリストの名を戴いています。たとえ私たちがキリストの名に相応しくなくても、たとえ私たちが欠点だらけで不甲斐ない人間であっても、神は私たちを選んでくださったのです。神が私たちを選び、神が私たちにキリストの名を与えてくださいました。
 本当は何の価値もない私たちに、神は価値を与えてくださるお方でもあります。13節の真ん中に、「かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」と書かれています。確かに、私たちの復活と永遠の命は終末の事柄ですが、キリストに結ばれている私たちの体には、すでに復活が始まっているのです。キリストに結ばれ、命の根源である神のものとされた私たちの体は、すでに完成へと向かって歩まされています。
 それゆえ、先ほどお読みしました13節の真ん中や13節の最後に、私たちの体を神に献げるべきことが書かれていますが、ここで語られている「献げる」ということは、私たち人間が主体的になす行為ではありません。むしろ、キリストの十字架と復活ゆえに、神が一方的に私たちを選び、私たちを御自分の民として招いてくださった、その神の大いなる恵みの御業の中に、すでに私たちの体が献げられているのです。
 私たちの体を神に献げるとは、私たちがキリスト者として、神の恵みの下に生きることに他なりません。この「献げる」という言葉は、ギリシャ語では「側に立たせる」という意味があり、「神に献げる」という部分を直訳すると、「神の側に立つ」と訳すことができます。しかし実際には、私たちが神の側に立つのではなく、神が私たちの側に立っていてくださいます。…もうこれ以上、私たちは何をする必要があるでしょうか?あとは、神に感謝することしかできません。
 そのような私たちの、キリスト者としての生き様に、神の義が顕されます。神を見なければ信じない人々も、神の恵みに生かされる私たちの生き様を見て、真の生ける神の御臨在に触れ、主の御名を讃美するようになるのです。私たちが神の恵みの中に生きる、その生き様に神の義が顕されているのですから、もはや、律法は必要ありません。

私たちは確かに、律法の下ではなく、恵みの下にいることを覚えたいと思います。