聖書のみことば/2011.6
2011年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
御言葉を行う人」 6月第1主日礼拝 2011年6月5日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章22〜27節
1章<22節>御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。<23節>御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。<24節>鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。<25節>しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。<26節>自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。<27節>みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

22節「御言葉を行う人になりなさい」と勧められております。

改めて、「御言葉を行う」とはどういうことなのかと思わされました。主イエスが言ってくださったことを実行するということなのでしょうか。「御言葉」とは、個々人に与えられるものと限定できるものなのか、考えさせられるのです。

ここで「御言葉」について、25節に「自由をもたらす完全な律法」と言い直しております。「律法」とは何か。それは、契約に基づいて「神の民に与えられたもの」です。神に相応しく生きるために、契約に基づいて、神の民に与えられているのです。「神の民」とは「教会に集う神の民」ですから、従って「御言葉」は「教会」に対して与えられている、「共同体」に対して与えられているのだということを大事に思わなければなりません。
 もちろん、与えられた御言葉を個々人のものとして受け止めることも大事なことです。けれども、個々人が「御言葉を行う」ということを為し得るものでしょうか。例えば「敵を愛せよ」ということの難しさを思います。誰に対しても等しく捕われなく公平に扱う、そんなことが出来る人がいたとするならば、その人は賞賛に価する人として特別な存在になってしまいます。「敵を愛する」ことなど、普通の人に為し得ることではないのです。ですから「御言葉を行う」ことは、普通には出来ないことです。しかしもし出来るとすれば、出来れば出来る程に、その人は必ずしも神を現すのではなく、賞賛される者として自分自身を現すことになるのです。
 「御言葉」は、神の民に対して与えられているものです。「御言葉を行う」とは、神の民が御言葉を行うことによって「神を現す、神を誉め讃える」ことなのです。

続けて「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と言われております。この訳に間違いはないのですが、しかし違う直訳ができることを改めて思いました。
 「聞くだけで終わる」というと「聞いたのだから努力して為すべき」と聞こえます。しかしそうではない。「御言葉を力無いものにしてはならない」と言っていると思うのです。その根底にあることは、「御言葉」とは「力あるもの」であるということです。力ある御言葉を力あるものとしない、それが聞くだけで終わるということです。
 神の御言葉を頂くとき、私どもは「神の力を頂いている」のだということを忘れてはなりません。「神より力を頂く」だから「為し得る」のです。日本語としてはピンと来ないかも知れませんが、これは大変示唆的なことです。気付かされることは何か。「御言葉を行う」という場合、自分で行うと錯覚するということです。しかしそうではありません。「力なる御言葉に動かされて、為し得る」のだということを忘れてはなりません。「神よりの力があり、働きかけがある」、だからこそ私どもは「行わざるを得ない」のだということを覚えたいと思います。自分の強い意志や信念によって「できる」と思ってはなりません。もし、出来る人がいるとすれば、その人を賞賛せざるを得ないでしょう。「無力な者が為し得る」、それは「神の力に押し出されて、為し得る」のです。自分の力でやらなければならないと考えなくて良いのです。人の自力では、出来ても出来なくても自己問答に過ぎません。出来れば自分の努力を誉め、出来なければ自分を卑下するのです。
 「御言葉」とは、私どもに喜びを与え、感謝を与えてくれるものです。「感謝と喜びの言葉として受ける」、それが「御言葉を聞く」ということです。そして「御言葉を行う」とは「御言葉に押し出されて生きる」ことであることを覚えたいと思います。

では「自分を欺く」とは、どういうことでしょうか。預言者エレミヤの言葉を思い起こします。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか(17章9節、口語訳)」と、人は自らの欺きを自覚し得ないと言っております。人は自分を正しく認識できない者です。いや、認識して自らの無力さを知ったとしても、そういう自分に向き合うことはできません。出来ても出来なくても、人は自分を欺くのです。
 そういう私どもに大切なことは何か。それは「自分には出来ないが、神の御力を頂くことを望む」ということです。「為さしめてくださる御言葉に与ることを求める」ことこそ、私どもの真実なあり方なのです。

24節「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」と言われております。御言葉を行えずに諦めてしまう、そして御言葉から離れてしまうことの空しさを思います。
 人は、自分の本当の姿を「御言葉によって」見ることができるのです。鏡は人の上辺を映すことはできても、本当の姿を映すことはできません。ですから「御言葉から遠ざかる」ということは、本来の自分の姿を忘れてしまうということです。そして、そこで起こることは「自分本位になる」ということです。
 御言葉を頂くということは、神の前に「罪なる自分の姿を見出す」ということであり、そこでこそ神との交わりにあることの恵みを知ることができます。しかし、御言葉から離れてしまえば、自分は神無しでも大丈夫だと錯覚して自分中心になり、神がではなく、自分がどう思うかが基準になってしまうのです。この「自分が」という思いは「罪なる思い」です。それは「神に信頼し得ない思い」なのです。神への信頼に生きることは美しいことです。頼めること、信頼するということは大事なことなのです。「何でも自分が…」と思うことは醜い姿を呈することだと覚えるべきです。

自分を欺くよりない、そのような私どもに、25節「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」と言われます。「完全な律法」とは何かということです。それは「主イエス・キリストの律法、主の福音としての律法」です。主イエス・キリストが言ってくださった御言葉を思い起こしたいと思います。
 主が新しい戒めとして、ヨハネによる福音書では「互いに愛し合いなさい」と、また、他福音書においては「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と言われております。「神を愛し、人を愛せよ」、それが新しい律法として与えられていることです。それは、神の民として、共同体を共同体としてあらしめるための「御言葉」なのです。そのように聴かなければなりません。単に個人に言われていることとしてではなく、教会の交わり(共同体)として聴くべきなのです。
 「御言葉を行う人」とは「神を愛し、人を愛して」生きる人です。「神を愛する」とは、神を真心をもって礼拝し、祈ることです。「人を愛する」とは、神の民としての交わりに生きることです。ですから、信仰とは、個人の信条ではないのです。信仰とは、共に十字架と復活の主イエス・キリストを信じ、神との交わりに生きることです。共同体の、神の民として生きることによって、私どもは「神を現す」のであり、それが「御言葉を行う」ことです。「神を礼拝し、日々に祈り、教会の交わりに生きる」、これこそが御言葉を行っていることに他ならないのです。
 ですから「御言葉を行う」とは、個人が為せた、為せないというようなことではありません。私どもが御言葉を行えた、だから人を愛せたということではないのです。今このようにして礼拝している、だから「人を愛せる」のです。いえ、愛せないときにも、私どもは御言葉を行う者になり得る。それは礼拝において、悔い改め、その人のために祈ることができるからです。
 恵みとして、神の共同体として生かされている、だからこそ、自力ではなし得ないときにも、為し得ていると言えるのです。敵のために祈ることなど、神の力でなくして、どうして為し得るでしょうか。礼拝し、交わりに生きるからこそ、力なる御言葉を頂いて為し得るのだということを覚えたいと思います。そして、そこでこそ、私どもは神の栄光を現すのです。

「自由をもたらす」とは、どういうことでしょうか。「自由」とは、気ままなということではありません。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、罪から解き放たれる、自立した主体として立ち、神との交わりに、神に応答する者として生きる、それが「自由」ということです。主イエスの十字架は、主イエスが私どもに仕えてくださった出来事です。主が私どもに仕えてくださったことに応える者として、私どもも自らの身を低くして、交わりに仕えることができるのです。

改めて覚えたいと思います。「御言葉」とは「力」です。御言葉において神の力が働くのです。その力ある御言葉を繰り返し聞き、絶えず御言葉に与ることで、神の力を頂き、私どもは神の恵みに生きることができるのです。
 力があるから、恵みであるがゆえに、私どもは「聞かざるを得ない、頂かざるを得ない」のです。神から力を頂く者として、私どもは「御言葉に聞く」のです。

キリスト者の真実な歩みとは、常に御言葉に聞き、祈ることです。
 礼拝に生きる者、キリスト者の、恵み豊かな歩みを覚えられるならば幸いです。

聖霊に満たされて」 ペンテコステ礼拝 2011年6月12日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第11章1〜9節、使徒言行録 第2章1〜28節
創世記 第11章<1節>世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。<2節>東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。<3節>彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。<4節>彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。<5節>主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、<6節>言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。<7節>我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」<8節>主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。<9節>こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

使徒言行録 第2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』<22節>イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。<23節>このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。<24節>しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。<25節>ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。<26節>だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。<27節>あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。<28節>あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

本日の主日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝として守っております。

2節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」と言われております。「五旬祭」、旬は10日ですから「50日目の祭り」ということです。過越祭から数えて50日目なのです。ですから、これはユダヤ教の祭りであることが分ります。
 弟子たちは「一同が一つになって集まって」、五旬祭を祝うために集まっていたかもしれません。けれども、単にそれだけで集まっていたとは言い難いのです。1章を読みますと、十字架の出来事の後、40日間にわたって、復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れてくださいました。その理由は、食事を共にすること、そして4節「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と、弟子たちにお命じになるためでした。「父の約束されたもの」それは「聖霊」です。弟子たちは聖霊を頂くことによって、5節「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と言われているように、「人々に洗礼を授けることのできる者になる」のです。ですから、弟子たちがエルサレムにいて「一つになって集まって」いたのは、「父の約束」を信じてのことであり、約束の「聖霊を受ける」ことを願って、1章14節「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。

そして、五旬祭の日、弟子たちに聖霊が臨みました。それは「新しい神の民の誕生(創造)」を意味します。神を証しする民、すなわち「教会の誕生」です。
 今日読んでいただいた聖書の箇所は、通常よりも長くなりました。招詞もエゼキエル書37章1節〜14節の御言葉に聞きました。そこには捕囚の民イスラエルの「新たなる神の民としての創造」が語られております。枯れた骨(イスラエル)は神より御言葉を与えられてバビロン捕囚より解放され、新しい神の民となるのです。捕われ人(生ける屍)の民が、新しい神の民として「生きる者」とされたことが示されております。つまり「御言葉に与る、聖霊に与る」ということは「新しい神の民として創造されること」なのです。

そして「新しく創造された神の民の為すべきこと」は「聖霊による洗礼(バプテスマ)を人々に授けること」と言われております。聖霊を受けることによって、弟子たち(教会)には、「聖霊による洗礼(救いの宣言)」を授ける使命(権能)が与えられたのです。
 教会の権能のあり方については、キリスト教会の教派(会衆派、改革長老派、監督教会派等)によって違いがあります。けれども、いずれにしても、教会の授ける洗礼(救いの出来事)は「聖霊の出来事として為し得る」のだということを覚えたいと思います。

1章14節「心を合わせて熱心に祈っていた」、聖霊を下さるという神の約束に基づいて、一同は心を合わせて「熱心に」祈っていました。ここで考え違いしてはならないことがあります。それは、この「熱心さ」は、人の思いによる熱心さではないということです。
 今年の愛宕町教会の標語は、まさにこの箇所が用いられております。であれば、牧師も役員会も、口を酸っぱくして「熱心に祈れ、祈祷会に出席せよ」と言ってもよいのでしょう。「熱心さ」が「人の業」であるならば、そうなのです。しかし、ここで言う「熱心さ」は、人の業としての熱心さ、あなたの心を奮い立たせて頑張れ、ということではありません。そうではなくて、まず「神の約束がある」、だから「その約束に応える者としての熱心さ」なのです。根底にあることは「人の心の強さ」ではなく「神の約束」です。ですから、それゆえに「重い」と言えます。神は私どもに、神に応答する者として「言葉」を下さっております。ですから、神の御心に応えることとして「祈る」のです。私どもが熱心に祈れるとするならば、それは、神が、私どもを「神に応えることのできる存在、人格ある存在、尊い存在」としてくださるからこそであることを忘れてはなりません。神との交わりに生きる人格ある者とされている、だからこそ「祈れる」のです。
 私ども一人ひとりに神の招きがあります。その招きに応えることの出来る存在として、私どもは生かされているのです。その自覚を持ちたいと思います。

「一同が集まっての祈り」とは何でしょうか。その内容は「父の約束してくださった聖霊をお与えください」という祈りです。自分の思いのあれこれが叶うようにとの祈りではないのです。「聖霊を与えてください」と祈る。と同時に、聖霊を与えられた者として「聖霊による洗礼(バプテスマ)を正しく為せますように」と祈る。それが「教会(一同が集まって)」の祈りです。私どもが為すべきことは、学ぶことなのではありません。聖霊を受けて「神の救いの御業を為せますようにと祈る」ことです。何よりも「身近な者のために祈る」、それが心を合わせて祈ることです。自分の思いを叶えるために祈ることは、叶わないことの不平不満に終始することでしょう。そうではなくて、心を合わせて祈ることは「神の御旨に応えての祈り」であることを覚えたいと思います。

弟子たちが、心を合わせて「聖霊を頂くこと、救いの権能が与えられること」を祈っていた、そこに聖霊が臨みます。2・3節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されております。風、それは神が臨まれたことの印です。炎・雲も神の臨在を示すものです。この表現は「聖霊としての神の臨在」を示しております。
 そして、聖霊が臨んだことによって起こったことは、4節「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。弟子たちは、ガリラヤという田舎出身の人たちです。その人たちが、ほかの国々の言葉で話し出して、神の偉大な御業が語られた、と記されております(11節)。驚く人々に対して、使徒ペトロが「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」と語り始めます(14節〜)。神の偉大な御業とは何かが、ペトロの口を通して語られているのです。「神の偉大な御業」それは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方、救い主であること。主イエスが十字架につき、私どもの罪を贖ってくださったこと。十字架の後、復活により永遠の命の約束を与えてくださっていること」です。聖霊を受けることによって、弟子たち(教会)は、神の偉大な救いの御業(十字架の主イエス・キリスト)を語るのです。そして更に、聖霊によって、主を信じる人々に「洗礼を授ける権能」を、神から頂いているのです。
 「神から頂いた救いの権能によって人々に洗礼を授けること」それが「教会の業」です。聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事は、教会とは何かを示す出来事なのです。

今日は、聖書箇所として、創世記11章も読みました。バベルの塔の話です。ここには「なぜ、人と人との心が通い合わないか」が語られております。人間が「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを」用いて、天まで届く塔を建てようとする。そこには「文化」の問題が語られております。「文化」は人の「力」なのです。しかし、文化という力は、人を必ずしも神へと至らせるものではありません。私ども人類は「文化的な生活」を追い求めて今日に至ったと言えるでしょう。私どもの生活も、「オール電化」がもてはやされて、知らず知らずのうちに原子力に頼る生活になっていました。原子力を使うこと、そこには「人には力がある」と信じる、人の奢りがあったのです。人は傲慢になると、神から離れて、滅びへと至ります。今、この度の震災を通して、私どもは、そのことを見せて頂いていると思います。傲慢な心は、他者の意見を退け、大切な事柄を聞かなくなるのです。それが「心が通い合わない」ことです。自分で良しとし、自分の力で全て済むと思う、そこで人は孤立するのです。
 バベルの塔の話は、神を畏れず、自分たちの力だけで立とうとする人間の言葉を、神が通じないようにしたと言われております。私どもの現実はどうでしょうか。自らの傲慢によって孤立し、同じ言葉を語っていても心を通い合わせることができません。それは、自分の力だけで立とうとする姿です。
 私どもにとって大切なことは「神を畏れる者として一つの民である」ということです。神を畏れる者として、神との交わりに生き、人との関わりに生きることです。神を畏れることがなければ、人は孤立するのです。人の力である「文化」の問題は、人の奢りによって「人の罪を覆い隠してしまう」ということなのです。

ですから思います。今こそ「聖霊」が必要です。聖霊を頂くことによってのみ、人はもう一度「神を畏れる者として一つ」となれるのです。

神の前に頭を垂れ、跪き、神を神として拝する、今この礼拝において「聖霊なる神」として、神が、私どもに臨んでいてくださいます。
 聖霊なる神が臨んでくださって、私どもは「一つの民とされている」ことの恵みを覚えたいと思います。

自分の心を欺く」 6月第3主日礼拝 2011年6月19日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章22〜27節
1章<22節>御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。<23節>御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。<24節>鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。<25節>しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。<26節>自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。<27節>みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。

今日は、25節からの御言葉に聴きたいと思います。
 先々週、「自由をもたらす完全な律法」ということについては、お話をいたしました。ここで言う「律法」とは「主イエス・キリストの律法」であり、それは「神を愛し、人を愛する」ということです。しかし、律法は、2通りにも3通りにも解釈されて聴かれるものです。今日は、25節の「一心に見つめ」という言葉から、ここでの律法の意味することを聴きたいと思います。

25節「律法を一心に見つめ、…」、律法を一心に見つめるとはどういうことでしょうか。何か目を惹き付けるものを見る、というのなら分りますが、見つめるものが律法というのはピンと来ないのです。律法の書かれた字面を見ることなのか…しかし、当時は皆が字を読めたわけではなく、聖書を読んでいたわけではありません。ですから、ここで「律法(十戒)を一心に見つめる」ということは、その御言葉を吟味し、繰り返し考え、その意味を噛み締め味わうこと、深まりを持って聴くこと、そういう意味での「見つめる」であると考えるのが常識的なことでしょう。御言葉を熟視する、味わい尽くす、そのことを大切さを思って良いのです。

けれども、ここで使われている「見つめる」という言葉の意味は「前屈みになる」という言葉です。他の箇所では「覗き込む」と訳されております。それはルカによる福音書で、主イエスの十字架の場面、葬られた主イエスが墓におられないことを3人の婦人(マグダラのマリアなど)が12弟子に知らせたとき、そのことを確かめにやってきたペトロは、主が葬られた墓を「覗き込んだ」のです。この言葉と同じ言葉が「一心に見つめる」という言葉です。
 ペトロは身を屈めて何を覗き込んだのでしょうか。それは「空っぽの墓」でした。ペトロには3婦人の言葉を信じることができませんでした。けれども、その墓の中が空っぽであることは、婦人たちから聞いて知っていたのです。ペトロは空の墓を覗き込んで、本当に主イエスがそこにおられないことを「見た」のでした。そのペトロに、復活の主イエス・キリストが臨まれ、ペトロは信じる者となったのです。ですから、ペトロが覗き込んで見たことの中心にあることは、彼が「復活の主イエス・キリストを見た」ということです。
 「主イエス・キリストの律法」とは、つまりは「赦し(主の十字架による罪の赦し)と救い(主の復活による永遠の命の約束)」です。ですから「主の律法を一心に見つめる」というとき、それは、彼ら(主の弟子、教会)にとっては「十字架と復活の主イエス・キリストを思い起こす」言葉なのです。
 「律法を一心に見つめて」、キリスト者は、十字架と復活の主イエス・キリストを仰ぎ、深く主の救いの恵みに満ち溢れるのです。そして、主の恵みに満ち溢れた者は「行う人」となるのです。しかしそれは、自ら「行う」ということではなく、主の御言葉に「従う者となる」ということです。主の恵みに満ち溢れて、主の十字架を仰ぎ目を注いでいるならば「従わないわけにはいかない」のです。神の恵みを深く味わう者として「従う」のです。自らの思いで「行う」ということとは違います。私どもが一心に見るべきは「十字架の主の赦しと復活の主の救いの恵み」であることを忘れてはなりません。そういう者として、私どもは、恵みに満たされて「行う(当然のこととして従う)」のです。
 私どもの目を奪っているものは何でしょうか。私どもの目を惹き付けて止まないもの、それは人の思いや人の業なのではありません。私どもの目を惹き付けて止まないもの、それは「十字架と復活の主イエス・キリスト」であることを、改めて覚えたいと思います。

26節「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」と記されております。「自分は信心深い者だと思っても」とは、考えさせられる言葉です。私どもは「自分は信心深い」と思っているでしょうか。
 今の時代は「信心」ということを良いこととする状況ではありません。いや、却って「信心」など無い方が普通とされているでしょう。「信心」が良いこととされる価値観であれば「信心深い」ことには意味があるでしょうが、そうでなければ、自分の信心深さなど実感できないのです。信心はうさん臭いとまで思われる今の社会・時代にあって、信心深さに価値が無いとするならば、この言葉の意味をどう考えるべきでしょうか。
 現代社会は、信心深くないことの呪縛に捕われています。ですから、私どもにとっても、教会以外のことが優先するということがあるのです。

そこで言われていることは「舌を制することができず、自分の心を欺くならば」ということです。「舌を制する」とは、悪口を言わないこと、これは間違いないことでしょう。しかし、このことは、日本人にとってはなかなか難しいことです。悪口ではなく真実を告げたとしても、控えめさや謙虚さゆえに悪口ととられてしまうということがあるからです。人は、真実に耐えることはできません。ですから人は、人の思いを汲むことはできない、ゆえに自分の心を偽ることになるのです。
 サタン(悪魔)というのは、人を唆す者です。神から人を遠ざけるべく、唆すのです。「それは良いことです」と言って唆すのです。本当のことは言わないのです。本当のことなど、人は認めたくないからです。
 「舌を制する」とは「謙遜な者として語る」ということです。しかしそれは、自らの謙遜さを言っているのではありません。語り合う者が、共に、神の恵みを頂いている者として語るということです。ですから、その会話は、主イエス・キリストを、神を、現すのです。
 人の心情を推し量ること、自らの思いが通らないことを批難し自らの正当性を主張すること、これらは皆、罪深いことです。語り合うとき、それが神を現す会話かどうかが大事なことなのです。神を現すことにおいて謙遜であること、低いのだということを覚えたいと思います。
 相手の思いを現すこと、相手を満足させるために自らが謙遜になる、ということではありません。神の栄光を現すということは、主イエス・キリストこそが第一となることであることを忘れてはなりません。相手を大事にするということが、舌を制するということではないのです。そこを間違えてしまうと、神を第一とすることが疎かになってしまうことを忘れてはなりません。

「自分の心を欺く」とは、どういうことでしょうか。それは、自分の心、思いを第一としてしまうということです。神の恵みに生かされているのにも拘らず、自分の思いを第一とすることが、自分の心を欺いているということなのです。
 人には自我がある、そして「自我」は大事です。けれども、自我こそが、神の御言葉に砕かれなければなりません。私どもは、つまずきの無いことを良いことと思ってしまいますが、しかし、自我の揺らぎ(砕かれること)ということは、なければならないことです。砕かれて、初めて人は変われるのです。つまずいた時こそ、神の御言葉が身に沁みて、神の恵みを知るのです。ですから、主イエスが言われたように、つまずくことは幸いです。つまずく者の幸いが、ここに語られているのです。主イエスの御言葉こそ、私どもにつまずきを与えてくださるのです。
 主イエスの十字架の出来事、復活の出来事に、つまずかない者はいませんでした。けれども、つまずいて初めて、自分の思いが砕かれて初めて、神の恵みを知ることができるのです。
 私どもはついつい、良いこと、麗しいことを良しとしますが、それは人の思いなのであって、必ずしも神を現すことにはならないのです。却って、そこでは慢心が現れます。自らの思いに安住し、自らの思いを守ろうとする。砕かれて神を仰ぎ見ることから、遠ざかろうとする。それは、神の前にくずおれていない、神無き者の姿です。そして、それが舌を制することのできない者の姿なのです。

私どもは、赦しと救いの御言葉を頂いていることを忘れてはなりません。私どもは、皆等しく、その恵みに与っているのです。だからこそ、共々に神を崇め、神の前にひざまずきつつ、神の栄光を現すのです。それが舌を制するということで言われていることです。

私どもは、今、神の救いに与っていることを深く覚えたいと思います。

けれども同時に、神を仰ぎ見るこの礼拝なくしては、神の恵み、憐れみを覚えることはできないことを忘れてはなりません。神を仰ぎ見ることなく日常生活を送ることはできない、そういう思いがない限り、「舌を制して生きる」ことは出来ないのだということをも、改めて覚えたいと思います。

人を分け隔てしない」 6月第4主日礼拝 2011年6月26日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章27節〜第2章4節
1章<27節>みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。2章<1節>わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。<2節>あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。<3節>その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、<4節>あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

今日は、1章27節の御言葉から聴きたいと思います。

「世話をし」とは内容を膨らませた訳であって、直訳すると「見舞う、訪問する」という言葉です。
 「みなしごや、やもめ」とは、父や夫という「自分を保護する者、頼るべき者を持たない者」であって、だからこそ助けを必要とするのです。みなしごや、やもめが困っているときに「見舞う」ことは、彼らを支え、助けることになるので、それが「世話をする」という表現になったのでしょう。ですが、内容的には「見舞う、訪問する」という言葉は捨て難いと思います。

「訪ねる」というとき、私どもは、ただ単に「訪ねる」でしょうか。「訪ねる」というとき、キリスト者の交わりであれば、そこで「祈る」ことでしょう。「見舞う、訪ねる」ことは、祈りをもって思いを共にすることが目的となるのです。ただ自分が行って世話をする、自分の働きのために祈るということではありません。そこに「神の助けをこそ祈る」のです。ですから「訪ねる」ことは意味深いと言えます。「神が共にいて顧みてくださることを祈る」のです。何故ならば、神は「寄る辺なき者の神、憐れみと慈しみの神」であられるからです。
 主イエスが、山上の説教において示してくださったこと、それは「柔和な者は幸い」ということでした。柔和な者とは弱い者のことです。主は「弱い者は幸い」と言ってくださって「弱い者をこそ、神が憐れんでくださる」ことを教えてくださったのです。ですから「見舞う、訪ねる」ことは味わい深いと思います。そして、私どもキリスト者の訪問は「祈ること」であることをも覚えさせられて、感謝するものです。

今はあまり用いられなくなった言葉に「御陰さまで」という美しい日本語があります。昔は「感謝」という言葉はあまり使わず、お世話になる、というようなときには「御陰さまで」と言ったのです。「今こうして生活できているのは、多くの支えの御陰」と、今で言う「感謝」を、昔は「御陰さまで」という言葉で表しました。「御陰さまで」は「感謝」以上の厚みを持っていると思うのです。
 例えば「讃美歌21」は「神への感謝」として「感謝」という言葉を用いますが、「54年度版讃美歌」には「感謝」という言葉はありません。「感謝」という言葉では言い表せない、もっと深く感謝の思いを言い表すために「御陰さまで」を用いたのです。
 「御陰さまで」という言葉は、「権威、力」を表す言葉であることをも覚えたいと思います。かつて、竹森満佐一という著名な牧師は「神の権威」を「神の御陰」と言い表しました。ですから「神の御陰で」と言うとき、「あなたの支えで」と、神の権威・力に対する「讃美」となるのです。「神の力を誉め讃える」、それが「御陰さまで」という言葉にあるニュアンスです。「感謝」という言葉では「権威、力」を表すことは難しいでしょう。「神の御陰で、今日の恵みを頂いている」のです。「御陰さまで」という言葉は廃れましたが、そこに含まれる内容は大事なこととして覚えておきたいと思います。
 しかし、また同時に「感謝」という言葉も大事にしたいと思います。ある年代から上の方は用いなかった言葉ですが、「感謝」という言葉を広めたのは「教会」で、「感謝」を人に対しても用いるようになったということは、新しい時代の新しい感覚として大事にしたいと思います。

「訪ねる」こと、そこに「祈り」があります。寄る辺なき者に、神の守りがあるのです。ですから、力ある神に「委ねる」ことを祈るのです。
 「神の御陰で」というとき、そこには「委ねる」というニュアンスを感じます。それは「感謝」にはない感覚ですから、その豊かさを改めて覚えたいと思うのです。
 そして「困っている人を訪ねて、祈る」ことを大事にしたいと思います。昔は、今と違って「訪ねやすかった」と思います。皆が同じように貧しくて、行き来したのです。しかし今の社会は核家族、個人主義が広まっているので、必ずしも訪ねることが喜ばれないという現実があります。けれども、基本は何ら変わることはありません。困ったときには「訪ねて祈る」ことを大事にしたいのです。

そして、このことが「世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」という、27節の後半へと繋がって参ります。多くの場合、「信心です」は「礼拝です」と訳されるのです。「信心」というと何か個人の信条のように思ってしまいますが、26節に記される「信心」と同じ言葉が使われているために「信心」と訳したのでしょう。しかし「信心」は「礼拝」と訳します。「祈り」こそは「礼拝(神への賛美)」に通ずるからです。「寄る辺なき者を訪ね、祈り、神の助けを確信して、神を拝する(賛美する)」のです。
 しかし、もし「信心」という言葉を重んじるとするならば、私は、「神の御前に」とせず「神からの信心」と訳した方が相応しいと思っております。「信仰(信心)」は「神からの賜物」なのであって、自分のものではないという感覚を大事にしたいからです。神から与えられた信仰、「信仰」は「神からの頂きもの」なのです。「神からの頂きもの」だからこそ「清く汚れのない」と言い得るのです。信仰が人の信条であれば、「清く汚れのない」とは言えないことでしょう。主イエスはファリサイ派の人々を「偽善者」と言われました。彼らは、信仰を自分の熱心さを表すものとしてしまったからです。それは、人の驕りです。信仰を「神からのもの」とできるならば、人は信仰において「謙遜」になり、その信仰は神を現すものとなる。信じる思いをくださった神を賛美することに繋がるのです。
 信仰は神からの賜物です。ですから、賜物を与えてくださった方に感謝する生活になるのです。そして「与えられている」からこそ「御陰さまで」と言い得るのです。「神の御陰」として生きるのです。

長い求道生活を送りながら、なかなか洗礼へと至らない方々のことを思います。何故でしょうか。信仰を「自分のもの、自分の理解」と考えるならば、洗礼へとは至れないのです。自力で「信じなければならない」と思うならば、すべてが分らなければならない、分ってから…と思うでしょう。信じる主体が自分であれば、信仰へと至ることはできません。
 私ども自身のことを考えてみましょう。「十分に知って、信じて、洗礼を受けた」ということではないでしょう。十分に分っていなくても、はっきりと、しっかりと「信じている」と言えなくても良いのです。私どもは、ただ「信ぜよ」と言われているから「信じている」のです。
 確かに、信じるのは自分自身です。けれども、その根底にあることは「信ぜよ」と言ってくださる神が、「主イエスの十字架をもって罪を贖い、救いの宣言を与えてくださっている」ということです。「与えてくださっている」だからそれを「ありがとうございます」と受けるのです。それが「信仰」ということです。私どもが、どれ程理解しているか、分っているかということが重要なのではありませんん。「御子イエスを十字架につけてまでして罪を贖い、救ってくださった神に感謝する」ことこそが大事なのです。

「神からの賜物」だからこそ「清く汚れのない信仰」なのです。そうであれば、それは「世の汚れに染まらないように自分を守ること」に繋がります。
 私どもは、この世の様々な価値観に誘惑されて負けてしまいます。それは、私どもがこの世の一員だから、負けるのです。けれども、そこから「自分を守る」ことができるのは「神の守りがあるから」だということを覚えたいと思います。

この世にあっては、私どもも「みなしご、やもめ」と同じく「寄る辺なき者、この世と共に滅び行く者」でしかありません。けれども、そのような私どもを「神が憐れみ、支え、守っていてくださる」のです。信仰が与えられて「生きる」ことを赦されているのです。

ですから、改めて覚えたいと思います。私どもの信仰はどこにあるのでしょうか。「神の御陰で」と言い表すことにこそあるのです。「今、ここにあるのは神の御陰」、その神の権威、力のもとに慰めを受け、守られていることを感謝したいと思います。

私どものすべてを「力ある神に委ねる」日々の歩みでありたいと願います。