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22節「御言葉を行う人になりなさい」と勧められております。 改めて、「御言葉を行う」とはどういうことなのかと思わされました。主イエスが言ってくださったことを実行するということなのでしょうか。「御言葉」とは、個々人に与えられるものと限定できるものなのか、考えさせられるのです。 ここで「御言葉」について、25節に「自由をもたらす完全な律法」と言い直しております。「律法」とは何か。それは、契約に基づいて「神の民に与えられたもの」です。神に相応しく生きるために、契約に基づいて、神の民に与えられているのです。「神の民」とは「教会に集う神の民」ですから、従って「御言葉」は「教会」に対して与えられている、「共同体」に対して与えられているのだということを大事に思わなければなりません。 続けて「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と言われております。この訳に間違いはないのですが、しかし違う直訳ができることを改めて思いました。 では「自分を欺く」とは、どういうことでしょうか。預言者エレミヤの言葉を思い起こします。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか(17章9節、口語訳)」と、人は自らの欺きを自覚し得ないと言っております。人は自分を正しく認識できない者です。いや、認識して自らの無力さを知ったとしても、そういう自分に向き合うことはできません。出来ても出来なくても、人は自分を欺くのです。 24節「鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」と言われております。御言葉を行えずに諦めてしまう、そして御言葉から離れてしまうことの空しさを思います。 自分を欺くよりない、そのような私どもに、25節「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」と言われます。「完全な律法」とは何かということです。それは「主イエス・キリストの律法、主の福音としての律法」です。主イエス・キリストが言ってくださった御言葉を思い起こしたいと思います。 「自由をもたらす」とは、どういうことでしょうか。「自由」とは、気ままなということではありません。主イエス・キリストの十字架によって罪赦され、罪から解き放たれる、自立した主体として立ち、神との交わりに、神に応答する者として生きる、それが「自由」ということです。主イエスの十字架は、主イエスが私どもに仕えてくださった出来事です。主が私どもに仕えてくださったことに応える者として、私どもも自らの身を低くして、交わりに仕えることができるのです。 改めて覚えたいと思います。「御言葉」とは「力」です。御言葉において神の力が働くのです。その力ある御言葉を繰り返し聞き、絶えず御言葉に与ることで、神の力を頂き、私どもは神の恵みに生きることができるのです。 キリスト者の真実な歩みとは、常に御言葉に聞き、祈ることです。 |
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本日の主日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝として守っております。 2節「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」と言われております。「五旬祭」、旬は10日ですから「50日目の祭り」ということです。過越祭から数えて50日目なのです。ですから、これはユダヤ教の祭りであることが分ります。 そして、五旬祭の日、弟子たちに聖霊が臨みました。それは「新しい神の民の誕生(創造)」を意味します。神を証しする民、すなわち「教会の誕生」です。 そして「新しく創造された神の民の為すべきこと」は「聖霊による洗礼(バプテスマ)を人々に授けること」と言われております。聖霊を受けることによって、弟子たち(教会)には、「聖霊による洗礼(救いの宣言)」を授ける使命(権能)が与えられたのです。 1章14節「心を合わせて熱心に祈っていた」、聖霊を下さるという神の約束に基づいて、一同は心を合わせて「熱心に」祈っていました。ここで考え違いしてはならないことがあります。それは、この「熱心さ」は、人の思いによる熱心さではないということです。 「一同が集まっての祈り」とは何でしょうか。その内容は「父の約束してくださった聖霊をお与えください」という祈りです。自分の思いのあれこれが叶うようにとの祈りではないのです。「聖霊を与えてください」と祈る。と同時に、聖霊を与えられた者として「聖霊による洗礼(バプテスマ)を正しく為せますように」と祈る。それが「教会(一同が集まって)」の祈りです。私どもが為すべきことは、学ぶことなのではありません。聖霊を受けて「神の救いの御業を為せますようにと祈る」ことです。何よりも「身近な者のために祈る」、それが心を合わせて祈ることです。自分の思いを叶えるために祈ることは、叶わないことの不平不満に終始することでしょう。そうではなくて、心を合わせて祈ることは「神の御旨に応えての祈り」であることを覚えたいと思います。 弟子たちが、心を合わせて「聖霊を頂くこと、救いの権能が与えられること」を祈っていた、そこに聖霊が臨みます。2・3節「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されております。風、それは神が臨まれたことの印です。炎・雲も神の臨在を示すものです。この表現は「聖霊としての神の臨在」を示しております。 今日は、聖書箇所として、創世記11章も読みました。バベルの塔の話です。ここには「なぜ、人と人との心が通い合わないか」が語られております。人間が「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを」用いて、天まで届く塔を建てようとする。そこには「文化」の問題が語られております。「文化」は人の「力」なのです。しかし、文化という力は、人を必ずしも神へと至らせるものではありません。私ども人類は「文化的な生活」を追い求めて今日に至ったと言えるでしょう。私どもの生活も、「オール電化」がもてはやされて、知らず知らずのうちに原子力に頼る生活になっていました。原子力を使うこと、そこには「人には力がある」と信じる、人の奢りがあったのです。人は傲慢になると、神から離れて、滅びへと至ります。今、この度の震災を通して、私どもは、そのことを見せて頂いていると思います。傲慢な心は、他者の意見を退け、大切な事柄を聞かなくなるのです。それが「心が通い合わない」ことです。自分で良しとし、自分の力で全て済むと思う、そこで人は孤立するのです。 ですから思います。今こそ「聖霊」が必要です。聖霊を頂くことによってのみ、人はもう一度「神を畏れる者として一つ」となれるのです。 神の前に頭を垂れ、跪き、神を神として拝する、今この礼拝において「聖霊なる神」として、神が、私どもに臨んでいてくださいます。 |
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今日は、25節からの御言葉に聴きたいと思います。 25節「律法を一心に見つめ、…」、律法を一心に見つめるとはどういうことでしょうか。何か目を惹き付けるものを見る、というのなら分りますが、見つめるものが律法というのはピンと来ないのです。律法の書かれた字面を見ることなのか…しかし、当時は皆が字を読めたわけではなく、聖書を読んでいたわけではありません。ですから、ここで「律法(十戒)を一心に見つめる」ということは、その御言葉を吟味し、繰り返し考え、その意味を噛み締め味わうこと、深まりを持って聴くこと、そういう意味での「見つめる」であると考えるのが常識的なことでしょう。御言葉を熟視する、味わい尽くす、そのことを大切さを思って良いのです。 けれども、ここで使われている「見つめる」という言葉の意味は「前屈みになる」という言葉です。他の箇所では「覗き込む」と訳されております。それはルカによる福音書で、主イエスの十字架の場面、葬られた主イエスが墓におられないことを3人の婦人(マグダラのマリアなど)が12弟子に知らせたとき、そのことを確かめにやってきたペトロは、主が葬られた墓を「覗き込んだ」のです。この言葉と同じ言葉が「一心に見つめる」という言葉です。 26節「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」と記されております。「自分は信心深い者だと思っても」とは、考えさせられる言葉です。私どもは「自分は信心深い」と思っているでしょうか。 そこで言われていることは「舌を制することができず、自分の心を欺くならば」ということです。「舌を制する」とは、悪口を言わないこと、これは間違いないことでしょう。しかし、このことは、日本人にとってはなかなか難しいことです。悪口ではなく真実を告げたとしても、控えめさや謙虚さゆえに悪口ととられてしまうということがあるからです。人は、真実に耐えることはできません。ですから人は、人の思いを汲むことはできない、ゆえに自分の心を偽ることになるのです。 「自分の心を欺く」とは、どういうことでしょうか。それは、自分の心、思いを第一としてしまうということです。神の恵みに生かされているのにも拘らず、自分の思いを第一とすることが、自分の心を欺いているということなのです。 私どもは、赦しと救いの御言葉を頂いていることを忘れてはなりません。私どもは、皆等しく、その恵みに与っているのです。だからこそ、共々に神を崇め、神の前にひざまずきつつ、神の栄光を現すのです。それが舌を制するということで言われていることです。 私どもは、今、神の救いに与っていることを深く覚えたいと思います。 けれども同時に、神を仰ぎ見るこの礼拝なくしては、神の恵み、憐れみを覚えることはできないことを忘れてはなりません。神を仰ぎ見ることなく日常生活を送ることはできない、そういう思いがない限り、「舌を制して生きる」ことは出来ないのだということをも、改めて覚えたいと思います。 |
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今日は、1章27節の御言葉から聴きたいと思います。 「世話をし」とは内容を膨らませた訳であって、直訳すると「見舞う、訪問する」という言葉です。 「訪ねる」というとき、私どもは、ただ単に「訪ねる」でしょうか。「訪ねる」というとき、キリスト者の交わりであれば、そこで「祈る」ことでしょう。「見舞う、訪ねる」ことは、祈りをもって思いを共にすることが目的となるのです。ただ自分が行って世話をする、自分の働きのために祈るということではありません。そこに「神の助けをこそ祈る」のです。ですから「訪ねる」ことは意味深いと言えます。「神が共にいて顧みてくださることを祈る」のです。何故ならば、神は「寄る辺なき者の神、憐れみと慈しみの神」であられるからです。 今はあまり用いられなくなった言葉に「御陰さまで」という美しい日本語があります。昔は「感謝」という言葉はあまり使わず、お世話になる、というようなときには「御陰さまで」と言ったのです。「今こうして生活できているのは、多くの支えの御陰」と、今で言う「感謝」を、昔は「御陰さまで」という言葉で表しました。「御陰さまで」は「感謝」以上の厚みを持っていると思うのです。 「訪ねる」こと、そこに「祈り」があります。寄る辺なき者に、神の守りがあるのです。ですから、力ある神に「委ねる」ことを祈るのです。 そして、このことが「世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」という、27節の後半へと繋がって参ります。多くの場合、「信心です」は「礼拝です」と訳されるのです。「信心」というと何か個人の信条のように思ってしまいますが、26節に記される「信心」と同じ言葉が使われているために「信心」と訳したのでしょう。しかし「信心」は「礼拝」と訳します。「祈り」こそは「礼拝(神への賛美)」に通ずるからです。「寄る辺なき者を訪ね、祈り、神の助けを確信して、神を拝する(賛美する)」のです。 長い求道生活を送りながら、なかなか洗礼へと至らない方々のことを思います。何故でしょうか。信仰を「自分のもの、自分の理解」と考えるならば、洗礼へとは至れないのです。自力で「信じなければならない」と思うならば、すべてが分らなければならない、分ってから…と思うでしょう。信じる主体が自分であれば、信仰へと至ることはできません。 「神からの賜物」だからこそ「清く汚れのない信仰」なのです。そうであれば、それは「世の汚れに染まらないように自分を守ること」に繋がります。 この世にあっては、私どもも「みなしご、やもめ」と同じく「寄る辺なき者、この世と共に滅び行く者」でしかありません。けれども、そのような私どもを「神が憐れみ、支え、守っていてくださる」のです。信仰が与えられて「生きる」ことを赦されているのです。 ですから、改めて覚えたいと思います。私どもの信仰はどこにあるのでしょうか。「神の御陰で」と言い表すことにこそあるのです。「今、ここにあるのは神の御陰」、その神の権威、力のもとに慰めを受け、守られていることを感謝したいと思います。 私どものすべてを「力ある神に委ねる」日々の歩みでありたいと願います。 |
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