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12節「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」との宣言がなされております。 「貧しさ」が「試練」ならば分るのです。では「富んでいる者は自分を低くされることを誇りに思え」ということと「試練」はどう繋がるのでしょうか。「低くされることを誇りに思え」、それは「挫折を誇れ」ということです。「富んでいる」とは、財力だけのことではありません。豊かな教養などによって自分を高くし満足させるということもあるのです。そこで「挫折」することは、人を低くし神へと至らせる、即ち「挫折も試練となり得る」のです。挫折という試練によって、富む者は、与えられた賜物としてその富を用いることができるようになるのです。 続けて「試練」に似たものとして「誘惑」を語ります。13節「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません」と言われます。「誘惑」は「神からのものではない」ということです。「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」とは、「神を誘惑することはできない」ということです。サタンは「誘惑する者」ですが、サタンは人を誘惑するのであって、神を誘惑することはできないのです。 14節「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」とは、誘惑の本質を語っております。ここで思い起こす聖書の箇所があります。それは創世記3章、ヘビと女の「神のことばをめぐってのやりとり」です。ヘビの言葉に女は自問自答し、自分の解釈によって神の言葉に強調点を与え、神に禁じられた園の木の果実を取って食べ、善悪を知る者となるのです。 では、誘惑に勝てないとするならば、私どもは信仰生活を全うできるのかと思ってしまうのではないでしょうか。「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく」と言われております。もちろん、天におられる神であれば、そうでしょう。 十字架と復活の主イエス・キリストを仰ぐとき、私どもは「主に贖われた者」として、永遠の命の約束のうちに「神との満ち足りた交わりに生きる者」としていただいております。 主を信じる者として、感謝したいと思います。私どもは誘惑に勝つことはできません。しかし、そのような私どもと同じ者とまでなって誘惑に打ち勝ってくださった「十字架の主イエス・キリストの恵みに満たされて」、自分の思い・欲望から解き放たれる人生を生きることが許されております。 |
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今日は16節を中心に聴きたいと思います。 16節「わたしの愛する兄弟たち」と、ヤコブは呼びかけております。この「兄弟たち」とは、誰のことなのでしょうか。「ヤコブの手紙」と言われておりますが、これは特定の人への手紙ではなく、すべてのキリスト者に対する実践的信仰生活の教えとして記されたものです。ですからこの呼びかけは、この書を読むすべての者に対する呼びかけなのであり、従って、私どもに対して呼びかけられているのだということを、まず覚えたいと思います。 そしてこの呼びかけは、私どもへの親愛の情を込めての呼びかけであると同時に、時間・空間を超えての豊かな呼びかけであることを覚え、ここにヤコブの信仰の豊かさを思います。ヤコブは、誰がこの書を読むかということを知っていた筈がありません。後の時代の日本に住む私どもが読むなどということは、ヤコブの思いも及ばなかったことでしょう。にも拘らず、ヤコブは「愛する兄弟たち」と呼びかける。ここに、キリスト者は「時を超え、空間を超えた神の家族として、豊かな兄弟姉妹を持っている」のだということを覚えたいと思います。 そして、今、被災地にあって困難の中で礼拝を守る人々も、キリストにある一つなる神の家族であることを改めて覚えたいと思います。 時空を超えて、ヤコブは「愛する兄弟たち」と呼びかけます。ヤコブは愛さざるを得ないのです。共に「キリストに贖われた者」を愛さざるを得ない。名を知らなくても、会ったことがなくても、主の贖いを受けた者たちを愛さないではいられないのだということを、忘れはなりません。キリストの贖いを受けた者は、時空という壁を超えて「愛することができる者」であることを覚えたいのです。ここに豊かさを思います。共に十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見ることができる、それはそこに十字架の贖いがあるが故に、すべての者に「十字架の主イエス・キリストの救いを見ることができる」、だから「愛することができる」のです。 私どもは呼びかけられているのです。それは、神からのキリスト者すべてに対する呼びかけです。そして、私どもは「既に愛されている」ことを覚えたいと思います。時空を超えた数多のキリスト者に、深く深く愛されているのです。キリスト者は、キリストによってつながれた神の家族であるが故に、永遠の愛(神の愛)の内にあるのだということを覚えたいと思います。 「思い違いをしてはいけません」と言われております。「誤解しないように」ということです。それは、前節までを受けて「神について、誘惑について、誤解してはいけない」と言っているのです。誘惑は人の欲望からくるのであって、神からのものではないことを思い違いしてはならない、ということです。 誰の責任か……今の日本の現状を思います。責任ある者が責任を取れない実体。原発の問題は、大災害が引き起こした事故なのではなく、人の罪ゆえの「事件」だと考えます。事が起こる前には、原発はクリーンエネルギーだと言い放ち、人の業を礼賛していたのです。しかし事が起こるに至っては、すべてを自然災害のせいにしているのです。この事態によって、今、命を削って現場で働く者たちがいるというのに、責任はどこにあるのか。神ではない。「人の奢りによる事件」であることを忘れてはなりません。真実に責任を負うている者は誰一人としていないのです。今、人の罪深さがすべてを覆っていることを知らなければなりません。 キリスト者として思います。私どもすべての、共通の、人の罪深さを思わなければなりません。私どもが今なすべきことは、声高に、誰それの責任を追求することでしょうか。もちろん言うべきことは言っても良いのです。しかし、私どもキリスト者が言うべきことは、そうではない。私どもキリスト者のなすべきことは「人の深い罪を言い表し、自らの罪を言い表し、そして神の憐れみを乞う」ことです。救いがたいこの出来事に対して、まず皆が「悔い改め、神の憐れみを乞うべきである」ことを語る、それがキリスト者のなすべきことなのです。 御子を十字架にまでつけて甦らせてくださったお方、人の深い罪を唯一知る方として罪を赦すことがおできになるお方「神」が在すのです。罪を赦すことがおできになるお方として、私どもに甦りの命を与えてくださっている「神が在す」ことを、私どもキリスト者は知っているのです。そして、その方を「信じることが救い」であることを、私どもキリスト者は知っている、だからこそ、私どもは今、祈らずにはいられないのです。 「想定外は人のせいではない」という人の奢りを思います。知らないことも大いなる罪であることを知り、悔い改めなければなりません。そして神の憐れみを乞うのです。 共に祈りたいと思います。この国の救いのために。共に悔い改めたいと思います。今ここに生きる私どもの罪深さを。 自らの罪をも神からのものと思う罪深さを知り、悔い改めて、「良き物をくださるお方」として「神」を覚えつつ、歩みゆく者でありたいと願います。 |
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17節「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と記されております。 前回「試練と誘惑」について語りました。試練を与えられることは人を鍛錬する出来事として「喜べ」と示され、誘惑については「神からのものではない」ことが示されました。ですから、ここで言う「良い贈り物」とは「試練」をも意味すると考えて良いのです。けれども、試練を良いものとはなかなか言い難い。「良薬口に苦し」と言いますが、良いと分っていても、率直に良いと思えないこともあるのです。 私どもにとって有益なものとは何でしょうか。自分にとって心地良いことが有益なのでしょうか。今、このことを振り返って考える時代に入っていると思います。 神は、人が6日間働いて1日休むことを定めてくださいました。神は6日間の働きを良しとしてくださり、その実りを自由に使って良いと言ってくださいました。神は人の労働を祝福してくださるのです。人は働くことで自己実現し、そこに神の祝福があることを忘れてはなりません。心地よく安楽な生活をすること、そこに行き詰まりと破綻があります。自分が無力に過ぎないこと、謙虚さを忘れ、考えたくないことを想定外と言う。これこそは「神を見ないことの破れ」であることを覚えなければなりません。 続けて「完全な賜物」と言われております。「良い」ならまだしも「完全」とは分りにくいことです。「完全」を考えるとき、人には「完全さは無い」ので、本来人が完全を考えることは出来ないことです。ですから、人は「完全な安全」など作り出すことは出来ないのです。なのに「安心、安全」をどれほど声高に語ってきたことでしょう。「完全でない」ことは「安全ではない」ことを意味するのです。人には完全は無い、このことを忘れてはなりません。 更に「上から、光の源である御父から来る」と記されております。「上から」とは「天から」です。ここで「光の源である御父から」とは意訳であり、ギリシャ語では「源」という語はなく「光の父から」となっております。「光の父から」という言葉の味わい深さを思います。「光の父」とはどういうことでしょうか。それは「父なる神が、光なる方である」ということです。これは大事なことです。聖書は「神」を「光」と言い表しております。そしてヨハネによる福音書は、1章9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と記し、主イエス・キリストを光と言い表すのです。主イエス・キリストは「すべての人を照らす」光なる神。神こそ人の闇を、人の罪を照らし出し、照らし出すことを通して闇を破り、罪を滅ぼして、すべての者に救いを(光を)与えてくださるのです。神こそ、人の一切の罪を終わりにして救う方、「神こそ光、神こそ救いである」、それが「光の父」という言葉によって示されていることです。ですから「光の父」という言葉は大事です。「光の源」というと、父が光であることを感じにくいと思います。 そして「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」と続きます。「光の父」である「御父」には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰も生じないのです。光として作られた天体は、動くことによって陰を生じます。光でありながら闇を生ずる光であるということは印象的なことです。光が当たると影ができる。光によって闇が生ずる。たくさんの光があるから、たくさんの影が生じる。地上にある光は、闇を(罪を)現してしまうのです。それは言うならば、私どもが輝いている時、それは同時に必ずそこに陰(罪)を持つということです。人間が作り出す光は、大いなる闇を生み出すのです。原子力も、そういう光なのかも知れません。あれほどの闇を生み出すとは。 「御父には、移り変わりもない」とは、感謝すべきことです。私どもは移り行く者ですが、神は不変で揺るぎない方です。神は人を「神の形にかたどって」創造されたと言われております。それは、私どもは被像物であるにも拘らず、本来有り得ない「神との交わりに生きる人格ある者として下さった」ということです。そのように、自ら神に従う「神の招きに応答する者としていただいた」にも拘らず、自らの力に頼り、神なしでも生きていけると錯覚し神から遠ざかってしまった、それが「罪」ということです。 不変なる方、御父は、18節「御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と続きます。「真理」とは「イエス・キリストは救い主である」ということです。私どもは、その「救いの真理の御言葉によって」キリストを信じ、キリスト者となったのです。 主イエス・キリストを信じ、神を神として現し、神を礼拝する者として、私どもキリスト者は「神の栄光を現している」のです。それは、私どもが神を「天地万物の創造主なる神であると言い表している」ということです。 私どもキリスト者は、造られたものの初穂として、何にも勝って第一に神を現す存在となった幸いを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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19節、ヤコブは改まって語ります。「よくわきまえていなさい」と言うのです。 なぜ「わきまえて」という言葉が良いかと言いますと、そこに「謙遜さ」を感じ、美しさを覚えるからです。今、震災に当たって、この日本的な美的感覚が世界中の多くの人々に感銘を与えております。このような出来事に遭遇すれば、大いなる暴動が起きてもおかしくないでしょう。しかし被災者たちの姿は、謙遜で控えめです。本来ならば大いなる怒りがあっても差し支えないにもかかわらず、被災者たちのこのような「控えめな美しさ」は、まさしく「わきまえのある生き方」と言えるのではないでしょうか。 しかしここでは、「わきまえていなさい」という感性の美しさを思うと同時に、本来の意味である「悟れ、知るべき」という言葉の重さも知らなければなりません。「悟れ」という言葉は「事の重大さを知る」上で大事なのです。 これらのことは誰もが分っていることですが、しかし実践することはなかなか難しいと言わざるを得ません。「聞くには聞くが悟らない」それが私どもなのです。 では、どうすればよいのでしょうか。「聞く者、語る者、それぞれの思いが大切にされること」それが大事です。思いは違い、同じ思いにはなり得ない、しかし理解することはできる、そのことを良しとすることが大事です。思いが同じになることはできないのだということを、わきまえなければなりません。理解すればするほどに、却って同じ思いにはなれないということがあることを知らなければならないのです。 「話すのに遅く」も同じことです。どうでしょうか。とつとつと語る、ゆっくりとした話を聞くということは、大変なことではないでしょうか。難しいのです。内容よりも、話し方や声のトーンなどで、話を聞いてしまうということもあるのです。人は感情無く語ることはできません。気持ちが高ぶれば、語るのは早くなるのです。 また「怒るのに遅いようにしなさい」と続きます。人は皆「怒るな」と言うのです。しかし聖書は「怒ってはならない」とは書いておりません。いや、怒っても良いのです。怒ることを前提にしているのです。 キリストの恵みによって受容されていることなくして、本当の意味で、人は、語ることも聞くこともできないのだということを知るべきです。神の憐れみのうちにあること、神によって受容されている互いであることが根底にあって、互いに受容できるのです。神の慈しみと憐れみによってのみ、人は人として真実の慰めを受けるのです。 そして、義なる神が私どもの内に満ち溢れるとき、21節「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」と記されております。「素直に」悪を捨て去ることができるのです。自分の努力によって捨てるのではありません。神の慈しみ、神の義に与っての「素直」なのです。 初めに返って考えてみましょう。「聞くのに早く」とは「御言葉に聴くのに早く」ということです。行き詰まり、どんずまりになってからやっと、御言葉に聞いてみようということではないのです。何よりも第一に、しかも繰り返し、御言葉に聴くのです。御言葉は力あるものですから、私どもは御言葉によって真実に慰めを受け、支えられ、強められるのです。 そして、そのようにして生きるとき、私どもは神の義を現す者として、神の憐れみ・恵みを現す者として生きることができるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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聖書にステファノという人物が登場するのは使徒言行録6章5節ですが、彼は、7章の終わりには殉教の死を遂げることが記されております。聖書の中のたった2・3ページで姿を消す人物、ステファノ。ステファノは、どうしてこのような形で現れるのでしょうか。 原始キリスト教会は、主イエス・キリストの弟子である12使徒を中心に形成されておりましたが、様々な人種の問題があり、それに対処するために、12使徒は7人を別に選びました。ステファノはその中の一人です。ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と記され、目覚ましい働きをした特別な人物として描かれております。彗星のように現れて消えた人ですが、私は彼に大変興味を持っております。 使徒言行録は、ルカによる福音書の下巻として位置づけられております。主イエス・キリストの十字架・復活・昇天の後、弟子たちに聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちは強められて伝道を始める、その記録です。 そして、ステファノの殉教の際に、パウロは未だサウロという名で、ステファノを迫害し殺害に賛成する者だったことが記されております。パウロはステファノの殉教に立ち合っていたのです。このことを通して、私どもは何を読み取るべきでしょうか。 使徒ペトロとパウロの蝶番の働きをするステファノのこの言葉(説教)は、原始教会において、一つの信仰的な確立をもたらすために大きな意味を持っていたと思わざるを得ません。ステファノの説教は7章2節〜53節までと大変長いもので、使徒言行録の中のペトロやパウロのどの説教よりも長く、このことによっても、著者ルカが如何にステファノを重要視していたかが分ります。今日はその全てを読むことができません。ほんの前半、序の部分だけに光を当てて聴いていきたいと思います。 1節〜16節は2つに分けて読むことができます。2節〜8節はアブラハムに、9節〜16節はヨセフにスポットが当てられております。 ステファノが強調した「神の約束」ということについて、後に回心して宣教者となったパウロ(サウロ)は、ガラテヤの信徒への手紙3章17節で「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです」と記しております。430年とは、アブラハムからモーセに至る期間であり、つまりパウロは「モーセの律法」よりも「神の約束」と言っているのです。神の約束が先で律法は後だと、パウロは後々福音伝道において、律法について語っております。 次に、ヨセフについてステファノはどのように語るのでしょうか。4代にわたる族長の中で、ステファノは2代目イサク、3代目ヤコブをカットして、4代目のヨセフに焦点を当てております。ヨセフはヤコブの子の一人ですが、ヤコブがヨセフを溺愛したためにヨセフは兄弟たちに妬まれエジプトに売られます。そしてそこからヨセフの大変な人生が始まります。しかし、創世記においてヨセフ物語の中で語られていることは「ヨセフから神は離れなかった」ということでした。どんな時にも、常に、ヨセフに神が寄り添っていてくださった、ということなのです。何年も苦難の日々を過ごすヨセフには、夢を解くという特別な能力が与えられておりました。それによって、ヨセフはエジプトで大臣にまでなるのです。ヨセフの夢解きによって7年間の飢饉が起こることが示され、実際に飢饉が起こり、ヨセフの兄弟たちも苦しむのです。そして、エジプトに食糧があることを知り、エジプトに食糧を乞いにやってきて、そこで自分たちが売ったヨセフと再会します。これは大変劇的なシーンで、創世記45章にその出会いの場面が描かれているのですが、この再会の場面でヨセフの言った言葉が重要です。それは「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です(創世記45章8節)」という言葉でした。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と、ヨセフは、自分がエジプトにいるのは「神が遣わされた」からだと言うのです。このヨセフの言葉は、大変重要です。 このことを、私どもは「摂理信仰」と表現しております。それは「神が世界を支配していることを信じ抜く」ということです。 ですから思います。ここでステファノが語った言葉が、パウロに、また後のキリスト教会に大きな指針を与えていると思うのです。パウロによって確立された「信仰義認」ということも、ステファノのこの説教が基であると考えます。 ステファノという人物の記事は小さいものですが、しかしこの小さな記事の残した意味、まさしく「一粒の麦」としてのステファノの殉教の死が大きな意味を持っていると同時に、それだけではなく、ステファノの処刑に賛成し立ち合い、ステファノが語った言葉を聞いたパウロは、ステファノの語り残した言葉によって、伝道者としての信仰を確立させたのだと思っております。 ステファノの言葉は、原始教会から私どもにまでつながるキリスト教会の太い線の中の一つの点として、キリスト教信仰の重要なポイントになっていると思います。 |
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