聖書のみことば/2011.5
2011年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
誘惑に陥る人」 5月第1主日礼拝 2011年5月1日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章12〜18節
1章<12節>試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。<13節>誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。<14節>むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。<15節>そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。<16節>わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。<17節>良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。<18節>御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

12節「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」との宣言がなされております。
 しかし、前節との繋がりを考えると唐突に思えます。前節では「貧しい者と富める者の誇りとは何か」を語っているのです。また宣言するからには、なぜそうなのかを前後で説明するはずですが、続けて「命の冠をいただく幸い」を語り、その後は「誘惑」について、より多くを語るのです。なぜ「試練」に続けて「誘惑」を語るのでしょうか。
 多くの注解書によると、12節については、9節からのまとめとして扱っております。そう読みますと、「貧しさ」とは一つの「試練」ではないかと思います。「貧しさ」ゆえに、思うようにならないという「試練」を頂くのです。貧しさという困難ゆえに、人は、他の何にも頼ることができず、神を呼び、神へと至るのです。そういう意味で「試練」は「人を神へと導く恵み」であり「幸い」であると言えます。そして「神に依り頼む者」として、神に「適格者と認められ」るのです。神にすがるよりなく「神を愛する」しかない者として、「命の冠をいただく=永遠の命に与る」と言われております。
 ここで一つのことを覚えたいと思います。それは、自力ではどうすることもできない困窮の極みにおいて、しかし、私どもは「神を呼ぶことが許されている」ということです。今、私どもの社会は未曾有の困難の中に置かれております。困難を覚えるとき、それは試練となるのです。しかし試練は、そこで神を呼ぶ、神を求める機会ともなる。神を求めるとき、人はそこに光を見出し、神の慰めを見、希望・力が与えられて、歩み出すことができるのです。

「貧しさ」が「試練」ならば分るのです。では「富んでいる者は自分を低くされることを誇りに思え」ということと「試練」はどう繋がるのでしょうか。「低くされることを誇りに思え」、それは「挫折を誇れ」ということです。「富んでいる」とは、財力だけのことではありません。豊かな教養などによって自分を高くし満足させるということもあるのです。そこで「挫折」することは、人を低くし神へと至らせる、即ち「挫折も試練となり得る」のです。挫折という試練によって、富む者は、与えられた賜物としてその富を用いることができるようになるのです。
 人生訓としては試練は人を浄化する鍛錬と言われますが、そうではなく「試練」とは「人を神へと至らせるもの、神へと至る恵み」です。ですから、私どもの思いに勝る困難であっても、それを「試練」として「恵み」としてを受け取ることができるのです。

続けて「試練」に似たものとして「誘惑」を語ります。13節「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません」と言われます。「誘惑」は「神からのものではない」ということです。「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」とは、「神を誘惑することはできない」ということです。サタンは「誘惑する者」ですが、サタンは人を誘惑するのであって、神を誘惑することはできないのです。

14節「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」とは、誘惑の本質を語っております。ここで思い起こす聖書の箇所があります。それは創世記3章、ヘビと女の「神のことばをめぐってのやりとり」です。ヘビの言葉に女は自問自答し、自分の解釈によって神の言葉に強調点を与え、神に禁じられた園の木の果実を取って食べ、善悪を知る者となるのです。
 神は園の中央にある木の果実を「取って食べると死ぬ」と言われたのに、女は「触れてもいけない、死んではいけないから」と神が言ったと自分勝手な解釈をし、それでどうして取って食べたかと言えば「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」から、と記されております。「おいしそう」とは魅力的だと感じるということ、また「賢くなるように唆して」とは賢くなると思ったという、自分の心の問題なのです。悪意によってではなく、善意によっても罪を犯す、それが人の罪の問題です。神の言葉が、果実が、魅力的であることが問題なのではありません。問題は「自分がどう思っているか」ということなのです。
 誘惑の根底にあることは何か。それは「人の思い」です。「欲望」があるからこそ、人は自分の欲望を満たそうとするときに誘惑に陥るのです。「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると…」(創世記3章8節)、神の言葉に従えなくなったゆえに、人は神から遠ざかるのです。「誘惑」とは「神から人を遠ざけること」です。神なしでも大丈夫と思う、自分の欲望を満たしたい思いが神から人を遠ざけるのです。誘惑者であるサタンは、人を神から遠ざけるために働くのです。人はサタンの誘惑にはなかなか抗し得ません。なぜならば、サタンは、その人の欲するものを用いて誘惑するからです。ですから人は誘惑に勝てないのです。サタンは、「悪いことをしよう」とは誘惑しません。「こうしたい」と思っていることを「いいことだから、したいことをしよう!」と誘惑するのです。
 「試練」は「神からのもの」ですから、それを乗り越える力が与えられますが、「誘惑」は神からのものではなく自分の思いですから、乗り越えられない、勝てないで、陥ってしまうのです。
 植村正久という牧師のことを思い起こします。ある教会員が「教会で、このことをしましょう」と言ったとき、植村牧師は「それは善いことか、悪いことか」と尋ねたそうです。提案者は当然のこととして「善いこと」と答える。それに対して植村牧師は「善いことならば教会がやる必要はありません。誰かがやります」と答えたというのです。善意に誘惑されないとは、凄いことだと思います。教会がやるべきことは「福音宣教」なのであって、この世にとって善いことが教会のやるべきことではないのです。サタンの誘惑とは、そういうことです。これは善い、正しい、素晴らしい、良い人になる…と言ってしまう、そのような誘惑に、人は勝てるわけはありません。ですから、サタンがどのような者であるかを知っていることは大事なことです。サタンを知らなければ、易々と誘惑に陥ってしまうのです。

では、誘惑に勝てないとするならば、私どもは信仰生活を全うできるのかと思ってしまうのではないでしょうか。「神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく」と言われております。もちろん、天におられる神であれば、そうでしょう。
 ここで思い起こす聖書の記述があります。来たりたもう神である主イエス・キリストは「人となってくださった神」として、荒れ野でサタンの誘惑に打ち勝たれました(マタイ4章、マルコ1章、ルカ4章)。主イエスが荒れ野で40日40夜、断食した後、空腹を覚えられた時、サタンは「神の子なら、石をパンに変えてみよ」と主を誘惑しました。主イエスはここで、人にとって最も耐えられない誘惑の一つである「飢え・空腹」を味わわれるのです。それは本来、決して人には勝ち得ない誘惑ですが、主はその誘惑を退けただけではなく、「人はパンだけで生きるものではない、神の言葉で生きる」と示されました。またその他に「自分を偉い者と証明できる」とのサタンの誘惑を退け、「わたしは、神を試す者ではなく、神の栄光を現す者である」と、神こそ真実の支配者であられることを示されました。
 この荒れ野でのサタンの誘惑の出来事を通して言われていることは何でしょうか。それは、主イエスが、神なる方でありながら「人としての誘惑を受けてくださり、人にとって耐えられない誘惑を退け、勝利してくださった」ということです。そして尚かつ「神のご栄光を現され」ました。神としてではなく、神なる方が「人として誘惑を受けてくださった」、このことは大きいことです。主イエスは、私どもの受ける誘惑を我がものとして受けてくださり、退けてくださったのです。私ども人間そのものとまでなって、誘惑に勝利していてくださるのです。何と素晴らしいことでしょう。
 常に何らかのことを欲している、それが私どもの人生です。ですから私どもは、常に誘惑を受け、その誘惑に負けてしまいます。しかし幸いなことに、主イエスが既に、誘惑に勝利してくださっているのです。その主の恵みに私どもが満ち溢れているとき、私どもは、自分の欲望から解き放たれ、既に主に満たされている者として誘惑を退けることができる、いえ、誘惑は誘惑ではなくなるのです。

十字架と復活の主イエス・キリストを仰ぐとき、私どもは「主に贖われた者」として、永遠の命の約束のうちに「神との満ち足りた交わりに生きる者」としていただいております。
 私どもは、自分の力によっては誘惑を退けることはできません。誘惑に負ける人生なのです。しかし、そんな罪なる私どものために、十字架によって、ご自分の命まで下さって私どもの罪を贖ってくださった主イエス・キリストがおられるのです。それは、私どもが「神の子」という、恵みなる生き方へと変えられることを意味します。自力によってではなく、ただ主イエスの十字架によって、私どもは新しい者とされるのです。
 十字架の主に満たされるとき、私どもは自分の欲望を満たす思いから解き放たれて、自由な者として生きることができるのです。私どものために、主イエスは人として荒れ野でサタンの誘惑を受け、勝利してくださいました。その主がおられるのです。

主を信じる者として、感謝したいと思います。私どもは誘惑に勝つことはできません。しかし、そのような私どもと同じ者とまでなって誘惑に打ち勝ってくださった「十字架の主イエス・キリストの恵みに満たされて」、自分の思い・欲望から解き放たれる人生を生きることが許されております。
 この恵みに深く感謝しつつの歩みでありたいと願います。

光の源」 5月第2主日礼拝 2011年5月8日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章12〜18節
1章<12節>試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。<13節>誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。<14節>むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。<15節>そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。<16節>わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。<17節>良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。<18節>御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

今日は16節を中心に聴きたいと思います。

16節「わたしの愛する兄弟たち」と、ヤコブは呼びかけております。この「兄弟たち」とは、誰のことなのでしょうか。「ヤコブの手紙」と言われておりますが、これは特定の人への手紙ではなく、すべてのキリスト者に対する実践的信仰生活の教えとして記されたものです。ですからこの呼びかけは、この書を読むすべての者に対する呼びかけなのであり、従って、私どもに対して呼びかけられているのだということを、まず覚えたいと思います。
 ここに言う「兄弟たち」とは、兄弟姉妹=男女を問わず、すべての者を意味しております。そしてこの「兄弟たち」とは、血のつながりを超えた「主イエス・キリストを信じる者すべて」が「神にある兄弟姉妹」であることを示しております。主イエス・キリストの十字架によって罪贖われて、私どもは、キリストを長子とする「一つなる神の家族」なのです。それは地上での血のつながりを否定的に捉えているということではありません。私どもは、十字架の主イエス・キリストの血潮に与った者です。ですから、キリストの血によって繋がれた一つの家族と言えます。「キリストの命を頂いた者」として神の家族なのです。それは、地上における血のつながり以上の「天上につながる命を頂いている」ということです。共々に「キリストの血」という同じ血を頂いているのです。血のつながりが無いというと何か否定的に捉えがちですが、そうではなく、積極的な意味で「主イエス・キリストの血潮による豊かな血のつながり」であることを覚えたいと思います。共に罪贖われ、天上の命につながれ、神の家族としての恵みを頂いているのです。

そしてこの呼びかけは、私どもへの親愛の情を込めての呼びかけであると同時に、時間・空間を超えての豊かな呼びかけであることを覚え、ここにヤコブの信仰の豊かさを思います。ヤコブは、誰がこの書を読むかということを知っていた筈がありません。後の時代の日本に住む私どもが読むなどということは、ヤコブの思いも及ばなかったことでしょう。にも拘らず、ヤコブは「愛する兄弟たち」と呼びかける。ここに、キリスト者は「時を超え、空間を超えた神の家族として、豊かな兄弟姉妹を持っている」のだということを覚えたいと思います。
 キリスト者は「キリストを信じる者として一つの家族」なのです。ですから、今この時も、私どもは、場所を超えて世界中の名も知らぬキリスト者たちと一つの家族であることを覚えたいと思います。
 そしてまた、聖書に名を記された人々……ペトロ、ヤコブ、パウロ、ステファノ、マグダラのマリア、母マリア、サロメ……それらの人々も、キリストを信じる者として私どもと一つなる家族なのだということを覚えたいと思います。ですから聖書には、私どもの「家族の物語」が記されているのです。そのように考えますと、聖書がぐっと近いものと感じるのではないでしょうか。私どもの家族の物語として聖書の御言葉に聴くことができるのです。私どもの家族の救いの物語として、聖書を読むことが許されていることに、主の救いの恵みの豊かさを深く思います。カトリックでもプロテスタントでも良いのです。アッシジのフランチェスコもマザー・テレサも、私どもと家族であることを改めて覚えてよいのです。歴史に生きたキリスト者すべてが、私どもの家族であることを覚えたいと思います。

そして、今、被災地にあって困難の中で礼拝を守る人々も、キリストにある一つなる神の家族であることを改めて覚えたいと思います。

時空を超えて、ヤコブは「愛する兄弟たち」と呼びかけます。ヤコブは愛さざるを得ないのです。共に「キリストに贖われた者」を愛さざるを得ない。名を知らなくても、会ったことがなくても、主の贖いを受けた者たちを愛さないではいられないのだということを、忘れはなりません。キリストの贖いを受けた者は、時空という壁を超えて「愛することができる者」であることを覚えたいのです。ここに豊かさを思います。共に十字架の主イエス・キリストを仰ぎ見ることができる、それはそこに十字架の贖いがあるが故に、すべての者に「十字架の主イエス・キリストの救いを見ることができる」、だから「愛することができる」のです。
 今も見知らぬ場所で、主の贖いの救いに与っている人々がいる…それらの人々を、私どもも今、愛をもって覚えることができることを感謝したいと思います。

私どもは呼びかけられているのです。それは、神からのキリスト者すべてに対する呼びかけです。そして、私どもは「既に愛されている」ことを覚えたいと思います。時空を超えた数多のキリスト者に、深く深く愛されているのです。キリスト者は、キリストによってつながれた神の家族であるが故に、永遠の愛(神の愛)の内にあるのだということを覚えたいと思います。

「思い違いをしてはいけません」と言われております。「誤解しないように」ということです。それは、前節までを受けて「神について、誘惑について、誤解してはいけない」と言っているのです。誘惑は人の欲望からくるのであって、神からのものではないことを思い違いしてはならない、ということです。
 このように言われることの根底にあることは、人は良いことも悪いことも全て神の責任にしてしまうということです。特に悪いことであれば、なおさら、神のせいにするのです。しかし、そうではない。「誘惑は神からのものと誤解してはならない」と言っているのです。
 創世記、アダムとエバの楽園追放の物語において、罪を犯したアダムとエバは神から身を隠します。その2人に神は問うてくださり、罪を明らかにしてくださいました。問われたエバはヘビのせいにし、アダムは「あなたの下さった女が…」と、神のせいにするのです。「他者のせいにする」それは、究極には「神のせいにする」ということです。何故ならば、人にとって絶対の他者は「神」だからです。アダムとエバの罪は、神のさせたことなのではありません。自らの思いによるのです。「美味しそう」だと思ったから、食べたのです。自らの欲望による罪なのだということを忘れはなりません。
 人はなかなか自分の罪を認められません。認められないどころか、神のせいにさえするのです。しかし、神は人を誘惑する方ではないのです。そうではなくて、17節「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と言われているように、神から来るものはみな「良い贈り物」であることを覚えたいと思います。
 罪を明らかにされたアダムとエバ。罪ある者は滅びへと至るよりないにも拘らず、2人は滅びませんでした。何故でしょうか。罪ゆえに、2人は神の守りを必要としました。神は裸の2人がまとうべき衣をくださり、罪を覆い隠して守ってくださいました。ここに神の救いがあります。それが2人に与えられた恵みです。人の罪を罪として明らかすることができるお方、「神」のみが、罪から人を守ることがおできになるのです。

誰の責任か……今の日本の現状を思います。責任ある者が責任を取れない実体。原発の問題は、大災害が引き起こした事故なのではなく、人の罪ゆえの「事件」だと考えます。事が起こる前には、原発はクリーンエネルギーだと言い放ち、人の業を礼賛していたのです。しかし事が起こるに至っては、すべてを自然災害のせいにしているのです。この事態によって、今、命を削って現場で働く者たちがいるというのに、責任はどこにあるのか。神ではない。「人の奢りによる事件」であることを忘れてはなりません。真実に責任を負うている者は誰一人としていないのです。今、人の罪深さがすべてを覆っていることを知らなければなりません。

キリスト者として思います。私どもすべての、共通の、人の罪深さを思わなければなりません。私どもが今なすべきことは、声高に、誰それの責任を追求することでしょうか。もちろん言うべきことは言っても良いのです。しかし、私どもキリスト者が言うべきことは、そうではない。私どもキリスト者のなすべきことは「人の深い罪を言い表し、自らの罪を言い表し、そして神の憐れみを乞う」ことです。救いがたいこの出来事に対して、まず皆が「悔い改め、神の憐れみを乞うべきである」ことを語る、それがキリスト者のなすべきことなのです。

御子を十字架にまでつけて甦らせてくださったお方、人の深い罪を唯一知る方として罪を赦すことがおできになるお方「神」が在すのです。罪を赦すことがおできになるお方として、私どもに甦りの命を与えてくださっている「神が在す」ことを、私どもキリスト者は知っているのです。そして、その方を「信じることが救い」であることを、私どもキリスト者は知っている、だからこそ、私どもは今、祈らずにはいられないのです。

「想定外は人のせいではない」という人の奢りを思います。知らないことも大いなる罪であることを知り、悔い改めなければなりません。そして神の憐れみを乞うのです。

共に祈りたいと思います。この国の救いのために。共に悔い改めたいと思います。今ここに生きる私どもの罪深さを。

自らの罪をも神からのものと思う罪深さを知り、悔い改めて、「良き物をくださるお方」として「神」を覚えつつ、歩みゆく者でありたいと願います。

御言葉を植え付ける」 5月第3主日礼拝 2011年5月15日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章16〜21節
1章<16節>わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。<17節>良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。<18節>御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。<19節>わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。<20節>人の怒りは神の義を実現しないからです。<21節>だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。

17節「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と記されております。

前回「試練と誘惑」について語りました。試練を与えられることは人を鍛錬する出来事として「喜べ」と示され、誘惑については「神からのものではない」ことが示されました。ですから、ここで言う「良い贈り物」とは「試練」をも意味すると考えて良いのです。けれども、試練を良いものとはなかなか言い難い。「良薬口に苦し」と言いますが、良いと分っていても、率直に良いと思えないこともあるのです。
 ここでの「良い」は「有益」と捕らえれば良いかと思います。物事の善し悪しは「人の思い」ですが、「試練は有益なもの」であり、その「有益な贈り物」は「神から来る」と言われております。それは「忍耐力」です。

私どもにとって有益なものとは何でしょうか。自分にとって心地良いことが有益なのでしょうか。今、このことを振り返って考える時代に入っていると思います。
 美しさと便利さを追求する現代社会は、かつてのギリシャ世界の自由人を思い起こさせます。ギリシャ世界の自由人たちは、労働は悪、働かずにスポーツや演劇を楽しむことが自由人のあり方だと考えました。労働は奴隷がすること、それはロボット社会を目指す現代社会に置き換えて考えることができるのではないでしょうか。それは利便性を追い求める中で、知らず知らずのうちに自ずと目指してしまった、ということかもしれません。自分は働かずにロボットに任せる。しかしロボットは時に人の能力を上回り、制御不能になってしまう危険性をもはらんでもいるのです。心地良さを追求する生き方、それは、人が自分の力の及ばないことを忘れ、人と関わることの煩雑さを避け、重荷を少しでも少なくしようとする生き方です。それは、人が「神無しでも大丈夫」だと錯覚した、思い上がった生き方なのです。

神は、人が6日間働いて1日休むことを定めてくださいました。神は6日間の働きを良しとしてくださり、その実りを自由に使って良いと言ってくださいました。神は人の労働を祝福してくださるのです。人は働くことで自己実現し、そこに神の祝福があることを忘れてはなりません。心地よく安楽な生活をすること、そこに行き詰まりと破綻があります。自分が無力に過ぎないこと、謙虚さを忘れ、考えたくないことを想定外と言う。これこそは「神を見ないことの破れ」であることを覚えなければなりません。
 「人と関わり、地と関わる」このこと無くして生きることは、空しい生活です。「関わり」があれば、そこには苦しみがあり、試練がある。しかし関わりの中で、苦しみ・悲しみを共にするとき、「共に生きている」という喜びが与えられ、そこでこそ人は、より深く「人間性」を持ち得るのです。自分の思いによっては良いと思えない苦しみ・悲しみがあっても、しかし神は祝福をもって私どもに臨み、私どもにとって有益なものをお与えくださるのだということを覚えたいと思います。
 時として神は、苦しみ・悲しみを私どもにお与えになります。しかし、その時にこそ、人は神を呼ぶのであり、そこでこそ人は人を真実に愛するようになる、「真人間にされる」のです。神無しに過ごす、人との関わり無く生きることは無味乾燥な生き方であり、それは人格ある人間のあり方とは言えないのです。

続けて「完全な賜物」と言われております。「良い」ならまだしも「完全」とは分りにくいことです。「完全」を考えるとき、人には「完全さは無い」ので、本来人が完全を考えることは出来ないことです。ですから、人は「完全な安全」など作り出すことは出来ないのです。なのに「安心、安全」をどれほど声高に語ってきたことでしょう。「完全でない」ことは「安全ではない」ことを意味するのです。人には完全は無い、このことを忘れてはなりません。
 ここでの「完全」は、完全無欠を意味しているのではありません。完璧なもの、と言っているのではなく、「十分に成長した、成熟した」ということを意味しております。人は、多くの試練を経て成長し、真の大人へと成熟するのです。逆に言えば、試練無き人生は人を成長させない。いろんな課題を与えられ、それに取り組むことで、人は成熟するのです。そう考えるならば、この「完全」も理解できます。試練の淵で、どうしようもないところで、人は崩れるしかありません。しかしそこでも、神は祝福を取り去りたまわない。いや却って成長を与えてくださるのです。神は試練を通して、人を成熟した人間としてくださる。人は神より有益な試練を頂くことで、成熟した真人間になれるのです。それが「神からの賜物、贈り物」なのであり、恵みなのです。
 人をダメにするのは簡単なこと、甘やかせばよい。甘やかされれば、その心地良さゆえに、向き合うべき課題に向き合えないのです。どのような出来事、課題にも、そこに神を見る、神からのものと知る。神を信じる者こそが真人間、成熟した人間になれるのです。

更に「上から、光の源である御父から来る」と記されております。「上から」とは「天から」です。ここで「光の源である御父から」とは意訳であり、ギリシャ語では「源」という語はなく「光の父から」となっております。「光の父から」という言葉の味わい深さを思います。「光の父」とはどういうことでしょうか。それは「父なる神が、光なる方である」ということです。これは大事なことです。聖書は「神」を「光」と言い表しております。そしてヨハネによる福音書は、1章9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と記し、主イエス・キリストを光と言い表すのです。主イエス・キリストは「すべての人を照らす」光なる神。神こそ人の闇を、人の罪を照らし出し、照らし出すことを通して闇を破り、罪を滅ぼして、すべての者に救いを(光を)与えてくださるのです。神こそ、人の一切の罪を終わりにして救う方、「神こそ光、神こそ救いである」、それが「光の父」という言葉によって示されていることです。ですから「光の父」という言葉は大事です。「光の源」というと、父が光であることを感じにくいと思います。
 その「光なる神」が、天地創造において最初に言われたことは「光あれ」であり、神は「昼と夜」を分けられました。それは「光と闇」「明るさと暗さ」を分けたということです。神の「光あれ」という言葉によってできたのものは「太陽、月、星」。そういう意味では「光の源である父」という訳は相応しいでしょう。ここで忘れてはならないことは、「すべての光の創造主は神である」ということです。「神」は「光なる方、救いなる方、光を作ってくださった方」なのです。

そして「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」と続きます。「光の父」である「御父」には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰も生じないのです。光として作られた天体は、動くことによって陰を生じます。光でありながら闇を生ずる光であるということは印象的なことです。光が当たると影ができる。光によって闇が生ずる。たくさんの光があるから、たくさんの影が生じる。地上にある光は、闇を(罪を)現してしまうのです。それは言うならば、私どもが輝いている時、それは同時に必ずそこに陰(罪)を持つということです。人間が作り出す光は、大いなる闇を生み出すのです。原子力も、そういう光なのかも知れません。あれほどの闇を生み出すとは。
 しかし、神は光なる方。すべてを圧倒する光として、陰を生じないのです。その光は「すべての闇を覆い尽くす光」であって、それは人が作り出すことの出来ない光です。人の作る光は陰を生み出すことを忘れてはなりません。しかし神は、光なる方として「すべてを光で覆い尽くし」、光とし、救ってくださるのです。

「御父には、移り変わりもない」とは、感謝すべきことです。私どもは移り行く者ですが、神は不変で揺るぎない方です。神は人を「神の形にかたどって」創造されたと言われております。それは、私どもは被像物であるにも拘らず、本来有り得ない「神との交わりに生きる人格ある者として下さった」ということです。そのように、自ら神に従う「神の招きに応答する者としていただいた」にも拘らず、自らの力に頼り、神なしでも生きていけると錯覚し神から遠ざかってしまった、それが「罪」ということです。
 神に相応しく応答する者でないのであれば、本来なら、神は人を滅ぼして良い筈です。しかし神は言われます。ノアの物語において神は御心に「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(創世記8章21節)と、驚くべきことに「神が思いを変えてくださった」ことが記されております。神の裁きによって、人が神との交わりを回復できたのではありません。神が思いを変えてくださり、罪なる者を憐れんでくださり、赦してくださったゆえに、人は救われたのです。「不変な方が思いを変える」これは神でしか有り得ないことです。神は、御子イエス・キリストを十字架につけるという仕方でご自分が損をしてまで人の罪を終わりとし、人の罪を贖ってくださいました。人を「神との交わりに生き、神の恵みのうちに生きる者する」こと、それが「神の不変、神の救い」です。その神の不変を貫き通すために、思いを変えてくださるとは、何と大いなることでしょう。創造主であって裁くことがお出来になる方が、赦すことによって不変を貫くために、自ら思いを変えてくださったのです。私どもは「神の不変」というと、神の硬直した心を思うかもしれません。しかしそうではないのです。人の不変さは強情にしか過ぎません。しかし「神の不変」は、自らの思いを変えてくださるほどまでに「憐れみ深く、慈しみ深い」のです。その神の不変、憐れみと慈しみのゆえに、私どもは罪赦されました。神の憐れみと慈しみだけが不変であることを忘れてはなりません。

不変なる方、御父は、18節「御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました」と続きます。「真理」とは「イエス・キリストは救い主である」ということです。私どもは、その「救いの真理の御言葉によって」キリストを信じ、キリスト者となったのです。
 伝えられた福音(救いの真理)を信じてキリスト者になった、それは私どもが「造られたものの初穂となるため」と言われております。「初穂」とは「キリスト」のことです。「造られたものの初穂」、それはキリスト者です。キリスト者とは「神の救いに与った者」として「神の栄光を現す者」です。キリスト者は「神こそ神であられる」ことを言い表すのです。そしてそれは「キリストを信じる者である」ということです。

主イエス・キリストを信じ、神を神として現し、神を礼拝する者として、私どもキリスト者は「神の栄光を現している」のです。それは、私どもが神を「天地万物の創造主なる神であると言い表している」ということです。
 そして、私どもが被造物の初穂として神の栄光を言い表すとき、それは同時に「天地万物は神の栄光を現す存在である」ことを言い表すことができるのです。

私どもキリスト者は、造られたものの初穂として、何にも勝って第一に神を現す存在となった幸いを、感謝をもって覚えたいと思います。

御言葉は魂を救う」 5月第4主日礼拝 2011年5月22日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章16〜21節
1章<19節>わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。<20節>人の怒りは神の義を実現しないからです。<21節>だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。<22節>御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。<23節>御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。<24節>鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。<25節>しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。

19節、ヤコブは改まって語ります。「よくわきまえていなさい」と言うのです。
 新共同訳聖書は、カトリックもプロテスタントも、キリスト教会が総結集して訳した聖書です。原文によると「わきまえていなさい」とは「知る」という言葉で、「悟れ」というようなイメージの言葉です。しかし、この新共同訳では「わきまえていなさい」という、美しい日本語が使われております。
 新共同訳聖書発行に当たり、最後にこの訳に目を通したのは文学者でした。日本文学として最も麗しい言葉は何かを吟味したので、このように美しい訳になったのです。「わきまえる」と言うと「謙遜さ」や「控えめさ」を感じます。それは日本的な美の価値観ですので、「わきまえていなさい」という訳は、日本の情緒にあっていると思います。後学のために申しますと、最後に目を通した文学者とは、小説「土の器」で芥川賞を受賞したキリスト者作家、児童文学者、詩人である阪田寛夫氏です。童謡「サッちゃん」や「腹ぺこのうた」などでご存知の方も多いことでしょう。大変素晴らしい詩人で、音楽を志したこともあるからでしょうか、言葉そのものが音楽になっているような詩を書いた人でした。

なぜ「わきまえて」という言葉が良いかと言いますと、そこに「謙遜さ」を感じ、美しさを覚えるからです。今、震災に当たって、この日本的な美的感覚が世界中の多くの人々に感銘を与えております。このような出来事に遭遇すれば、大いなる暴動が起きてもおかしくないでしょう。しかし被災者たちの姿は、謙遜で控えめです。本来ならば大いなる怒りがあっても差し支えないにもかかわらず、被災者たちのこのような「控えめな美しさ」は、まさしく「わきまえのある生き方」と言えるのではないでしょうか。
 とはいえ「わきまえある生き方」という感覚も、次第に薄れてきていると思います。「謙遜さ、低さ、美しさ」よりも、自分にとっての得を考える「自己中心な生き方」、他者との関わりを避け自分のことだけを考える、その結果「お金が中心の社会」が作り出されていると思うのです。どうであれ「わきまえて」「美しく生きる」というあり方を失っていることの寂しさを思います。

しかしここでは、「わきまえていなさい」という感性の美しさを思うと同時に、本来の意味である「悟れ、知るべき」という言葉の重さも知らなければなりません。「悟れ」という言葉は「事の重大さを知る」上で大事なのです。
 人はなかなか「悟る」ことはできません。いやそれだけではない。「知ろうともしない」それが私どもです。
 何を「知れ」と言っているのでしょうか。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と記されております。「だれでも」とは「すべての人」のことです。内容は一般の人生訓としてもよく語られることですから人生訓としての含みもあるのでしょうが、しかしもちろん、ヤコブは「キリスト者のわきまえ」として語っているのです。キリスト者として、その根底にあることは「主イエス・キリストの十字架と復活によって罪赦され、贖われて神の子とされ、神との交わりに生きる者とされた者である」ということです。そのような者として「わきまえよ」と言っております。「聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅い」こと、それが「キリスト者としてのわきまえある生き方」なのです。それは「キリストの恵みに応える生き方」として示されていることです。

これらのことは誰もが分っていることですが、しかし実践することはなかなか難しいと言わざるを得ません。「聞くには聞くが悟らない」それが私どもなのです。
 「聞くのに早く」、聞いたことを早く的確に捕らえなければならないということでしょう。しかし、聞いたことが「もう分った」とすれば、それは早く分ったように思いますが、次には「もう分った、だからもういいでしょう」となるのです。大事なことであれば、じっくり聞くかも知れません。しかし、いつも言われていることであればどうでしょう。いつも言われているから「分っている」、だから「聞くのは早い」、ですが「的確には聞いてはいない」のです。「聞く」ということは難しいことです。「もう分った」と思っていれば、聞けないのです。
 「聞くに早く」とは「的確に語る者の思いを理解する」ということです。しかし、相手の思いを理解したとしても、いくら分ったと言っても、分ったと言えば言うほど、相手はやはり分ってもらっていないと思うのです。人は理性で考える、しかし同時に、そこには感情を伴います。理性では相手の思いを鮮やかに理解することはできるけれども、だからと言って、感情が同じになるかと言えば、そうではないのです。理解したとしても、本当には同じ思いになれない。だから、聞く者も語る者も、両者共に「わきまえて」いなければならないのです。「理解はできても、思いは違うのだ」ということを知らなければなりません。

では、どうすればよいのでしょうか。「聞く者、語る者、それぞれの思いが大切にされること」それが大事です。思いは違い、同じ思いにはなり得ない、しかし理解することはできる、そのことを良しとすることが大事です。思いが同じになることはできないのだということを、わきまえなければなりません。理解すればするほどに、却って同じ思いにはなれないということがあることを知らなければならないのです。
 ですから、聞くとき、語るとき、初めから互いを「受容する」という思いを持っていなければなりません。相手を受容する者として聞くのでなければ「聞くのに早く」はできないのです。

「話すのに遅く」も同じことです。どうでしょうか。とつとつと語る、ゆっくりとした話を聞くということは、大変なことではないでしょうか。難しいのです。内容よりも、話し方や声のトーンなどで、話を聞いてしまうということもあるのです。人は感情無く語ることはできません。気持ちが高ぶれば、語るのは早くなるのです。

また「怒るのに遅いようにしなさい」と続きます。人は皆「怒るな」と言うのです。しかし聖書は「怒ってはならない」とは書いておりません。いや、怒っても良いのです。怒ることを前提にしているのです。
 「怒る」とき、いつもいつもの小言であれば伝わりません。「ここぞ」というときに怒る、それは本当に相手のことを思って、配慮してのことですから、真剣さが通ずるということがあるのです。ああ、本当にこの人はわたしのことを思ってくれている、と通ずるものがあるのです。
 しかし、人の怒りについては、20節「神の義を実現しない」と記されております。人は正しくは有り得ません。偽りと欠けある存在として、正しくは有り得ないのです。しかし、神は正しい方です。正しい(義)なる神が怒るのであれば、その怒りは正しい裁きとなる。つまり、神の怒りは「義」を現すのです。けれども、人の怒りは義を現すことはできません。せいぜい相手への真剣な思いしか現せないのだということを知らなければなりません。

キリストの恵みによって受容されていることなくして、本当の意味で、人は、語ることも聞くこともできないのだということを知るべきです。神の憐れみのうちにあること、神によって受容されている互いであることが根底にあって、互いに受容できるのです。神の慈しみと憐れみによってのみ、人は人として真実の慰めを受けるのです。
 キリスト者とは神の義を実現する存在です。神の義、神の正しさを現すことが、キリスト者の生き方です。自分を主張すること、自分の正しさを現すことではないのです。キリスト者は、死してなお、良しとされて生きるのです。神が神として臨んでくださらない限り、私どもの本当の命は無いことを知らなければなりません。神を神として現す、それは「神こそが私どもの救いであることを言い表す」こと、それがキリスト者の生き方です。自分を正しい者と言い表して生きたとして、一体誰が誉めてくれるでしょうか。それは自己満足でしかありません。神を神として、神を誉め讃えつつ生きること、神の義が不義なる私どもを正しい者としてくださることを感謝しつつ生きることを、神は誉めてくださるのです。
 そのように神の義を現す生き方とは、どのようなものでしょうか。それは「御言葉に聴き、祈り、礼拝する生活である」このことを改めて覚えたいと思います。

そして、義なる神が私どもの内に満ち溢れるとき、21節「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい」と記されております。「素直に」悪を捨て去ることができるのです。自分の努力によって捨てるのではありません。神の慈しみ、神の義に与っての「素直」なのです。
 神の恵みに満たされ、生かされているとき、人は自由に生きることができます。それはどのようなことでしょうか。御言葉に常に聴く…だから「心に御言葉が植え付けられている」のです。力ある御言葉を繰り返し聴くことによって、自分自身を縛る捕われから解放され、自由になるのです。

初めに返って考えてみましょう。「聞くのに早く」とは「御言葉に聴くのに早く」ということです。行き詰まり、どんずまりになってからやっと、御言葉に聞いてみようということではないのです。何よりも第一に、しかも繰り返し、御言葉に聴くのです。御言葉は力あるものですから、私どもは御言葉によって真実に慰めを受け、支えられ、強められるのです。
 「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」と続いております。御言葉は、私どもを救う力なのです。御言葉によって生きる者とされるのです。御言葉は、人が生きるための糧です。御言葉が私どもの心のうちに宿り、植え付けられるならば、私どもは真実に生きることができるのです。

そして、そのようにして生きるとき、私どもは神の義を現す者として、神の憐れみ・恵みを現す者として生きることができるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

殉教者ステファノのことば」 5月第5主日礼拝 2011年5月29日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/使徒言行録 第7章1〜16節
7章<1節>大祭司が、「訴えのとおりか」と尋ねた。<2節>そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、<3節>『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。<4節>それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、<5節>そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです。<6節>神はこう言われました。『彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。』<7節>更に、神は言われました。『彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する。』<8節>そして、神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました。こうして、アブラハムはイサクをもうけて八日目に割礼を施し、イサクはヤコブを、ヤコブは十二人の族長をもうけて、それぞれ割礼を施したのです。<9節>この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。しかし、神はヨセフを離れず、<10節>あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。そしてファラオは、彼をエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣に任命したのです。<11節>ところが、エジプトとカナンの全土に飢饉が起こり、大きな苦難が襲い、わたしたちの先祖は食糧を手に入れることができなくなりました。<12節>ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、まずわたしたちの先祖をそこへ行かせました。<13節>二度目のとき、ヨセフは兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知りました。<14節>そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと七十五人の親族一同を呼び寄せました。<15節>ヤコブはエジプトに下って行き、やがて彼もわたしたちの先祖も死んで、<16節>シケムに移され、かつてアブラハムがシケムでハモルの子らから、幾らかの金で買っておいた墓に葬られました。

聖書にステファノという人物が登場するのは使徒言行録6章5節ですが、彼は、7章の終わりには殉教の死を遂げることが記されております。聖書の中のたった2・3ページで姿を消す人物、ステファノ。ステファノは、どうしてこのような形で現れるのでしょうか。

原始キリスト教会は、主イエス・キリストの弟子である12使徒を中心に形成されておりましたが、様々な人種の問題があり、それに対処するために、12使徒は7人を別に選びました。ステファノはその中の一人です。ステファノは「信仰と聖霊に満ちている人」と記され、目覚ましい働きをした特別な人物として描かれております。彗星のように現れて消えた人ですが、私は彼に大変興味を持っております。
 ステファノの働きは多分、周りからは目立って見えたのでしょう。彼は妬まれて、偽の証人を立てられ、最高法院で大祭司から尋問を受けます。彼につけられた罪状は「神と律法を汚した」というものでした。ステファノが「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう(6章14節)」と言ったという証言です。「神殿を壊し、モーセの律法を変える」とは、ユダヤ人にとっては屈辱的なことですから、ステファノは許せない人物だったのです。そして、続けて聖書は、6章15節に「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」と記しております。これは最大級の褒め言葉です。

使徒言行録は、ルカによる福音書の下巻として位置づけられております。主イエス・キリストの十字架・復活・昇天の後、弟子たちに聖霊降臨の出来事が起こり、弟子たちは強められて伝道を始める、その記録です。
 その前半に登場するのは使徒ペトロ、後半はパウロで、使徒言行録はこの2人にスポットが当てられ描かれているのですが、この2人を結び付けるかのようにステファノが登場して描かれております。
 6章の最後に「天使の顔」と記されたステファノは、尋問に答えて、民衆を前に長い説教をしますが、人々に石を投げつけられ、7章の最後には「『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」と、ステファノが十字架の主イエス・キリストが言われた言葉と同じ言葉をもって息を引き取ったことが記されております。ここに、使徒言行録の著者が、ステファノという人物に特別な意味を持たせていることが分ります。

そして、ステファノの殉教の際に、パウロは未だサウロという名で、ステファノを迫害し殺害に賛成する者だったことが記されております。パウロはステファノの殉教に立ち合っていたのです。このことを通して、私どもは何を読み取るべきでしょうか。

使徒ペトロとパウロの蝶番の働きをするステファノのこの言葉(説教)は、原始教会において、一つの信仰的な確立をもたらすために大きな意味を持っていたと思わざるを得ません。ステファノの説教は7章2節〜53節までと大変長いもので、使徒言行録の中のペトロやパウロのどの説教よりも長く、このことによっても、著者ルカが如何にステファノを重要視していたかが分ります。今日はその全てを読むことができません。ほんの前半、序の部分だけに光を当てて聴いていきたいと思います。

1節〜16節は2つに分けて読むことができます。2節〜8節はアブラハムに、9節〜16節はヨセフにスポットが当てられております。
 イスラエルにはアブラハム、イサク、ヤコブという族長がおり、ヤコブの子であるヨセフを4代目の族長と考えることができると思います。
 創世記において、アブラハムは「行き先を知らずに旅立った」ことが記されております。アブラハムはキリスト教のみならず、ユダヤ教・イスラム教においても「信仰の父」と呼ばれておりますが、創世記を読みますと、大変優れた点のある人であると同時に、何かと間違いの多い人でもありました。100歳で、子が与えられると天使に伝えられたとき、アブラハムと妻サライは「笑った」と記されております。「まさか、そんなこと」と笑ったのです。しかし、そのような彼の最も大きな働き・信仰、それは「行き先を知らずに旅立った」ということでした。そして、ステファノもそのことに焦点を当てて、5節「そこでは財産を何もお与えになりませんでした、一歩の幅の土地さえも。しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです」と語ります。
 ステファノがここで言おうとしていること、それは「神の約束」ということです。アブラハム物語と言えば、とかく、子であるイサクをいけにえとして捧げる出来事を思いますが、ステファノがここで強調していることは「神の約束」ということなのです。
 そしてここで私どもに示されること、それは、キリスト者とは「神の約束に生きている者」だということです。

ステファノが強調した「神の約束」ということについて、後に回心して宣教者となったパウロ(サウロ)は、ガラテヤの信徒への手紙3章17節で「わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです」と記しております。430年とは、アブラハムからモーセに至る期間であり、つまりパウロは「モーセの律法」よりも「神の約束」と言っているのです。神の約束が先で律法は後だと、パウロは後々福音伝道において、律法について語っております。
 そこで思います。私どもが生かされていることの元になっていることは何か。それは「神の約束」です。
 十字架の主イエス・キリストによって、私どもの罪は明らかにされました。しかし、それに先立って「神の約束」が私どもを生かすものとして与えられているのです。「神の約束」それが私どもの中心にあることです。

次に、ヨセフについてステファノはどのように語るのでしょうか。4代にわたる族長の中で、ステファノは2代目イサク、3代目ヤコブをカットして、4代目のヨセフに焦点を当てております。ヨセフはヤコブの子の一人ですが、ヤコブがヨセフを溺愛したためにヨセフは兄弟たちに妬まれエジプトに売られます。そしてそこからヨセフの大変な人生が始まります。しかし、創世記においてヨセフ物語の中で語られていることは「ヨセフから神は離れなかった」ということでした。どんな時にも、常に、ヨセフに神が寄り添っていてくださった、ということなのです。何年も苦難の日々を過ごすヨセフには、夢を解くという特別な能力が与えられておりました。それによって、ヨセフはエジプトで大臣にまでなるのです。ヨセフの夢解きによって7年間の飢饉が起こることが示され、実際に飢饉が起こり、ヨセフの兄弟たちも苦しむのです。そして、エジプトに食糧があることを知り、エジプトに食糧を乞いにやってきて、そこで自分たちが売ったヨセフと再会します。これは大変劇的なシーンで、創世記45章にその出会いの場面が描かれているのですが、この再会の場面でヨセフの言った言葉が重要です。それは「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です(創世記45章8節)」という言葉でした。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」と、ヨセフは、自分がエジプトにいるのは「神が遣わされた」からだと言うのです。このヨセフの言葉は、大変重要です。

このことを、私どもは「摂理信仰」と表現しております。それは「神が世界を支配していることを信じ抜く」ということです。
 この度の大震災においても、すべてのものが破壊され、あるいは取り去られ、「神などいない」と多くの人々が感じる状況にあります。しかしこのような状況の中であっても、「神がおられることを信じ抜く」こと、それが摂理信仰なのです。

ですから思います。ここでステファノが語った言葉が、パウロに、また後のキリスト教会に大きな指針を与えていると思うのです。パウロによって確立された「信仰義認」ということも、ステファノのこの説教が基であると考えます。

ステファノという人物の記事は小さいものですが、しかしこの小さな記事の残した意味、まさしく「一粒の麦」としてのステファノの殉教の死が大きな意味を持っていると同時に、それだけではなく、ステファノの処刑に賛成し立ち合い、ステファノが語った言葉を聞いたパウロは、ステファノの語り残した言葉によって、伝道者としての信仰を確立させたのだと思っております。

ステファノの言葉は、原始教会から私どもにまでつながるキリスト教会の太い線の中の一つの点として、キリスト教信仰の重要なポイントになっていると思います。
 そういう意味で、ステファノと、その言葉を覚えておきたいと思います。