聖書のみことば/2011.4
2011年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
高さと低さ」 4月第1主日礼拝 2011年4月3日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章5〜11節
1章<5節>あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。<6節>いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。<7節>そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。<8節>心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。<9節>貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。<10節>また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。<11節>日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

今日は6節の御言葉から聴いていきたいと思います。
 先週、5節において「全く神に信頼して祈れ」とお話いたしました。6節には「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と記されております。

「疑い」と「信仰」については、聖書においてしばしば語られることです。聖書の説明によれば「疑い」とは、「二心あること」即ち、信じていると言いながらこの世の価値観に依り頼もうとして揺れ動くことです。神が存在しているかどうかを疑うということではありません。この手紙の書かれた当時においては、神が存在していることは前提なのであり、神以外のものに依り頼むことが「疑い」なのです。思いがあちこちに巡ることが「疑い」であり、神に信頼しきっていないことを表す言葉として用いられます。
 しかし、ここで言われている「疑う」という言葉は、「自分自身を議論する」という内容を持っております。それは「明確な判断が出来ず躊躇する」ということです。日本人にとっては、こちらの方が分かり易いかもしれません。何故ならば、日本人は祈りにおいて、神に呼びかけ神と対話するというよりも、自問自答しがちだからです。
 ヘブル人は手を上げて、天(神の在すところ)に向かって神に祈ります。日本人は手を合わせ、うつむいて祈ります。うつむいて祈る、それは自分自身を顧みる姿勢です。自分で問い、自分の思いを整理して、あるべき姿を模索する、ややもすると自問自答の祈りになってしまうのです。しかし「祈り」とは、自問自答であってはなりません。自問自答の祈りは、神の憐れみを願い、神の恵みを思う祈りにはならないからです。自分自身を神に委ねる、自分の全てを神にあずけて祈ることの大切さを、ここでは示しております。

日本基督教団の歴史を顧みて思わされます。ある時期において、教団は、神に全てを委ねて祈るということが出来ませんでした。「神に委ねて祈る」それは「他力本願」であると批判し、自ら働きかけて行動することこそ良しとしたのです。礼拝などしている場合ではない、行動せよという時代がありました。国家権力は人を搾取するもの、教会もまた、教会の権威によって人を圧すると批判したのです。このことを顧みて思います。そこにあったのは、浮ついた、ざわついた人の思いではなかったかと。そこに、神への全き信頼によって与えられる平安はあったのかと。「委ねる」こと「信頼する」ことなくして、「平安」は生まれません。
 自分の力で変革しようとする、打破しようとするところで、何かが生み出せたのでしょうか。破壊するためには力が必要です。破壊のために力を使い果たし、新しく生み出すことは出来なかった。。。ですからそれは「熱狂」に過ぎなかったのです。新しい課題にがむしゃらに取り組もうとする、浮ついた人の思いであったと思います。

私どもにとって大事なことは何でしょうか。あれもこれも追いかけるということではなく、「神に信頼し、礼拝し、祈る」ことです。確かに自らを顧みることも大事なことですが、しかしそれでは何も解決しないし、人を救うことにはならないのです。

「疑う」ことの内容とされる「二心あること」も「自問自答すること」も共に、8節に記される「心が定まらない」ということです。心が定まらずに祈っても、何も見えないし聞こえてきません。ただ自分の思いを反芻するばかりになるのです。「心を定めて」神の語りかけに聴くべきことが、ここに言われていることです。神が臨んでおられないから聞こえないのではありません。祈るところで、神は臨んでくださっているのです。ですから、心定めて祈るならば、神の声は聞こえてくるのです。

私どもは今、東日本大震災のただ中にあって、心穏やかではいられません。「どうして、どうしたら」との思いが堂々と巡り、二次的人災の広がりに心傷め、祈らずにはおられない日々を過ごしております。そういうときに、今日、6節の「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」との御言葉が与えられました。今こそ、私どもは「心定めて、心鎮まって、祈る」ことが大事なのです。

絶望と混沌のこのときに必要なものは何なのか。それは「神の救いがなるようにと祈ること」です。
 確かに、物的必要が満たされるように祈ることも大事なことです。しかし、私どもはそのことばかりを追いかけていては駄目なのです。それらの必要は、時々刻々と事態が変化していく事柄です。それはどういうことかと言うと、この世の必要はこの世が満たしているということです。満たそうとして努力しているからです。
 ですから、私どもキリスト者にとっての課題は、この世の必要を追いかけ満たそうとすることなのではありません。私どもキリスト者にしか、なし得ないことをしなければなりません。それは「そこにある人々の救いを願うこと、真実に慰めを与えてくださる神の救いを願うこと、祈ること」です。しかも「神に全く信頼して祈ること」です。

私どもは知っております。十字架の主イエス・キリストとはどのようなお方か。主イエスは十字架に際して「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられるのですか)と、悲痛な、絶望の叫びをあげられました。「神に見捨てられる」という、まさしく死と絶望の十字架の淵に、主は立たれました。
 だからこそ、今、絶望の淵におられる人々の傍らに、主イエスが共に立っていてくださっていることを、私どもは信じております。その主の憐れみを願い祈ること、それこそが私どもキリスト者のなすべきことです。私どもは今、絶望を共にしてくださっている神に依り頼む他になく、心鎮まって祈る他ないのです。
 この世の必要を追い求めることに終始することは、心乱れることです。何故ならば、そこではこの世のルールが優先するのであり、人の思いは行き違うこともあり人の思いは乱れるからです。

ですから今こそ、十字架の主イエス・キリストを信じる者として、絶望の淵にある方々と共に主がいてくださることを信じて祈ることが、私どものなすべきことだと信じて祈り、救い主イエス・キリストを宣べ伝えなければなりません。

絶望の淵、そこにあることは神の裁きなのではありません。そこにあることは「神の憐れみ」です。そこに「慈しみの神が立っていてくださる」のです。「神の慈しみを語り伝えよ」と示されております。今こそ、神に信頼して、神の憐れみを心静かに祈るべきときであることを覚えたいと思います。

続けて「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」と言われております。「疑う者」すなわち「二心ある、自問自答する」、そのような者は「揺れ動く海の波」、つまり「嵐」と言われております。それは「熱狂」の姿です。そこでは人の信頼を得る行動をすることはできません。熱狂は、ただ周りを巻き込み、疲れてしまうのです。そのような経験を誰でも持つのではないでしょうか。大きな出来事があればあるほど、私どもには「落ち着いていること、鎮まっていること」が大事です。
 最近はよく「危機管理」ということが言われますが、危機管理とは「事に備えて準備しておく」ということではありません。この度の災害を見れば分りますが、人の準備を超える出来事が起こったのです。ですから、危機管理とは「心定まっていること」です。
 そして、私どもキリスト者にとってそれは「神に信頼することによって与えられる恵み」です。危機管理能力とは、用意周到なことではなく、どんなことにも動揺しないことです。覚悟が出来ているということです。日常生活の中で、覚悟が出来ているかということです。
 日本人の好む桜。桜は美しく咲き、はかなく散る。その姿は、死の覚悟の象徴なのです。死に徹する、かつてはそれが日本人の美学でした。
 しかし、キリスト者の覚悟はそうではありません。「キリスト者にとっての覚悟」というのは、神に信頼し、死してなお天において神の住まいに生きるという約束の確かさによって与えられる「平安」ということです。永遠の命の約束が与えられている、だからこそ、この世を平安に生きることができるのです。キリスト者にとっての覚悟とは、自分自身がしっかりして生きるというようなことではないのです。

私どもキリスト者は、神への全き信頼をもって、神の憐れみを願って祈らなければなりません。信仰をもっての祈りとは「神の救い、神の憐れみを望み見ること、見出すこと」です。神を拠り所とする者は確かさを得るのです。

この世に依り頼む者の人生は、死をもってこの世の価値観を失い、虚しくなるのです。しかし、神は私どもに、永遠の命を約束してくださっております。神に依り頼む者は、死を超え、主イエスの甦りの命により、救いの完成を見る人生を得るのです。
 ただただ神にあってのみ、私どもの存在は確かであることを覚えたいと思います。

神の憐れみを、主の十字架の慈しみを願う、それが私どもキリスト者にしかなし得ない祈りであることを覚え、今、心を合わせ熱く祈りたいと思います。

貧しき人と富める人」 4月第2主日礼拝 2011年4月10日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章9〜15節
1章<9節>貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。<10節>また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。<11節>日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。<12節>試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。<13節>誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。<14節>むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。<15節>そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。

9節「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われております。「兄弟」と言っておりますので、これはキリスト者に対する呼びかけです。
 「貧しい兄弟」と言うと、財産がなく貧しいキリスト者のことだと思いがちですが、そうではなく「低さ」を表しております。今日は「貧しさ」と「低さ」、どちらの観点から話すか定まらない思いのままに朝を迎えてしまいました。「富んでいる」に対する言葉として「貧しい」という訳になっているのですが、それぞれに意味があるのです。

「低い」と言った場合、富のあるなしではなく「身分の低さ=奴隷」と思いがちですが、それが全てなのではありません。「奴隷」はもともと人格を認められていない存在です。ここに言われる「低い」とは、人が尊敬しない、相手にしない、存在を無視するということです。「貧しい兄弟」=「低いキリスト者たち」とは「この世においては軽く見られている人たち」ということです。マタイによる福音書では「心の貧しい者は幸い」と言い、ルカによる福音書は「貧しい人は幸い、富める人は災い」と言い表しております。貧しい者を、人は「相手にしない、敬わない、存在を無視する」のです。
 そして「高められることを誇りに思いなさい」と続きます。「高められる」とはどういうことでしょうか。この世では存在を認められていない貧しいあなたは、しかし「神の子としての高い身分をいただいている」ということです。主イエス・キリストを信じる者は「神の子と変えられる」のです。そして終わりの日には「完全な者として永遠の命を与えられる」ことが約束されております。つまり、この地上において「神の子の身分」が与えられ、終わりの日には「神の子として、神との永遠の交わり」が与えられる。高さには二重の意味があります。このような繋がりを考えると「貧しい」というよりも「低い」と訳した方が良いのかもしれません。「低い」ことは誰にも相手にされないだけではなく、この世の一切に頼れないから「神に依り頼むよりない」ということです。「神に信頼し、神に依り頼むよりない」それが聖書の言う「貧しさ」ということです。そういう意味で「貧しい者」とは、積極的な意味をもっております。

「貧しさ」を考えてみると、かつての日本社会では「清貧」ということが価値をもっておりました。貧しさに徹する凛とした清さ、その中に「美」を見たのです。しかしそれは「富む」ことによって失われてしまいました。富んだ社会にあっては「貧しいことは駄目なこと」だと言われるようになったのです。
 誰もが貧しさを生き、貧しさを共有した時代には、人々は哲学的になっていたと思います。各々が考えなければならなかったからです。貧しさゆえに悲しみ、弱く無力な自分とは何者なのかを考える。貧しさは「思索する人間」を生み出したと思います。そして貧しさを共有することは、人を信仰へと向かわせたと思うのです。このことはとても重要なことです。人が「人間存在とは何かを問う」ことは、極めて人間的なことだからです。人間は宗教的存在です。どんな人であれ「自分とは何か」を考えるときには、人は宗教的なのです。ですからそういう意味で「信仰心のない人間はいない」し、思索しない者は人間ではなく、ただの動物に過ぎないのです。しかし、富の中にあるということは人間力が低下することです。何故ならば、富に頼り、自らいろいろと考えなくなるからです。

ここ数年、私どもの社会は富める時代から貧しさに向かう時代へと移りつつあると思います。貧しさを共有しなければならない時代になりつつある。自分とは、家族とは、社会とは一体何なのか、問わざるを得ないゆえに、信仰的にならざるを得ないのです。信仰、宗教を必要と感じて、求める時代になろうとしていると思います。ですからこそ、今、キリスト者は「真実な信仰」を語るべきであることを覚えたいと思います。信仰なくして生きられない現実があります。一瞬の出来事によって失われてしまった者たちの存在の意味・尊厳を、信仰なくして与えることはできないからです。そういう意味で、今、キリスト者の存在は大事です。今「人々が信仰を求めている」ことを知って、真実に福音を語っていかなければなりません。

「貧しさ」を「低さ」として語らなければならないと思いつつ、「貧しさ」をも語るべきとの思いで定まりませんでしたが、「低さ」はキリスト教にとって、とても大事であることを覚えてほしいと思います。なぜならば、キリスト教は「低きに至る宗教」だからです。神は人に「レベルアップを求めない」のです。
 今の社会は、各々に高さを求め、スキルアップを求めます。それは担い合い助け合うという精神風土を損なうものです。高く強くという企業や国家の戦略は、小さな存在を無視し犠牲にし、その結果、地域は疲弊してしまいました。低さに立って物事を考えない。採算に合わないものを考えない。想定外を考えない。原発事故という人災、そこには人の奢りがあります。想定外と言っても、それは自分の経験に合わせた想定外なのであり、それは「自分を超える出来事に対する尊厳を失った考え方」なのです。経験や現実を裏付けにして良しとしたのです。自分を超える存在に対する畏れを失っていること、それが問題なのです。自分の経験に生きていること、経験が全てであること、それが破たんの原因です。

主イエス・キリストの出来事は「神が人にまでなってくださった。神が人としての低さをとってくださった」ということです。「神が低くなって、人に仕えてくださった」、だから「人は、神の低さゆえに、救いに与った」のです。本当は誰にも相手にされない、誰にも受け止めてもらえない存在、そんな私どもを受け止めてくださった方、それが「十字架の主イエス・キリスト」です。私どもは自分でも自分を受け止めることはできません。弱くて嫌な自分を見る、そういう私どもの最も低いところに、十字架の主イエスは共にいてくださるのです。そこでは、私どもは自分を誇る必要も奢る必要もありません。「惨めなわたしと共にいてください」と、低きに至ってくださった主イエスにすがりつつ、憐れみを乞う他にはないのです。そこでこそ、私どもに奢りはなくなり、そこでこそ「他者に真実に仕える」ということが起こるのです。
 人間としてのレベルアップを目指す宗教が多くなっておりますが、それでは、全ての者の救いにはなりません。自らを高めようとすることは、自分の経験を裏付けて良しとすることであり、それが富んでいるということなのです。

しかし、キリスト者は低い者です。そして「低い者は幸い」なのです。最も低きに下ってくださった主イエスが共にいてくださり、主と結ばれて救いの恵みに与っている、だから幸いなのです。
 主イエス・キリストによって自らの低さを知る者は、既に神を知り、神の憐れみの内にあります。神が顧みていてくださるのです。神は愛する御子までくださって、私どもを救ってくださいました。私どもを尊い存在として扱ってくださっているのです。ご自分の御子までもってして「あなたは尊い者である」と言ってくださるとは、何と感謝すべきことでしょう。これに勝る恵みはありません。

「高められることを誇る」ということは「高めてくださった神を誇る」ということです。そこで起こることは何でしょう。それは、神を誇り、神に感謝することです。自分が高められたということが誇りなのではありません。キリスト者にとって、誇りとしてのあり方は、神への感謝なのです。キリスト者は「神に感謝すること」で自らを誇り、神を誇っているのです。

10節「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです」と言われております。ここで2度目の「富んでいる者」はキリスト者を意味しません。「草花のように滅び去る」者です。
 ここでは「富の本質」が語られております。私どもがたとえ富んでいて財産を持っているからといっても、その財産に頼るのではなく「キリストに依り頼む者は幸い」だと言われているのです。富・財産に依存している、そういう中にあって、低さにおいて「滅びに過ぎないこの身が救われた」ことを知った「富める人」は幸いなのです。自らの低さを見出す人は、この世の富に依り頼まなくなる、神を畏れる心を持つことは低くなることです。
 「富んでいる」から豊かなのではありません。「富」はこの世の価値観ですから、この世にだけ価値があるのです。この世が終われば終わってしまうのです。この世の価値は移りゆくものですから、そういう先の分らないものに頼っていたのでは救いはありません。この世の終わりによって、死によって、完成を見ない虚しさだけが残るのです。ですから「この世を超えた揺るぎない保証を得る」ことなくして人は真実に平安を生きることはできません。

神は、そのような私どもを「この世を超えて存在を完成できる者」としてくださっております。この世に価値観を置いているものは、道半ばで、自らの完成を見ずに死ぬのです。それはこの世で「天寿を全うした」としても同じです。
 しかし、主イエス・キリストに信頼し、神に委ねた人生は、その人生がたとえ短いものであったとしても「終わりの日の完成が約束された人生」なのです。終わりの日に完全な者とされる、それがキリスト者の人生です。

キリスト者は、なぜ幸いなのでしょうか。人は自分で人生を完結させることはできません。しかし「神が完結させてくださる人生」を、この世にあって生きることは幸いなことなのです。
 この世で富を得、功績をあげても、この世に価値観を置く者はこの世で終わり、後は滅びへと至るのです。しかし、愚かであり弱く悲しい私どもを救うために、低きに至り、主イエスは十字架についてくださいました。その十字架の主イエス・キリストを見出す者は「人生の完成を見る」のです。自らの低さを知り、神を畏れて生きる人生であること、それはこの世の歩みがどのようなものであったとしても、「完成を見、決して尊厳を失うことのない豊かな人生を生きる」ということなのです。

今こそ、「信じること、信仰なくしては生き得ない」のだということを覚えたい、そして宣べ伝えたいと思います。

主のエルサレム入城」 棕櫚の主日礼拝 2011年4月17日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章12〜19節
12章<12節>その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、<13節>なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」<14節>イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてあるとおりである。<15節>「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」<16節>弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。<17節>イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。<18節>群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。<19節>そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」

今日は棕櫚の主日、今週は受難週です。
 主イエスは私どもを救うために、十字架のご受難をご自分のものとしてくださいました。私どももヨハネによる福音書を通して主の十字架の出来事に聴き、主のみ苦しみを覚えつつ一週間を過ごしたいと思います。
 また今年はもう一つ、主のご受難が大いなる意味を持つことを思います。主イエスのご受難は「救いを求めて苦しむ私どものためのご受難」であることを知り、人々の苦難を主が負うていてくださることを覚えて過ごしたいのです。未曾有の災害によって、人々は今、経験したことのない苦しみの中に置かれております。自然災害と更なる人災による苦難、今まさに大いなる苦しみの中で身悶えする人々…その苦しみを主イエスがご自分のものとしていてくださるのです。今、絶望の淵に、死のうちにある人々の苦しみを、主が我がものとしてくださっている…ですから今、私どもキリスト者は「苦しみにある人々は主イエス・キリストの救いの内にあるのだ」ということを見出しつつ、歩むべきことを覚えたいと思います。

主の十字架の出来事について福音書は語っておりますが、ヨハネによる福音書は他福音書とは少し違っております。箇所としては長いのですが、ご受難の場面の記述が長いのではなく、主イエスの告別説教が長いのです。ヨハネは主の十字架を感傷的に語りません。客観的に理性的に語るのです。感傷的になりがちですが、客観的に見ることの必要性、課題があると思います。主のこのご受難がいかに昇華されて救いの出来事となっているのか、そのことに聴きたいと思うのです。

主イエスのご受難に際して「主イエスのエルサレム入城」が語られます。主のエルサレム入城、それは「王としての入城」です。なぜ主のエルサレム入城が語られるのでしょうか。それは「苦しみ、十字架につけられた方は、いかなる方なのか」を明確にするために語られているのです。本来、苦しむ必要のない方、十字架に架かる必要のない方が苦しみ十字架に架かられる。エルサレム入城に際して人々から誉め讃えられ讃美される、そのような方が苦しみに合われる。それはどういうことなのでしょうか。私どもは、ゆえなくご受難に合われたこの方が「いかなる方なのか」を知らなければなりません。

12節「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は…」とあります。「その翌日」とは、どんな出来事の翌日なのでしょうか。9節に「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」と記されております。群衆は、イエスだけでなく生き返ったラザロを見たいと思ったのです。そして10節「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」と続きます。「その翌日」とは「祭司長たちがラザロをも殺そうと謀った」その翌日です。エルサレムは神殿の町であり、祭司長たちはその神殿の中心にいる者たちです。その祭司長たちの主に対する妬みと殺意のあるところに、主は入って行かれるのです。
 祭司長たちは本来、尊敬を受ける者たちです。その尊敬が主イエスへと移ってしまったために殺意を抱く…それは人々の心が離れて行ったことに耐えられないということであり、そこに彼らの問題があるのです。祭司長たちは人に心を向け、神に心を向けることを疎かにしました。人はどこに心を向けるべきでしょうか。人の様々な思いの中で一喜一憂するのではなく、心定めて神に向かうことが大事です。心が人に向いているから、人が離れてしまうと心騒ぐのです。神に向かっているならば、人が離れていったとしても、その人のために祈ることができます。それは、真実に人を愛することができるということです。愛することの根底にあることは「慈しみの神に心を向け、心を定めていること」だということを覚えたいと思います。
 こういう時だからこそ、神へと心を向ける。そこでこそ、この受け入れ難い状況にあって、神の慈しみ、神の恵み、救いを祈り求めることができるのです。人に心を向けていれば心騒ぎ、自分自身も沈んでしまい、なす術を失うのです。神に心を向け心定まっていれば、神の慈しみこそが必要であると知り、為すべきことが見えるのです。

主イエスのエルサレム入城は「ラザロをよみがえらせた主イエス」の入城です。主イエスが「甦りの命の担い手」であられることを、この福音書は告げてくれております。「ラザロの甦り」とは、即ち「私どもの甦り」を意味しております。私どもを甦らせてくださる主イエス・キリストが、エルサレムに入城なさったのです。
 13節「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。『ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。』」と記されております。祭りのこの時、エルサレムにいる群衆は多くの国々から来た人々であり、その群衆が主を迎えるのです。ここに、主イエスの到来がエルサレムの住民のためだけではなく世界中の民のためであることを覚えなければなりません。「なつめやしの枝を持って」すなわち「棕櫚をかざして」、それは「凱旋する、即位する王を迎える迎え方」です。ここでは、王侯貴族を迎える時にだけ用いる「迎える」という言葉が使われております。主イエスが「王として」迎えられていることが示されております。これからご受難の時を過ごし十字架に架けられる方、それは「王なる方」なのです。
 「王なる方」とは、どのような方なのでしょうか。群衆は叫びます。「ホサナ」とは「助けてください」という言葉ですから、主イエスが「助け主、憐れみの主」として迎えられたことが示されております。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に」とは、神の助けが主イエスによって来たことを誉め讃えている言葉です。主イエスは「人々を助ける者として王」であり、それを誉め讃えているのです。「主イエスがおいでくださった」それは「神から助けが来た」ことを示しております。ただ天上に助けがあるということではなく「助け主(メシア)が私どものところにおいでくださった」ことを誉め讃えているのです。「主の名によって来られる方」、「主の名」とは「神の名」ということですが、「神の名」とストレートに言うことは畏れ多く、「主の名」という婉曲な言い方で神を表しております。「神が遣わされた方」それが「主イエス・キリスト」であり「私どもの救い、助け主なる王として、神が遣わしてくださった」のです。ですから、この王は、人々が持ち上げて立てた王ではありません。神が遣わしてくださるメシアなのです。助けを送ってくださっているのは神、ですから神を讃美するのです。

ここで覚えておくべきことがあります。それは「主イエス・キリストご自身も神であられる」ということです。「神なる方、主イエス」が「私どもを救う」ために「人となって、来てくださった」このことがここに記された讃美によって示されていることです。私どものために来てくださった方が、苦しみ、十字架についてくださるのだということを、神の恵みとして覚えるものでありたいと思います。

ここでの「祝福があるように」という言葉、人が祝福を祈るとはどういうことかと、いつも違和感を覚えます。しかし、これは単なる祈願ではなく、讃美の言葉なのです。「祝福」とは「力が与えられる」ということです。「力を与える方、主こそ祝福なる方、力を授ける方」として誉め讃える、それがここに言われていることです。「私どもを祝福し、力を与えてくださった」そのことを讃美しているのです。このことも大事なことです。「絶望の淵にある者に力を与えてくださるのは神、主イエス・キリスト」だからです。主は、私どもに存在を与えてくださる方、だからその主を誉め讃えずにはいられないのです。

更に讃美の言葉が続きます。「イスラエルの王に」とあります。十字架の主イエスの罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。主イエスは「イスラエルの王」として十字架につけられるのではないのです。にも拘らず、敢えてここで「イスラエルの王」と記される。それは、かつてパレスチナ全土を支配した「イスラエル王国」を連想させる、政治上の王を思わざるを得ない言葉です。ローマ支配のこの時、パレスチナに再びイスラエル建国がなされることを連想させるのです。しかし、ヨハネによる福音書は「イスラエルの王」と記すことによって「パレスチナ建国の王」と言っているのではありません。主はこの世の権力と争うために来られたのではないのです。主はこの世を超える方、人々を一切の捕われから解き放つ力を持っておられる方です。この世の束縛から私どもを解き放ってくださる方なのです。主の力とは、この世を凌駕する力なのです。この世と争う力なのではありません。この世と争って勝ったとしても、それではこの世の力と変わりないのです。この世と並ぶ力なのではない、「この世を超えた力」だからこそ「来てくださる、低くなってくださる」ことができるのです。このことを忘れてはなりません。

人々が主を王と誉め讃える、その時に主は何をなさるのでしょうか。14節「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」というのです。何と滑稽な姿でしょうか。「イスラエルの王」であれば、軍馬こそが相応しいでしょう。「ろばの子」は偶然そこにいたのかもしれません。しかしそれは偶然なのではありません。主イエスは、ろばの子を見て、ご自分が乗るべき対象として見出しておられるのです。ここに神の御意志を見るべきです。偶然やたまたまの背後には、主の御意志があることを忘れてはなりません。
 ろばの子に乗ることによって、主イエスは「弱々しく、無力な王」であることを示しておられます。それは主が「柔和の王」として来られたということです。「弱さと無力さを担う方として来られた」ことが示されております。
 「イスラエルの王」とは「真実な王」として、「無力さの中にある私どもを救うために」来られたのです。

主イエス・キリストはおいでくださいました。私ども人間の無力さ、存在を失っている者の「救い主」としておいでくださいました。そして苦しみ、十字架についてくださいました。いかなる方として主は来られたのか、主のエルサレム入城に示された恵みを覚えつつ、共に祈りつつ、受難週を過ごしたいと思います。

成し遂げられた」 受難日礼拝 2011年4月22日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章28〜37節
19章<28節>この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。<29節>そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。<30節>イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。<31節>その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。<32節>そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。<33節>イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。<34節>しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。<35節>それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。<36節>これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。<37節>また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

私どもは今年、主のご受難、十字架への歩みの出来事をヨハネによる福音書に聴きつつ、祈って参りました。必ずしも一つ場所に集って祈ったわけではありません。しかし場所や時は違っていても、私どもは共々に同じ御言葉に聴いてきたのです。「同じ一つのの民」として聴いたのです。「同じ一つの『神の民』」であることの恵みを思い、感謝し、覚えたいと思います。

今、十字架の主の御言葉に聴こうとしております。ヨハネによる福音書の十字架についての記述は他福音書と比べて長いのですが、それは、単に十字架の様子が描かれているだけではなく、弟子たちに語ってくださった主イエスの告別説教と祈りがあるからです。主イエスは、ご自身が「しばらくするといなくなる」ことを示されました。天に帰って弟子たちのために住まいを用意する、また、いなくなることによって弟子たちには聖霊が与えられることを語ってくださいました。ここに弟子であることの幸いを思います。主は十字架にかかられ死なれる。しかし十字架によって主は天に帰られる。それは弟子たちが主イエスと一つなる者として「神の子としての身分が与えられる」という幸いなのです。そしてそれは、十字架の場にいた弟子たちばかりではなく、主を信じる者すべてに与えられる「主と共にある平安」なのです。

今、主の十字架を仰ぎつつ、御言葉に聴きたいと思います。
 主イエスは「渇く」(28節)と言われました。ヨハネは主の十字架の悲惨な姿をあまり記しませんが、この言葉によってその一端を思わされます。神から見放され、まさに絶望の淵に立っておられる主の姿は、今まさに絶望の淵にある人々と共にあってくださる主の御姿です。

「渇く」とのこの叫びは「すべてのことが今や成し遂げられたのを知って」の主イエスの言葉でした。ヨハネは主の十字架を「十字架上の主の苦しみ」ではなく「栄光の主の十字架」として表します。主イエスが「父なる神の御意志を成し遂げられ、実現された」こと、それがこの「成し遂げられたのを知り」という御言葉によって示されていることです。
 しかし、この「渇く」という主の言葉を聞いた人々は、主が単にのどが渇いたのだと誤解しました。そして「酸いぶどう酒」を差し出したのです。
 十字架のそばになぜ「酸いぶどう酒」が置いてあるかといえば、それは、気を失った者に気付け薬として与えるためでした。他の福音書では「葦の棒につけて」と記されますが、ヨハネでは「このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け」と記されております。「ヒソプ」は「過越の祭り」に用いることから、ヨハネは「過越」としての「主の十字架」であることを暗示して語っているのです。

「父なる神の御心を成し遂げた」ことを知って、主は「渇く」と言われました。30節「イエスは、このぶどう酒を受けると…」、本当にはのどが渇いているわけではないのに、人々の誤解によって差し出された「酸いぶどう酒」を、主は「受けて」くださいました。
 人は、他者に誤解されていることに耐えられるものではありません。本来であれば、誤解されて差し出されたぶどう酒など、受けたくはないし受けられないはずです。しかし、主イエスは「受けて」くださるのです。どういうことでしょうか。聖書は、主が「酸いぶどう酒を飲まれた」とも「のどを潤した」とも書いておりません。飲んだと書いてあれば、主はのどが渇いていたのでしょう。しかし「このぶどう酒を受けると」と記されている。のどは渇いていなかった、しかし敢えて「受けてくださって」いるのです。
 人は、主イエスの思いを知るものではありません。しかし主イエスは、思い違いをしている人々の思いをも知り、受けてくださるのです。十字架上にありながら、誤解する人々の思いも受けてくださるとは、主の大いなるあり方を思わずにはいられません。人の正しい思いを受けてくださるというのではないのです。人は多くの間違いの中にある、いや間違ってしか考えられない、そのような者の思いを、主は受けてくださるのです。十字架の主に感謝の他ありません。
 人々は、主イエスの思いを真実には知りません。にも拘らず、受け入れてくださる、それは何故でしょうか。主イエス・キリストの十字架は「受容の十字架」だからです。人は罪のまま、そのまま、主に受容されているのです。主イエス・キリストの十字架には「罪の赦し」があるからです。主の十字架は「神の御子が全てを成し遂げて天に帰られる」その印です。主は「神の救いの業を成し遂げて」天に帰られるのです。「神の御旨がそこに成る」それが主の十字架です。「この世に神の救いが実現する」それが主の十字架なのです。

十字架は主の勝利であり、天への凱旋の門です。神の子なる方として、この世に来たもう神として、主が栄光を現される、それが十字架です。それは神の救いを現す栄光なのです。

ヨハネによる福音書の十字架の記述はあまりにも他の福音書と違っておりますが、しかしそれは今に何を示しているのでしょうか。
 私どもは今、自然の猛威と人のエゴの破綻ゆえに、望みなき現実の中に置かれております。しかし、この時になお、揺るぎなきもの、それは神の御旨です。「望みなき者の救い」それが「神の御旨」なのです。
 主イエスは十字架において「成し遂げられた」との宣言をなしてくださいました。「望みなき者の救いが十字架によって与えられている」のだということを覚えたいと思います。十字架の主の救いは揺るぎないのです。今この時、被災の地を神の慈しみが覆い尽くしているのです。「成し遂げられた」とは、そういうことです。

これから先、どうなっていくのか、私どもには計り知ることはできません。人の力の及ばない現実があるのです。しかし、神は救ってくださる。神の慈しみが覆い尽くしているのです。十字架の主イエス・キリストが「成し遂げた」と言ってくださっている、その主を信じるとき、神の救いはそこに成っているのです。

私どもが十字架の主の救いを信じることによって、私どもだけではなく、全ての者の救いを、そこに見出すことができるのだということを覚えたいと思います。
 今こそ、信じることが求められているのです。

主が立っておられる」 イースター礼拝 2011年4月24日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第20章11〜18節
20章<11節>マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、<12節>イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。<13節>天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」<14節>こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。<15節>イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」<16節>イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。<17節>イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」<18節>マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

主イエス・キリストの復活を覚え、共々に礼拝できますことを感謝いたします。今日は、主のよみがえりの朝、復活の主がマグダラのマリアに臨んでくださった、その御言葉から聴きたいと思います。

マリアは愛しい主イエスが死んでしまわれ、また主のご遺体が取り去られてしまったと思い、泣いておりました。既に1〜10節にマリアが墓に来た様子が語られております。マリアは早朝に一度墓に来て中を覗き、主のご遺体が無いことを知りますが、墓に入りもせずに、そのことを男弟子のペトロたちに告げました。そして、ペトロともう一人の弟子が墓に来て入り、帰った、その後でマリアは再び墓に来て、11節「泣きながら身をかがめて墓の中を見る」のです。そこに、12節「白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と記されております。
 天使たちはマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と呼びかけます(13節)。天使はマリアがなぜ泣いているのか知らないわけではありません。知っているのに、わかっていて聞くのです。それは実は、マリアに「知ってほしい」からこその呼びかけなのです。
 マリアは、主が復活されたことを知りません。十字架で死なれ、遺体は盗まれたと思っております。そういうマリアこそが、「主が復活された」ことを知るべきなのです。何故ならば、主の復活を知ればマリアは喜びに満ち溢れることを天使たちは知っているからです。
 「問い」とは、知らないから問うと思いますが、しかし「知っているから問う」ということもあるのです。それは、問われた人が、知るべきところ、至るべきところに至るためです。無知でしか過ぎない私どもに、神が問うてくださいます。それは、知り得ないことを知るという恵みへの問いなのです。
 人生において、私どもは様々な問いを与えられます。それが神からの問いであれば必ず答えはあるのです。ですから、問われるということは幸いなことです。問いによって、知るべき所への導きをいただいているからです。

嘆くばかりのマリアは、真実を知らないために、悲しみのあまり「主のご遺体が盗まれてしまった」という間違った思いになっております。しかしそのような間違いにも拘らず、マリアは「よみがえり(復活)の主に出会う」という幸いを与えられていることを覚えなければなりません。男弟子のペトロと主の愛する弟子も墓に入りました。彼らは教会で重んじられている2人です。しかし彼らは、墓に入っても主を思い起こすことはありませんでしたし、主も2人に臨んではくださいませんでした。それなのに、なぜマリアは主と出会えたのでしょうか。それは、マリアが「誰よりも悲しんでいる者として」主とお会いしているということなのです。
 ペトロたち以上に涙して悲しんでいたマリア。そのマリアが主にお会いしているとは、ここに神の御業の大いなることを思います。誰よりも悲しみ傷む者に、復活の主イエスが臨んでくださるのです。悲しみにある者、悲しみのあるところ、そこに主イエス・キリストを見るのだということを、改めて覚えたいと思います。

悲しむマリアに主が臨んでくださっているという、この御言葉を聴く私どもが、今まさに知るべきことがあります。それは、悲しみ、絶望の淵に立つ人たちのそのところに「復活の主が立っておられるのだということを信じる」ことへと、私どもは導かれているのだということです。悲しみのあるところ、絶望の淵、そこに「死を超えた命なる主、復活の主イエス・キリスト」がおられます。ですから、今、慰めを与えられているのです。地上の死によって終わるのではありません。死をもって空しく終わるのではなく、故なくこの地上から取り去られてしまった方々に復活の主が臨み、主と共なる永遠の命をお与えくださっていることを信じることへと導かれているのです。このことを見出すことが、今、慰めとなるのです。

14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。天使に答えながら、マリアは何かを感じたのでしょう。言いながら振り向く、そこに「イエスが立っておられた」と記されております。
 「振り向く」ことは大事なことです。振り向くことは、自らの思いを主の方に向けることを意味しております。自分の思いがいっぱいなときには、思いを他に振り向けることはなかなかできません。そして、自分の思いに捕われ潰れてしまうのです。振り向いて、心を主に向けるならば、そこで神を見るならば、自らの思いは喜びへと変えられるのです。
 マリアは振り向いて主イエスの立っておられるのを見る。しかしそれが主イエスだとは気付きません。15節、主イエスが「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問うてくださり、ご自身に気付かせようとしてくださるのに、マリアはまだ復活の主を思い起こせないで、園丁だと考え違いをするのです。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」とのマリアの言葉には、マリアの心情が、主に対す愛おしさ、いっぱいの思いが溢れております。
 そういうマリアに、主イエスが「マリア」と呼びかけてくださいます。16節「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」と記されております。しかし、ここで「彼女は振り向いて」というのは変なことです。何故ならば、マリアは既に振り向いているのであり、立っておられる主イエスと面と向かっているはずだからです。ですから、ここに記される「振り向いた」とは、自分の間違った思いに捕われているマリアが、主の「マリア」との呼びかけによって、呼んでくださった方へと心が向いて、思いが変わったことを示しております。主イエスがマリアを呼んでくださったことで、マリアは自分の思いを変え、主を見出すことができました。「マリア」という主イエスの呼びかけが、マリアに主イエスを思い起こさせました。それは、十字架以前の主イエスがいつも親しく呼んでくださっていた、その主の御声でした。慕わしい主の呼びかけだったから、主イエスであると分ったのです。そこに説明などありません。それ程までに麗しく慕わしい呼びかけだったということです。

17節、イエスは言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。
 主にすがりつくマリアに、「わたしにすがりつくのはよしなさい、まだ父のもとへ上っていないのだから」と言われます。マリアは主イエスをまだ「復活の主」としては見ておりません。十字架以前の主イエス、地上におられたときの主イエスを思い起こして、すがっているのです。ですから、「わたしにすがりつくのはよしなさい」とは、主イエスがマリアに、十字架以前の主とは違う「復活の主であること」を示しておられる言葉なのです。地上での主イエスは、隠された形での救い主の姿です。しかし、十字架に死に復活された主は、この世に明らかにされた救い主の姿であります。ですから、この言葉によって主は、ご自身を昔の主と同じ者として受け止めてはならないのだということを示しておられるのです。

そしてマリアは、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」との主の言葉を弟子たちに告げることを命じられました。マリアには主イエスを証しする、語る使命が与えられたのです。本来ならば、この使命を受けるのに相応しい者は、ペトロたち男弟子であったでしょう。しかし、主イエス・キリストの最初の証人となったのはマグダのマリアでした。当時の社会では、これは到底考えられないことです。女性に人権などない、女性の証言は取り上げられない時代、なのに主イエスは婦人を最初の証人とされました。これがマリアに与えられた恵みです。マリアは喜びをもって伝えるのです。

主は「わたしの兄弟たちのところへ行って」と言われます。ここに、主イエスによって新しい共同体が覚えられております。もはや主と弟子とは師弟関係ではなく「主の兄弟」として「神の家族としての新しい共同体」として覚えられているのです。そして、その共同体の中にマリアも覚えられております。ここに「主イエス・キリストを証しする新しい共同体」が作られているのです。

今、覚えたいと思います。マリアは復活の主の証人とされました。そして、マリアが主の証人となることは、主のご命令である以上、そこに復活の主が臨んでおられるのです。
 今ここで、教会が「復活の主を宣べ伝える」、そこに復活の主が在し、臨んでおられます。そして私どもを「死を超えた永遠の命に与る者としてくださっている」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

今こそ、宣べ伝えるべきことが求められております。「十字架と復活の主イエス・キリストによって、死を超えた、よみがえりの命が与えられている」そのことを伝えることこそが、地上の慰めなのです。

今、この礼拝において、甦りの命に与る恵みのうちにあることを改めて感謝し、心深く覚えるものでありたいと思います