|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
今日は6節の御言葉から聴いていきたいと思います。 「疑い」と「信仰」については、聖書においてしばしば語られることです。聖書の説明によれば「疑い」とは、「二心あること」即ち、信じていると言いながらこの世の価値観に依り頼もうとして揺れ動くことです。神が存在しているかどうかを疑うということではありません。この手紙の書かれた当時においては、神が存在していることは前提なのであり、神以外のものに依り頼むことが「疑い」なのです。思いがあちこちに巡ることが「疑い」であり、神に信頼しきっていないことを表す言葉として用いられます。 日本基督教団の歴史を顧みて思わされます。ある時期において、教団は、神に全てを委ねて祈るということが出来ませんでした。「神に委ねて祈る」それは「他力本願」であると批判し、自ら働きかけて行動することこそ良しとしたのです。礼拝などしている場合ではない、行動せよという時代がありました。国家権力は人を搾取するもの、教会もまた、教会の権威によって人を圧すると批判したのです。このことを顧みて思います。そこにあったのは、浮ついた、ざわついた人の思いではなかったかと。そこに、神への全き信頼によって与えられる平安はあったのかと。「委ねる」こと「信頼する」ことなくして、「平安」は生まれません。 私どもにとって大事なことは何でしょうか。あれもこれも追いかけるということではなく、「神に信頼し、礼拝し、祈る」ことです。確かに自らを顧みることも大事なことですが、しかしそれでは何も解決しないし、人を救うことにはならないのです。 「疑う」ことの内容とされる「二心あること」も「自問自答すること」も共に、8節に記される「心が定まらない」ということです。心が定まらずに祈っても、何も見えないし聞こえてきません。ただ自分の思いを反芻するばかりになるのです。「心を定めて」神の語りかけに聴くべきことが、ここに言われていることです。神が臨んでおられないから聞こえないのではありません。祈るところで、神は臨んでくださっているのです。ですから、心定めて祈るならば、神の声は聞こえてくるのです。 私どもは今、東日本大震災のただ中にあって、心穏やかではいられません。「どうして、どうしたら」との思いが堂々と巡り、二次的人災の広がりに心傷め、祈らずにはおられない日々を過ごしております。そういうときに、今日、6節の「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」との御言葉が与えられました。今こそ、私どもは「心定めて、心鎮まって、祈る」ことが大事なのです。 絶望と混沌のこのときに必要なものは何なのか。それは「神の救いがなるようにと祈ること」です。 私どもは知っております。十字架の主イエス・キリストとはどのようなお方か。主イエスは十字架に際して「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられるのですか)と、悲痛な、絶望の叫びをあげられました。「神に見捨てられる」という、まさしく死と絶望の十字架の淵に、主は立たれました。 ですから今こそ、十字架の主イエス・キリストを信じる者として、絶望の淵にある方々と共に主がいてくださることを信じて祈ることが、私どものなすべきことだと信じて祈り、救い主イエス・キリストを宣べ伝えなければなりません。 絶望の淵、そこにあることは神の裁きなのではありません。そこにあることは「神の憐れみ」です。そこに「慈しみの神が立っていてくださる」のです。「神の慈しみを語り伝えよ」と示されております。今こそ、神に信頼して、神の憐れみを心静かに祈るべきときであることを覚えたいと思います。 続けて「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」と言われております。「疑う者」すなわち「二心ある、自問自答する」、そのような者は「揺れ動く海の波」、つまり「嵐」と言われております。それは「熱狂」の姿です。そこでは人の信頼を得る行動をすることはできません。熱狂は、ただ周りを巻き込み、疲れてしまうのです。そのような経験を誰でも持つのではないでしょうか。大きな出来事があればあるほど、私どもには「落ち着いていること、鎮まっていること」が大事です。 私どもキリスト者は、神への全き信頼をもって、神の憐れみを願って祈らなければなりません。信仰をもっての祈りとは「神の救い、神の憐れみを望み見ること、見出すこと」です。神を拠り所とする者は確かさを得るのです。 この世に依り頼む者の人生は、死をもってこの世の価値観を失い、虚しくなるのです。しかし、神は私どもに、永遠の命を約束してくださっております。神に依り頼む者は、死を超え、主イエスの甦りの命により、救いの完成を見る人生を得るのです。 神の憐れみを、主の十字架の慈しみを願う、それが私どもキリスト者にしかなし得ない祈りであることを覚え、今、心を合わせ熱く祈りたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
9節「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われております。「兄弟」と言っておりますので、これはキリスト者に対する呼びかけです。 「低い」と言った場合、富のあるなしではなく「身分の低さ=奴隷」と思いがちですが、それが全てなのではありません。「奴隷」はもともと人格を認められていない存在です。ここに言われる「低い」とは、人が尊敬しない、相手にしない、存在を無視するということです。「貧しい兄弟」=「低いキリスト者たち」とは「この世においては軽く見られている人たち」ということです。マタイによる福音書では「心の貧しい者は幸い」と言い、ルカによる福音書は「貧しい人は幸い、富める人は災い」と言い表しております。貧しい者を、人は「相手にしない、敬わない、存在を無視する」のです。 「貧しさ」を考えてみると、かつての日本社会では「清貧」ということが価値をもっておりました。貧しさに徹する凛とした清さ、その中に「美」を見たのです。しかしそれは「富む」ことによって失われてしまいました。富んだ社会にあっては「貧しいことは駄目なこと」だと言われるようになったのです。 ここ数年、私どもの社会は富める時代から貧しさに向かう時代へと移りつつあると思います。貧しさを共有しなければならない時代になりつつある。自分とは、家族とは、社会とは一体何なのか、問わざるを得ないゆえに、信仰的にならざるを得ないのです。信仰、宗教を必要と感じて、求める時代になろうとしていると思います。ですからこそ、今、キリスト者は「真実な信仰」を語るべきであることを覚えたいと思います。信仰なくして生きられない現実があります。一瞬の出来事によって失われてしまった者たちの存在の意味・尊厳を、信仰なくして与えることはできないからです。そういう意味で、今、キリスト者の存在は大事です。今「人々が信仰を求めている」ことを知って、真実に福音を語っていかなければなりません。 「貧しさ」を「低さ」として語らなければならないと思いつつ、「貧しさ」をも語るべきとの思いで定まりませんでしたが、「低さ」はキリスト教にとって、とても大事であることを覚えてほしいと思います。なぜならば、キリスト教は「低きに至る宗教」だからです。神は人に「レベルアップを求めない」のです。 主イエス・キリストの出来事は「神が人にまでなってくださった。神が人としての低さをとってくださった」ということです。「神が低くなって、人に仕えてくださった」、だから「人は、神の低さゆえに、救いに与った」のです。本当は誰にも相手にされない、誰にも受け止めてもらえない存在、そんな私どもを受け止めてくださった方、それが「十字架の主イエス・キリスト」です。私どもは自分でも自分を受け止めることはできません。弱くて嫌な自分を見る、そういう私どもの最も低いところに、十字架の主イエスは共にいてくださるのです。そこでは、私どもは自分を誇る必要も奢る必要もありません。「惨めなわたしと共にいてください」と、低きに至ってくださった主イエスにすがりつつ、憐れみを乞う他にはないのです。そこでこそ、私どもに奢りはなくなり、そこでこそ「他者に真実に仕える」ということが起こるのです。 しかし、キリスト者は低い者です。そして「低い者は幸い」なのです。最も低きに下ってくださった主イエスが共にいてくださり、主と結ばれて救いの恵みに与っている、だから幸いなのです。 「高められることを誇る」ということは「高めてくださった神を誇る」ということです。そこで起こることは何でしょう。それは、神を誇り、神に感謝することです。自分が高められたということが誇りなのではありません。キリスト者にとって、誇りとしてのあり方は、神への感謝なのです。キリスト者は「神に感謝すること」で自らを誇り、神を誇っているのです。 10節「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです」と言われております。ここで2度目の「富んでいる者」はキリスト者を意味しません。「草花のように滅び去る」者です。 神は、そのような私どもを「この世を超えて存在を完成できる者」としてくださっております。この世に価値観を置いているものは、道半ばで、自らの完成を見ずに死ぬのです。それはこの世で「天寿を全うした」としても同じです。 キリスト者は、なぜ幸いなのでしょうか。人は自分で人生を完結させることはできません。しかし「神が完結させてくださる人生」を、この世にあって生きることは幸いなことなのです。 今こそ、「信じること、信仰なくしては生き得ない」のだということを覚えたい、そして宣べ伝えたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
今日は棕櫚の主日、今週は受難週です。 主の十字架の出来事について福音書は語っておりますが、ヨハネによる福音書は他福音書とは少し違っております。箇所としては長いのですが、ご受難の場面の記述が長いのではなく、主イエスの告別説教が長いのです。ヨハネは主の十字架を感傷的に語りません。客観的に理性的に語るのです。感傷的になりがちですが、客観的に見ることの必要性、課題があると思います。主のこのご受難がいかに昇華されて救いの出来事となっているのか、そのことに聴きたいと思うのです。 主イエスのご受難に際して「主イエスのエルサレム入城」が語られます。主のエルサレム入城、それは「王としての入城」です。なぜ主のエルサレム入城が語られるのでしょうか。それは「苦しみ、十字架につけられた方は、いかなる方なのか」を明確にするために語られているのです。本来、苦しむ必要のない方、十字架に架かる必要のない方が苦しみ十字架に架かられる。エルサレム入城に際して人々から誉め讃えられ讃美される、そのような方が苦しみに合われる。それはどういうことなのでしょうか。私どもは、ゆえなくご受難に合われたこの方が「いかなる方なのか」を知らなければなりません。 12節「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は…」とあります。「その翌日」とは、どんな出来事の翌日なのでしょうか。9節に「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」と記されております。群衆は、イエスだけでなく生き返ったラザロを見たいと思ったのです。そして10節「祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」と続きます。「その翌日」とは「祭司長たちがラザロをも殺そうと謀った」その翌日です。エルサレムは神殿の町であり、祭司長たちはその神殿の中心にいる者たちです。その祭司長たちの主に対する妬みと殺意のあるところに、主は入って行かれるのです。 主イエスのエルサレム入城は「ラザロをよみがえらせた主イエス」の入城です。主イエスが「甦りの命の担い手」であられることを、この福音書は告げてくれております。「ラザロの甦り」とは、即ち「私どもの甦り」を意味しております。私どもを甦らせてくださる主イエス・キリストが、エルサレムに入城なさったのです。 ここで覚えておくべきことがあります。それは「主イエス・キリストご自身も神であられる」ということです。「神なる方、主イエス」が「私どもを救う」ために「人となって、来てくださった」このことがここに記された讃美によって示されていることです。私どものために来てくださった方が、苦しみ、十字架についてくださるのだということを、神の恵みとして覚えるものでありたいと思います。 ここでの「祝福があるように」という言葉、人が祝福を祈るとはどういうことかと、いつも違和感を覚えます。しかし、これは単なる祈願ではなく、讃美の言葉なのです。「祝福」とは「力が与えられる」ということです。「力を与える方、主こそ祝福なる方、力を授ける方」として誉め讃える、それがここに言われていることです。「私どもを祝福し、力を与えてくださった」そのことを讃美しているのです。このことも大事なことです。「絶望の淵にある者に力を与えてくださるのは神、主イエス・キリスト」だからです。主は、私どもに存在を与えてくださる方、だからその主を誉め讃えずにはいられないのです。 更に讃美の言葉が続きます。「イスラエルの王に」とあります。十字架の主イエスの罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。主イエスは「イスラエルの王」として十字架につけられるのではないのです。にも拘らず、敢えてここで「イスラエルの王」と記される。それは、かつてパレスチナ全土を支配した「イスラエル王国」を連想させる、政治上の王を思わざるを得ない言葉です。ローマ支配のこの時、パレスチナに再びイスラエル建国がなされることを連想させるのです。しかし、ヨハネによる福音書は「イスラエルの王」と記すことによって「パレスチナ建国の王」と言っているのではありません。主はこの世の権力と争うために来られたのではないのです。主はこの世を超える方、人々を一切の捕われから解き放つ力を持っておられる方です。この世の束縛から私どもを解き放ってくださる方なのです。主の力とは、この世を凌駕する力なのです。この世と争う力なのではありません。この世と争って勝ったとしても、それではこの世の力と変わりないのです。この世と並ぶ力なのではない、「この世を超えた力」だからこそ「来てくださる、低くなってくださる」ことができるのです。このことを忘れてはなりません。 人々が主を王と誉め讃える、その時に主は何をなさるのでしょうか。14節「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」というのです。何と滑稽な姿でしょうか。「イスラエルの王」であれば、軍馬こそが相応しいでしょう。「ろばの子」は偶然そこにいたのかもしれません。しかしそれは偶然なのではありません。主イエスは、ろばの子を見て、ご自分が乗るべき対象として見出しておられるのです。ここに神の御意志を見るべきです。偶然やたまたまの背後には、主の御意志があることを忘れてはなりません。 主イエス・キリストはおいでくださいました。私ども人間の無力さ、存在を失っている者の「救い主」としておいでくださいました。そして苦しみ、十字架についてくださいました。いかなる方として主は来られたのか、主のエルサレム入城に示された恵みを覚えつつ、共に祈りつつ、受難週を過ごしたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
私どもは今年、主のご受難、十字架への歩みの出来事をヨハネによる福音書に聴きつつ、祈って参りました。必ずしも一つ場所に集って祈ったわけではありません。しかし場所や時は違っていても、私どもは共々に同じ御言葉に聴いてきたのです。「同じ一つのの民」として聴いたのです。「同じ一つの『神の民』」であることの恵みを思い、感謝し、覚えたいと思います。 今、十字架の主の御言葉に聴こうとしております。ヨハネによる福音書の十字架についての記述は他福音書と比べて長いのですが、それは、単に十字架の様子が描かれているだけではなく、弟子たちに語ってくださった主イエスの告別説教と祈りがあるからです。主イエスは、ご自身が「しばらくするといなくなる」ことを示されました。天に帰って弟子たちのために住まいを用意する、また、いなくなることによって弟子たちには聖霊が与えられることを語ってくださいました。ここに弟子であることの幸いを思います。主は十字架にかかられ死なれる。しかし十字架によって主は天に帰られる。それは弟子たちが主イエスと一つなる者として「神の子としての身分が与えられる」という幸いなのです。そしてそれは、十字架の場にいた弟子たちばかりではなく、主を信じる者すべてに与えられる「主と共にある平安」なのです。 今、主の十字架を仰ぎつつ、御言葉に聴きたいと思います。 「渇く」とのこの叫びは「すべてのことが今や成し遂げられたのを知って」の主イエスの言葉でした。ヨハネは主の十字架を「十字架上の主の苦しみ」ではなく「栄光の主の十字架」として表します。主イエスが「父なる神の御意志を成し遂げられ、実現された」こと、それがこの「成し遂げられたのを知り」という御言葉によって示されていることです。 「父なる神の御心を成し遂げた」ことを知って、主は「渇く」と言われました。30節「イエスは、このぶどう酒を受けると…」、本当にはのどが渇いているわけではないのに、人々の誤解によって差し出された「酸いぶどう酒」を、主は「受けて」くださいました。 十字架は主の勝利であり、天への凱旋の門です。神の子なる方として、この世に来たもう神として、主が栄光を現される、それが十字架です。それは神の救いを現す栄光なのです。 ヨハネによる福音書の十字架の記述はあまりにも他の福音書と違っておりますが、しかしそれは今に何を示しているのでしょうか。 これから先、どうなっていくのか、私どもには計り知ることはできません。人の力の及ばない現実があるのです。しかし、神は救ってくださる。神の慈しみが覆い尽くしているのです。十字架の主イエス・キリストが「成し遂げた」と言ってくださっている、その主を信じるとき、神の救いはそこに成っているのです。 私どもが十字架の主の救いを信じることによって、私どもだけではなく、全ての者の救いを、そこに見出すことができるのだということを覚えたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
主イエス・キリストの復活を覚え、共々に礼拝できますことを感謝いたします。今日は、主のよみがえりの朝、復活の主がマグダラのマリアに臨んでくださった、その御言葉から聴きたいと思います。 マリアは愛しい主イエスが死んでしまわれ、また主のご遺体が取り去られてしまったと思い、泣いておりました。既に1〜10節にマリアが墓に来た様子が語られております。マリアは早朝に一度墓に来て中を覗き、主のご遺体が無いことを知りますが、墓に入りもせずに、そのことを男弟子のペトロたちに告げました。そして、ペトロともう一人の弟子が墓に来て入り、帰った、その後でマリアは再び墓に来て、11節「泣きながら身をかがめて墓の中を見る」のです。そこに、12節「白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と記されております。 嘆くばかりのマリアは、真実を知らないために、悲しみのあまり「主のご遺体が盗まれてしまった」という間違った思いになっております。しかしそのような間違いにも拘らず、マリアは「よみがえり(復活)の主に出会う」という幸いを与えられていることを覚えなければなりません。男弟子のペトロと主の愛する弟子も墓に入りました。彼らは教会で重んじられている2人です。しかし彼らは、墓に入っても主を思い起こすことはありませんでしたし、主も2人に臨んではくださいませんでした。それなのに、なぜマリアは主と出会えたのでしょうか。それは、マリアが「誰よりも悲しんでいる者として」主とお会いしているということなのです。 悲しむマリアに主が臨んでくださっているという、この御言葉を聴く私どもが、今まさに知るべきことがあります。それは、悲しみ、絶望の淵に立つ人たちのそのところに「復活の主が立っておられるのだということを信じる」ことへと、私どもは導かれているのだということです。悲しみのあるところ、絶望の淵、そこに「死を超えた命なる主、復活の主イエス・キリスト」がおられます。ですから、今、慰めを与えられているのです。地上の死によって終わるのではありません。死をもって空しく終わるのではなく、故なくこの地上から取り去られてしまった方々に復活の主が臨み、主と共なる永遠の命をお与えくださっていることを信じることへと導かれているのです。このことを見出すことが、今、慰めとなるのです。 14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。天使に答えながら、マリアは何かを感じたのでしょう。言いながら振り向く、そこに「イエスが立っておられた」と記されております。 17節、イエスは言われます。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。 そしてマリアは、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」との主の言葉を弟子たちに告げることを命じられました。マリアには主イエスを証しする、語る使命が与えられたのです。本来ならば、この使命を受けるのに相応しい者は、ペトロたち男弟子であったでしょう。しかし、主イエス・キリストの最初の証人となったのはマグダのマリアでした。当時の社会では、これは到底考えられないことです。女性に人権などない、女性の証言は取り上げられない時代、なのに主イエスは婦人を最初の証人とされました。これがマリアに与えられた恵みです。マリアは喜びをもって伝えるのです。 主は「わたしの兄弟たちのところへ行って」と言われます。ここに、主イエスによって新しい共同体が覚えられております。もはや主と弟子とは師弟関係ではなく「主の兄弟」として「神の家族としての新しい共同体」として覚えられているのです。そして、その共同体の中にマリアも覚えられております。ここに「主イエス・キリストを証しする新しい共同体」が作られているのです。 今、覚えたいと思います。マリアは復活の主の証人とされました。そして、マリアが主の証人となることは、主のご命令である以上、そこに復活の主が臨んでおられるのです。 今こそ、宣べ伝えるべきことが求められております。「十字架と復活の主イエス・キリストによって、死を超えた、よみがえりの命が与えられている」そのことを伝えることこそが、地上の慰めなのです。 今、この礼拝において、甦りの命に与る恵みのうちにあることを改めて感謝し、心深く覚えるものでありたいと思います |
|||||||||||
|
|||||||||||