聖書のみことば/2011.3
2011年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
試練に出会う」 3月第1主日礼拝 2011年3月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章1〜4節
1章<1節>神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。<2節>わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。<3節>信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。<4節>あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。

今朝より、ヤコブの手紙の御言葉に聴いていきたいと思います。

ヤコブの手紙と言って思い出されることは、宗教改革者マルティン・ルターがヤコブの手紙を「藁の書簡」すなわち「価値なし」と言ったということでしょう。ルターに限らず、ヤコブの手紙が尊ばれるのは、西方教会、東方教会共に聖書編纂時期からも遅くなってからでした。
 ルターは「信仰義認」を言い、それがプロテスタント教会の信仰です。ローマ・カトリックの教理に対するプロテストなのです。カトリック教会は「功績主義・行為義認」という教理を持っており、ヤコブの手紙も行為義認を語っておりますから、ルターはヤコブの手紙を藁の書簡とまで言って退けたかったのです。2章ではアブラハムの信仰について語り、24節「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と記されておりますので、ルターとしてはこの手紙を退けざるを得なかったのでしょう。
 しかし、私どもは、ヤコブの手紙を「神の言葉」として聴くのです。「信仰と行為」について、それはどういうことなのか、改めて受け止めていきたいと思っております。私(北牧師)は長老主義の流れにあり、どちらかと言えば聖書主義ですので、愛宕町教会に赴任して13年、信仰義認の前提で語って参りました。しかし、愛宕町教会の伝統にあるメソジストやホーリネスの信仰は少し違って、個人的な敬虔さが信仰の中心であり、それを重んじます。それは「倫理」を重んじるということで、それを「聖化」と言うのです。そして倫理性は「行為」と関係いたします。そういうことからも「行為」を「信仰の言葉」として聴くべきと思っております。
 3月の聖句を1章2節〜4節といたしました。そこには「試練を喜べ」と記されていて驚いてしまいますが、そこで聴きたいことは「信仰の鍛錬」ということです。

1節、ヤコブは自分自身を「神と主イエス・キリストの僕」と言っております。単に「主イエス・キリストの僕」と言わずに「神の僕」と言うのです。「神の僕」という言い方は旧約聖書にその伝統があり、それは「モーセ、族長、預言者」を意味しております。ヤコブが「神の僕」と言っているということは、「預言者としての役割を持っている者である」という意味合いを持っているのです。「預言者」とは「神の言葉を預かる人」であり、神から預かった言葉を人々に知らせる人です。「預言」というと、先のことを予見することと思いがちですが、そういうことではありません。「預言者」は神の言葉を預かる人として、過去のことも現在のことも解き明かすのであって、単に先を予見するだけという狭いものではないのです。
 そして、「主イエス・キリストの僕」と言っております。パウロは自分を「キリスト・イエスの僕」と申しました。少しニュアンスが違っております。「イエス・キリスト」では「イエスをキリストとする」というニュアンスであり、「キリスト・イエス」では「救い主イエス」というニュアンスです。パウロの場合には「救い主に仕える」という思いが強かったのでしょう。パウロは地上におけるイエスと共に歩んだことはなく、ダマスコ途上で「復活の主イエス・キリスト」と出会った、言わば「キリスト体験」をした人であるがゆえに、敢えて「キリスト・イエス」と言ったのでしょう。そういう意味では、私どもも実は感覚的にはパウロと同じではないでしょうか。私どもも地上のイエスに出会ったのではなく、復活し救いを成し遂げてくださった「救い主である主イエス」に出会ったのです。

「僕」とは「奴隷、仕える者」のことです。単に「イエスの僕」ではなく「主イエス・キリストの僕」と言っております。イエスを「主人」と言っているのです。僕に主権はありません。主人イエス、主権ある方に仕える者、それが「僕」であり、僕は常にその主権者に聞き、その命令に従って生きるのです。信仰の馴染みある言葉で言うならば、「主の命令に従う者」とは「主の御言葉に従う者」ということで、「主の御言葉に従う」ことによって「主の御心を行う者」なのです。
 主人である主イエス・キリストは何をおっしゃっているのでしょうか。
 主は十字架につき、人々の贖いとなり、復活して甦りの命を与えてくださいました。その方が言ってくださったこととは何か。それは「神の国は近い。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。主イエスは十字架と復活により、私どもに「救いの道」を拓いてくださいました。それは「神の支配が始まる」ということです。私どもは、主の救いに与ることによって「神の国の一員とされる」のです。その主の御言葉に仕えるということは、「神の国の到来に仕える」ということです。「救い」によって現してくださった福音を宣べ伝え、信じる者に救いの宣言をなす、それが「教会=主の僕=使徒」に、神より与えられた使命です。それが「主イエス・キリストの僕」としての役割なのです。
 何と幸いなことでしょうか。私どもは既に、地上の支配の内にあるのではなく、「神の国の支配の内」にあります。ですから、この地上の日々は虚しい日々ではないのです。

1節の御言葉は「離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」と続きます。この手紙の著者がヤコブであることは、この1節にしか記されておりません。ヤコブとは誰なのか。主イエスの兄弟ヤコブ、12使徒であるゼベダイの子ヤコブ、その他にもヤコブがおりますが、主イエスの兄弟ヤコブを想定して書かれていると考えられております。
 「離散している」は「ディアスポラ」という言葉で、ある特定の人々を指します。ローマ支配にあるエルサレムから散らされたユダヤ人、それが「ディアスポラ」という理念の中心で、エルサレムから離れて世界各地に住み、そこで会堂を建て信仰を守る人々、どこにあってもユダヤ教信仰に生きている人々を指すのです。ヤコブという人はエルサレム会議の中心人物であり、エルサレムの象徴的な人でした。パウロが異邦人伝道の許可を求めるためにエルサレム会議に出向いた時、異邦人伝道を認める裁定をしたのはヤコブです。そのヤコブが、エルサレムから世界各地にあるユダヤ人キリスト者たちに手紙を送り、エルサレムの権威を示したのです。しかしこの手紙は、単にユダヤ人キリスト者に対して書かれたということではありません。この手紙には優れたギリシャ語が用いられており、「異邦人キリスト者」に対しても語られていることが分るのです。「12部族」とは「神の民」を意味します。ですから、それは「新しいエスラエル」すなわち「キリスト者」を意味するのです。つまり「すべてのキリスト者」です。
 では、新しいイスラエルにおける「12部族(神の民)」とは、どのような民なのか。それは「天国に国籍を持ち、今は天を離れて、地上にあってはディアスポラ(寄留の民)」、それは「キリスト者」すなわち「私ども」のことなのです。ですから、この手紙は私どもに宛てられているのです。

天に国籍を持つ私どもが、今は天を離れてディアスポラ(寄留の民)として地上を生きております。私どもがディアスポラであることは、今日大変意味深いことと思います。私どもの今日は、生まれた村を失う、故郷を失っているのです。帰るべき墓もない。それは、地上での故郷が失われつつあるということであり、人が根拠を失うということなのです。しかし、そのような今日にあって、キリスト者は何と幸いなことでしょう。キリスト者は、確固たる故郷を天に持っているのです。死して帰る場所があるのです。ですから、地上においてディアスポラであることは幸いなことなのです。
 死して帰ると申しましたが、天において死んでいるということではありません。天において生きる、地上の生を終えても、天という生きるべき故郷が備えられているということなのです。このことは、いずれ地上において死ななければならない私どもにとって、この上ない幸いなのです。

そして「挨拶いたします」と記されております。この「挨拶する」という言葉には大変大切な言葉が使われております。それは「喜ぶ」という言葉です。「喜びを申し上げます」というのです。
 常には、キリスト者の挨拶と言えば「平和の挨拶」ですが、ここでは「喜び」です。主にあること、キリスト者であることは喜びなのです。新しい神の民、主の救いのうちにある者として、私どもは「その存在を喜ばれている」のです。「あなたの存在を喜んでいる」と挨拶するのです。ここで思い起こすことは、神は失われた一匹の羊が見つかったことを喜ばれる神であるということです。主イエス・キリストの十字架と復活によって罪贖われ、神のものとされた私どもの存在を喜んでくださっている、それが神のあり方なのです。

私どもは、神に喜ばれるような存在でしょうか。罪深く弱く、とても喜ばれるような存在とは言えない私どもです。地上において、誰にも喜ばれない存在かも知れません。しかし、そのような私どもを神は喜んでくださる、「キリスト者としての存在である私ども」を喜んでくださるのです。

キリスト者として、私どもは神に喜ばれている存在です。「私どもの存在そのものを喜んでいる」、それがこの「挨拶」という言葉であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

完全なものとなる」 3月第2主日礼拝 2011年3月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章2〜8節
1章<1節>神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。<2節>わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。<3節>信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。<4節>あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。<5節>あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。<6節>いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。<7節>そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。<8節>心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

2節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と勧められております。今朝は、この御言葉を大変重い気持ちで受け止めました。(3月11日/東北・関東大震災)

「わたしの兄弟たち」と言われております。この言葉は、単に「兄弟」ということではなく、特別に親密な思いをもっての呼びかけの言葉です。親密な思いをもって「喜びと思いなさい」と言うのです。そしてそれは、私どもにも勧めてくれている言葉です。
 「試練を喜ぶ」とは、素直に「そうですか」と言えることではありません。誰でも試練に会いたくはないし、避けたいと思うのです。そう思うことを、キリスト者は許されていないのでしょうか。そうではありません。主イエスは弟子たちに口伝えで「主の祈り」を教えてくださいました。その中には「こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」という言葉があります。私どもは「こころみにあわせないでください」と祈ることを許されているのです。そのことをも思いつつ、今日の御言葉を聴きたいと思います。

「試練を喜べ」と「試練にあわせないでください」、そこに共に示されていることは「試みという現実がある」ということです。困難、苦難という現実があるという背景があるからこそ、祈らずにはいられない。そして、試みという現実があるからこそ「喜びなさい」と勧められるのです。私どもは、私どもの人生において様々な試練が厳然とあるということを覚えなければなりません。
 既に1節で、私どもは、「挨拶いたします」という言葉には「喜び」という言葉が用いいられていることを聴きました。ヤコブは、キリスト者に対して「喜びを申し上げる、キリスト者であることは喜びです」と書いたのです。そして「試練に出会う」ことも「喜び」と言うのです。試練という現実がある、しかしそれをキリスト者は積極的に受け止めていくということです。
 どうして、そのように受け止めるのでしょうか。3節「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」と言われております。このことは、身から出た錆の困難ということではありません。キリスト者であることゆえの困難が言われているのであり、その困難によって忍耐が生じ、信仰が訓練され、練り上げられるというのです。

1・2節において聴くべきことは何か。それは「喜び」を命じられているということです。キリスト者は「喜びへと招集されている」のです。キリスト者の旗印は「喜び」です。「喜び」という旗印の下へと集められている、そのことが、ここに示されていることです。私どもキリスト者の生涯は「喜び」なのです。
 キリスト者の生涯は「悔い改めと感謝」と、宗教改革者マルティン・ルターは申しました。それは「罪の自覚」と「罪の赦し」を覚える生活、それは「喜びの生活」です。「罪赦されている」という恵みに対する「喜び」の人生、それがキリスト者の人生です。主イエス・キリストの十字架、その尊い血潮によって罪赦されたこと、これ以上の喜びは、この世の何処にもない喜びなのです。それは、ただ嬉しい、というような喜びなのではなく、「心に深く沁み入る喜び」です。それは「自分の存在が受け止められている、受容されている」という喜びです。ですからこそ、試練、苦しみ、悲しみのうちにあっても、主の救いの恵みによって与えられた喜びによって支えられるのです。
 この箇所においては、明確に、キリスト者であるがゆえの迫害、苦しみ、殉教のうちにある者たちに対して語られております。そのような試練のうちにあっても、キリスト者ゆえの苦しみは喜びであると言っているのです。救いの確信は決して失われない。贖ってくださった以上、救いが取り去られることはないのです。ですから、キリストゆえの苦しみは、一層深く救いを確信させる、それゆえに「喜べ」と勧められるのです。

主イエス・キリストは、私どもの罪のために十字架の苦しみを苦しんでくださいました。その主の十字架の苦しみの一端でも、私どものこの身に味わう、感じることができるならば、救いの喜びを知ることができます。主の痛みを感じられないならば、救いの喜びを知ることはできません。私どもは、苦しみを、死を、絶望を、ほんの少しでもこの身に感じることができるならば、救いの喜びを深く深く知ることができるのです。それは「キリストの痛みを知ることの恵み」です。私どもの罪ゆえの主の十字架の痛みを感じられるときに、救いの恵みによって与えられる喜びは深いのです。
 私どもの罪のために十字架に死んでくださった主イエス・キリストの苦しみによってこそ、私どものうちに、救いの喜びが満ち溢れるのです。
 私どもの与えられる様々な試練は、キリストが既に痛んでくださった試練であることを知るとき、私どもは喜びに満たされることができるのです。私どもは、ともすれば「わたしの苦しみを誰も分ってくれない」と思ってしまいます。しかし、そうではありません。分っていないのは、私どもの方なのです。私どものために痛んでくださった主イエス・キリストの痛みを、私どもが理解していない。だから、そこに恵みを見出せず、不平と苦しみは増すばかりなのです。
 主イエスは、既に、私どものどのような苦しみをも知っていてくださり、苦しんでいてくださる方です。その主を見出すとき、私どもは喜ぶ者となるだけではなく、3節「忍耐が生じる」と言われております。私は「忍耐」ではなく「不屈」と訳したいと思うのです。単なる「忍耐」では、忍耐の結果がどうかが問われてしまいます。しかしそうではなく、私どもの信仰が試されるとき「不屈を生む、揺るぎない不屈の信仰が与えられる」と申し上げたいと思います。忍耐という言葉を用いるなら、試練によって「忍耐力が与えられる」というニュアンスです。信仰の試練は、それによって私どもを「揺るぎない信仰」へと導く、そのことがここに示されていることです。
 ですからこそ、「試練を喜ぶ」ことも有り得るのです。

では「不屈の信仰」を、私どもは一生懸命養わなければならないのでしょうか。そうではありません。私どもにとって大事なことは「日常」です。キリスト者の日常は「礼拝生活」であり、日常が礼拝生活として整えられていることが大切なのです。日常が礼拝生活であれば、苦難のとき、なお、私どもは礼拝者で有り得るのです。そして苦難のとき、礼拝者であることによって、私どもの信仰が確かなものであることを知るのです。ですから、不屈の信仰を得るために、特別に訓練する必要はないのです。

「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」と、ここでヤコブは、迫害のうちにあって礼拝を守っている人々に対して「既にあなたがたには不屈の信仰が与えられている、そのことをあなた方は知っている」と記しております。
 詩編の詩人は、「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈るわたしの声に耳を向けてください。苦難の襲うときわたしが呼び求めれば/あなたは必ず答えてくださるでしょう」(詩編86編6〜7節)との言葉を記しております。詩人は、いかなる時にも「主は必ず答えてくださる」という確信を持っているのです。なぜ、そのような確信を持っているのでしょうか。それは、この詩人が、日常において祈り、求め、礼拝しているからです。苦難のときだからではありません。順風満帆なときにも、祈っていたのです。ですから、苦難のときに祈れる。主は必ず答えてくださると確信できるのです。

今朝は、重い気持ちで…と申しました。未曾有のこの災害で、私どもは痛みつつ、おののきながら、礼拝しております。そして今この時、被災地にあっても礼拝を守っている人々がおります。礼拝へ向かっている者、向かい得ない者も、礼拝へと思いを馳せております。彼らこそ、不屈の信仰を現しているのです。その人々にとっての慰めは何か。それは、世界中で、今、私どもが礼拝を守り、祈りを篤くしていることを知ることです。
 ともすれば、考え違いをして、まず第一に被災地に行かなければと思うかもしれません。しかしそうではありません。主の日のこのときに、その場へと思いを馳せつつ祈っている人々がいることこそが、苦難の中にある方々への慰めであることを覚えたいと思います。
 ただ、神の憐れみを乞います。苦難を覚えるこの時だからこそ、神を礼拝し、神の憐れみを願うものでありたいと思います。

神に願いなさい」 3月第3主日礼拝 2011年3月20日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章4〜8節
1章<4節>あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。<5節>あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。<6節>いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。<7節>そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。<8節>心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

4節「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と記されております。ここは大変訳しにくいところですが、「忍耐がもたらすものとは何か」ということを語っております。

「忍耐は人を欠けなき完全な者とする」とは、励ましではありますが、同時に重荷でもあります。ここは直訳すると「人は忍耐によって、十分に成長した者としての業をなす」という意味合いで、それは「キリスト者としての成長が与えられる」ということです。あるいは「大人になる」と訳することも可能ですので「大人のキリスト者となる」ということでしょうか。ですから「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない」と言っても、私どもが一般的に思う完全さということを言っているわけではないのです。

ここに言う「成長した者としてなす業」とは何でしょうか。キリストを信じる者は何を忍耐するのでしょうか。ここでの「忍耐」は、ただ単に耐えるというような受け身の事柄ではありません。この手紙の背景にはキリスト者に対する「迫害」がありました。迫害の中にあっても「信仰を貫き通し、キリスト者として生きる」、「積極的にキリスト者として生きる」ということが「忍耐」であると言っているのです。この信仰の積極性は、武器を手にして戦うということではありません。戦いは争いをもたらし、滅びと自滅に至るのです。戦いではなく、どのような時にも「キリスト者として生きる」ということ、それがここに言う「忍耐」なのです。迫害によって礼拝を守れない、人々の前で祈れないという状況がある。しかしその中にあっても「祈りつつ生きる、信仰を持って生きる、御言葉を頼りにして生きる」、それが積極的なキリスト者の生き方、忍耐なのです。「キリスト者をやめよ」と言われても、キリストを崇めることをやめることはできない、それが忍耐であり積極的な信仰なのです。ですから「忍耐」ということを誤解してはなりません。キリストにある忍耐とは、どのような状況にあっても、どんな時にも「キリストを礼拝し、御言葉を求め、御言葉を光として生きる」ということです。

そして、そこでこそ「成長した、大人としての業が身に付く」と言われております。「業」とは何か。それは、キリスト者として礼拝生活に生きることによって「キリストを表す」ということです。どのような時にもキリストを礼拝し祈る。そのことによって「キリストを証しするという業をなす」のです。ですからそれは、特別に、キリスト者として何かをしているということではありません。「キリストを表すという業」をなしているのです。

「迫害の中で」、それがヤコブの手紙の根底にあることですが、しかしそれは私どもにとっても変わらないことです。私どもの人生において「キリスト者としての信仰を貫き通して生きること」、これは「忍耐」という言葉に当たります。積極的にキリスト者として生きる、大人のキリスト者として生きるために、私どもにも「忍耐」ということが与えられているのです。「礼拝の民として生き続ける」ということは何と幸いなことでしょうか。それによって私どもは成長したキリスト者となった、この身をもってキリストを表した者となるのです。「キリストにある忍耐」とは、どれほどに忍耐力があったかということではなく、この身をもってキリストを表すという業を成し遂げているのだということを覚えたいと思います。
 そういう意味で、私どもは「キリスト者の忍耐」ということの大切さを知らなければなりません。少し前の時代、世の中が右肩上がりの社会においては「キリスト者の忍耐」ということは難しかったかもしれません。苦難がない、順風満帆な時には、人は「これでやっていける」と思い、礼拝を必要としない生き方になるのです。振り返って、そのような時代を今まで「礼拝の民」として生きて来たとすれば、私どもは「成長したキリスト者としての業をなしてきた」と言えるのです。

4節において、もう一つ覚えたいことがあります。それは「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」とはどういうことかということです。それは人間としての欠けがない、完全無欠な人となる、ということではありません。人間は誰一人、欠点のない者はいないのです。長所と短所は表裏一体であり、長所はまた短所でもある、例えば「優しさは弱さでもある」ということです。人間が完全な者になるということは有り得ないことです。ですからここで、キリスト者は完全な人格者になるということを言っているのではありません。キリスト者として「欠けあることにおいて、欠けなき者とされる」ということなのです。自らの弱さ、罪深さを知るがゆえに、つまり「欠け」ゆえに「キリストに依り頼む他ない」、そこでこそ、欠けをも用いたもう神は、その者を「キリストを表す者」としてくださるのです。欠け、弱さ、罪ゆえに「キリストを必要とする」、そこでこそ私どもは「キリストを表す」のです。ですから、キリスト者としての完全とは、欠けがないことなのではありません。欠けがないとするならば、人は自分を誇ることになるのです。どうやっても完全になれない「欠け多きがゆえに、キリスト以外ない」、だからこそ御言葉を求め、祈り、礼拝するのです。それが「キリスト者として生きる」ということであり、そのような礼拝生活によって、わたしどもは「成長したキリスト者とされる」のです。
 そしてここで覚えたいと思います。自分の力でキリストを表しているのではありません。私どもは「御言葉によって」罪を知ることができるのです。罪を知る恵みによって、悔い改めと感謝に生きる者となれるのです。

今、高齢化の時代を迎えております。高齢ゆえの不安があるのです。多くのことができなくなるという不安、死という不安です。しかし、キリスト者しての高齢化は、迫り来る死に圧倒されるということではありません。そうではなくて、礼拝生活によって「キリスト者としての欠けなき毎日を生きる」という恵みの日々なのです。老いゆえに、さまざまな事柄を失うがゆえに、神に祈らずにはいられない。そういうキリスト者として生きるならば、私どもはこの地上を「完全な人」として生きることができるのです。私どもの信仰の先達たちの歩みを思います。今この礼拝において、信仰を貫き通して生きた人々と共なる時を過ごしているのです。

そして、更に今思います。私どもは東北・関東大震災という未曾有の大災害と、第二次的な人災の中に置かれております。ここには、大いなる喪失と離別があるのです。一瞬のうちに全てを失う、圧倒する喪失の悲しみと虚しさ、思いがけず引き裂かれた別れの悲しみの前に、ただ茫然とするばかりです。ここに示されていることは何なのでしょうか。私は「礼拝である」と思いました。「礼拝」は「神の招き、導き」です。旧約聖書「出エジプト」の出来事は何だったでしょうか。イスラエルの奴隷としての悲痛な呻き、苦しみの中から、神が導き出してくださり、そこでさせてくださったことは「礼拝」でした。苦しむ者を「神を崇める者」としてくださったという恵みです。
 今、被災地において、苦しみの中で、キリスト者は礼拝を守っております。「神の導き」を受けて、苦しみのただ中から、神によって引き出されて、神を讃美しているのです。このことは私どもにとって大事なことです。今、私どもは祈りを篤くしたいのです。神こそが、喪失と離別の中にある人々を引き出し、救い出し、導き出してくださることを信じて、神の憐れみを祈りたいと思います。今、被災の地で、その身をもって神を表しているキリスト者たちがいることを、キリストにある忍耐によってキリストを拝し、被災の地にキリストを証ししている者たちがいることを覚えたいと思います。
 そしてまた、私どもの守るこの礼拝においても、神が、被災の地から人々を救い出してくださることを証ししているのだということを覚えたいと思います。神が、人々を圧倒するこの現実から抜き取ってくださり、神の憐れみのうちに生きることを得させてくださるのです。

そして知らなければなりません。「主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに」私どもは忍耐できるのです。私どもの力によるのではありません。私どもは無力に過ぎない存在なのです。あるがままでは傲慢で卑屈な者なのです。そのような私どもに対して、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みが私どもを圧倒するがゆえに、ご自身の血潮まで流してくださった主の十字架によって贖われている、その恵みゆえに、私どもは主を礼拝せずにはいられない、だからこそ、私どもはキリスト者で有り得るのです。礼拝を守ることによって、キリストをこの身をもって表すという恵みに与っているのです。

もう時間もありませんが、一つ思い起こしたいことがあります。それは詩編23編の詩人の言葉です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。多くのキリスト者が知る、実に素晴らしく、美しい詩です。なぜ人はこの詩を美しく思い、心打たれるのでしょうか。それは「神への全き信頼を表している」からです。全き信頼ゆえの美しさなのです。
 詩人が「主は羊飼い、」と歌うその場所は「荒野」です。荒野に青草などあろうはずがありません。いや雑草すらない、全てが乏しいその場所で、詩人は、神が「わたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる」と歌います。「欠け」がないのではないのです。「欠け」のただ中で、詩人は、神への全き信頼によって「何も欠けることはない」と言い表すのです。荒野において常に死に直面し危うい日々であることを詩人は知っております。しかし「神こそが命」であるがゆえに、神こそわたしの全てと言い表すのです。全てに欠けがある、そのただ中にあって、それゆえに神にあって生かされている者として、神に信頼して止まないのです。虚しさや命の危機の中で、神が恵みをもって生かしてくださっている、神がわたしの主であってくださる、その信頼の言葉こそが美しく、私どもの心を打つのです。

私どももまた、神に信頼するよりない者です。憐れみと恵みに満ちた救いなる神に生かされているのです。ひたすらに神に信頼する者として、私どもは「欠けなく、恵みに満たされている」ことを感謝をもって覚えたいと思います。

信仰を持って願う」 3月第4主日礼拝 2011年3月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第1章5〜8節
1章<5節>あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。<6節>いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。<7節>そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。<8節>心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

3・4節において「忍耐」が語られ勧められましたが、5節に入ると話が移り「願いなさい、祈りなさい」と言われております。どうして「忍耐」ということが「祈りなさい」と繋がるのでしょうか。

ヤコブは深い思いを持っております。4節で「何一つ欠けたところのない人になります」と言いながら、しかし「知恵が欠けている」ということを思ったのです。
 「忍耐」とは「信仰生活を貫くこと」と申しました。そこで大事なのは「知恵」です。知恵が無ければ「信仰生活を貫く」ことはできないのです。だから「知恵をいただけるように願え、祈れ」と言うのです。それは人生を生きるための処世訓を学べということではありません。「信仰者として生きるのに相応しい知恵を求めよ」ということです。学んで身につけるものを求めるのではありません。信仰は神からいただくもの、だから下さる方に求め祈るのです。
 「学ぶ」ことと「祈る」ことは大きく違うと思いました。学ぶことによっては、神を知ることはできないのです。それどころか、学びは人を神から遠ざけるのではないかと思います。人は幼い時から母親の口まねをし、真似る(学ぶ)ことによって成長します。しかし、学びによる知恵では神に至れないのです。神は「信じるべき方」であって、学びの対象なのではありません。学んで神を知ったならば、人は自身も神の如くなろうと思ってしまうのです。学びには驕りが潜んでいることを忘れてはなりません。学びによって神を知ろうとすることは傲慢なのです。学ぶということは大切なことですが、学んでも神には至れないことを弁えるべきです。
 どこまでも「神を神とする」、それが「人と神との正しいあり方」です。神に聴き、聴き従う者であるがゆえに、祈るのです。それがここに勧められていることです。神を仰ぐことで、人は、自らを低くし謙遜な者として真実な歩みをなせるのです。「神を神として仰ぎ望む」それが「信仰」ということです。

では「知恵の欠けている」とはどういうことなのでしょうか。人生には様々なことが起こり、人はいろいろと思います。どうすれば良いのか。信仰者として、どう生きるべきか。神の御心に従って生きるためにはどうしたら良いのか。…「祈れ」とは、起こってしまったこの出来事に、どういう神の御旨があるのか、それを知る知恵を求めて祈れということです。神に聴くしかないのです。神に問い、神の御旨を聴く、それ以外にこの出来事を受け止められない、そういう人の知識や理解を超えた出来事に対する「欠けたる知恵」を神に求めざるを得ないのです。神の御旨に従って生きるために、神に問い、神に祈る以外にない、それがここに示されていることです。
 「祈れ」と言われていることは、とても幸いなことです。神に祈ることのできる幸いとは何でしょうか。それは自分一人で堂々巡りしないですむということです。神に受け止められているのです。自分の思いを神に訴えつつ祈る、祈りによって、私どもは「神に受け止められている」という実感を与えられるのです。受け止められている、だから鎮まって、このことは一体何なのか、思いを巡らして考えることができるのです。それが祈りの恵みであることを覚えたいと思います。神が私どもの思いを鮮やかにしてくださるのです。祈りによって私どもの思いは定まり、自らの思いをもって、神に聴き従って生きることができるのです。何と幸いなことでしょう。
 「祈り」とは「揺るぎない基盤を持つ」ということです。神に支えられている、ここで生きるしかないことを確信して生きる、そういうキリスト者の生活とは「祈りの生活」なのです。私どもに与えられている神の御心は何か、それは祈りによって知るのです。それゆえに、祈りは、私どもにとって欠くことのできないことなのです。

ヤコブは信仰生活を貫くために「忍耐」を語りました。そして、信仰生活を貫くためには、神の御心を問う、祈るしかないと言うのです。そういう意味で、忍耐と祈りは繋がっております。

信仰者として、知恵ある者として生きることは、「祈る」ことです。どれだけ物事を知っているかということが大事なのではありません。どれだけ祈る人か「神へと自らを向けること」それが「知恵ある者の根本のあり方」です。神に聴くことに勝る知恵はありません。神に聴くことによってのみ、自らを定めることができるのです。
 知恵無き生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、神に心を向けず、自分に心を向けることです。それを聖書は「人の愚かさ」と語ります。神を知らないこと、それが「愚かさ」です。「自分しかない」というあり方は、神と人との真実な交わりを持たないがゆえに、自分の思いによってしか他者を受け止めることができない、自己優先なあり方です。知恵無き者は自分にしか関心がない、自分の利益を優先させる、人はずる賢く愚かなのです。
 他者の思いを知っているだけでは駄目なのです。他者の思いを知り「仕えること」それが大事なことです。「仕える」、それは「自分を低くする」というあり方です。「仕える」思い、それは「神を畏れる」ことからしか生まれてこないのです。私どもの自己中心、どうにも消し難い傲慢を赦すための「主イエス・キリストの十字架」です。「神に赦されている」だから、有り難く「神を畏れる」のです。「神に向かうこと」そこに人の真実な姿があります。「神に向かうこと」それが「祈りの生活」です。

「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」。ここに示されていることは、神とはどのようなお方かということです。神は「人をへだてしない、等しく扱ってくださる方」です。それは、人にはできないことです。人は好き嫌いや、苦手・得意、損か得かによって、他者の扱いを変えるのであって、誰にでも等しくはあり得ません。しかし神は、だれでも等しく扱ってくださるのです。何と幸いなことでしょう。
 しかも「とがめだてしないで」と言われております。「とがめだてしたい」それが人のあり方です。人は誰に対しても等しくなどできないし、愚痴や文句を言うのです。しかし神はそうではありません。何と感謝すべきことでしょう。神は人の善し悪しを言わずに、与えてくださるのです。何故でしょうか。その根底にあることは「神の慈しみ、憐れみ」です。神は「慈しみと憐れみの神」、だから祈り求める者を憐れんでくださるのです。神が「憐れみの神」であること、それが、このみ言葉に示されていることです。

そして、神の御思いは決して揺るぐことがありません。人は揺らぐ者、思いの定まらない者ですが「神に揺らぎは無い」のです。「神の慈しみ、憐れみには揺らぎが無い」だから「願いなさい」と言われております。神の慈しみ、憐れみの揺るぎなさ、そこにこそ私どもの救いの確かさがあることを知ることができます。揺るぎない神の慈しみの深さによって、私どもは「確かな存在」とされるのだということを忘れてはなりません。神は「決して揺るがず、罪に過ぎない者を赦そうとする方」だからこそ、尊い御子イエスをも十字架につけてくださいました。ここに私どもの確かさがあります。神は願い求める者に「確かな、揺るぎない保証」を与えてくださっているのです。

私どもは「惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」に、祈り求めることができます。しかしそれは、神が私どもを憐れみ、私どもに臨んでくださるからこそ、できることです。ですから、そのような確かさゆえに、続けて6節「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と勧められております。祈る者は、神への信頼をもって祈ることが相応しいと言われているのです。

すべてを、神の慈しみ、憐れみに委ねて祈る、それがキリスト者に相応しい生き方であることを覚えたいと思います。