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今朝より、ヤコブの手紙の御言葉に聴いていきたいと思います。 ヤコブの手紙と言って思い出されることは、宗教改革者マルティン・ルターがヤコブの手紙を「藁の書簡」すなわち「価値なし」と言ったということでしょう。ルターに限らず、ヤコブの手紙が尊ばれるのは、西方教会、東方教会共に聖書編纂時期からも遅くなってからでした。 1節、ヤコブは自分自身を「神と主イエス・キリストの僕」と言っております。単に「主イエス・キリストの僕」と言わずに「神の僕」と言うのです。「神の僕」という言い方は旧約聖書にその伝統があり、それは「モーセ、族長、預言者」を意味しております。ヤコブが「神の僕」と言っているということは、「預言者としての役割を持っている者である」という意味合いを持っているのです。「預言者」とは「神の言葉を預かる人」であり、神から預かった言葉を人々に知らせる人です。「預言」というと、先のことを予見することと思いがちですが、そういうことではありません。「預言者」は神の言葉を預かる人として、過去のことも現在のことも解き明かすのであって、単に先を予見するだけという狭いものではないのです。 「僕」とは「奴隷、仕える者」のことです。単に「イエスの僕」ではなく「主イエス・キリストの僕」と言っております。イエスを「主人」と言っているのです。僕に主権はありません。主人イエス、主権ある方に仕える者、それが「僕」であり、僕は常にその主権者に聞き、その命令に従って生きるのです。信仰の馴染みある言葉で言うならば、「主の命令に従う者」とは「主の御言葉に従う者」ということで、「主の御言葉に従う」ことによって「主の御心を行う者」なのです。 1節の御言葉は「離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」と続きます。この手紙の著者がヤコブであることは、この1節にしか記されておりません。ヤコブとは誰なのか。主イエスの兄弟ヤコブ、12使徒であるゼベダイの子ヤコブ、その他にもヤコブがおりますが、主イエスの兄弟ヤコブを想定して書かれていると考えられております。 天に国籍を持つ私どもが、今は天を離れてディアスポラ(寄留の民)として地上を生きております。私どもがディアスポラであることは、今日大変意味深いことと思います。私どもの今日は、生まれた村を失う、故郷を失っているのです。帰るべき墓もない。それは、地上での故郷が失われつつあるということであり、人が根拠を失うということなのです。しかし、そのような今日にあって、キリスト者は何と幸いなことでしょう。キリスト者は、確固たる故郷を天に持っているのです。死して帰る場所があるのです。ですから、地上においてディアスポラであることは幸いなことなのです。 そして「挨拶いたします」と記されております。この「挨拶する」という言葉には大変大切な言葉が使われております。それは「喜ぶ」という言葉です。「喜びを申し上げます」というのです。 私どもは、神に喜ばれるような存在でしょうか。罪深く弱く、とても喜ばれるような存在とは言えない私どもです。地上において、誰にも喜ばれない存在かも知れません。しかし、そのような私どもを神は喜んでくださる、「キリスト者としての存在である私ども」を喜んでくださるのです。 キリスト者として、私どもは神に喜ばれている存在です。「私どもの存在そのものを喜んでいる」、それがこの「挨拶」という言葉であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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2節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と勧められております。今朝は、この御言葉を大変重い気持ちで受け止めました。(3月11日/東北・関東大震災) 「わたしの兄弟たち」と言われております。この言葉は、単に「兄弟」ということではなく、特別に親密な思いをもっての呼びかけの言葉です。親密な思いをもって「喜びと思いなさい」と言うのです。そしてそれは、私どもにも勧めてくれている言葉です。 「試練を喜べ」と「試練にあわせないでください」、そこに共に示されていることは「試みという現実がある」ということです。困難、苦難という現実があるという背景があるからこそ、祈らずにはいられない。そして、試みという現実があるからこそ「喜びなさい」と勧められるのです。私どもは、私どもの人生において様々な試練が厳然とあるということを覚えなければなりません。 1・2節において聴くべきことは何か。それは「喜び」を命じられているということです。キリスト者は「喜びへと招集されている」のです。キリスト者の旗印は「喜び」です。「喜び」という旗印の下へと集められている、そのことが、ここに示されていることです。私どもキリスト者の生涯は「喜び」なのです。 主イエス・キリストは、私どもの罪のために十字架の苦しみを苦しんでくださいました。その主の十字架の苦しみの一端でも、私どものこの身に味わう、感じることができるならば、救いの喜びを知ることができます。主の痛みを感じられないならば、救いの喜びを知ることはできません。私どもは、苦しみを、死を、絶望を、ほんの少しでもこの身に感じることができるならば、救いの喜びを深く深く知ることができるのです。それは「キリストの痛みを知ることの恵み」です。私どもの罪ゆえの主の十字架の痛みを感じられるときに、救いの恵みによって与えられる喜びは深いのです。 では「不屈の信仰」を、私どもは一生懸命養わなければならないのでしょうか。そうではありません。私どもにとって大事なことは「日常」です。キリスト者の日常は「礼拝生活」であり、日常が礼拝生活として整えられていることが大切なのです。日常が礼拝生活であれば、苦難のとき、なお、私どもは礼拝者で有り得るのです。そして苦難のとき、礼拝者であることによって、私どもの信仰が確かなものであることを知るのです。ですから、不屈の信仰を得るために、特別に訓練する必要はないのです。 「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」と、ここでヤコブは、迫害のうちにあって礼拝を守っている人々に対して「既にあなたがたには不屈の信仰が与えられている、そのことをあなた方は知っている」と記しております。 今朝は、重い気持ちで…と申しました。未曾有のこの災害で、私どもは痛みつつ、おののきながら、礼拝しております。そして今この時、被災地にあっても礼拝を守っている人々がおります。礼拝へ向かっている者、向かい得ない者も、礼拝へと思いを馳せております。彼らこそ、不屈の信仰を現しているのです。その人々にとっての慰めは何か。それは、世界中で、今、私どもが礼拝を守り、祈りを篤くしていることを知ることです。 |
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4節「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と記されております。ここは大変訳しにくいところですが、「忍耐がもたらすものとは何か」ということを語っております。 「忍耐は人を欠けなき完全な者とする」とは、励ましではありますが、同時に重荷でもあります。ここは直訳すると「人は忍耐によって、十分に成長した者としての業をなす」という意味合いで、それは「キリスト者としての成長が与えられる」ということです。あるいは「大人になる」と訳することも可能ですので「大人のキリスト者となる」ということでしょうか。ですから「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない」と言っても、私どもが一般的に思う完全さということを言っているわけではないのです。 ここに言う「成長した者としてなす業」とは何でしょうか。キリストを信じる者は何を忍耐するのでしょうか。ここでの「忍耐」は、ただ単に耐えるというような受け身の事柄ではありません。この手紙の背景にはキリスト者に対する「迫害」がありました。迫害の中にあっても「信仰を貫き通し、キリスト者として生きる」、「積極的にキリスト者として生きる」ということが「忍耐」であると言っているのです。この信仰の積極性は、武器を手にして戦うということではありません。戦いは争いをもたらし、滅びと自滅に至るのです。戦いではなく、どのような時にも「キリスト者として生きる」ということ、それがここに言う「忍耐」なのです。迫害によって礼拝を守れない、人々の前で祈れないという状況がある。しかしその中にあっても「祈りつつ生きる、信仰を持って生きる、御言葉を頼りにして生きる」、それが積極的なキリスト者の生き方、忍耐なのです。「キリスト者をやめよ」と言われても、キリストを崇めることをやめることはできない、それが忍耐であり積極的な信仰なのです。ですから「忍耐」ということを誤解してはなりません。キリストにある忍耐とは、どのような状況にあっても、どんな時にも「キリストを礼拝し、御言葉を求め、御言葉を光として生きる」ということです。 そして、そこでこそ「成長した、大人としての業が身に付く」と言われております。「業」とは何か。それは、キリスト者として礼拝生活に生きることによって「キリストを表す」ということです。どのような時にもキリストを礼拝し祈る。そのことによって「キリストを証しするという業をなす」のです。ですからそれは、特別に、キリスト者として何かをしているということではありません。「キリストを表すという業」をなしているのです。 「迫害の中で」、それがヤコブの手紙の根底にあることですが、しかしそれは私どもにとっても変わらないことです。私どもの人生において「キリスト者としての信仰を貫き通して生きること」、これは「忍耐」という言葉に当たります。積極的にキリスト者として生きる、大人のキリスト者として生きるために、私どもにも「忍耐」ということが与えられているのです。「礼拝の民として生き続ける」ということは何と幸いなことでしょうか。それによって私どもは成長したキリスト者となった、この身をもってキリストを表した者となるのです。「キリストにある忍耐」とは、どれほどに忍耐力があったかということではなく、この身をもってキリストを表すという業を成し遂げているのだということを覚えたいと思います。 4節において、もう一つ覚えたいことがあります。それは「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になる」とはどういうことかということです。それは人間としての欠けがない、完全無欠な人となる、ということではありません。人間は誰一人、欠点のない者はいないのです。長所と短所は表裏一体であり、長所はまた短所でもある、例えば「優しさは弱さでもある」ということです。人間が完全な者になるということは有り得ないことです。ですからここで、キリスト者は完全な人格者になるということを言っているのではありません。キリスト者として「欠けあることにおいて、欠けなき者とされる」ということなのです。自らの弱さ、罪深さを知るがゆえに、つまり「欠け」ゆえに「キリストに依り頼む他ない」、そこでこそ、欠けをも用いたもう神は、その者を「キリストを表す者」としてくださるのです。欠け、弱さ、罪ゆえに「キリストを必要とする」、そこでこそ私どもは「キリストを表す」のです。ですから、キリスト者としての完全とは、欠けがないことなのではありません。欠けがないとするならば、人は自分を誇ることになるのです。どうやっても完全になれない「欠け多きがゆえに、キリスト以外ない」、だからこそ御言葉を求め、祈り、礼拝するのです。それが「キリスト者として生きる」ということであり、そのような礼拝生活によって、わたしどもは「成長したキリスト者とされる」のです。 今、高齢化の時代を迎えております。高齢ゆえの不安があるのです。多くのことができなくなるという不安、死という不安です。しかし、キリスト者しての高齢化は、迫り来る死に圧倒されるということではありません。そうではなくて、礼拝生活によって「キリスト者としての欠けなき毎日を生きる」という恵みの日々なのです。老いゆえに、さまざまな事柄を失うがゆえに、神に祈らずにはいられない。そういうキリスト者として生きるならば、私どもはこの地上を「完全な人」として生きることができるのです。私どもの信仰の先達たちの歩みを思います。今この礼拝において、信仰を貫き通して生きた人々と共なる時を過ごしているのです。 そして、更に今思います。私どもは東北・関東大震災という未曾有の大災害と、第二次的な人災の中に置かれております。ここには、大いなる喪失と離別があるのです。一瞬のうちに全てを失う、圧倒する喪失の悲しみと虚しさ、思いがけず引き裂かれた別れの悲しみの前に、ただ茫然とするばかりです。ここに示されていることは何なのでしょうか。私は「礼拝である」と思いました。「礼拝」は「神の招き、導き」です。旧約聖書「出エジプト」の出来事は何だったでしょうか。イスラエルの奴隷としての悲痛な呻き、苦しみの中から、神が導き出してくださり、そこでさせてくださったことは「礼拝」でした。苦しむ者を「神を崇める者」としてくださったという恵みです。 そして知らなければなりません。「主イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに」私どもは忍耐できるのです。私どもの力によるのではありません。私どもは無力に過ぎない存在なのです。あるがままでは傲慢で卑屈な者なのです。そのような私どもに対して、主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みが私どもを圧倒するがゆえに、ご自身の血潮まで流してくださった主の十字架によって贖われている、その恵みゆえに、私どもは主を礼拝せずにはいられない、だからこそ、私どもはキリスト者で有り得るのです。礼拝を守ることによって、キリストをこの身をもって表すという恵みに与っているのです。 もう時間もありませんが、一つ思い起こしたいことがあります。それは詩編23編の詩人の言葉です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。多くのキリスト者が知る、実に素晴らしく、美しい詩です。なぜ人はこの詩を美しく思い、心打たれるのでしょうか。それは「神への全き信頼を表している」からです。全き信頼ゆえの美しさなのです。 私どももまた、神に信頼するよりない者です。憐れみと恵みに満ちた救いなる神に生かされているのです。ひたすらに神に信頼する者として、私どもは「欠けなく、恵みに満たされている」ことを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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3・4節において「忍耐」が語られ勧められましたが、5節に入ると話が移り「願いなさい、祈りなさい」と言われております。どうして「忍耐」ということが「祈りなさい」と繋がるのでしょうか。 ヤコブは深い思いを持っております。4節で「何一つ欠けたところのない人になります」と言いながら、しかし「知恵が欠けている」ということを思ったのです。 では「知恵の欠けている」とはどういうことなのでしょうか。人生には様々なことが起こり、人はいろいろと思います。どうすれば良いのか。信仰者として、どう生きるべきか。神の御心に従って生きるためにはどうしたら良いのか。…「祈れ」とは、起こってしまったこの出来事に、どういう神の御旨があるのか、それを知る知恵を求めて祈れということです。神に聴くしかないのです。神に問い、神の御旨を聴く、それ以外にこの出来事を受け止められない、そういう人の知識や理解を超えた出来事に対する「欠けたる知恵」を神に求めざるを得ないのです。神の御旨に従って生きるために、神に問い、神に祈る以外にない、それがここに示されていることです。 ヤコブは信仰生活を貫くために「忍耐」を語りました。そして、信仰生活を貫くためには、神の御心を問う、祈るしかないと言うのです。そういう意味で、忍耐と祈りは繋がっております。 信仰者として、知恵ある者として生きることは、「祈る」ことです。どれだけ物事を知っているかということが大事なのではありません。どれだけ祈る人か「神へと自らを向けること」それが「知恵ある者の根本のあり方」です。神に聴くことに勝る知恵はありません。神に聴くことによってのみ、自らを定めることができるのです。 「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」。ここに示されていることは、神とはどのようなお方かということです。神は「人をへだてしない、等しく扱ってくださる方」です。それは、人にはできないことです。人は好き嫌いや、苦手・得意、損か得かによって、他者の扱いを変えるのであって、誰にでも等しくはあり得ません。しかし神は、だれでも等しく扱ってくださるのです。何と幸いなことでしょう。 そして、神の御思いは決して揺るぐことがありません。人は揺らぐ者、思いの定まらない者ですが「神に揺らぎは無い」のです。「神の慈しみ、憐れみには揺らぎが無い」だから「願いなさい」と言われております。神の慈しみ、憐れみの揺るぎなさ、そこにこそ私どもの救いの確かさがあることを知ることができます。揺るぎない神の慈しみの深さによって、私どもは「確かな存在」とされるのだということを忘れてはなりません。神は「決して揺るがず、罪に過ぎない者を赦そうとする方」だからこそ、尊い御子イエスをも十字架につけてくださいました。ここに私どもの確かさがあります。神は願い求める者に「確かな、揺るぎない保証」を与えてくださっているのです。 私どもは「惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」に、祈り求めることができます。しかしそれは、神が私どもを憐れみ、私どもに臨んでくださるからこそ、できることです。ですから、そのような確かさゆえに、続けて6節「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」と勧められております。祈る者は、神への信頼をもって祈ることが相応しいと言われているのです。 すべてを、神の慈しみ、憐れみに委ねて祈る、それがキリスト者に相応しい生き方であることを覚えたいと思います。 |
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