聖書のみことば/2011.2
2011年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主が愛する弟子」 2月第1主日礼拝 2011年2月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章15〜19節
21章<15節>食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。<16節>二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。<17節>三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。<18節>はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」<19節>ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

16節、2度目に主イエスが「わたしを愛しているか」と、ペトロに聞いてくださっております。ペトロは驚いたことでしょう。まさか2度も同じことを問われるとは思ってもいないのです。ペトロが主イエスを愛していることを、主イエスはご存じの上で、敢えて聞いてくださいます。それは、ペトロが主イエスをどれほどに愛しているか、ペトロ自身が身に沁みて知るまで、聞いてくださるということです。
 ここで15節と少し違うことは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われていることです。15節では「子羊を飼いなさい」と言われておりました。「飼う」とは「仕える」ことだと申しました。そして「世話」とは、まさしく「仕える」ことを意味するのです。
 「仕える」ということは、とても難しい、力を必要とすることです。奴隷であれば主人に仕えることは当たり前でしょう。しかし、現代のように皆が対等であれば、対等な他者に仕えるためには力を必要とするのです。自他共に認める才能や力を持つ者が他者に仕えることは、並大抵のことではありません。何か一部だけであればまだしも、「すべてにおいて仕える」ことは大変なことです。人にとって「仕える」とは至難の業なのです。
 人が他者に仕えるための大いなる力は、どこからくるのでしょうか。それは、このペトロと主イエスのやり取りを通して知ることができます。主イエスはペトロに繰り返し「愛しているか」と問われる。「仕える」ことの根底にあることは「愛する」ということです。「愛する」がゆえに「仕える」ことができるのです。「愛」とは「大いなる力」であることを覚えたいと思います。「愛」は人を「仕える者とする力」なのです。
 「愛は誇らない」とパウロは記しました。しかし、人は「愛する」ゆえに他者を虐げ、自らを誇ってしまうのです。「仕える愛」とは「神の愛」を見ることなしになし得ないことです。神を見ず、人を見れば、愛することはできません。神抜きの愛は、人に求めることはあっても、仕えることはできないのです。神が御子イエス・キリストまで下さって神自らを犠牲にしてまで、私どもを愛してくださった、その愛に覆い尽くされてこそ、私どもは他者に仕えることができる、敵する者をも愛することができるのです。普段、あまり「愛」を「力」であるなどとは考えないでしょう。しかし、「愛」は「大いなる力」なのであって、感情ではないのです。

17節、3度目の「わたしを愛しているか」との主イエスの問いに対して、ペトロの思いはどうであったか、「悲しくなった」と一言記されております。一般的に、何度も同じことを聞かれるとどうでしょうか。反発するのではないでしょうか。殊に親しい関係であれば、「そんなに信頼していないのか」と腹立たしい語調で答えるのではないでしょうか。以前のペトロであれば、そうだったことでしょう。しかし、ここでのペトロは違うのです。腹を立てるどころか「悲しむ」と言われております。ペトロは主イエスを深く愛しているがゆえに悲しかったのです。ペトロの悲しみは、主イエスをどれほどに愛しているかを示しております。
 その人のことを深く思う、それがその人に対する愛です。思い出してみましょう。十字架の前の主イエスがペトロに対して、どのように接しておられたでしょうか。捕われた主イエスを3度も知らないと否んだペトロを「主イエスは振り向いて見つめられた」(ルカによる福音書22章61節)と記されております。主イエスは、主を「知らない」としか言えなかったペトロを痛み、ペトロへと思いを向けてくださった、それが「見つめられた」ということです。主はペトロのために悲しみを覚えてくださったのです。その主が、罪に苦しむ私どものためにも悲しみ、自ら十字架に痛んでくださいました。主イエス・キリストの十字架、それは神が私どものことを痛み、悲しみ、私どもに示してくださった愛の姿なのです。
 「ペトロの悲しみ」、それが大事なことです。ペトロが悲しんでいる、そこで、共にいた他の弟子たちもペトロがいかに主イエスを愛しているかを知りました。ペトロが誰にもまさって主を愛している、そのことを主がご存じなだけでなく、ペトロ自身に知らしめただけでもなく、周りにいる者たちにも知らしめるために、主イエスは3度も問うてくださったのです。知っているのに、なお、問われた主イエス。主は、ペトロが悲しむほどに真実に主を愛していることを示すために問うてくださいました。

この主イエスの問いに対して、ペトロは「あなたは何もかもご存じです」と答えます。ペトロが主イエスを愛していることを本当に知っているのは、主イエスのみなのです。ペトロ自身は、自分が主を3度も否んでしまい、主を愛すると言いながら愛し抜くことができる者ではないことを知っております。ペトロも、そして私どもも、どのように主イエスを愛しているのか、本当には知ることができないのです。だからこそ、主イエスは示してくださいます。私ども以上に私どもを、人の思いを知っていてくださるのは、主イエスのみです。自分の罪をも知り得ない私どもを知っていてくださるのは、主のみなのです。主は、知り尽くし得ない私どもの罪までをも、十字架で裁かれてくださいました。
 本当に、自分の思いも罪も、自分自身をも知り得ないとは、私どもは情けない者ですが、しかし、無理に知る必要はありません。主イエス・キリストが知っていてくださるからです。そして、既に罪を贖って下さっているからです。ですから、私どもがすべきことは、ただ、その主イエス・キリストに信頼することです。

3度目に、もう一度「わたしの羊を飼いなさい」と、主は言ってくださっております。ペトロは、誰にもまさって「教会に仕える人」とされました。そのペトロに与えられているのと同じ恵みが、私どもにも与えられております。

18節「はっきり言っておく」と、主は言われます。ペトロがどのような死に方をするか、わざわざはっきり言わなくてもよいと思うのです。しかしこれは、主イエスの宣言の言葉です。それは真実にそのことが成る、ということであり、それはペトロが十字架刑になるということです。「行きたくないところへ、両手を伸ばして行く」、後に「両手を伸ばして」とは十字架刑を指す言葉となりました。
 主イエスは驚くべきことを宣言されます。主の弟子であるペトロは、この世から迫害を受け、殉教することを示されるのです。ペトロの十字架刑は「逆さ十字架」だったという伝説もできました。ペトロがどのような形で主の栄光を表すかを示してくださっているのです。「十字架こそ神の栄光を現す」、そのことがここにも示されております。
 主イエス・キリストの十字架によって神の救いの業がなされ、そこでこそ神の栄光が現されました。殉教とは「神に従順な者として生き、死ぬ」ということです。それは「神への従順」を示すこととして「神の救いの業のために仕えた」ことを意味しております。十字架の出来事は「御子イエス・キリストの神への従順である」と、「主イエスの神への従順によって救いがなったのだ」と、パウロは語っております。殉教という神への従順によって神の栄光を現す、その栄誉をペトロも与えられたのだということを覚えたいと思います。

そして、主イエスは「わたしに従いなさい」と、ペトロに言われました。もう一度、最後に、ペトロは主イエスの弟子としての召命を受けております。ペトロの殉教の死は、どこまでも「主イエスに従う者」であることを示すことです。殉教とは、私どもが死ぬということが目的なのではありません。そうではなくて、殉教とは「神への従順、主イエスに従うこと」であることを覚えたいと思います。
 そして、私どもが主に従うこと、それは、神の救いの業のために仕えることであり、それは「この世に神の救いがなる」ということです。
 「主に従う」、そこでこそ神の救いが満ちあふれ、そこでこそ私どもは平安なのです。
真実な証し」 2月第2主日礼拝 2011年2月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章20〜25節
21章<20節>ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。<21節>ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。<22節>イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」<23節>それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。<24節>これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。<25節>イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

主イエスは「わたしに従いなさい」と、ペトロに言われました。「主イエスの弟子」とは「主イエスに従う者」であるということが19節に示されていることです。そしてペトロは「主のように」十字架につき殉教の死を遂げました。それがペトロの「主に従う姿」であり、それによってペトロは神の栄光を表したのです。

ヨハネによる福音書は、ある特定の地域の教会に宛てて書かれた説教でした。21章には教会の指導者となったペトロの出来事が語られておりますが、20節以下には「イエスの愛しておられた弟子」と言われる人についても語られております。それは「イエスの愛しておられた弟子」が、その地域の人々にとってペトロと並び立つほどに大事な人であり、「その人がどうなったのか」ということが、その教会の関心事だったからです。
 20節「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」と記されております。彼は、ペトロの後から主イエスに従って来ているのです。しかし、ここに一つの問題があります。それはペトロが「振り向いた」ということです。「わたしに従いなさい」とは、ペトロには2度目の召命です。ペトロは漁師だった時「地上での主イエス」と出会い「人間を捕る漁師とする」との召命を頂きましたが、それだけではなく、主の十字架に挫折した後に、ここで再び「復活の主」からも「主の弟子」としての召命を頂いたのです。ですから本当は、思いを主イエスに凝らして前を向いて進むべきです。なのに、ペトロはここで後ろを振り向きました。「後ろを振り向く」、それは主イエスに思いが集中していない姿だと思わずにはいられません。ペトロが振り向いたことの背後にあること、それは「自分と他人を比べる」という思いです。ただ主に集中すべきなのに、他者と比べる、そこに人の愚かさがあります。ペトロには殉教の死ですが、イエスの愛しておられた弟子にはどうでしょうか。主イエスはその人その人に、それぞれにふさわしい道を示してくださいます。ですから、私どもは横や後ろを見るのではなく、「道を与えてくださった方」に集中すべきなのです。横や後ろを見るのは、競う思いがあるからです。主イエスは、私どもが他者と競うことを求めてはおられません。
 競うことの本質は、自らの現実を知り、あり方を吟味することです。そういうところで、競うことには意味があるのです。他者と比べれば、思いは卑屈や優越になり、本来あるべき所から逸れてしまうのです。私どもは、それぞれがそれぞれに相応しい仕方で主に召されているのだということを知ることが大事です。そして召されたことに前向きになる、集中する、それが「主に従う」姿勢なのです。
 私どものために十字架に死に、罪を贖ってくださった主イエス。復活して、永遠の命の約束をくださった主イエス。その主にこそ思いを集中する、それがキリスト者の歩みです。十字架と復活の主イエス・キリストへと思いを凝らすところでこそ、私どもは、赦されてある命の恵みであることを知ることができるのです。

「イエスの愛しておられた弟子」について、「死なないといううわさ」があったことが23節で分ります。そしてそれに対する答えが、主イエスの御言葉として示されております。「イエスの愛しておられた弟子」とは、どのような人だったのでしょうか。20節「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」と記されているように、主イエスに寄りかかるほどに主と親しい交わりにあった弟子、そしてヨハネによる福音書を生み出した教会の第一の指導者であった者、それがここに言う「イエスの愛しておられた弟子」なのです。ペトロはキリスト教会の第一の弟子、宣教の担い手でした。しかし、自分たちの教会にとってはペトロ以上に大事であり、力ある指導者、牧会者だった弟子、その人は一般的にはヨハネと言われておりますが、実際にヨハネという名であったかどうかは分りません。しかし当時の人には「あの人」と分るのです。そのような教会の指導者、宣教者、牧会者がどうなったのか。なぜ死なないという噂が立ったのか。そこで、この人が何を強調して宣教したかが分かります。それは「主イエスの再臨」ということです。「神の国は近づいた」それは「終末は近い」ということです。この人は「終末、主の再臨のときは近い、いや今にも来ようとしている、だから悔い改めて主イエス・キリストの福音を信じなさい」という宣教をした弟子だと思われるのです。22節「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と主イエスは言われます。つまりそれは「主イエスが再び来られる」という前提があって言われていることです。「死なない」とは、主の再臨は近い、終末は近い、そういう緊迫感があるからこその言葉なのです。
 しかし、弟子は死んでしまいます。このことをどう理解するのでしょうか。22節、23節に、主は「わたしが望んだとしても、」と言われております。それは、死なないという保証を主がお与えになったのではないということです。

「主の再臨」について話さなければなりません。これは重要なことです。「主の再臨のとき」とは「全ての者のよみがえりのとき」です。「終末のとき」とは「救いの完成のとき」、死にすぎない者、死んでしまった者が「永遠の命を頂く恵みのとき」なのです。ですから、終末の時は滅びの時なのではありません。私どもは皆、死に向かって生きている者です。この地上においては、滅びゆく者、誰もが死の支配の内にあるのです。もし主の復活と再臨がなければ、死によってすべてが終わり、救いは完成しないのです。主の再臨によって永遠の命の恵みに与り、滅びに過ぎない者がしみも傷もない全き者とされる、変えられるのです。人はいつか死ななければなりません。ですから、生きながらえることが幸いなのではありません。滅びに向かうまま生きながらえるということではないのです。そうではなくて、死んで後、完全な者として甦る、それが「主の再臨のとき」なのです。

自分の終末、それが私どもの「死」です。小終末です。小終末の時、葬儀礼拝の説教においては「復活」が語られます。人の死を死んでくださった主イエスは、復活して永遠の命の約束を与えてくださいました。ですから、私どもの死は無意味なのではありません。私どもの死とは、地上での生を終えた者が「甦りの命を頂くとき」なのです。主と共に甦りの命を頂いていることを知るのです。個々の小終末において、復活の命に与っているのです。ですから、それは「復活の主の恵みに生きている」ということです。
 私どもは、いつ死ぬか分りません。しかし、その死で終わるのではない。主の再臨によって死の支配は終わり、死を超えて「永遠の命が始まる」のです。
 主イエス・キリストを信じる者には甦りの命に生きる約束が与えられている、このことを知ることは、何と恵み深いことでしょう。生きることも、死ぬことも、すべてが主のためであることを改めて覚えたいと思います。
 ペトロが振り向いた、この出来事を通して、私どもの向くべき道が示されていることを感謝をもって覚えたいと思います。

与えられた命」 2月第3主日礼拝 2011年2月20日 
平松 実人 牧師/富士吉田教会 
聖書/マタイによる福音書 第26章36〜46節
26章<36節>それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。<37節>ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。<38節>そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」<39節>少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」<40節>それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。<41節>誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」<42節>更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」<43節>再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。<44節>そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。<45節>それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。<46節>立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

愛宕町教会の礼拝に招かれて、説教の御用に当たらせていただく幸いを与えられ、畏れを覚えつつ参りました。私が東海教区に参りましたのは2005年の4月であり、その時は軽井沢教会に赴任いたしました。軽井沢から現在の富士吉田教会に参りました時には、北先生のご指導とご支援をいただきました。その時、私は北先生については、教区議長という以外、ほとんど何も知りませんでした。北先生も私のことをまったくご存知なかったわけです。「平松先生はどうして軽井沢教会に行かれたのですか」というのが、先生の最初の質問でした。しかし、教会をわずか7カ月で辞任し、牧師館を出なければならなくなった者に、温かいお言葉をかけていただき、富士吉田教会の牧師館に入居できるように取り計らってくださいました。その時、先生は富士吉田教会の代務者をしておられました。
 そして今回も、私が富士吉田教会を辞任することになり、その前に一度愛宕町教会の礼拝に来るように、ついては、代わりの説教者を探す時間的余裕がないだろうから、とご自分は富士吉田教会までおいでくださる、というようにご配慮くださいました。富士吉田教会の会員は「久し振りに北先生の説教が聴ける」と大喜びしております。こうして、私は今朝この講壇に立たせていただいています。

この礼拝のために与えられた聖書は、先ほど朗読されたマタイによる福音書26章です。イエスが逮捕され、裁判ののちに十字架刑に処せられる前に、ゲッセマネ(油絞りの場所)という庭でお祈りされた時の言葉です。日本語で「油を絞る」というとギューギューひどい目に会わせることを意味します。しかしゲッセマネは<オリーブの実から油を搾り出す>場所であったと思われます。それが庭園の名前になっていたのです。7年ほど前の映画ですが「パッション」(英語の原題はThe Passion of the Christ)というアメリカ映画がありました。パッションといえば「情熱」と思うかも知れませんが、聖書ではキリストの受難を意味しています。その映画は、このゲッセマネの場面から始まっていました。そこには樹齢何百年、あるいは千年以上のオリーブの老木があります。私が小学生時代に、アメリカのある婦人からクリスマスカードをいただいた時、そのカードにオリーブの葉っぱが1枚貼り付けてありました。そして「これはゲッセマネの園のオリーブの葉っぱです」と書いてあったので、大変興奮したことを覚えています。1976年には聖地旅行をする機会が与えられ、そのゲッセマネの園のオリーブの木を見ることが出来ました。

そのゲッセマネでイエスは、ご自分の苦難と死が待ち受けていることを悟られて、何とかそのような目に会わないで済むことが出来ないのだろうかと祈られました。このことは、<イエスは神の子であったが、やはり死ぬことが怖かった>というのではありません。イエスは常に普通の人々、庶民を大切に思い、交わっておられました。ところが、彼らはイエスに現実的な期待をかけ、病の癒しや生活の向上、ローマの支配からの解放、といったことを期待したのです。けれども、イエスはそのようなことで人々の期待に応えることなど、まったく考えておられませんでした。ただひたすら、私達を愛してくださる神を教え、神の愛を伝えたのです。そして、それは民衆の期待するものではないことを、よく知っておられたのです。間もなく、人々がイエスにかけた期待が裏切られたと思い、イエスを捨てる時が来る、ということをイエスは予感しておられたのです。

イエスにとって大きな悲しみは、民衆から捨てられることであった、と思います。神が造り、生かし、愛しておられる民衆が、数々の病や苦しみ、悩みを負っていました。イエスはその人々に、神は常にあなたがたに愛を注いでおられる、ということを伝えたかったのです。しかし、人々はそのことを受け入れ、信じることが出来なかったのです。それは神に期待をおかない不信仰の姿でありました。そのことがイエスにとっては一番悲しいことでした。だからイエスは「出来ることなら、そのようなことにならないようにしてください」と祈られたのです。しかし、その祈りの最後に、「しかし、私の願い通りではなく、(あなたの)御心のままに。」と祈られました。これこそ、信仰者にとって一番大切なものであると思います。

聖書のメッセージを3つに要約すると、次のように言えると思います。
 その1:人間は神によって創られた存在である。(私達の命は与えられているもの)
 その2:その人間を神は愛してくださっている。(神のご計画のもとにおかれている)
 その3:その人間が生きるために神は独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。
 聖書は、このメッセージを伝えるために書かれたのであり、教会はその聖書のメッセージをこの世に伝え、証しするために建てられています。ここに、教会の使命が自ずから明らかにされていると言えます。

福岡の教会に仕えていた時のことですが、同僚の若い牧師が「我が家の、生れたばかりの女の子が入院している」と言ったので、何故か?と尋ねますと、「ボタロー氏管開存のためだ」と言うのです。聞いたこともない病気なので、どんな字を書くのか?と聞くと、「ボタロー氏という人の名前のついた管が開いたままになって存在している」と教えてくれました。ここには医学や医療に携わっておられる方もおられると思いますが、私が素人なりに理解したことは、次のようなことです。
 『心臓の左心室から大動脈が出ており、右心室からは肺動脈が出ている。そしてこの二つの動脈を結ぶかたちで「ボタロー氏管」または「動脈管」と呼ばれている血管がある。この血管は、通常赤ちゃんが生まれると、自然に閉じることになっているものだが、閉じずに開いたままになっている場合を「ボタロー氏管開存」または「動脈管開存」という。赤ちゃんは母親の胎内にいるときは、羊水の中で、いわば魚のように生きている。肺で呼吸をしているのではない。ところが、出産されて胎外に出ると、その途端に、肺呼吸を始める。その時に、この大動脈と肺動脈を結んでいた動脈管が、閉じるように設計されているのである。そして、何かの理由でこれが閉まらないと、心臓の働きが悪くなるので、手術して閉じなければならないのである。』
 生まれつきの心臓病というのがいくつかあります。心室中隔欠損症、心房中隔欠損症、心内膜床欠損症、そして心臓弁膜症などです。中には、心室中隔欠損、肺動脈狭窄、大動脈右室騎乗、右室肥大という4つの症状が同時に発生する場合もあり、それをファロー四徴症と呼びます。
 本多記念教会の吉田和樹君は、生まれた時からこのファロー四徴症でした。3才の時に17時間に及ぶ手術を受けたことにより、その後は大変元気な生活をすることが出来ました。両親は医師から、好きなことを思う存分にやらせてあげてください、と言われていたので、わがままにならないように気を配りながら、のびのびと育てました。彼は小学校ではラグビー、中学から大学にかけてはサッカーをやり、いつもチームのメンバーに心を配る優しい少年として成長していきました。趣味は海外旅行で、アジア、ヨーロッパ諸国をたびたび訪問し、またNew York訪問は6回にのぼり、2年連続して「アラビア半島20日間の旅」に参加したりしていました。この旅行で、聖書に出てくる乳香、没薬をおみやげに買い、教会に持ってきてくださったこともありました。ところが、大学3年生になって就職活動をしている真っ最中、急に気分が悪くなり、間もなく息を引き取られたのです。

こういうことを知ると、私達が健康で生きている、ということは、決して当たり前の事ではない、実に不思議なことだと思わされます。母親の胎内に宿ること、すなわち卵子が受精することも、決して当たり前のことではありません。絶妙のタイミングで受精して初めて、細胞分裂を開始するのです。私はその詳細についてうまく説明することは出来ませんが、ボタロー氏管開存という病気のこと一つをとっても、私達がこの世に生まれ出て、ここまで歩んできたことは、奇跡的なことだと言えます。
 英語では「出産する」ということは give birth to 〜 と表現する。「生れる」というと、自力で生れて来るように思われますが、本当はそうではなくて、生み出されるのです。こうして、私達は命を与えられているのです。

古代の人々は、どの民族であっても、自分達の初めはどうだったのか、あるいは自分達の生きているこの世界や宇宙の始まりは、どのようであっただろうか、と考え続けました。そして、聖書の民であるイスラエル民族は、聖書の冒頭にある創世記の天地創造物語を生み出しました。これを、荒唐無稽な作り話、と切り捨てることも出来るかも知れません。しかし、この物語が語っている一番大切なことは、<私達はみな神によって造られたのだ>という信仰です。創世記2:7に「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。この<生きる者>という言葉は、ヘブル語でネフェシュハイヤーという単語を使用しています。これは、他の生物と区別する特別な単語であると言われています。ここでは、創造者と被造物がハッキリ区別されているのです。そして「被造物である人間が、神に成り代わることほど大きな罪はない。それは秩序の破壊である。」と教えているのです。

先日、埼玉県に住む久保木裕子さんご夫妻を訪問しました。裕子さんは、私の妻が若い時に勤めていた幼稚園の生徒でした。彼女とは40年以上のおつきあいになります。彼らが結婚した時には、カナダに新婚旅行され、当時バンクーバーにおりました私達を訪ねてくれました。しかし彼らには、長い間子供が与えられませんでした。色々の不妊治療を試みて、9年後にようやく女の子が与えられました。「チーちゃん」と呼びたいから、ということで「千歳」と名づけられました。その時、私達は東京の代官山にある本多記念教会におりましたので、川越から来て幼児祝福式を受け、その後は近くの「初雁教会」の教会学校に行っていました。「チーちゃん」は、幼稚園は無遅刻無欠席で、健康そのもので育ちました。時には大人顔負けの発言をする利発な子供でした。ところが、小学校に入学し、希望にみちた歩みを始めたばかりの5月に、アトピー性皮膚炎の治療のために血液検査をしたところ、白血病だということが分かりました。ご両親にとってはまさに青天の霹靂でした。最初は抗がん剤による薬物療法、のちにはお父さんの骨髄を移植する治療が行われましたが、1年11カ月の闘病ののち、7才11カ月で天に召されました。2年前の出来事でした。
 聖路加国際病院の副院長である細谷亮太医師が、このチーちゃんについて書いておられます。骨髄移植は、頭を含めて全身に放射線をあてるきつい治療です。だから、移植のあと脳に影響が残ることを心配したご両親は、化学療法を選びました。それによってうまく治ったように見えたのですが、途中で再発してしまい、結局はお父さんから骨髄を移植することになりました。幸い移植は順調にすすみ、「治ったかな」と思ったのですが、残念ながら数カ月でまた再発してしまいました。
 再発したチーちゃんが病院に来る時に、お母さんが言いました。「ごめんね。最初から骨髄移植を選べばよかったのに、お父さんとお母さんが選んだ方法があまりよくなかったみたいで、また病院に入院しなければならなくなって…」するとチーちゃんは「自分を一番大事だと思っているお父さんとお母さんが、選んでくれた方法だから大丈夫。方法が間違っていたんじゃないよ。病気そのものが悪かったんだと思うよ。しょうがないよ」とお母さんを慰めたそうです。病気の自分を心配してもらっているのと同等、あるいはそれ以上の思いやりを、チーちゃんはお父さんとお母さんに向けたのです。子供の感覚は、大人が思うほど幼くないのです。子供だから大人の感覚よりも幼いだろうなどと思ったら、大間違いです。私はそのことをチーちゃんから教えてもらいました。
 裕子さんは、チーちゃんが生まれてから、地域の若いお母さんたちの子育てグループに加わり、学びながらお互いに助け合う活動を始めていました。さらに現在は、「日本誕生学協会」認定の「誕生学アドバイザー」となって各地の学校や、公民館などで講演をしています。いただいた名刺には、<生まれてきたことがうれしくなる、そんないのちの話を子ども達にロマンティックに伝えます>と書いてありました。子供を失った裕子さんが、子供達の前に立って、話をすることは、随分つらいことだと思います。しかし、神様から与えられたいのちの大切さを語り伝えるために、裕子さんはこの活動を続けているのです。名刺には更に、◆誕生学サロン(幼児〜二次性徴期) ◆保護者向けいのちのはなし◆母と娘の月経教室 ※PTA・保護者の集まり、学校へのゲストティーチャーとして伺います、と書いてありました。まさに、神によって思いがけない大激震を経験させられたご夫妻です。しかし彼女は、10年間チーちゃんの命を神様から預けられた、と感謝しておられるのです。
 私は、神様の慰めと導きが、このご夫妻の上に豊かにあり、厳しい経験の中で学び、考えられたことが、社会の人々の指針となり、知恵と知識となりますように、毎日の祈りに覚えて祈っております。

教会は、このような神からのメッセージを、この世に向かって宣べ伝えて来ました。そして、これからも常にそのメッセージを伝えることによって、この町に仕えるものであっていただきたいと願います。主イエス・キリストが、悩む者、苦しむ者、迷う者の傍らに常に立ってくださり、神の愛を伝えてくださったと同じように、キリストの福音を宣べ伝え続けていただきたいと、心から願います。

収めきれない御業」 2月第4主日礼拝 2011年2月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章24〜25節
21章<24節>これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。<25節>イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

ヨハネによる福音書も最後になりました。5年にもわたって、共にこの福音書に聴けたこと、感謝です。

24節「この弟子」とは「イエスの愛しておられた弟子」であり、いわゆる「ヨハネ」と言われる人で、ヨハネによる福音書の背景としてある教会を指導した人です。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」とあります。「弟子」とは「主イエス・キリストについて証しする者」であることを覚えたいと思います。「主イエス・キリストを言い表し、宣べ伝える」それが「弟子」です。そして「主イエス・キリストの証し」を記したもの、それが「福音書」です。福音書は主イエスの伝記ではありません。「主イエスはキリスト(救い主)、神の子であることを証しする」もの、それが福音書だということを覚えたいと思います。

「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と記されております。「わたしたち」とは、証しを聞いた人々のことです。証しは、当時は教会で朗読されたのであって、皆が聖書という書物を読んだわけではありません。それは教会でこそ語られるのであり、教会員(キリストを信じる群)が聴いたのです。
 そして、その証しが真実かどうかは「聖霊」にかかっております。その証しを聖霊の出来事として受け止めるとき、「証しは真実」だと分るのです。イエスをキリスト(救い主)と言い表すのは「教会」だけができることです。1970年〜80年代、日本基督教団という教会を脅かしたのは「革命家イエス」という思想でした。イエスをキリスト(救い主)としなくなったのです。そこで分ったことは「イエスがキリスト(救い主)である」ということは自明のことではないということでした。人の思いによっては、イエスをキリスト(救い主)と告白することはできないのです。聖霊の出来事なくして、イエスをキリストと言い表すことはできません。だからこそ、ここに、福音書において「この証しは真実である」と記されていることは大事なことなのです。

ここで、「わたしたち」とは「教会」であることが示されております。信じる群れ、信仰共同体である「教会」こそが、「イエスがキリストであることを知り、宣べ伝え、証ししている」のだということを覚えなければなりません。
 「教会」とは何なのかを改めて知っておきたいと思います。教会とは、心優しい人々の集まりということではありません。「罪赦された罪人の集まり」です。「イエスをキリストと信じた人々の集まり」です。各人が様々な自分の状況を超えて「イエスをキリストと信じた人々の交わり」なのです。そしてその交わりはイエスがキリストであることを言い表し、宣べ伝える、それが教会です。
 しかしそれは、殊更に「わたしはこのように信じている」と言い表すということではありません。教会は「自ずと信じていることを言い表している」のであり、それが「礼拝」であり、御言葉を共に聴き、祈ることなのです。礼拝は神との交わりです。神の臨在があってこそ、イエスをキリストと言い表せるのです。私どもが神を言い表せる場は礼拝なのであり、それが基本であることを覚えたいと思います。
 このように、私どもが礼拝を第一としていることが主を宣べ伝え証ししているのですから、それ以上に声を上げる必要はないのかもしれませんが、しかし最近は、求めを感じていながらも行くべき場所を見出せない人々が沢山いることをも感じ「ここに教会がある、救いがある」ということを知らせることも大事だと思います。今、一般書において「キリスト教」についての本が売れていることを取ってみても、キリスト教が求められているという現実を受け止めなければなりません。キリスト教の魅力は何かと言えば、それは「きちっと礼拝を守っている」ということ、そういうあり方に人々が魅力を感じているのです。ですからこそ、私どもの礼拝生活は、とても大事なのです。

教会の担っている使命は「宣べ伝える」ことです。それは、キリストから私どもに委ねられている使命です。教会は、主イエス・キリストから約束の聖霊を与えられて、宣べ伝え、信じる者に罪の赦しの宣言をなす「救いの権能」を与えられているのだということを覚えたいと思います。私どもには、神より、聖霊という仕方で「力」が与えられているのです。心を合わせて祈っている弟子たちに聖霊が降った、それが教会の始まりでした。聖霊を頂いているのが教会なのです。そしてそれは、今も変わらないことです。
 教会において、すなわち聖霊による交わりの中で、私どもに聖霊が働いて「救いを確信する」のです。私どもに確信を与えるもの、真実を裏付けるもの、それが聖霊であることを覚えたいと思います。

25節「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と記されております。福音書に記されたこと以外にも、主イエスのなさったことはたくさんあったでしょうが、それを逐一書くことなどできないのです。
 「収めきれない」とは、コヘレトの言葉を思い起こします。12章12節に「書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる」とあります。このことも大事なことです。たくさんのことを書いたからといって、主イエスを真実に証しするものではないということが示されているのです。逆に言えば、福音書において、主イエスのことはこれだけ語ったら十分なのだと言っているのです。
 私どもは、何においても「全部」と思ってしまいます。今流行の「ブログ」などは、自分の胸のうちを全部語れば、ありったけの愚痴ばかりになるのです。全部吐き出すと、それですっきりするでしょうか。いえ、却って思いが募ってしまうのです。昔は、胸のうちの思いを吐き出さずに我慢するということがありました。それによって、自己コントロールができたのです。どこまでも吐き続けたからといって解決できるわけではないのです。ですから「限られた中で十分である」ということも大事であることを覚えたいと思います。

しかし、聖書には、それ以上のことも示されております。ヨハネによる福音書は1章において、主イエスを「初めから在す方、永遠なる方」と言い表しております。「永遠なる方」、その方のことを書き切ることなどできないのです。しかし、福音書という枠の中では「十分に主イエス・キリストを記している」このことは、「聖典としての枠」ということは重要であるということを示しております。無限なる方のことが有限な枠の中に収められている、そしてそれで十分だとされていることの恵みを覚えなければなりません。
 キリスト教の聖典は66巻ですが、仏教においては無限です。歴史を見ますと、一派を起こすというのは一つの本を解説することに始まり、その解説書が聖典になっていきました。仏教の聖典は無限で閉じられていない、ということはいろいろな人が勝手に無限に聖典を作れるということです。ですから、閉じられていることは幸いなのです。これで完結しているからです。無限に広がるならば、誰一人何も理解することはできないでしょう。

聖書においては、無限なる方が「わたしを知るために無限の言葉を理解せよ」とは言われないのです。無限なる方でありながら、有限を取ってくださったのです。何故でしょうか。それは、私どもが有限だからです。ここに神のあり方が示されております。聖書が閉じられていることは、神の恵みなのです。神は私どもに対して「わたしと同じ者になれ」とは言っておられない。そうではなくて、有限な私どもの所にまで降りて来て、語ってくださっているのです。だからこそ、私どもは、神を、主イエス・キリストを知ることができるのです。
 主イエス・キリストが聖書という枠の中で記されているということは、高き方が低き者となってくださっているということを表していることです。無限なる方が、有限な者にまでなって、人とまでなって、低くなってくださいました。言葉においても低くなってくださって、私どもと同じ者となって、私どもが理解できるようにと語ってくださっているのです。この出来事によって、私どもは神に出会う恵みに与っているのです。

神が低くなってくださったこと、それは「神の愛」です。神が有限の形をとって語ってくださるのです。それによって、私どもを神との交わりに生きる者としてくださっているのです。
 神は、聖書に収めた中でご自身を現してくださっております。ですから聖書は、神の愛の、慈しみの出来事なのだということを覚えたいと思います。

私どもは、神の如くになるのではありません。人の在り方をご自分のものとしてくださった神を知り、高ぶる者ではなく「低き者として生きる」ということです。
 そして、このような神の低さによってこそ、私どもは「真実の慰めを受けている」のだということを、感謝を持って覚えたいと思います。