|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
この箇所にはびっくりしたかもしれません。何を語ろうとしているのかと思われることでしょう。ヤコブは「富んでいる人たち」に呼びかけて、「身の不幸を思え」と勧めております。どう受け止めたら良いでしょうか。7節以降は、また「兄弟たち」と、信仰者に対しての勧めになっておりますので、「富んでいる人たち」とは信仰者ではないということでしょう。 キリスト者にとっての「罪の自覚」ということを真摯に受け止めておきたいと思います。キリスト者は、自分で罪を自覚して赦されたのではありません。「あなたの罪は赦された」との赦しの宣言を受けて初めて、「ああ、このわたしが赦されている」ということを知るのです。神の赦しの出来事があって初めて、人の罪の自覚があることを知らなければなりません。罪無き神の御子イエス・キリストが十字架で罪裁かれてくださった、その圧倒する神の赦しの出来事、贖いを感じたとき、「ああ、こんな罪深いわたしが赦されたのだ」と、自らの罪を知るのです。 2節「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き」と言われます。ここに言われる「富」とは何でしょうか。昔の感覚から言えば、大金持ちとは大地主ですから、作物を貯蔵できることでしょう。しかし、その富は朽ち果てる富です。 主イエスは「天に宝を積みなさい」と言われました。天は決して失われない場所です。その天に積む宝とは何でしょうか。それは「神の御心に生きる」ということです。ただ神の栄光を現す者として生きることです。「神を神として崇める」ということは、そこに今、神が在すことを言い表すことなのです。この礼拝の場こそ、そうです。日々に祈り、御言葉に聴くこと、それは私どもが神の栄光を現すことです。そしてそれこそが、天に宝を積むことそのものであることを忘れてはなりません。 訴えることの出来ない者の叫び、それは神に向かっての叫びです。ヤコブは、叫びを聞かれる神を「万軍の主」と言い表しております。「万軍の主」それは戦いに勝利する方です。力ある方、裁くことのできる方です。 裁きの本質は何でしょうか。それは「神が義である」ということです。本当の裁きは、正義をもってなされなければなりません。人の裁きには正義はなく、不確かですから、冤罪ということも起こります。人は罪ある者ですから、真実に義なる者とはなり得ないのです。ですから、それでも裁かなければならないとすれば、慎重にならなければなりません。神の裁きの前に立っているという謙遜さがなければ、人に裁きはなし得ないことを覚えたいと思います。 改めて覚えたい。富んでいる人々が裁かれなければならないのは、神が義なる方だからです。それが神の業だからです。神が義であられるゆえに、不当な扱いを受ける小さな者は、憐れみを受けるのです。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
7節「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と、信仰者たちに対してヤコブは呼びかけます。 終末とは、地上の延長上にあるのではありません。全く新しくなることです。主が再び来られて、救いが完成される。つまり神の完全な支配が成るのです。 ここで使われている「忍耐」という言葉は、ギリシャ語では「寛容な心、広い心を持つ」という意味の言葉です。 主イエス・キリストの十字架と復活によって、私どもは救われました。それは何を意味するのか。それは、既に「罪の束縛から解き放たれている」ということです。キリスト者には天に住まいが用意されているのですから、天に国籍を置くものとして、既にその心は天に向けられている、だからこそ、この地上を解き放たれた心で生きることができるのです。神の恵みに与っているからこそ、苦しみ悲しみに対しても、なお希望を持って生きることができる、それが「忍耐」なのであり、そこでもなお神の恵みを覚えることができるのです。 このように私どもは、私どもの忍耐について知ることができました。しかしそれだけではなく、神の、主イエス・キリストの忍耐ということを思うべきです。 では、主イエス・キリストはどうか。主は、私どもの罪を贖うために、十字架への苦難と人々からの辱めを耐え忍んでくださいました。そして十字架にかかり、見捨てられた者の淵に立ってくださいました。 私どもが忍耐しているのではありません。私どもの罪のために、主が耐え忍んでくださっているのです。 続けてヤコブは「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」と言っております。 私どもは、不確かなものを待っているのではありません。「神の確かさ」がある。だから待つことができるのです。農夫が収穫を確信して待つように、再臨の日が必ず来る、だから「忍耐して待とう」とヤコブは言うのです。 神が私どもに「確かさ」まで与えてくださっているがゆえに、私どもは耐える力を与えられているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。忍耐とは、信仰にあることの恵みです。忍耐ということを通して、神の恵みの深さを改めて覚えるものでありたいと思います。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
今年は、11月27日から待降節(アドヴェント)を迎えております。教会歴では、この日から新しい一年が始まるのです。そして12月25日はクリスマスです。神の御子の幼子としての誕生を覚え、待降節のこのとき、与えられた御言葉から「御子を待ち望むことの意味」について聴きたいと思います。1節・2節を中心に語ります。 この箇所は元来、元旦礼拝に用いられる箇所です。「初めに」という言葉があるからです。しかし、2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という御言葉が心に留まりました。 創世記1章1節、聖書が初めに語ることは「初めに、神は天地を創造された」ということであり、それは聖書の表題になっているのです。信仰を持って、よく練られた言葉です。聖書全体の意味内容を把握し伝えております。「神が全てのものの根源である」ことを語っているのです。簡単に言いますと、これは「讃美の言葉、信仰告白」です。「神は」と訳されておりますが、「神が」と言った方が、よりはっきりとした神の意志を感じることでしょう。「初めに」とは、時間的なことを言っているのではなく、神の意志が示されている言葉です。そのように読みますと、神が第一であること、神が中心であるということが分るのです。 宗教を2つに分けて考えてみましょう。大まかに分ければ「神を信じる宗教」と「神を信じない宗教」です。 私どもキリスト者の信仰は「神あり」の信仰です。神の意志による創造によって、自分の存在の意味、存在の確かさを見ることができるのです。神が創造してくださった、それは幸いなこと、麗しいことです。私どもは虚しい存在なのではないのです。 その内容が示されているのが、2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」です。これは覚えなければならないことです。 今年、3.11の出来事によって、私どもは本当に虚しい思いを感じております。救いを見出せない、そういう様です。神なしで済ませて来た虚しさを、つくづくと味わっているのです。叫び、呻きが満ちております。「神などいない」という叫び、「神を見出せない」という叫びです。神なしで済ませてきたのに、神がいないと叫ぶ。これはどういうことでしょうか。3.11の出来事は、神なしで済ませて来た者たちに、皮肉にも神の存在を意識させた出来事でした。神なしで豊かさを追い求めてきたことの虚しさを意識化させられたのです。 「神の霊が水の面を動いていた」これは「神の霊が混沌を覆い尽くしていた」とも訳されます。ルターは「覆い尽くす」様を「親鳥が卵を抱くように」と表現しております。「神の霊が混沌を覆い尽くす」ということは、混沌にもなお「神の守りがある」ということです。 この大震災・人災を、教会は「信仰の出来事」として覚え、慰めを語らなければなりません。慰めと救いを語る、大切な使命を与えられております。 今年、私どもは、神を見出せない混沌から救い出してくださる「救い主」の誕生を思い起こしつつ、クリスマスを迎えます。 |
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
|
|||||||||||
クリスマスを共々に祝えますことを感謝いたします。 ヨハネによる福音書3章16節は「なぜ神の御子が人の子として生まれたのか」について、はっきりと述べております。神はこの世を愛してくださっている。だから、ご自身の独り子をまで、惜しげもなくお与えくださったのです。 今日は、敢えてこの聖書の箇所を選びました。先週の日曜日から、私は一つのテーマ、大震災・人災を意識して話しております。2011年のクリスマスを、東日本大震災、津波、そして原発事故による人災を抜きには迎えられないと思ったからです。ですから、この御言葉から聴きたいと思います。 「神が世を愛された」とはどういうことなのか。ここに、神の本質が表されています。神の本質、それは「愛」です。ですから「神が愛である」とは、どういうことなのかを知らなければなりません。それは、神が御子を人として遣わされたというとき、そこに「人々の叫びがある」ということです。神の民イスラエルは有象無象の奴隷の民でした。奴隷の民イスラエルの呻きを聞いてくださって、救い出してくださった出来事が出エジプトの出来事です。神の救いの御業、出エジプトの根底にあることは、神が、民の苦しみ呻きを聞いてくださったということなのです。 3.11のあの怒濤の中に、叫びはなかったでしょうか。いえ、苦しみもだえる叫びがあった、叫ぶこともできない叫びがありました。一瞬にして愛する者を失った、心裂かれる叫びがありました。その叫びを、神は聞いていてくださる。裂かれている心を、神は知っていてくださるのです。慈しみと憐れみの神は、人の叫びを知り聞いてくださる方として、御子を人として世に遣わしてくださった、そのことこそ、今年のクリスマスに聴くべき御言葉だと思うのです。 死の、絶望の淵の、そのところに立つ方として、主イエス・キリストは「人として」来られました。人の叫び、苦しみ、悲しみ、心の裂け目を知る方として、主は「人となって」くださったのです。主が人となってくださった故に、叫びある人々の救いとなってくださいました。ですから、主イエス・キリストが人としておいでくださったことの恵みを、神が人の叫びを聞いてくださってのこととして覚えたいと思います。 「与える」とは「主が十字架につくために来られる」ということです。主は楽しむために来られるのではないのです。救いの見出せない淵に立たれるために、おいでくださるのです。それほどまでに、この世を愛してくださる。神に敵する者でしかないこの世を愛してくださるのです。 「永遠の命」と「愛」とは、かけ離れていることではありません。主イエス・キリストの十字架の死によって、死は無力にされました。死とは罪の裁きとしてあるのです。ですから、信仰を持たない者にとっては、死は最後の支配者となってしまいます。しかし、主イエスが十字架に死んでくださった、それは罪の無い方が死んでくださったということであり、そこで死は本来支配してはならない方を支配しようとする過ちを犯してしまうのです。ゆえに、死は無力になる。主イエス・キリストによって死は打ち破られ、主を信じる者は、死に勝利して甦られた主と共に、甦りの命を生きる者とされるのです。地上の死という束縛から解き放たれる、それは永遠の命を生きるということ、それは「神との尽きない交わりに生きる」ということです。ですから、主への信仰にあるということは、既に死に勝利しているということであり、死に勝利する平安を与えられているということなのです。 19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」と言われております。光とは神、キリストです。神が来てくださったということです。行いが悪いとは、自己中心だということです。それは自分で大丈夫だと確信することです。関わりを生きる、交わりを生きる、それが「人」です。しかし、交わりの中で自分中心に生きてしまえば、行いは悪い方へ向かうのです。そして交わりを失ってしまう。交わりを失うことは、死なのです。神抜きでやれると、知らず知らずに誰もが思っている、だからこそ、信じるということがなければ救われないのです。 主イエス・キリストは十字架と復活によって、この地上に私どもの救いを成し遂げてくださいました。その救いに与るには、どうすればよいのでしょうか。 3.11の大震災、津波、原発事故という人災ゆえに思います。人がどんなに熱い思いを持ったとしても、人の思いによっては、人は救われないのです。私どもと同じ「人」とまでなってくださった神、十字架の主イエス・キリストを信じる以外に、救いはありません。 |
|||||||||||
|
|||||||||||