聖書のみことば/2011.12
2011年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
身の不幸を思う」 12月第1主日礼拝 2011年12月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章1〜6節
5章<1節>富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。<2節>あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、<3節>金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。<4節>御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。<5節>あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、<6節>正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。

この箇所にはびっくりしたかもしれません。何を語ろうとしているのかと思われることでしょう。ヤコブは「富んでいる人たち」に呼びかけて、「身の不幸を思え」と勧めております。どう受け止めたら良いでしょうか。7節以降は、また「兄弟たち」と、信仰者に対しての勧めになっておりますので、「富んでいる人たち」とは信仰者ではないということでしょう。
 ヤコブは、富んでいる人たちを裁こうとしているのでしょうか。いや、気付かせたいと思っているのです。ヤコブの中心にある思いは「終わりの日(終末)の到来」です。ですから、ヤコブが彼らを裁いているのではなく、神の出来事として語っているのです。終末に来るべき裁きの出来事を覚えて、自らの罪を覚えること、悔い改めを勧めております。悔い改めの機会はまだある。罪の自覚のあるところに悔い改めが起こるのです。罪の自覚なくして、人は変わることはできません。ヤコブは強い言葉で悔い改めを促して、富んでいる人たちが神へと向かうことを望んでいるのです。
 しかし、このことは必ずしも簡単に受け止めることはできません。考え方の違いがあるのです。富んでいる人たちにも神学があり、信仰があります。富んでいること、つまり豊かさは神の祝福であると考えているのです。富んでいる人たちにとっての救いの確信は、豊かさであり富んでいることなのです。ですから「罪の自覚」に至るということはありません。
 けれども、ヤコブにとっての救いの確信は「神の御子イエス・キリストの十字架の贖い」にあります。人の実感にではなく、神の側に救いの確信があるのです。十字架は、罪が裁かれ赦される「贖いと赦し」の出来事です。主イエスの十字架は、ヤコブ(キリスト者)の罪を、主が代わって裁かれてくださったという出来事です。ですから、キリスト者には「裁き」の自覚、自らの罪が裁かれるという自覚があるのです。
 なぜ富んでいる人たちに救いの自覚がないのか。それは十字架の出来事に確信を持たないからです。罪の裁きと赦しを思えなければ、救いの自覚はありません。
 ヤコブは自らの罪が主の十字架で裁かれて、赦されていることを知っている、その思いが込っているからこその言葉なのです。

キリスト者にとっての「罪の自覚」ということを真摯に受け止めておきたいと思います。キリスト者は、自分で罪を自覚して赦されたのではありません。「あなたの罪は赦された」との赦しの宣言を受けて初めて、「ああ、このわたしが赦されている」ということを知るのです。神の赦しの出来事があって初めて、人の罪の自覚があることを知らなければなりません。罪無き神の御子イエス・キリストが十字架で罪裁かれてくださった、その圧倒する神の赦しの出来事、贖いを感じたとき、「ああ、こんな罪深いわたしが赦されたのだ」と、自らの罪を知るのです。
 ですから「罪の自覚は救いの恵み」であることを覚えたいと思います。神は裁きにおいても、憐れみと恵みに満ち溢れているのです。そうであってこそ「わたしは罪人にすぎない」と、私どもは初めて低くなれるのです。
 人は自分から低くなることはできません。赦されているという恵みの中で、低くなれるのです。ヤコブと富んでる人々との違いは、罪の自覚があるか無いかということです。主イエス・キリストの十字架の贖いを知ることなく、罪の自覚はないことを覚えたいと思います。主の十字架に自らの罪が裁かれていることを知る、そして赦されていることを知る、それが恵みなのです。ヤコブはここで、罪の自覚を促す、迫る思いで、こう言わざるを得なかったのです。

2節「あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き」と言われます。ここに言われる「富」とは何でしょうか。昔の感覚から言えば、大金持ちとは大地主ですから、作物を貯蔵できることでしょう。しかし、その富は朽ち果てる富です。
 3節「金銀もさびてしまいます」。金銀は錆びるものではありません。しかし「さびる」と言っております。つまり金銀は一つの価値観であって、その値打ちは人の思いによって移り変わる。金銀を用いる人の貪欲が、その値打ちを左右する、金銀とはそういうものにすぎないということを示しているのです。そして「朽ちない富」があるということを暗に示しております。

主イエスは「天に宝を積みなさい」と言われました。天は決して失われない場所です。その天に積む宝とは何でしょうか。それは「神の御心に生きる」ということです。ただ神の栄光を現す者として生きることです。「神を神として崇める」ということは、そこに今、神が在すことを言い表すことなのです。この礼拝の場こそ、そうです。日々に祈り、御言葉に聴くこと、それは私どもが神の栄光を現すことです。そしてそれこそが、天に宝を積むことそのものであることを忘れてはなりません。
 日々を、自分の楽しみのために生きるのではなく、神を現すために生きる。それがキリスト者の生き方であることを覚えたいと思います。
 富んでいる人々は、自分の楽しみのために蓄えている、それは終わりの日の裁きに至る蓄えであると、ヤコブは言っております。そして、その事実を垣間みさせるために、4節「畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」と言うのです。不当に扱われた者の叫びがあります。しかし富んでいる人々が社会的な責任を果たさないならば、不当に扱われた貧しい人々の思いに至ることはありません。そこに社会的な搾取ということが起こるのです。

訴えることの出来ない者の叫び、それは神に向かっての叫びです。ヤコブは、叫びを聞かれる神を「万軍の主」と言い表しております。「万軍の主」それは戦いに勝利する方です。力ある方、裁くことのできる方です。

裁きの本質は何でしょうか。それは「神が義である」ということです。本当の裁きは、正義をもってなされなければなりません。人の裁きには正義はなく、不確かですから、冤罪ということも起こります。人は罪ある者ですから、真実に義なる者とはなり得ないのです。ですから、それでも裁かなければならないとすれば、慎重にならなければなりません。神の裁きの前に立っているという謙遜さがなければ、人に裁きはなし得ないことを覚えたいと思います。
 人は、完全に罪を終わらせることはできません。人は完全な者ではないからです。裁きの本質は、神の義が現されることであることを覚えなければなりません。そして私どもは、その神の義によって「赦されている」ことを覚えたいと思います。愛によって赦されたということではありません。神の義よる完全な罪の裁きによって、赦されたのです。ですから、神の義を知ることなく、人の救いの確信はないのです。

改めて覚えたい。富んでいる人々が裁かれなければならないのは、神が義なる方だからです。それが神の業だからです。神が義であられるゆえに、不当な扱いを受ける小さな者は、憐れみを受けるのです。
 裁きは脅しではありません。裁きによって、神の義が現されていることを覚えたいと思います。主の十字架は、神の義が現されている出来事です。ですから、神の義によって裁かれることは救いなのです。十字架の主イエス・キリストは、裁きなる方として、義なる方として、救い主であられることを、感謝をもって覚えたいと思います。

忍耐は幸い」 12月第2主日礼拝 2011年12月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第5章7〜12節
5章<7節>兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。<8節>あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。<9節>兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。<10節>兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。<11節>忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。<12節>わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。

7節「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と、信仰者たちに対してヤコブは呼びかけます。
 前節でヤコブは、富んでいる人たちには「悔い改め」を勧めました。その前提にあるのは「終わりの日の神の裁き」です。富んでいる人たちが終わりの日の裁きを思わず、今を楽しみ他者を虐げ驕っていることを指摘したのです。それに続けて、信仰者たちに対しては「主イエス・キリストの再臨」を覚えて忍耐することを勧めております。「終末」「再臨」いずれも、未来に対して言われていることです。
 「終末」と「再臨」は一つのことです。主の再臨によって、主を信じる者は救いの完成へ、信じない者は滅びへと至る。ですから、終末・再臨の時を思いつつ、今どうあるべきかを、ヤコブは勧めているのです。

終末とは、地上の延長上にあるのではありません。全く新しくなることです。主が再び来られて、救いが完成される。つまり神の完全な支配が成るのです。
 ヤコブは、信仰者にとっての地上での生活を「忍耐」として語ります。忍耐とは自力で為せることではありません。心を固く決意するということでもない。ここでの「忍耐」の前提にあることは「主の再臨の時まで」ということです。主イエス・キリストは救いの完成のために再び来られるのだから、そのことを覚えて「その時まで忍耐せよ」と言っております。つまり「未来の出来事に確信が与えられている」のだから、忍耐せよと言うのです。
 その確信とは何か。主を信じる者は、主の十字架によって罪赦され、主の復活によって「天に住まいが用意される」という約束を与えられていることが、ヨハネによる福音書に記されております。キリスト者は、終わりの日には、主を信じる者として完全に罪赦され神の子とされ、尽きることのない神との交わりに生きる「聖なる者」とされる約束が与えられているのです。そういう「主の約束」があってこそ、希望を持って、忍耐して、再臨を待ち望むということです。
 先に希望を見出せない者が忍耐することは難しいことです。気力を失うからです。希望を持つということは、生きる力を与えられるということなのです。
 ですから、ここに言われている忍耐とは、完成の希望を待ち望むという形での忍耐、信仰なのです。

ここで使われている「忍耐」という言葉は、ギリシャ語では「寛容な心、広い心を持つ」という意味の言葉です。
 「寛容である」とは「捕われない心を持つ」ということです。忍耐している状況というのは、束縛であり、悲しみ苦しみでしょう。そのような悲しみ苦しみに心が縛られない、束縛から自由になるから、耐え忍ぶことができるということです。悲しみ苦しみの束縛を感じつつも、しかしそれに圧倒されないで、捕われずにいるということです。つまり、ここでの忍耐は、希望があるからこその忍耐であり、現実に捕われないことで状況に向かい合えるという意味での忍耐なのです。

主イエス・キリストの十字架と復活によって、私どもは救われました。それは何を意味するのか。それは、既に「罪の束縛から解き放たれている」ということです。キリスト者には天に住まいが用意されているのですから、天に国籍を置くものとして、既にその心は天に向けられている、だからこそ、この地上を解き放たれた心で生きることができるのです。神の恵みに与っているからこそ、苦しみ悲しみに対しても、なお希望を持って生きることができる、それが「忍耐」なのであり、そこでもなお神の恵みを覚えることができるのです。
 神に望みを置く者だからこそ、苦しみ悲しみの現実の中で、心を頑にせず、心に自由を得ているのです。そうであるからこそ、忍耐できる、寛容であることができるのです。
 そのように考えれば、忍耐とは信仰にあることの恵みにほかなりません。苦しみ悲しみの現実にも拘らず、それでもなお、主の恵みがあることを知る者として生きるのです。「…にも拘らず、神の恵みを思う」ということ、それが「捕われない」ということです。それは、キリスト教で言うところの「摂理信仰」ということでもあります。どうであったとしても、それでも神の恵みを数えることができる。年老いて失われるものが多くなったとしても、与えられた恵みを数えることはできる。祈ることができる。そのように生きる姿は、人々に感銘を与える生き方なのです。
 キリスト者には、主にある希望と恵みが与えられております。十字架と復活の主イエス・キリストの救いに与っているからこそ、忍耐して生きることができる。キリスト者の忍耐とは、そういうものであります。

このように私どもは、私どもの忍耐について知ることができました。しかしそれだけではなく、神の、主イエス・キリストの忍耐ということを思うべきです。
 旧約聖書を読みますと、神がいかに忍耐してくださったかを知ることができます。神は、奴隷の民イスラエルの呻きを聞き、民を奴隷状態から解き放ってくださいました。にも拘らず、約束の地へ向かって荒野を旅するイスラエルは、解き放たれた恵みを喜ぶことよりも、食べ物が足りないことの不平不満を言うのです。神はその声をも忍耐をもって聞き入れ、必要を満たして下さいました。荒野の40年、それは、神が不平不満の民をも忍耐して約束の地へと導かれた、神の救いの歴史です。さらに、約束の地に入ったイスラエルのその後は、神への背信、民の罪の歴史です。そのような人の罪の頂点として、神が耐え忍ばれた忍耐、それが主イエス・キリストの十字架の出来事です。神ご自身が、ご自身に対する裁きまでしてくださったという神の忍耐です。御子を十字架につけるほどまでに、神が忍耐してくださった、そのことを知らなければなりません。神の忍耐の頂点、それが主イエス・キリストの十字架なのです。

では、主イエス・キリストはどうか。主は、私どもの罪を贖うために、十字架への苦難と人々からの辱めを耐え忍んでくださいました。そして十字架にかかり、見捨てられた者の淵に立ってくださいました。
 主イエス・キリストの忍耐、神の忍耐なくして私どもの救いはないことを、ここに覚えなければなりません。
 私どもが苦しみの中にあるとき、「ああ、ここに十字架と復活の主イエス・キリストが共にいてくださる」ということを見出すのです。そこに真の慰めを見るのです。それゆえに、いかなることにも耐え忍ぶことができる者とされるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

私どもが忍耐しているのではありません。私どもの罪のために、主が耐え忍んでくださっているのです。

続けてヤコブは「農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」と言っております。
 ユダヤは四季がはっきりしない所ですから、雨期以外は乾期です。秋の雨、春の雨、それは種まきの時であり実りをもたらす時(刈り入れの時)のことです。「忍耐しながら」それはつまり、種まきの時から刈り入れの時までの間、実りの時を待っているということです。
 農夫は実りを待ちます。農夫は知っているのです。次の雨が降ったら実りがあるということを。知っているから、待つことができるのです。

私どもは、不確かなものを待っているのではありません。「神の確かさ」がある。だから待つことができるのです。農夫が収穫を確信して待つように、再臨の日が必ず来る、だから「忍耐して待とう」とヤコブは言うのです。
 私どもが我慢しているのではなく、神が確かに約束してくださっているゆえに、私どもは待てるのです。私どもには確かな希望が与えられております。主イエス・キリストの十字架によって確かに罪を赦され、解き放たれているのです。

神が私どもに「確かさ」まで与えてくださっているがゆえに、私どもは耐える力を与えられているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。忍耐とは、信仰にあることの恵みです。忍耐ということを通して、神の恵みの深さを改めて覚えるものでありたいと思います。

地は混沌であった」 12月第2主日礼拝 2011年12月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第1章1〜13節
1章<1節>初めに、神は天地を創造された。<2節>地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。<3節>神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。<4節>神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、<5節>光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。<6節>神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」<7節>神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。<8節>神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。<9節>神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。<10節>神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。<11節>神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。<12節>地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた<13節>夕べがあり、朝があった。第三の日である。

今年は、11月27日から待降節(アドヴェント)を迎えております。教会歴では、この日から新しい一年が始まるのです。そして12月25日はクリスマスです。神の御子の幼子としての誕生を覚え、待降節のこのとき、与えられた御言葉から「御子を待ち望むことの意味」について聴きたいと思います。1節・2節を中心に語ります。

この箇所は元来、元旦礼拝に用いられる箇所です。「初めに」という言葉があるからです。しかし、2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という御言葉が心に留まりました。
 3月11日、私どもは、千年に一度という大地震・津波に襲われ、それだけではなく原発事故という人災にも見舞われました。原発の問題は、安全宣言などが出たとしても本質的には収束しておらず、先の見えないまま続いています。今、この出来事に思いを馳せざるを得ません。そして、改めて御言葉に聴かなければならないことを、神が導いてくださっております。

創世記1章1節、聖書が初めに語ることは「初めに、神は天地を創造された」ということであり、それは聖書の表題になっているのです。信仰を持って、よく練られた言葉です。聖書全体の意味内容を把握し伝えております。「神が全てのものの根源である」ことを語っているのです。簡単に言いますと、これは「讃美の言葉、信仰告白」です。「神は」と訳されておりますが、「神が」と言った方が、よりはっきりとした神の意志を感じることでしょう。「初めに」とは、時間的なことを言っているのではなく、神の意志が示されている言葉です。そのように読みますと、神が第一であること、神が中心であるということが分るのです。
 「天地創造は、神の明確な意志をもってなされたことである」と言い表す、神への讃美の言葉、それがこの1節なのです。
 「天地万物は、神の意志によって存在している」それは「天地万物は存在の意味を持っている」ということです。全てのものが固有の意味を持っている、それぞれに大切な存在であることを示しております。神を考えなければ、これはたまたま存在しているということになるでしょう。しかし神の創造は、そうではありません。

宗教を2つに分けて考えてみましょう。大まかに分ければ「神を信じる宗教」と「神を信じない宗教」です。
 無神論は神なしという考え方ですから、神なしでは一切のものに意味を見出すことはありません。無神論は神を信じない宗教なのです。全ては虚しいと考え、自分の存在にも意味を見出せないのですから、虚しさを生きるためには、却って悟りという強い意志を要求されることになるのです。しかしそれが万人の救いになるかと言えば、難しいことでしょう。そこで現れたのが大乗仏教(浄土真宗)でした。仏の本願は慈悲である言って神なる存在を作ったのです。キリスト教に似ています。

私どもキリスト者の信仰は「神あり」の信仰です。神の意志による創造によって、自分の存在の意味、存在の確かさを見ることができるのです。神が創造してくださった、それは幸いなこと、麗しいことです。私どもは虚しい存在なのではないのです。

その内容が示されているのが、2節「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」です。これは覚えなければならないことです。
 ここは、口語訳では「地は形なく、むなしく…」と訳されております。「混沌」それは「神なし」だったということです。
 「神なし」ということは自分が中心になるしかないのです。自分の存在を自分で意味付ける以外ないのですが、それは大変なことです。自分を意味付けるためには、他人の目を気にしなければなりません。自分ではこれで良しと認めても、自分よりも強い他者の意志を感じれば、人は虚しくなってしまうのです。自分の居場所や存在感を失って、何もかもどうでもよくなってしまうということが起こるのです。
 ですから、神の創造(神の意志)を信じられなければ、自分の存在の虚しさを感じることになる、そのことが大きな問題です。2節に言われる「混沌」とは、神なしの存在の虚しさを言い表しております。神を信じられないから虚しいのです。
 「混沌」とは、神なし荒涼とした様です。混沌という言葉は、イザヤ書とエレミヤ書の、共にバビロン捕囚の経験に用いられた言葉です。イスラエルは神を信じていた、にも拘らず、神に見捨てられた、指導者を失い希望を失う、その様を「混沌」という言葉で言い表しております。信じていたことが打ち砕かれ、そして虚しくなる。信じていたのに見捨てられる、その闇は深いのです。

今年、3.11の出来事によって、私どもは本当に虚しい思いを感じております。救いを見出せない、そういう様です。神なしで済ませて来た虚しさを、つくづくと味わっているのです。叫び、呻きが満ちております。「神などいない」という叫び、「神を見出せない」という叫びです。神なしで済ませてきたのに、神がいないと叫ぶ。これはどういうことでしょうか。3.11の出来事は、神なしで済ませて来た者たちに、皮肉にも神の存在を意識させた出来事でした。神なしで豊かさを追い求めてきたことの虚しさを意識化させられたのです。

「神の霊が水の面を動いていた」これは「神の霊が混沌を覆い尽くしていた」とも訳されます。ルターは「覆い尽くす」様を「親鳥が卵を抱くように」と表現しております。「神の霊が混沌を覆い尽くす」ということは、混沌にもなお「神の守りがある」ということです。
 神なしという形で、却って神を意識させてくださる、そこには「神の憐れみ」があります。神なしであったにも拘らず、神へと向かって神否定を叫ばなければならないほどに、この世は神を必要としているのです。神を信じない者にも「神がいない」ことを意識させてくださる。それは、それほどまでに、神がこの世を、私どもを慈しんでくださっているということです。
 豊かさの中で忘れていたことを、しかしこの出来事によって、私どもは突きつけられております。「あなたは本当に豊かですか? 虚しくはありませんか?」と、人の存在の意味を示してくださり、虚しさにあって「創造者なる神を見出す以外に救いはない」ことを、示してくださっているのです。

この大震災・人災を、教会は「信仰の出来事」として覚え、慰めを語らなければなりません。慰めと救いを語る、大切な使命を与えられております。
 そして、今、混沌・虚しさを覚えるときだからこそ「救い主イエス・キリストの誕生の意味」をなお鮮やかに思います。主は人として生まれ、十字架に死んでくださいました。それは人の死(神なき淵)を、神なる方が味わってくださったということです。神なき?混沌の虚しさの淵に立ってくださるキリストは、私どもを混沌から救い出してくださるお方です。主がそこに共にいまして、神として臨んでくださることによって、人は、神なしの状態から、神ありへと変えられるのです。それが神の御子の十字架の死であり、十字架に死ぬために、主は人の子としてお生まれくださったのです。

今年、私どもは、神を見出せない混沌から救い出してくださる「救い主」の誕生を思い起こしつつ、クリスマスを迎えます。
 神なしでは虚しいしかない、混沌でしかない私どもの救いとなってくださる、救い主イエス・キリストを待ち望む、それが、今、この待降節のときであることを覚えたいと思います。主よ来たりませ!

神が独り子を与える」 クリスマス礼拝 2011年12月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第3章16〜21節

3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。<17節>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。<18節>御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。<19節>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。<20節>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。<21節>しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

クリスマスを共々に祝えますことを感謝いたします。
 神の御子が人として誕生してくださいました。その大いなる恵みに、感謝に堪えません。

ヨハネによる福音書3章16節は「なぜ神の御子が人の子として生まれたのか」について、はっきりと述べております。神はこの世を愛してくださっている。だから、ご自身の独り子をまで、惜しげもなくお与えくださったのです。
 17節には「遣わす」という言葉が使われておりますが、「与える」ということは、単に遣わすということとは大いに違う意味を持っております。「与える」という言葉は「犠牲として引き渡す」という言葉であり、主の十字架の出来事を暗示しているのです。人の贖いのために独り子を人としてお与えくださった、人が受けるべき裁きを受けるために、神は独り子をお与えくださったのです。それは「お与えになったほどに」世を、人を愛してくださっているということです。

今日は、敢えてこの聖書の箇所を選びました。先週の日曜日から、私は一つのテーマ、大震災・人災を意識して話しております。2011年のクリスマスを、東日本大震災、津波、そして原発事故による人災を抜きには迎えられないと思ったからです。ですから、この御言葉から聴きたいと思います。

「神が世を愛された」とはどういうことなのか。ここに、神の本質が表されています。神の本質、それは「愛」です。ですから「神が愛である」とは、どういうことなのかを知らなければなりません。それは、神が御子を人として遣わされたというとき、そこに「人々の叫びがある」ということです。神の民イスラエルは有象無象の奴隷の民でした。奴隷の民イスラエルの呻きを聞いてくださって、救い出してくださった出来事が出エジプトの出来事です。神の救いの御業、出エジプトの根底にあることは、神が、民の苦しみ呻きを聞いてくださったということなのです。

3.11のあの怒濤の中に、叫びはなかったでしょうか。いえ、苦しみもだえる叫びがあった、叫ぶこともできない叫びがありました。一瞬にして愛する者を失った、心裂かれる叫びがありました。その叫びを、神は聞いていてくださる。裂かれている心を、神は知っていてくださるのです。慈しみと憐れみの神は、人の叫びを知り聞いてくださる方として、御子を人として世に遣わしてくださった、そのことこそ、今年のクリスマスに聴くべき御言葉だと思うのです。

死の、絶望の淵の、そのところに立つ方として、主イエス・キリストは「人として」来られました。人の叫び、苦しみ、悲しみ、心の裂け目を知る方として、主は「人となって」くださったのです。主が人となってくださった故に、叫びある人々の救いとなってくださいました。ですから、主イエス・キリストが人としておいでくださったことの恵みを、神が人の叫びを聞いてくださってのこととして覚えたいと思います。

「与える」とは「主が十字架につくために来られる」ということです。主は楽しむために来られるのではないのです。救いの見出せない淵に立たれるために、おいでくださるのです。それほどまでに、この世を愛してくださる。神に敵する者でしかないこの世を愛してくださるのです。
 主が慈しみと愛をもってこの世に臨んでくださる。それは、痛む者の救いをなす方として、この世の一人も滅びないために、そして永遠の命を与えるためであると言われております。「神の愛」とは、どういうものなのでしょうか。「神の愛」それは、御子を十字架につけてまでの「犠牲の愛、献げる愛、限りなく与えたもう愛」です。
 神の愛は、人の愛とは全く違うものです。人は愛すれば求め、奪うようにさえなる。人の愛は限りなく奪う愛であることを忘れてはなりません。しかし、神の愛は、限りなく与えたもう愛なのです。限りなく与えるという真実な愛は、ただ神にのみあることを覚えたいと思います。

「永遠の命」と「愛」とは、かけ離れていることではありません。主イエス・キリストの十字架の死によって、死は無力にされました。死とは罪の裁きとしてあるのです。ですから、信仰を持たない者にとっては、死は最後の支配者となってしまいます。しかし、主イエスが十字架に死んでくださった、それは罪の無い方が死んでくださったということであり、そこで死は本来支配してはならない方を支配しようとする過ちを犯してしまうのです。ゆえに、死は無力になる。主イエス・キリストによって死は打ち破られ、主を信じる者は、死に勝利して甦られた主と共に、甦りの命を生きる者とされるのです。地上の死という束縛から解き放たれる、それは永遠の命を生きるということ、それは「神との尽きない交わりに生きる」ということです。ですから、主への信仰にあるということは、既に死に勝利しているということであり、死に勝利する平安を与えられているということなのです。
 「愛」とは関係概念ですから、交わりが無いということは、愛が無いということです。相手を無視する、かかわろうとしない、それは愛のない姿です。「愛」とは、関わっていくことです。ですから、交わりとは愛そのものなのです。
 神は私どものと関わってくださる方です。神に背を向け、敵するこの世であるにも拘らず、神は関わろうとしてくださるのです。その神の愛の頂点、それが主イエス・キリストの十字架なのです。
 神は私どもを、神の交わりの相手としてくださっております。神は滅ぼすのではなく、人をご自分の交わりに入れようとしてくださっているのです。そしてそれは、この世のすべての者に開かれていることですが、しかし、それは信じる者に与えられている恵みなのです。「信じる」ということは、人の信心・確信を意味しません。信仰は「神より与えられている恵み」であることを覚えたいと思います。

19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」と言われております。光とは神、キリストです。神が来てくださったということです。行いが悪いとは、自己中心だということです。それは自分で大丈夫だと確信することです。関わりを生きる、交わりを生きる、それが「人」です。しかし、交わりの中で自分中心に生きてしまえば、行いは悪い方へ向かうのです。そして交わりを失ってしまう。交わりを失うことは、死なのです。神抜きでやれると、知らず知らずに誰もが思っている、だからこそ、信じるということがなければ救われないのです。

主イエス・キリストは十字架と復活によって、この地上に私どもの救いを成し遂げてくださいました。その救いに与るには、どうすればよいのでしょうか。
 「信じる」ということは「聖霊」の出来事です。「主イエス・キリストこそ、わたしの救い」と知るのは、私どものうちに、神が働きかけてくださることによるのです。
 私どもには到底信じられない出来事、それが「主イエス・キリストの十字架と復活」ということです。なぜこのようなことが信じられるのでしょうか。それは聖霊が私どもの心を砕き、信じる者としてくださるからです。人は、自分の思いによって救われるのではありません。救われた者とは、神が救おうと思われたから、救われたのです。まさしく父・子・聖霊なる三位一体の神の恵みです。「信じる」とは「救いの確信を神が与えてくださる」ことです。信じ、告白して洗礼に与る、それは聖霊の出来事なのです。私どもは、聖霊によって、救いの恵みに与るのです。
 神の御子が人となるという出来事は、神が働きかけてくださらなければ信じられない出来事なのです。ただ聖霊の出来事に身を委ねる者に、救いが与えられるのです。信じる者に救いがあります。

3.11の大震災、津波、原発事故という人災ゆえに思います。人がどんなに熱い思いを持ったとしても、人の思いによっては、人は救われないのです。私どもと同じ「人」とまでなってくださった神、十字架の主イエス・キリストを信じる以外に、救いはありません。
 ただ神の恵みの出来事として十字架の主を信じるところにこそ、救いがある、そのことを深く覚えるものでありたいと思います。