聖書のみことば/2011.11
2011年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
心を清める」 11月第1主日礼拝 2011年11月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第4章5〜10節
4章<5節>それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、<6節>もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」<7節>だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。<8節>神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。<9節>悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。<10節>主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

5節に「聖書に記された言葉」として引用されている「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」という言葉は、当時の聖書を意味する旧約聖書の中には見当たりません。なぜ、使徒ヤコブはこの言葉を聖書の言葉と言っているのでしょうか。
 当時は誰もが聖書を持っていたわけではなく、人々は口伝によって暗誦していました。聖書を暗誦するとは、すごいことです。暗誦していることによって、その言葉を自由に聞き、自由に語ることができるのです。ですから、ヤコブは暗誦していた言葉を聖書の言葉として聞いたということでしょう。この言葉はユダヤの教訓詩に当たるものだっただろうと思われるのですが、実際には聖書の言葉でないにしても、暗誦した信仰の言葉を自由に用いている、そのように聴いてよいと思います。ヤコブの思い違いであったとしても、型通りの枠を超えて、信仰がダイナミックに語られていると思います。
 ここで大切なことは、この言葉が「神の霊と共に語られている」ということです。使徒ヤコブは「説教」として語っているのです。ですからそこには聖霊が働き、出来事が起こるのです。「説教」とは、神が働かれ、神が事をなされて、私どものうちに出来事が起こるということです。ですから、人は御言葉によって慰めを与えられ、その人生をも変えられるということが起こるのです。

ところで「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」、この言葉は難解です。「神が住まわせた霊」とは「聖霊」でしょう。その聖霊をねたむほどに深く愛するとは、よく分らないことです。
 それで「わたしたちの内に住んでいる霊」と訳することもあるのです。そうであれば、住んでいるのは聖霊とは限らず、悪霊も住んでいると解釈できます。「悪霊」とは、この世のさまざまな価値観、お金、美しさ、美味しさなど、私どもを魅了するもののことを意味します。私どもが、悪霊によって、神以外のものに支配されること、そのことを神は「ねたんで」くださる程に、私どもを愛していてくださる、そう解釈する方が分り易いでしょう。悪霊に魅了され支配される、そういう私どものために、神は痛んでくださっている、それは恵み深いことなのです。私どものために、ご自分が痛むほどに愛してくださる。神が私どもを愛するということは、神ご自身が痛むということなのです。
 神の「痛むほどの愛」がなければ、主イエス・キリストの十字架の出来事はないのです。神が痛んでくださったゆえに、御子イエスまでくださって、十字架により私どもの罪を贖い救ってくださいました。ですから、愛するということは痛むことです。私どもを放置してはおけないゆえに、神は痛んでくださるのです。
 この世の価値に魅了されている者は、この世の価値と運命を共にする他ありません。この世の価値は移りゆくものであって、浮き沈みするもの、仮のものです。そこに永遠は無いのです。今はまさに、そのような時代であると思います。この世の価値に依り頼んだ結果が今の現実なのです。だからこそ、今は、真実に依り頼むものを求める時であることを思います。揺るぎない恵みのうちに生きる、永遠を生きる、それは「神と共に生きる」ことです。

「わたしたちの内に住まわせた霊」という訳で考えてみましても、神が聖霊を注いでくださった、にも拘らず神以外のものに支配されてしまう、そういう者のために、神がねたみ嘆いてくださっているということに変わりはありません。
 聖霊を注がれた者のあり方とは、「御言葉に聴き、祈り、礼拝する」ことです。それが「私どもの内に霊が宿る」ということなのです。しかし、私どもは日常生活の中で、御言葉に聴くこと、祈ること、礼拝することを忘れてしまう者です。聖霊を頂いているにも拘らず、聖霊をくださった神に相応しく生きられない、本来あるべき姿で生きられない、そういう私どものために、神は痛んでくださっているのです。そういう意味で、どちらの訳をとっても同じことと言えましょう。
 私どもが神を忘れているときにも、神が私どものために深く痛んでくださっているとは、何と畏れ多いことでしょう。私どもの日常においては、「親の心、子知らず」と言えば分り易いかもしれません。しかし、人の場合には、相手に対して忍耐しきれずに、堪忍袋の緒が切れたということになるのです。しかし、神のあり方は人とのあり方とは大いに違います。神は痛むゆえに「もっと豊かに恵みをくださる」と言うのです。神は「恵みをもって」気付かせようとなさいます。痛みつけて分らせようとするのではありません。「恵みを思い起こさせる」ことによって、神へと立ち帰らせようとしてくださるのです。私どもが神を忘れているときも、神から遠いときも、神は常に私どもと共にいて、痛みをもって臨んでいてくださるのです。その神へと方向転換すること、悔い改めをもって神へと向かうこと、そのことが、ここに求められていることです。
 十字架と復活の主イエス・キリストの救いは揺るぎない、そのことを思い起こせば起こすほど、その恵みは私どもの内でもっともっと大いなるものとなってゆきます。主の十字架によって、私ども自身が問われることによって「十字架の救い、恵み」は増々深く、豊かなものとなるのです。

続けて6節「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」とは、旧約聖書、箴言の言葉からの引用です。
 「高慢」とは何か、高ぶりの罪とは何か。それは、偉ぶるとかいうことではなく、神を必要としないということです。神を必要としないで生活すること、神を思わずに生きること、それが高ぶりなのです。神にすがることなく、神の御言葉に聴き、祈り、礼拝することのない生活、神抜きに生きる、それが高慢ということです。神の前にへりくだる、ひざまずく、ということが無ければ、人は神に代わって自分が神となるのです。神抜きの生活とは、何につけても「わたしが」という生活、それは「不平不満」の生活となるのです。神への信頼を失った生活には自分しかなく、それはいずれ行き詰まる、苦しいことなのです。
 では、「謙遜な者」と言われる「謙遜」とは、どういうことでしょうか。それは「神の前にひざまづく、神の前に低くなる生活」ということです。私どもは何と有り難いことでしょう。神が招いてくださって、このようにして礼拝を守っております。私どもが礼拝する、それは「謙遜な者」として神が私どもを認めてくださっているということです。そこで起こることは、全てを神からのものとして受け止めることができるということです。どんな出来事であったとしても、それは神からのものとして恵みに変えられる、そして一つ一つを恵みとして思い起こすことができるということです。ですから、信仰生活とは「恵みを数える生活」です。

7節「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」と記されております。悪魔と共に生きているつもりは無いにしても、悪魔とは、私どもを常に誘惑している存在です。私どもが神共なる生活をし、神に祈り、すがる者であるならば、神以外のものに誘惑されることはなく、従って、悪魔は「逃げて行く」退散するほかないのです。ですから、何か私どもが修行をして悪魔を追い払うということではありません。私どもは、神と共に生きるところで、戦わずして悪魔に勝つのです。神の臨在、神の支配に、悪魔は耐えられないからです。

8節「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。私どもが祈るとき、私どもは神との交わりのうちにあるのであって、それが「近づく」ということです。
 続けて「手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」。手を清めることによって全身が清められるという、旧約聖書の言葉を背景とした言葉です。「全身を清める」それは「神へと方向転換する」ということです。「心が定まらない」とは、二心あるということ、神と神以外のものとに揺れ動くということです。「心を清める」とは「悔い改めて、神にのみ心を向けよ」ということです。

これらの言葉を通して知ることがあります。それは「罪の自覚があるところに救いがある」ということです。人は心定まらず、迷う。しかし「神しかない」ことを覚えるべきであります。
 悔い改めて、神へと方向転換することによって、私どもは、罪人でありながら、清められ、心定まる者とされるのです。

9節「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」と勧められております。自分の罪を知るということは、悲しいこと、憂いあることです。しかし、その人は幸いです。自らの罪を知ることによって、神の救いの出来事を知るからです。
 「そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」と言われます。自らの罪を痛むほどに、私どもは神の憐れみを受ける、それが「高められる」ということです。私どもは神の憐れみにより、救いを受けて「神の子とされる」、それが「高められる」ということです。

ここに示されていることは「悔い改め」です。神へと心を向けることです。神へと心を向ける、それは礼拝に、祈りに生きることです。そしてそれが謙遜な生活であり、恵みを数え、恵みに溢れる生活なのです。
 そしてそれは、移ろい失われることのない、永遠を生きることです。

神が私どもに、主イエス・キリストをくださいました。主の十字架と復活によって、罪の赦し(救い)と永遠の命の約束をお与えくださいました。そのことを感謝をもって覚えたいと思います。

大人の友情」 11月第2主日礼拝 2011年11月13日 
渡辺 正男 牧師/日本基督教団隠退教師 
聖書/ヨハネによる福音書 第21章20節〜24節
21章<20節>ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。<21節>ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。<22節>イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」<23節>それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。<24節>これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

序 河合隼雄という心理学者がいました。文化庁長官をされた方です。数年前になくなりましたが、『大人の友情』という本があります。朝日新聞社から出ています。その「大人の友情」という本のなかで河合隼雄氏が、こういうことを言っています。「わたしたちは、友人や仲間の悩みや悲しみに同情する。しかし、友人の成功や喜びには、ときにねたみのような思いを抑えられない」と。 仲間の悩みには同情するが、成功や幸せは、なかなか素直に喜べないときがある、というのです。どうでしょう。その心理はわかりますね。牧師仲間でもそうであります。仲がよいようで、競い合う一面もありますから、ときに対抗心のような思いに悩むこともあるのです。
 わたしは雪国の少数の会員の伝道所に仕えたことがあります。長い冬を耐えて、首を長くして待った春が来ると、草花の咲き乱れる教会にしたいと思いました。でも、その費用は伝道所の会計からは無理でした。でも毎年、ポケットマネーで、思いっきりたくさんの草花を植えました。草花のことだけでありません。冬には毎日のように50センチも雪が積もります。その除雪は半日仕事ですね。それに会堂の掃除、もろもろの雑用、ほとんどが牧師夫婦の務めであります。何かにつけて、都会の規模の大きな教会や、知り合いの牧師たちがまぶしく見えたのであります。うらやむような思いになったことも、度々でした。

今朝与えられている聖書は、ヨハネ福音書21章の20節以下の所です。ペトロと「イエスが愛された弟子」が登場します。このペトロと「主の愛しておられた弟子」との関係はどうなのでしょう。同じ弟子として仲間なのですが、親友だったのでしょうか。競争相手であったのでしょうか。
 この「主の愛された弟子」というのは誰のことなのか、いろいろ議論がありますが、伝統的にはヨハネのことだと考えられてきています。ヨハネの教会は、主の愛された弟子ヨハネを、ペトロに優るとも劣らない指導者であると思っています。そして、主の愛弟子ヨハネが、この福音書を書いたとされています。24節のところを見てください。こうあります。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」この愛弟子がヨハネ福音書を書いた、とあります。ヨハネが自分のことをこう言うのも、妙な感じがしますね。この24節の「わたしたちは」とあるのは、おそらくヨハネの教会でしょう。「わたしたちの指導者であった、主の愛弟子ヨハネが、この福音書を書いたのである」と教会が言っているのですね。
 ペトロは、教会の指導者として広く認められている人物であります。しかし、ヨハネの教会は、ペトロを指導者として認めてはいるのですが、しかし、主の愛弟子であったヨハネを、ペトロに劣らない指導者である、と思っているのです。
 では、このヨハネとペトロの関係はどうなのでしょう。ペトロはヨハネをどう見ているのか。また、ヨハネのことを気にするペトロに対して、復活の主イエスは何と言われたのか。今朝は、そのことに少しく思いをめぐらしてみたい。そして、わたしたちの生き方や友人との関係に、そして教会の在り方に、復活の主の戒めと励ましを得たいと思うのです。

〈ヨハネを気にするペトロ〉 さて、復活の主イエスは、この21章の15節以下の所で、ペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われました。その上で、「わたしに従いなさい」と、ペトロを再度お招きになりました。主イエスは言葉を加えて、「あなたは、その務めのゆえに苦労をすることになる、殉教することにもなる。でも、わたしに従いなさい」とペトロに言われたのでした。18節、19節のところに書かれています。
 イエスを知らないと言って自分の身を守ったペトロでしたが、「今度こそは最後まで主に従います」と心に期するものがあったでしょう。
 そのときです。ふとペトロが振り向くと、「主の愛された弟子」のついてくるのが目に入りました。20節と21節のところです。20節、21節にこうあります。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのは誰ですか』と言った人である。ペトロは彼を見て、『主よ、この人はどうなるのでしょうか』と言った。」
 ペトロは「主の愛された弟子」であるヨハネの姿を目にして、思わず、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と訊ねたのです。このときのペトロの思いはどんなであったのでしょう。一緒に競うようにして励んできたヨハネはどうなるのか。自分は今、務めを与えられ、苦労をする、そして殉教の死に至ると言われている。では、仲間のヨハネはどうなのか。そういう思いですね。
 よき仲間であり、よき友であり、そしてよきライバルでもあるヨハネのことを気にしている。競争相手というか、対抗心のような思いもあったのかもしれせん。
 あのペトロが競争意識を抱いて、それを口にするというのは奇異に思えるかもしれません。しかし聖書は、人間は皆そういうものだということを、そして教会の指導者といえども例外ではあり得ないということを、よく知っているのだと思います。事実、このヨハネによる福音書は、ペトロと主の愛された弟子ヨハネを、よきライバルのように描いています。
 一カ所開いて見てください。少し前の20章1節以下です。イースターの朝、ペトロとヨハネが、主イエスの墓に向かって走っていく様子が記されています。3節、4節にこうあります。「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた」。ヨハネのほうが先に墓に着いた、とあります。しかし、主イエスの墓のなかに入ったのはペトロが先であります。8節のところを読むと、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」。抜きつ抜かれつ、のように書かれています。
 もう一カ所見てみると、21章7節の所ですが、21章の7節にこうあります。「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。」 岸辺に立つ復活の主イエスに最初に気付いたのは、主の愛する弟子ヨハネですね。しかし行動するのはペトロのほうが早い。そういう様子が書いてあります。
 このようにペトロとヨハネは、よきライバルでした。競い合うようにして励んできた二人であります。だれがいちばん偉いか、と言い合ったこともあります(マルコ福音書9章34節)。ヨハネとその兄弟ヤコブが、主イエスに「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」と秘かに願い出たこともあります。その2人の事を耳にしたペトロたちが腹を立てた、とも福音書は記しています。弟子たちには、そういう「誰が一番偉いか」という競い合うような思いがあったのですね。
 特にペトロとヨハネは、ライバルであったのではないでしょうか。この2人は、ヨハネの兄弟であるヤコブも含めて3人ですが、山上の変貌の出来事やゲツセマネの園での祈りの時など、大事な場面で、主イエスに伴われた弟子たちであります。ペトロとヨハネは、弟子たちの中で中心的な存在であったのです。そういう背景もあるのでしょう。ペトロは後ろにいたヨハネを目にして、思わず、「主よ、この人はどうなのでしょうか」と問うたのだと思います。
 ヨハネは、その後エペソの教会の牧師として百歳近くまで生きて、長寿を全うした、と言われます。ペトロはそのことを知るよしもありませんが、自分は苦労して、若くして殉教の死を遂げる、と主は言われる。そのことを光栄に思いつつも、では、ライバルのヨハネはどうなのでしょう、と問うた。この問いには、もちろん友情の思いも含まれているのでしょう。同時に、ライバルであるヨハネはどうなのか、競争相手のヨハネはどう用いられるのか、という対抗心のような思いもあったのではないでしょうか。このペトロの問いを、どうお思いになるでしょう。

わたしたちも、競争の社会に暮らしています。子どものときから、おそらく、その生涯を終える日まで人と競い、人と比較するような思いで暮らすのだと思います。友人であり、競争相手でもある。そういう人の交わりのなかで、支え合い、励まし合い、競い合う。支え合うだけではなくて、競い合うなかで生活に張りがあり、充実感があったりもする、そういうものですね。
 わたしの場合、知り合いの多くは教会の友人たちであり、そして牧師たちであります。牧師たちは、支え合い、励まし合う仲間であり、友人であります。同時に競い合うような関係でもあります。主に仕える、教会に仕えるという点において、競い合うのは大事なことだと思います。主に仕えるという一点において努力をするし、鍛え合う、競い合う。ペトロとヨハネは、そのように競い合ってきたのでしょう。その一点を大事にしないと、わたしたちは弱い者であります。ひがんだり、仲間をうらやんだりして、心穏やかでなくなりますね。

〈主イエス、ペトロを叱り励ます〉 ペトロはヨハネの姿を目にして、思わず、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と訊ねた。このペトロの問いに対して、主イエスはどうお答えになったでしょう。21章の22節であります。22節にこうあります。「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」
 わかりやすく言うと、こういうことです。「ヨハネは長命であるかもしれない。反対にあなたは、若くして殉教するだろう。でも、あなたは、あなたではないか。ペトロよ、あなたは、わたしに従ってきなさい。」 そういう意味だと思います。すぐ前の19節でも、「ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた」とあります。この22節でも、ほとんど同じ言葉で「わたしに従いなさい」と言われました。しかし、この所22節では、「あなたは、わたしに従いなさい」と「あなた」が強調されています。聖書の原文(写本)でも「あなたは」を強調する形で書かれています。ですから、あえて訳すと、「あなたは、あなたとして、わたしに従いなさい」となります。「あなたは、あなたなりに、わたしに従いなさい」。そういう語りかけであります。
 ヨハネは長い人生を生き、教会によく仕え、人々の敬愛を集めるかもしれない。しかしペトロよ、あなたは、あなたではないか。あなたなりに、わたしに従いなさい−そのように復活の主イエスは、ペトロを励ましているのであります。
 主イエスは、ペトロの問いのなかに、彼の対抗心のような思いを読み取られたのでしょうか。そのペトロを叱るようにして、「ペトロよ、あなたは、あなたではないか。あなたなりに、わたしに従いなさい」と言われた。これは、主イエスのペトロに対する温かいお言葉ではないでしょうか。

競い合うことは人の成長を促すし、励みになります。けれど下手をすると、勝ち負けにこだわり、相手のことばかり気になります。ねたみの心に負けてしまうこともある。そういう弱さや愚かさを、だれも抱えていますね。
 信仰の先達のカルヴァンは、このカ所についてこう記しています。「わたしたちは、他人のことを気にかけるあまり、自分の務めをおろそかにする。それは、わたしたちには、ほとんど生まれつきのものである。自分の生き方を考えるより、他人のことを詮議立てしようとする」。カルヴァンらしい、するどい指摘ですね。
 どうでしょうか。復活の主イエスはわたしたちに対しても、「あなたは、あなたではないか。あなたなりに、わたしに従いなさい」と語りかけてくださるのではないでしょうか。
 今、他人のことが気になって、心落ち着かない方がおられるでしょうか。他人が、自分より上手に人生を生きているように見える。自分よりも何かにつけて恵まれているように思える。そういうことがあるでしょうか。他人が、自分より信仰的にしっかりしているように見える。自分はダメではないか、キリスト者として、失格ではないか、と時に思ってしまう。そういうことがあるでしょうか。
 そういうわたしたち一人一人に対しても、復活の主は、「あなたは、あなたなりにわたしに従いなさい。与えられた命を大切にしなさい。あなたなりに主を愛する思いで生きているではないか、それでよいではないか」と、叱るように、温かく励ましてくださるのではないでしょうか。

友情は大事であります。支え合います。時に競い合うようにして励みます。しかし、時に、ねたみのような思いが頭をもたげることもある。対抗心のような思いに悩むこともあります。教会の交わりはどうでしょうか。
 わたくし事ですけれど、わたしは青森の伝道所にいたとき、何度か函館の遺愛という学校に、遺愛女子高校の礼拝に招かれました。その折に、親しくしている遺愛高校の教師が、わたしに「どうして青森の伝道所に来たのですか」と聞きました。わたしは、「あなたのお父さんのまねをしたのですよ」と答えました。彼の父親は福島恒雄という牧師です。数年先輩ですが、親しい友人です。札幌や旭川で牧師をしましたが、60歳を過ぎて、日本海に面した留萌という町で開拓伝道を始めました。北海道の留萌という町はおわかりでしょうか。彼は、最後の働きとして、風雪の厳しい留萌での開拓伝道を志したのです。その彼の生き方に倣って、真似をするようにして、わたしも60代になって、青森の雪深い里にある伝道所に赴任したのでした。
 わたしは、牧師を迎え難い小規模の教会に仕えることを、ささやかな志として、長年暖めて来ました。60歳になり、年金を受給できる年齢になって、時がきたと思いました。先輩である友人が、最後の働きとして、北海道の留萌での開拓伝道を始めた。その姿からも、わたしは背中を押されるような思いになったのです。
 わたしは青森市の郊外、八甲田山の麓にある青森戸山伝道所を紹介されました。その時に、テレビで、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』という作品を元にした映画を観たのです。八甲田山の雪中行軍で大勢の兵士が遭難してなくなったという史実に基づく作品ですね。その「八甲田山死の彷徨」という映画には、これから赴任する伝道所のすぐ近くの地名も登場するのです。このような雪深い所なのか、と吹雪の凄まじさに怖気づく思いでした。しかし、わたしは思い切って、心定めて、青森の伝道所に旅立ちました。友人から背を押されるようにして、わたしなりの道を選んで、よかったと思っています。
 相手から刺激を受けて、競うように、相手に真似るようにして励んでみる。そういうことがあるのだと思います。友情には、そういう一面もあるのではないでしょうか。友人から影響を受けて、刺激を与えられて、励んでみる。競い合うようにして励んでみる。そういうことがありますね。
 しかし他方友情には、ねたみのような思いが頭をもたげることもあります。相手の成功がねたましく思える。自分の生き方が愚かに思えてしまう。あるいは、反対に、自分の成功に知らず知らずのうちに思い上がって、相手に優越感をもったりもする。そういうマイナスの一面に陥ってしまうこともあります。わたしたちは、生来そういう弱さ、愚かさも抱えているのだと思います。みなさんの友情はどうでしょうか。
 主イエスは、相手のことが気になる者に、「あなたは、あなたでよいではないか。あなたなりに、わたしに従いなさい。あなたなりに、与えられた命を大事に用いなさい」と叱るように励ましてくださる。今朝は、この復活の主の温かい語りかけを聞きたいのであります。

〈結び〉 最初にお話しした河合隼雄の『大人の友情』という本のなかに、こんな一節があります。「自立している人は、適切な依存ができて、そのことをよく認識している。アメリカの心理学では、以前は、依存と自立を対立的にとらえ、依存が少ないほど自立していると考える傾向があった。が、今では、自立している人は、適切な依存ができて、そのことをよく認識している人である、と考えるようになっている。」 そんな一節があります。自立と依存は対立的ではなくて、自立している者こそが、適切に依存し、支え合うことができるーそう言う内容です。
 「あなたは、あなたなりに、わたしに従いなさい。」 この復活の主の言葉は、わたしたちの自立を促しています。主の招きに信頼して、自分なりに立ってみる。自立ですね。そうして初めて、人の支えを受けることができる。人の援けを感謝して受け取ることができる。協力し合い、祈り合うことができる。よい依存の関係が生まれる。主に信頼し自立するときに、よい依存の関係が生まれるのだと思うのです。
 主の前に、自分なりに立つわたし。そして、主の前に、支え合って立つわたしたち。わたしたちはそういう者ではないでしょうか。教会はそういう共同体ですね。自分なりに立ちます。同時に、わたしたちは主の前に支え合って立つのですね。そういう意味でも、「あなたは、あなたとして、わたしに従いなさい」という復活の主イエスの温かい語りかけを、今朝共に受けたい。そう思うのであります。
 そのように主に受容されて一人立つ。一人立つ者として支え合う。また、一人立てるように、互いに支え合う。教会はそういう交わりですね。そういう主にある「大人の友情」を大切にしようではありませんか。支え合いながら、一人一人がしっかり立つ。一人一人が活かされる。そういう教会でありたい、と思うのであります。

人は何者なのか」 11月第3主日礼拝 2011年11月20日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第4章11〜12節
4章<11節>兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。<12節>律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

11節、ヤコブはキリスト者たちに向かって「兄弟たち」と思いを新たに呼びかけ、そして「悪口を言い合ってはなりません」と勧めます。主イエスを信じる者同志として「悪口を言い合ってはならない」と言われております。

この言葉から思い出される主イエスの御言葉があります。いわゆる山上の説教の中で、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイによる福音書第5章21・22節)と、厳しく言われました。「殺すな」とは十戒(神の戒め)の第5戒です。「命」は創造主なる神からのものですから、人が扱うべきものではありません。ですから、自分の思いで人の命を奪うことは間違っているのです。神にあってこそ命の尊厳があります。創造主なる神を畏れるとき、「命」は尊いのです。このことは分ります。
 しかし、主イエスはこれに止まらず、更に「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。「ばか、愚か者と言う」ことは「殺す」ことに通じていると、主は言っておられるのです。「ばか、愚か者と言う」「殺す」、これらに共通することは何か。それは、相手の存在を否定しているということです。聖書の世界では「愚か者」とは、偶像礼拝する者のことを言います。「偶像礼拝」それは「神を神としない、神ならぬものを神とする」ということですから、偶像礼拝する者は神の裁きの対象となるのです。ですから、神が主イエス・キリストの十字架をもってまでして罪を赦し贖い取ってくださった者である兄弟たちを「愚か者」呼ばわりすることは、相手の存在を否定することに他なりません。主イエスはこの厳しい言葉によって「存在を尊ぶ」ことを教えてくださっているのです。

11節のヤコブの言葉は、主イエスの山上の説教での言葉ほど厳しいものではありませんが、ここに示されていることは「自分を神とする愚かさ」ということです。「悪口を言い合ってはなりません」、ということは「言い合っている」ということです。互いに互いを裁き、裁かれているのです。しかしここでヤコブは「裁くことの驕り」を示しております。「他者を裁く」ということは、単に存在を否定するということではなく、「自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります」と言っております。つまり、律法の悪口を言って、律法を否定し、自分が律法以上の者になろうとしている、とまで言うのです。どうでしょうか。まさか、そんなことまでは思っていないのではないでしょうか。キリスト者であれば、あくまでも自分は律法に従う者であると思っていることでしょう。しかし、律法に従うべき者であるにも拘らず、もし人を裁くなら、それは自分が律法に優り、律法を否定する者となってしまっていると、ヤコブは言っております。キリスト者は律法に従うべき者なのに、悪口を言い、人を裁くことで、律法をも裁く者となっている、それは自分の本分を超えた驕りだということです。

11節の短いセンテンスの中で、目を引く言葉があります。それは「兄弟」という言葉で、3回も使われております。「兄弟」ということが強調されているのです。それは「兄弟」は、つまり「神にある家族である」ことを印象づけるのです。「神にある家族」とは、血のつながりではなく「絆で結ばれている者同志」です。友達や仲間、ということとも違います。「兄弟姉妹」は「家族」なのです。「兄弟」と繰り返すことによって、互いに「神の家族」であることを思い起こさせているのです。
 キリスト者は、主イエス・キリストの尊い血潮によって贖い取られた「兄弟姉妹」です。畏れ多くも、神の御子の血をもってまでして贖われ「神のもの」とされた「神の家族」なのです。「主イエス・キリストの血によって結ばれた家族」なのです。人の罪なる血によってではなく、清き神の血によって結ばれた「清き神の家族」なのです。だから「裁いてはならない」と言われております。
 私どもが「神の家族であることの大切さ」を思うならば、他者を裁くことはないでしょう。共々に、主の十字架の血をもって贖い取られた者同志であることを思うことがなければ、人は自分の思いによって他者を裁くのです。

悪口を言うことに対して、神が厳しく臨まれたことが記される旧約聖書の箇所があります。それは列王記下第2章23・24節です。「エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、『はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け』と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた」。小さい子供と言えども、神の預言者に「はげ頭」と悪口を言い敬意を払わないならば、それは神への冒涜のゆえに呪われ、裁かれるのです。
 このことは、今日のヤコブの言葉と繋がります。主イエス・キリストの血によって贖われた者同志として兄弟である、神の恵みによって神が兄弟としてくださった者に悪口を言い、裁くことは、神を冒涜することになるのです。「兄弟に敬意を払う」ということ、それは「神を敬う」ことです。そのことが、列王記下、ヤコブの手紙の言葉に示されていることです。

反対に、「兄弟」として相応しいあり方とはどのようなものか、聖書に語られております。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(2章7節)」、だから「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(2章3・4節)」と勧めております。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」られるならば良いのです。それがキリスト者の麗しいあり方です。共に主によって贖われた者同志として、共々に主を崇め、礼拝し、賛美する。キリストの前に自らを低くする者として神に仕え、共々に相手を自分より尊い者とする。そのような関係、交わりは、そこで「神を現す麗しい交わり」なのです。
 互いに敬い合うことは美しく、そこでは、恵み豊かな共同体が形作られるのです。反対に、悪口を言い合うことは、共同体を破壊することに他なりません。それがここに示されていることです。

「共々に、互いに敬い合う」、その際に、私どもは、人の在り方を見てはなりません。人の在り方によっては、敬い合うことは難しいのです。その人の在り方を見るのではなく、その人も自分も共々に「主イエス・キリストに贖い出された者である」ということを見出すことです。それが大事なことです。

更にヤコブは語ります。12節「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけ」つまり「神のみ」ということです。裁きは、ただ唯一の「神」にお委ねすれば良いのです。
 人は、裁き始めると、どんどん許せなくなってしまいます。つまり、裁く者自らが裁きから逃れられなくなるのです。裁かれている者よりも、裁いている自分の方が嫌になるのです。それはなぜでしょうか。人の裁きは、許しに繋がらないからです。赦すことができる方だけが、裁くことができるのだということを忘れてはなりません。

「律法」とは、神の民として相応しく生きるためにはどうしたら良いかを教えるために、神より与えられた戒めです。ですから「律法」は、しなければならないという強制ではないのです。どういうふうに生きれば良いのか、教えてくださっているのですから、それは恵みなのです。従って「律法を守る」ことは「神の御心に生きること」だと覚えるべきです。

そして「いったい、あなたは何者なのか」と問われております。「神に代わって、他者を裁くとは!」と言われているのです。
 私どもが答えるべきことは何でしょうか。「私どもは罪に過ぎない者です」と言い表すことです。私どもが「罪に過ぎない者です」と言い表すとき、そこに、主の御言葉が与えられております。「あなたの罪は赦された」と、主は言ってくださっております。

私どもの罪の告白に対して、主イエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と言ってくださる。それは、ただただ恩寵により、私どもに与えられた恵みであることを感謝をもって覚えたいと思います。

主の御心であれば」 11月第4主日礼拝 2011年11月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第4章13〜17節
4章<13節>よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、<14節>あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。<15節>むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。<16節>ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。<17節>人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。

13節に「よく聞きなさい」と言われております。この言葉は、これまでの勧めの言葉とは違って、「さあ、今、聞きなさい」という感じの強い調子の言葉が使われており、その上でヤコブは「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです」と言うのです。
 ここに示されていることは何でしょうか。商売をして金もうけをすることが悪いと言っているのではありません。商売人をたとえにして、「明日のことは分からない」という時間の問題、自分の思い・計画で全てが進むと考えていることを問題にしているのです。自分の思いや行いで成果をあげられると思う、その弁えの無さをヤコブは言っております。明日のことなど分らない身でありながら、次の日も次の週も一年後も自分は大丈夫だと思っている、それは商売人に限ったことではなく、私どもにも示されていることです。私どもは、明日は大丈夫だと勝手に思っておりますが、天災があり、人災もある。思いもよらない交通事故もあれば、逆に自分のしたいこと(例えば山で遭難するとか)によって事故に遭うこともある。そのように危うい自分であることを弁えないで、大丈夫だと思っていることの問題が言われているのです。
 主イエスのたとえ話を思い起こします。ルカによる福音書第12章15節で、主イエスは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われました。「金持ちが倉の中に一生食べて暮らせるだけの財産をしまっておいても、死んでしまえばその財産も他人のものになる」と、人生を自らを楽しませるもののように思って全てを揃えて満足する金持ちにたとえて、主は「人の思いの愚かさと神の前に豊かになることの大切さ」を示されました。
 「命は神のもの」です。ですから、ここで言われていることは、人の人生を決めることができるのは、人ではなく、神であるということです。「自分の人生の中心は神である」ことが示されているのです。自分の命のことも分らないのに大丈夫と思う「人の愚かさ」が示されているのです。

14節に「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」と言われます。「霧にすぎない」それは「あなたがたは、虚しいにすぎない」ということです。このことは上手に聴かなければなりません。ともすると「人生のはかなさ」と捕らえて、無常観、滅びに徹し悟りに至るという美意識を根底に持つ日本人の宗教観にすり替わってしまうからです。それは、虚しさを受容し運命と思って諦めて生きるというあり方です。
 しかしここに示されていることは、そういうことではありません。確かに人には明日は分らない、天災、事故、戦争、自分のしたいことによっても命を落とすことがある。つまり、いつでも「死と向き合っている」ということです。そういう存在として「命をつかさどっておられる『神』にこそ信頼して生きよ」と言われているのです。神に委ねるならば、人生を虚しくしないですむのです。もし、神無しで人生を終わるならば、その人の人生は虚しいでしょう。しかし、神を信じる者は「永遠の命」という神の約束、保証を頂いているのですから、その人生は虚しくならないのです。
 主イエス・キリストは十字架において人の死を死んでくださって、私どもの死を共にしてくださいました。そして、その主は、三日目に復活された「甦りの主イエス・キリスト」です。主を信じる者は、甦りの主と共に甦る、地上の死で終わらない「永遠の命の約束」を頂いているのです。
 人生が虚しいと思うのは、その人生が完成を見ないで終わるからです。人には限界があります。人は、死の支配にあるからです。モラトリアムという言葉がよく使われますが、人の人生は死ぬまでの猶予期間であるという考え方です。地上では、死で終わるという限界があるのです。しかし、キリスト者の歩みは違います。永遠の命の約束によって、死で終わらない「神によって完成を見る人生を生きる」のです。
 無常観に生きること、虚しさに徹して生きることは大変なことです。死で終わる人生を死に向かって潔く生きるなど、なかなかできることではありません。
 しかし、神を信じる者は、じたばたしても良いのです。その人生は、自分で完成することはできませんけれども、神が完成してくださる人生なのです。もしかしたら明日、命を取られるかも知れません。しかし、だからこそ「命なる神に信頼して生きよ」と勧められております。

ある意味で、人生の虚しさを覚えることは、大事なことだとも思います。自らの人生の虚しさを思う、それが神へと至る道であるとすれば幸いなのです。しかし、神へと向かわないならば、虚しく生きるしかありません。「信じるところに救いがある」のです。信じなければ、虚しさに徹する他ありません。ただ「信じる」ところに「救いを見る、慰めがある」のです。
 3.11の出来事を思います。多くの方が亡くなり、今もまだ行方不明の方がある。この出来事に、地上のどんな慰めを語ったとしても、なす術はありません。けれども、神が今、その方々と共にあり、主がその方々を救ってくださっていることを私どもキリスト者は信じるのです。絶望の淵に、十字架と復活の主イエス・キリストが立っておられることを、私どもキリスト者は信じることができるのです。十字架と復活の主を信じる者にとっては、人々の死は虚しいものではなく、そこに救いを見出すことができるのです。死に対して私どもは何もできない。ただ十字架と復活の主イエス・キリストを信じる以外に救いはないのです。
 私どもは虚しい存在です。けれども、だからこそ、虚しい者を救ってくださる主を信じることで救いを見ることができるのだということを覚えたいと思います。「信じるところに救いがある」のです。突然の死を迎えざるを得ない者であるからこそ、私どもは、何よりも神の救いを必要としていることを覚えたいと思います。

15節「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」と、ヤコブは言います。人は自分の思いで生きるのではなく「命なる神の、救い主なる主イエス・キリストの御心によって生きる者である」ということです。主に生かされている者として「主の御心に生きよ」ということです。主に生かされている者として「あれもこれもしよう」と思うべきです。そうでなければ、自分の思いであれこれしようと思うのです。それは自己中心な罪なる思いです。なぜならば、それは究極には全て自分のためだからです。人のためと言いながらも自分のためであり、そのために人を踏み台にさえしてしまうのです。そういう人生は、どこかでほころび、破れ、他者からの反発を生むのです。「あなたのために」という言葉は、人間関係が近いほど使う言葉です。「わたしが」と思うから、そうなるのです。神に向かうことが無ければ、そうなってしまうのです。
 しかし、神の恵みによって生かされていると思うならば、あのことこのことの目的は、自分のためではなく「神の御心を現すために」ということになるのです。

「神抜き」ということは、必然的に「自分が」となる、深い罪の問題であることを忘れはなりません。「わたしが」ということが「罪」なのです。それは「自己中心」であり、神から遠いのです。神に信頼しないで自分が中心になる、罪とはそういうことです。「神の御心ならば、赦されて生きよう」、それが本来の人の生き方であることを覚えたいと思います。

16節「ところが、実際は、誇り高ぶっています」。「神抜き」ならば「わたしが」となる。自己中心は罪、それは「高ぶり」です。

17節、そして最後に「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」と言っております。人には「なすべき善がある」ということであり、それは、自己中心に生きるのではなく、「神の栄光を現して生きる」ということです。それは「神を神として崇める」ということです。神に生かされている者として、神によって人生の完成を約束されている者として、神を神として生きるということです。
 万物は、神によって創造されました。私どもは神に創られた者、それ故に、神の御心を生きる存在とされたのです。にも拘らず、人は神から離れて罪に堕ちました。その罪なる者のために、神は御子イエス・キリストを地に遣わし、十字架につけて罪を贖い、私どもの罪を赦して、神の子としてくださいました。
 十字架の贖いによって新しく神の子とされた者として「神への礼拝に生きる」こと、神との語らい、すなわち「祈りの生活をする」こと、神の御心を常に確かにするために「聖書に聴く、説教に聴く、主にある交わりに聴く」こと、それが「人のなすべき善」なのです。その「なすべき善」を知りながら行わないならば、それは「罪」であると言われております。

また、万物の造り主なる神は、人に対して「地を治めよ」と言われました。造り主なる神を礼拝することと、更に「地を治める」、このことが「神の御心」として言われていることです。「治める」とは、自由に支配するということではありません。神の創造としての地を「神の栄光を現すものとして常に整えよ」ということです。どのような出来事に対しても、創造の神の麗しい秩序を第一として受け止め整えるということです。「神の御心を生きる」ということは、このことをも含んでいることを覚えたいと思います。「万物を神の栄光の場とする」その業を担っていくこと、それが人のなす善に含まれているのです。
 ですから、人は自然に対して感情的に思うのではなく、神の栄光を思いながら、なすべきことを知るべきです。

今、私どもは、自らの生き方をもって神を現す者として、この地上を生きております。そして、万物を麗しい神の秩序に整えていくことに関わりつつ、この地上を生きているのだということを深く受け止めたいと思います。