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5節に「聖書に記された言葉」として引用されている「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」という言葉は、当時の聖書を意味する旧約聖書の中には見当たりません。なぜ、使徒ヤコブはこの言葉を聖書の言葉と言っているのでしょうか。 ところで「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる」、この言葉は難解です。「神が住まわせた霊」とは「聖霊」でしょう。その聖霊をねたむほどに深く愛するとは、よく分らないことです。 「わたしたちの内に住まわせた霊」という訳で考えてみましても、神が聖霊を注いでくださった、にも拘らず神以外のものに支配されてしまう、そういう者のために、神がねたみ嘆いてくださっているということに変わりはありません。 続けて6節「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」とは、旧約聖書、箴言の言葉からの引用です。 7節「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」と記されております。悪魔と共に生きているつもりは無いにしても、悪魔とは、私どもを常に誘惑している存在です。私どもが神共なる生活をし、神に祈り、すがる者であるならば、神以外のものに誘惑されることはなく、従って、悪魔は「逃げて行く」退散するほかないのです。ですから、何か私どもが修行をして悪魔を追い払うということではありません。私どもは、神と共に生きるところで、戦わずして悪魔に勝つのです。神の臨在、神の支配に、悪魔は耐えられないからです。 8節「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。私どもが祈るとき、私どもは神との交わりのうちにあるのであって、それが「近づく」ということです。 これらの言葉を通して知ることがあります。それは「罪の自覚があるところに救いがある」ということです。人は心定まらず、迷う。しかし「神しかない」ことを覚えるべきであります。 9節「悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」と勧められております。自分の罪を知るということは、悲しいこと、憂いあることです。しかし、その人は幸いです。自らの罪を知ることによって、神の救いの出来事を知るからです。 ここに示されていることは「悔い改め」です。神へと心を向けることです。神へと心を向ける、それは礼拝に、祈りに生きることです。そしてそれが謙遜な生活であり、恵みを数え、恵みに溢れる生活なのです。 神が私どもに、主イエス・キリストをくださいました。主の十字架と復活によって、罪の赦し(救い)と永遠の命の約束をお与えくださいました。そのことを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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序 河合隼雄という心理学者がいました。文化庁長官をされた方です。数年前になくなりましたが、『大人の友情』という本があります。朝日新聞社から出ています。その「大人の友情」という本のなかで河合隼雄氏が、こういうことを言っています。「わたしたちは、友人や仲間の悩みや悲しみに同情する。しかし、友人の成功や喜びには、ときにねたみのような思いを抑えられない」と。 仲間の悩みには同情するが、成功や幸せは、なかなか素直に喜べないときがある、というのです。どうでしょう。その心理はわかりますね。牧師仲間でもそうであります。仲がよいようで、競い合う一面もありますから、ときに対抗心のような思いに悩むこともあるのです。 今朝与えられている聖書は、ヨハネ福音書21章の20節以下の所です。ペトロと「イエスが愛された弟子」が登場します。このペトロと「主の愛しておられた弟子」との関係はどうなのでしょう。同じ弟子として仲間なのですが、親友だったのでしょうか。競争相手であったのでしょうか。 〈ヨハネを気にするペトロ〉 さて、復活の主イエスは、この21章の15節以下の所で、ペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われました。その上で、「わたしに従いなさい」と、ペトロを再度お招きになりました。主イエスは言葉を加えて、「あなたは、その務めのゆえに苦労をすることになる、殉教することにもなる。でも、わたしに従いなさい」とペトロに言われたのでした。18節、19節のところに書かれています。 わたしたちも、競争の社会に暮らしています。子どものときから、おそらく、その生涯を終える日まで人と競い、人と比較するような思いで暮らすのだと思います。友人であり、競争相手でもある。そういう人の交わりのなかで、支え合い、励まし合い、競い合う。支え合うだけではなくて、競い合うなかで生活に張りがあり、充実感があったりもする、そういうものですね。 〈主イエス、ペトロを叱り励ます〉 ペトロはヨハネの姿を目にして、思わず、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と訊ねた。このペトロの問いに対して、主イエスはどうお答えになったでしょう。21章の22節であります。22節にこうあります。「イエスは言われた。『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。』」 競い合うことは人の成長を促すし、励みになります。けれど下手をすると、勝ち負けにこだわり、相手のことばかり気になります。ねたみの心に負けてしまうこともある。そういう弱さや愚かさを、だれも抱えていますね。 友情は大事であります。支え合います。時に競い合うようにして励みます。しかし、時に、ねたみのような思いが頭をもたげることもある。対抗心のような思いに悩むこともあります。教会の交わりはどうでしょうか。 〈結び〉 最初にお話しした河合隼雄の『大人の友情』という本のなかに、こんな一節があります。「自立している人は、適切な依存ができて、そのことをよく認識している。アメリカの心理学では、以前は、依存と自立を対立的にとらえ、依存が少ないほど自立していると考える傾向があった。が、今では、自立している人は、適切な依存ができて、そのことをよく認識している人である、と考えるようになっている。」 そんな一節があります。自立と依存は対立的ではなくて、自立している者こそが、適切に依存し、支え合うことができるーそう言う内容です。 |
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11節、ヤコブはキリスト者たちに向かって「兄弟たち」と思いを新たに呼びかけ、そして「悪口を言い合ってはなりません」と勧めます。主イエスを信じる者同志として「悪口を言い合ってはならない」と言われております。 この言葉から思い出される主イエスの御言葉があります。いわゆる山上の説教の中で、主イエスは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイによる福音書第5章21・22節)と、厳しく言われました。「殺すな」とは十戒(神の戒め)の第5戒です。「命」は創造主なる神からのものですから、人が扱うべきものではありません。ですから、自分の思いで人の命を奪うことは間違っているのです。神にあってこそ命の尊厳があります。創造主なる神を畏れるとき、「命」は尊いのです。このことは分ります。 11節のヤコブの言葉は、主イエスの山上の説教での言葉ほど厳しいものではありませんが、ここに示されていることは「自分を神とする愚かさ」ということです。「悪口を言い合ってはなりません」、ということは「言い合っている」ということです。互いに互いを裁き、裁かれているのです。しかしここでヤコブは「裁くことの驕り」を示しております。「他者を裁く」ということは、単に存在を否定するということではなく、「自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります」と言っております。つまり、律法の悪口を言って、律法を否定し、自分が律法以上の者になろうとしている、とまで言うのです。どうでしょうか。まさか、そんなことまでは思っていないのではないでしょうか。キリスト者であれば、あくまでも自分は律法に従う者であると思っていることでしょう。しかし、律法に従うべき者であるにも拘らず、もし人を裁くなら、それは自分が律法に優り、律法を否定する者となってしまっていると、ヤコブは言っております。キリスト者は律法に従うべき者なのに、悪口を言い、人を裁くことで、律法をも裁く者となっている、それは自分の本分を超えた驕りだということです。 11節の短いセンテンスの中で、目を引く言葉があります。それは「兄弟」という言葉で、3回も使われております。「兄弟」ということが強調されているのです。それは「兄弟」は、つまり「神にある家族である」ことを印象づけるのです。「神にある家族」とは、血のつながりではなく「絆で結ばれている者同志」です。友達や仲間、ということとも違います。「兄弟姉妹」は「家族」なのです。「兄弟」と繰り返すことによって、互いに「神の家族」であることを思い起こさせているのです。 悪口を言うことに対して、神が厳しく臨まれたことが記される旧約聖書の箇所があります。それは列王記下第2章23・24節です。「エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、『はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け』と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた」。小さい子供と言えども、神の預言者に「はげ頭」と悪口を言い敬意を払わないならば、それは神への冒涜のゆえに呪われ、裁かれるのです。 反対に、「兄弟」として相応しいあり方とはどのようなものか、聖書に語られております。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(2章7節)」、だから「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(2章3・4節)」と勧めております。「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」られるならば良いのです。それがキリスト者の麗しいあり方です。共に主によって贖われた者同志として、共々に主を崇め、礼拝し、賛美する。キリストの前に自らを低くする者として神に仕え、共々に相手を自分より尊い者とする。そのような関係、交わりは、そこで「神を現す麗しい交わり」なのです。 「共々に、互いに敬い合う」、その際に、私どもは、人の在り方を見てはなりません。人の在り方によっては、敬い合うことは難しいのです。その人の在り方を見るのではなく、その人も自分も共々に「主イエス・キリストに贖い出された者である」ということを見出すことです。それが大事なことです。 更にヤコブは語ります。12節「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけ」つまり「神のみ」ということです。裁きは、ただ唯一の「神」にお委ねすれば良いのです。 「律法」とは、神の民として相応しく生きるためにはどうしたら良いかを教えるために、神より与えられた戒めです。ですから「律法」は、しなければならないという強制ではないのです。どういうふうに生きれば良いのか、教えてくださっているのですから、それは恵みなのです。従って「律法を守る」ことは「神の御心に生きること」だと覚えるべきです。 そして「いったい、あなたは何者なのか」と問われております。「神に代わって、他者を裁くとは!」と言われているのです。 私どもの罪の告白に対して、主イエス・キリストが「あなたの罪は赦された」と言ってくださる。それは、ただただ恩寵により、私どもに与えられた恵みであることを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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13節に「よく聞きなさい」と言われております。この言葉は、これまでの勧めの言葉とは違って、「さあ、今、聞きなさい」という感じの強い調子の言葉が使われており、その上でヤコブは「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです」と言うのです。 14節に「あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」と言われます。「霧にすぎない」それは「あなたがたは、虚しいにすぎない」ということです。このことは上手に聴かなければなりません。ともすると「人生のはかなさ」と捕らえて、無常観、滅びに徹し悟りに至るという美意識を根底に持つ日本人の宗教観にすり替わってしまうからです。それは、虚しさを受容し運命と思って諦めて生きるというあり方です。 ある意味で、人生の虚しさを覚えることは、大事なことだとも思います。自らの人生の虚しさを思う、それが神へと至る道であるとすれば幸いなのです。しかし、神へと向かわないならば、虚しく生きるしかありません。「信じるところに救いがある」のです。信じなければ、虚しさに徹する他ありません。ただ「信じる」ところに「救いを見る、慰めがある」のです。 15節「むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」と、ヤコブは言います。人は自分の思いで生きるのではなく「命なる神の、救い主なる主イエス・キリストの御心によって生きる者である」ということです。主に生かされている者として「主の御心に生きよ」ということです。主に生かされている者として「あれもこれもしよう」と思うべきです。そうでなければ、自分の思いであれこれしようと思うのです。それは自己中心な罪なる思いです。なぜならば、それは究極には全て自分のためだからです。人のためと言いながらも自分のためであり、そのために人を踏み台にさえしてしまうのです。そういう人生は、どこかでほころび、破れ、他者からの反発を生むのです。「あなたのために」という言葉は、人間関係が近いほど使う言葉です。「わたしが」と思うから、そうなるのです。神に向かうことが無ければ、そうなってしまうのです。 「神抜き」ということは、必然的に「自分が」となる、深い罪の問題であることを忘れはなりません。「わたしが」ということが「罪」なのです。それは「自己中心」であり、神から遠いのです。神に信頼しないで自分が中心になる、罪とはそういうことです。「神の御心ならば、赦されて生きよう」、それが本来の人の生き方であることを覚えたいと思います。 16節「ところが、実際は、誇り高ぶっています」。「神抜き」ならば「わたしが」となる。自己中心は罪、それは「高ぶり」です。 17節、そして最後に「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」と言っております。人には「なすべき善がある」ということであり、それは、自己中心に生きるのではなく、「神の栄光を現して生きる」ということです。それは「神を神として崇める」ということです。神に生かされている者として、神によって人生の完成を約束されている者として、神を神として生きるということです。 また、万物の造り主なる神は、人に対して「地を治めよ」と言われました。造り主なる神を礼拝することと、更に「地を治める」、このことが「神の御心」として言われていることです。「治める」とは、自由に支配するということではありません。神の創造としての地を「神の栄光を現すものとして常に整えよ」ということです。どのような出来事に対しても、創造の神の麗しい秩序を第一として受け止め整えるということです。「神の御心を生きる」ということは、このことをも含んでいることを覚えたいと思います。「万物を神の栄光の場とする」その業を担っていくこと、それが人のなす善に含まれているのです。 今、私どもは、自らの生き方をもって神を現す者として、この地上を生きております。そして、万物を麗しい神の秩序に整えていくことに関わりつつ、この地上を生きているのだということを深く受け止めたいと思います。 |
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