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3節、4節では「馬」「船」を喩えに出して語っております。 しかしここで、舌は、くつわや舵とは違っています。くつわや舵は制御して良い方向に向けることができるものとして語られておりますが、舌は良いものとはされておりません。5節「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」と言われております。舌は人にとって大きな働きをするものだと言いながら、良いものとは言わない。後を読むと分りますが、人は動物を制御することはできても、8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません」と言うのです。 しかしそれはともかく、まずは「舌は大言壮語する」と言われております。「大言壮語する」とは、どのようなイメージでしょうか。「大口をたたく」というような感じでしょうか。しかしここは必ずしもそういう内容の言葉が使われているわけではありません。根底にあることは「自慢する、威張る」ということで、「大いに自慢し、大いに威張る」というのが直訳なのです。 今日の社会は特にそうです。どうしてでしょうか。それは、神を信じることができないからです。神を信じなければどうなるかと言うと、人は自分が神になる、自分が絶対者になるのです。そこでは自分が基準ですから、自分の物差しで他者を計ったり裁いたりする、そして自分を大きくしようとするのです。 ですから、今ここにあることの恵みを覚えたいと思います。今ここで礼拝していること、それは神の前にひざまずくことです。私どもは、神の前に身を低くして集うことを許されているのです。神の前に相対化されるのです。罪人に過ぎない者であっても、十字架の主イエス・キリストに受け入れられていることを知るのです。 舌は大言壮語すると言って、「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」と、制御できないものとして、舌の災いの深さを言っております。 更に「舌は『不義の世界』です」と言われます。「不義の世界」とは何か。義を信じない世界、義のない世界、それが「不義の世界」です。それは、不公平で不正な世界です。義のない世界とは、神なき世界を意味しておりますから、先程の話と関連しているのです。神なし、義なしの不義の世界とは、私どもの時代をぴったりと言い当てている言葉です。 しかし、私どもキリスト者は、改めて「神あり」という世界の豊かさを覚えたいと思います。神は、慈しみある方、憐れみある方です。私どもを救うために、ご自身の御子まで十字架につけて、私どもの罪を贖ってくださいました。神はご自分の義を貫かれました。損をしてまでです。ご自分の損を全く気にもとめず、損を損とも思わず、私どもの救いを為してくださったのだということを覚えたいと思います。神は「罪人を救う」という、ご自身の約束に対して真実であられる、だから、どんなに損をしてもそんなことは関係ないのです。そして、それゆえに私どもの救いがあるのです。御子イエス・キリストを十字架につけるほどの損が、一体どこにあるでしょうか。罪人のために、罪なき御子が十字架に死なれるのです。損得で考えるならば、主イエス・キリストの十字架は有り得ない出来事です。 私どもは何と幸いなことでしょう。私どもは「義の世界」を生きることを許されております。神は私どもを、損得で見てはおられない。神の真実、神の約束によって見ていてくださるのです。ご自身の約束を果たすために、神が真実をもって私どもに臨んでくださる、義をもって臨んでくださる、それが「神の憐れみ」です。その憐れみに、私どもは与っているのです。 損得の神は偶像の神に過ぎません。真実なる神であるがゆえに、私どもに救いがある、それが恵みなのです。 神は義なる方、その義なる神を信じる恵みを、改めて深く、喜びをもって覚えたいと思います。 |
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7節、ヤコブは「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました」と言っております。 そのように、自然界をも制御できる力ある者であるのに、人は自分の舌を制御できない、自己コントロールできないと言われております。「自制心」は人には難しいのです。これも旧約聖書・創世記4章を背景に語られていることです。 一方で、人は自然界という他者を制御する力を与えられている。だからこそ自制しつつ生きるべきなのに、自らは自制できない。そのように、矛盾した生き方しかできないのが人間であるということが、この7節・8節に語られております。 このようにヤコブが次々と語る言葉は、私どもにはあまり馴染みがなくしっくりこないのですが、ヤコブには旧約聖書を背景にして元々身に付けている信仰の言葉があるので、このように語るのです。 では、どうしたらよいのでしょうか。「悔い改め」は、自分の思いに捕われていたら無理なことです。人に向かうのではなく、神へと向かわざるを得ないことを知らなければなりません。人は、人に心を向けることによっては自制することはできません。利害関係、情におけるぶつかり、上下関係、愛するがゆえに支配する等、このような人間模様によっては、それが良しにつけ悪しきにつけ、人は人を呪わざるを得なくなってしまうからです。この一切から解き放たれなければ、人の思いは自由になりません。人と人とが作り出す関係の中にいる限り、そこに目を注いでいる限り、自制はできないのです。 次に言われていることがまた難解です。9節「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」。いきなり、なぜ「賛美」という言葉が出て来るのかと思いますが、ここには信仰者の思いが語られているのです。「人は神を賛美するために創られた」と、聖書に言われております。ですから、ヤコブは「人とは」と言うときには「神を賛美する者」と語らざるを得ないのです。 日常に埋もれ、呪うことしかできないおぞましさを、改めて思います。だからこそ、何よりも「礼拝」が大切です。そこでこそ、真実な自分を取り戻すことができるからです。 10節「同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。同じ口から賛美と呪い、このようなことがあってはならないと言い、それがどれほどあってはならないかを、11節で、決してあるはずがない自然現象に喩えて言っております。そしてその度に「わたしの兄弟たち」と呼びかけます。「悔い改め、自制せよ、わたしの兄弟たち」と、ヤコブは語っております。 自制ある者として生きるためには、神へと集中すること、そして神の恵みを思い起こすことです。私どもは、悔い改め、自制して生きることができるのです。そしてそれは、ただ「神の恵みを思うことによって」です。 いついかなる時にも、神の憐れみが私どもに臨んでくださっております。 |
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ただいま新約聖書マタイによる福音書25章1節から13節をご一緒にお聞きしました。10節から12節をもう一度お読みします。「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」。ここに対照的な場面が描き出されています。愚かなおとめと賢いおとめ、婚宴に連なることのできたおとめとそうでないおとめ。一方は花婿と一緒ですが、もう一方は「お前たちを知らない」と言われます。一方には結婚式に招かれた人たちの喜びや感謝があります。長い間待っていて、ついに花婿と一緒に婚宴につらなります。 さて扉を隔てたすぐの所に別のおとめたちがいます。彼女たちは間際になって油を買いに行って戻って来たときには遅すぎました。戸の外に立って「御主人様、開けてください」と言いますが、「わたしはお前たちを知らない」と答えがあり、扉は閉じられたままです。何とも言えない気持ちで外に佇んでいます。 イエス様は随分厳しいたとえ話をなさいます。10人全員が花婿の到着を待っていましたし、迎えにも出ています。みんな眠ってしまったとも言われています。何とかならなかったのでしょうか。けれどもなぜイエス様がこの話をなさったのか考えてみますと、そこには恵みのメッセージがこめられていると気づきます。13節に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」とあります。つまり扉はまだ閉められておらず、私たちには入る余地があるのだということです。だからこそあなたがたは目を覚ましていなさいと勧められています。「目を覚ます」という言葉には、油断せず注意しているという意味があります。油断せず注意していなさい。そうして天の国へと招かれ、そこで喜び祝う者になりなさいという希望のメッセージを受け取りたいと思います。 私たちはみんな「待つ」者ではないでしょうか。小さい人たちも楽しい日が来るのを待っていますし、学生たちも自由な生活を待ち望んでいます。大人も仕事がうまくいくことや家族が幸せであること、将来の平穏な生活を待ち望んでいます。世界の平和や人々が生き残っていくための希望を持つこともあります。けれどもこのたとえ話で語られているのはそうした希望とはまた別の特別な期待のようです。婚礼・結婚式が用意されています。当時の習慣として花婿は花嫁をその実家に迎えに行き、自分の家に連れてきてそれから花婿の家で婚礼が行われることになっています。その際、花嫁の家では花嫁の女友達が待っていて花婿を出迎えることになっていました。花婿が到着すると家に案内し、花嫁を伴って花婿の家、婚礼の場に向かいます。けれどもこの時は何か事情があったようです。花婿が花嫁の家にやってきておとめたちが出迎えた後、そのままその家で婚礼が行われたようです。ここには花嫁のことが直接ふれられていませんが、花嫁と一つの心になって花婿を待つおとめたちの姿から花嫁の期待や喜びを受け取ることもできます。 ここで語られるおとめたち、そして花嫁は待ち望みつつ歩む教会のことではないでしょうか。おとめたちは待つためにともし火を持っています。暗い夜、身近に光がなければ暗くて周りがよくわかりません。教会も光がなければ様々な問題や困難に満ちた時代の闇の中で、どうやって正しい方向を見いだしたらよいのかわからなくなってしまいます。キリスト者はともし火を持っている人たちです。キリストはヨハネによる福音書の中で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃいました。キリストの光で私たちの道が照らされ、それをいただいて生きていく。この話の中には教会が光をいただき、それに照らされながら歩む姿が描かれています。 さて、10人のおとめたちは花婿を迎えに出かけます。1節の後半をお読みします。「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。彼女たちは自分たちから出かけて行って来たるべき方を迎えます。これが教会の姿です。キリスト者は出かけて行く人々です。けれども無計画にあてもなく出かけるのではありません。私たちは主が来られることを知っています。私たちはこの主との出会いに向かって進んでいきます。この方とお会いするという大きな希望を持って私たちは歩みます。 さて花嫁の女友達は待っていて、花嫁も一緒にいましたが、花婿が来ません。「遅れた」と言われます。これは再臨の遅れを表しています。ほぼ2千年の間、教会は主が来られるのを待ってきましたが、まだ待つように求められています。こういう希望には果たして意味があるでしょうか。将来必ずキリストがおいでになることを教会は待っています。私たちはこの希望を失わずにいたいと思います。それと同時に再臨の先取りとして、今、もう主が来ておられるという今ここでの希望にも目をとめたいと思います。 主が今生きておられる、そのことが私たちの礼拝、説教、また私たちの間に起こる良い交わりや助け合いに力を与えます。私たち人間に力を与え、立ち上がらせるものは私たちの間にひそかに生きておられるキリストです。この望みを抱きつついつの日にか主が栄光と力をもって再臨される日を信じ、喜んで待ちたいと思います。 たとえ話の中で花婿が来るのが遅れておとめたちが眠ってしまったと言われています。目覚めながら待つのは簡単ではありません。けれどもおとめたちは眠ってしまったことを責められているわけではありません。賢いおとめたちはいざというときに備えて準備していました。花婿がきっと来ると確信をもちつつ、ともし火の油の用意をしていました。 一方で愚かなおとめたちと言われる人たちは待ちくたびれてしまったのかもしれません。花婿が到着したときに、その姿が明らかになってしまいます。6節に「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあります。ここで初めて、賢いものと愚かな者との間に違いのあるのがわかります。賢いというのは冷静で現実的、油断せず注意深いということです。賢いおとめたちは「それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた」と言われていて、他方愚かなおとめたちは「油の用意をしていなかった」と言われます。自分たちが今持っている貯えだけで十分だ、それ以上は必要ないと思っていたということかもしれません。 愚かなおとめたちはともし火の中のわずかな油で足りると思っていて、油がどんなに早くなくなるかに気づきませんでした。花婿が来るまでに、それほど長くはかからないだろうからと思ったかどうかわかりませんが、とにかくこれで足りる。これ以上は必要ないと思っていたようです。間違った安心が彼女たちにとって災いとなったことになります。愚かなおとめたちは最後の瞬間になっても賢いおとめたちから油を借りられると思っています。8節です。「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』」けれども賢いおとめたちは9節でこう答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」。私たちの分とあなたたちの分、両方に足りるとはとても考えられません。むしろ自分の分を買いに行ってきなさいということです。主との最後の出会いにおいては、一人一人が問われます。主の前に立つということはこのようにそれぞれが問われることです。おとめたちはそれぞれ自分の明かりの心配をしなければなりません。 賢いおとめたちは油がどんなに早くなくなるか知っていましたから、油の入れ物を用意していました。後から足すことができるように、補充できるようにと考えています。油がすぐになくなっても困らないためです。どんなに少しずつ使っていても必ず油はなくなっていくでしょう。夜が長く、闇が深い中です。それで彼女たちは油の壺を準備していました。 さて、ともし火の油や油を入れる壺とは一体何を表しているのでしょうか。これはキリスト者としての生活のことだと言われることがあります。心備えをしてクリスチャンとして礼拝を捧げ、祈り、聖書に親しんで生きる生活をしつつ再臨を待ちます。まるで再臨などないかのような生き方では待つことはできません。ある人はこの油の入れ物の壺は、また油は祈りのことだと言いました。私たちはこの祈りについて、いつも新たに学ぶ必要があるのではないでしょうか。再臨を待つ生活においては、祈りは欠かすことができません。聖書の約束を信じ、教会の信仰を保ち続ける私たちにとって、祈りこそが手放してはならないともし火であり、いつもそれを身近なものとしている必要があります。けれども祈りがここでの油のようになくなってしまうこともあります。その時には私たちの内面も周囲も真っ暗になってしまいます。祈る時間がないからということもありますし、忙しい生活の中で疲れてしまうこともあります。私たちの祈りが力を失ってしまうということも考えられます。 すべてに結びついている祈りは、待ちつつ歩む私たちにとって欠かすことができないものです。特別な人が祈るわけではないでしょう。祈る人こそが地に足をつけて歩める人であり、また主を待つ人でもあります。祈りによって新しい行動へと励まされていきたいと思います。教会が目覚めた賢さを持ち、「だから目を覚ましていなさい」の言葉を心にとめつつ、主の再び来られる日を期待しつつ祈って待ちたいと願います。 |
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13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」と、ヤコブは問うております。それは、知恵を誇る者があったということでしょう。「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と言うのです。知っている、分っている、しかしそれは行わなければ意味がないのであって、「立派な生き方によって示しなさい」と、生き方において「実際の行いを伴う知恵」をヤコブは求めております。 「知恵ある者」とは「神を知り、神を畏れる者」です。知恵ある者に相応しい生活とはどのようなものでしょうか。「知恵にふさわしい柔和な行い」とヤコブは語ります。「知恵」とは「主イエス・キリスト」を現します。つまり「知恵を知る」ことは「十字架と復活の主イエス・キリストを知る」こと、それは「神を畏れる者となる」ということです。 今の時代、この社会に必要なものは「赦しと希望」だと思います。他者を許さない、間違いを許さない社会、悔い改めない社会、そのことの根底にあることは「赦されていることが無い」ということです。「悔い改めて生き方を変える」ことができるのは、そこで「赦されている」ことを知る、見出すからです。そうでなければ、真実がどうであろうと自分自身を突っ走るよりなくなるのです。 「柔和」という言葉は「主イエス・キリスト」を思い起こす言葉です。聖書は主イエスを「柔和の王」と記しております。「柔和」とは、主イエス・キリストを現し「弱さ」を現す言葉です。主イエスは、どこまでも弱い者となってくださって、私どもの「弱さ」を担ってくださいました。弱さを担うこと、それは強さです。強さがなければ、人のどん底の弱さを担うことなどできません。主がそのように私どもを担ってくださるゆえに、私どもは恵みに満たされて生きることができるのです。 14節「あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません」と記されております。「ねたみ深く利己的」なのですから「してはなりません」と言われても、できないと思うでしょう。しかしヤコブは「してはなりません」と勧めます。 それに対して、17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです」と記されております。そこにあることは「憐れみの生き方」であり、隣人を愛する生き方です。「神の慈しみに生きる」ところに、本当の慰めがあり、「義の実」が与えられるのです。 神に仕える者として生きる、そこには「平和」があり、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と記されております。 「平和」ということで、考えておくべきことがあります。日本人の心情には「和をもって尊しとなす」という生き方があります。「和」と言っても、キリスト者の「和」との違いを思います。真実の「和」とは、和らぎであり、それは「神にのみある」ことを覚えたいと思います。 「低さ」において「和」があります。そして、その「低さ」の根底にあることは「神、主イエス・キリスト」です。主が自ら低くなってくださったから、神の御子でありながら、まったく低きにまで降ってくださって私どもと同じ者とまでなってくださったからこそであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」と、ヤコブは問います。「戦い」「争い」と言うと国単位の戦争などをイメージしますが、「けんか」「口論」とも訳されることを考えますと、これは、どこにでも起こる私どもにも身近な問題です。夫婦にしろ親子にしろ、個々人の口論(争い)はよくあることですが、だからこそ、私どもはその争いを乗り越えなければなりません。 争いの原因は何か。ヤコブは「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」と、それは外部に、相手に問題があるのではなく、自分自身の内にある「欲望」によると言っております。「欲望」には「楽しい」という言葉が使われており、簡単に言うと「楽をしたい」ということです。楽をして自らを安易にさせること、そこに人間関係の亀裂が生まれる、そういうことかも知れません。要するに、自分自身の問題、「あれこれ思う」から争いが起こるのです。 「平安が無い」ことの根底にあることは「欲してしまう」ことです。欲しない状態を保てないことです。欲する心が無ければ、相手に求めなくても良いのです。自己執着し、自分にこだわればこだわる程、争いになり亀裂が生まれるのです。ですから、自ら欲せずに生きられるならば良いわけですが、果たしてそんなことができるでしょうか。 2節には「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」と記されております。「殺す」とは大袈裟なことと思いますが、自分にとって益かどうか、他者を犠牲にして自分の利益を謀ろうとする思い、それが「人を殺す」という過激な表現となっているのです。「あの人さえいなければ…、あの人を利用しよう…」そのような「他者をないがしろにする思い」それが「人を殺す」ということです。 ヤコブは「得られないのは、願い求めないから」と言っております。これはキリスト者に対しての言葉ですから、そう考えますと「得られないのは、祈らないから」ということでしょうか。キリスト者であれば「祈っている」と思うことでしょう。けれども、続けて3節「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と言うのです。自分を楽させたい、自分の思いを満たしたいと、自分のこだわりの中で願っているとすれば、その願いが叶わないのは当然のことだと言うのです。そしてここでは、このような間違った祈りも、祈らないことも、一つのこととして示されております。 間違った動機の祈りは、きかれません。ですからそれは、祈っていたとしても、祈らないことと同じなのです。では、間違わない祈りとはどのようなものなのでしょうか。 では、どのようにすれば自己執着から解き放たれるのでしょうか。 宗教改革者マルティン・ルターの悩みは、主イエスの十字架は裁きだと思っていたことです。しかし、そうではない、十字架は裁きではなく「救いである」と分ったとき、そこまでしてくださった神にすがるよりないと、ルターは知ったのです。十字架に死んでくださるほどに私どもを愛して、罪を贖い、神との和解を与えてくださった主イエス・キリスト、その主に信頼することによって、私どもは「神の平安に与る」のです。 今日は最後に、神への信頼を語って止まない、美しい詩を読んで終わりたいと思います。それは詩編第23編です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。 私どもの平安とは何でしょうか。私どもの平安、それは神との和解、神との交わりにあるからこそ与えられているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 神に信頼して生きる、そこでこそ私どもは平安であり、真実の慰めを受けるのです。神への信頼に生きる人生は、美しい人生なのです。 |
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