聖書のみことば/2011.10
2011年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
賛美と呪い」 10月第1主日礼拝 2011年10月2日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第3章3〜12節
3章<3節>馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。<4節>また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。<5節>同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。<6節>舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。<7節>あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。<8節>しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。<9節>わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。<10節>同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。<11節>泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。<12節>わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

3節、4節では「馬」「船」を喩えに出して語っております。
 馬には口にはめた「くつわ」、船には小さな「舵」と、どちらもそのもの全体を操作しなくても、小さなポイントで全体を制御できることを言っております。馬のくつわや船の舵を引き合いに出して、人間にもその人その人を左右する小さなポイントがあると言っているのです。そして、それが「舌」だと言うのです。

しかしここで、舌は、くつわや舵とは違っています。くつわや舵は制御して良い方向に向けることができるものとして語られておりますが、舌は良いものとはされておりません。5節「同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです」と言われております。舌は人にとって大きな働きをするものだと言いながら、良いものとは言わない。後を読むと分りますが、人は動物を制御することはできても、8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません」と言うのです。
 制御するものの喩えから始めながら、結論は制御できないことを語っているわけで、ここは論理的な文章とは言えません。くつわや舵からの連想として舌を語っているのです。

しかしそれはともかく、まずは「舌は大言壮語する」と言われております。「大言壮語する」とは、どのようなイメージでしょうか。「大口をたたく」というような感じでしょうか。しかしここは必ずしもそういう内容の言葉が使われているわけではありません。根底にあることは「自慢する、威張る」ということで、「大いに自慢し、大いに威張る」というのが直訳なのです。
 「大口をたたく」ということであれば、わたしには関係ないと思う方も多いかもしれません。しかし「自慢する、威張る」ということ、これは誰にでもある心ではないでしょうか。人間とは「自慢する、威張る」そういう者であると言っているのです。
 自慢したり威張ったりせず「自分の身の丈を知り、自分の身の丈に生きる」、そういう生き方ができるかというと、なかなか難しいのです。なぜ難しいかと言うと、人は自分を相対化し、客観的に見ることができないからです。人は主観的動物ですから、なかなか自分を客観視できません。自分の身の丈を知ることは難しいのです。ですから自慢したり威張る、そうならざるを得ないのです。

今日の社会は特にそうです。どうしてでしょうか。それは、神を信じることができないからです。神を信じなければどうなるかと言うと、人は自分が神になる、自分が絶対者になるのです。そこでは自分が基準ですから、自分の物差しで他者を計ったり裁いたりする、そして自分を大きくしようとするのです。
 人は「神の前にひざまずく」そこでこそ、自分の真実の姿を見出し、自らを相対化し客観的に見ることができるのです。私どもの真実の姿は神の前でだけ知り得るのです。人は神の前でのみ、威張ることもなく自分を大きく見せる必要もなく、また逆に卑屈になったりいじけることもないのです。
 自らを謙遜に生きることのできない社会、それが神なき社会の大きな問題です。神なき社会に平安はありません。何故ならば、そこには受容してくれるものがないからです。どこに行っても受け入れられない。自分が高ければ、受け入れられることはありません。それは孤独であり不安なのです。

ですから、今ここにあることの恵みを覚えたいと思います。今ここで礼拝していること、それは神の前にひざまずくことです。私どもは、神の前に身を低くして集うことを許されているのです。神の前に相対化されるのです。罪人に過ぎない者であっても、十字架の主イエス・キリストに受け入れられていることを知るのです。
 ですから、神を信じる者は幸いです。なぜならば、礼拝者は自慢し威張ったり、逆に自分を責める必要はない、そのような自分から解き放たれるからです。礼拝の恵み、それは、神が私どもを神の民として受け入れてくださっている「受容されているという恵み」なのです。そこでこそ人は、自分で自分を「身の丈をもって受け止めることができる」のです。
 現代社会の大問題は、神なきこと、それは受容されないこと、それは大きな苦しみです。

舌は大言壮語すると言って、「どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう」と、制御できないものとして、舌の災いの深さを言っております。
 けれども「舌」そのものが悪いものなのかと言えば、人の心根が悪いのであって、舌そのものが悪いわけではありません。馬のくつわや船の舵も同様で、くつわや舵を制御しているのは人間であって、馬や船に意志(心根)があるわけではないのです。悪いとすれば、それは制御する者の心根です。

更に「舌は『不義の世界』です」と言われます。「不義の世界」とは何か。義を信じない世界、義のない世界、それが「不義の世界」です。それは、不公平で不正な世界です。義のない世界とは、神なき世界を意味しておりますから、先程の話と関連しているのです。神なし、義なしの不義の世界とは、私どもの時代をぴったりと言い当てている言葉です。
 義がない、そこでは「損得」が基準となるのです。神なき世界は「自分にとってこれは損か得か」ということが判断基準になってしまいます。ですから今の時代は、「人として正しく生きる」ということを問題にしない。人として義を貫くことを重んじるのではなく、自分の利益のことを問題にするのです。この度の原発事故の今後のことに関してもそうです。どのような保障がされるのか、お金の問題になっていて、この事故を通して社会をどう立て直すかということに焦点が当てられていないのです。歴史を顧みますと、確かにイデオロギー社会の問題はあったとしても、しかし理想や理念を失った社会もいかに悲しい社会かを思います。いつまでも損得でしか物事を考えられないとすれば悲しいことです。国の生き方を変えるために、今こそ悔い改めなければなりません。問題の根底にあることは、義を失っていることなのです。義がなければ、この世の真実はないことを覚えなければなりません。義を、神を失った世界は、救いを見出せない世界です。救いがなければ、滅びに向かって自分を苦しめることしかできないのです。

しかし、私どもキリスト者は、改めて「神あり」という世界の豊かさを覚えたいと思います。神は、慈しみある方、憐れみある方です。私どもを救うために、ご自身の御子まで十字架につけて、私どもの罪を贖ってくださいました。神はご自分の義を貫かれました。損をしてまでです。ご自分の損を全く気にもとめず、損を損とも思わず、私どもの救いを為してくださったのだということを覚えたいと思います。神は「罪人を救う」という、ご自身の約束に対して真実であられる、だから、どんなに損をしてもそんなことは関係ないのです。そして、それゆえに私どもの救いがあるのです。御子イエス・キリストを十字架につけるほどの損が、一体どこにあるでしょうか。罪人のために、罪なき御子が十字架に死なれるのです。損得で考えるならば、主イエス・キリストの十字架は有り得ない出来事です。

私どもは何と幸いなことでしょう。私どもは「義の世界」を生きることを許されております。神は私どもを、損得で見てはおられない。神の真実、神の約束によって見ていてくださるのです。ご自身の約束を果たすために、神が真実をもって私どもに臨んでくださる、義をもって臨んでくださる、それが「神の憐れみ」です。その憐れみに、私どもは与っているのです。
 憐れみとは神の真実、憐れみとは神の義です。神の真実なくして、憐れみはないのです。愛を貫くことができるのは、そこに真実が、義があるからです。
 神の義によって、神が憐れみをもって臨んでくださる、それが私どもの救いであることを忘れてはなりません。

損得の神は偶像の神に過ぎません。真実なる神であるがゆえに、私どもに救いがある、それが恵みなのです。
 私どもは、神の約束通りに「神との交わりに生きる者」とされております。神との交わりに生きる、それは神の呼びかけに応えて生きるということです。それが人として、人格ある、真実な人の在り方なのです。

神は義なる方、その義なる神を信じる恵みを、改めて深く、喜びをもって覚えたいと思います。

賛美と呪い2」 10月第2主日礼拝 2011年10月9日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第3章7節〜12節
3章<7節>あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。<8節>しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。<9節>わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。<10節>同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。<11節>泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。<12節>わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。

7節、ヤコブは「あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました」と言っております。
 3章は続けて読んでおりますと、どうも文章の展開が追いにくいと思います。まずは、舌は不義で人には「制御不能」と言いながら、7節には、人が自然界を「制御している」と言うのです。特に日本人は、自然に守られている感覚を持ちますから、自然を制御するという感覚も馴染みません。なぜ、ここでいきなり「人は自然界を制御することができる」と言うのでしょうか。
 それは、旧約聖書・創世記にそのことが語られているから、語らざるを得ないのです。創世記には、神の創造の御業において、地の祝福と共に人による支配が語られております。ですから、支配(制御)できないことは神の祝福を失うこと、支配(制御)できることは神の祝福だと言いたいのです。
 創世記には「すべての生き物を支配せよ」と言われております。しかし、それは人が生き物を好き勝手に扱っても良いということではありません。あくまでも、神の創造の業の委託としての支配なのです。神は創られた全てのものを「良し」とされました。ですから、人は自然を、神が良しとされた良いものとして整えていく、扱う、支配するということです。キリスト教は自然に君臨して破壊的だと言われることがありますが、そうではありません。生き物にある「秩序を守る」という支配なのです。祝福された人間のあり方とは「制御できる」ということです。麗しい秩序を守る、保つことができる、そういう自然との関わり方が「人にはできる」だから「託されている」のだと、創世記は語っているのです。

そのように、自然界をも制御できる力ある者であるのに、人は自分の舌を制御できない、自己コントロールできないと言われております。「自制心」は人には難しいのです。これも旧約聖書・創世記4章を背景に語られていることです。
 創世記4章は「カインとアベル」の物語です。弟アベルの捧げ物に神は目を留めてくださる。けれども、兄カインの捧げ物は顧みられず、カインは怒りに燃えて神を見ることができませんでした。この物語に示されていることは、多少の着色があってカインの捧げ物が最上でなかったからという理由をつけることがありますが、そういうことではなく「神の主権」の問題なのです。神はご自分が顧みる者を顧み、顧みない者を顧みない、全ては神の主権によるのです。しかし神は、怒って神を見ないカインに言ってくださいます。「真実に生きているならば、恵まれているかどうかに捕われる必要はない」と。そこに示されていることは「怒るのではなく、自らの心をコントロールせよ」という「人間の生き方」です。人は生き物を制御できるのです。そういう者として「自制できるはずなのだから自制せよ」と言われるのです。けれども、自制できない。アベルが悪かったわけではありません。カインは神に対する怒りによって、弟殺しの罪を犯すのです。人は自らの思いを制御できない者であることが示されております。

一方で、人は自然界という他者を制御する力を与えられている。だからこそ自制しつつ生きるべきなのに、自らは自制できない。そのように、矛盾した生き方しかできないのが人間であるということが、この7節・8節に語られております。
 8節「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」との言葉に、主イエスの御言葉を思い出さずにはいられません。マタイによる福音書5章22節「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。他者に「ばか」「愚か者」と言うことは、「人を殺すなかれ」との十戒の掟を犯す罪に等しいと、主は言われます。心に思ったことを口に出してしまう、死をもたらす言葉を平気で言ってしまう、それが人の口、人の思いであると言われるのです。そのような言葉は、相手の存在を認めない、尊ぶことができない、抹殺しようとさえする言葉なのであり、それは死の宣告をしているのと等しい、ということなのです。
 「舌は、疲れを知らない悪」、人の思いには際限がありません。自制できないのですから、際限がないということです。

このようにヤコブが次々と語る言葉は、私どもにはあまり馴染みがなくしっくりこないのですが、ヤコブには旧約聖書を背景にして元々身に付けている信仰の言葉があるので、このように語るのです。
 人間とは、一方で自然界の麗しい秩序を立てることができる、制御する力を与えられている存在でありながら、しかし、決して自分を制御できない存在であることを、ヤコブはここに示しております。しかし、自制できないから駄目だとは言っていないのです。自制心を持って生きる、それが人の本来の生き方、だから「悔い改めをもって自制に生きよ」と、ヤコブは言っております。ここに「悔い改めの必要」が言われているのだということを覚えたいと思います。

では、どうしたらよいのでしょうか。「悔い改め」は、自分の思いに捕われていたら無理なことです。人に向かうのではなく、神へと向かわざるを得ないことを知らなければなりません。人は、人に心を向けることによっては自制することはできません。利害関係、情におけるぶつかり、上下関係、愛するがゆえに支配する等、このような人間模様によっては、それが良しにつけ悪しきにつけ、人は人を呪わざるを得なくなってしまうからです。この一切から解き放たれなければ、人の思いは自由になりません。人と人とが作り出す関係の中にいる限り、そこに目を注いでいる限り、自制はできないのです。
 だからこそ、悔い改めが必要なのです。「神へと向かう」それは「悔い改め」です。悔い改めることによって、様々なしがらみから解き放たれ、自分の思いを整えながら生きることができるのです。神へと思いを集中させることによって、人という束縛から解き放たれて、真実に「自分自身を生きる」ことができるのです。
 それが「自制をもった生き方」なのであり、人にはそれが可能であることが聖書に言われている、それが根底にあっての、このヤコブの言葉なのです。ここに「悔い改めよ」と言われていることを知り、改めて思うべきであります。

次に言われていることがまた難解です。9節「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」。いきなり、なぜ「賛美」という言葉が出て来るのかと思いますが、ここには信仰者の思いが語られているのです。「人は神を賛美するために創られた」と、聖書に言われております。ですから、ヤコブは「人とは」と言うときには「神を賛美する者」と語らざるを得ないのです。
 けれども、続けて「人は呪う者だ」と言っております。その根底にあることは、人は神へと心を向けていれば賛美、そうでなければ呪いだということです。どれだけ神に集中できてきるかということです。それは、何が私どもの心を満たしているかということです。人間関係のしがらみが私どもの心を満たしているならば呪い、神の恵みが私どもの心を満たしているならば不平はなく、人に対して慈しみに満ちて接することが出来る、そしてその平安を与えてくださる神を賛美するのです。ですから「賛美と呪い」が示すことは、人がどれだけ神に集中できているか、ということが問われていることです。
 私どもは、どれほど多くのしがらみに心を満たしてしまうことでしょうか。人間関係というのは日常ですから、難しいのです。
 しかしだからこそ、神の前に出てひざまずき、繰り返し御言葉に与り、神の恵みに満たされていることを思い起こすことが、私どもの日常にとっていかに大事かということです。人は自らの力で日常から抜け出すことはできません。礼拝へと導かれ、ただただ神を仰ぎ見ることによって、日常から引き出され、恵みへと向かい、自分自身に神の恵みの豊かさを取り戻すことができるのです。

日常に埋もれ、呪うことしかできないおぞましさを、改めて思います。だからこそ、何よりも「礼拝」が大切です。そこでこそ、真実な自分を取り戻すことができるからです。

10節「同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」。同じ口から賛美と呪い、このようなことがあってはならないと言い、それがどれほどあってはならないかを、11節で、決してあるはずがない自然現象に喩えて言っております。そしてその度に「わたしの兄弟たち」と呼びかけます。「悔い改め、自制せよ、わたしの兄弟たち」と、ヤコブは語っております。

自制ある者として生きるためには、神へと集中すること、そして神の恵みを思い起こすことです。私どもは、悔い改め、自制して生きることができるのです。そしてそれは、ただ「神の恵みを思うことによって」です。

いついかなる時にも、神の憐れみが私どもに臨んでくださっております。
 ただ「神の恵みのみ」であることを改めて覚え、感謝しつつの歩みでありたいと思います。

祈りつつ、待ちつつ」 10月第3主日礼拝 2011年10月16日 
宍戸尚子 牧師(山梨英和中高教務教師)
聖書/列王記上 第8章26〜32節、マタイによる福音書 第25章1〜13節
列王記上8章<26節>イスラエルの神よ、あなたの僕、わたしの父ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。<27節>神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。<28節>わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。<29節>そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。<30節>僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦してください。<31節>もしある人が隣人に罪を犯し、呪いの誓いを立てさせられるとき、その誓いがこの神殿にあるあなたの祭壇の前でなされるなら、<32節>あなたは天にいましてこれに耳を傾け、あなたの僕たちを裁き、悪人は悪人として、その行いの報いを頭にもたらし、善人は善人として、その善い行いに応じて報いをもたらしてください。
マタイによる福音書25章<1節>「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。<2節>そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。<3節>愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。<4節>賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。<5節>ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。<6節>真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。<7節>そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。<8節>愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』<9節>賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』<10節>愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。<11節>その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。<12節>しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。<13節>だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

ただいま新約聖書マタイによる福音書25章1節から13節をご一緒にお聞きしました。10節から12節をもう一度お読みします。「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」。ここに対照的な場面が描き出されています。愚かなおとめと賢いおとめ、婚宴に連なることのできたおとめとそうでないおとめ。一方は花婿と一緒ですが、もう一方は「お前たちを知らない」と言われます。一方には結婚式に招かれた人たちの喜びや感謝があります。長い間待っていて、ついに花婿と一緒に婚宴につらなります。

さて扉を隔てたすぐの所に別のおとめたちがいます。彼女たちは間際になって油を買いに行って戻って来たときには遅すぎました。戸の外に立って「御主人様、開けてください」と言いますが、「わたしはお前たちを知らない」と答えがあり、扉は閉じられたままです。何とも言えない気持ちで外に佇んでいます。

イエス様は随分厳しいたとえ話をなさいます。10人全員が花婿の到着を待っていましたし、迎えにも出ています。みんな眠ってしまったとも言われています。何とかならなかったのでしょうか。けれどもなぜイエス様がこの話をなさったのか考えてみますと、そこには恵みのメッセージがこめられていると気づきます。13節に「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」とあります。つまり扉はまだ閉められておらず、私たちには入る余地があるのだということです。だからこそあなたがたは目を覚ましていなさいと勧められています。「目を覚ます」という言葉には、油断せず注意しているという意味があります。油断せず注意していなさい。そうして天の国へと招かれ、そこで喜び祝う者になりなさいという希望のメッセージを受け取りたいと思います。

私たちはみんな「待つ」者ではないでしょうか。小さい人たちも楽しい日が来るのを待っていますし、学生たちも自由な生活を待ち望んでいます。大人も仕事がうまくいくことや家族が幸せであること、将来の平穏な生活を待ち望んでいます。世界の平和や人々が生き残っていくための希望を持つこともあります。けれどもこのたとえ話で語られているのはそうした希望とはまた別の特別な期待のようです。婚礼・結婚式が用意されています。当時の習慣として花婿は花嫁をその実家に迎えに行き、自分の家に連れてきてそれから花婿の家で婚礼が行われることになっています。その際、花嫁の家では花嫁の女友達が待っていて花婿を出迎えることになっていました。花婿が到着すると家に案内し、花嫁を伴って花婿の家、婚礼の場に向かいます。けれどもこの時は何か事情があったようです。花婿が花嫁の家にやってきておとめたちが出迎えた後、そのままその家で婚礼が行われたようです。ここには花嫁のことが直接ふれられていませんが、花嫁と一つの心になって花婿を待つおとめたちの姿から花嫁の期待や喜びを受け取ることもできます。

ここで語られるおとめたち、そして花嫁は待ち望みつつ歩む教会のことではないでしょうか。おとめたちは待つためにともし火を持っています。暗い夜、身近に光がなければ暗くて周りがよくわかりません。教会も光がなければ様々な問題や困難に満ちた時代の闇の中で、どうやって正しい方向を見いだしたらよいのかわからなくなってしまいます。キリスト者はともし火を持っている人たちです。キリストはヨハネによる福音書の中で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃいました。キリストの光で私たちの道が照らされ、それをいただいて生きていく。この話の中には教会が光をいただき、それに照らされながら歩む姿が描かれています。

さて、10人のおとめたちは花婿を迎えに出かけます。1節の後半をお読みします。「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」。彼女たちは自分たちから出かけて行って来たるべき方を迎えます。これが教会の姿です。キリスト者は出かけて行く人々です。けれども無計画にあてもなく出かけるのではありません。私たちは主が来られることを知っています。私たちはこの主との出会いに向かって進んでいきます。この方とお会いするという大きな希望を持って私たちは歩みます。

さて花嫁の女友達は待っていて、花嫁も一緒にいましたが、花婿が来ません。「遅れた」と言われます。これは再臨の遅れを表しています。ほぼ2千年の間、教会は主が来られるのを待ってきましたが、まだ待つように求められています。こういう希望には果たして意味があるでしょうか。将来必ずキリストがおいでになることを教会は待っています。私たちはこの希望を失わずにいたいと思います。それと同時に再臨の先取りとして、今、もう主が来ておられるという今ここでの希望にも目をとめたいと思います。

主が今生きておられる、そのことが私たちの礼拝、説教、また私たちの間に起こる良い交わりや助け合いに力を与えます。私たち人間に力を与え、立ち上がらせるものは私たちの間にひそかに生きておられるキリストです。この望みを抱きつついつの日にか主が栄光と力をもって再臨される日を信じ、喜んで待ちたいと思います。

たとえ話の中で花婿が来るのが遅れておとめたちが眠ってしまったと言われています。目覚めながら待つのは簡単ではありません。けれどもおとめたちは眠ってしまったことを責められているわけではありません。賢いおとめたちはいざというときに備えて準備していました。花婿がきっと来ると確信をもちつつ、ともし火の油の用意をしていました。

一方で愚かなおとめたちと言われる人たちは待ちくたびれてしまったのかもしれません。花婿が到着したときに、その姿が明らかになってしまいます。6節に「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」とあります。ここで初めて、賢いものと愚かな者との間に違いのあるのがわかります。賢いというのは冷静で現実的、油断せず注意深いということです。賢いおとめたちは「それぞれのともし火と一緒に壺に油を入れて持っていた」と言われていて、他方愚かなおとめたちは「油の用意をしていなかった」と言われます。自分たちが今持っている貯えだけで十分だ、それ以上は必要ないと思っていたということかもしれません。

愚かなおとめたちはともし火の中のわずかな油で足りると思っていて、油がどんなに早くなくなるかに気づきませんでした。花婿が来るまでに、それほど長くはかからないだろうからと思ったかどうかわかりませんが、とにかくこれで足りる。これ以上は必要ないと思っていたようです。間違った安心が彼女たちにとって災いとなったことになります。愚かなおとめたちは最後の瞬間になっても賢いおとめたちから油を借りられると思っています。8節です。「愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』」けれども賢いおとめたちは9節でこう答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい」。私たちの分とあなたたちの分、両方に足りるとはとても考えられません。むしろ自分の分を買いに行ってきなさいということです。主との最後の出会いにおいては、一人一人が問われます。主の前に立つということはこのようにそれぞれが問われることです。おとめたちはそれぞれ自分の明かりの心配をしなければなりません。

賢いおとめたちは油がどんなに早くなくなるか知っていましたから、油の入れ物を用意していました。後から足すことができるように、補充できるようにと考えています。油がすぐになくなっても困らないためです。どんなに少しずつ使っていても必ず油はなくなっていくでしょう。夜が長く、闇が深い中です。それで彼女たちは油の壺を準備していました。

さて、ともし火の油や油を入れる壺とは一体何を表しているのでしょうか。これはキリスト者としての生活のことだと言われることがあります。心備えをしてクリスチャンとして礼拝を捧げ、祈り、聖書に親しんで生きる生活をしつつ再臨を待ちます。まるで再臨などないかのような生き方では待つことはできません。ある人はこの油の入れ物の壺は、また油は祈りのことだと言いました。私たちはこの祈りについて、いつも新たに学ぶ必要があるのではないでしょうか。再臨を待つ生活においては、祈りは欠かすことができません。聖書の約束を信じ、教会の信仰を保ち続ける私たちにとって、祈りこそが手放してはならないともし火であり、いつもそれを身近なものとしている必要があります。けれども祈りがここでの油のようになくなってしまうこともあります。その時には私たちの内面も周囲も真っ暗になってしまいます。祈る時間がないからということもありますし、忙しい生活の中で疲れてしまうこともあります。私たちの祈りが力を失ってしまうということも考えられます。

すべてに結びついている祈りは、待ちつつ歩む私たちにとって欠かすことができないものです。特別な人が祈るわけではないでしょう。祈る人こそが地に足をつけて歩める人であり、また主を待つ人でもあります。祈りによって新しい行動へと励まされていきたいと思います。教会が目覚めた賢さを持ち、「だから目を覚ましていなさい」の言葉を心にとめつつ、主の再び来られる日を期待しつつ祈って待ちたいと願います。

争いの原因」 10月第4主日礼拝 2011年10月23日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第3章13節〜18節
3章<13節>あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。<14節>しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。<15節>そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。<16節>ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。<17節>上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。<18節>義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。

13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」と、ヤコブは問うております。それは、知恵を誇る者があったということでしょう。「その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」と言うのです。知っている、分っている、しかしそれは行わなければ意味がないのであって、「立派な生き方によって示しなさい」と、生き方において「実際の行いを伴う知恵」をヤコブは求めております。
 私どもにとって、言葉と行いが一致しないということは往々にしてあることですが、ヤコブは、そのようなことは知恵ある生き方ではない、行いを伴わない知恵は真実の知恵ではないと言います。ここではキリスト者に対して語っておりますので、私どもの信仰生活を考えてみますと、もし「神を知り神を信じる」と明言するならば、行いとして自ずと神を「礼拝する」「祈る」ということが起こるはずであり、礼拝生活こそがキリスト者の生活であるはずなのです。

「知恵ある者」とは「神を知り、神を畏れる者」です。知恵ある者に相応しい生活とはどのようなものでしょうか。「知恵にふさわしい柔和な行い」とヤコブは語ります。「知恵」とは「主イエス・キリスト」を現します。つまり「知恵を知る」ことは「十字架と復活の主イエス・キリストを知る」こと、それは「神を畏れる者となる」ということです。
 主イエス・キリストは、私どものすべてを担ってくださる方です。私どもの罪をご自分の命までもってして贖ってくださった方、復活によって永遠の命の約束をお与えくださった方です。「主の十字架の贖いを知る」それが「知恵」であり、それが「救い」なのです。そして、地上を超えた命の恵みを味わい知る者、それがキリスト者なのです。
 「柔和な行い」と言われます。主イエス・キリストにふさわしい「柔和な行い」それは「赦しと希望(決して絶望しない)に生きること」です。十字架と復活の主イエス・キリストによって「罪の赦しと永遠の命に生きる希望を頂いている」者として、そのように生きることが求められております。

今の時代、この社会に必要なものは「赦しと希望」だと思います。他者を許さない、間違いを許さない社会、悔い改めない社会、そのことの根底にあることは「赦されていることが無い」ということです。「悔い改めて生き方を変える」ことができるのは、そこで「赦されている」ことを知る、見出すからです。そうでなければ、真実がどうであろうと自分自身を突っ走るよりなくなるのです。
 日本人は「徹する」ことに美徳を持っており、たとえそれで滅びへ向かうことになっても始めたら止めない、徹することによって自分を慰めるしかないという価値観が根本にありますが、そこに希望は見出せません。本当の赦しの出来事こそが必要なのです。赦されることがなければ、決して今の状況を変えることはできないのです。
 「本当の赦しの出来事を知っている」それはキリスト者に与えられている恵みです。だからこそ今、キリスト者には、この世に対して「赦し」を語らなければならない使命があるのです。
 また「希望」も語らなければなりません。この地上、この世の生で終わりであれば、希望を持つことはできません。常に新しいことをのみ望んできた社会ですから、そう考えれば、今の高齢化社会に希望を見出すことはできるでしょうか。できないのです。「地上を超えた命を見出す」以外に希望を見出すことはできません。何もかもが右肩下がりの社会、だからこそ、地上を超えた望みを知る以外に、絶望から抜け出すことはできないと思います。
 ですから「十字架の赦しと復活の希望」こそが、今、人々が切実に求めていることです。赦しと希望は「神によってのみ可能である」ことを覚えたいと思います。

「柔和」という言葉は「主イエス・キリスト」を思い起こす言葉です。聖書は主イエスを「柔和の王」と記しております。「柔和」とは、主イエス・キリストを現し「弱さ」を現す言葉です。主イエスは、どこまでも弱い者となってくださって、私どもの「弱さ」を担ってくださいました。弱さを担うこと、それは強さです。強さがなければ、人のどん底の弱さを担うことなどできません。主がそのように私どもを担ってくださるゆえに、私どもは恵みに満たされて生きることができるのです。
 「主にある赦しと希望の生活」それが「柔和な生き方」、それは「主に倣う生き方」です。「柔和の王、主イエス・キリストに倣う者として生きる」ということは「主イエス・キリストを証しする生活」であり、それがここに言われる「立派な生き方」なのです。地上において、神を、主を証しする、それが「立派な生き方」です。キリスト者として「立派に生きる」とは、赦しと希望において主を現す、主を証しすることです。それは何か特別な行いなのではありません。「立派な生き方」それは「御言葉に聴き、祈り、礼拝する生活」です。
 たとえ病の床に臥していても、老いの淵にあっても、身動き一つできなくても、神を思い、祈ることはできるのです。神へと心を向けること、それが「祈り」です。「祈り」を通して、私どもは「神を証しする」のです。死のときまで、私どもは、神の御名を呼ぶ証しを為し得るのです。たとえ、その人自身が祈れなくなったとしても、その人を通して周囲の人が証しできます。屋根をはがし中風の人を吊り降ろした4人の友人の話を思い起こします。動けない中風の人がいたからこそ、友人たちは証しする者となったのです。
 私どもは、葬儀に際してでさえ、死をもってまで、主を証しすることができます。自分ではもはや何もできなくても、教会が、牧師が、家族が、友が、その人を覚えて語り、祈ってくれるのです。それこそが「証し」、それこそが「立派な生き方」なのです。

14節「あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません」と記されております。「ねたみ深く利己的」なのですから「してはなりません」と言われても、できないと思うでしょう。しかしヤコブは「してはなりません」と勧めます。
 「ねたみ、利己心」は「自制できないこと」です。人は、神なしでは「ねたみ深く利己的」ですから、「自制せよ」と勧告せざるを得ないのです。このように言うことによって、ヤコブは、人の罪深さを一層鮮やかに示して、深く認識させようとしております。
 「ねたみ、利己心」がもたらすもの、それは16節「混乱やあらゆる悪い行い」だと言い、その元にあるものとして15節「地上のもの、この世のもの、悪魔から出たもの」と3つのことを示しております。ここで「地上のもの」と「この世のもの」は同じもののように思いますが、全く違う言葉が使われております。
 「この世のもの」とは、肉の知恵、つまり欲望のことです。人は感情の動物ですから、人の欲望には限りがありません。感情の赴くまま怒ったり、独りよがりになったり、自分の感情むき出しの生活には、混乱や悪い行いが蔓延するのです。
 「地上のもの」とは、神なしの人間関係を示します。他者を踏み台にして自らの利益を求める、それは自分を捧げて隣人を愛するという生き方ではなく、争い、搾取が起こるのです。人は、何を一番大事にしているかによって生き方が違ってくるのです。
 「悪魔から出たもの」とは、偶像礼拝、神ならぬものを神とすることです。このことは、主イエスが荒野でサタンの誘惑を受けられたとき「サタン、退け」と言われたことによって示されております。人間の作り出したもの、お金などを神とするところに、完全な「義」を求めることは無理なことです。
 現代社会はグローバル化し、もはや元に戻ることはできません。自分の力によっては完結できないのです。自分しかない、自分が全てであれば、社会は無秩序になり、混乱する他ないのです。

それに対して、17節「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです」と記されております。そこにあることは「憐れみの生き方」であり、隣人を愛する生き方です。「神の慈しみに生きる」ところに、本当の慰めがあり、「義の実」が与えられるのです。

神に仕える者として生きる、そこには「平和」があり、「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と記されております。
 共に神を仰ぎ見ること、そこに「平和」があります。神ぬきにして、平和は有り得ないのです。

「平和」ということで、考えておくべきことがあります。日本人の心情には「和をもって尊しとなす」という生き方があります。「和」と言っても、キリスト者の「和」との違いを思います。真実の「和」とは、和らぎであり、それは「神にのみある」ことを覚えたいと思います。
 「神にある低さ、謙遜さ」こそは、キリスト者に与えられた恵みです。そこでこそ「真実の和」を、人と人との和、和解をもたらすことができるのです。

「低さ」において「和」があります。そして、その「低さ」の根底にあることは「神、主イエス・キリスト」です。主が自ら低くなってくださったから、神の御子でありながら、まったく低きにまで降ってくださって私どもと同じ者とまでなってくださったからこそであることを、感謝をもって覚えたいと思います。

争いの原因2」 10月第5主日礼拝 2011年10月30日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヤコブの手紙 第4章1節〜10節
4章<1節>何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。<2節>あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、<3節>願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。<4節>神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。<5節>それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、<6節>もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」<7節>だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。<8節>神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。<9節>悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。<10節>主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。

1節「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」と、ヤコブは問います。「戦い」「争い」と言うと国単位の戦争などをイメージしますが、「けんか」「口論」とも訳されることを考えますと、これは、どこにでも起こる私どもにも身近な問題です。夫婦にしろ親子にしろ、個々人の口論(争い)はよくあることですが、だからこそ、私どもはその争いを乗り越えなければなりません。

争いの原因は何か。ヤコブは「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」と、それは外部に、相手に問題があるのではなく、自分自身の内にある「欲望」によると言っております。「欲望」には「楽しい」という言葉が使われており、簡単に言うと「楽をしたい」ということです。楽をして自らを安易にさせること、そこに人間関係の亀裂が生まれる、そういうことかも知れません。要するに、自分自身の問題、「あれこれ思う」から争いが起こるのです。
 そしてそれは、裏を返せば「自分自身の心の内に平安が無ければ、自ずと争いは起こる」ということです。このことは私どもにとって、とても大事なことです。心に平安が無ければ、いつでも争いになるのです。あれこれ思い、言いがかりをつけて、喧嘩になるのです。

「平安が無い」ことの根底にあることは「欲してしまう」ことです。欲しない状態を保てないことです。欲する心が無ければ、相手に求めなくても良いのです。自己執着し、自分にこだわればこだわる程、争いになり亀裂が生まれるのです。ですから、自ら欲せずに生きられるならば良いわけですが、果たしてそんなことができるでしょうか。
 欲せずに捕われなく生きることができるとすれば、それは自らの内に平安があるからです。けれども、そのような状態を自分自身で作り出すことは、なかなかできることではありません。信仰、宗教が無ければ難しいのです。「捕われなく生きる」それが「信仰の生活」であり、それはある意味で「悟りの境地」でもあります。病気や貧しさなどの困難、どのような状況にあったとしても、平安でいる、欲しない者となる、それは「悟りの境地」ですが、しかし、それでは万人の救いにはなりません。欲せずに生きる心境になれる人など、滅多にいないのです。
 例えば歯が痛いとか、肉体の小さな痛みであっても、痛みを堪えるということは、なかなかできないことです。人と人との交わりの中で、痛まずにはいられない私どもです。痛みながら、しかし捕われずにどう生きられるでしょうか。痛みに覆い尽くされるのではなくて、痛みの中にあっても平安に、どうしたら生きられるのでしょうか。

2節には「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します」と記されております。「殺す」とは大袈裟なことと思いますが、自分にとって益かどうか、他者を犠牲にして自分の利益を謀ろうとする思い、それが「人を殺す」という過激な表現となっているのです。「あの人さえいなければ…、あの人を利用しよう…」そのような「他者をないがしろにする思い」それが「人を殺す」ということです。
 また「熱望しても手に入れることができず、…」と続きます。「熱望」それは深く求めること、自分の満足を求めれば求めるほど、しかし「手に入れることができない」と言うのです。熱望によって思いを満たすということは、一時的には可能なことです。熱望によって、ある目標を達成して満足を得る。しかし、それは良きにつけ悪しきにつけ、そこで終わってしまえば、また次々と目標を必要とする。一生の満足を得るということはできないのです。例えば、競技も、勝利によって一時の満足を得ることはできますが、絶えず新たに更なる目標を必要とします。競技はまた、レベルが上がれば上がるほど、他者との闘いではなく自己克服という境地で一時的な満足を得ることはできますが、しかし自分で自分の思いを満足させ続けることはできないことです。
 では、どうしたら良いのでしょうか。

ヤコブは「得られないのは、願い求めないから」と言っております。これはキリスト者に対しての言葉ですから、そう考えますと「得られないのは、祈らないから」ということでしょうか。キリスト者であれば「祈っている」と思うことでしょう。けれども、続けて3節「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」と言うのです。自分を楽させたい、自分の思いを満たしたいと、自分のこだわりの中で願っているとすれば、その願いが叶わないのは当然のことだと言うのです。そしてここでは、このような間違った祈りも、祈らないことも、一つのこととして示されております。
 ある人は「応えられない祈りは幸い」と言いました。これはすごい言葉だと思うのです。応えられないことがなぜ幸いなのか。応えられないことを通して、自分自身を問うことになるからです。「なぜ、願いが叶わないのでしょうか」と、神に問う、神との対話がそこに始まるからです。ですから、応えられる祈りが幸いとは限りません。却って自己満足に終わってしまうからです。応えられない祈りである方が、より幸いなこともあるのです。

間違った動機の祈りは、きかれません。ですからそれは、祈っていたとしても、祈らないことと同じなのです。では、間違わない祈りとはどのようなものなのでしょうか。
 私どもの祈りにあるべき動機は、「神を誉め讃えること」です。
 私どもには「主の祈り」が与えられております。その中で、私どもは「日々の糧」を祈ります。「日々の糧を祈る」ことは、日々、神に生かされていることを覚えること、日々に神の祝福を覚えることです。ですから、私どもが日々の糧を祈るということは、そこに「神の恵みが現されている」ということなのです。
 「神を願い求める」それが「真実な祈り」です。私どもは、祈りにおいてすら、自分を求めてしまう者です。それほどにまで自分自身にこだわっている、欲望がある、それゆえに苦しみ行き詰まる、そこに人と人との争いが起こるのです。

では、どのようにすれば自己執着から解き放たれるのでしょうか。
 自己執着がもたらすこととして、4節に「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」と示されておりますが、今日はそのことを語る時間がありません。
 結論を申しますと、自己執着、それは自分の力で解き放つことはできないことです。外からの力による以外ないのです。主イエス・キリストの十字架の出来事によってしか、神から以外にないのです。
 神は、神の御子主イエスを、人として、私どものところに遣わしてくださいました。そして、主イエスは、十字架の死により私どもの罪の贖いとなってくださって、私どもの罪を終わらせてくださいました。それは「私どもに『神との和解』が与えられた」ということです。そしてそれが「平和」ということです。
 神は、御子を十字架につけるまでに私どもを愛して、罪を赦してくださいました。だからこそ、そうまでしてくださった神に、主イエス・キリストに、私どもは信頼して良いのです。「神に信頼する」、そこでこそ「神によって平安を得る」のです。

宗教改革者マルティン・ルターの悩みは、主イエスの十字架は裁きだと思っていたことです。しかし、そうではない、十字架は裁きではなく「救いである」と分ったとき、そこまでしてくださった神にすがるよりないと、ルターは知ったのです。十字架に死んでくださるほどに私どもを愛して、罪を贖い、神との和解を与えてくださった主イエス・キリスト、その主に信頼することによって、私どもは「神の平安に与る」のです。
 神との間に平安が無い限り、私どもは、他者との間に平安を作り出すことはできません。

今日は最後に、神への信頼を語って止まない、美しい詩を読んで終わりたいと思います。それは詩編第23編です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」。
 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と、主が導き手である限り、わたしには何も欠けることがないと言うのです。しかし羊を飼う場所、それは荒野です。荒野では常に水も青草も欠乏している、なのに「何も欠けることがない」とうたう、それは、乏しさの中にあって、神共にいます中で、ただ神への信頼によって「欠けはない。恵みが豊かである」と言い得るということです。そして、それは「死の陰の谷を行くときも」と、死の淵にあっても「神への信頼によって平安」と言い得るということです。

私どもの平安とは何でしょうか。私どもの平安、それは神との和解、神との交わりにあるからこそ与えられているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

神に信頼して生きる、そこでこそ私どもは平安であり、真実の慰めを受けるのです。神への信頼に生きる人生は、美しい人生なのです。