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このように、神が私どもを呼び集めてくださっていることを感謝したいと思います。神は、私どもを召し出すことによって栄光を現してくださっております。私どもが神に召されて礼拝することを通して、私どもを「神の子、神の民」としてくださり、神の栄光を現わす者としてくださっているのです。新しい一年も、私どもが「礼拝する」そこでこそ神の栄光が現され、全世界に神を証ししているのだということを覚えつつ、週毎の礼拝を守っていくものでありたいと思います。 30節「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」という言葉から、ヨハネによる福音書が志したことの一端が示されております。 福音書とは、主イエスの奇跡物語を記すものではありません。また特に、ヨハネによる福音書は他の福音書と違って、14〜16章に主イエスの長い説教、17章には主の祈りが記されるなど、説教を重んじて記しております。そういう意味で、他の福音書より論理的と言えます。それは、信仰とは「鰯の頭も信心から」というようにやみくもに信じるということだけではなく「論理的に理解し得るものである」ことを示しております。知性における信仰ということも大事なのです。ヨハネによる福音書の示す信仰は、「思い込み」ということではなく「神による秩序ある認識である」ということです。聖書において神の御言葉に聴き、そこに聖霊が働くことによって、自らを知り、信仰に至るのです。 ヨハネによる福音書は、主イエスについて、まず1章1節において語っております。主イエスは「神の天地創造の以前から神の御子として神と共にあった方、神なる方である」ということを、まず初めに記しているのです。神と共にこの世を創造された方であるということ、それは「神との交わりにある方である」ということです。その神なる方である主イエスが、この世の(私どもの)救いのために、この世に人となって(私どもと同じになって)来てくださいました。 主イエスは天において「神との交わり」にある方です。「交わり」こそ「命」ですから、神との交わりは「永遠の命」です。「永遠の命」なる方を信じることによって、私どももまた「永遠の命、神との尽きない交わり」を得る恵みに与っております。「救い」とは「永遠の命に与ることである」と、ヨハネは示しております。「天における尽きることのない神との交わり」それが「救いの恵み」なのです。 では、どのようにして、その救いの恵みに与るのでしょうか。 私どもは、この地上で生涯を終える者でありながら、天において、神との尽きることのない交わりに生きる者であるのです。 そして「主イエス・キリストを信じる者はだれでも」その恵みに与ることができるのだということを、私どもは「証しする」のだと示されております。 主の恵みに与った者として、主イエス・キリストの恵みに満たされ、喜びつつ宣べ伝える者でありたいと願います。 |
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復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れてくださった出来事が記されております。 1節「ティベリアス湖畔」とは、ガリラヤ地方を指すのです。そして2節において弟子たちの名が挙げられております。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)と、ほかの二人。名の分る5人と他の2人ですが、7節で分るように、他の2人の内の一人は「イエスの愛しておられた弟子」なのです。 3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った」と記されております。 「漁に行く」、そこで弟子たちは、主イエス・キリストと再び出会うのです。復活の主イエスと出会うことによって、「人間をとる漁師としての召命(主の弟子としての召命)」を新たにしているのです。 ガリラヤにおいて復活の主が弟子たちに臨んでくださることによって、主の弟子たち=教会に与えられている使命が新たに示されました。それは「教会とは何か」ということです。「教会の使命」は、救い主イエス・キリストを宣べ伝え「あなたの罪は赦された」と「救いを宣言する」ことです。「宣べ伝える」ことは「救われる者が起こされるためになす」ことであり、教会は「あなたは罪赦され、救われた」と宣言する力を、神より与えられているのです。 このように重い使命を神より与えられていることを覚え、改めて、救い主イエス・キリストを証しし、信じる者たちに「あなたは救われた」と宣言する歩みをなす教会でありたいと思います。 |
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3節、7人の弟子たちは舟に乗り、漁に出ます。しかし「その夜は何もとれなかった」と記されております。「何もとれなかった」こと、これは本来、異常な出来事です。ペトロたちは漁師でしたので、自分たちの経験を駆使しての漁であったはずです。しかし「何もとれなかった」、ここには大事なことが示されております。人の経験、知識の限りを尽くしても「何もとれなかった」こと、ここに「人の人生の空しさ」があるのです。 8節を読みますと、舟から陸までの距離は二百ペキス、おおよそ100メートルほどです。そこに主イエスが立っておられることを分らなくても普通かもしれません。しかし、主イエスが岸に立っていてくださることは、私どもにとって慰め深いことです。何故でしょうか。気力を失っている者は、前向きになることはできません。新しいものを見出したり発見することはできませんし、周りが見えないのです。見るべきものを見出せなくなるのです。しかし、そのような者を「岸に立つ主イエスが見出していてくださっている」のです。 5節「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」と記されております。これは、すごいことではないでしょうか。100メートルの距離があるにも拘らず、大きい声で叫んでいるような会話とは思えません。 なぜ、招きなのでしょうか。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」と記されております。主イエスは、弟子たちに食べ物を求めるまでもなく、ご自身でパンも魚も用意してくださっております。「何か食べる者があるか」との言葉は、主イエスが弟子たちと会食しようとされた、食事への招きの言葉なのです。何もとれなかった弟子たちの現実が明らかにされた上での、会食への招きの言葉であり、それは親しい者への慈しみの言葉なのです。 ここで私どもは、「ありません」との言葉の重さを知らなければなりません。漁に出たペトロたちは当然、収穫を期待していたことでしょう。「ありません」とは、ただ持っていないということではないのです。期待していたのに何もとれなかった、「空しいです」との言葉なのです。「ありません」と答えることによって、自分の現実を自覚させられるのです。 6節、主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われます。一晩中網を打って、ペトロたちは疲れていたことでしょう。しかも、一度片付けた網をもう一度降ろすとは、人に言われて簡単にできることではありません。しかし、ペトロたちは「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」と、主イエスの言葉に従って、再び網を打ちます。主イエスの言葉とは「力ある言葉」です。空しさのうちにあるにも拘らず、それでも彼らは、主の御言葉によって網を降ろさざるを得なかったのです。主イエスの言葉とは「人に力を与える言葉」なのです。「主の御言葉は力である」ことを改めて思います。彼らがもう一度網を降ろせたのは、主の御言葉に力を頂いたからです。言われたことが実現する、それが主イエスの言葉です。 そこで、気付くのです。7節「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。気付いたのは「イエスの愛しておられた弟子」でした。ですから、本当なら、彼が主のもとへ行けば良いのです。しかし彼はペトロに告げます。それはペトロが教会を代表する者だからです。ペトロに対して敬意を払っているのです。 9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」。既に主イエスは全てを備えてくださっております。主の招きの食事は、弟子たちがとってきた魚によって整えられるのではありません。主イエスが全てを備えていてくださって、初めてなし得る会食であることを覚えたいと思います。 11節「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。恵みに満たされて、力を与えられて網を引くペトロの姿と、153匹もの大きな魚は、いかに恵みが深かったかを表しております。 12節「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」と記されております。弟子たちは、共におられる方が主イエスであることを知っております。この主イエスとの交わりは3度の食事ではなく、聖餐に通じる交わり、神との交わり、愛餐を示しております。神との愛の交わりへと、弟子たち(私ども)は入れられているのです。 今、私どもは、主の前に集って礼拝しております。礼拝は、神との交わりのときであり、何よりもこの交わりは「主にある交わり」であることを覚えたいと思います。 それは、日常の空しさから解き放たれる恵みの出来事なのであり、この交わりにおいてこそ、私どもは存在を得るのです。 |
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イエスさまは天の国をたとえをもって語ってくださいます。天の国、天国について、普段、私たちはあまり考えることはないのかも知れません。けれども愛する者が病気になったり、あるいは死によって別れなくてはならなくなったりするときに、天国のことが、俄然、思いの中にのぼって来ることを経験いたしもします。天の国、これは漠然と私たちが死んだら行くところだと思っているところがあります。そうだからこそ、今はそんなことを考えることはできないと思ったり、反対に今日こそ近く天国のことを深く思う日はないと感じながら過ごしている人もあるでしょう。 イエス・キリストが語ってくださる福音は、非常に切迫したものを持っています。イエスさまがガリラヤで宣教を始められたとき、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)とすでに語っていてくださっていました。天の国は近づいている。いや、すでにここに来ている、とさえ、言って良いのであります。イエスさまがすでに来られているので、神の支配がここにある。だからこそ、神に心を向けるようにと語りかけてくださっているのです。 ここでイエスさまが語ってくださっている天の国のたとえは、「わたしはすぐに来る」と言われたイエスさまの約束を聞いている教会に語られているものであると言われます。イエスさまが来てくださっていることが、神の御支配の現れなのですから、再び、おいでくださるというのは、神の国の完成、救いの完成の時と言って良いのです。イエスさまが再びおいでになるという約束をいただいている教会は、その時に完成を見るのであります。私たちはすでにイエスさまの招きを受け、神の御支配のうちに入れられたのですが、未だそれは完成した姿ではないのです。そのときこそ、花婿が花嫁を迎えに来てこそ、始まる婚礼のときなのであります。 当時のユダヤの結婚についてですが、婚約をした男女はその時から社会的に夫婦と認められていましたが、婚約の期間は二人はそれぞれの家で生活することとされ、会うことすら許されていませんでした。その期間は一年に及ぶほど長いものでした。いざ結婚というときになると、花婿が花嫁の家に迎えに行くことになっていました。花嫁の家からは先に花嫁の友人たちがランプを手にして花嫁と共に花婿を出向かえて、婚礼の時が始まるのです。しかも婚礼は一週間に及ぶものでありました。 こうしたユダヤにおける結婚にいたるまでの有り様を見まして、イエスさまがお語りくださるこのたとえ話の中の花婿の姿が、いかに異常なものでありましょうか。こんな大事なときには、花婿と花嫁の間に約束がしてあったに違いがありません。ところが約束して会った時間よりも、はるかに遅れた真夜中に花婿がやって来るのです。この花婿こそ、「わたしはすぐに来る」と約束したもうたイエスさまであります。ここに再臨が遅れてしまっていることへの、イエスさまがくださっている答えがあるのです。教会はイエスさまの約束を信じて、今日にも来られると思って生きた時代がありました。あまりにもその思いが強かったので、日々の仕事にも手がつかなくなった者たちもあり、パウロという人が「働かざるもの、食うべからず」と言って戒めたことが聖書にあるくらいです。ところが、すぐに来るはずのイエスさまが、なかなか来て下さらないとなると、その約束よりも目先の現実のほうにだけ目を向けるようになってしまうのも無理もないことであります。そういう教会に生きる者たちにイエスさまは、この異常に見える花婿の姿を通して、必ず、約束を果たしたもうのです。即ち、再び必ずおいでくださって、イエスさまは私たちに完成を見させて下さるのです。 先に、このたとえは「わたしはすぐに来る」とのイエスさまの約束をいただいた教会に語られたものと申しました。約束をいただいたのですから、その時を待つのが教会の姿勢と言ってよいかと思います。教会の姿はどこに現れるのか、と言えば、それこそがまさに「十人のおとめ」であります。そのうちの5人は愚かで、5人は賢いと言われております。ここに出てくる賢い5人のおとめ、彼女たちも異常であると言えなくもありません。花婿の来るときに備え、ともし火をともしているのは分かるとしても、遅れに遅れた花婿がやってくる真夜中まで残るほどの油を準備しておくと言うのは、あり得ないことであります。そもそも花婿が来るのが遅いので、10人のおとめたちは眠ってしまってもいるのです。ですから、愚かな5人のおとめたちの方が常識人ということになるのです。この世の常識に照らして見るならば、真夜中になぞ、油が残っていなかったからとて責めるところなんてあるはずがありません。けれども、彼女たちは外に置かれることになってしまうのであります。 このたとえから聞き取らねばならないのは、一つ、主なるイエスさまの約束は必ずなる、ということであります。今一つは、「わたしは来る」というイエスさまの約束をいただいた者として、その時を待ち望む者として生きるということです。イエスさまの約束はその弟子の群れである教会に与えられたものですが、だらかこそ漫然とその時を迎えるのではなく、御言葉と祈りをもって神を礼拝し、心からイエスさまの来たりたもう時に喜び迎えていただけるようにと備えるのであります。 最後に「目を覚ましていなさい」と勧められています。けれども、眠ってしまっても良いのです。起こしてくださるから。これはただの眠りではありません。死を表しているものです。イエスさまが再びおいでになるとき、呼び起こしてくださり、婚礼のごとき天の国の喜びの中にイエスさまが迎え入れてくださるのです。 |
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復活の主イエスが弟子たちに臨んでくださり、弟子たちは主にある恵みに満たされております。その後の、ペトロと主イエスとの会話、それが今日の箇所です。 15節「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」との主イエスの言葉は、なかなか辛辣な言葉です。私どもであれば、どう答えるでしょうか。「愛している」とは言いにくい言葉ですから、何とも答えにくい問いです。主イエスは私どもの罪のために十字架にお架かりくださいました。その主の恵みに十分応えられるほどに「主を愛している」とは、なかなか言えないのではないでしょうか。しかしここで、この主の問いに対するペトロの返事は素晴らしいものです。 さらにもう一つ素晴らしいことは、比べなくなったということです。「この人たち以上に」と言わないのです。これは大事なことです。なぜならば、他と比較して自らの思いを優先させることは、人との交わりを害するものであり、それゆえに人は交わりに破れて孤独となるからです。誇ったり、蔑んだり、卑屈になったり、他者との比較によって様々に思うのです。競争社会に生きている以上、私どもは、他者と比べないわけにはいかず、自分で、あるいは他者から価値の有る無し、善し悪しを決められてしまって、自由な思いを持てなくなるのです。比べることは不自由になること、そのような社会に私どもは生きております。 ペトロの信仰の姿、それは捕われなき者の姿です。十字架と復活の主イエス・キリストに圧倒されて、主イエスがペトロの全てとなってくださいました。主イエスを3度も否んだペトロをも慈しんでくださり、そのペトロのためにも十字架にかかり罪を贖い、復活の主として臨んでくださった主イエス・キリスト。その主が全てとなったペトロ。謙遜な者になり得たペトロの姿を通して、私どもは、ペトロにとって主が全てとなったことを覚えたいと思います。それは私どもにも同じことです。ペトロと同じように、主は私どもの全てをご存じでいてくださるのです。 「自らの罪を知り得ない」という認識は、「謙遜」な認識です。「主のみご存じ」と言える、それが信仰です。私どもは、私ども以上に私どもをご存じな方、主イエス・キリストに委ねる他ない者です。 主イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言ってくださっております。「主イエスを信じる者たち」それが「羊」です。ペトロは「羊」を導き養う者とされました。このように教会の指導者となったペトロは、しかし先頭に立っているのではありません。「わたしの羊に仕えなさい」と言われております。19節「わたしに従いなさい」と、主イエスはペトロに言われました。主イエスは十字架をもって、ご自分の命までもって、弟子たちに仕えてくださいました。主は自ら、弟子たちの模範となってくださったのです。そして主を信じる羊の群れを、ペトロに委ねてくださっております。「人を導く」とは「人に仕える」ということです。 「わたしを愛するか」と問うてくださった主イエスが言ってくださっていること、それは「仕えなさい」ということです。「主を愛する」とは、主イエス・キリストが頭である「教会に仕える」ということです。主イエスご自身の群れを託するために、主はペトロに「わたしを愛するか」と問うてくださいました。 |
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