聖書のみことば/2011.1
2011年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の子メシアと信じる」 1月第1主日礼拝 2011年1月2日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第20章30〜33節
20章<30節>このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。<31節>これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

このように、神が私どもを呼び集めてくださっていることを感謝したいと思います。神は、私どもを召し出すことによって栄光を現してくださっております。私どもが神に召されて礼拝することを通して、私どもを「神の子、神の民」としてくださり、神の栄光を現わす者としてくださっているのです。新しい一年も、私どもが「礼拝する」そこでこそ神の栄光が現され、全世界に神を証ししているのだということを覚えつつ、週毎の礼拝を守っていくものでありたいと思います。

30節「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない」という言葉から、ヨハネによる福音書が志したことの一端が示されております。
 主イエスは、弟子や人々に対して多くの奇跡(しるし)の業をなさいました。しかし、ヨハネはそれら多くのしるし(奇跡)を、いちいち記さなかったと言っております。
 「奇跡」とは、人にとってはとても魅力的なことです。人はどこかで奇跡を求める心があるのです。ですが、魅力的であるからこそ危険でもあるということを忘れてはなりません。人は弱く、弱さゆえに、もし奇跡を行う力を持っているとするならば、その力に頼ってしまいます。そういう意味で、私どもは、主イエスに対して奇跡を行う力を求めているところがあるのです。ですから、それをいちいち記しますと、人は「主イエスの奇跡」に期待するようになり、奇跡によってもたらされる利益を求めてしまいそうになるのです。そうなると、正しく主イエス・キリストを理解することはできなくなります。
 主イエスのなさった奇跡を記すと、主イエスを「奇跡を行う人」と理解する危険があります。奇跡とは「主イエスが神の子であられることを示すための力」です。本来「神の子であることのしるし」それが「奇跡」ですから、聖書は、主のなさった奇跡を「しるし」と記しているのです。
 主イエスの奇跡を見て「ああ、神の子だ」と思うよりも、「ああ、わたしにも、あの奇跡を!」と求めてしまう、それが人の弱さです。
 主イエスに奇跡を求めると正しく主イエスを理解できなくなる、それは、思うように奇跡が起こらなければ、それは不満となり、果ては主をなじるようにさえなってしまうからです。ですから、奇跡は却って人が主イエスを「神の子キリストと信じる」ことから遠ざけてしまう、人を信仰から遠ざけるものでもあるので、ヨハネは奇跡を敢えて記しませんでした。

福音書とは、主イエスの奇跡物語を記すものではありません。また特に、ヨハネによる福音書は他の福音書と違って、14〜16章に主イエスの長い説教、17章には主の祈りが記されるなど、説教を重んじて記しております。そういう意味で、他の福音書より論理的と言えます。それは、信仰とは「鰯の頭も信心から」というようにやみくもに信じるということだけではなく「論理的に理解し得るものである」ことを示しております。知性における信仰ということも大事なのです。ヨハネによる福音書の示す信仰は、「思い込み」ということではなく「神による秩序ある認識である」ということです。聖書において神の御言葉に聴き、そこに聖霊が働くことによって、自らを知り、信仰に至るのです。
 洗礼の準備として私どもの教会では「教理の学び」をしておりますが、教理を学ぶことは「人とは、神とは」を理解する場であり、学びをできることは幸いなことと思います。
 そして、奇跡物語が中心なのではないということは4つの福音書に共通のことなのであって、それは、この30節の御言葉を通して覚えたいことです。と同時に、ヨハネによる福音書は、主イエスの伝記を記すものでもないことを覚えたいと思います。主イエスがどのようなことをなさったか、一人の人間の生涯を記すものではないのです。
 では、どのような目的でこの福音書は記されたのでしょうか。それは、31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と記されております。ヨハネは、主イエスを「神の子キリスト(メシア)」だと記しております。福音書とは「主イエス・キリストを証ししているものである」ということを、聖書自らが示しているのだということです。
 人権主義者たちは、主イエス・キリストを人間イエスとして、主がどうなさったかを聖書に聞こうと言葉巧みに言い、主イエスを人の模範としようとしますが、それは違うのです。私どもが聖書から聴くべきは、「主イエス・キリスト(救い主)」です。聖書自らがここに記しているように、「主イエスはメシア(救い主)であることを人々が信じるために」福音書は書かれました。そこでは、私どもがどのような者であるかは関係ありません。聖書は、福音書は、「主イエスはメシア」と語り、私どもは「それを信じるか」と問われているのです。

ヨハネによる福音書は、主イエスについて、まず1章1節において語っております。主イエスは「神の天地創造の以前から神の御子として神と共にあった方、神なる方である」ということを、まず初めに記しているのです。神と共にこの世を創造された方であるということ、それは「神との交わりにある方である」ということです。その神なる方である主イエスが、この世の(私どもの)救いのために、この世に人となって(私どもと同じになって)来てくださいました。
 30・31節は、もう一度1章1節に戻って、主イエスは神なる方であること、創造主であられることを、振り返って読み返すようにと促しております。「主イエスは神の御子である」ということを踏まえつつ、振り返って読み、理解していくようにとの促しなのです。

主イエスは天において「神との交わり」にある方です。「交わり」こそ「命」ですから、神との交わりは「永遠の命」です。「永遠の命」なる方を信じることによって、私どももまた「永遠の命、神との尽きない交わり」を得る恵みに与っております。「救い」とは「永遠の命に与ることである」と、ヨハネは示しております。「天における尽きることのない神との交わり」それが「救いの恵み」なのです。

では、どのようにして、その救いの恵みに与るのでしょうか。
 主イエスは十字架に死に、復活して甦りの命を得てくださいました。私どもは、この地上に身をおきつつ、主イエスの甦りの命に与り、天に住まいする者とされるのです。ヨハネによる福音書は、十字架と復活の出来事は、主が「私どもの天における住まいを用意するため」と、はっきり記しております。そしてここには「信じてイエスの名により命を受けるため」と記されております。それは「甦りの命、永遠の命」すなわち「神との尽きることのない交わりに生きる恵みが与えられている」のだということです。

私どもは、この地上で生涯を終える者でありながら、天において、神との尽きることのない交わりに生きる者であるのです。

そして「主イエス・キリストを信じる者はだれでも」その恵みに与ることができるのだということを、私どもは「証しする」のだと示されております。

主の恵みに与った者として、主イエス・キリストの恵みに満たされ、喜びつつ宣べ伝える者でありたいと願います。

わたしは漁に行く」 1月第2主日礼拝 2011年1月9日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章1〜14節
21章<1節>その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。<2節>シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。<3節>シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。<4節>既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。<5節>イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。<6節>イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。<7節>イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。<8節>ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。<9節>さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。<10節>イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。<11節>シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。<12節>イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。<13節>イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。<14節>イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れてくださった出来事が記されております。
 本来は20章に語られる「主イエスのエルサレムでの顕現」で終わっている筈ですが、21章にも主イエスの顕現が語られております。それは、マタイによる福音書28章7節に「『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と記されているように「復活の主はガリラヤでも弟子たちに現れてくださる」との約束があったために加筆されたのでしょう。

1節「ティベリアス湖畔」とは、ガリラヤ地方を指すのです。そして2節において弟子たちの名が挙げられております。ペトロ、トマス、ナタナエル、ゼベダイの子たち(ヤコブとヨハネ)と、ほかの二人。名の分る5人と他の2人ですが、7節で分るように、他の2人の内の一人は「イエスの愛しておられた弟子」なのです。
 なぜ、名を挙げられる人がいるのでしょうか。ペトロはガリラヤの漁師、ナタナエルはガリラヤのカナ出身、トマスも何かガリラヤに関係があったのか、ゼベダイの子たちはティベリアス湖畔の漁師と、皆、ガリラヤであることの故に名が挙げられております。
 しかしここで注目したいのは、もう一人の弟子です。7名の中で唯一名が分らず、どのような人かの手がかりも無い「もう一人の弟子」がいるということ、ここに聴くべきことがあります。それは「主イエスの弟子」とは、誰もが「名の知られている者ではない」ということです。誰も知らない者であっても、主の弟子なのです。時代と共に名を忘れ去られていった者たちをも、主イエスは、ご自分の弟子として交わりに入れていてくださっている、その豊かさを覚えたいと思います。
 このことは大事なことです。愛宕町教会はまだ60年の歩みですので記録も残っていますが、プロテスタント日本伝道150年の歴史の中では、名の知られている人よりも、何の記録にも残されていない人の方が多いことでしょう。名の知られない主イエスの弟子がたくさんいるのです。そのような者たちを、主イエスは、今まさに、復活の恵みによって永遠の命の交わりの中に入れていてくださるのだということを忘れてはなりません。主の弟子として、主の交わりの中に入れられているのです。わざわざ名の知れない一人の弟子の存在を記していること、そこに、語られていない大いなる恵みが記されていることを覚えたいと思います。
 このことは、今日の日本社会にとって慰め深いことです。地域や家族の交わりを失い、人は孤独になり、お金だけのつながりが人同士のつながりであることを考えると寂しい現実です。しかし、主イエス・キリストを信じる者は、決してその存在を失われず、忘れ去られることはありません。主イエス・キリストが覚えていてくださるからです。主が永遠の交わりに入れていてくださるという、大いなる希望に生きることができるのです。
 人は誰でも孤独に死ななければなりません。死によって、人は根源的な孤独を抱えているのです。しかし、その死の淵において、主イエス・キリストは共にいてくださいます。主は十字架において私ども(人)の死を既に死んでくださり、そして、死に打ち勝って復活してくださいました。その復活の主イエス・キリストが共にいてくださる、ですから、キリスト者は死においても孤独ではないのです。
 主イエスは、人の孤独な死をもご自分のものとしてくださる方です。主イエス・キリストにこそ、望みがあるのです。孤独な現代日本社会にとっても、主イエス・キリストは望みであり、希望なのです。そのことを覚えたいと思います。

3節「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った」と記されております。
 ペトロはガリラヤ湖畔の漁師でしたが、主イエスに従って主の弟子となりました。しかし主の十字架に希望を失い、ガリラヤに帰り漁師に戻っているのです。
 ここで、ペトロが「漁に行く」と言って思い起こすことがあります。ペトロは漁師として漁をしていたとき、主イエスに出会い、招かれて主の弟子とされました。「漁に行く」とは、主イエスの招きの原点であり、「人間をとる漁師」とされたことを思い起こさせる記述なのです。ペトロが原点に立ち帰る出来事、それがこの「わたしは漁に行く」ということです。
 そして、トマスもナタナエルも他の2人の弟子も、漁師ではなかったのに「わたしたちも一緒に行こう」と言っております。このことは、ペトロに対しての召命は、他の全ての者に対しての召命でもあることを示しております。全ての者に、主イエス・キリストの召命があるのです。

「漁に行く」、そこで弟子たちは、主イエス・キリストと再び出会うのです。復活の主イエスと出会うことによって、「人間をとる漁師としての召命(主の弟子としての召命)」を新たにしているのです。
 ペトロは、弟子を代表する者です。ペトロ=教会が言い表されております。弟子たちの群れ「教会」は、主イエス・キリストの救いを宣べ伝え、救いを宣言する権能を主イエスから委託されております。「わたしは漁に行く」との言葉によって、教会が主の御業を委託されていることの原点が示されているのです。ですから、心新たにして、私どもは、主のご委託に応えて宣べ伝える者でありたいと思います。

ガリラヤにおいて復活の主が弟子たちに臨んでくださることによって、主の弟子たち=教会に与えられている使命が新たに示されました。それは「教会とは何か」ということです。「教会の使命」は、救い主イエス・キリストを宣べ伝え「あなたの罪は赦された」と「救いを宣言する」ことです。「宣べ伝える」ことは「救われる者が起こされるためになす」ことであり、教会は「あなたは罪赦され、救われた」と宣言する力を、神より与えられているのです。

このように重い使命を神より与えられていることを覚え、改めて、救い主イエス・キリストを証しし、信じる者たちに「あなたは救われた」と宣言する歩みをなす教会でありたいと思います。

朝の食事」 1月第3主日礼拝 2011年1月16日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章1〜14節
21章<1節>その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。<2節>シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。<3節>シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。<4節>既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。<5節>イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。<6節>イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。<7節>イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。<8節>ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。<9節>さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。<10節>イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。<11節>シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。<12節>イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。<13節>イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。<14節>イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

3節、7人の弟子たちは舟に乗り、漁に出ます。しかし「その夜は何もとれなかった」と記されております。「何もとれなかった」こと、これは本来、異常な出来事です。ペトロたちは漁師でしたので、自分たちの経験を駆使しての漁であったはずです。しかし「何もとれなかった」、ここには大事なことが示されております。人の経験、知識の限りを尽くしても「何もとれなかった」こと、ここに「人の人生の空しさ」があるのです。
 人は、働き盛りの年齢であれば、起きている大半の時間は労働に費やします。人にとって「働くこと」は「日常」なのです。漁師が一晩中網を降ろして漁をする、つまり一晩中働いて何の成果もなかったことは、その日の労働の空しさを表しております。一日の労働の空しさは、働く者にとっては、人生の空しさに通ずるのです。
 「空しさ」について考えてみましょう。働こうとして働き場がないこと、それは日常を奪われる空しさです。また、人生が長くなることの空しさ、それは一つの達成の後、次の目標を見出せないことの空しさです。また、充実した働きであったとしても、強いられた目標に仕えていれば、思いに適う評価を得ないという空しさもあるのです。
 そういう「空しさ」=「何もとれなかった」=人が気力や体力を失って力萎えてしまったその淵で、しかし、新しい展開があります。
 4節「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」。主イエスが立っておられるのです。人が行き詰まった、そのところでこそ、主イエスが臨んでくださるのです。けれども「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」と記されます。新しい展開が始まる、しかしそのことを弟子たちは知らないのです。

8節を読みますと、舟から陸までの距離は二百ペキス、おおよそ100メートルほどです。そこに主イエスが立っておられることを分らなくても普通かもしれません。しかし、主イエスが岸に立っていてくださることは、私どもにとって慰め深いことです。何故でしょうか。気力を失っている者は、前向きになることはできません。新しいものを見出したり発見することはできませんし、周りが見えないのです。見るべきものを見出せなくなるのです。しかし、そのような者を「岸に立つ主イエスが見出していてくださっている」のです。
 悲しみ、空しさの淵で、自分すら見出せないとき、その私どもの存在に目を向け、見出してくださる主イエス・キリスト。ただ、主イエスのうちにのみ、私どもの存在は見出されるのです。そしてこれこそが「神の慈しみ」です。空しさの淵で主イエスが見出してくださる、これこそが「神の憐れみ」なのです。

5節「イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」と記されております。これは、すごいことではないでしょうか。100メートルの距離があるにも拘らず、大きい声で叫んでいるような会話とは思えません。
 主イエスの御言葉は、心に響く言葉です。主イエスの眼差しのあるところに、主の御言葉が伴っているのです。そこでは距離は関係ありません。
 私どもは、身近な者同士であっても相手が自分を分ってくれないと思うと、実際の距離は近くてもその距離は遠いと感じます。距離を縮めるのは、その存在を見出してくれる場、相手によるのです。
 主イエス・キリストは、私どもの身近にいてくださる方として語りかけてくださる方です。「何か食べる者があるか」とは、慈しみ深い言葉です。しかしそれは、一晩中網を降ろしながら何もとれなかった弟子たちにとっては、耐え難い言葉です。「ありません」と答えるしかない、何もとれなかったという現実です。主イエスの御言葉は、その人の現実を鮮やかにするのです。しかしそれは、恵み深いことです。主イエスは「子たちよ」と呼びかけてくださっております。それは親しみを持っての呼びかけであり、特別な、弟子たちを「愛する者たち」としてくださっている呼びかけなのです。それは、責める呼びかけではなく、招く言葉です。

なぜ、招きなのでしょうか。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」と記されております。主イエスは、弟子たちに食べ物を求めるまでもなく、ご自身でパンも魚も用意してくださっております。「何か食べる者があるか」との言葉は、主イエスが弟子たちと会食しようとされた、食事への招きの言葉なのです。何もとれなかった弟子たちの現実が明らかにされた上での、会食への招きの言葉であり、それは親しい者への慈しみの言葉なのです。

ここで私どもは、「ありません」との言葉の重さを知らなければなりません。漁に出たペトロたちは当然、収穫を期待していたことでしょう。「ありません」とは、ただ持っていないということではないのです。期待していたのに何もとれなかった、「空しいです」との言葉なのです。「ありません」と答えることによって、自分の現実を自覚させられるのです。

6節、主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われます。一晩中網を打って、ペトロたちは疲れていたことでしょう。しかも、一度片付けた網をもう一度降ろすとは、人に言われて簡単にできることではありません。しかし、ペトロたちは「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」と、主イエスの言葉に従って、再び網を打ちます。主イエスの言葉とは「力ある言葉」です。空しさのうちにあるにも拘らず、それでも彼らは、主の御言葉によって網を降ろさざるを得なかったのです。主イエスの言葉とは「人に力を与える言葉」なのです。「主の御言葉は力である」ことを改めて思います。彼らがもう一度網を降ろせたのは、主の御言葉に力を頂いたからです。言われたことが実現する、それが主イエスの言葉です。
 ここに深い味わいがあります。御言葉は大いなる恵みをもたらすのです。そして、祝福とは「満ち溢れる」ものです。「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」、それは恵みが満ち溢れたことを表しております。主イエスの御言葉によって恵みが満ち溢れたのです。それは、受け止め切れないほどの溢れる恵みでした。

そこで、気付くのです。7節「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。気付いたのは「イエスの愛しておられた弟子」でした。ですから、本当なら、彼が主のもとへ行けば良いのです。しかし彼はペトロに告げます。それはペトロが教会を代表する者だからです。ペトロに対して敬意を払っているのです。
 「主だ」と言われて主イエスに気付いたペトロは、「上着をまとって」湖に飛び込みます。それは、主イエスに対する敬意を表しております。舟に乗って岸へ急ぐのではなく、泳いで行こうとするペトロは、誰よりも先に主イエスの所に行きたいのです。11節を見ますと、舟より先にペトロが着いたことが分ります。何もかも捨てて主イエスに集中する、何よりも主イエスを第一とするペトロのこの姿勢は、とても大事です。
 しかし、ペトロのような人ばかりでなくても良いのです。8節「ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た」と、いただいた恵みを大切にして働く他の弟子たちの姿勢も大事です。

9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」。既に主イエスは全てを備えてくださっております。主の招きの食事は、弟子たちがとってきた魚によって整えられるのではありません。主イエスが全てを備えていてくださって、初めてなし得る会食であることを覚えたいと思います。
 そして「炭火がおこしてあった」ことにも心を留めてみましょう。主イエスは弟子たちがとってきた魚をも用いてくださり、共に食してくださるのです。私どもの成果を主との交わりに用いてくださることの幸いを思います。主イエスは恵みに満ち溢れる交わりをくださるのです。

11節「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。恵みに満たされて、力を与えられて網を引くペトロの姿と、153匹もの大きな魚は、いかに恵みが深かったかを表しております。

12節「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」と記されております。弟子たちは、共におられる方が主イエスであることを知っております。この主イエスとの交わりは3度の食事ではなく、聖餐に通じる交わり、神との交わり、愛餐を示しております。神との愛の交わりへと、弟子たち(私ども)は入れられているのです。

今、私どもは、主の前に集って礼拝しております。礼拝は、神との交わりのときであり、何よりもこの交わりは「主にある交わり」であることを覚えたいと思います。
 主の交わりのうちにある、そのことが、ここでは「朝の食事」と言われております。今この礼拝は「朝の食事の交わり」のうちにあるのです。ただ主の招きによって、神の慈しみの交わりに入れられているのだということを覚えたいと思います。

 それは、日常の空しさから解き放たれる恵みの出来事なのであり、この交わりにおいてこそ、私どもは存在を得るのです。

十人のおとめ」 1月第4主日礼拝 2011年1月23日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/マタイによる福音書 第25章1〜13節
25章<1節>「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。<2節>そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。<3節>愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。<4節>賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。<5節>ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。<6節>真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。<7節>そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。<8節>愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』<9節>賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』<10節>愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。<11節>その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。<12節>しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。<13節>だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

イエスさまは天の国をたとえをもって語ってくださいます。天の国、天国について、普段、私たちはあまり考えることはないのかも知れません。けれども愛する者が病気になったり、あるいは死によって別れなくてはならなくなったりするときに、天国のことが、俄然、思いの中にのぼって来ることを経験いたしもします。天の国、これは漠然と私たちが死んだら行くところだと思っているところがあります。そうだからこそ、今はそんなことを考えることはできないと思ったり、反対に今日こそ近く天国のことを深く思う日はないと感じながら過ごしている人もあるでしょう。
 聖書が伝えてくれている天の国、それは神の国とも言い換えられるものです。マタイによる福音書では神の国という言葉は少なく、天の国という言葉のほうがよく用いられています。それはモーセの十戒に「主のみ名をみだりに唱えてはならない」とあって、その戒めに従って、本来、神の国とするところを天の国と言い換えているのです。同じことです。ですから天国は神が御支配くださっていることを現しているのです。

イエス・キリストが語ってくださる福音は、非常に切迫したものを持っています。イエスさまがガリラヤで宣教を始められたとき、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイによる福音書4章17節)とすでに語っていてくださっていました。天の国は近づいている。いや、すでにここに来ている、とさえ、言って良いのであります。イエスさまがすでに来られているので、神の支配がここにある。だからこそ、神に心を向けるようにと語りかけてくださっているのです。

ここでイエスさまが語ってくださっている天の国のたとえは、「わたしはすぐに来る」と言われたイエスさまの約束を聞いている教会に語られているものであると言われます。イエスさまが来てくださっていることが、神の御支配の現れなのですから、再び、おいでくださるというのは、神の国の完成、救いの完成の時と言って良いのです。イエスさまが再びおいでになるという約束をいただいている教会は、その時に完成を見るのであります。私たちはすでにイエスさまの招きを受け、神の御支配のうちに入れられたのですが、未だそれは完成した姿ではないのです。そのときこそ、花婿が花嫁を迎えに来てこそ、始まる婚礼のときなのであります。
 天の国はしばしば、婚礼にたとえられるのであり、まさに神の御支配の完成こそは喜びなのだ、とイエスさまは語ってくださるのです。ここでも「十人のおとめ」というよりは、むしろ婚礼にたとえられているのです。まったき喜びへの招きであることを聞き取ってよいのです。

当時のユダヤの結婚についてですが、婚約をした男女はその時から社会的に夫婦と認められていましたが、婚約の期間は二人はそれぞれの家で生活することとされ、会うことすら許されていませんでした。その期間は一年に及ぶほど長いものでした。いざ結婚というときになると、花婿が花嫁の家に迎えに行くことになっていました。花嫁の家からは先に花嫁の友人たちがランプを手にして花嫁と共に花婿を出向かえて、婚礼の時が始まるのです。しかも婚礼は一週間に及ぶものでありました。

こうしたユダヤにおける結婚にいたるまでの有り様を見まして、イエスさまがお語りくださるこのたとえ話の中の花婿の姿が、いかに異常なものでありましょうか。こんな大事なときには、花婿と花嫁の間に約束がしてあったに違いがありません。ところが約束して会った時間よりも、はるかに遅れた真夜中に花婿がやって来るのです。この花婿こそ、「わたしはすぐに来る」と約束したもうたイエスさまであります。ここに再臨が遅れてしまっていることへの、イエスさまがくださっている答えがあるのです。教会はイエスさまの約束を信じて、今日にも来られると思って生きた時代がありました。あまりにもその思いが強かったので、日々の仕事にも手がつかなくなった者たちもあり、パウロという人が「働かざるもの、食うべからず」と言って戒めたことが聖書にあるくらいです。ところが、すぐに来るはずのイエスさまが、なかなか来て下さらないとなると、その約束よりも目先の現実のほうにだけ目を向けるようになってしまうのも無理もないことであります。そういう教会に生きる者たちにイエスさまは、この異常に見える花婿の姿を通して、必ず、約束を果たしたもうのです。即ち、再び必ずおいでくださって、イエスさまは私たちに完成を見させて下さるのです。

先に、このたとえは「わたしはすぐに来る」とのイエスさまの約束をいただいた教会に語られたものと申しました。約束をいただいたのですから、その時を待つのが教会の姿勢と言ってよいかと思います。教会の姿はどこに現れるのか、と言えば、それこそがまさに「十人のおとめ」であります。そのうちの5人は愚かで、5人は賢いと言われております。ここに出てくる賢い5人のおとめ、彼女たちも異常であると言えなくもありません。花婿の来るときに備え、ともし火をともしているのは分かるとしても、遅れに遅れた花婿がやってくる真夜中まで残るほどの油を準備しておくと言うのは、あり得ないことであります。そもそも花婿が来るのが遅いので、10人のおとめたちは眠ってしまってもいるのです。ですから、愚かな5人のおとめたちの方が常識人ということになるのです。この世の常識に照らして見るならば、真夜中になぞ、油が残っていなかったからとて責めるところなんてあるはずがありません。けれども、彼女たちは外に置かれることになってしまうのであります。

このたとえから聞き取らねばならないのは、一つ、主なるイエスさまの約束は必ずなる、ということであります。今一つは、「わたしは来る」というイエスさまの約束をいただいた者として、その時を待ち望む者として生きるということです。イエスさまの約束はその弟子の群れである教会に与えられたものですが、だらかこそ漫然とその時を迎えるのではなく、御言葉と祈りをもって神を礼拝し、心からイエスさまの来たりたもう時に喜び迎えていただけるようにと備えるのであります。
 ここで覚えてよいことがあります。ともし火油とはイエスさまからの賜物ということです。それは聖霊であるからです。そして聖霊は、御言葉と祈りに働くのです。賢いおとめが、どうして真夜中まで残るともし火油を用意できたのでしょうか。尽きてしまわなかったのでしょうか。他に買いに出かけたり、もらいに出かけたりする必要がないほどに、もうすでに花婿が来ているのです。私たちを天の国に迎えてくださる真の光なる主イエス・キリストを迎える以上に、なすべきことを持たない、それこそが賢いおとめなのであります。

最後に「目を覚ましていなさい」と勧められています。けれども、眠ってしまっても良いのです。起こしてくださるから。これはただの眠りではありません。死を表しているものです。イエスさまが再びおいでになるとき、呼び起こしてくださり、婚礼のごとき天の国の喜びの中にイエスさまが迎え入れてくださるのです。
 この望みを受けた私たちは、すでにその恵みのうちに生きることがゆるされていることを覚えて、神様をほめたたえ、礼拝しつつ歩むのであります。

あなたがご存じです」 1月第5主日礼拝 2011年1月30日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第21章15〜19節
21章<15節>食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。<16節>二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。<17節>三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。<18節>はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」<19節>ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

復活の主イエスが弟子たちに臨んでくださり、弟子たちは主にある恵みに満たされております。その後の、ペトロと主イエスとの会話、それが今日の箇所です。

15節「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」との主イエスの言葉は、なかなか辛辣な言葉です。私どもであれば、どう答えるでしょうか。「愛している」とは言いにくい言葉ですから、何とも答えにくい問いです。主イエスは私どもの罪のために十字架にお架かりくださいました。その主の恵みに十分応えられるほどに「主を愛している」とは、なかなか言えないのではないでしょうか。しかしここで、この主の問いに対するペトロの返事は素晴らしいものです。
 主イエスのなさる問いは、辛辣にも思える問いですが、しかし、この問いによってペトロの心の内が、現状が明らかになるのです。主は決して答えられない問いをなさることはありません。ペトロが主イエスを愛していることを主はご存じです。だからこそ問うてくださるのです。ペトロに対する深い親しみを、主イエスが持っていてくださるからこその言葉なのです。それほどに、主イエスとペトロには深い信頼関係があるのです。
 「はい、主よ、」とのペトロの言葉は実に率直です。主イエスに対して真っすぐな、ペトロらしい信仰の姿です。そして「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とは、ペトロの信仰の成長を思わずにはいられない言葉です。もともとペトロは率直な人ですが、同時に大変な熱血漢でもありました。例えば、主イエスが弟子たちの足を洗われたとき(13章)、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言いながら、主イエスの一言によって「主よ、足だけでなく、手も足も」と言ってしまうような、感情がほとばしり表れる人でした。主イエスへの思いは人一倍熱いのですが、その思いが主の御心に適っていたかどうかは疑問です。ユダの手引きで主イエスを捕らえにきた大祭司の手下の耳を切り落としたのもペトロでした。しかし、主が捕らえられたとき、大祭司の屋敷の中庭にまで付いて行きながら、そこで3度「主を知らない」と言った人です。主イエスが十字架にかかられることを予告されたとき、「誰が離れても、決して自分だけは主から離れない」と言いながら、3度主を知らないと言ったこと、そのことは、主が3度「わたしを愛しているか」と問われたことと関係しております。
 主イエスの十字架の出来事の前であれば、ペトロはきっと「この人たち以上に、わたしはあなたを愛しています」と断言したことでしょう。けれども、今のペトロはそうは言わないのです。自分は主を愛していると思っている、としてもそれは「主がご存じのこと」だと、ペトロは謙遜になっているのです。感情を抑えることができなかったペトロは、鎮まった謙遜な人に変えられました。主イエスの十字架と復活の出来事によって、人は変えられるのです。熱い情熱ゆえに失敗してしまう、そういう罪あるペトロは、このように謙遜な、後に教会の指導者となるまでに変えられました。
 人は自らの思いによっては、謙遜な者と変わることはできません。謙遜であっても、それが自らの思いによってであれば、自分の力を誇るのです。自分がいかに無力な罪深い者であるか、そこで砕かれてのみ、変わるのです。それはただ、十字架と復活の主イエス・キリストの出来事、神の出来事によってのみであることを覚えたいと思います。
 そういう意味で、ペトロの答えは素晴らしいものです。もはや自分の思いを誇らなくなっているのです。主を愛しているか、自分の判断ではなく、自分の思いをも主イエスに委ねております。それはなかなか、できないことです。「すべては、あなたがご存じです」と自らの思いを主に委ねる、それほどまでにペトロは主に信頼して謙遜な者となっているのです。

さらにもう一つ素晴らしいことは、比べなくなったということです。「この人たち以上に」と言わないのです。これは大事なことです。なぜならば、他と比較して自らの思いを優先させることは、人との交わりを害するものであり、それゆえに人は交わりに破れて孤独となるからです。誇ったり、蔑んだり、卑屈になったり、他者との比較によって様々に思うのです。競争社会に生きている以上、私どもは、他者と比べないわけにはいかず、自分で、あるいは他者から価値の有る無し、善し悪しを決められてしまって、自由な思いを持てなくなるのです。比べることは不自由になること、そのような社会に私どもは生きております。
 捕われなき自由な生き方、それが信仰の生き方です。
 かつての日本人は「捕われること」を「捕われなきこと」に変える感覚を持っておりました。それは「捕われに徹する」というあり方です。「こだわりに生きる」ことを美化し、自分のこだわりを他者に向けないで自分の世界に生きる、そういう信仰がありました。しかし、そのような感覚を今は失っております。今よりも、もっと格差があり不自由であったにも拘らず、昔の方が今よりも「鬱」は少なかったと思います。今は、自らの捕われを美化できないで、他者との比較によって自分の存在を見出せなくなっているのです。そんな現代人が捕われから自由になるには、信仰によるしかありません。

ペトロの信仰の姿、それは捕われなき者の姿です。十字架と復活の主イエス・キリストに圧倒されて、主イエスがペトロの全てとなってくださいました。主イエスを3度も否んだペトロをも慈しんでくださり、そのペトロのためにも十字架にかかり罪を贖い、復活の主として臨んでくださった主イエス・キリスト。その主が全てとなったペトロ。謙遜な者になり得たペトロの姿を通して、私どもは、ペトロにとって主が全てとなったことを覚えたいと思います。それは私どもにも同じことです。ペトロと同じように、主は私どもの全てをご存じでいてくださるのです。
 「主イエスこそ我が命」です。私どもが全てなのではありません。主イエスが私どもの全てであってくださるからこそ、私どもは捕われなく自由になるのです。主が全てであられるがゆえに、ペトロは「主よ、あなたがご存じです」と、自分を主に明け渡すことができました。「主よ、あなたがご存じです」それ以外に言葉が無かったのです。ペトロ以上にペトロをご存じなのは、主イエス・キリストなのです。3度も主イエスを知らないと否んでしまうなど、自分でも思ってもみなかったペトロです。しかし、そのようなペトロを主イエスは知っていてくださり、そういうペトロを弟子とし、更に「わたしの羊を飼いなさい」とまで言ってくださっております。
 ペトロの本当の罪深さを知っていてくださったのは、主イエス・キリストです。人は自分で自分の罪を知ることはできません。自分の思いや力では、知り得ないのです。そのような人の罪を贖うことができるのは、主イエスの十字架のみです。私どもの罪深さを誰よりも知っていてくださる方として、私ども自身が知らない罪をも、十字架によって終わりにしてくださっているのです。

「自らの罪を知り得ない」という認識は、「謙遜」な認識です。「主のみご存じ」と言える、それが信仰です。私どもは、私ども以上に私どもをご存じな方、主イエス・キリストに委ねる他ない者です。

主イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい」と言ってくださっております。「主イエスを信じる者たち」それが「羊」です。ペトロは「羊」を導き養う者とされました。このように教会の指導者となったペトロは、しかし先頭に立っているのではありません。「わたしの羊に仕えなさい」と言われております。19節「わたしに従いなさい」と、主イエスはペトロに言われました。主イエスは十字架をもって、ご自分の命までもって、弟子たちに仕えてくださいました。主は自ら、弟子たちの模範となってくださったのです。そして主を信じる羊の群れを、ペトロに委ねてくださっております。「人を導く」とは「人に仕える」ということです。

「わたしを愛するか」と問うてくださった主イエスが言ってくださっていること、それは「仕えなさい」ということです。「主を愛する」とは、主イエス・キリストが頭である「教会に仕える」ということです。主イエスご自身の群れを託するために、主はペトロに「わたしを愛するか」と問うてくださいました。
 「愛する」とは求めることではありません。「愛する」とは「仕える」ことです。主イエス・キリストの十字架、愛の出来事は、私どもに仕えてくださる出来事でした。ですから覚えたいのです。「愛する」ゆえに「仕える」、それが私どものあり方です。