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前回は10節の途中までお話いたしました。 11節「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、主イエスは言われました。主を十字架につけるのは、ピラトでありユダヤ人たちです。しかし、それだけでは主を十字架につけることはできません。そこに「神の御心」がなければならないのです。 「この世の力」と「神の力」の違いを覚えておきたいと思います。 11節後半「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と、主は言われます。神の御心に従うから「十字架につく」と主は言われ、そしてここで、「罪無き方主イエスを十字架につけた罪」は、ピラトだけの罪ではないことを言っておられるのです。主を十字架につけたくないのにつけてしまうピラトよりも、熱狂するユダヤの人たちの方が罪が重いと言われるのです。「主イエスを認めない」こと、それがユダヤ人たちの罪です。ユダヤ人たちは自分たちのメシア(救い主)を求めておきながら、自分たちの思いに適わないメシア(主イエス)を認めないのです。自分の思う形で示されなければ受け入れられない、と思っているのです。自分の思いでは、耐え難い出来事を受け入れることはできないのです。ユダヤ人たちは政治的な王としてのメシアを主イエスに求めましたが、十字架の主イエスを救い主とは受け止められないのです。いやそればかりか、主イエスを邪魔者とし、排除しようとするのです。神を信じる民でありながら、神の御心を受け入れることができないのです。 主イエス・キリストの十字架は「人の罪の極み」のできごとですが、その極まった人の罪を「罪無き方、主イエス・キリストが贖ってくださった」神の救いの頂点なのです。主イエスの十字架によってこそ、人は、全き罪の赦しを頂いたのだということを覚えたいと思います。 人にとって「罪を知る」ことは、救いの糸口、救いの始まりです。「罪を知る」こと、それは慰めです。何故ならば「罪を知る」、そこで「既に赦されている」ことを知るからです。それはただ「主イエス・キリストの十字架」によってのみ、知り得ることです。 罪を知らないことが幸いなのではありません。自らの罪を知ることは悲しいことではないのです。罪を知ることは幸いです。そこでこそ、罪の赦しを見るからです。 |
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ピラトは、主イエスの十字架は「神の権限によること」そして「主を十字架に引き渡そうとするユダヤ人の方が、ピラトよりも罪が重いということ」を、主イエスの言葉から聞いて、ますます主イエスを釈放しようとします。 主イエスとは、どのようなお方なのでしょうか。主の周りには、敵意ある者(ユダヤ人)、弱さの故に仕方なく罪に手を染めざるを得ない者(ピラト)がおります。しかし、人々がどうであろうと、主イエスは全てを神の出来事として受け止めておられます。敵意ある者、弱さにある者を、主イエスは憐れんでいてくださるのです。私どもがどうであるかに拘らず、主イエスは常に慈しみをもって臨んでいてくださる方だということを知らなければなりません。神の慈しみの頂点、それが十字架です。敵意ある者、弱い者のための十字架です。それは、私どものために、耐え難い十字架の死を主イエスが進んで死んでくださったということです。主イエスは自ら進んで十字架につかれるのです。人々の敵意という罪、弱さゆえの罪を贖い取り、救いとなってくださったのです。 このような主イエスの姿勢に同情的なピラトは、主イエスを釈放しようとするのですが、三度にわたる努力も空しく、ユダヤ人たちの熱狂は収まりませんでした。ユダヤ人たちの思いは何か。彼らは苛立っているのです。殺意の実行を望んでいるのみの彼らにとって、ピラトの言葉は、「殺せ、殺せ」という怒りにまで駆り立てるものでした。 12節「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」とは、ユダヤ人たちの言葉です。「皇帝の友」とは、皇帝に忠誠を誓った者という意味で、ユダヤ人たちは、ユダヤ人の王と自称する者は皇帝に背く者だと言い放つのです。しかし、なんと愚かしいことでしょうか。ユダヤ人たちは、本心から皇帝に忠誠を誓う者ではありませんでした。にも拘らず、主イエスを十字架につけたい一心で、あたかも皇帝に忠誠を誓う者であるかのように言い放つのです。ここにユダヤ人たちの不真実な姿を思わずにはいられません。ユダヤ人たちは、その生涯にわたって、ローマ皇帝に忠誠を誓うことなどなかったのです。 皇帝への忠誠を疑われたピラトは、その途端に、主を十字架につけることを決意します。もし、ローマに、自称ユダヤ人の王を釈放したことが知れれば、ピラトは総督の地位を失うでしょう。事柄の真実よりも自分の身分の方が、生活の方が大事なのです。 13節「イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」と記されております。「敷石」とは、ユダヤの砦の中庭であり、そこが正式な裁判の場所でした。ここでヨハネによる福音書は、その時を、すなわち裁判の時を記しております。14節「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」。それは金曜日であり「過越の始まり」を示しております。つまり、イスラエルの出エジプトの出来事(奴隷の民からの解放、神の救いの出来事)を思う、その時に、主イエスの十字架への道が決まったことを印象付けているのです。 「罪」とは、どういう状況なのでしょうか。「罪」とは「捕らわれ」ということです。人は、真実なものにより頼むならば、捕らわれなく生きることができるのです。真実とは、人を自由にするものです。しかし、真実のない者は違います。人には自分の中に真実はないので、もし、より頼む者がないならば、自分に頼る以外にありません。そこで、自分の言葉や行い、他者の言葉や行いに捕らわれてしまいます。神なき人の姿とは、捕らわれ人の姿です。そしてそれが人の罪の姿なのです。 主イエス ・キリストの十字架は、そのような「人の罪」を終わりとし、神との永遠の交わりに入れてくださるという恵みです。その恵みによって、人は、自分や他者という捕らわれから解き放たれて、平安を得るのです。「主イエス ・キリストを救い主と信じる」ところにこそ、捕らわれなく生きる生活があるのです。「神に信頼する」ことにのみ「自由がある」ことを覚えたいと思います。私どもの罪を贖ってくださり、神との交わりを与えてくださった主イエス ・キリストを信じることこそ、平安なのです。 19節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」と記されております。ピラトは、ユダヤ人たちに対する軽蔑の言葉として「ユダヤ人の王」と書くのです。ユダヤ人たちは、メシア(救い主、王)を待ち望んでおりました。しかし、主イエスは、彼らが望むような王ではありませんでした。「神の御心を拒む」、そのユダヤ人たちの心が殺意の叫びとなっているのです。それは「神殺しの罪」です。「主イエスを拒む」というユダヤ人たちのあり方が、その罪の深さを示しております。「神殺し」、それは「赦しがたい罪」なのです。 しかし、このような「赦されない罪」を一身に背負って、主イエスは十字架につかれるのです。「主イエスの十字架」、それは「赦されない罪をも赦す十字架」です。ローマ皇帝を王だと微塵も思ってもいないにも拘らず、自分の思いを通すためには手段を選ばず「皇帝こそ王」と言い放つ、何とも救いがたい者たち。そのような「救いがたい者の罪」のための「主イエスの十字架」であることを覚えたいと思います。 罪ある者、私どもは、自らを救うことなどできない者です。そのままでは滅びに過ぎない存在なのです。そのような滅びに過ぎない者の救いを成し遂げてくださった出来事、それが「主イエスの十字架」であることを、改めて深く思う者でありたいと思います。 |
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現在、世界のキリスト教徒の数は、およそ20億人ほどいます。世界の人口は推計でおよそ70億人弱と思われますので、人口のおよそ四分の一は、キリスト教徒と言うことになります。 ここで、聖書の御言葉をよく読んでみましょう。主イエス・キリストの招きは、むしろ命令であったことが分かります。我に従え、と言うのです。しかし、主イエス・キリストは、ただ有無を言わさない命令を与えただけではありませんでした。 こうして、2010年の現在。世界の片隅の、ガリラヤ湖畔で、たった四人の漁師から始まったキリストを信じる者たちの小さな行進は、現在、世界中で20億人の大行進となっているのです。 たとえば、アンデレのことを考えてみましょう。皆さんは、アンデレというキリストの弟子が、一体どのような働きをしたのか、すぐに答えられるでしょうか。シモン・ペトロの陰になって、あまり目立ちません。 こうして、アンデレを用いてくださった主なる神は、ここに集う皆さん一人一人を用いてくださるのです。 |
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ピラトはユダヤ人たちとのやりとりによって、主イエスを十字架につけるために引き渡します。ピラトは主イエスに罪を見出せず、本当は主を十字架につけたくないのですが、ユダヤ人たちの熱狂に負けてしまうのです。しかし、それだけではありません。11節の「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」との主イエスの言葉によって、ピラトの心の重荷は少し軽くなってもいるのです。 16節「イエスを彼ら(ユダヤ人)に引き渡した」とは、印象的な言葉です。実際には、主イエスはローマの兵士に引き渡されたはずですが、ここでは「ユダヤ人の思い=殺意」が主イエスを十字架につけたことを印象づけるための言い回しになっております。そして「彼ら(ユダヤ人)はイエスを引き取った」と続きます。ユダヤ人=神に選ばれた神の民が、神の御子を十字架につけるのです。神の民であっても罪の内にあるのだということが示されております。 17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」と記されます。主イエスの十字架は人々の罪のための十字架ですが、一方で、主イエスは神の御心として自ら進んで十字架につかれます。他福音書では、主と共に十字架を背負う者(シモン)が記されますが、ヨハネによる福音書では「イエスは、自ら十字架を背負い」と記し、シモンは出てきません。ヨハネによる福音書はこの記述によって、「主イエスが自ら進んで、人の罪深さを背負って十字架についてくださった」ことを鮮やかに示しております。 ここでの「人の罪=ユダヤ人の罪」とは何でしょうか。それは「憎しみゆえの殺意」です。「自らの行い(功績)によって救われるのではなく、ただ神の憐れみによって救われる」ということへの反発です。自らの生き方を否定されたということへの「憎しみ」なのです。自らの努力、一生懸命さ、功績主義、そこに罪が生まれます。その「憎しみ」という罪が殺意を生み、主イエスを十字架につけたのです。 では、「憎しみ」をどう考えたらよいでしょうか。最近は「愛が地球を救う」と言われますが、どうでしょうか。関係概念としての「愛」の反対概念は「憎しみ」と思いがちですが、そうではありません。「愛」の反対概念は「無関心」です。「愛する」から「憎しむ」、ですから「憎しみ」とは「愛」なのです。「愛」は「憎しみ」を生み、「愛」ゆえに、人は人を殺してしまうのです。ですから知らなければなりません。人の愛は人を救うことはできません。人の愛は、却って憎しみを生み、人を殺すこともあるのです。 「真実の愛」それは「神の愛」です。「神の愛」こそが人を救うのです。神は御子主イエス・キリストまで下さって、私どもを愛してくださいました。自ら損をしてまで(御子イエスを十字架につけてまでの自己犠牲の愛)、私どもを愛して救ってくださったのです。 主イエス・キリストの十字架は、人の罪の頂点がキリストの救いの頂点であることを示す出来事です。主イエス・キリストの十字架とは、人の罪ゆえの裁きを背に負うてくださる「身代わりの死」です。その「身代わりの死」によって、人の罪は贖われるのです。 19節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」。ピラトが書いた罪状書きは、ユダヤ人に対する皮肉、軽蔑の思いです。そしてその思いが、主をユダヤ人に引き渡すという行為となるのです。ピラトは「ナザレのイエス」と、主イエスの出所を明らかにして「ユダヤ人の王」と書きます。ピラトは、主イエスを「ユダヤ人の王」などとは思ってもいないのですから、これはユダヤ人に対する強烈な皮肉なのです。そしてもちろん、ユダヤ人たちの本意でもありませんから、ユダヤ人たちはピラトに「この男は『ユダヤ人の王』と自称した』と書いてください」と頼むのです。 罪状書きは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」と記されております。念入りです。ヘブライ語は話し言葉、ラテン語は文書に用いる公用語、ギリシャ語はローマ帝国の公用語ですから、この罪状書きは、全世界に対して公式文書として、主イエスが「ユダヤ人の王=メシア(救い主)として十字架につけられた」ことが記された罪状書きなのです。ここに、主イエスが「十字架において全世界の救いを成し遂げてくださった方である」ことが示されております。 「ユダヤ人の王と自称した」と書き換えて欲しいとのユダヤ人の声に対して、22節「『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた」と、ピラトは自らの思いを譲りません。ここに、主イエスが「自称メシア」として死なれたのではなく「真実のメシア」として十字架につき死なれたのだ、ということが示されております。 「主イエスは王=メシアである」とは、どういうことなのでしょうか。主イエスは武力をもって世界に君臨する方ではありません。何よりも、主イエスは「十字架において『人々の罪の贖い』となって『罪を赦してくださったメシア』である」ことを忘れてはなりません。 人は、一人で生きることはできません。人との関係(交わり=愛)なくして生きることはできないのです。しかし、人は、罪(自己中心)あるゆえに、その愛は人を抹殺さえしてしまいます。人の愛とは、罪を背負って愛であり、そのような愛の中には、救いを見出すことはできないのです。 そのような私どもの罪を自ら進んで背負って、十字架についてくださった主イエス・キリストにのみ、救いがあります。御子主イエス・キリストを十字架につけてまで、私どもに愛を貫いてくださった「神にのみ、救いがある」のです。 その「神の愛に応える信仰」によってのみ、私どもの救いがあることを改めて覚える者でありたいと思います。 |
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