聖書のみことば/2010.9
2010年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
あなたたちの王」 9月第1主日礼拝 2010年9月5日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章8節〜16節
19章<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

前回は10節の途中までお話いたしました。
 主イエスの沈黙に耐えられないピラトは、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と、主イエスを脅すように言うのです。確かに、支配者であるローマ帝国総督としての権限を持っているピラトであれば、主イエスを十字架につけることも釈放することもできるのです。ピラトは主イエスに罪を見出すことができないが故に、主を十字架につけたいわけではありません。しかし、ユダヤ人たちの「十字架につけよ」との熱狂する声に抗しきれなくなって、主を十字架にかけざるを得なくなるのです。ピラトが主を十字架につけるのは、自らの力(総督としての権限)に責任をもって為すのではありません。人々の熱狂する叫びに負けて為すのです。ですから、ピラトがどんなに力ある者だったとしても、その力は「真の力」ではないのです。
 「真の力」とは、どのようなものなのでしょうか。「力」とは、そこに責任性を問われるべきものです。ユダヤ人たちはこの世の力(ローマの権威)を借りて、また、ピラトはこの世の圧力(人々の熱狂)に負けて、主イエスを十字架にかけます。それはどちらも自らの責任によって行使する業ではなく、それは無責任な業なのです。

11節「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、主イエスは言われました。主を十字架につけるのは、ピラトでありユダヤ人たちです。しかし、それだけでは主を十字架につけることはできません。そこに「神の御心」がなければならないのです。
 「主イエスの十字架」は、主イエスが「神の御心、神のご計画に従われた」できごとです。主イエスは、死んだラザロを甦らせ、病む者たちを癒され、そのことによって「神の力」を示されました。ですから、主イエスは「神なる方」として、ユダヤ人たちやピラトを一掃することはできた筈です。しかし、主はそうなさいませんでした。何故か。それが「神の御心」だったからです。「神の御心」であったから、主イエスは黙することができたのであり、十字架への備えをされるのです。
 主イエスは、この世の力に負けて十字架につかれるのではありません。「神の御心に従って」十字架につけられるのです。神に対する従順を示すこととしての「十字架」なのです。
 しかし、ユダヤ人たちもピラトも、このことを知りません。彼らは「神の御心を知らない」にも拘らず、神のご計画に仕えているのです。知らずに仕えるとは、虚しいことです。知っていて仕えることは幸いなことです。主イエスは神の御心を全てご存知の上で、神に全く従い、仕えておられます。なんと麗しいことでしょう。
 主イエスを十字架につけてまでなされる「神の御意志」とは何でしょう。それは「この世の救い」であり「罪の贖い」です。神は、主イエスの十字架によって人の罪を終わりとしてくださいました。そこに示されていることは「神の大いなる力」です。神は、この世(人)を救うために、その絶大な力を働かせてくださるのです。

「この世の力」と「神の力」の違いを覚えておきたいと思います。
 フィリピの信徒への手紙2章においてパウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記しております。
主イエスは「神でありながら、へりくだり、人となられた(無となられた)」のです。神は永遠であり完全な方です。しかし、人は有限であり不完全です。完全な方(主イエス)が不完全な者(人)になられたということ、それが「力ある」ということです。「自ら低くなる」というやり方での「力の行使」です。「力ある者が、力無い者にまでなる」それが「神の力」です。それは人の力では為し得ないことです。
 人は、何かを知ってしまえば、何も知らなかったかのようにすることはできません。「人の力」は「へりくだる」というところには無いのです。人にはプライドがある故に、へこんだり卑屈になることはあっても、自ら低くなることはできないのです。もし人が低くなれるとするならば、それは自らの生き方が破綻した時です。その時にしか、低くなることはできません。しかし、そのままでは心はすさみ、虚しく、孤独です。ただ一番惨めな自分を受け入れるとき、本当に低くなることができるのです。しかし、それは自分の力で為し得ることではありません。そこで、同じ惨めさに立つ者を見出すしかないのです。そして何と幸いなことに、私どもの最も惨めな淵に、それ以上に惨めな者として主イエスが立っていてくださるのです。「神の力」とは、自分自身を心底から愛するようになれるために「低くなる」という「力」なのです。
 人は自分の力を、「人を裁く」こと、「自分の利益を求める」こと、強がることに表そうとします。それは何とも残念なことです。私どもの力は虚栄でしかないのです。それは「神を排除する」こと。そして自分を一番にすることです。そのような力は争いを生み、互いに傷つき、破綻し、惨めさを味わう、それが人の力の行使の行き着く先です。本当は、神は人が真実に生きるための力をくださったのです。自ら自立するように、と力をくださったのです。それなのに人は、力をくださった神から離れて自らを神とし、他者に対して力を行使するようになってしまいました。それが、私ども(人)の罪の姿なのです。
 ですから、覚えなければなりません。ただ「神を畏れる」ことによってのみ、私どもは、本来の真実な「麗しい力」を発揮することができるのです。そしてそれは「神の謙遜」によるのです。「弱さを担える」ところに力があるのです。強がるところに力はありません。自らへりくだって低くなることのできない私ども(人)には、弱さを担う力はないのです。真実に「弱さを担える」のは「神のみ」「主イエス・キリストのみ」であることを覚えたいと思います。

11節後半「だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と、主は言われます。神の御心に従うから「十字架につく」と主は言われ、そしてここで、「罪無き方主イエスを十字架につけた罪」は、ピラトだけの罪ではないことを言っておられるのです。主を十字架につけたくないのにつけてしまうピラトよりも、熱狂するユダヤの人たちの方が罪が重いと言われるのです。「主イエスを認めない」こと、それがユダヤ人たちの罪です。ユダヤ人たちは自分たちのメシア(救い主)を求めておきながら、自分たちの思いに適わないメシア(主イエス)を認めないのです。自分の思う形で示されなければ受け入れられない、と思っているのです。自分の思いでは、耐え難い出来事を受け入れることはできないのです。ユダヤ人たちは政治的な王としてのメシアを主イエスに求めましたが、十字架の主イエスを救い主とは受け止められないのです。いやそればかりか、主イエスを邪魔者とし、排除しようとするのです。神を信じる民でありながら、神の御心を受け入れることができないのです。
 人は、自分の仕方に適った思いしか受け入れられなければ、自らの思いを第一とする「偶像」を作らざるを得ません。人は多様ですから、そこでは争いが絶えないのです。
 「神を信じない」、そこに人の罪の姿があります。それは「神殺しの罪」です。「神の御心を受け入れず、神の御子を十字架にかけて殺す」これはまさしく「神殺しの罪」なのです。それは「究極の罪の姿」です。
 「主イエスの十字架」は「人の救い」のためのできごとです。しかしそこに「神殺し」という、人の罪の極点が表されているのです。「神殺し」によって起こることは何でしょうか。それは、自分にだけ価値を置くということです。他者の価値は関係ないのです。自分だけの神を作る、つまり「偶像を作る」のです。他者の偶像を受け入れることはできないが故に、争いが起こるのです。ですから「偶像礼拝」は滅びでしかありません。「偶像礼拝」を殊更に恐れることはありません。「偶像礼拝」は自ら滅んでゆくからです。

主イエス・キリストの十字架は「人の罪の極み」のできごとですが、その極まった人の罪を「罪無き方、主イエス・キリストが贖ってくださった」神の救いの頂点なのです。主イエスの十字架によってこそ、人は、全き罪の赦しを頂いたのだということを覚えたいと思います。

人にとって「罪を知る」ことは、救いの糸口、救いの始まりです。「罪を知る」こと、それは慰めです。何故ならば「罪を知る」、そこで「既に赦されている」ことを知るからです。それはただ「主イエス・キリストの十字架」によってのみ、知り得ることです。

罪を知らないことが幸いなのではありません。自らの罪を知ることは悲しいことではないのです。罪を知ることは幸いです。そこでこそ、罪の赦しを見るからです。

十字架上の罪状書き」 9月第2主日礼拝 2010年9月12日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章12〜22節

19章<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。<17節>イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。<18節>そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。<19節>ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。<20節>イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。<21節>ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。<22節>しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

ピラトは、主イエスの十字架は「神の権限によること」そして「主を十字架に引き渡そうとするユダヤ人の方が、ピラトよりも罪が重いということ」を、主イエスの言葉から聞いて、ますます主イエスを釈放しようとします。
 主イエスはピラトに対して命乞いをなさいませんでした。「十字架は神の御心である」と受け止めておられるのです。自分を責めず、命乞いもしない主イエスに、ピラトは心動かされております。ピラトは自分が責められているという思いを持たずに済んでいる、ゆえに、主イエスに同情するようになるのです。

主イエスとは、どのようなお方なのでしょうか。主の周りには、敵意ある者(ユダヤ人)、弱さの故に仕方なく罪に手を染めざるを得ない者(ピラト)がおります。しかし、人々がどうであろうと、主イエスは全てを神の出来事として受け止めておられます。敵意ある者、弱さにある者を、主イエスは憐れんでいてくださるのです。私どもがどうであるかに拘らず、主イエスは常に慈しみをもって臨んでいてくださる方だということを知らなければなりません。神の慈しみの頂点、それが十字架です。敵意ある者、弱い者のための十字架です。それは、私どものために、耐え難い十字架の死を主イエスが進んで死んでくださったということです。主イエスは自ら進んで十字架につかれるのです。人々の敵意という罪、弱さゆえの罪を贖い取り、救いとなってくださったのです。
 この主イエスのあり方は、私どもにとって、とても大事なことです。私どもは、人はどうあるべきかということに重きを置きますが、そのことが大事なのではありません。私どもがどうであろうと、主イエスが私どもを憐れんでくださるのです。このことの意味の大きさを思わざるを得ません。

このような主イエスの姿勢に同情的なピラトは、主イエスを釈放しようとするのですが、三度にわたる努力も空しく、ユダヤ人たちの熱狂は収まりませんでした。ユダヤ人たちの思いは何か。彼らは苛立っているのです。殺意の実行を望んでいるのみの彼らにとって、ピラトの言葉は、「殺せ、殺せ」という怒りにまで駆り立てるものでした。

12節「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています」とは、ユダヤ人たちの言葉です。「皇帝の友」とは、皇帝に忠誠を誓った者という意味で、ユダヤ人たちは、ユダヤ人の王と自称する者は皇帝に背く者だと言い放つのです。しかし、なんと愚かしいことでしょうか。ユダヤ人たちは、本心から皇帝に忠誠を誓う者ではありませんでした。にも拘らず、主イエスを十字架につけたい一心で、あたかも皇帝に忠誠を誓う者であるかのように言い放つのです。ここにユダヤ人たちの不真実な姿を思わずにはいられません。ユダヤ人たちは、その生涯にわたって、ローマ皇帝に忠誠を誓うことなどなかったのです。
 「真実はどこにあるのか」を思わなければなりません。主イエスを十字架につけた者たちは不真実な者たちです。十字架に自ら進んでついてくださる方、主イエス・キリストこそ真実な方です。人々が主イエスを十字架につける、それは「人の不真実の極み」の出来事です。と同時に、主の十字架は、そのような不真実な者に対する「主イエス・キリストの真実の極み」であるのです。それは、主イエスがどこまでも父なる神の御心に従われた出来事です。
 不真実な者は、真実に耐えることができません。それゆえの「十字架」なのです。しかし、その十字架こそが「救い」となるのです。
 主イエス・キリストの十字架は「神の真実の愛が貫かれている出来事」です。ただ単に、神の愛が示されているということなのではありません。罪なる私どもに「神の真実の愛が貫かれている」のです。十字架とは、示されて頭で認識するというような事柄ではありません。十字架は「主イエス・キリストの愛が、真実に成し遂げられている」という出来事なのです。私どもの五臓六腑を貫いている、それが十字架です。そして、その十字架を信じる者は「救われ、慰めを受ける」のです。

皇帝への忠誠を疑われたピラトは、その途端に、主を十字架につけることを決意します。もし、ローマに、自称ユダヤ人の王を釈放したことが知れれば、ピラトは総督の地位を失うでしょう。事柄の真実よりも自分の身分の方が、生活の方が大事なのです。

13節「イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石』という場所で、裁判の席に着かせた」と記されております。「敷石」とは、ユダヤの砦の中庭であり、そこが正式な裁判の場所でした。ここでヨハネによる福音書は、その時を、すなわち裁判の時を記しております。14節「それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった」。それは金曜日であり「過越の始まり」を示しております。つまり、イスラエルの出エジプトの出来事(奴隷の民からの解放、神の救いの出来事)を思う、その時に、主イエスの十字架への道が決まったことを印象付けているのです。
 「神の救いの出来事」それは「捕らわれ人の解放」です。主イエスの十字架は新しい解放の出来事です。罪という捕らわれからの解放を示しております。

「罪」とは、どういう状況なのでしょうか。「罪」とは「捕らわれ」ということです。人は、真実なものにより頼むならば、捕らわれなく生きることができるのです。真実とは、人を自由にするものです。しかし、真実のない者は違います。人には自分の中に真実はないので、もし、より頼む者がないならば、自分に頼る以外にありません。そこで、自分の言葉や行い、他者の言葉や行いに捕らわれてしまいます。神なき人の姿とは、捕らわれ人の姿です。そしてそれが人の罪の姿なのです。

主イエス・キリストの十字架は、そのような「人の罪」を終わりとし、神との永遠の交わりに入れてくださるという恵みです。その恵みによって、人は、自分や他者という捕らわれから解き放たれて、平安を得るのです。「主イエス・キリストを救い主と信じる」ところにこそ、捕らわれなく生きる生活があるのです。「神に信頼する」ことにのみ「自由がある」ことを覚えたいと思います。私どもの罪を贖ってくださり、神との交わりを与えてくださった主イエス・キリストを信じることこそ、平安なのです。
 「自由」とは、キリスト教から生まれた大事な思想ですが、神抜きの自由は戦いであり、苦しみであって、真実な自由ではありません。自立することは大事なことですが、自ずとの思いからの自立でなければ、思想によってでは真実の自由はないのです。真実な神により頼み、心から解き放たれているからこそ自由なのであり、そこでこそ、自分や他者や事柄に捕らわれなく生きることができるのです。

19節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」と記されております。ピラトは、ユダヤ人たちに対する軽蔑の言葉として「ユダヤ人の王」と書くのです。ユダヤ人たちは、メシア(救い主、王)を待ち望んでおりました。しかし、主イエスは、彼らが望むような王ではありませんでした。「神の御心を拒む」、そのユダヤ人たちの心が殺意の叫びとなっているのです。それは「神殺しの罪」です。「主イエスを拒む」というユダヤ人たちのあり方が、その罪の深さを示しております。「神殺し」、それは「赦しがたい罪」なのです。

しかし、このような「赦されない罪」を一身に背負って、主イエスは十字架につかれるのです。「主イエスの十字架」、それは「赦されない罪をも赦す十字架」です。ローマ皇帝を王だと微塵も思ってもいないにも拘らず、自分の思いを通すためには手段を選ばず「皇帝こそ王」と言い放つ、何とも救いがたい者たち。そのような「救いがたい者の罪」のための「主イエスの十字架」であることを覚えたいと思います。

罪ある者、私どもは、自らを救うことなどできない者です。そのままでは滅びに過ぎない存在なのです。そのような滅びに過ぎない者の救いを成し遂げてくださった出来事、それが「主イエスの十字架」であることを、改めて深く思う者でありたいと思います。

キリストの招きに委ねて」 9月第3主日礼拝 2010年9月19日 
松木田 博 牧師(甲府教会)
聖書/マルコによる福音書 第1章16〜20節

1章<16節>イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。<17節>イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。<18節>二人はすぐに網を捨てて従った。<19節>また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、<20節>すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

現在、世界のキリスト教徒の数は、およそ20億人ほどいます。世界の人口は推計でおよそ70億人弱と思われますので、人口のおよそ四分の一は、キリスト教徒と言うことになります。
 しかし、最初からこんなに多くのキリストに従う人々がいたわけではありません。最初は、片手で数えることができるほどの人数から出発したのです。まず、16節を読みます。
《16節:イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。》
 主イエス・キリストが、たったお一人で、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。一艘の舟が湖に浮かんでいました。風のない穏やかなひとときだったと思われます。
 その舟の中で、漁師が二人、投網をしていました。シモンと、その兄弟アンデレの二人です。仕事の真っ最中の漁師たちに、主イエス・キリストは、声をかけました。17節を読みます。
《17節:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。》
 シモンとアンデレは、プロの漁師です。仕事の最中に声をかけられると、どう思うでしょうか。今は仕事の最中だ、後にしてくれと言うのではないでしょうか。
 しかし、声をかけられた二人の漁師たちは、作業の手を休めて、声がした方を振り返りました。そこに、主イエス・キリストが立っておられたのです。
 実は、ここで主イエス・キリストから声をかけられるよりも前に、シモンとアンデレとは、主イエスと出会っているのです。ヨハネによる福音書第1章に、そのことが記されています。どうぞ後で読んでみてください。
 声をかけられたシモンとアンデレの二人の漁師たちは、どうしたのでしょうか。18節を読みます。
《18節:二人はすぐに網を捨てて従った。》
 プロの仕事を捨てたのです。何もかもそこに残して、主イエス・キリストに従っていきました。
 さらに、そのすぐ後のところで、また別の漁師たちに主イエス・キリストは出会われます。19節を読みます。
《19節:また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、》
 網の手入れをしていたと言うことは、すでに漁が終わった、と言うことです。一度漁をすると、網はかなり痛みます。次の漁に出るためには、修繕することが必要なのです。そこで、ヤコブとヨハネは、次の漁に備えて網の手入れをしていたのです。
 彼らには、次の漁に出るという、自分たちの計画があったのです。自分たちの、次の仕事のために、備えていたのです。これから出るところだったのかもしれませんし、明日出漁する準備だったのかもしれません。いずれにせよ、自分たちの仕事のために、こうして日々備えていたのです。
 ところが、毎日の決まった仕事の中に、突然主イエス・キリストが介入されたのです。思いがけないことでした。そして、二人の漁師たちを、招かれたのです。
 シモンとアンデレの時も、そうでした。仕事の真っ最中に、キリストが介入されたのです。そして再び、キリストは、ヤコブとヨハネの日常の中に、乗り込んでこられたのです。
 突然の出来事でした。何の前触れもなく、二人は召されたのです。ヤコブとヨハネは、しかしこの主イエス・キリストの招きを拒むことはありませんでした。20節を読みます。
《20節:すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。》
 主イエス・キリストを信じる人のことを、クリスチャン、と言います。クリスチャンは、おそらく誰であれ、こうして自分の人生の途中で、自分の行く手に立たれたキリストと出会っているのです。ごく普通の毎日を過ごしている中で、突然、主イエス・キリストから、呼び止められたのではありませんか。
 ある人は、即座にキリストに従います。しかしある人は、何度も背を向けながら、長いことかかって、キリストの方を振り返るのです。
 しかし、どういう形であっても、最初は主イエス・キリストが、その人に目をとめ、招いてくださったと言うことを、私たちは忘れてはならないのです。
 こうして、ペトロを含む四人の弟子たちは、キリストに従うようになりました。そこに、全く犠牲がなかったかというと、そうではありません。むしろ、それぞれが大きな犠牲を払いました。自分たちでたてた、人生の計画を、そこに捨てました。仕事を捨てました。舟を捨て、網を捨て、家族をその場に残して、主イエス・キリストに従って歩み始めたのです。

ここで、聖書の御言葉をよく読んでみましょう。主イエス・キリストの招きは、むしろ命令であったことが分かります。我に従え、と言うのです。しかし、主イエス・キリストは、ただ有無を言わさない命令を与えただけではありませんでした。
 この地上を生きてゆくためは、生活の保障が必要です。四人の漁師たちにとって、舟、網、それから漁師という仕事全てが、生活のための保障でした。主イエス・キリストの招きに従うとき、これら全ての保証を捨てなくてはならなかったのです。そして、キリストに全てをゆだねなくてはならなかったのです。
 これは、大変な決断を必要とします。先が全く分からないのです。網を繕って準備をし、舟をこぎ出して網を打てば、魚を捕ることができます。生活ができるのです。けれども、その保障を捨て、キリストにゆだねて、まだ見たこともない土地へと歩み出さなくてはならないのです。
 ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。この最初のキリストの弟子たち四人は、自分たちの生活のみならず、家族のことも含め、全ての事を主イエス・キリストにゆだねて、決然としてその場から立ち上がり、従いました。
 その後、弟子たちは幾たびも、大きな困難を経験しました。しかし、四人の弟子たちが信じた主イエス・キリストの福音は、とどまることなく絶えず前進し続けました。そして、さらに多くの人々の魂をとらえ、救いへと導きました。中には迫害にあって命を落とした人もいます。しかし、福音は決して滅びませんでした。神を信じる人を迫害し、命を奪うことはできても、主イエス・キリストを滅ぼしてしまうことは、誰にもできなかったのです。
 全ては主なる神の御手の中に、守られ続けたのです。

こうして、2010年の現在。世界の片隅の、ガリラヤ湖畔で、たった四人の漁師から始まったキリストを信じる者たちの小さな行進は、現在、世界中で20億人の大行進となっているのです。
 そして、今。1年間に約2千2百万人のクリスチャンが、新しく誕生しています。これは、1日におよそ6万人が、新たに主イエス・キリストを信じていることになります。
 また、新しく設立されている教会の数は、 1日に250教会で、5分毎に1教会が設立されているのです。
 今からおよそ2000年前。世界の片隅で、一日かけて、四人のクリスチャンが誕生しました。これが、一番最初のクリスチャンたちです。そのときからおよそ2000年たった今、これだけ多くのクリスチャンたちが、誕生し続けているのです。
 主イエス・キリストによって招かれたクリスチャンたちが、自らの使命を果たして生きるとき、主なる神ご自身がその歩みを用いて、仲間の数を増し加えてくださっているのです。一人一人の歩みは、全く目立たなくても、そこには必ず、聖霊が共に働いておられるのです。

たとえば、アンデレのことを考えてみましょう。皆さんは、アンデレというキリストの弟子が、一体どのような働きをしたのか、すぐに答えられるでしょうか。シモン・ペトロの陰になって、あまり目立ちません。
 ところが、ヨハネによる福音書によりますと、シモン・ペトロを主イエス・キリストのところへ最初に連れて行ったのは、このアンデレだったのです。と言うことは、最初の弟子はアンデレだったと言えるかもしれません。20億人のクリスチャンたちの、第一号なのです。
 また、福音書の中には、主イエス・キリストが、五つのパンと二匹の魚で五千人の人々を養う場面があります。このとき、一人の少年が、パンと魚を持っていることを主イエス・キリストに告げたのも、アンデレだったのです。
 主イエス・キリストは、人々の間では全く目立たないアンデレという一人の弟子を用いて、この世が続く限り、決してクリスチャンたちの心の中から忘れ去られることのない大きな出来事を、起こされたのです。

こうして、アンデレを用いてくださった主なる神は、ここに集う皆さん一人一人を用いてくださるのです。

十字架の主イエス」 9月第4主日礼拝 2010年9月26日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章16〜27節

19章<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。<17節>イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。<18節>そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。<19節>ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。<20節>イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。<21節>ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。<22節>しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。<23節>兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。<24節>そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。<25節>イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。<26節>イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。<27節>それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

ピラトはユダヤ人たちとのやりとりによって、主イエスを十字架につけるために引き渡します。ピラトは主イエスに罪を見出せず、本当は主を十字架につけたくないのですが、ユダヤ人たちの熱狂に負けてしまうのです。しかし、それだけではありません。11節の「わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」との主イエスの言葉によって、ピラトの心の重荷は少し軽くなってもいるのです。

16節「イエスを彼ら(ユダヤ人)に引き渡した」とは、印象的な言葉です。実際には、主イエスはローマの兵士に引き渡されたはずですが、ここでは「ユダヤ人の思い=殺意」が主イエスを十字架につけたことを印象づけるための言い回しになっております。そして「彼ら(ユダヤ人)はイエスを引き取った」と続きます。ユダヤ人=神に選ばれた神の民が、神の御子を十字架につけるのです。神の民であっても罪の内にあるのだということが示されております。

17節「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた」と記されます。主イエスの十字架は人々の罪のための十字架ですが、一方で、主イエスは神の御心として自ら進んで十字架につかれます。他福音書では、主と共に十字架を背負う者(シモン)が記されますが、ヨハネによる福音書では「イエスは、自ら十字架を背負い」と記し、シモンは出てきません。ヨハネによる福音書はこの記述によって、「主イエスが自ら進んで、人の罪深さを背負って十字架についてくださった」ことを鮮やかに示しております。

ここでの「人の罪=ユダヤ人の罪」とは何でしょうか。それは「憎しみゆえの殺意」です。「自らの行い(功績)によって救われるのではなく、ただ神の憐れみによって救われる」ということへの反発です。自らの生き方を否定されたということへの「憎しみ」なのです。自らの努力、一生懸命さ、功績主義、そこに罪が生まれます。その「憎しみ」という罪が殺意を生み、主イエスを十字架につけたのです。

では、「憎しみ」をどう考えたらよいでしょうか。最近は「愛が地球を救う」と言われますが、どうでしょうか。関係概念としての「愛」の反対概念は「憎しみ」と思いがちですが、そうではありません。「愛」の反対概念は「無関心」です。「愛する」から「憎しむ」、ですから「憎しみ」とは「愛」なのです。「愛」は「憎しみ」を生み、「愛」ゆえに、人は人を殺してしまうのです。ですから知らなければなりません。人の愛は人を救うことはできません。人の愛は、却って憎しみを生み、人を殺すこともあるのです。
 かつて日本人は、共同体の深いつながり(愛)の中で生きていたので、「愛」を言いませんでした。共同体の中で愛を深めることは、どろどろとした関係を生み、共同体に亀裂をもたらしたからです。しかし、今の日本社会は、共同体性を失っているがゆえに「愛」を必要とし、「愛」がもてはやされているのです。「愛」は「人は交わりを必要とする存在である」ということを知る意味では大切ですが、「人の愛」は危うい愛であることを忘れてはなりません。「人の愛」は「自分の思いで愛する」という愛ですから、その愛に応えてくれなければ、そこに「憎しみ」が生まれてしまうのです。人の愛はうっとうしいのです。ですから「憎しみ」は「殺意」を生みます。人の愛は、他者の存在を失わせる、他者を抹殺しようとする、危ういものであることを覚えなければなりません。

「真実の愛」それは「神の愛」です。「神の愛」こそが人を救うのです。神は御子主イエス・キリストまで下さって、私どもを愛してくださいました。自ら損をしてまで(御子イエスを十字架につけてまでの自己犠牲の愛)、私どもを愛して救ってくださったのです。
 しかし、思い違いをしてはなりません。私どもは、神が私どもを愛してくださったから救われるのではありません。「愛されている、だからそれだけで救われるということではない」のです。
 神の愛は、揺るぎない愛です。主イエス・キリストの十字架は「神の愛が私どもを貫いている」という出来事です。そこまでして愛してくださった、「神を信じる」ところで、私どもは救われるのです。ですから、愛の出来事は「信仰」を生まなければ、救いには至らないのです。揺るぎなく私どもを貫く神の愛に「感謝します」と「信じて委ねる」、それが「神の愛に応える」ことです。「神の愛に応える」とき、私どもは「救われて、神の恵みに生きる」のです。「神との尽きることのない交わりに生きる」という恵みに与るのです。このことが大事なことです。

主イエス・キリストの十字架は、人の罪の頂点がキリストの救いの頂点であることを示す出来事です。主イエス・キリストの十字架とは、人の罪ゆえの裁きを背に負うてくださる「身代わりの死」です。その「身代わりの死」によって、人の罪は贖われるのです。
 18節「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた」と記されております。主が十字架につかれる姿は印象的です。主イエスは「罪人の真ん中」に立っていてくださるのです。罪人の中心にいてくださる、それは主イエスが私どもの罪のまっただ中にいて、私どもの罪を担ってくださっている姿であることを、改めて覚えたいと思います。
 自分の罪を思うとき、人は孤独です。自らの罪を言い得ない、言い表し得ない焦燥感、担いきれない罪の重さのゆえの深い孤独です。しかし、そのただ中に、主イエス・キリストはいてくださいます。深い孤独のまっただ中で、私どもは孤独ではないのです。そこに主イエス・キリストが立っていてくださるからです。罪のただ中で、私どもはキリストを見、キリストと結ばれるのです。ですから、ここに記されている主の十字架の姿、「主イエスが罪人のただ中に立っていてくださる」ことの恵みを思わなければなりません。私どもの罪ゆえの苦しみ、焦りを共にして下さる、それが「主イエス・キリストの恵み」です。それが「キリストと結ばれる」という恵みです。

19節「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、『ナザレのイエス、ユダヤ人の王』と書いてあった」。ピラトが書いた罪状書きは、ユダヤ人に対する皮肉、軽蔑の思いです。そしてその思いが、主をユダヤ人に引き渡すという行為となるのです。ピラトは「ナザレのイエス」と、主イエスの出所を明らかにして「ユダヤ人の王」と書きます。ピラトは、主イエスを「ユダヤ人の王」などとは思ってもいないのですから、これはユダヤ人に対する強烈な皮肉なのです。そしてもちろん、ユダヤ人たちの本意でもありませんから、ユダヤ人たちはピラトに「この男は『ユダヤ人の王』と自称した』と書いてください」と頼むのです。
 ピラトもユダヤ人たちも、主イエスを「ユダヤ人の王=メシア」と思っていない、にも拘らず、この罪状書きは、主イエスが「ユダヤ人の王=メシア」であることを「公に証しする」ものとなっております。神は、主を救い主と信じない者(ピラト、ユダヤ人たち)の悪しき思いをも用いてくださって、主イエスこそ「ユダヤ人の王=メシア」であることを証しさせ、「主イエスこそ救い主である」と言い表す者としてくださっているのです。神の御業は畏れるべき業であることを覚えなければなりません。神は全能なる御方であることを思わずにはいられません。

罪状書きは「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた」と記されております。念入りです。ヘブライ語は話し言葉、ラテン語は文書に用いる公用語、ギリシャ語はローマ帝国の公用語ですから、この罪状書きは、全世界に対して公式文書として、主イエスが「ユダヤ人の王=メシア(救い主)として十字架につけられた」ことが記された罪状書きなのです。ここに、主イエスが「十字架において全世界の救いを成し遂げてくださった方である」ことが示されております。

「ユダヤ人の王と自称した」と書き換えて欲しいとのユダヤ人の声に対して、22節「『わたしが書いたものは、書いたままにしておけ』と答えた」と、ピラトは自らの思いを譲りません。ここに、主イエスが「自称メシア」として死なれたのではなく「真実のメシア」として十字架につき死なれたのだ、ということが示されております。

「主イエスは王=メシアである」とは、どういうことなのでしょうか。主イエスは武力をもって世界に君臨する方ではありません。何よりも、主イエスは「十字架において『人々の罪の贖い』となって『罪を赦してくださったメシア』である」ことを忘れてはなりません。

人は、一人で生きることはできません。人との関係(交わり=愛)なくして生きることはできないのです。しかし、人は、罪(自己中心)あるゆえに、その愛は人を抹殺さえしてしまいます。人の愛とは、罪を背負って愛であり、そのような愛の中には、救いを見出すことはできないのです。

そのような私どもの罪を自ら進んで背負って、十字架についてくださった主イエス・キリストにのみ、救いがあります。御子主イエス・キリストを十字架につけてまで、私どもに愛を貫いてくださった「神にのみ、救いがある」のです。

その「神の愛に応える信仰」によってのみ、私どもの救いがあることを改めて覚える者でありたいと思います。