聖書のみことば/2010.8
2010年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
茨の冠」 8月第1主日礼拝 2010年8月1日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章37節〜第19章16節
18章<37節>そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」<38節>ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。<39節>ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」<40節>すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。19章<1節>そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。<2節>兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、<3節>そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。<4節>ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」<5節
>イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。<6節>祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」<7節>ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

37節、ピラトはローマ帝国の総督ですからユダヤ人ではなく、神を、ましてや主イエスを信じていません。しかし、主イエスを信じないピラトが、主に対して「それでは、やはり王なのか」と言わざるを得なかったことは皮肉なことです。ここに言う「ユダヤ人の王」とは「天に属する王、救い主(メシア)」としての王」を指します。ですから、信じていないのにも拘らず「主イエスを王(メシア)と言い表すことになった」そのことが皮肉なのです。そしてそれが「ピラトの役割」でした。
 ピラトの役割、それは、主イエスとのやりとりを通して「主イエスはメシアと証ししていること」、38節で「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と「主イエスの無罪を断言していること」です。ピラトは主をメシアと信じていないにも拘らず、ピラトの尋問によって「主イエスはメシア」であり「罪なき方」であることが明らかになるのです。「罪が無いにも拘らず、主イエスは十字架につけられた」ということが、ここに記されていることです。

神は、主イエスを「メシア、罪なき方」と示すために、主を信じる者ではなく「信じない者(ピラト)」を用いておられます。神は、信じない者をも「ご自分の御業のため」にお用いになるのです。神は「全ての者の支配者」であり「導き手」であられる方です。そこに信じない者がいたとしても、神の御業は停滞することはありません。「この人が救われることは絶対に無理」と、キリスト者であっても自分の感情で思い込んでしまうことがありますが、「神の救いの御業」とはそのようなものではありません。ただ「神の御心がなる」のです。その救いがいかに確かなものか、それが、この「信じられない者を用いられることによって御業が押し進められていく」ことに示されていることです。

37節「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と、主イエスはピラトに言われます。それは「信じる者になりなさい」と言っておられるのです。そしてその上で、主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言われます。
 ヨハネによる福音書は「真理」という言葉を重んじております。「真理」には学問探究における真理もありますが、ここに言う「真理」とは「聖書における真理、キリスト教における真理」です。聖書における真理、それは「主イエスは救い主(メシア)である」ということです。ヨハネによる福音書14章6節において、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と、ご自身を「真理」として既に言い表されました。「命」とは「永遠なる神との交わり」ということです。主イエスがご自身を「真理」と言われているということは、主はご自身を「救い主」と言っておられるということです。ですから「真理」とは、救い主なる主イエスを信じることによって「永遠なる神との交わりに生きる者とされる」ということなのです。
 しかし、今日のこの箇所では「わたしは真理について証しをするために生まれ」と、主イエスは言われます。そして「この世に来た」とは、神として天におられる御子なる方(主イエス・キリスト)が「この世の救いのために、この世に来た」ということです。それは、父なる神がこの世の救いのために、主イエスをこの世に送られたということです。主イエスの受肉(降誕)・十字架(苦難)・昇天(復活)によって「神が救いの御業を成し遂げてくださった」ということです。その「神の救いの御業を証しする」と、主イエスは言われる。それは「神こそ救いである」ということを「ご自身(主イエス)が地上においでくださることによって証ししておられる」ということです。それが、ここに言う「真理」であり、この真理は地上のどこにも見出すことのできない真理なのです。
 そして「教会」はこの真理を、すなわち「神こそ救い」「主イエス・キリストこそメシア(救い主)である」ことを、証ししております。

では、人間にとっての真理とは何でしょうか。
 私ども(人)を真理という形で探求すると、私どもはどのような姿か。
 「救いの真理」は神にしかありません。人には「救い」という真理はないのです。「人の真理」とは「罪人にして滅びである」ということです。私どもは、そのままの姿では「罪」そして「滅び」でしかありません。しかし「神の救い」を「自分に対する真理」と考えるとどうでしょうか。私どもの内に救いはなく滅びである、がしかし「罪でしかない私どもの救いのために、神が救い主イエス・キリストを送ってくださった」「主イエスによって、神が救いを成し遂げてくださった」と、ヨハネによる福音書は語っております。
 私どもは「罪・滅び」でしかないが故に「救いを必要として」おります。主イエス・キリストを通して救いを成し遂げてくださる「神」をこそ必要としているのです。主イエス・キリストを通して、神は救いをなしてくださった、それが聖書の示す「真理」です。

そして、続けて「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われます。
 「真理に属する人」とは「神の救いに与った者」すなわち主イエスを信じる弟子たち(キリスト者)です。私どもは「主イエスを信じる」ことによって「救いの真理に至る」のです。
 ですから、主を信じる者は「救い主なる方の声を聞く」者となるのです。滅びに過ぎない者が救いに与り、救い主の声を聞くことができるということは、麗しい幸いです。私どもが、もし美しいとするならば、それはどこででしょうか。自分の外見、見栄えを求めても虚しいのです。「真実な姿になる」ところで美しいのです。「神との交わりに生きる」=「神の御言葉に聞く」、そこでこそ美しいのです。

38節「真理とは何か」と、ピラトは問います。疑問を持つ人には答えがあります。疑問を持たない人は、答えを答えとして理解できない、答えを発見できません。そういう意味で、ピラトにはまだ可能性が残っていると言えるでしょう。疑問を持つということは、とても大事なことです。疑問を多く持てば持つほど、多くの解答を得ることができるのです。ピラトがここで救いへの招きを受けていることは確かです。救われたかどうかは不明ですが。
 ピラトは「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と人々に語ります。これはとても重要なことです。「主イエスには罪が無い」というのです。ですから、主イエスは罪人としてではなく「罪なき方として」十字架におかかりになるのです。
 ただしここで、ピラトの言う罪とはローマ帝国に対する国家反逆罪のことです。ピラトは主イエスに「ローマの法で裁かなければならないような罪は見出せない」と言っているのです。

けれども、39節「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と、ピラトは、ただ盛り上がった人々の気持ちに沿って、「あなたたちのやり方で(祭りのときの釈放)」釈放してはどうか、と提案します。
 しかし40節、人々は「その男ではない。バラバを」と叫びます。バラバは独立運動の指導者でした。まさしくローマの法に触れ、十字架刑に処せられるはずの者バラバを、ピラトは助けることになるのです。
 主イエスには罪はありません。ただ人々の盛り上がった感情によって、主イエスは十字架につけられるのです。
 「熱狂する」ことは「人を犠牲にする」ことを含みます。「見せしめ」は、人の心を最も高揚させることです。人は、人を貶める(おとしめる)ほどに高揚するのです。人は感情の動物です。感情においても、人は罪深いということを知らなければなりません。人は、感情によってむき出しの罪を露にしてしまうことがあるのです。自分の感性においても深い罪を持つのです。そしてそれが人々を熱狂へと向かわせることになるのです。

そのよう人々の罪を担い、ご自分のものとして、身代わりの十字架に、主イエスはつかれるのです。主イエス・キリストが神なる、力ある方として「十字架を押しのける」ことは可能なことでした。しかし、主イエスは、このような人の罪の姿が鮮やかな中で、人の罪なる姿を一切引き受けて、自ら進んで十字架につかれるのです。

主イエスは、罪の故に十字架に裁かれるのではありません。「人の罪を清算するために」自ら進んで、損を引き受けてくださるのです。「人の罪の贖いとなってくださった」のです。

祈りの姿勢」 8月第2主日礼拝 2010年8月8日 
濱田真喜人 神学生/東京神学大学 
聖書/ルカによる福音書 第18章9〜14節
18章<9節>自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。<10節>「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。<11節>ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。<12節>わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』<13節>ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』<14節>言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

主イエスが譬えを語っておられます。語る相手は「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。この人々が、主イエスの弟子たちなのか、それともファリサイ派の人々なのか、あるいは両方なのかは、はっきりと書かれてはおりません。ともかく、弟子の中にいてもファリサイ派の人の中にいてもおかしくないような「他人を見下している人々」に対して、主イエスは譬えを語っておられます。

2人の人が祈るために神殿に上りました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。2人が神殿に上った理由は共通していました。祈るため、です。けれども、ファリサイ派の人と徴税人がささげた祈りは、それぞれ全く違った祈りでありました。

ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。
 「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でない」、つまりファリサイ派の人は、自分が罪人ではない、と言うのです。そして、そのことに感謝しますと祈るのです。しかも「ほかの人たちのように」という言葉には「さげすみ」が含まれています。さらに、祈りながら、横目で見るように「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と言うのです。ファリサイ派の人は、自分は罪人ではない、と言います。つまり自分で自分のことを「正しい人間」であると言うのです。そして、ほかの人々と横にいる徴税人をさげすむのです。
 また、ファリサイ派の人は続けてこう祈ります。「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。
 旧約聖書の律法は、年に一度だけ断食を命じています。ユダヤ教の大贖罪日という日の一度だけです。ですから、週に2度の断食は律法の要求する回数よりずっと多いのです。わたしはこれだけたくさん断食しています、全収入の十分の一を献げています、と自分の正しさと敬虔さを神の前に差し出しているのです。
 人を見下し、自分を高い位置に置こうとするファリサイ派の人の祈りに、もはや神は必要ありません。自分で自分を正しいと言ってしまっているからです。神に正しいとしてもらう必要はないのです。11節にあります「心の中で」という言葉は「自分自身の中で」という意味です。ファリサイ派の人の祈りは自己完結しています。そこに神はいないのです。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」。
 徴税人が祈ろうとする様子は、ファリサイ派の人と大きく違います。ファリサイ派の人が「立って」堂々と祈るのとは対照的に、徴税人は「遠くに立ち」ます。自分は神に近づくことができないと思っているからです。そして「目を天に上げようとも」しない、上を向こうともしません。徴税人は「胸を打ちながら」、うめくように祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。
 当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。したがってローマ帝国に税金を納めなければならなかったのですが、税金を集める役目はローマ人ではなく、ユダヤ人が担わされました。ユダヤ人がローマに納める税金を同胞のユダヤ人から集めたのです。このような役割を担った人々が徴税人と呼ばれる人々です。徴税人たちは、支配国のローマに仕える裏切り者とされました。また、徴税人はしばしばローマ帝国に納めなければならない以上の額を徴収して私腹を肥やしたので、いっそう同胞のユダヤ人からさげすまれることとなりました。徴税人であるだけで罪人と見なされたのです。
 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。「罪人のわたし」、この徴税人は単に同国の人々から罪人と見なされていただけではありませんでした。この徴税人自身が、自分を罪人として告白するのです。神の前に罪人以外の何ものでもない自分の姿を見ているのです。だから徴税人は「遠くに」立ちます。「目を天に上げようともせず」「胸を打ちながら」祈らざるを得ないのです。

ファリサイ派の人は、自分で自分を罪人ではないと、正しい者であると言いました。けれども徴税人は、自分で自分を正しいとすることはできないのです。神の前に自分は罪人でしかないと知っているからです。ファリサイ派の人の祈りに、神は必要ありませんでした。けれども、徴税人の祈りにおいては、一切が神にかかっているのです。神が罪人のこのわたしを憐れんでくださるかどうかに、一切がかかっているのです。徴税人はへりくだります。神の憐れみ以外に、頼るものは、もうないからです。

主イエスは驚くべきことを語られます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。
 神に義とされ、神の前に正しい者とされたのは、この徴税人でありました。徴税人は徴税人であるから神に義とされたわけではありませんし、ファリサイ派の人はファリサイ派であるから義とされなかったわけでもありません。徴税人であることはそれ自体別に良いことではありませんし、ファリサイ派であることはそれ自体で悪いことなどではありません。立場や職業の問題ではないのです。問題は神に向かう姿勢であったのです。神に向かう姿勢の違いが、徴税人とファリサイ派の人の祈りの姿勢の違いとなりました。徴税人は神の前にへりくだりました。そのようにへりくだる徴税人を、神は義としてくださったのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
 へりくだった徴税人は高くされました。神は、打ち砕かれ神の前にへりくだった者の祈りを侮ることはなされないのです。詩編51編18〜19節で、このように歌われています。「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。
 自分で自分を正しい者とすることができなかった徴税人を、神は義とし、神の前に正しい者としてくださるのです。
 自分で自分を正しい者とすることができなくても、神はその人を義とすることができるのです。自分の罪や弱さが自分のことを押しつぶしてしまいそうになっても、神の前にその罪を認め、へりくだるとき、神はその人を義としてくださるのです。

徴税人は「義とされて家に帰った」。
 「家に帰った」と主イエスは言われます。義とされて、それで終わりではないのです。続きがあるのです。自分は神の前に罪人でしかないことを知り、へりくだって祈った徴税人は、義とされました。そして、家へ帰ります。神に義としていただいた者としての新しい生活が待っているからです。
 ファリサイ派の人と徴税人は、祈るために神殿に上り、帰っていきます。

私どもは、礼拝するために教会に来て、また自分に与えられた場所へ散らされていきます。私どもはそれぞれ、実にいろいろなものを抱えて、礼拝するために教会に集まって来ます。罪や病や悩み、ときには高ぶりを持ってくることもあるでしょう。そのような私どもに、神は多くのことを求めてはおられません。大切なことは、神の前にへりくだることです。自分を小さくし、神の栄光を大きく輝かせていただくことです。神はへりくだる者を義としてくださいます。ですから、共に、徴税人の祈りに、私どもの祈りを重ねたいのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。
 神は憐れんでくださいます。そして、ご自分の前にへりくだって祈りをささげる者を義としてくださいます。義とされた徴税人は家に帰って行きました。
 私どもも、それぞれの置かれた場所へ散らされていきます。そこで、新しい歩みが待っております。

ユダヤ人の王」 8月第3主日礼拝 2010年8月15日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章1〜16節
19章<1節>そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。<2節>兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、<3節>そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。<4節>ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」<5節>イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。<6節>祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」<7節>ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

1節〜5節、主イエスを釈放したいと思うピラトの姿が描かれております。しかし、ピラトの思惑は外れ、人々は主を「十字架につけろ」と叫びます。

ピラトは何故、主イエスを鞭で打ったのでしょうか。痛めつけられている主イエスの姿を見れば、人々の気が少しは晴れて同情し、「もう、これでよい」と思うのではないかと期待したのです。
 そして兵士たちは、主イエスに「茨の冠」と「紫の服」をまとわせました。王冠は王に相応しいものです。「茨の冠」は後に主イエスの苦難のシンボルとなりましたが、しかしここで「茨の冠」は、滑稽な、あざけりの対象でしかないことが示されております。また「紫の服」も、紫色の顔料を貝殻から取ったため希少で高貴な者が用いたのですが、ここでまとわせたのは兵士たちの外套です。ですから、茨の冠と紫の服をまとった主イエスの有様は、みすぼらしく、ふ笑せざるを得ない姿でした。

「あざけり」の本質とは何でしょうか。それは「他者の心を傷つけること」です。人は、こうと思ったら徹底的に他者を辱めるのです。人は心の優しさを求めますが、しかし、人の心は残忍です。「ユダヤ人の王でありながら何とも情けない…」ということを「万歳」という言葉で拍車をかけ、主を平手で打ち、「いかにお前は無力な者か」ということを示そうとするのです。平手打ちは、戦うやり方ではありません。平手は相手を侮辱するやり方です。主イエスを辱め、肉体を痛め、そういう主イエスを人々の前に引き出そうとするピラト。ピラトは、その痛々しい憐れな姿を人々に見せつけ、いきり立つ人々の心を満足させ「もういいではないか」と言わせようとしているのです。ピラトは主イエスを釈放する努力をしております。このやり方が良いとは思いませんが、こういうやり方でなら、主イエスを十字架につけずに釈放できるのではないかと考えたのです。

しかし、このピラトの行いは「熱狂している者を鎮めることの難しさ」を示しております。
 この「辱め」の間、主イエスは全く語っておられません。
 ピラトが努力して示そうとしたことは何か。それは「主イエスがいかに無力な者か」を見せつけることでした。ローマ法では、国家騒乱罪は死刑に価します。主イエスは無力な者であるが故に、ローマの処刑に価するような者ではないことを示そうとしたのです。ピラトのやり方は、主イエスの無力さを浮き彫りにさせるやり方でした。そこまでされれば、人は反発するものですが、しかし、主イエスは沈黙される。主は無力にされながらも、たじろぐことなく受け止めておられるのです。
 本当には力ある方であるにも拘らず、敢えて何もなさらない、語らない。それは却って、主イエスの絶大な力を示しております。人は弱いから強がるのです。しかし、主イエスは強がる必要のない方、それ故「無力にまで」なれるのです。
 人は、自らの弱さを受け止めることができません。だから必死で弱さを隠そうと努力するのです。無力さ・弱さを受け入れるところで、人は成熟した真実な者となることができるのですが、それには人は不遜です。自らにはどこまでも甘く開き直り、他者には厳しいのです。しかし、主イエスは違います。主イエスは真実な方、神なる方であるが故に、人の無力さまでをも引き受け「敢えて無力な者にまでなってくださる」のです。

人はどこで神と結び付くでしょうか。「無力な自分を受け入れられず自信を失うとき」、ただ惨めさの中で「主イエスと出会う」のです。何故なら主イエスは、私どもに先立って、私ども以上に惨めな淵に立ってくださっているからです。間違ってはなりません。私どもが惨めになったから、主イエスに出会うのではありません。主イエスが先立って惨めになってくださった、だから、私どもは主イエスに出会うことができるのです。主が既に惨めさの淵に立っていてくださる、だからこそ、私どもが惨めになり存在を失ったとき、主に出会うことができるのです。主と出会い、「存在ある者」となれるのです。
 人の存在は、人自らの内に見出すことはできません。人は自分を甘やかしているが故に、真実な自分を見出すことができないのです。大いなる方と出会うことによってのみ、真実な自分を知り、真実な存在となれるのです。

主イエスの無力さを人々に見せつけようとしたピラトの演出を、人々は受け入れたでしょうか。5節「見よ、この男だ」とは、正確には「無力なこの人を見よ」という言葉です。ヨハネによる福音書は「この無力な者こそ、神の御子、救い主である」ということを「見よ」という言葉で言い表しております。「惨めなこの人を見よ」、これが「キリスト教会の信仰告白」であることが、この御言葉に示されていることです。惨めな姿のこの方以外に、私どもの救いはないのです。

6節、熱狂した人々は、ますます残忍に「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」とのピラトの吐き捨てるような言葉は、「もう勝手にしろ」というピラトの思いです。自分の思いが通らなければ「もう勝手にしろ」と思う、それが人の思いです。
 人の思いが主イエスを十字架につけるのであれば、人の思いで主を釈放することもできるはずです。ピラトは主イエスを釈放しようと努力していますが、しかしできません。もはや人の思いによっては、主を十字架につけることを止めることはできないのです。
 ここに、主イエスの十字架は「人の思いを超えてなされる出来事」であり、そこに「神の御心がある」ことを忘れてはなりません。「人の罪の極点としての十字架」は、同時に「神の救いの極点としての十字架」なのです。

人の思いを超えて、主の十字架の出来事(救い)=神の御心が成るのです。自分の思いに反して主を十字架につけたピラトは、神の救いの御心が成るために、「神に用いられ」主の証人となりました。
 ピラトを責めることは簡単です。しかし、人は自らやり始めたことを挫折によって止めることはできますが、悔い改めて身を翻すことはなかなかできないのです。そこにただ「神の御意志を見ること」以外に、自分の思いや行動を変えることはできません。人の思いを変えることができるのは、神のみです。人の惨めさ、無力さを知っていてくださる主イエス・キリストに出会う以外にないのです。

人の思いの故に、主イエスは十字架につけられました。しかしその十字架の出来事は「人の思いを超えた神の御心、救いの御意志」であることを、改めて覚えたいと思います。

十字架を、との叫び」 8月第4主日礼拝 2010年8月22日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章1〜16節
19章<1節>そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。<2節>兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、<3節>そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。<4節>ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」<5節>イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。<6節>祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」<7節>ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」<8節>ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、<9節>再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。<10節>そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」<11節>イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」<12節>そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」<13節>ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。<14節>それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、<15節>彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。<16節>そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

ピラトは、主イエスに茨の冠と紫の服をまとわせてユダヤ人たちの前に引き出し、その惨めな姿によって主イエスを「無力な者」「死刑に価しない者」として見せました。しかし、ピラトがそのように示したにも拘らず、人々は主イエスを「十字架につけろ」と叫びます。人々が見ているのは、そのような惨めな姿なのではなく、「主イエス」その人なのです。
 6節、ピラトは言います、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と。ピラトは主イエスに何の罪も見出せないのですが、しかし彼は人々を制することはできず「勝手にしろ」と言っているのです。「人の熱狂」は、理性や筋道によって制することはできません。制すれば制するほど、却って反発し燃え上がるのです。「十字架につけろ」、この言葉は道理への反発、まさしく「狂った言葉」です。

7節「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と、ここでユダヤ人たちは初めて自分たちの論理を明かします。何故、主イエスを十字架につけるのか。ユダヤ人にとって「律法」とは「神の御心」を示すものです。ですから、自らを「神の子と自称する主イエス」は神を冒涜する律法違反者であり、死刑に価するという論理です。しかし、死刑はユダヤ法で唯一禁じられていた刑であり、従ってローマ法によって死刑を、という理屈です。けれども、ローマ法においては、ローマ帝国転覆を図る指導者であるならば死刑に値しますが、主イエスは実際には「神の子と自称した」と言っても、政治的な行動を何も起こしたわけではないのです。ですから、このユダヤ人の論理は、自己都合のための勝手な論理であると言わざるを得ません。
 問題は、主イエスが「神の子と自称したかどうか」なのではありません。事実、主イエスは神の子、救い主(メシア)であられるのですから、自らを神の子と言い現しても良いのです。しかし、ユダヤ人は「主イエスが神の子、救い主(メシア)であられることを信じなかった」、だから主イエスを裁こうとするのです。

大事なことは「主イエスは神の御子であられる」ということです。それを信じないが故に、ユダヤ人たちは狂っているのです。人が狂ってしまうのは「事実を事実と受け入れられない」からです。自分勝手な思い込みで事実に反することを信じ、なそうとすると、人は狂うのです。そして、狂ったまま進めば、物事は破綻してしまいます。
 「イエスが自分を神の子と自称している」、事実そうであるならば、冷静に神の裁きに委ねればよいのです。しかし彼らは熱狂し、自分たちで裁こうとするだけではなく、ローマの権威まで借りるという姑息さ、他者に責任を転嫁するという罪深さです。
 人々の熱狂を見て、ピラトは正しい裁きをすることができず、熱狂に負けて、主イエスを十字架につけるしかなくなってしまいます。

人々は何故、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのでしょうか。
 それは、人々が「主イエスの存在に耐えられない」からです。主イエスは「神の御子なる方」です。「人は神に耐えられない」ということが示されております。
 人には裏切りがあり、心に裏表があるのです。しかし、真実なる方「神」の前で、人は「自らの真実を問われる」、だから「人は神に耐えられない」のです。真実なる方の前に、不誠実な者は立てないのです。一人ではとても対抗できないが故に、一団となって「叫ぶ」のです。「人には罪がある」だから主イエスに、神に耐えられません。それが人々の「十字架につけろ」との叫びなのです。
 人は、自分と相容れない他者に対して「この人には耐えられない」と思います。それは既に狂った思いであり、破綻するのです。受け入れない、だから耐えられない存在を自ら作り出してしまう、それは狂っていることです。そしてそれは、究極には神に耐えられないということです。罪人でありながら、罪に耐えられないということです。耐えられない、だから排除したい、抹殺したいと思う。それが「十字架につけろ」という叫びなのです。

8・9節「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった」と記されております。
 ピラトは人の狂気に恐れを感じ、身を引かざるを得ないのです。そして「主イエスは無罪」と知りながら、主イエスにもう一度「どこから来たのか」と問わざるを得ないのです。
 主イエスが来られたのは、天から、神の御許からであることは、16章で主イエスご自身が語っておられることです。ですから、ピラトのこの問いは「主イエスが天から来られたこと、そして『十字架』は、主が天に帰られるための苦難であること」を、読む私どもに思い起こさせる言葉です。「主イエスは天から来られ、天へと帰られる」、このことによって「この世の救いがなされる」ことをヨハネによる福音書は語っているのです。

ピラトの問いに対し、主イエスは何もお答えになりません。それはピラトを恐れたからではありません。何も答える必要がないのです。主イエスのこの沈黙にも意味があります。主の沈黙は「全てを受容しておられる」が故の沈黙です。どうしたらよいのか分らない時の沈黙に、平安はありません。しかし主イエスは「十字架を全てを引き受けておられる」が故に、熱狂する者を前にしても「平安」なのです。このことは、私どもにとって大変示唆的です。主イエスは、狂った人々、罪なる人々の思いを受け入れ、受け止めて、尚、救いの対象としてくださっているのです。神を神とすることができない、罪にすぎない者の贖いとなるために、主イエスは十字架につけられるのです。ただただ感謝の他ありません。

ピラトは、熱狂する人々を恐れるだけではなく、沈黙する主イエスにも恐れを感じます。そして10節「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と、主イエスに対して自分を誇って見せます。しかしそれは滑稽な様です。何故でしょうか。
 ピラトは主イエスを無罪と知り、釈放する権限もあると言いながら、しかし釈放できないでいるのです。釈放できず、しかし十字架につけたいわけではないのに、主を十字架につけることになってしまう。従って「主イエスの十字架の出来事」は、ピラトの力による出来事ではないことが分ります。人は、何でもやりたいことができるわけではありませんし、やりたくないことをやらなければならなくなることもあるのです。人は、本当には力なく、自由ではありません。

11節「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、主イエスは言われました。真実な力は神にのみあるのです。主を釈放できず、望まない十字架につけようとするならば、それは人の力による出来事ではなく、神の御業であるのです。「主イエスの十字架を通して救いの御業をなしておられるのは、神である」このことが示されているのです。
 主イエスの十字架の出来事は神の力によるのです。狂った人々やピラトという罪人を用いて、救いを実現する、それが神の御意志です。

したいこともできず、したくないことをやらなければならないという現実。そのように、本当には力なく、不自由な私どもの救いが「主イエス・キリストの十字架の出来事」であることを覚えられますならば幸いです。

人にはできないが
      神にはできる」
8月第5主日礼拝 2010年8月29日 
荒又 敏徳 牧師 
聖書/マタイによる福音書 第19章16〜26節
19章<16節>さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」<17節>イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」<18節>男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、<19節>父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」<20節>そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」<21節>イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」<22節>青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。<23節>イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。<24節>重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」<25節>弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。<26節>イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

非常に心に引っ掛かりを覚える聖書の箇所に出くわす、といったことはおそらく教会生活を送っている者にとって幾度も経験しているところでありましょう。「ああ、主のひとみ、まなざしよ」との讃美の声をあげました、その歌詞の最初に出てくる「富める若人」の箇所を今朝、共にお聞きしますが、心に引っ掛かるどころか、楔が撃ち込まれるような思いをしてしか読むことのできない箇所ではないかと、改めて感じざるを得ません。
 そしてイエス様に出会った人のなかで、この「富める青年」は特異な存在でもあったと言えると思います。ほかの人々はイエス様との関わりの中で、癒され、平安が与えられ、また、逆に殺意さえ抱くほどに憎しみを持つ。だが、この「富める青年」はイエス様との関わりへと至らないのであります。悲しみ立ち去るのみです。ここに現代に生きる私たちが持つ、深い罪の問題が示されると言って良いかと思うのであります。それだけに心えぐられる思いがするのです。

導入はそこまでとして、「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』 男が『どの掟ですか』と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」16〜19節とあります。「天の国」に幼子のような者をさえ招き寄せられる主イエスの教えに感銘を受けたのでしょうか、ある人がイエス様のところに来て、こう、尋ねるのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。善いことをすること、それは良いことであると、単純に私たちは思ってしまいます。そして善いことをすればするほど「あぁ、あの人はいい人だ」との評価を受けるようになるため、ますます、善いことを重ねようとするに違いありません。この人は善いことをする延長線上に「永遠の命」を得る、すなわち救いが得られると考えていたのであります。ことにユダヤの人々にとっては、善いことは大変明瞭であり、それは神の命じたもうことに沿って生きることでありました。神が善しとしたもうことをすること、それが善であるということに他ならないのです。

ですからイエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とお答えになられたわけです。「善い方はただお一人」と言われるのは、全き善なる方はただお一人、神だけであるということに他なりません。この一言からいたしましても、善い業を重ねて神に至ろうとすることが、いかにピントを外していることか。よく人間の罪を言い表す言葉に「的外れ」がありますが、こんなに善いことをしているのに、なんだかまだ不完全だなどと考えること自体、罪深いことだと言わざるを得ません。神をこそ、善い方とし、その方を信頼するところに人間本来のあり方があると言ってよいのであります。
 しかも、イエス様がその神の御命令を明らかにして下さっています。おおよそ隣人愛に生きることこそが「命に至る道」と示してくださっているのです。

ところが、この青年は「そこで、この青年は言った。20節『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。』」と、さらに主イエスに尋ねるのです。そのようなことはみな守ってきたけれど、何か他にしなければならないような気がしてならなかったのでしょう。それほどに「永遠の命」、救いを求めていたのですが、それはまことに的外れに他ならないのです。
 善いことを重ねることの延長線上に神があるというのでは決してありません。それはあたかも、バベルの塔を建設するかのごときことであって、救いに至るどころか、これだけ善いことをしたのだから、神は私を救うべきだなどという傲慢に至りかねません。そんな傲慢に至らないにしても、彼は善い業に頼ろうとすることに変わりないことです。本当に善い方はお一人で「この方に信頼すること以外にない」ことを示されつつも、なお、自分の力に、自分の可能性に頼ろうとするのです。

この青年が「みな守っている」というとき、神の掟に表されている神の御心が十分に分かっていなかったのではないか、と思われます。隣人愛にかかわる戒めをイエス様が語っておられるのは、神は、人が「隣人との交わりのうちに生きること」をその御心としておられるからに他なりません。でも青年は隣人との交わりに生きようとしていたのではなく、隣人愛の戒めを守ることも、永遠の命を得るための手段としたのです。したがって交わりのうちにあるようでありながら、実は交わりを失い、非常に孤独であったに違いないと思われるのです。この交わりの欠如こそ、彼を救いなき者としたと言ったら言い過ぎでしょうか。

主イエスは彼に言われます。21節「 イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」これを聞いた青年は、悲しみながら立ち去ってしまいます。なぜなら、彼が本当に頼りにしていたものが何か、突きつけられたとき、全く失望、落胆してしまったからに他ならないでしょう。善いことを積み重ねること、また、富を積み重ねること、それは彼にとって一つのことであったと言えましょう。それは自分の力に頼ることであったのです。それだけは捨てきれないのです。捨てた上で、なお「従って来なさい」とは、とても厳しいお言葉です。神の前にあってなお、神に信頼できず、自らの功績や富に頼ろうとするほどに罪深いのだとの認識に至る、それ自体、救いではありませんが、救いに近くあると言ってよいでしょう。

自らの力には限界があるのです。年を重ねてみると分かってきますが、健康面でも精神面でも、衰えが感じられてくるものです。これこそは失われまいとするもの、それが失われるとき、その悲しみは深いのではないでしょうか。限界のある自分の力で神に至ろうとしても、失望する他はないのです。けれども、そこにこだわるばかりに、実は神にこそ救いがあることを見ようとしないのです。富める青年の問題はそこにあるのです。

青年がイエス様のもとから去って行ったあと、弟子たちに言われます。23〜25節「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った」。イエス様の言葉は、金持ちが天国に入るのは不可能だ、と告げているかの如く響きます。そうです。主の弟子たちはまがいもなくそう聞きました。いや、それ以上に誰も救われないのではないか、との疑念も湧き起ってくるのです。ひょっとすると弟子たちも、富める青年と同じ問題を抱えていたのかもしれません。らくだが針の穴を通ることなど不可能、それよりも人間の救いが難しい。それなら誰も救われないではないか、そのように弟子たちは言い合います。そこでイエス様は弟子たちに言われます。その通りだ、とばかりに言われるのです。26節「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた」。
 人間自身の宗教性、道徳性の陶冶によって神に至る可能性など全くないのです。それに頼ろうとするものには、神は否をもって応えられるのです。神こそただお一人、善い方に他ならないからです。左様に人間には救いの可能性は全くないが、神には何でもできないことはありません。それどころか、私たちが全く思い及びもしない仕方で、神は私たちを救う道、命に至る道をつけてくださったのであります。
 ヨハネによる福音書3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神が独り子なる主イエスを与えてくださったほどにこの世を愛され、独り子なる主イエスを信じる者が永遠の命を得ることができるようにしてくださったのです。主イエスが神に信頼しきることができず、なお、罪深い私たちのその罪を担って、十字架にかかって下さったがゆえであります。
 神は善いお方であります。神の前にあって、私たちはどんなに善いことを重ねても、罪人にすぎません。けれども神は善き方ゆえに、洗っても洗いきれない雑巾のごとく、罪深く、汚れた私たちをも救うために、主イエスを通して罪から救うという善いことをしてくださったのです。
 イエス様は「わたしに従いなさい」と招いていてくださいます。そこに神との豊かな交わりと、隣人との交わりの世界が開かれるのです。結局、富める青年の問題も交わりの欠如にあり「交わりの回復」こそが「救い」に他なりません。「私に従いなさい」ここに真の救いがあると主は力強く呼びかけてくださるのです。その救いも「私たちが従ったから」というので与えられるのではありません。すでに成し遂げられた救いだからです。招き寄せてくださる主イエスは、主の言葉に従い得る力をも与えてくださるのです。
 主に連なる教会にあるがゆえに、私たちは孤独ではないのです。全能なる神との交わりを得、また、隣人との交わりを得ているからであります。