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37節、ピラトはローマ帝国の総督ですからユダヤ人ではなく、神を、ましてや主イエスを信じていません。しかし、主イエスを信じないピラトが、主に対して「それでは、やはり王なのか」と言わざるを得なかったことは皮肉なことです。ここに言う「ユダヤ人の王」とは「天に属する王、救い主(メシア)」としての王」を指します。ですから、信じていないのにも拘らず「主イエスを王(メシア)と言い表すことになった」そのことが皮肉なのです。そしてそれが「ピラトの役割」でした。 神は、主イエスを「メシア、罪なき方」と示すために、主を信じる者ではなく「信じない者(ピラト)」を用いておられます。神は、信じない者をも「ご自分の御業のため」にお用いになるのです。神は「全ての者の支配者」であり「導き手」であられる方です。そこに信じない者がいたとしても、神の御業は停滞することはありません。「この人が救われることは絶対に無理」と、キリスト者であっても自分の感情で思い込んでしまうことがありますが、「神の救いの御業」とはそのようなものではありません。ただ「神の御心がなる」のです。その救いがいかに確かなものか、それが、この「信じられない者を用いられることによって御業が押し進められていく」ことに示されていることです。 37節「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と、主イエスはピラトに言われます。それは「信じる者になりなさい」と言っておられるのです。そしてその上で、主イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言われます。 では、人間にとっての真理とは何でしょうか。 そして、続けて「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われます。 38節「真理とは何か」と、ピラトは問います。疑問を持つ人には答えがあります。疑問を持たない人は、答えを答えとして理解できない、答えを発見できません。そういう意味で、ピラトにはまだ可能性が残っていると言えるでしょう。疑問を持つということは、とても大事なことです。疑問を多く持てば持つほど、多くの解答を得ることができるのです。ピラトがここで救いへの招きを受けていることは確かです。救われたかどうかは不明ですが。 けれども、39節「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と、ピラトは、ただ盛り上がった人々の気持ちに沿って、「あなたたちのやり方で(祭りのときの釈放)」釈放してはどうか、と提案します。 そのよう人々の罪を担い、ご自分のものとして、身代わりの十字架に、主イエスはつかれるのです。主イエス・キリストが神なる、力ある方として「十字架を押しのける」ことは可能なことでした。しかし、主イエスは、このような人の罪の姿が鮮やかな中で、人の罪なる姿を一切引き受けて、自ら進んで十字架につかれるのです。 主イエスは、罪の故に十字架に裁かれるのではありません。「人の罪を清算するために」自ら進んで、損を引き受けてくださるのです。「人の罪の贖いとなってくださった」のです。 |
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主イエスが譬えを語っておられます。語る相手は「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」です。この人々が、主イエスの弟子たちなのか、それともファリサイ派の人々なのか、あるいは両方なのかは、はっきりと書かれてはおりません。ともかく、弟子の中にいてもファリサイ派の人の中にいてもおかしくないような「他人を見下している人々」に対して、主イエスは譬えを語っておられます。 2人の人が祈るために神殿に上りました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。2人が神殿に上った理由は共通していました。祈るため、です。けれども、ファリサイ派の人と徴税人がささげた祈りは、それぞれ全く違った祈りでありました。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」。 「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」。 ファリサイ派の人は、自分で自分を罪人ではないと、正しい者であると言いました。けれども徴税人は、自分で自分を正しいとすることはできないのです。神の前に自分は罪人でしかないと知っているからです。ファリサイ派の人の祈りに、神は必要ありませんでした。けれども、徴税人の祈りにおいては、一切が神にかかっているのです。神が罪人のこのわたしを憐れんでくださるかどうかに、一切がかかっているのです。徴税人はへりくだります。神の憐れみ以外に、頼るものは、もうないからです。 主イエスは驚くべきことを語られます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」。 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。 徴税人は「義とされて家に帰った」。 私どもは、礼拝するために教会に来て、また自分に与えられた場所へ散らされていきます。私どもはそれぞれ、実にいろいろなものを抱えて、礼拝するために教会に集まって来ます。罪や病や悩み、ときには高ぶりを持ってくることもあるでしょう。そのような私どもに、神は多くのことを求めてはおられません。大切なことは、神の前にへりくだることです。自分を小さくし、神の栄光を大きく輝かせていただくことです。神はへりくだる者を義としてくださいます。ですから、共に、徴税人の祈りに、私どもの祈りを重ねたいのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。 |
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1節〜5節、主イエスを釈放したいと思うピラトの姿が描かれております。しかし、ピラトの思惑は外れ、人々は主を「十字架につけろ」と叫びます。 ピラトは何故、主イエスを鞭で打ったのでしょうか。痛めつけられている主イエスの姿を見れば、人々の気が少しは晴れて同情し、「もう、これでよい」と思うのではないかと期待したのです。 「あざけり」の本質とは何でしょうか。それは「他者の心を傷つけること」です。人は、こうと思ったら徹底的に他者を辱めるのです。人は心の優しさを求めますが、しかし、人の心は残忍です。「ユダヤ人の王でありながら何とも情けない…」ということを「万歳」という言葉で拍車をかけ、主を平手で打ち、「いかにお前は無力な者か」ということを示そうとするのです。平手打ちは、戦うやり方ではありません。平手は相手を侮辱するやり方です。主イエスを辱め、肉体を痛め、そういう主イエスを人々の前に引き出そうとするピラト。ピラトは、その痛々しい憐れな姿を人々に見せつけ、いきり立つ人々の心を満足させ「もういいではないか」と言わせようとしているのです。ピラトは主イエスを釈放する努力をしております。このやり方が良いとは思いませんが、こういうやり方でなら、主イエスを十字架につけずに釈放できるのではないかと考えたのです。 しかし、このピラトの行いは「熱狂している者を鎮めることの難しさ」を示しております。 人はどこで神と結び付くでしょうか。「無力な自分を受け入れられず自信を失うとき」、ただ惨めさの中で「主イエスと出会う」のです。何故なら主イエスは、私どもに先立って、私ども以上に惨めな淵に立ってくださっているからです。間違ってはなりません。私どもが惨めになったから、主イエスに出会うのではありません。主イエスが先立って惨めになってくださった、だから、私どもは主イエスに出会うことができるのです。主が既に惨めさの淵に立っていてくださる、だからこそ、私どもが惨めになり存在を失ったとき、主に出会うことができるのです。主と出会い、「存在ある者」となれるのです。 主イエスの無力さを人々に見せつけようとしたピラトの演出を、人々は受け入れたでしょうか。5節「見よ、この男だ」とは、正確には「無力なこの人を見よ」という言葉です。ヨハネによる福音書は「この無力な者こそ、神の御子、救い主である」ということを「見よ」という言葉で言い表しております。「惨めなこの人を見よ」、これが「キリスト教会の信仰告白」であることが、この御言葉に示されていることです。惨めな姿のこの方以外に、私どもの救いはないのです。 6節、熱狂した人々は、ますます残忍に「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びます。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい」とのピラトの吐き捨てるような言葉は、「もう勝手にしろ」というピラトの思いです。自分の思いが通らなければ「もう勝手にしろ」と思う、それが人の思いです。 人の思いを超えて、主の十字架の出来事(救い)=神の御心が成るのです。自分の思いに反して主を十字架につけたピラトは、神の救いの御心が成るために、「神に用いられ」主の証人となりました。 人の思いの故に、主イエスは十字架につけられました。しかしその十字架の出来事は「人の思いを超えた神の御心、救いの御意志」であることを、改めて覚えたいと思います。 |
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ピラトは、主イエスに茨の冠と紫の服をまとわせてユダヤ人たちの前に引き出し、その惨めな姿によって主イエスを「無力な者」「死刑に価しない者」として見せました。しかし、ピラトがそのように示したにも拘らず、人々は主イエスを「十字架につけろ」と叫びます。人々が見ているのは、そのような惨めな姿なのではなく、「主イエス」その人なのです。 7節「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と、ここでユダヤ人たちは初めて自分たちの論理を明かします。何故、主イエスを十字架につけるのか。ユダヤ人にとって「律法」とは「神の御心」を示すものです。ですから、自らを「神の子と自称する主イエス」は神を冒涜する律法違反者であり、死刑に価するという論理です。しかし、死刑はユダヤ法で唯一禁じられていた刑であり、従ってローマ法によって死刑を、という理屈です。けれども、ローマ法においては、ローマ帝国転覆を図る指導者であるならば死刑に値しますが、主イエスは実際には「神の子と自称した」と言っても、政治的な行動を何も起こしたわけではないのです。ですから、このユダヤ人の論理は、自己都合のための勝手な論理であると言わざるを得ません。 大事なことは「主イエスは神の御子であられる」ということです。それを信じないが故に、ユダヤ人たちは狂っているのです。人が狂ってしまうのは「事実を事実と受け入れられない」からです。自分勝手な思い込みで事実に反することを信じ、なそうとすると、人は狂うのです。そして、狂ったまま進めば、物事は破綻してしまいます。 人々は何故、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのでしょうか。 8・9節「ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった」と記されております。 ピラトの問いに対し、主イエスは何もお答えになりません。それはピラトを恐れたからではありません。何も答える必要がないのです。主イエスのこの沈黙にも意味があります。主の沈黙は「全てを受容しておられる」が故の沈黙です。どうしたらよいのか分らない時の沈黙に、平安はありません。しかし主イエスは「十字架を全てを引き受けておられる」が故に、熱狂する者を前にしても「平安」なのです。このことは、私どもにとって大変示唆的です。主イエスは、狂った人々、罪なる人々の思いを受け入れ、受け止めて、尚、救いの対象としてくださっているのです。神を神とすることができない、罪にすぎない者の贖いとなるために、主イエスは十字架につけられるのです。ただただ感謝の他ありません。 ピラトは、熱狂する人々を恐れるだけではなく、沈黙する主イエスにも恐れを感じます。そして10節「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と、主イエスに対して自分を誇って見せます。しかしそれは滑稽な様です。何故でしょうか。 11節「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、主イエスは言われました。真実な力は神にのみあるのです。主を釈放できず、望まない十字架につけようとするならば、それは人の力による出来事ではなく、神の御業であるのです。「主イエスの十字架を通して救いの御業をなしておられるのは、神である」このことが示されているのです。 したいこともできず、したくないことをやらなければならないという現実。そのように、本当には力なく、不自由な私どもの救いが「主イエス・キリストの十字架の出来事」であることを覚えられますならば幸いです。 |
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非常に心に引っ掛かりを覚える聖書の箇所に出くわす、といったことはおそらく教会生活を送っている者にとって幾度も経験しているところでありましょう。「ああ、主のひとみ、まなざしよ」との讃美の声をあげました、その歌詞の最初に出てくる「富める若人」の箇所を今朝、共にお聞きしますが、心に引っ掛かるどころか、楔が撃ち込まれるような思いをしてしか読むことのできない箇所ではないかと、改めて感じざるを得ません。 導入はそこまでとして、「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。』 男が『どの掟ですか』と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」16〜19節とあります。「天の国」に幼子のような者をさえ招き寄せられる主イエスの教えに感銘を受けたのでしょうか、ある人がイエス様のところに来て、こう、尋ねるのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。善いことをすること、それは良いことであると、単純に私たちは思ってしまいます。そして善いことをすればするほど「あぁ、あの人はいい人だ」との評価を受けるようになるため、ますます、善いことを重ねようとするに違いありません。この人は善いことをする延長線上に「永遠の命」を得る、すなわち救いが得られると考えていたのであります。ことにユダヤの人々にとっては、善いことは大変明瞭であり、それは神の命じたもうことに沿って生きることでありました。神が善しとしたもうことをすること、それが善であるということに他ならないのです。 ですからイエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」とお答えになられたわけです。「善い方はただお一人」と言われるのは、全き善なる方はただお一人、神だけであるということに他なりません。この一言からいたしましても、善い業を重ねて神に至ろうとすることが、いかにピントを外していることか。よく人間の罪を言い表す言葉に「的外れ」がありますが、こんなに善いことをしているのに、なんだかまだ不完全だなどと考えること自体、罪深いことだと言わざるを得ません。神をこそ、善い方とし、その方を信頼するところに人間本来のあり方があると言ってよいのであります。 ところが、この青年は「そこで、この青年は言った。20節『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。』」と、さらに主イエスに尋ねるのです。そのようなことはみな守ってきたけれど、何か他にしなければならないような気がしてならなかったのでしょう。それほどに「永遠の命」、救いを求めていたのですが、それはまことに的外れに他ならないのです。 この青年が「みな守っている」というとき、神の掟に表されている神の御心が十分に分かっていなかったのではないか、と思われます。隣人愛にかかわる戒めをイエス様が語っておられるのは、神は、人が「隣人との交わりのうちに生きること」をその御心としておられるからに他なりません。でも青年は隣人との交わりに生きようとしていたのではなく、隣人愛の戒めを守ることも、永遠の命を得るための手段としたのです。したがって交わりのうちにあるようでありながら、実は交わりを失い、非常に孤独であったに違いないと思われるのです。この交わりの欠如こそ、彼を救いなき者としたと言ったら言い過ぎでしょうか。 主イエスは彼に言われます。21節「 イエスは言われた。『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」これを聞いた青年は、悲しみながら立ち去ってしまいます。なぜなら、彼が本当に頼りにしていたものが何か、突きつけられたとき、全く失望、落胆してしまったからに他ならないでしょう。善いことを積み重ねること、また、富を積み重ねること、それは彼にとって一つのことであったと言えましょう。それは自分の力に頼ることであったのです。それだけは捨てきれないのです。捨てた上で、なお「従って来なさい」とは、とても厳しいお言葉です。神の前にあってなお、神に信頼できず、自らの功績や富に頼ろうとするほどに罪深いのだとの認識に至る、それ自体、救いではありませんが、救いに近くあると言ってよいでしょう。 自らの力には限界があるのです。年を重ねてみると分かってきますが、健康面でも精神面でも、衰えが感じられてくるものです。これこそは失われまいとするもの、それが失われるとき、その悲しみは深いのではないでしょうか。限界のある自分の力で神に至ろうとしても、失望する他はないのです。けれども、そこにこだわるばかりに、実は神にこそ救いがあることを見ようとしないのです。富める青年の問題はそこにあるのです。 青年がイエス様のもとから去って行ったあと、弟子たちに言われます。23〜25節「イエスは弟子たちに言われた。『はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った」。イエス様の言葉は、金持ちが天国に入るのは不可能だ、と告げているかの如く響きます。そうです。主の弟子たちはまがいもなくそう聞きました。いや、それ以上に誰も救われないのではないか、との疑念も湧き起ってくるのです。ひょっとすると弟子たちも、富める青年と同じ問題を抱えていたのかもしれません。らくだが針の穴を通ることなど不可能、それよりも人間の救いが難しい。それなら誰も救われないではないか、そのように弟子たちは言い合います。そこでイエス様は弟子たちに言われます。その通りだ、とばかりに言われるのです。26節「イエスは彼らを見つめて、『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』と言われた」。 |
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