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19節「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」と記されております。しかし、この「大祭司」とは誰なのか、なぜ「弟子や教え」のことを尋ねるのか、前後の文脈からみて違和感を感じる表現です。 では、「弟子や教えについて」尋ねたのは何故でしょうか。ペトロと一緒にいた「もう一人の弟子」は大祭司の知り合いでした。ですから、大祭司が「主イエスの弟子や教えについて」わざわざ尋ねる必要はないのですが、ここにも一つの暗示があります。ここに記される「弟子」とは、後々「主イエスの福音、救いを宣べ伝える者となる」のであり、それは「教会」を示しております。つまり、後々「この世の権力」が、主イエス・キリストを宣べ伝える「教会」と対立するものとなることを暗示しております。また「弟子(教会)」とは、後に「主イエスの教えを説き明かす者となる」のだということが、「教えについて」と記されることによって、予め暗示されていることです。 20節、主イエスは「わたしは、世に向かって公然と話した」と言われた上で、21節「なぜ、わたしを尋問するのか」と問われます。大祭司の司どる場所「ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で」公然と語られた主イエス。こそこそと尋問しているのは大祭司です。 主イエスは「わたしは、世に向かって公然と話した」と言われました。それは、「あなたがたは、わたしに聞くべきなのであって、わたしを尋問すべきではない。あなたこそ弁明すべき者だ」と言っておられるのです。 創世記において、最初の人アダムとイヴは、神の命に背いて神から身を隠しました。その二人に、神は「どこにいるのか」と問うてくださり、そこで二人は「あなたが与えてくださったあの女が…、蛇が…」と弁明します。「神が問うてくださる」から、そこで「自分の罪が明らかになる」のです。また、最初の兄弟カインとアベルの物語においても、弟アベルを殺したカインに、神が「弟はどこにいるのか」と問うてくださって、そこでカインの罪が明らかになり、カインは自分の罪深さにくずおれるということが起こります。そこで語られることは何でしょうか。罪が明らかにされて、そこで、罪にも拘らず、神は、アダムもカインも「守ってくださる」のです。裸のアダムとイヴには皮の衣を与え、カインには命を守る印を与えて、守ってくださる。罪をさらしたまま生きるのではない。「神の憐れみが人を覆い尽くし、支え守ってくださるのだ」ということを、忘れてはなりません。 21節、主イエスは「なぜ、わたしを尋問するのか」と言われます。主イエスの言葉を聴いたならば、問うのではなく「従うか、否かしかない」と言われているのです。 25節〜27節は「ペトロの否認」の場面ですが、ヨハネによる福音書は、ペトロが「3度」否認したことを強調してはおりません。それよりも、26節に「ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」と記されております。「耳を切り落とされた人」は「マルコス」と名が記されており、後の教会で覚えられた人であることが示されておりますが、ここでその身内の存在をも記していることは、その身内も後に教会に関わる者となったことの暗示であります。 |
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28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」と記されております。カイアファの姑アンナスの尋問があり、すぐにローマ総督ピラトの元に連れて行ったということです。 続けて「明け方であった」と記されております。「明け方」ということにも意味があるのです。明け方に結論が出たとすれば、真夜中に裁判をしていたのでしょうか。そのような法廷は真実なものでしょうか。「明け方」そこにローマ指導者たちの「後ろめたさ」を感じます。この裁きが「正式ではなく私的な裁きである」ことが暗示されているのです。 「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」と続きます。エルサレムにある「総督官邸」は、ローマ帝国のアジア州における総督官邸ですが、総督は普段からいるのではなく、祭りの時にだけカイサリアからエルサレムにやって来るのです。何故「祭りの時」に来るのでしょうか。「祭りの時」は、民族意識が高まり暴動が起きかねない、危ない時だからです。ですから総督は、祭りの時に軍隊を引き連れてやってくるのです。 29節「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、…」。明け方に、わざわざピラトの方から出て行くとは、とても変なことです。そんな時間に人を訪ねるのも変ですが、応対するのも変、全てが異常です。考えられることは、ピラトがユダヤの民衆の暴動を恐れて、この訪問を見過しに出来なかったということです。 31節、ピラトの答えは「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」というものでした。「主イエスを有罪と決めているのは、あなた方ユダヤ人。だから自分たちで裁いたらどうか」と言うのです。しかし、ユダヤ指導者たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。彼らは主イエスを「ローマの権限で死刑にして欲しい」と言っているのです。 ここまでのところで示される大事なことは何でしょうか。 32節「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と、物語の途中に一言記されております。 人は様々に思い自分勝手にしてしまうのです。ですから、人は人を救うことは出来ません。けれども、人のよこしまな思い、悪の極みに、なお「神の救いがある」のです。ただ、神のみ、救いを成し遂げることがお出来になるからです。 |
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今日は33節からです。 ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを大祭司カイアファの元からローマの総督ピラトの元に連れて来て、主をローマの法で裁いて死刑にして欲しいと訴えました。ピラトは、どうしてそのような訴えに対応しなければならなかったのでしょうか。時は丁度ユダヤ最大の祭り=「過越の祭り」でした。ユダヤ人にとっての「過越の祭り」は、キリスト者にとっての「イースター(復活祭)」のようなもので、信仰の中心にある祭りです。祭りのために人々が各地からやって来るのです。それは、ユダヤ民族としての意識が一番高まる時です。ですからピラトは、民族の中心となる思いが頂点となる時の訴えを無下にはできなかったのです。暴動、反発を恐れたからです。 熱気にはやる民の心を鎮めるために、ピラトは主イエスの尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか」と、率直に問うのです。この問いも、正式なものではなく、私的なものであることが分ります。正式な裁判の手続を経た尋問であれば事柄の説明から尋ねるはずですが、個人の問いだから率直なのです。 このことは大変面白いことです。この問いは「お前は、ユダヤが待ち望んでいるメシアなのか」という問いになっているからです。ピラトはメシアなど信じておりません。にも拘らず、信じていないピラトですら「あなたはメシアなのか」と、主イエスに問わざるを得なかったのです。主イエス・キリストは救い主です。信じない者であっても、問わざるを得ないという形であっても「主イエスをメシアと言い表す」のです。何とも皮肉なこと、しかし驚くべきことです。人が「信じる、信じない」にかかわらず「主イエスは救い主」なのです。信じない者に対しても「主イエスは救い主」であってくださるのです。主イエスと関わるとき、人は主イエスをメシアと言い表さざるを得ないのです。それが「人と主イエスとの関係」であることを覚えたいと思います。 ですから、「信じない者」は「信じる者」へと導かれるのです。「メシアを信じること」は自然なこと、信じないことは不自然なことなのですから、信じない者も信じる者になれる道が開かれているのです。「信じない」ことは「信じる」ための導きです。それが、人が主を信じる信じないに拘らず「主イエスがメシア(救い主)であられる」ということです。ですから、私どもは救われたのだということを忘れてはなりません。どこまでも変わらない主イエスによって導かれ、信じない者が信じる者へと変えられたのだということを覚えたいと思います。信じない者だからこそ、信じる者になり得るのです。それは、主イエスが私どもの救い主であってくださるからです。 34節「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と、主イエスはお答えになりました。これは驚くべき答えです。問われているのは主イエスなのではありません。救い主(主イエス・キリスト)の前で、問われるのは「人」なのです。「お前は信じるのか、信じないのか」と問われるのです。問われているのは、メシアを信じないピラトです。それがこのやり取りなのです。主イエスは問われるべきではないことが、ここで鮮やかに示されております。 このことから、様々なことを思わされます。 私どもは、この人生において「お前はわたしを信じるか」と、神から問われております。それは、信仰者としての道を全うするようにと、神が導いていてくださることであることを覚えたいと思います。私どもの人生は「神にある人生」です。神に問うのではなく、神に問われている人生なのです。「真実に、わたしを信じるか」と問われているのです。ですから、この地上は「神の鍛練の場」です。「神が神であってくださる」ことが「私どもの救い」なのです。十字架の主イエス・キリストをもってまでして、私どもを救ってくださるのです。 |
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ユダヤはローマ帝国の属国であり、ローマの支配下にありました。従って、ユダヤはある程度の自治を認められていましたが、ローマの秩序に関することについてはローマの法律で裁いたのです。ローマに対する謀反・独立運動を企てた者は十字架刑に処せられました。ですから、主イエスを死刑にしたいユダヤの指導者たちは、ローマの総督ピラトの元に主イエスを連行したのです。 35節からはピラトと主イエスのやりとりが記されております。 ここで大事なことは「キリストを通して現される神の国の支配」は、どこにおいて現されているかということです。「神の支配、天の支配」は「天においてなされる支配はこうである」ということではありません。そうではなくて、天の支配は天上にだけあるのではない。天の国は「主イエス・キリストがおられる所」に「既に」あるのです。「この世に属さない」という言葉で「この世にはない」と錯覚してはなりません。主イエスが天の国を「わたしの国」と言ってくださったことによって、天の国・神の国は、主イエスと共に「この世にある」ということなのです。主イエスは「この世に属さない神なる方」であるにも拘らず、この世のただ中にいてくださるのです。ですから「天の国、神の国」とは、死んでから行く所なのではありません。「神の国」は今、この世のただ中に厳然とある、このことが大事なのです。 高齢化社会ということを考えますと、高齢になることは、終りが近づくということです。家族が、友が、先に死んでしまうのです。「高齢化社会」とは「この世を超えた世界をかいま見る社会」ということです。ですから、高齢化社会にとって最も大事なことは、この地上において「地上を超えた方向性、出来事を確信する、信じられる」ということです。「死」そして「死後」の世界がはっきりしなければ、地上における介護も虚しいのです。人にとって「この世を越えた世界を知り、信じる」ということは、とても重要なことなのです。 「この世の支配」と「神の国の支配」の違いはどこにあるのでしょうか。「この世の支配」は、権力者の支配、そして経済における利益追求の支配です。現代社会は、お金がなくては生きていけない社会です。経済活動は儲かる人と損する人を生み、社会は格差社会となってしまう、そういう社会を人は作ってしまいました。 人は自分の利益を追求し格差社会を生み出してしまいましたが、その格差社会が今、求めているのは「ボランティア社会」です。「ボランティア」それは「献身・奉仕」です。自らを献げることです。それは、本当には「神の自己犠牲」によってしか現せないことです。「わたしの国」は、既に、この世のただ中にあります。本来のボランティア社会は、主イエスによって既に始まっているのです。 37節「それでは、やはり王なのか」 と、ピラトは主イエスを信じないにも拘らず、主イエスを「王」と証ししております。主イエスと関わる者は、主を信じる信じないに拘らず「主イエスは王、メシア」と言い表さざるを得ないのです。それは、主イエスが真実「メシア(救い主)なる方」であるからです。 ですから、ピラトの不幸は、ここにあります。主イエスをメシアと証ししていながら信じない、だから主イエスを十字架につけてしまったのです。 主イエス・キリストをメシア(救い主)と信じて証しすること、そこに本来のあるべき秩序、麗しさがあることを覚えたいと思います。 |
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