聖書のみことば/2010.7
2010年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
公然と話された主」 7月第1主日礼拝 2010年7月4日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章19〜27節
18章<19節>大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。<20節>イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。<21節>なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」<22節>イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。<23節>イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」<24節>アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。<25節>シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。<26節>大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」<27節>ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

19節「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」と記されております。しかし、この「大祭司」とは誰なのか、なぜ「弟子や教え」のことを尋ねるのか、前後の文脈からみて違和感を感じる表現です。
 13節を振り返ってみますと、この年のユダヤの大祭司は「カイアファ」ですので、ここでの大祭司はカイアファであるべきですが、24節「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」と記されていますから、これから大祭司カイアファの所へ行くのであり、では、ここに言う大祭司は誰か?ということになるのです。実は、この大祭司は「アンナス」です。アンナスは大祭司カイアファの姑であり、紀元6〜15年に大祭司でしたが、その経歴は「解任された大祭司」というあまり芳しいものではありませんでした。しかもその後、カイアファが大祭司となる前には1年おきに3人の大祭司がおりました。にも拘らず、ここでアンナスを大祭司と記しているのは何故でしょうか。
 その理由として考えられることの一つは、解任された大祭司とはいえ、なお人々から尊ばれる陰の実力者だったということです。しかし、だとしても、アンナスをわざわざ「大祭司」と書く必要はないでしょう。先を読み進めますと「大祭司カイアファの元での尋問」の記述は特に無く、「大祭司の尋問」は「ローマの総督ピラト」の元に連行される通過点でしかありません。つまり、アンナスを「大祭司」と記すことによって、「アンナスの尋問」は「大祭司の尋問」と同じであったことを暗示しているのです。それは「主イエス・キリストの十字架」が、単にユダヤの大祭司の元で裁かれたことによるのではなく、この世の全ての権力(ローマ帝国)の罪、迫害のためであったことを示すためです。「この世の罪の全てを担い、救うために、主イエスは十字架にかかられたのだ」ということを強調しているのです。

では、「弟子や教えについて」尋ねたのは何故でしょうか。ペトロと一緒にいた「もう一人の弟子」は大祭司の知り合いでした。ですから、大祭司が「主イエスの弟子や教えについて」わざわざ尋ねる必要はないのですが、ここにも一つの暗示があります。ここに記される「弟子」とは、後々「主イエスの福音、救いを宣べ伝える者となる」のであり、それは「教会」を示しております。つまり、後々「この世の権力」が、主イエス・キリストを宣べ伝える「教会」と対立するものとなることを暗示しております。また「弟子(教会)」とは、後に「主イエスの教えを説き明かす者となる」のだということが、「教えについて」と記されることによって、予め暗示されていることです。

20節、主イエスは「わたしは、世に向かって公然と話した」と言われた上で、21節「なぜ、わたしを尋問するのか」と問われます。大祭司の司どる場所「ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で」公然と語られた主イエス。こそこそと尋問しているのは大祭司です。
 ここで知るべきことがあります。「尋問とは何か」ということです。「尋問」とは「弁明を求めるもの」です。大祭司は主イエスを尋問しました。しかし、主イエスに弁明はありません。主イエスは「神の御子として、神なる方」です。「弁明すべきは人、この世の権力」であって「神が弁明する必要はない」のです。ですから、主イエスに弁明を求めることは本末転倒なことです。神なる方「主イエス」が語られることを「信じない」ことにこそ、弁明が必要なのです。「信じられない」ことは自己弁護であり、人の罪深さを表しているのです。
 大祭司は、自分たちの悪しき思いの故に、主イエスに弁明を求めております。弁明を求め、反論を聞く。反論を聞いた上で弱点を突く、それは狡猾な知恵です。弁明すればするほど、揚げ足を取られるのです。人は真面目に「問われたら答えなければ」と思うものですが、問われても答える必要のないこともあるのです。尋問する、つまり「弁明を求める」ことは「狡猾な罠」なのです。
 私どもは「主(神)の前に弁明すべき者」に過ぎません。もし「弁明しないで済む」ならば幸いです。「弁明しない」とは、神がなしてくださることを全て「アーメン」とすること、「神に従う」ことです。「神に従えない」、だから神に「何故、どうして」と弁明を求めてしまうのです。
 人は「神に弁明を求める狡猾な者」です。「この世に争いがあるのは何故か、わたしはどうして不幸なのか」と、神に問うのです。この世の争いは、人が引き起こしていることです。個人の不幸も、自業自得ということもあるのです。人は自業自得であっても、神に問うのです。人が作り出したものに人は苦しんでいるのであって、その苦しみ・不幸の原因を、神に問うことは愚かなこと、間違ったことです。
 では、自ら引き起こした痛み・苦しみの中にあって、私どもが思うべきことは何でしょうか。この世に絶えない争いがあるにも拘らず、個人に不幸があるにも拘らず、それでもなお「神の守り、憐れみ、支えがある」ことを思うべきです。「救いの神」が、私どもを「守り、支えていてくださっている」ことを忘れてはなりません。見るべき、思うべきは「神の支え、神の憐れみ」であり、それこそが「神に向かう」ということです。「自分に向かう」から神に問う、神に弁明を求めることになるのです。「神に向かう」ならば「神の憐れみを求める」より他ないのです。

主イエスは「わたしは、世に向かって公然と話した」と言われました。それは、「あなたがたは、わたしに聞くべきなのであって、わたしを尋問すべきではない。あなたこそ弁明すべき者だ」と言っておられるのです。

創世記において、最初の人アダムとイヴは、神の命に背いて神から身を隠しました。その二人に、神は「どこにいるのか」と問うてくださり、そこで二人は「あなたが与えてくださったあの女が…、蛇が…」と弁明します。「神が問うてくださる」から、そこで「自分の罪が明らかになる」のです。また、最初の兄弟カインとアベルの物語においても、弟アベルを殺したカインに、神が「弟はどこにいるのか」と問うてくださって、そこでカインの罪が明らかになり、カインは自分の罪深さにくずおれるということが起こります。そこで語られることは何でしょうか。罪が明らかにされて、そこで、罪にも拘らず、神は、アダムもカインも「守ってくださる」のです。裸のアダムとイヴには皮の衣を与え、カインには命を守る印を与えて、守ってくださる。罪をさらしたまま生きるのではない。「神の憐れみが人を覆い尽くし、支え守ってくださるのだ」ということを、忘れてはなりません。
 日々、弁明に明け暮れる私どもを、神が「憐れみ、支え、覆い尽くしてくださっている」のです。

21節、主イエスは「なぜ、わたしを尋問するのか」と言われます。主イエスの言葉を聴いたならば、問うのではなく「従うか、否かしかない」と言われているのです。
 それに対して、22節「イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、『大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか』と言って、イエスを平手で打った」と記されております。下役は大祭司が侮辱されたと思ったのでしょう。ここで、主イエスは下役に、23節「…なぜわたしを打つのか」と、厳しく問われます。主イエスのこの厳しい問いに、この後、下役たちは言葉もなく、主を縛ったまま連行します。
 ここで、知るべきことがあります。それは「厳しい問い」と同時に、この下役は、主イエスに「覚えられた」ということです。「主が厳しく臨まれる」ということは、主が「真実をもって」、名も無いこの下役に「相対してくださった」ということなのです。何も理解せず、愚かにも主を打ったこの下役に、主イエスは真剣に向き合ってくださる。「救いなる方、主イエス・キリスト」が「救いの対象として」この下役に向かってくださっているのです。主が、この人を「救い主に関わりある者として覚えてくださっている」のだということを知らなければなりません。

25節〜27節は「ペトロの否認」の場面ですが、ヨハネによる福音書は、ペトロが「3度」否認したことを強調してはおりません。それよりも、26節に「ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」と記されております。「耳を切り落とされた人」は「マルコス」と名が記されており、後の教会で覚えられた人であることが示されておりますが、ここでその身内の存在をも記していることは、その身内も後に教会に関わる者となったことの暗示であります。
 ですから、思うのです。私どもが教会に繋がるということは、私どもに関わる者は皆、私どもの背景にある者は全て「教会に覚えられている、祈られている存在」なのだということです。全ての人が「キリストの救いの対象として覚えられ、祈られている」のだということを忘れてはなりません。
 そして、このことこそが、主イエス・キリストによって「教会に託された業」であることを、改めて覚えたいと思います。

主イエスの国」 7月第2主日礼拝 2010年7月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章28〜40節
18章<28節>人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。<29節>そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。<30節>彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。<31節>ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。<32節>それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。<33節>そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。<34節>イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」<35節>ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」<36節>イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」<37節>そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」<38節>ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。<39節>ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」<40節>すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

28節「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」と記されております。カイアファの姑アンナスの尋問があり、すぐにローマ総督ピラトの元に連れて行ったということです。
 何故、大祭司カイアファの尋問が記されていないのでしょうか。それは、ここでは大祭司の尋問はあまり「意味を持たない」からです。「尋問」とは「罪を定める、見極める」ために必要なことですが、既に一つの結論が出ている、だから尋問の必要がないのです。ユダヤの指導者たちが初めから持っていた意図とは何でしょうか。それは、ローマ帝国に権限を委ねて主イエスを処刑することです。「真実を明らかにし、真実に基づく処罰をする」ことを目的としていないのです。事柄の真実ではなく、人の思いを優先させているのです。
 「事柄の真実よりも自らの思いを勝らせること」それは「危うい」ことです。ユダヤの指導者たちは、自らの思いを満たすために主イエスを死に至らせようとする、そのようなことはあってはならないことです。このような人の奢り、頑さは、人を人として扱わないあり方です。

続けて「明け方であった」と記されております。「明け方」ということにも意味があるのです。明け方に結論が出たとすれば、真夜中に裁判をしていたのでしょうか。そのような法廷は真実なものでしょうか。「明け方」そこにローマ指導者たちの「後ろめたさ」を感じます。この裁きが「正式ではなく私的な裁きである」ことが暗示されているのです。

「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」と続きます。エルサレムにある「総督官邸」は、ローマ帝国のアジア州における総督官邸ですが、総督は普段からいるのではなく、祭りの時にだけカイサリアからエルサレムにやって来るのです。何故「祭りの時」に来るのでしょうか。「祭りの時」は、民族意識が高まり暴動が起きかねない、危ない時だからです。ですから総督は、祭りの時に軍隊を引き連れてやってくるのです。
 ですから、ここに記されている時は「過ぎ越しの祭りの時」であることが分ります。40節を見ますと、ピラトは人々の言葉に従って安易に主イエスに判決を下しますが、それはピラトの思いでは「治安維持」のためなのです。真実ではなく、人の思いが優先されている出来事が、ここに記されていることです。
 主イエスを連れて来た人々は、総督ピラトの官邸に入りません。それは「汚れないため」でした。「異教徒の家に入る」ことは、ユダヤの律法においては「汚れ」なのです。「主イエスへの殺意」は、とても清い思いとは言えません。彼らの思いは「汚れ」です。にも拘らず、形式的に表面上の汚れを取り繕い、思いは汚れているのに自らの清さを保とうとする、人の愚かさ、身勝手さを思います。人は、内側に汚れを持っているからこそ、外側を取り繕おうとするのです。そこに示されていることは何でしょうか。人は「汚れに耐え得ない」という弱さを持っているということです。人は、他者を一旦「汚れている」と決めつけてしまうと、決して受け入れることができないのです。ここに神と人との違いがあります。汚れた者をも「なお、救おうとする」それが神の思いです。人の思いは様々で、人には他者を清めることはできません。人を本当に清めることがお出来になるのは「神」のみです。に。人には汚れを清める清さはないのです。人は汚れを担うことは出来ません。汚れを清めることは、ただ「神のみ、なし得る」ことなのです。

29節「そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、…」。明け方に、わざわざピラトの方から出て行くとは、とても変なことです。そんな時間に人を訪ねるのも変ですが、応対するのも変、全てが異常です。考えられることは、ピラトがユダヤの民衆の暴動を恐れて、この訪問を見過しに出来なかったということです。
 そしてピラトは「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問います。裁く立場から言えば、この問いはおかしくないでしょう。
 しかし、それに対するユダヤ指導者たちの答えは「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」というものでした。 彼らは「この男が悪いことをしたから連れてきたのです」と言っています。彼らの思いは、主イエスが罪を犯したかどうかそんなことが問題なのではなく「ローマ帝国の法で裁いて欲しい」という思いであることが示されております。何ということでしょう。真実に基づく行動ではないのです。このような人の姿は、今日、私どもの社会の中にも見受けられます。権力を持つ者の決めつけによって、冤罪なども起こるのです。「真実ではなく人の思いが優先する」そのような世の中を、私どもは生きているのです。

31節、ピラトの答えは「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」というものでした。「主イエスを有罪と決めているのは、あなた方ユダヤ人。だから自分たちで裁いたらどうか」と言うのです。しかし、ユダヤ指導者たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。彼らは主イエスを「ローマの権限で死刑にして欲しい」と言っているのです。
 「ユダヤには自治は認められているが死刑執行の権限は無い」それがユダヤ指導者たちの言い分です。この箇所の解釈には諸説あるのですが、聖書はどう語っているでしょうか。たとえば「ステファノの殉教」において、ステファノはユダヤの処刑法「石打ち」によって殺されました。ですから当時、ユダヤには死刑の権限が無かったにも拘らず、処刑が行われていたことは確かなのです。ですからここで、ローマ帝国に認められていなくても、ユダヤ指導者たちが主イエスを石打で処刑することは出来たはずです。にも拘らず「ローマ帝国に主イエスを処刑をさせたかった」それが彼らの思いなのです。

ここまでのところで示される大事なことは何でしょうか。
 それは「人は必ずしも真実に重きをおくのではなく、自らの思いを優先させる者である」ということです。何故ならば「人は真実では有り得ない」からです。
 「真実」とは「神」にのみ用いられる言葉です。「人は真実で有り得ない」ことを覚えたいと思います。
 しかし同時に「人の真実、人が真実であるということ」について、併せて考えたいと思います。「信仰」とは「人が真実である」ということです。「信仰」とは「神を真実とする」ことによって「神の前に、真実になり得る」ということなのです。それは「自分が真実」というのではなく「神こそ真実である」とすることです。自らの罪を知り、赦されて、「真実に、人になれる」ということです。「人の真実」は「神を真実とする」ことにあるのです。それが「神の救い」の出来事であり「人が人となる、真人間とされる」ということです。真人間であることは、真実なる方「神」の前にしか有り得ないのことなのです。
 そして、神を神として讃える、この「礼拝」こそが、人が人として神の前にへりくだることです。神の前にひざまずく、それが「神を神とする」ことであり「人が真実な者とされる」ということです。それが真実な人間の姿でなのす。
 ですから、「礼拝」は私どもにとって「慰め」です。偽りの真実の中に生きている私どもが、神を信じて生きるとき、神の前に「真実な者となり得るという慰め」が与えられているのです。

32節「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と、物語の途中に一言記されております。
 31節で終わるならば、人のよこしまな悪しき思いによって、主イエスが十字架につけられたことになるのです。しかし、そうではない、ことが示されております。主イエスの十字架は「主ご自身のご決意である」と言われているのです。このことが大事なことです。「人の思いを超えて、主イエスの御言葉が実現する」のです。人の罪なる思いの中に、なお「神の救いのご計画が働いている」ことを、この御言葉は示しております。悪の支配の中に、とてもとても救いなど見出せないと思われる所で「主イエス・キリストの救いの御業は成就している」それが聖書の語る「救い」ということです。

人は様々に思い自分勝手にしてしまうのです。ですから、人は人を救うことは出来ません。けれども、人のよこしまな思い、悪の極みに、なお「神の救いがある」のです。ただ、神のみ、救いを成し遂げることがお出来になるからです。

ユダヤ人の王」 7月第3主日礼拝 2010年7月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章28〜40節
18章<28節>人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。<29節>そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。<30節>彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。<31節>ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。<32節>それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。<33節>そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。<34節>イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」<35節>ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」<36節>イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」<37節>そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」<38節>ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。<39節>ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」<40節>すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

今日は33節からです。

ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを大祭司カイアファの元からローマの総督ピラトの元に連れて来て、主をローマの法で裁いて死刑にして欲しいと訴えました。ピラトは、どうしてそのような訴えに対応しなければならなかったのでしょうか。時は丁度ユダヤ最大の祭り=「過越の祭り」でした。ユダヤ人にとっての「過越の祭り」は、キリスト者にとっての「イースター(復活祭)」のようなもので、信仰の中心にある祭りです。祭りのために人々が各地からやって来るのです。それは、ユダヤ民族としての意識が一番高まる時です。ですからピラトは、民族の中心となる思いが頂点となる時の訴えを無下にはできなかったのです。暴動、反発を恐れたからです。

熱気にはやる民の心を鎮めるために、ピラトは主イエスの尋問します。「お前がユダヤ人の王なのか」と、率直に問うのです。この問いも、正式なものではなく、私的なものであることが分ります。正式な裁判の手続を経た尋問であれば事柄の説明から尋ねるはずですが、個人の問いだから率直なのです。
 ピラトは、なぜ「ユダヤ人の王なのか」と問うたのでしょうか。それは主イエスを連行してきた人々の言い残したことに関係するのです。彼らは「ユダヤには死刑にする権限が無いので、ローマで処刑するべきである」と言って去りました。
 ローマの属国であるユダヤには、ある程度の自治が認められていましたが、たった一つ、裁くことの出来ない事柄がありました。それは「ローマの支配に対して謀反を起こす、独立運動をする」者を、国家反逆罪で裁くことは、ローマの秩序を守るため、ローマにしか認められていない裁きなのです。ローマはしばしば、自らメシアと称してローマ支配からの独立運動を起こした者を裁きました。ですから、ピラトは主イエスに「お前はユダヤの独立運動の指導者なのか」と問うたのです。

このことは大変面白いことです。この問いは「お前は、ユダヤが待ち望んでいるメシアなのか」という問いになっているからです。ピラトはメシアなど信じておりません。にも拘らず、信じていないピラトですら「あなたはメシアなのか」と、主イエスに問わざるを得なかったのです。主イエス・キリストは救い主です。信じない者であっても、問わざるを得ないという形であっても「主イエスをメシアと言い表す」のです。何とも皮肉なこと、しかし驚くべきことです。人が「信じる、信じない」にかかわらず「主イエスは救い主」なのです。信じない者に対しても「主イエスは救い主」であってくださるのです。主イエスと関わるとき、人は主イエスをメシアと言い表さざるを得ないのです。それが「人と主イエスとの関係」であることを覚えたいと思います。

ですから、「信じない者」は「信じる者」へと導かれるのです。「メシアを信じること」は自然なこと、信じないことは不自然なことなのですから、信じない者も信じる者になれる道が開かれているのです。「信じない」ことは「信じる」ための導きです。それが、人が主を信じる信じないに拘らず「主イエスがメシア(救い主)であられる」ということです。ですから、私どもは救われたのだということを忘れてはなりません。どこまでも変わらない主イエスによって導かれ、信じない者が信じる者へと変えられたのだということを覚えたいと思います。信じない者だからこそ、信じる者になり得るのです。それは、主イエスが私どもの救い主であってくださるからです。

34節「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と、主イエスはお答えになりました。これは驚くべき答えです。問われているのは主イエスなのではありません。救い主(主イエス・キリスト)の前で、問われるのは「人」なのです。「お前は信じるのか、信じないのか」と問われるのです。問われているのは、メシアを信じないピラトです。それがこのやり取りなのです。主イエスは問われるべきではないことが、ここで鮮やかに示されております。
 「ユダヤ人の王」と言い放ったピラトこそが、問われなければなりません。「主イエスがメシアかどうか」は、問題ではないのです。私どもが「主イエスをメシアと信じるか否か」が問題なのです。

このことから、様々なことを思わされます。
 私どもは、いろいろな試練に遭うとき、神に「なぜ?」と問うのです。人は自分の経験を通して、神に、「あなたはどなたなのか」と問うてしまいます。しかし、そうではないのです。人生の様々な出来事の中で、私どもが問うのではありません。私どもが「問われている」のです。「それでも、あなたは、主イエスをメシアと信じるか。神を神として崇めるか」と問われているのです。「神は神、救い主は救い主である」ことが、ここに示されていることであることを覚えなければなりません。
 人生の様々な出来事を通して、主が、神が、私どもに問うていてくださるのです。神が神として臨み「それでも、神を神として崇めるか」と問うてくださるのです。それは、私どもが「真実な信仰者となるよう」にと、練り清めてくださっているということです。それが「神の鍛練」です。神が私どもに与えてくださる出来事なのです。苦しみの果てに、練り清められて、そこに神の恵みを見出す信仰者となるのです。
 このことを思う時、旧約の信仰者ヨブを思います。財産を失い、子どもも、その家族までも失うヨブ。これほどの苦しみの故に希望などないのです。ヨブの妻は「神を呪って死んだ方が良い」と言います。全てを失ったヨブ。しかし、ヨブは「神与え、神取りたもう。神の名はほむべきかな」と言うのです。ヨブこそ神に問われました。そして、問われて、なお、ヨブは神を誉め讃えました。このことを思い起こさずにはいられません。私どもは、神に「何故?」と問うてしまう。だからこそ、このヨブの姿に心打たれるのです。

私どもは、この人生において「お前はわたしを信じるか」と、神から問われております。それは、信仰者としての道を全うするようにと、神が導いていてくださることであることを覚えたいと思います。私どもの人生は「神にある人生」です。神に問うのではなく、神に問われている人生なのです。「真実に、わたしを信じるか」と問われているのです。ですから、この地上は「神の鍛練の場」です。「神が神であってくださる」ことが「私どもの救い」なのです。十字架の主イエス・キリストをもってまでして、私どもを救ってくださるのです。
 神に問われるということは、どこまでも神が私どもに関わってくださるということです。それほどまでに深く、私どもの人生に関わってくださるということです。深く関わり、決して離れず「神に従う者であるように」と。だからこそ、問うていてくださるのだということを覚えたいと思います。

十字架につけよ」 7月第4主日礼拝 2010年7月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章35〜40節
18章<35節>ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」<36節>イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」<37節>そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」<38節>ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。<39節>ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」<40節>すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

ユダヤはローマ帝国の属国であり、ローマの支配下にありました。従って、ユダヤはある程度の自治を認められていましたが、ローマの秩序に関することについてはローマの法律で裁いたのです。ローマに対する謀反・独立運動を企てた者は十字架刑に処せられました。ですから、主イエスを死刑にしたいユダヤの指導者たちは、ローマの総督ピラトの元に主イエスを連行したのです。

35節からはピラトと主イエスのやりとりが記されております。
 ピラトは主イエスに「いったい何をしたのか」、つまり「ユダヤの独立運動を企てたのか」と問います。それに対して、主イエスは36節「わたしの国は、この世には属していない」と言われ、ユダヤ人の王であることを否定はしておられません。ここで印象的なことは「わたしの国」と3度出てくることです。「わたしの国」と言えば「神の国」「天の国」のことと思いますが、しかし主イエスはここで敢えて「わたしの国」と言っておられる。ここに、ヨハネによる福音書が強調したいことがあることを感じます。
 例えば、マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」と始まり、主イエスが「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と「神の国の到来」を語っておられることを記しております。また、マタイによる福音書においても、主イエスは「神の国」「天の国」についてしばしば語っておられます。それなのに、主イエスは、ここでは「わたしの国」と言われるのです。このことから受け止めるべきことは何でしょうか。
 「わたしの国」=「主イエス・キリストの国」とは「この世に属さない神の国」であることを覚えたいと思います。「神の国、天の国」は、神の支配の下にあります。「わたしの国」で示されることは「主イエス・キリストによって神の支配が現されている」ということです。
 「神の支配が主イエス・キリストによって現される」、それは「この世に神の愛が示された」ということです。ヨハネによる福音書は3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記します。神がキリストをこの世に遣わして、神(ご自分)の愛を示されたのです。ですから「神の支配」とは「愛による支配」であることを覚えたいと思います。

ここで大事なことは「キリストを通して現される神の国の支配」は、どこにおいて現されているかということです。「神の支配、天の支配」は「天においてなされる支配はこうである」ということではありません。そうではなくて、天の支配は天上にだけあるのではない。天の国は「主イエス・キリストがおられる所」に「既に」あるのです。「この世に属さない」という言葉で「この世にはない」と錯覚してはなりません。主イエスが天の国を「わたしの国」と言ってくださったことによって、天の国・神の国は、主イエスと共に「この世にある」ということなのです。主イエスは「この世に属さない神なる方」であるにも拘らず、この世のただ中にいてくださるのです。ですから「天の国、神の国」とは、死んでから行く所なのではありません。「神の国」は今、この世のただ中に厳然とある、このことが大事なのです。
 なぜ、このことが大事なのでしょうか。「わたしの国」という主イエスの言葉によって示されていること、それは、私どもはこの世に属していながら「主イエスを信じることによって」既に「神の国の民とされている」ということです。この世にありながら、私どもは「神の支配のうちを生きている」のです。
 この世には終わりがあるかもしれません。しかし、この世が終わろうとも、私どもは天に生きるのです。地上の終わりと共に終わるのではありません。

高齢化社会ということを考えますと、高齢になることは、終りが近づくということです。家族が、友が、先に死んでしまうのです。「高齢化社会」とは「この世を超えた世界をかいま見る社会」ということです。ですから、高齢化社会にとって最も大事なことは、この地上において「地上を超えた方向性、出来事を確信する、信じられる」ということです。「死」そして「死後」の世界がはっきりしなければ、地上における介護も虚しいのです。人にとって「この世を越えた世界を知り、信じる」ということは、とても重要なことなのです。
 ヨハネによる福音書は、「わたしの国」と記すことによって、この世に既に「主イエスと共に天の国がある」のであり、私どもはこの世にありながら、既に「この世を超えた国に生きているのだ」ということを力強く語っているのです。主イエス・キリストを信じるとき、私どもは、地上にありながら既に「神の子として天の国に生きる恵み」を与えられているのです。

「この世の支配」と「神の国の支配」の違いはどこにあるのでしょうか。「この世の支配」は、権力者の支配、そして経済における利益追求の支配です。現代社会は、お金がなくては生きていけない社会です。経済活動は儲かる人と損する人を生み、社会は格差社会となってしまう、そういう社会を人は作ってしまいました。
 では、主イエス・キリストによって現される「神の国の支配」、それは「愛による支配」です。愛する独り子を十字架につけ、損をしてまで「人を救う」という神のあり方です。「自らが献げられて他者を救う」それが「神の国の出来事」なのです。「献身」それが、主イエスによって示された国です。自分の利益を求めるのではないのです。自分の利益を求めることは「孤独」であり、そこに慰めはありません。しかしそのような孤独な者、罪にある者、罪に悩む者が「命を共有する交わりを生きるという世界」を、神は「主イエスを人として地上に遣わす」ことによって作ってくださいました。神は「神でありながら、自ら低くなって(人となって)」交わりを作ってくださったのです。
 私どもは、自分の利益を追求して孤独に生きるのでしょうか。貧しくても「交わりの中で共に生きる、喜び悲しみを共有する」という生き方を求めるでしょうか。私どもは、「交わりに生きる恵み」を「主イエス・キリストによって」与えられているのだということを覚えたいと思います。「神の国の支配」とは「共に生きる」という恵みなのです。

人は自分の利益を追求し格差社会を生み出してしまいましたが、その格差社会が今、求めているのは「ボランティア社会」です。「ボランティア」それは「献身・奉仕」です。自らを献げることです。それは、本当には「神の自己犠牲」によってしか現せないことです。「わたしの国」は、既に、この世のただ中にあります。本来のボランティア社会は、主イエスによって既に始まっているのです。

37節「それでは、やはり王なのか」 と、ピラトは主イエスを信じないにも拘らず、主イエスを「王」と証ししております。主イエスと関わる者は、主を信じる信じないに拘らず「主イエスは王、メシア」と言い表さざるを得ないのです。それは、主イエスが真実「メシア(救い主)なる方」であるからです。
 私どもは、信じる者として、あるいは信じない者として、どちらにおいても主をメシアと証しますが、同時に、あなたは信じる者として証しするのか、信じない者として証しするのかと、問われております。どちらが麗しいあり方でしょうか。親を親と、子を子としないならば、そこには亀裂が起こるのです。「メシアをメシアとして信じて証しする」ことは、麗しく慰めに満ちた出来事です。

ですから、ピラトの不幸は、ここにあります。主イエスをメシアと証ししていながら信じない、だから主イエスを十字架につけてしまったのです。

主イエス・キリストをメシア(救い主)と信じて証しすること、そこに本来のあるべき秩序、麗しさがあることを覚えたいと思います。