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23節前半「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。私ども(弟子たち)が神にあって「一つとされる」恵みについて、前回までにお話いたしました。今日は、23節後半から聴いていきたいと思います。 私どもの救いは、私どもだけに止まらないのです。「主イエス・キリストは、この世に対して遣わされた救い主である」と、私どもが証しすることによって、この世は「神に愛されている」ことを知るのです。 今、この世は、ある意味において閉塞状態にあるのではないでしょうか。行き詰まり、光を見ないのです。それは「光である神を見出せない」からです。しかし、そういうこの世にあって、私どもは「光なる神を示す」という働きをなしているのです。人は、身の置き所、拠り所を持たなければ不安です。ですから「この世の救い、拠り所は、神にこそあるのだ」と知らせること、これは大きな働きです。 この世は「愛」を求めております。人は皆「愛されたい」と思っているのです。しかし、この世の愛には限界があり、また裏切りがあります。愛を求めても「真実を愛」を知らないのです。「真実の愛、本当に愛してくれるのは神のみである」ということ、これは真実の愛に与った者だけが証しできることです。「神の愛に生きる」それは神に愛され、子とされているという恵みに応えて生きることです。恵みに応える生き方こそが、この世に対する証しなのです。 24節「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と、主イエスは、ご自分のことではなく、弟子たち(主を信じる者たち)のために祈ってくださっております。 続けて示されております。天に住まいすることによって与えられるものは何か。それは「神の御子の栄光を見る」ということです。直接に「神の御子として、神(主イエス・キリスト)を見る」ことが許されるのです。私どもは、地上において直接に神を見ることはできません。しかし、天においては「完全なものとされている」から、神を直接見ることができるのです。 25節、これまで主イエスが祈ってくださったことの要約を言ってくださっております。 26節「わたしは御名を彼らに知らせました」と言われております。「御名」とは、どのような名なのでしょうか。それは、神を「父」とする名です。神は「父なる神」であるということです。「父なる神」は主イエスの父として、私たちをも「子」としてくださっているのです。 また、この祈りにおいて、主イエスが神を「正しい父よ」とお呼びになっていることの大切さを覚えたいと思います。 主イエスは、ご自分のためではなく、私どものために祈ってくださいました。「正しい父よ」と神を呼び、この祈りが「真実にこのようになる」ことを言い表してくださっていることを感謝したいと思います。 |
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17章は、全体が主イエスの「祈り」でした。 その祈りが終わり、18章1節は「こう話し終えると、…」と始まります。主イエスが「話された」のは、人に対してではなく、神に対してでした。「神との語らい」、それが「祈り」ということです。 主イエスは弟子たちのために祈ってくださいました。その弟子たちを連れて「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」と記されております。「キドロンの谷」はエルサレムとオリーブ山を隔て、ヘブル語では「黒い、暗い」の意味を持ち、「冬の川」とも呼ばれ、雨期にだけ水が流れる谷でした。「そこには園があり、…」、谷の向こう、エルサレム対岸のオリーブ山にある園、それは即ち「ゲッセマネの園」です。 名を記さない「ゲッセマネ」ですが、ではなぜ「園」と言っているのでしょうか。それには訳があります。 親しい交わりの場が裏切りの場とされる。親しい者だから裏切りがあるのです。裏切りを通して、主イエスは「救い」を遂行されました。なぜでしょうか。 3節「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た」。園は弟子たちと主イエスとの交わりの場所であって、そこには群衆が来ないことを、ユダは知っておりました。ですからユダは、群衆を恐れている「祭司長たちやファリサイ派の人々」の遣わした下役たちと一隊の兵士を連れて来たのです。 4節、主イエスはご自分の身に起こることをすべて知っておられます。下役たちはと言えば、これだけの物々しい姿をもってしても、果たして主イエスを捕らえることができるかどうか分っていないのです。主のみ、全てをご存知です。 「礼拝」は、主の臨在を示すものです。「わたしである」という方が、今、この礼拝において、ここに在すのです。礼拝において、私どもは、圧倒する神の威光に与る恵みをいただいているのです。 |
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今日は7節からです。 6節までを振り返ると、主イエスの逮捕は、主が自ら進み出て、主を捜す者に「ナザレのイエス」と言わせてくださり、「わたしである」とご自身を明らかにしてくださった故のことでした。そして、「わたしである」との主の言葉に兵士たちは倒れます。そこに、主イエスの圧倒する存在感が示されております。 主イエスの前に、武器を持っていても兵士たちは無力です。そして、主イエスはもう一度「わたしである」と言ってご自分を示してくださるのです(8節)。兵士たちに主イエスを逮捕する力はありません。主イエスがご自分を明け渡してくださるから、逮捕できたのです。この世の権力が主イエスを捕らえるのではない、主がご自身を捕らえさせてくださるのです。神がこの出来事を良しとしてくださるからこそ、成るのです。主イエスの逮捕は神の御心です。主イエスが神の御心に従われたゆえのことです。主イエスの逮捕は、神の御心(救いの計画)の成就の一端であることを覚えたいと思います。 8節「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と主イエスは言われます。「去らせなさい」という言葉は「去らせてください」という願いの意味がある言葉です。「弟子たちを去らせてくれるように」と言われるのです。主イエスは力ある方であるにも拘らず、人々に君臨する形ではなく、自らを低くして仕える者として臨んでくださいます。圧倒する力を既に持っておられる主イエスです。そのように力ある方が「願う」からこそ、人々はそうせざるを得ない、進んでその人に従うのです。 兵士たちとのやり取りの主導権は、主イエスにあります。そこで、ペトロは兵士に切りかかるのです。10節「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」。主と兵士たちとのやり取りを聞いていて、ペトロは、主を守るためというよりも、主に主導権があることに心を強くしたのではないでしょうか。 11節「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。ヨハネによる福音書は癒しの御業を強調するのではなく「神の救いのご計画に従がわれる主イエスの姿」を強調しております。「苦難の杯」それは父なる神が定められたことです。「父なる神の救いの御心に従うべし」と主イエスは言ってくださる。それは、私どもの救いのためです。私どもの救いのために主は苦しんでくださり、死をもってまでして、この私に仕えてくださるのです。それが「父からの杯は受けるべし」と主が言ってくださることの意味です。 13節、主イエスは捕らえられ縛られ、まずアンナスのところに連れて行かれました。何故でしょうか。その年の大祭司はカイアファですが、アンナスはカイアファのしゅうとであるということは、アンナスの方が偉く、影の実力者なのです。主イエスの逮捕は、正義ではなく、陰謀による逮捕であることが分ります。この世の権力の影には陰謀があると言わざるを得ないかもしれません。 何故、彼らは主イエスを捕らえようとしたのでしょうか。14節「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」。私どもも「この人さえいなければ…」との思いに駆られることはないでしょうか。「主イエスがいなければ、民に好都合」しかしそれは、自分たちに好都合なのです。主イエスに従うのではなく、民は自分たちに従うべきである。これが「権力者の殺意」です。 主イエス・キリストの十字架は「罪と救いの頂点」です。他者犠牲から自己犠牲への変換は「真実の愛の現れ」なのです。それが「この世の救い」という「愛」に示されていることです。 |
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今朝は15節からです。 15節「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」。ヨハネによる福音書では「ペトロ」だけでなく「もう一人の弟子」が登場しております。なぜ「もう一人の弟子」が登場しているのか、その理由が「この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、…」と記されます。もう一人の弟子は「大祭司の知り合い」でした。この弟子の口利きがあったから、ペトロも中庭に入ることができたのです。「ペトロの否認」だけを記すならば、このいきさつを語る必要はないでしょう。 ここで面白いと思うことは、「この世で名を知られている」ということの意味です。それは「この世のあり方」を示しております。 この世において、ペトロは無名、もう一人の弟子は名のある者ですが、聖書においては、この世において無名のペトロの名が記され、この世で名の知られたもう一人の弟子の名は記されておりません。面白いことです。この世では力なく無名な者であっても、主によって、神の御前には確かな存在として鮮やかに名を覚えられているのです。私どもは「天において名を覚えられている」のだということを覚えたいと思います。 17節「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか』ペトロは、「違う」と言った」。ペトロは他者から「主の弟子」として知られているにも拘らず、「違う」と否定してしまうのです。このことを覚えなければなりません。ペトロは、ここでは、「主の弟子」であることを隠したかったのです。 18節、ペトロは更にどうしたでしょうか。「…ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」とありますが、何故こんなことを記さなければならないのでしょうか。門番の女に問われて身の置きどころのないペトロは、人々に紛れ込んで、身を隠そうとしております。主の弟子でありながら、身を隠しているペトロ。しかし、そのようなペトロであっても「主の弟子」であることは揺るぎないのです。 思いと行いとによって主から遠い私どもです。しかし、私どもは「主の弟子」です。そういう私どものために、主が十字架と復活によって「救いを成し遂げて」くださったことを覚えて、感謝の他ありません。 |
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