聖書のみことば/2010.6
2010年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主の愛の内にある」 6月第1主日礼拝 2010年6月6日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章23〜26節
17章< 23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。< 25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。< 26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

23節前半「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」。私ども(弟子たち)が神にあって「一つとされる」恵みについて、前回までにお話いたしました。今日は、23節後半から聴いていきたいと思います。
 「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」と続きます。私どもが「一つとされる」ことによって、この世は、「父なる神が、御子イエス・キリストをお遣わしになった」ことを知り、また、主イエスと結び合わされ神の子とされた者として私ども(弟子たち)が「神に愛されている、神の愛の内にある」のだということを知るのです。
 ここに示されていることは、私ども(弟子たち)が、この世に対して「証しする」ということです。それが私どものこの世に対する在り方、「主イエス・キリストこそ救い主と証しする」という在り方です。

私どもの救いは、私どもだけに止まらないのです。「主イエス・キリストは、この世に対して遣わされた救い主である」と、私どもが証しすることによって、この世は「神に愛されている」ことを知るのです。
 あまり考えたことは無いかも知れませんが、「わたし(自分)の救い」のこの世に対する意味とは何でしょうか。それは「主イエス・キリストは救い主であると証しすること」、それによって「この世に神の愛が示されること」です。
 救われて神の子とされている以上、私どもは神との交わりに生きるのです。「神との交わりに生きる」、それは「御言葉に聴き、祈る。礼拝する生活」です。それは自ずと「神を証しする生活」なのです。神の恵みに応答して生きる生活は、神に大きな証しを立てていることになるのです。
 「神と一つとされる」ということは「神の御子イエス・キリストと等しい者としての扱いを受ける」ということです。ですから「神が御子を愛しておられる」ということは、私どもも「神に愛されている、神の愛の内にある」ということです。そしてそこに示されていることは、この世が「神の愛の対象である」ということです。

今、この世は、ある意味において閉塞状態にあるのではないでしょうか。行き詰まり、光を見ないのです。それは「光である神を見出せない」からです。しかし、そういうこの世にあって、私どもは「光なる神を示す」という働きをなしているのです。人は、身の置き所、拠り所を持たなければ不安です。ですから「この世の救い、拠り所は、神にこそあるのだ」と知らせること、これは大きな働きです。
 私どもが救いに与ったのは何故でしょうか。この世が神の救いの場、救いの対象であることを知らせるためです。ですから、私どもの救いが自分だけのものではないのだということを知ることは、覚えるべき大切なことなのです。
 私どもの信仰生活によって、この世は「十字架の主イエス・キリストこそ救い主である」ことを知るのです。

この世は「愛」を求めております。人は皆「愛されたい」と思っているのです。しかし、この世の愛には限界があり、また裏切りがあります。愛を求めても「真実を愛」を知らないのです。「真実の愛、本当に愛してくれるのは神のみである」ということ、これは真実の愛に与った者だけが証しできることです。「神の愛に生きる」それは神に愛され、子とされているという恵みに応えて生きることです。恵みに応える生き方こそが、この世に対する証しなのです。
 ですから、私どもが真実な信仰生活をすることに、この世の救いがかかっているのです。

24節「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と、主イエスは、ご自分のことではなく、弟子たち(主を信じる者たち)のために祈ってくださっております。
 「わたしのいる所」=「主イエスのおられる所」とは、どこでしょうか。主イエスは父なる神から遣わされた方ですから、父なる神のいます所=「天」から来られたのです。天にいます方だった主イエスは、十字架の後、天に帰られる。ですから「わたしのいる所」とは「天」です。主がこれから行かれる所は、天地創造の以前から主がおられた「天」。そこに「共におらせてください」と、私ども(弟子たち)もそこに(天に)住まいすることを、主は祈ってくださっているのです。
 今、私どもの生活を顧みるとき、内外の様々な事情のために一生涯を一つの場所に住むことの困難さを覚えます。地上の住まいとはそのようなものなのです。しかし、そういう私どものために、主イエスは「天に住まいがある」ことを祈ってくださるのです。天の住まいは移ろうことがありません。「永遠に住まうことができる」という恵みなのです。地上の住まいは限られた住まいでしかありません。私どもが永遠に住まう所、それは神の身許なのです。そしてそれは、永遠なる神がそのように定めてくださったからこそ、住まうことができるのです。
 永遠の住まいを得ることは幸いなことです。なぜなら「永遠の憩いを得る」からです。それは「神との尽きない交わりに生きる」という平安です。

続けて示されております。天に住まいすることによって与えられるものは何か。それは「神の御子の栄光を見る」ということです。直接に「神の御子として、神(主イエス・キリスト)を見る」ことが許されるのです。私どもは、地上において直接に神を見ることはできません。しかし、天においては「完全なものとされている」から、神を直接見ることができるのです。
 私どもが見るべきものは何か。それは「神の栄光」です。「救いなる神を見る」これに勝る幸いは無いのです。
 人を見て、本当に幸いになることは、なかなか無いでしょう。子や孫を見るなら多少は幸いかもしれません。しかし、私どもは「神を見るところに幸いがある」のです。私どもが会って一番嬉しいのは神、御子イエス・キリストなのです。

25節、これまで主イエスが祈ってくださったことの要約を言ってくださっております。

26節「わたしは御名を彼らに知らせました」と言われております。「御名」とは、どのような名なのでしょうか。それは、神を「父」とする名です。神は「父なる神」であるということです。「父なる神」は主イエスの父として、私たちをも「子」としてくださっているのです。
 「御名を知らせる」、それは「神を『父として』知らせる」ということです。「父なる神」が、私どもを愛してくださっているのです。父なる神は、御子主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったことによって、私どもへの愛を示してくださいました。そして、十字架の主イエスが私どもの内にいまして満たしてくださる、だからこそ、私どもも証しするのです。

また、この祈りにおいて、主イエスが神を「正しい父よ」とお呼びになっていることの大切さを覚えたいと思います。
 神こそ「正しい方」です。ここに祈られている祈りは「真実なる神に祈られている」、だからこそ、この祈りは正しく受け止められているのです。祈りが真実なものとされることを確信して、祈られているのです。

主イエスは、ご自分のためではなく、私どものために祈ってくださいました。「正しい父よ」と神を呼び、この祈りが「真実にこのようになる」ことを言い表してくださっていることを感謝したいと思います。 

わたしである」 6月第2主日礼拝 2010年6月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章1〜11節
18章<1節>こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。<2節>イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。<3節>それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。<4節>イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。<5節>彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。<6節>イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。<7節>そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。<8節>すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。<9節>それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。<10節>シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。<11節>イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

17章は、全体が主イエスの「祈り」でした。

その祈りが終わり、18章1節は「こう話し終えると、…」と始まります。主イエスが「話された」のは、人に対してではなく、神に対してでした。「神との語らい」、それが「祈り」ということです。

主イエスは弟子たちのために祈ってくださいました。その弟子たちを連れて「キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」と記されております。「キドロンの谷」はエルサレムとオリーブ山を隔て、ヘブル語では「黒い、暗い」の意味を持ち、「冬の川」とも呼ばれ、雨期にだけ水が流れる谷でした。「そこには園があり、…」、谷の向こう、エルサレム対岸のオリーブ山にある園、それは即ち「ゲッセマネの園」です。
 ヨハネによる福音書において、ヨハネは「ゲッセマネの園」の名を記しません。どうしてでしょうか。「ゲッセマネ」と言って思い浮かべるのは、十字架を前にした主イエスの「苦痛に満ちた祈り」ではないでしょうか。ルカによる福音書では「血の汗の祈り」とも表現され、苦しみを苦しんでくださった主イエスの祈りとして思い起こしますし、マルコによる福音書も「ゲッセマネの祈り」を記して、主イエスを「苦難の僕」として描くのです。
 しかし、ヨハネは「ゲッセマネ」を記さず「苦難の祈り」も語りません。「苦難の場」として「ゲッセマネ」を描こうとしていないのです。
 ヨハネは「捕らえられ、十字架に死に、復活して、天に帰られる主イエス・キリスト」を「栄光の主」として描こうとしております。神の子としての「栄光のキリスト・イエス」を強調して語ろうとしている、だから「ゲッセマネ」を記さないのです。苦難を通しての救いの恵みではなく、私どもが与る恵みは「永遠の命の約束」であり、天において神との尽きない交わりのうちに永遠の住まいが与えられるという恵みであることを示すのです。「苦難のキリスト」は同時に「栄光のキリスト」なのであり、「神なる方が、救いであってくださる」という恵みを伝えようとしているのです。
 私どもは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、天につながって「神の国に入る者」としての約束をいただいております。主イエスに結ばれて「神の子」とされ、完全な者に変えられる、それが私どもに与えられている恵みなのです。

名を記さない「ゲッセマネ」ですが、ではなぜ「園」と言っているのでしょうか。それには訳があります。
 2節「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた」。「園」は主イエスを裏切るユダが知っていた場所である、ということです。そこに主イエスは「敢えて行かれた」のです。「園」は、弟子たちが主イエスと共に祈り、親しい交わりを与えられた場所です。その場所で、ユダは主イエスを裏切ることができるのです。主イエスは、本当ならばそこへ行く必要はなく、避けても良かった筈です。にも拘らず、敢えて行かれたのです。
 ユダは主イエスを「裏切る」思いを持っていますが、思っていても、できるとは限りません。しかし「主イエスが園に行ってくださった」、だから裏切れたのです。主イエスは、園に行かれることによって「ユダの裏切りが実現するように」しておられる。主イエスがユダの裏切りを良しとしてくださっているということです。これは大事なことです。ユダの裏切りは、ユダの思いの実現なのではありません。裏切る者に主導権があるのではなく、主イエスにこそ主導権があるのです。「裏切られ、十字架に死に、復活し、天に帰る」、これは一つの出来事です。ですから「ユダの裏切り」も「救いの出来事の一こま」なのです。「裏切り」もまた、私どもの救いのための道筋、道程なのです。

親しい交わりの場が裏切りの場とされる。親しい者だから裏切りがあるのです。裏切りを通して、主イエスは「救い」を遂行されました。なぜでしょうか。
 私どもにとって「裏切り」は無縁なことではないからです。私どもの日常は様々な裏切りにさらされております。裏切らなければ幸いなのです。ある意味、人は、神を裏切る者でしかあり得ません。しかし主は、裏切りを通して救いをなされる。それは「神に立ち帰る時を与えてくださる」ということです。裏切って、尚、悔い改め、神に立ち帰ることができるのです。
 裏切らないことは幸い、と申しました。しかしそれは、空論に過ぎません。私どもは「裏切る者」でしかないのです。裏切らないことが幸いなのではありません。「裏切る」という現実の中で、しかし「悔い改め、立ち帰ることができる」ことが幸いなのです。裏切って、結果、救われなければ、生きて行くことはできないでしょう。裏切って尚、悔い改め、立ち帰り、救われるという恵みに与る。それはただ、神にあってのみの幸いなのです。だからこそ、主イエスはユダの裏切りが実現するために園に行かれました。裏切りを超えて、尚、神の救いがあることが、このことによって示されているのです。

3節「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た」。園は弟子たちと主イエスとの交わりの場所であって、そこには群衆が来ないことを、ユダは知っておりました。ですからユダは、群衆を恐れている「祭司長たちやファリサイ派の人々」の遣わした下役たちと一隊の兵士を連れて来たのです。
 「一隊の兵士」とは何者でしょうか。それはローマ帝国の一つの部隊で「600人部隊」と呼ばれる部隊です。300人〜600人規模のローマの兵士が、武装してもいない主イエスの所にやって来る、それはとても奇妙なことです。ここに示されていることは何でしょうか。それは、主イエス・キリストの出来事は「ローマ帝国全体」に影響のある出来事だったということです。それは即ち「全世界」に、ということです。主イエスの救いは単にユダヤの救いなのではない、「全世界に関わる救い」、ひいては「私どもの救い」であることが、この「一隊の兵士」という言葉を通して示されているのです。
 それにしても物々しいことです。この異常さは、彼らがいかに主イエスを恐れているか、ということの表れです。大袈裟であればあるほど、恐れの大きさが示されているのです。彼らは、主イエスを捕らえるだけの力を本当は持っておりません。捕らえられない…と感じてもいるのです。松明や武器まで持って、主イエスに「人の力を超えたもの」を見て恐れているのです。

4節、主イエスはご自分の身に起こることをすべて知っておられます。下役たちはと言えば、これだけの物々しい姿をもってしても、果たして主イエスを捕らえることができるかどうか分っていないのです。主のみ、全てをご存知です。
 主イエスは自ら進み出て「だれを捜しているのか」と尋ねてくださいます。ユダは、そこにいるにも拘らず「この人がイエスだ」とも言えません。主イエスは「だれを…」と問うてくださって、彼らに「ナザレのイエスだ」と言わせてくださるのです。そして「わたしである」と言われます。それは「ご自分の存在を明らかにしてくださる」ということです。
 「わたしである」とは、どういうことでしょうか。ご自分の存在を隠すのではなく、はっきりと明らかにしておられるということです。
 では、主がご自分の存在を明らかにされるとどうなるのか。6節「彼らは後ずさりして、地に倒れた」。主イエスの存在によって、人々は圧倒され倒れたのです。ご自分の存在を示されたことによって人々を圧倒する、主イエスはそれほどまでの存在感ある方なのです。何故なら、主イエス・キリストは「神の御子、救い主」であられるからです。すべてを超えた「神としての存在」だからです。何と素晴らしいことでしょう。

「礼拝」は、主の臨在を示すものです。「わたしである」という方が、今、この礼拝において、ここに在すのです。礼拝において、私どもは、圧倒する神の威光に与る恵みをいただいているのです。
 主が「わたしである」と言ってくださることの恩寵を思います。私どもの救いはどこにあるのでしょうか。「わたしである」と言ってくださる主イエスの臨在に圧倒され、「主よ、あなたこそ我が救いです」と告白することが赦されるのです。「主イエス・キリストこそ我が救い」と告白できることの幸い、恵みを覚え感謝すしたいと思います。

権力者の殺意」 6月第3主日礼拝 2010年6月20日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章1〜14節
18章<1節>こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。<2節>イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。<3節>それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。<4節>イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。<5節>彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。<6節>イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。<7節>そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。<8節>すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。<9節>それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。<10節>シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。<11節>イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」<12節>そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、<13節>まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。<14節>一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

今日は7節からです。

6節までを振り返ると、主イエスの逮捕は、主が自ら進み出て、主を捜す者に「ナザレのイエス」と言わせてくださり、「わたしである」とご自身を明らかにしてくださった故のことでした。そして、「わたしである」との主の言葉に兵士たちは倒れます。そこに、主イエスの圧倒する存在感が示されております。
 この箇所を教会は、モーセの出来事(出エジプト記3章)と結び付けました。神の名を問うモーセに、燃える柴の中から、神が「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えてくださったことになぞらえたのです。「わたしはあるという者(あってある者)」とは、「わたしこそ存在」ということです。神は、一切のものを存在足らしめる存在。すべてのものの存在の根源。すべては神によって存在するということです。人は、自分の存在の根源なる方を見れば、耐えられずに倒れるのです。主イエスはそのようなお方、だから兵士たちは倒れました。「わたしである」との主イエスの言葉に示されていることは、「わたしこそ神の子として神、あなたたちの存在の根源である」ということです。

主イエスの前に、武器を持っていても兵士たちは無力です。そして、主イエスはもう一度「わたしである」と言ってご自分を示してくださるのです(8節)。兵士たちに主イエスを逮捕する力はありません。主イエスがご自分を明け渡してくださるから、逮捕できたのです。この世の権力が主イエスを捕らえるのではない、主がご自身を捕らえさせてくださるのです。神がこの出来事を良しとしてくださるからこそ、成るのです。主イエスの逮捕は神の御心です。主イエスが神の御心に従われたゆえのことです。主イエスの逮捕は、神の御心(救いの計画)の成就の一端であることを覚えたいと思います。
 私どももまた、様々なことを成そうとします。しかし、成るも成らないも、その背後には神の御心があることを知らなければなりません。神の御心によって成り、神の御心によって成らないのです。では「御心」とは何か。それは「神の救い」です。人の思いが成るにしろ成らないにしろ、その背後には「神の救いの御心」があることを弁えたいと思います。成ることに感謝し、成らないことにも悔い改めをもって感謝すべきなのです。

8節「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と主イエスは言われます。「去らせなさい」という言葉は「去らせてください」という願いの意味がある言葉です。「弟子たちを去らせてくれるように」と言われるのです。主イエスは力ある方であるにも拘らず、人々に君臨する形ではなく、自らを低くして仕える者として臨んでくださいます。圧倒する力を既に持っておられる主イエスです。そのように力ある方が「願う」からこそ、人々はそうせざるを得ない、進んでその人に従うのです。
 しかし、ここで主イエスが「去らせてください」と言われたのは、弟子たちに危害が及ばないために、ということではないのです。力ある主であれば弟子たちを逃すことなど簡単なはずなのに、何故敢えて願ってくださるのでしょうか。9節「それは、『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった」と記されております。後に、弟子たちが主イエスを思い起こすとき、主の言葉は真実力ある言葉であることを骨身に沁みて感じることができるようにと、あらかじめ言ってくださっているのです。

兵士たちとのやり取りの主導権は、主イエスにあります。そこで、ペトロは兵士に切りかかるのです。10節「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」。主と兵士たちとのやり取りを聞いていて、ペトロは、主を守るためというよりも、主に主導権があることに心を強くしたのではないでしょうか。
 他の福音書では、切りかかったペトロの名も、切られたマルコスの名も記されてはおりません。記されていることは、主に敵する者(切りつけられた者)をも癒され、敵する者をも守り救ってくださる主の姿です。しかし、ヨハネによる福音書は癒しを記しません。ペトロとマルコスの名を記している。それは、この福音書を聞く教会に対する示唆があるのです。聞く人々がマルコスを知っていたということです。耳を切られたマルコスは、後に教会に連なる者になったのです。

11節「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。ヨハネによる福音書は癒しの御業を強調するのではなく「神の救いのご計画に従がわれる主イエスの姿」を強調しております。「苦難の杯」それは父なる神が定められたことです。「父なる神の救いの御心に従うべし」と主イエスは言ってくださる。それは、私どもの救いのためです。私どもの救いのために主は苦しんでくださり、死をもってまでして、この私に仕えてくださるのです。それが「父からの杯は受けるべし」と主が言ってくださることの意味です。

13節、主イエスは捕らえられ縛られ、まずアンナスのところに連れて行かれました。何故でしょうか。その年の大祭司はカイアファですが、アンナスはカイアファのしゅうとであるということは、アンナスの方が偉く、影の実力者なのです。主イエスの逮捕は、正義ではなく、陰謀による逮捕であることが分ります。この世の権力の影には陰謀があると言わざるを得ないかもしれません。

何故、彼らは主イエスを捕らえようとしたのでしょうか。14節「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」。私どもも「この人さえいなければ…」との思いに駆られることはないでしょうか。「主イエスがいなければ、民に好都合」しかしそれは、自分たちに好都合なのです。主イエスに従うのではなく、民は自分たちに従うべきである。これが「権力者の殺意」です。
 主イエスが死ぬことは、権力者にとっては、主を犠牲にしての保身の業「他者犠牲」なのです。しかしそれでは本当の平安を得ることはできません。いくら殺しても殺し足りないことでしょう。
 主イエスは、「他者犠牲」として十字架についてくださいました。「他者犠牲」それは全世界の罪の表れです。その罪のすべてを、主イエスは自ら進んで引き受けてくださいました。主が十字架についてくださったゆえに「他者犠牲」の業は「自己犠牲」へと変質するのです。主イエスを消し去りたいと思う身勝手な権力者の殺意(罪なる思い)が主イエスを十字架につけました。しかし、その罪をすべて引き受け、自ら進んで、主が十字架におかかりくださったことによって、「罪が救いへと変えられた」のです。

主イエス・キリストの十字架は「罪と救いの頂点」です。他者犠牲から自己犠牲への変換は「真実の愛の現れ」なのです。それが「この世の救い」という「愛」に示されていることです。

打ち消すペトロ」 6月第4主日礼拝 2010年6月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第18章12〜27節
18章<12節>そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、<13節>まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。<14節>一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。<15節>シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、<16節>ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。<17節>門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。<18節>僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。<19節>大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。<20節>イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。<21節>なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」<22節>イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。<23節>イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」<24節>アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。<25節>シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。<26節>大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」<27節>ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

今朝は15節からです。
 ここは「ペトロの否認」として知られている箇所ですが、ヨハネによる福音書は他の福音書と少々違っております。「ペトロの否認」ということだけではない、他に記されていないことが記されているのです。

15節「シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った」。ヨハネによる福音書では「ペトロ」だけでなく「もう一人の弟子」が登場しております。なぜ「もう一人の弟子」が登場しているのか、その理由が「この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、…」と記されます。もう一人の弟子は「大祭司の知り合い」でした。この弟子の口利きがあったから、ペトロも中庭に入ることができたのです。「ペトロの否認」だけを記すならば、このいきさつを語る必要はないでしょう。
 ペトロともう一人の弟子は、2人とも「主イエスに従い」ました。「もう一人の弟子」は大祭司の知り合いで、屋敷の門番の女も「その人が誰か」を知っていたほどの人物でした。しかしペトロはと言えば、この世の権力と何の交わりもない、名も無く無力な者です。そのような2人が、等しく「主に従う者」と記されている、ここに「主の弟子」とは如何なる者なのかが示されております。
 「主の弟子」であるということは、有名であるとか無名であるとかいう「この世のあり方」の一切を超えているのです。私どもが自分の力で「主の弟子」となったのではありません。主イエスが私どもを、有名・無名関係なく「主の弟子」としてくださっているのです。「主の弟子」であることに、私ども人間の側の理由は一切無いことを覚えなければなりません。「主イエスの十字架と復活」により罪赦され「主のもの、神のもの」とされる。それはただ神の憐れみによるのであって、私どものこの世のあり方によるのではないのです。私どもがどのような者であっても、「主の弟子」とされている、して頂いているのだということを感謝をもって覚えたいと思います。地上の一切を超えて、主によって、私どもは「主の弟子」なのです。ですから「恵み深い」のです。私どもがどうなろうとも「主の弟子」であることは「揺るぎない」からです。

ここで面白いと思うことは、「この世で名を知られている」ということの意味です。それは「この世のあり方」を示しております。
 「名が知られている」ということは、この世がその人の存在を認めているということであり、それは、その人がこの世において力を持っているということです。このことは、今日度々起こるおぞましい事件、無差別殺人などにも表れております。無名であることの虚しさを知らなければなりません。それは自分を「存在なき者」とすることです。所在ない思い、力も無く虚しい者の心の叫びが怒りとなり、それは間違った力の行使となって事件を起こしているのです。無名ゆえの苦しみ、叫びなのです。
 昔の日本では、このようなことは起こりにくかったと思います。虚しさに徹することに美しさを見出すという日本独特の価値観によって、虚しさに耐えられたのです。しかし、今は虚しさに耐えることはできません。虚しさの中で、自分の存在を表さねばならないのです。神を知らない者にとっては「この世」が全てです。従って、自虐的行為によってでも「この世」に認められなければならないのです。
 「神を知る」ことは、何と幸いなことでしょう。神の慈しみと憐れみを知る者は自虐的にならなくて済むのです。何故なら、自分の存在を神が知っていてくださるからです。今、人は「神を必要として」おります。キリスト(救い主)をこそ求めているのです。虚しさゆえの叫び、痛みが生む自虐的行為を見聞きするにつけ、そのような虚しさの中にある人々こそキリストの救いを必要としていることを覚え、祈ることの大切さを思います。

この世において、ペトロは無名、もう一人の弟子は名のある者ですが、聖書においては、この世において無名のペトロの名が記され、この世で名の知られたもう一人の弟子の名は記されておりません。面白いことです。この世では力なく無名な者であっても、主によって、神の御前には確かな存在として鮮やかに名を覚えられているのです。私どもは「天において名を覚えられている」のだということを覚えたいと思います。
 「もう一人の弟子」は、いくらこの世で名を知られていても、この世と同じように神に覚えられるわけでありません。この世でも天でも同じなら、それは虚しく、慰めを受けません。この世の仕方と同じように天で名を覚えられるのではない、ということを知らなければなりません。神は、私どもを「天上にふさわしい者として」覚えてくださるのです。この世の一切の「しがらみ」から解き放たれた存在として覚えてくださるのです。神の前では、この世と同様に名を覚えられるのではありません。「十字架の救いに与った者」として、「主の弟子」として、「等しく」天において覚えられているのです。

17節「門番の女中はペトロに言った。『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか』ペトロは、「違う」と言った」。ペトロは他者から「主の弟子」として知られているにも拘らず、「違う」と否定してしまうのです。このことを覚えなければなりません。ペトロは、ここでは、「主の弟子」であることを隠したかったのです。
 どうでしょうか。このように問われないまでも、「出来れば知られない方が良い」という思いが、私どもにもあるのではないでしょうか。私どももペトロのあり方を非難できるものではありません。主イエスの十字架によって罪赦され、救われて、そこに喜びがあるならば「主の弟子」であることを隠すことはないでしょう。しかし、喜びがなければ、自ら「主の弟子」とは言い得ないのです。
 けれども、どんなに私どもが「主の弟子」であることを知られないでいようと思ったとしても、私どもは「主の弟子」です。どこまでも、私どもは「主の弟子」なのです。たとえ「主の弟子」であることを否認したとしても、「主の弟子」でなくなることはないのです。
 もし、私どもの側に主の弟子であることの根拠があるならば、そういうこともあるでしょう。しかし、私どもが「主の弟子」であることは「神の出来事」なのであり、神の前に名を消されることはないのです。どんなに否定的、後ろ向きであったとしても、私どもは「主の弟子」です。そうであれば、すっきりと「そうだ」と言えばよいのですが、しかし、このすっきりがなかなか出来ないのです。私どもは「主に従うよりない者」であるということを、このペトロの「違う」という言葉から覚えたいと思います。
 このことの直前、ペトロはマルコスの耳を切り落としております。主イエスのためなら戦うことも辞さない勇ましいペトロです。にも拘らず、その直後には自己保身のために主を否認してしまう、劇的なペトロの心の変遷を通して、また、「主の弟子」とは如何なる者かを示されます。これらの出来事の後、復活の主イエス・キリストがペトロに臨んでくださり、このように情けないペトロも「主の弟子」として覚えられ、主の御用に用いられるのです。

18節、ペトロは更にどうしたでしょうか。「…ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた」とありますが、何故こんなことを記さなければならないのでしょうか。門番の女に問われて身の置きどころのないペトロは、人々に紛れ込んで、身を隠そうとしております。主の弟子でありながら、身を隠しているペトロ。しかし、そのようなペトロであっても「主の弟子」であることは揺るぎないのです。
 私どもも同じです。この世に紛れ、身を隠そうとも「主の弟子」であることは一切変わりない、揺るぎないのだということを覚えたいと思います。何とも情けない私どもですが、主の救いの恵みを頂いていることに変わりはありません。
 いや、何とも情けない、そういう私どもだからこそ、主が十字架につき、甦ってくださったのです。それゆえに「主イエス・キリストの十字架と復活」の救いに与るよりない者なのです。

思いと行いとによって主から遠い私どもです。しかし、私どもは「主の弟子」です。そういう私どものために、主が十字架と復活によって「救いを成し遂げて」くださったことを覚えて、感謝の他ありません。