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21節「父よ」と、改めて呼びかけ、主イエスは祈られます。「父よ」とは何と麗しい呼びかけでしょうか。それは、父なる神と御子イエス・キリストとが「一つなる方」として、「信頼」をもって呼びかけるという麗しさなのです。 信頼あるがゆえの呼びかけ、それが「父よ」という呼びかけです。しかも私どもにも、その呼びかけが許されております。主イエスが、神を「父よ」と呼んで良いと言ってくださっているのです。神が良しとしてくださる、そこに「神の赦し」があります。それは、神に受容されているという恵みです。「神の赦しの恵み」ゆえに、私どもも神を「父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。 今年の愛宕町教会の標語は「心を合わせて祈る」です。「心を合わせる」とはどういうことでしょうか。それは、互いの思いを理解するというようなことではありません。共々に「神への信頼がある」、そこに「祈りがある」のだということを覚えたいと思います。それは、共々に「神の赦しの恵みの中にある」ということなのです。神への信頼なくして、人と人とが心を合わせることは出来ません。神に信頼するからこそ、心を合わせることができる、それは「神との交わりにおける一体性」すなわち「一つである」ということです。 しかし、主イエスはここで、神を「父よ」と呼び、父なる神と御子イエス・キリストとの「一体性」を示してくださっております。それは何のためなのでしょうか。主イエスは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください(21節)」と祈っておられます。神ご自身のためなのではありません。「すべての人間が一つになるため」と言われているのです。それは根本の出来事です。この祈りの示していることは、とても大きなことです。「時間、空間を超えて、すべての人が一つになる」ということが示されているからです。時空を、地域・国境を超えているのです。これは、外側から広い視野で見て、一体性があるということではありません。広い視野で外から見たら一つでも、隣同士がどうなのかは分りません。外側からの一体性には限界があるのです。しかし、ここで主イエスは「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように…」と「父なる神が内にいます」と言ってくださっております。外側ではなく「内側において一つである」と、主は示してくださっているのです。 私どもが「内側において一つである」ことを、主はこの祈りで示してくださっております。 続けて、主イエスは「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」と祈っておられます。それは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりの中に一緒にいるということです。しかしこの時、主イエスはまだ十字架にはついておられないのです。十字架を前にしての祈ってくださるのです。この後、主は十字架を成し遂げてくださるのですが、しかし、そこで聖霊が臨んでくださって初めて、弟子たち(私ども)は「十字架の救い」を言い得る者となることができるのです。ですからこの祈りは、まさしく、私どもに対する聖霊の導きを主が祈ってくださっているということです。 「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。 私どもは今、「一つ」とされております。だからこそ、この世の日々がいかに惨めで孤独であったとしても、私どもは「神に覚えられている者」なのであり、何ら悲観する必要はないのだということを改めて覚えたいと思います。 |
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21節の前半「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」。ここで示されていることは、「主イエス・キリスト」と「父なる神」が「一つなる方」であられ、主を信じる「弟子たち」(それは私どもをも含むのですが)とも「一つとなってくださる」ということです。そして「弟子たちと一つ」となってくださることの目的は、それによって「父なる神が主イエス・キリストを遣わしてくださった」ことを「この世が信じるため」と言われております(21節後半)。 22節「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」。父なる神が御子イエス・キリストにお与えになった「栄光」を、主は弟子たち(私ども)にも与えてくださると言ってくださっております。それはどのような「栄光(誉れ)」なのでしょうか。 今の時代は、人権主義の広まりによって、畏れを抱きつつ「神」を「父よ」と呼ぶという感覚を失っております。畏れを忘れ、人の思いを中心に据えることは、偶像礼拝を招くことです。本当は、畏敬の念をもって「父よ」と呼ぶ祈りであれば、決して自己中心になることはないのです。主イエスが神を「父よ」と呼ばれることは当たり前のことですが、同じように私どもが神を「父よ」と呼ぶことは、真に畏れ多いことなのだということを改めて覚えたいと思います。 続けて「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言われております。何が「一つ」なのでしょうか。私どもは「一つなる神の子」とされました。それは共々に「神」を「父よ」と呼べるということです。私どもは各々違う存在です。考え方も感性も、暮らし方も、老いであることも若きであることも様々に違う、にも拘らず、私どもは等しく「神の子として一つ」なのです。思想信条によっては、人は一つになることはできません。また、色々なことを一緒に考え一緒にやって一つに一致させようとする必要もないのです。私どもは「神を父と呼ぶことにおいて一つ」なのだということを覚えたいと思います。 23節「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と、一つであることが「完全に一つ」と、もっとはっきりと言われております。「完全に一つ」とは、今の感覚ではとても難しいことです。かつて日本人は、共同作業で米を作る農耕民族であり、村単位の一つの共同体に属しておりました。それは「違い」を認めない社会です。違いは共同体の秩序を乱すものとして排除されたのです。しかし、今は「個人」を尊重する時代です。違いを個性として認め合うのです。一つではなく「only one」を強調する時代になりました。「人と関わり無く生きることができる」という価値観へと、時代の価値観が移り変わっているのです。「only oneの個」、それは「ありのままで良い」ということですが、人のありのままは「罪」の姿です。人と関わり無く生きるための価値観として「only one」が必要となったために、「一つ」という感覚を失っているのです。しかし「共に一つ」という感覚を失うことは、人を深い孤独へと向かわせることです。関わりの中で生きるのが人間ですから、関わりを失えば、人は自分は一体何者なのかを見失い、その苦しみは深いのです。 しかし、ここで主イエスが言われることは「違いを超えて一つ」ということです。「個」が真実に認められ尊ばれるためには、「違いを超えた一つ」を知らなければなりません。私どもは各々に「違いを超えて、主にあって一つ」なのです。 「主にあって一つ」という揺るぎない価値観が無ければ、今この地上を生きる一人ひとりが尊い個であることが慰めにはなりません。「主にあって一つ」であって初めて、各々に違いがあるにも拘らず、違いを超えて「尊い大切な一人の存在」とされていることを知るのだということを覚えたいと思います。 |
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新約聖書を読みますと、イエスさまが弟子たちに教えられたり、また、いろんな場面においてお命じになられたお言葉に「恐れるな」があります。そのことを通して、まず示されるのは、イエスさまの周りに集まる弟子たちや群衆のうちには「恐れ」があったということであります。恐れの中にあることそのものは特段、慰めになることではありません。むしろイエスさまが「恐れるな」とお命じになられたというからには、そこから解き放たれることが恵みであり、祝福であると言ってよいと思います。なぜイエスさまが弟子たちに「恐れるな」とお命じになり、み言葉をもって恐れを取り除いてくださるのでしょうか。 それゆえに、イエスさまは「恐れるな」と命じて下さっています。神の恵みにある者は、恐れから解き放たれるのであります。ただ、何度も何度もイエスさまが「恐れるな」とお命じになって下さらなければならないほどに、繰り返し恐れの中に捕らわれてしまうのが私たちではないでしょうか。内なる偽善が汚れに過ぎないと知らされても、なお外側の装いを厚くしようとするのは自らの弱さ、醜さを見たくないからかもしれません。そのことを恐れているのではないかと思います。 恐れなく生きるためには、やせ我慢するとか、空威張りするとかではなく、天も地も、地獄をも支配される神を恐れることを知ることをイエス様は弟子たちに教えてくださったばかりではありません。さらに驚くべき神のお姿を示して下さるのです。それは憐れみと慈しみに富んでおられる神のお姿です。私たちを忘れたまわない神のまなこを示されるのです。「 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(6〜7節)。5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか、そうイエスさまは言われます。2アサリオンはだいたい、日本円で200円くらいだそうです。だから一羽、およそ40円ほどに過ぎません。ところが、このたとえはマタイによる福音書にもありまして、10章29節には、なんと2羽の雀が1アサリオンで売られていたと言います。読み比べて見ますと、ルカではおまけがついていると見てよいでしょう。神はおまけ扱いされるような取るに足りない一羽の雀をさえ、忘れることはありません。 神のまなこのうちにあるのです。神がそのようにしてくださる恵みを知った私たちは、恐れることなく神の言葉を言い表し、神と隣人を愛する歩みへと踏み出す自由を与えられているのです。 |
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今日は「聖霊降臨日礼拝」を守っております。 十字架の後、復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れ、「聖霊(助け主)を送る」と約束してくださいました。その約束を受けて、弟子たち(キリストに連なった者たち)は「心を合わせて熱心に祈っていた」と、1章14節に記されております。そして、2章1節「五旬祭の日が来て…」、そこに「聖霊」が臨み、4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。 この「聖霊の注ぎ」の出来事を目の当たりにして「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた(13節)」中で、ペトロは「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです(16節)」と、「聖霊の注ぎの出来事」は、預言者ヨエルの預言の成就であると語ります。 1節「その後」とは何時のことか。それは「終末のとき」です。「その後」の前にあったことは何か。人々の苦難があり、神はその嘆きを聴いてくださり、恵みをもって満たしてくださるのです。「神が共にあって」くださり、地は回復し、人々は満たされる。ヨエル書2章は「神共にいます恵み」を語って終わります。 「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われております。「すべての人」、そこには息子、娘、老人、若者の区別はありません。聖霊の出来事には一切の区別はないのです。誰の区別なく聖霊は注がれ、すべての人に神の力が与えられて、人々は「預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」。即ち「神の言葉を語り(預言)、夢・幻を見る」のです。夢・幻は神の自己開示、神の啓示の手段です。それは「神との直接の親しい交わりに生きる」ということです。本来、人は神との直接の交わりを持つことは出来ません。しかし、主イエス・キリストの約束してくださった「聖霊を受ける」ことによって、罪赦され、神のものとされ、神を父よと呼ぶ恵みをいただき、神との直接の親しい交わりを許されるのです。「神との直接の親しい交わりに生きる」それは本来「終わりの日の恵みの出来事」であるにも拘らず、聖霊の注ぎを受けることによって「今、ここで」その恵みに生きることが赦されているのです。 2節「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と続きます。奴隷にも聖霊が注がれることによって与えられる恵みとは何でしょうか。それは「捕われから解き放たれる」ということです。「奴隷」とは「捕われ」です。「罪の縄目から解き放たれる」という恵みが与えられるということです。 4・5節「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」。終わりの日=完全な救いの日が来る前には、全世界を闇が覆うと言われております。しかし、それによって全てが滅びるのではありません。終わりの日に「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。 終わりの日とは、滅びの日なのではありません。終わりの日とは、救いの完成の日です。 改めて覚えたいと思います。「聖霊の注ぎを受ける」とは「主イエス・キリストを宣べ伝える者となること」「キリストによる罪の赦しを頂き、罪の赦しの宣言をなす権能が与えられている」ということです。それが、私ども「教会」に与えられている力、使命です。「罪の赦しの宣言」を受けた者は、神との交わりに与り、終わりの日に救いの完成を頂くのです。それゆえに「聖霊の注ぎ」という出来事は、恵み深い出来事なのです。 |
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主の喜びの声が聞こえてきます。失われた者を見出し、ご自分のものとされた主の喜びの声です。ルカによる福音書15章はイエスさまがお語りになられた3つのたとえ話が記されています。「迷い出た一匹の羊を探す羊飼いのたとえ」、「無くした一枚の銀貨を探す婦人のたとえ」、そして「放蕩息子のたとえ」です。これら3つのたとえはファリサイ派の人たちや律法学者たちがもらした不平に対して、イエスさまが答えとして語ってくださいました。今日はその最初のたとえ話から聴いていきたいのでありますが、その前にファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエスさまにどんな不平をもらしたのか、がまず記されております。 「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1〜2節)。「話を聞こうとして」すなわち、み言葉を求めてイエスさまのところに集まってきたのは、徴税人や罪人であります。その様子を見てファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平をもらしたのです。徴税人は当時、人々から税金を集める仕事をローマ帝国から請け負っていた人たちです。人頭税にはじまり、道の要所を通るとき、橋を渡るときなど色々なものに税がかけられていましたが、とてもローマ人の手だけで徴税の仕事ができず、地元の人たちにそれを請け負わせていたのです。徴税人たちはローマに収める税金以上の税金を同じユダヤの人々から集めて、その上前をはねていたのです。異邦人とかかわり、税金を集めては私腹を肥やす徴税人たちは非常に嫌われ、蔑まれてもいました。また「罪人たち」は「モーセの律法」違反が共同体に知られ、その違反行為が公式、非公式に関わらずに述べられ、その結果、会堂から締め出された者たちを指しています。ありていに言えば人々から嫌われ、蔑まれ、共同体からも締め出された人たちをイエスさまは受け入れておられたのです。 ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエスさまのそのような振る舞いを見て不平を言ったのです。神の義をあらわすイエスさまが徴税人や罪人を歓迎されるなど、彼らには受け止めきることができません。自ら律法に照らして清く、かつ正しいというところによりどころを求める者にとっては、徴税人や罪人と交わることに堪えられません。イエスさまはそうではありません。普通、「朱に交われば紅くなる」というように、交際する人たちの影響を私たちは受けるのですが、イエスさまは徴税人や罪人と交わったとしても、それによって汚れることはありません。かえってイエスさまの清さは罪人に過ぎない者を清めたもうのです。 イエスさまは十字架の血潮によってすべての者を清めたもうのです。しかもイエスさまは嫌々ながら罪人を受け入れてくださるのではなくして、それを喜んでおられることを、たとえ話をもって示しておられるのです。 そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(3〜7節)。ここでイエスさまの問いかけを受けます。あたかもイエスの話を聞いている者たちが羊飼いであるかのごとく。彼らは羊飼いにとって羊がどんなに大切なものであるかを知っています。ですからイエスさまに「百匹の群れから迷い出てしまった羊を、ほかの九十九匹を残して探し回らないか」と聞かれて、当然そうすると思ったに違いありません。ただ、イエスさまのこのたとえは徹底しております。徹底して探す羊飼い、そこに失われた者をどこまでも探してやまない神のみ思いがあるのです。山であろうが、谷であろうが、荒れ野であろうが、町の雑踏の中であろうが、徹底して失われた者を探し求められるのであります。 今朝も主の喜びの声が天に響いているのを聞く幸いを思います。私たち一人一人を見出して下さって「ご自身のもの」としてくださった主の喜びの声です。もう見出されなくても当然のような汚れた罪人に過ぎない者を徹底して探し出し、見出した喜びをもって「あなたも喜んで欲しい」と呼びかける主のみ声です。 |
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