聖書のみことば/2010.5
2010年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
御言葉を信じた人々」 5月第1主日礼拝 2010年5月2日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章20〜26節
17章<20節>また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。< 21節>父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。<22節>あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。< 23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。< 25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。< 26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

21節「父よ」と、改めて呼びかけ、主イエスは祈られます。「父よ」とは何と麗しい呼びかけでしょうか。それは、父なる神と御子イエス・キリストとが「一つなる方」として、「信頼」をもって呼びかけるという麗しさなのです。
 人と人との関わりの中においても、「信頼し合っている」ということは麗しいことです。それは、互いを豊かにし喜びをもたらすものです。信頼ある呼びかけほど美しいものはないのです。

信頼あるがゆえの呼びかけ、それが「父よ」という呼びかけです。しかも私どもにも、その呼びかけが許されております。主イエスが、神を「父よ」と呼んで良いと言ってくださっているのです。神が良しとしてくださる、そこに「神の赦し」があります。それは、神に受容されているという恵みです。「神の赦しの恵み」ゆえに、私どもも神を「父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。
 私どもが祈ることができるのは、「神に赦された」という恵みのうちにあるからです。そして、そういう祈りは「日常の祈り」になるのです。私どもが「祈れるか、祈れないか」の根底にあることは、私どもの側に根拠があるのではありません。「赦されて」初めて祈れるのです。それは、何かを求めての困った時の神頼みのような祈りではなく、既に神との交わりの内にある者として「神に信頼して祈る」祈りなのです。ですから、祈りの根底にあることは「信頼」です。神への信頼によって、祈りが日常になるのです。

今年の愛宕町教会の標語は「心を合わせて祈る」です。「心を合わせる」とはどういうことでしょうか。それは、互いの思いを理解するというようなことではありません。共々に「神への信頼がある」、そこに「祈りがある」のだということを覚えたいと思います。それは、共々に「神の赦しの恵みの中にある」ということなのです。神への信頼なくして、人と人とが心を合わせることは出来ません。神に信頼するからこそ、心を合わせることができる、それは「神との交わりにおける一体性」すなわち「一つである」ということです。
 「一つである」ということが、最近は難しくなりました。ここで「愛する」ことと「信頼する」ことの違いを知っておきたいと思います。
 人は、信頼することによって一つになることは出来ますが、愛することによっては一つになることは出来ないのです。愛されているから信頼する、それは勿論根底にあることです。しかし、愛するからといって一致するとは言えないのです。信頼できなくても愛するということはあるのです。
 今、世の中には「愛」が氾濫しております。愛さえあれば何でも出来ると思っているのですが、そうではありません。自己犠牲(キリストの十字架)こそが神の愛ですが、人にはそれは不可能です。人の愛は自己愛に過ぎません。その愛は不完全な愛なのであり、そこでは従属性は生まれても「一体性」は生まれないのです。現代は、信頼関係を失っているがゆえに、愛を求めざるを得ないのでしょう。しかし愛によっては、人は一致できないのです。

しかし、主イエスはここで、神を「父よ」と呼び、父なる神と御子イエス・キリストとの「一体性」を示してくださっております。それは何のためなのでしょうか。主イエスは「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください(21節)」と祈っておられます。神ご自身のためなのではありません。「すべての人間が一つになるため」と言われているのです。それは根本の出来事です。この祈りの示していることは、とても大きなことです。「時間、空間を超えて、すべての人が一つになる」ということが示されているからです。時空を、地域・国境を超えているのです。これは、外側から広い視野で見て、一体性があるということではありません。広い視野で外から見たら一つでも、隣同士がどうなのかは分りません。外側からの一体性には限界があるのです。しかし、ここで主イエスは「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように…」と「父なる神が内にいます」と言ってくださっております。外側ではなく「内側において一つである」と、主は示してくださっているのです。
 父なる神の御心は「御子イエス・キリストによって全ての人を救うこと」です。父なる神と御子イエス・キリストは同じ思い、その御心は一つであり、それは「人の救い」なのです。

私どもが「内側において一つである」ことを、主はこの祈りで示してくださっております。
 では、どこにおいて私どもは「一つとなる」のでしょうか。「主の救いの恵みに与る」ことによって、一つになれるのです。私どもは、各々ばらばらであるにもかかわらず「主イエス・キリストの贖いを頂いている者として一つ」となるれるのです。考え方も何もかもばらばらでも、「主の十字架と復活によって救われている」という恵みは一つ、だから一つの民となり得るのです。内側において一つだからこそ、違いを乗り越えて一つとなれるのです。一つなる恵みのもとにあって、私どもは一つで有り得る、それは時代を超え空間を超えて言い得る恵みであることを覚えたいと思います。

続けて、主イエスは「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」と祈っておられます。それは、父なる神と御子イエス・キリストとの交わりの中に一緒にいるということです。しかしこの時、主イエスはまだ十字架にはついておられないのです。十字架を前にしての祈ってくださるのです。この後、主は十字架を成し遂げてくださるのですが、しかし、そこで聖霊が臨んでくださって初めて、弟子たち(私ども)は「十字架の救い」を言い得る者となることができるのです。ですからこの祈りは、まさしく、私どもに対する聖霊の導きを主が祈ってくださっているということです。
 聖霊は、西方教会においては、父なる神と御子イエス・キリストからの派出と教えられております。地上におられる主イエスが、私どものために「聖霊を送ってくださるように」と父なる神に祈ってくださる。それは神の御心のうちに私どもがあるということです。主を信じるとき、私どもは、神の御心のうちにあるのだということを覚えたいと思います。「誰かの心のうちにある」ということは、なんと幸いなことでしょう。どのような時にも、人々に忘れ去られようとも、決して揺るぐことのない方「神」が覚えていてくださるのです。これこそが、私どもに最も必要なことです。本当に揺るぎない確かな方に覚えられたい、それが今の時代の飢え渇きなのです。答えは、主イエス・キリストにあるのです。
 自分しか無い世界は孤独です。破壊と死の淵しか見出せないのです。
 しかし主に信頼するとき、そこで私どもは「平安と勇気、生きる力が与えられる」のです。そして、神の御心のうちにあってこそ、私どもは一つなのです。それが「信じることのできる恵み」です。

「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。
 弟子たち(私ども)は、聖霊をいただいて、神を信じることができるようになり、神に覚えられる、神の御旨の内にあり、一つになるのです。それによって、人々が、そこに「救い主を見る」ことになるのです。私どもは「主こそ我が救い」と証しすることになるのです。この世は、父なる神が御子を救い主としてこの世に遣わされたことを知るようになるのです。
 聖霊をいただいた者として、私どもは、「主こそ我が救い」と言い表す恵みに与っているのだということを覚えたいと思います。

私どもは今、「一つ」とされております。だからこそ、この世の日々がいかに惨めで孤独であったとしても、私どもは「神に覚えられている者」なのであり、何ら悲観する必要はないのだということを改めて覚えたいと思います。

主の栄光を見る」 5月第2主日礼拝 2010年5月9日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章20〜26節
17章<20節>また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。< 21節>父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。<22節>あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。< 23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。< 25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。< 26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

21節の前半「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」。ここで示されていることは、「主イエス・キリスト」と「父なる神」が「一つなる方」であられ、主を信じる「弟子たち」(それは私どもをも含むのですが)とも「一つとなってくださる」ということです。そして「弟子たちと一つ」となってくださることの目的は、それによって「父なる神が主イエス・キリストを遣わしてくださった」ことを「この世が信じるため」と言われております(21節後半)。
 「主イエス・キリストと弟子たちが一つ」であることの原型は、「父なる神と子なる主イエス・キリストの一体性」にあります。このことを、私どもは真摯に受け止めなければなりません。「一つ」であることによって、この世に対して「主イエス・キリストが神から遣わされた御子、救い主であることを証しする」ことになるからです。
 ですから「伝道」とは、強いて(強いられて)することではありません。「伝道」というとき、そこには「主イエス・キリストと父なる神が一体であられる」ことが中心にあるのです。神と一つなる主イエスが、弟子たち(私ども)の内に居ますこと、それは「十字架と復活の主イエスの救いの恵み」が私どもの内側を満たしているということです。救い主であられる主イエス・キリストの恵みが私どもを満たしているがゆえに、私どもの生活は自ずと「主の恵みに応える生活」となるのです。それは「礼拝の生活」になり、日常において「神への感謝と悔い改めに生きる生活」になるのです。神に向かって語りかけ御言葉を頂く生活=「祈りの生活」となるのです。救いの恵みに満たされた生活、それは「神を崇める生活」です。そして、私どものそのような日常が、この世に対して主イエス・キリストを表す「証し」となるのです。ですから「神の恵みに満たされた生活」そのものが「伝道」なのであり、私どもの存在を通して、人々が神を見るということなのです。
 主イエスが祈ってくださっていることは、そういうことです。
 力んで伝道する訳ではありません。神の恵みに感謝して生活することこそが伝道なのです。では「ちらし配り」などは必要ないのでしょうか。いいえ、私どものなす伝道の業も、恵みへの応答であり、喜びであるはずです。自分たちの力でなす業だと思えば成果や効果を求めるようになるでしょう。しかし、そうではありません。私どもの伝道の業は「既に頂いている恵みに対する感謝としての業」なのですから、そこに成果を求める必要はないのです。
 「礼拝」において、私どもは主イエス・キリストを拝し讃美することによって「主イエス・キリストを救い主として表して」おります。ですから「礼拝生活・信仰生活」とは「神の恵みを頂いている者の生活」なのであり、それは即ち「主イエス・キリストを証しする生活」なのです。
 主イエス・キリストへの悔い改めと感謝をもって礼拝する日常において、私どもは、神の臨在(神がここにおられること)を表すのだということを覚えたいと思います。神が私どもの内に一つなるものとなって共にいてくださる、これこそが「神共にいます生活」なのです。そして「神共にいます生活」が「この世の救いのために仕える生活」となっているのだということは、何と感謝すべきことでしょう。力まず、ありのままに神に感謝する日常が神を表すとするならば、これに勝る名誉、幸いはないのです。

22節「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」。父なる神が御子イエス・キリストにお与えになった「栄光」を、主は弟子たち(私ども)にも与えてくださると言ってくださっております。それはどのような「栄光(誉れ)」なのでしょうか。
 父なる神が主イエスに与えた「栄光」とは「神の子としての栄光」です。主イエス・キリストの栄光とは「神の御子にして救い主、神なる方である」ということです。神が神としてご自身を現されること、それが「栄光」です。ですから、主イエスがご自身を「神の御子にして救い」と現してくださることは、私どもにとって素晴らしいことです。何故ならば、「神であり、救いである主イエスを信じる」ことによって、私どもは「神からの救いを頂く」ことに他ならないからです。そこでこそ「神の臨在」を知るのです。神が神としてご自身を現してくださる、ゆえに私どもは「神を神として知る」のです。それが「栄光を見る」ということです。
 その「栄光」を、主イエスは「弟子たちに与えた」と言われております。ここに言う「栄光」とは何でしょうか。主イエスと一つとして結び合わされている弟子たち(私ども)ですが、神の出来事と私どもとでは違うのです。主イエス・キリストは御子にして神なる方ですが、私どもは栄光を頂いたからと言って、神になるわけではありません。私どもは、神の御子と結ばれて「神の子とされる」ということです。主イエスは神の独り子であられる。私どもは神の子ではない。けれども、主と結ばれることによって「神の子としての扱いを受ける」のです。
 本当には、私どもは神との交わりの無い「滅びの子」に過ぎません。しかし、主と結ばれて、神の子として「神との交わりを与えられる」のです。
 本来、私どもは「神」を「父」と呼ぶことなどできない者です。しかし「神の子とされる」ことによって、「神」を「父」と呼ぶことのできる「誉れ」を頂いているのです。主イエスの神を父と呼ぶことができる、これほどの誉れ、光栄はないのです。ですから、私どもにとっての栄光は「神の子とされた」ということです。

今の時代は、人権主義の広まりによって、畏れを抱きつつ「神」を「父よ」と呼ぶという感覚を失っております。畏れを忘れ、人の思いを中心に据えることは、偶像礼拝を招くことです。本当は、畏敬の念をもって「父よ」と呼ぶ祈りであれば、決して自己中心になることはないのです。主イエスが神を「父よ」と呼ばれることは当たり前のことですが、同じように私どもが神を「父よ」と呼ぶことは、真に畏れ多いことなのだということを改めて覚えたいと思います。
 今朝も私どもは「神」を「父よ」と呼び、神を讃美する「神の民」として、この礼拝の場にいるという誉れを頂いております。礼拝を守ることは、神の子として、神を表す者とされている光栄なことなのです。ですから、礼拝に集い得たこと自体が誉れであることを覚えたいと思います。礼拝を守ることは、強いられてすることではありません。神の恵みに対する応答として、感謝を表すことであることを忘れてはなりません。

続けて「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」と言われております。何が「一つ」なのでしょうか。私どもは「一つなる神の子」とされました。それは共々に「神」を「父よ」と呼べるということです。私どもは各々違う存在です。考え方も感性も、暮らし方も、老いであることも若きであることも様々に違う、にも拘らず、私どもは等しく「神の子として一つ」なのです。思想信条によっては、人は一つになることはできません。また、色々なことを一緒に考え一緒にやって一つに一致させようとする必要もないのです。私どもは「神を父と呼ぶことにおいて一つ」なのだということを覚えたいと思います。

23節「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」と、一つであることが「完全に一つ」と、もっとはっきりと言われております。「完全に一つ」とは、今の感覚ではとても難しいことです。かつて日本人は、共同作業で米を作る農耕民族であり、村単位の一つの共同体に属しておりました。それは「違い」を認めない社会です。違いは共同体の秩序を乱すものとして排除されたのです。しかし、今は「個人」を尊重する時代です。違いを個性として認め合うのです。一つではなく「only one」を強調する時代になりました。「人と関わり無く生きることができる」という価値観へと、時代の価値観が移り変わっているのです。「only oneの個」、それは「ありのままで良い」ということですが、人のありのままは「罪」の姿です。人と関わり無く生きるための価値観として「only one」が必要となったために、「一つ」という感覚を失っているのです。しかし「共に一つ」という感覚を失うことは、人を深い孤独へと向かわせることです。関わりの中で生きるのが人間ですから、関わりを失えば、人は自分は一体何者なのかを見失い、その苦しみは深いのです。

しかし、ここで主イエスが言われることは「違いを超えて一つ」ということです。「個」が真実に認められ尊ばれるためには、「違いを超えた一つ」を知らなければなりません。私どもは各々に「違いを超えて、主にあって一つ」なのです。
 時代の価値観は、時代と共に移り行くものですが、それは必ずしも私どもを幸いにする価値観とは言えません。時代を超えて、決して変わることのない価値観、それが「主にあって一つ」ということです。
 また、「完全に一つ」とは、「永遠」ということを示しております。私どもは、主にあって「永遠の命に与っている」ことで「一つの恵みに与っている」のです。今を生きる私どもも過去に地上を去った死者も共に「永遠の命の約束」に与っているのです。

「主にあって一つ」という揺るぎない価値観が無ければ、今この地上を生きる一人ひとりが尊い個であることが慰めにはなりません。「主にあって一つ」であって初めて、各々に違いがあるにも拘らず、違いを超えて「尊い大切な一人の存在」とされていることを知るのだということを覚えたいと思います。

恐れるな」 5月第3主日礼拝 2010年5月16日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第12章1〜7節
12章<1節>とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。<2節>覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。<3節>だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」<4節>「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。<5節>だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。<6節>五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。<7節>それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

新約聖書を読みますと、イエスさまが弟子たちに教えられたり、また、いろんな場面においてお命じになられたお言葉に「恐れるな」があります。そのことを通して、まず示されるのは、イエスさまの周りに集まる弟子たちや群衆のうちには「恐れ」があったということであります。恐れの中にあることそのものは特段、慰めになることではありません。むしろイエスさまが「恐れるな」とお命じになられたというからには、そこから解き放たれることが恵みであり、祝福であると言ってよいと思います。なぜイエスさまが弟子たちに「恐れるな」とお命じになり、み言葉をもって恐れを取り除いてくださるのでしょうか。
 それこそ今日の大きなテーマでありますが、そこに触れる前に、イエスさまが弟子たちや群衆に語りかけてくださるみ言葉に触れて行きたいと思います。弟子たちに語りかけてくださるということは、すなわち教会に集う私たち一人一人に語っていてくださるからです。イエスさまにつき従っている弟子たちばかりでなく、イエスさまは餓え渇きを持ってみ言葉を求める者に語ってくださるのです。ここに、弟子たちへの語りかけは、すでに彼らだけに語られたものではなく、さらにすべての人に広く開かれたものであることが示されていると言ってよいと思います。
 まず、イエスさまはファリサイ派のパン種に気をつけなさい。注意を払いなさいと言われます。パン種は小麦粉と水、卵などと混ぜ合わせて焼くと、おいしいパンになります。パン種に注意せよ、というのは、それが発酵をもたらし、強い臭いをも放つもので、ユダヤの人々にとってパン種は汚れたものとされていたことから言われたものと思います。
 ではファリサイ派のパン種とはいったい何のことでしょうか。ファリサイ派の人々は律法をよく学んでいました。律法は主なる神によりエジプトを脱出したイスラエルの人々に、神が祝福をもってこれを守り行うようにと授けられた戒めであります。イスラエルの人々は律法を学んでこれを守り行うことによって、神の救いのみ業に感謝を表わしたのです。けれども時代が下ってファリサイ派の人たちが人々の指導的な立場に立つようになると、彼らは律法をよく学び、それを守るためにつくられた言い伝えをも含めて実行しないと救われないと教えたのです。神の救いの出来事への感謝を表わして生きるあり方であったものが、いつしか真逆になって行く。変節してしまう。律法や言い伝えを守れば救われるという方向に変わっているのです。
 ファリサイ派の人々が伝えたことは「行為義認」と言ってもよいかと思います。いまでもこのような考えが起こりかねませんが、良い行いをたとえいくらしたとしても、神の前に正しいとはされ得ないのです。そこに救いはないのです。救いなきゆえにかえって汚れに過ぎないことが示されるのです。それこそ偽善でありますし、良きもののごとき装いのうちに隠されたものであります。しかし、そのようなものはみな、暴露されてしまうのだというのです。
 たとえどんなに誇るべき善きことを積み上げ得たとしても、それで救われるということでは決してありません。むしろ、罪、汚れに満ちているのが私たちであり、救われるために積み重ねたよい業も一発で無に帰する愚かなことをしてしまう。キリストの十字架がそれを示しています。十字架は人間の罪の深さをあらわす出来事であります。人間の罪が、いやこのわたしの罪、汚れこそが、イエスさまを十字架につけてしまったのです。ですから十字架は私たちの罪の深さをあらわすものといってよいでしょう。ところが、それが神さまの全き救いの出来事であったと伝えるのが福音、よき知らせです。罪深い私たちが担うべき十字架を罪なきキリストが担い、そこで死んでくださり、よみがえってくださったことこそ、救いの恵み、良き知らせにほかなりません。
 まったく罪に過ぎない者、いやイエスさまのわき腹を刺し貫いた者をも、その罪から贖い、神のものとされた。この神の驚くべき救いの恵みを私たちは受けているのです。この十字架の出来事のゆえに、悔い改めてイエスさまを 信じる恵みにあずかっております。ですから私たちは、自らの行為をもって救いを求めることをしません。罪深き者に神さまがよきことをしてくださった、十字架のイエスさまに救いのみ業を知るのです。ですから、私たちの歩みはたといどんなに貧しく、卑しくあろうとも、神への感謝になるのです。これは感謝しなければならないから、というのではありません。存在そのものが神への感謝となり得るのでありますし、イエスさまの前にあってすでにそうであることを覚えてよいと思います。

それゆえに、イエスさまは「恐れるな」と命じて下さっています。神の恵みにある者は、恐れから解き放たれるのであります。ただ、何度も何度もイエスさまが「恐れるな」とお命じになって下さらなければならないほどに、繰り返し恐れの中に捕らわれてしまうのが私たちではないでしょうか。内なる偽善が汚れに過ぎないと知らされても、なお外側の装いを厚くしようとするのは自らの弱さ、醜さを見たくないからかもしれません。そのことを恐れているのではないかと思います。
 そういう内側の問題にとどまらず、外側からも恐れは私たちを捕らえようとします。イエスさまは「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(4〜5節)と語ってくださることにより、私たちを恐れさせるのは体を殺すような者たち、すなわち迫害や弾圧をもたらす者であることがわかります。今はそのような迫害、弾圧はないかもしれません。が「体を殺す」とは端的にこの世における命を奪うものといたしますと、それは病気であったり、怪我であったり、困難であったりするかもしれません。そういうものが襲うときに私たちのありようが明らかになると言うと言いすぎかもしれませんが、とても神さまの前でほめられたものではないようなことを言ったり、やったりしてしまうもののようです。けれどもなお、そこで「恐れるな」と言ってくださるイエスさまによって、私たちを恐れさせているものの本当の姿を分からせていただけるのです。迫害、弾圧、病気、困難、どんなものであれ、それが私たちを本当に支配するものではありません。私たちを本当に支配し、恐れさせるものは神をおいて他にはありません。神は、体が殺されたあと、地獄に投げ込む権威をもっておられる方に他なりません。
 地獄はゲヘナの訳です。ゲヘナはエルサレムに近い谷の名前で、非常に不快さを伴った言葉です。エレミヤ書7・31〜32にあるベン・ヒノムの谷こそ、ゲヘナとされ、古くはモレクの神に子どもたちが犠牲として捧げられ、後にそこは廃物やゴミの荒れた山に変えられてしまいました。そこが地獄の象徴として覚えられていたのです。ところで、その地獄に投げ込む者は、私たちの感覚からすると悪魔のような存在に思えるでしょうが、天国へと迎え入れて下さるのが神であれば、地獄へと投げ込む権威を持ちたもうのも神です。天も地も、地獄の底さえも一切を支配したもうのが神です。他の一切はこの神のもとにあって力を失うのです。だから恐れから解放されるためには、まことに恐れるべき神をこそ恐れることを知ることです。

恐れなく生きるためには、やせ我慢するとか、空威張りするとかではなく、天も地も、地獄をも支配される神を恐れることを知ることをイエス様は弟子たちに教えてくださったばかりではありません。さらに驚くべき神のお姿を示して下さるのです。それは憐れみと慈しみに富んでおられる神のお姿です。私たちを忘れたまわない神のまなこを示されるのです。「 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(6〜7節)。5羽の雀が2アサリオンで売られているではないか、そうイエスさまは言われます。2アサリオンはだいたい、日本円で200円くらいだそうです。だから一羽、およそ40円ほどに過ぎません。ところが、このたとえはマタイによる福音書にもありまして、10章29節には、なんと2羽の雀が1アサリオンで売られていたと言います。読み比べて見ますと、ルカではおまけがついていると見てよいでしょう。神はおまけ扱いされるような取るに足りない一羽の雀をさえ、忘れることはありません。
 それどころではありません。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている、それが神さまだというのです。皆さん、私たちは傲慢にも、自分のことは自分でよく知っていると口にします。他の人が言ってもいないのに、こんなものさと思ったりします。もちろん、他人の目も気になります。それで恐れるなり、萎縮するなりしてしまう。けれどたといどんなものであれ、神のまなこのうちにあって生きているのです。まず、なによりも汚れでしかない偽善がうちにあることに気づかされ、なお、神ならぬものをばかり恐れて、いつしか傲慢にさえなっていた。しかしそれこそ全くの見当違い、的外れであることに気づかされました。私たちがそのように気づかされる前から、神さまは私たちを知っておられ、忘れることなく髪の毛までも一本残らず数えるほどに大切にしてくださっているのです。

神のまなこのうちにあるのです。神がそのようにしてくださる恵みを知った私たちは、恐れることなく神の言葉を言い表し、神と隣人を愛する歩みへと踏み出す自由を与えられているのです。

わが霊を注ぐ」 ペンテコステ礼拝 2010年5月23日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨエル書 第3章1〜5節、使徒言行録 第2章1〜21節
ヨエル書 第3章<1節>その後/わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。<2節>その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。<3節>天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。<4節>主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。<5節>しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。

使徒言行録 第2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

今日は「聖霊降臨日礼拝」を守っております。

十字架の後、復活の主イエス・キリストが弟子たちに現れ、「聖霊(助け主)を送る」と約束してくださいました。その約束を受けて、弟子たち(キリストに連なった者たち)は「心を合わせて熱心に祈っていた」と、1章14節に記されております。そして、2章1節「五旬祭の日が来て…」、そこに「聖霊」が臨み、4節「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。
 「五旬祭」とは「過越祭」から50日後の祭りです。それは「主イエス・キリストの十字架の贖いが成し遂げられてから50日目」を意味します。
 弟子たちが「十字架の贖いの恵み」を「骨身に沁みて知る」ためには「聖霊の注ぎ」が必要でした。弟子たちは約束の聖霊をいただいて初めて「十字架の贖いの恵み」を知り、「“霊”が語らせるままに」「神の偉大な業(11節)」を語り始めるのです。「神の偉大な業」とは「ナザレのイエスは神の御子、メシアである」ということです。弟子たちは、主イエス・キリストが神のご計画によって「十字架に死に、復活された方」であり、「人々の救いと滅びの権能を持っておられる方」であることを宣べ伝えるために、聖霊によって「主イエス・キリストの証人」として立てられました。人々が「悔い改め」「主の名によって洗礼を受け」「罪の赦しを受ける」ようにと勧めるために立てられたのです。「弟子たち」それは「教会」です。「十字架の主を宣べ伝え」「罪の赦しの宣言をなす権能を託されている」、それが「聖霊の注ぎを受ける」ことによって「教会に与えられている力、使命」です。「教会」は、十字架の主を宣べ伝え、洗礼を授け、罪の赦しの宣言をなす権能を与えられた「神の国を表す共同体」なのです。
 それゆえに、私どもは心したい。家族に、友に、すべての人に「悔い改めて洗礼を受けること」を勧める者でありたいと思います。

この「聖霊の注ぎ」の出来事を目の当たりにして「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた(13節)」中で、ペトロは「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです(16節)」と、「聖霊の注ぎの出来事」は、預言者ヨエルの預言の成就であると語ります。
 今日の聖霊降臨日礼拝では、いつもと視点を変えて、「聖霊が注がれる」とは如何なることなのか、旧約聖書ヨエル書の御言葉から聴きたいと思います。

1節「その後」とは何時のことか。それは「終末のとき」です。「その後」の前にあったことは何か。人々の苦難があり、神はその嘆きを聴いてくださり、恵みをもって満たしてくださるのです。「神が共にあって」くださり、地は回復し、人々は満たされる。ヨエル書2章は「神共にいます恵み」を語って終わります。
 しかし、3章「その後」で語られていることは、「神共にいます」ことではなく「聖霊を注ぐ」ということです。「神共にいます」とは、聖書全体を貫く信仰の言葉です。しかしここでは「終わりの日」には、「神共にいます」だけではなく、更に、全ての人に「聖霊を注ぐ」と言われております。ここで覚えたいことがあります。「神共にいます」と「聖霊を注ぐ」とでは違いがあるのです。
 「神共にいます」と言う時、人は「どんな時にも神が共にいてくださり、支え守ってくださるから心強い、励まされる」と思います。神が外側から私どもを強めてくださっていると思う「人の思い」になるのです。「神共にいます」信仰はとても大事ですが、しかしそこには「思っていたのに違っていた」という、人の思いゆえの落とし穴があることも忘れてはなりません。
 では「聖霊を注ぐ」とはどういうことなのでしょうか。「聖霊」とは「神の息、激しい嵐」とも表現されるように「神の力」です。「神の力」がその人に注がれる、それが「聖霊の注ぎ」です。「その人の全人格に神の力が臨む」、ですから神の言葉がその人自身の言葉となって語り出すのです。「聖霊」は私どもの内に働きたもう神です。神の力がその人の内にみなぎる、満ちあふれる、だから語らずにはいられない…終わりの日の恵みの出来事を語らずにはいられないのです。ただ共にいてくださるのが神なのではありません。私どもの内にいて働いてくださる力、それが聖霊なる神なのです。自分の思いを語るのではありません。神が私どもの内にあって語ってくださる。それが私ども「教会」に与えられている恵みです。

「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われております。「すべての人」、そこには息子、娘、老人、若者の区別はありません。聖霊の出来事には一切の区別はないのです。誰の区別なく聖霊は注がれ、すべての人に神の力が与えられて、人々は「預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る」。即ち「神の言葉を語り(預言)、夢・幻を見る」のです。夢・幻は神の自己開示、神の啓示の手段です。それは「神との直接の親しい交わりに生きる」ということです。本来、人は神との直接の交わりを持つことは出来ません。しかし、主イエス・キリストの約束してくださった「聖霊を受ける」ことによって、罪赦され、神のものとされ、神を父よと呼ぶ恵みをいただき、神との直接の親しい交わりを許されるのです。「神との直接の親しい交わりに生きる」それは本来「終わりの日の恵みの出来事」であるにも拘らず、聖霊の注ぎを受けることによって「今、ここで」その恵みに生きることが赦されているのです。

2節「奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」と続きます。奴隷にも聖霊が注がれることによって与えられる恵みとは何でしょうか。それは「捕われから解き放たれる」ということです。「奴隷」とは「捕われ」です。「罪の縄目から解き放たれる」という恵みが与えられるということです。

4・5節「主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」。終わりの日=完全な救いの日が来る前には、全世界を闇が覆うと言われております。しかし、それによって全てが滅びるのではありません。終わりの日に「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」のです。
 「主の御名を呼ぶ」とは、どういうことでしょうか。使徒言行録にこの言葉が引用されたことには意味があります。それは、この預言の成就を「主イエス・キリスト」によって見たからです。「主の御名を呼ぶ者」とは「主イエス・キリストへの忠誠を誓った者」「主イエス・キリストを救い主と公に言い表した者」であり、これが初代教会の信仰でした。
 私どもは、いい加減な者です。私どもが「思った」ことなど、何の根拠にもならないのです。しかし、そのような私どもが「聖霊の注ぎを受ける」ということは、「洗礼」を通して「主イエス・キリストを救い主と言い表す、主に忠誠を誓う」ということです。あるいは、私どもはこの誓いを忘れてしまうかも知れません。しかし、主は覚えていてくださるのです。あるいは、私どもが老年となり何も理解できなくなったとしても、あるいは、この地上での最後がどのようなものであったとしても、聖霊の出来事のゆえに「主の救いは揺るぎない」のだということを覚えたいと思います。

終わりの日とは、滅びの日なのではありません。終わりの日とは、救いの完成の日です。

改めて覚えたいと思います。「聖霊の注ぎを受ける」とは「主イエス・キリストを宣べ伝える者となること」「キリストによる罪の赦しを頂き、罪の赦しの宣言をなす権能が与えられている」ということです。それが、私ども「教会」に与えられている力、使命です。「罪の赦しの宣言」を受けた者は、神との交わりに与り、終わりの日に救いの完成を頂くのです。それゆえに「聖霊の注ぎ」という出来事は、恵み深い出来事なのです。

羊飼いのたとえ」 5月第5主日礼拝 2010年5月30日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第15章1〜7節
15章<1節>徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。<2節>すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。<3節>そこで、イエスは次のたとえを話された。<4節>「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。<5節>そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、<6節>家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。<7節>言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

主の喜びの声が聞こえてきます。失われた者を見出し、ご自分のものとされた主の喜びの声です。ルカによる福音書15章はイエスさまがお語りになられた3つのたとえ話が記されています。「迷い出た一匹の羊を探す羊飼いのたとえ」、「無くした一枚の銀貨を探す婦人のたとえ」、そして「放蕩息子のたとえ」です。これら3つのたとえはファリサイ派の人たちや律法学者たちがもらした不平に対して、イエスさまが答えとして語ってくださいました。今日はその最初のたとえ話から聴いていきたいのでありますが、その前にファリサイ派の人たちや律法学者たちがイエスさまにどんな不平をもらしたのか、がまず記されております。

「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」(1〜2節)。「話を聞こうとして」すなわち、み言葉を求めてイエスさまのところに集まってきたのは、徴税人や罪人であります。その様子を見てファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」と不平をもらしたのです。徴税人は当時、人々から税金を集める仕事をローマ帝国から請け負っていた人たちです。人頭税にはじまり、道の要所を通るとき、橋を渡るときなど色々なものに税がかけられていましたが、とてもローマ人の手だけで徴税の仕事ができず、地元の人たちにそれを請け負わせていたのです。徴税人たちはローマに収める税金以上の税金を同じユダヤの人々から集めて、その上前をはねていたのです。異邦人とかかわり、税金を集めては私腹を肥やす徴税人たちは非常に嫌われ、蔑まれてもいました。また「罪人たち」は「モーセの律法」違反が共同体に知られ、その違反行為が公式、非公式に関わらずに述べられ、その結果、会堂から締め出された者たちを指しています。ありていに言えば人々から嫌われ、蔑まれ、共同体からも締め出された人たちをイエスさまは受け入れておられたのです。
 イエスさまは今も無きに等しい者を受け入れてくださり、恵みたもうのです。そうです。実にイエスさまは徴税人、罪人と、ただ一緒におられたというのではなくして、食事をさえ共にして、まさに歓迎しておられるのです。

ファリサイ派の人々や律法学者たちはイエスさまのそのような振る舞いを見て不平を言ったのです。神の義をあらわすイエスさまが徴税人や罪人を歓迎されるなど、彼らには受け止めきることができません。自ら律法に照らして清く、かつ正しいというところによりどころを求める者にとっては、徴税人や罪人と交わることに堪えられません。イエスさまはそうではありません。普通、「朱に交われば紅くなる」というように、交際する人たちの影響を私たちは受けるのですが、イエスさまは徴税人や罪人と交わったとしても、それによって汚れることはありません。かえってイエスさまの清さは罪人に過ぎない者を清めたもうのです。

イエスさまは十字架の血潮によってすべての者を清めたもうのです。しかもイエスさまは嫌々ながら罪人を受け入れてくださるのではなくして、それを喜んでおられることを、たとえ話をもって示しておられるのです。

そこで、イエスは次のたとえを話された。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(3〜7節)。ここでイエスさまの問いかけを受けます。あたかもイエスの話を聞いている者たちが羊飼いであるかのごとく。彼らは羊飼いにとって羊がどんなに大切なものであるかを知っています。ですからイエスさまに「百匹の群れから迷い出てしまった羊を、ほかの九十九匹を残して探し回らないか」と聞かれて、当然そうすると思ったに違いありません。ただ、イエスさまのこのたとえは徹底しております。徹底して探す羊飼い、そこに失われた者をどこまでも探してやまない神のみ思いがあるのです。山であろうが、谷であろうが、荒れ野であろうが、町の雑踏の中であろうが、徹底して失われた者を探し求められるのであります。
 そして、迷い出た羊を見つけ出したら喜んでその羊を担いで、「家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(6節)。探すのも徹底的なら、喜びを共有させようということにも徹底的であることをここに覚えることが出来るでしょう。イエスさまが徴税人や罪人を集められ、親しく語りあわれ、食事を共にして喜んでおられる。なぜでしょうか。イエスさまは失われた罪人を探し出して救いたもうお方だからです。そう、九十九匹も羊はいるじゃないですか。そんな一匹にこだわらなくてもと思ってしまう不遜なものですが、神さまはそうではないのです。失われた者が見出され「ご自身のもの」とされることを喜びたもうのです。その喜びは「あなたも喜んでください」と誰彼かまわず呼びかけるほどだと言うのです。

今朝も主の喜びの声が天に響いているのを聞く幸いを思います。私たち一人一人を見出して下さって「ご自身のもの」としてくださった主の喜びの声です。もう見出されなくても当然のような汚れた罪人に過ぎない者を徹底して探し出し、見出した喜びをもって「あなたも喜んで欲しい」と呼びかける主のみ声です。
 そしてなお、思います。主は今も徹底して見失われた羊を探す羊飼いのごとく、失われた者を見出すべく探してくださっていることを。主がそのようなお方であるがゆえに、徹底しきれない、まことに不遜なものであったとしても、主によって見出され、喜ばれている者として新しく歩んでいくことがゆるされているのです。