聖書のみことば/2010.4
2010年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
十字架上の主イエス」 受難日礼拝 2010年4月2日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ルカによる福音書 第23章26〜49節
23章<26節>人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。<27節>民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。<28節>イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。<29節>人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。<30節>そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。<31節>『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」<32節>ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。<33節>「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。<34節>〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。<35節>民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」<36節>兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、<37節>言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」<38節>イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。<39節>十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」<40節>すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。<41節>我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」<42節>そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。<43節>するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。<44節>既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<45節>太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。<46節>イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。<47節>百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。<48節>見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。<49節>イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

主イエス・キリストの十字架の日、受難日を迎えました。
 十字架上の主イエスの、2つの御言葉から聴きたいと思います。

主イエスがつけられたのは、十字架の横木です。主イエスは、手足を釘付けにされ、服を剥がされ、陽と風にさらされ、苦痛を味わわれました。「十字架」は人々への見せしめの刑。何という苦しみでしょう。想像を絶するのです。
 人々の熱狂、興奮が、主を十字架につけてしまいました。主イエスの十字架には、罪状など無いのです。「罪なき方」が「罪人の罪」のために十字架を負ってくださいました。「十字架」に現されていることは、神の子を信じられない「人の罪」であり、「十字架」によって「人の罪」があらわにされ裁かれているのです。

主の十字架上の痛み・苦しみ、それは本来、私どもが味わうべきものであって、我が手を貫くはずの釘が主イエスの手を貫いているのだということを覚えたいと思います。それゆえに、私どもはただただ申し訳なく、主の十字架の前に絶句するのみなのです。

主イエスの左右に、罪人が2人、主と同じように十字架につけられております。主イエスはまさに「罪人のただ中に立っておられる方」であることを象徴しております。私どもは自分の罪すら自覚できないような者、罪人の端くれですが、そんな私ども罪人の真ん中に、主イエスご自身が、今、立っていてくださるのだということを覚えたいと思います。

そして、罪人のただ中に立ち、主は言ってくださるのです。34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。
 ご自分が「苦しい」と言われるのではありません。他人のことなど考えられるはずのない時に、主をあざける者、好奇の目で見ている者たちを責めるのではなく、「彼らをお赦しください」と言ってくださる。「祈った」とは記されておりません。「言われた」のです。ですから、この言葉は「執り成しの祈り」ではないのです。執り成しを超えた主の御言葉です。

私どもは、時に「敵する者のためにも祈れ」と示され、祈ります。たとえ本心では許せなくても祈ってしまう、そんな弱さを持つのです。しかし、主イエスの言葉は違います。主イエスの言葉には、既に「赦し」があるのです。「十字架にかかられたメシア(救い主)」としての「赦し=贖い」を既になしておられるのです。
 主において、既に「赦し」があります。私どもは執り成すことはできたとしても、決して許すことはできません。主イエスは、執り成しを超えて「赦しをなすお方」です。主の御言葉に「罪の赦し」があることを覚えなければなりません。ですから、人は「十字架の主イエス」ゆえに「赦される」のです。知らずに犯した罪だから赦されるのではありません。罪を自覚していないから赦されるのではない。罪の自覚も無いならば、赦しの余地などないのです。「罪が罪とされる」ことなくして「赦し」は無いのだということを覚えなければなりません。
 私どもは、本当には罪の深さを知りません。そのような「人の罪」を「罪」として、主が十字架で裁かれてくださっている、だから「赦し」があるのです。
 罪を罪として知ることも出来ない私どものために、主は十字架で贖いとなり、罪を罪として裁かれてくださったのだということを覚えたいと思います。

十字架の主イエス・キリストこそ、私どもの救い主、贖い主です。
 しかし、その恵みを、十字架を見つめる人々は、まだ知りません。
 人々は、主の服を分け合い、主の苦しむ声を聞こうと見つめ、あざけり、侮辱するのです。

39節、更に、犯罪人の一人が主をののしります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。この言葉は、この犯罪人がどういう罪を犯した者かを暗示しております。「お前はメシアではないか」と、メシアを認めている、つまりユダヤ人なのです。「自分自身と我々を救え」、彼はメシアを救世主だと考え、ユダヤをローマ支配から解放する政治的王としてのメシアを待望する「熱心党」であったと考えられるのです。彼の罪状は「国家騒乱罪」、それゆえ死に価するのです。
 彼は、自分が罪を犯しているとは少しも考えておりません。自分は正しい、ゆえに十字架は不当だと思っているのです。彼に罪の自覚はありません。ですから彼は、十字架上の自分自身を受け止められないがゆえに、死を受け入れられない痛み・苦しみは大きいのです。

40節、もう一人の犯罪人がたしなめます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」と。彼は、十字架上で自分の罪を見、神を見ているのです。十字架の死を、自らの「罪の報いとしての死」と思っているのです。
 私どもは人間は、いつの日か、自らの人生の清算をする時を迎えなければなりません。死に際して、生きてきたことの報いを受けるのです。
 彼は、主イエスに神を見ております。そして願います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。彼は、主イエスが天の国において権威ある方であることを知っているのです。まさに、死に際して、主イエスにすがっている。自分の一切を主に託しているのです。彼は「主イエス・キリストに救いを見出している」、ここに彼の信仰が言い表されております。

43節、主にすがるこの人に、主は宣言してくださいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。この罪人は、主イエスをメシアと信じることによって義とされた、初めての人となりました。

今、覚えたいのです。私どもも、必ず死すべき者として「十字架の主イエス・キリストにすがるよりない」のです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願う以外にないのです。

しかし、何と幸いなことでしょう。私どもが主にすがるとき、私どもは既に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との御言葉を受け、救いの宣言をいただいているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

あの方は復活なさった」 イースター礼拝 2010年4月4日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ルカによる福音書 第24章1〜12節
24章<1節>そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。<2節>見ると、石が墓のわきに転がしてあり、<3節>中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。<4節>そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。<5節>婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。<6節>あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。<7節>人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」<8節>そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。<9節>そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。<10節>それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、<11節>使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。<12節>しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

1節の「墓」とは、主イエスを葬った墓です。23章の終わりには「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、…」と、主が十字架にかかられた金曜日に婦人たちが「主イエスの葬り」を確かめ、土曜日には安息日規定に従って休み、「週の初めの日」を迎えたことが記されております。

「週の初めの日」とは、日曜日です。キリスト者にとって日曜日は「十字架と復活の主イエス・キリストを覚えて礼拝する日」であることを、今朝はまず覚えたいと思うのです。
 ユダヤ教では安息日は土曜日であり、天地創造に際して神が7日目に休まれたゆえに、安息日には創造の神の御業を覚え、また出エジプトにおける神の救いを記念し、神を「創造主」「救い主」として礼拝します。
 キリスト者にとっての安息日は日曜日です。キリスト者は「主イエス・キリストの復活の日」を「礼拝日」とすることによって、主イエス・キリストによって「新しい創造と救いを得た」ことを表すのです。十字架の主イエス・キリストの命によって罪を贖われ、復活の主イエス・キリストによって永遠の命を与えられる。それは、贖い取られた者が、贖なってくださった方のもの(所属)、つまり「キリストのもの、神のものとされる」ということであり、「罪なる者」から「神の子とされる」という「新しい創造」の恵みに与るということなのです。ですから「復活の主イエス・キリストを礼拝する」ということは、キリストにより救われ、神のもの(神の子)として新しく創造された恵みに感謝することです。まさしくそれが今日の礼拝です。

婦人たちは、葬られた主イエスのために用意した香料を持って墓に行きますが、既に「復活した主イエス」には用いる必要はありませんでした。
 2節「見ると、石が墓のわきに転がしてあり…」、婦人たちが「墓」で見たものは何でしょうか。「墓」は「死の世界の入口」です。その入口の石が取りのけられているということは「死の世界が破られている」ことを暗示しているのです。死の支配が終わりを告げ、死者はもはやそこに閉じ込められていない。「主イエスの甦り(復活)」の事実を、この墓の情景が示しております。
 私どもにとって「主イエスの甦り(復活)」とは何なのでしょうか。私ども人間は必ず死ななければなりません。しかし私どもを支配するのは「もはや死ではない」ということです。死は、主イエスによって破られたのです。復活の主イエスによって私どもは、死を超えた命を約束され、死しても死に留まらないことを約束されているのです。ですから、この世にあっての日々がいかに惨めで失敗ばかりであったとしても、主イエスを信じる者として、私どもは勝利者です。もし死の支配に服するなら勝利したとは言えません。しかし、復活の主イエス・キリストによって、最後の最大である死に勝利しているのです。ですから、私どもにとって「人生は勝利である」ことを覚えたいと思います。主が甦ってくださったことによって、私どもも「死に勝利する者」とされているのです。

3節「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」。主イエスは復活なさった、ですから墓の中に主イエスを見出すことはできなかったのです。
 なぜ「墓」も「死」も、主イエスに勝てなかったのでしょうか。罪の価は死ですから、死は罪なる者を支配するのです。「罪なき者」を死は支配してはなりません。ところが「罪なき方、神の子主イエス」の死によって、死は過ちをおかしました。本来支配してはならない方を支配してしまった過ちゆえに、死は無力になり、自ら破れたのです。そして、主イエスを信じる私どもも、死の支配から解き放たれました。

4節「そのため途方に暮れていると、…」。途方に暮れている婦人たちのことを思ってみたいと思います。ガリラヤから主イエスと共に来た婦人たちの姿に、主イエスに対する厚い思いが分ります。男の弟子たちは十字架の主イエスを見捨てて逃げ去りますが、婦人たちは十字架の主イエスを見つめ、主の墓を、葬りを確かめる。香料を用意して日曜日の朝を迎えた婦人たちの思いは、主イエスへの哀悼の心、死した主イエスに対しても愛を尽くしたいという思いなのです。ところが、墓には愛を尽くすべき主の遺体が見当たらない、だから途方に暮れる、思いが届かない、行き詰まるのです。しかしここで覚えたいと思います。「行き詰まる」ということが大事なのです。婦人たちの思いの先にあるのは「死した主イエス」ですが、主イエスは、彼女たちの思いの先におられるわけではないのです。どんなに愛を尽くそうとも、自分の思いでは行き詰まり、そこに主を見出すことは出来ません。しかし、その行き詰まりの先で「神に聴く者となる」ことによって、婦人たちは主を見出すことが出来るのです。「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」、輝く衣を来た人とは「天使、神が遣わした御使い」、即ち「神」が臨んでくださることによって、婦人たちは主を見出すのです。
 神の臨在に耐えられず顔を伏せざるを得ない婦人たちに、5節「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と、「主イエスは生きておられる」ことが婦人たちに最初に告げられます。主は墓の意味する「死」の中にはおられない。主は復活なさった。主の復活こそ死に対する勝利であり、死の敗北が告げられるのです。

そして7節「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と、主の復活の告知を確信させるために、天使たちは婦人たちに「主の言葉を思い起こせ」と言ってくださいます。「主の言葉を思い起こせ」それが神から示されることです。「御言葉の想起」それが「信仰」なのです。「御言葉を思い起こす」ことによって、知り、確信へと至るのです。何故でしょうか。ここで婦人たちに示されていることは「主が言われたことは本当だった」ということです。主の御言葉は真実だったと知ったのです。主の御言葉は真実だと確信する、だから信じることができるようになるのです。このことは、私どもにとっても大事なことです。人の救いは神の真実にかかっているのです。神が真実であってくださるからこそ人の救いがあるのであり、その救いは確かなのです。
 婦人たちは、主の復活を確信します。私どもも今、天使たちが告げる御言葉を頂いております。この御言葉こそ、真実なのです。私どもにも聖霊が臨み、主の言われたことが真実であることを知るのです。

9節〜「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」。婦人たちは、確信したことを人々に伝えます。ここには伝えた婦人たちの名が記されております。それは、その婦人たちが、教会(キリストを証しする群れ)の中心となったことを示しております。

11節「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」、使徒たち(男の弟子たち)は信じられませんでした。弟子たちは、主イエスの十字架の死によって自分の思いに破れ、無気力になっていたのです。そこが、主への厚い思いの中にあった婦人たちと違うのです。無気力な者は、真実を見ても反応できません。12節、それでもペトロは墓へ行きます。しかし、信じることはできないのです。どこかで諦めている、そんな中では信じることはできないのです。

けれども、後に弟子たちは「信じる者」となりました。それはどうしてでしょうか。復活の主イエスが彼らに臨んでくださったからです。無気力な者、諦めている者、そのような者に主が臨んでくださる、だから「信じられない者」から「信じる者」へと変えられるのです。
 「信じる」ということは、自分の思いの先にあることではありません。「信じる」とは、上よりの、聖霊の出来事であることを覚えたいと思います。復活の主の恵みとは、信じられない者、確信を持てない者にこそ与えられる恵みであることを覚えたいのです。信じられない者にこそ、聖霊が臨んでくださいます。信仰無き者に臨む恵み、それが復活の恵みなのです。

主イエス・キリストは、今も生きて、ここに働いてくださっております。婦人たちと共に私どもも、主の復活が告げられる御言葉に聴き、御言葉に触れているのです。私どもにも、神の力、聖霊が働き、信じる者とされ、永遠の命に与る者とされていることを覚え、この大いなる救いの恵みに感謝したいと思います。

聖なるものとする」 4月第2主日礼拝 2010年4月11日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章14〜26節

17章<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。<20節>また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。<21節>父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。<22節>あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。<23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。<25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。<26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

主イエスが父なる神に祈ってくださっております。

14節「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」。
 主イエスは「弟子たちに御言葉を伝えた」と言っておられます。しかしここでの「伝えた」という言葉は、ギリシャ語では「与えた」というニュアンスを持つ言葉です。ですから弟子たちは、主イエスから「神の言葉を与えられた」ということなのです。
 「主イエスの言葉」は全て「神の言葉」です。それは「父なる神」と「子なる主イエス・キリスト」との一体性が前提にあってのことです。御子イエス・キリストは父なる神と一つなる方ですから、主イエスの言葉は、同時に「父なる神の御言葉」なのです。主イエスからいただく言葉は、まさしく「神の御言葉」であるということを覚えたいと思います。

また更に、主イエスの言葉をいただいている者は、神の御子である主イエス・キリストの御名をいただくことによって、神を「父よ」と呼ぶことが許されております。主イエスを信じ従う者として、父なる神と一つなる「神の家族」とされているのです。それは「神」を「父」とすることの恵みです。
 今は高齢化や核家族化の中で一人暮らしが増え、孤独が問題となっている時代です。人は「家族共同体」の崩壊、喪失の中に生きざるを得ません。ペットがペットではなく「家族」となるという現実、人はそれほどに孤独なのであり、家族共同体を必要とし求めているのです。
 そういう中で「一つの家族に属している」ということは大きな恵みです。「神の家族、神の共同体」の中にあることの恵みは、一人ひとりが「人格」として尊重されるということです。ここに、私どもが「神の家族」として「神の言葉をいただく」ことの恵みがあります。神との言葉のやりとりによって、私どもは「人格ある者」とされるのです。ですから「神の家族=神を父とする共同体」に属する者は、決して孤独ではありません。

「神を父とする共同体」とは、礼拝する神の民、すなわち「礼拝共同体」です。神の家族として共に祈り、礼拝する「天に属する共同体」を、この地上において生きることが許されているのです。
 更に、この共同体は、死して終わる共同体ではありません。地上にある共同体はどんなに近く親しい共同体であったとしても、死によっていつかは失われてしまう、限界ある共同体です。しかし「神を父とする共同体」は地上を超えているのです。死して甦り「神を父と呼ぶ永遠の交わりを与えられる共同体」なのです。地上の共同体には限界があります。しかし神の共同体は、不完全ではありますが限界はありません。死して甦ることで完成する、完成を見るための不完全なのです。

ですから、主イエスが「御言葉を伝えた」と言ってくださることは恵み深いことです。それは「神の言葉を父の言葉としていただき、神の家族とされている」ことの幸いなのです。それが、「伝えた」と訳されていますが「与えた」という意味を持つことの内容です。

そして続けて、「神に属する者」として弟子たちに言われていることは、「世は彼らを憎みました」ということです。「神の共同体」は「この世の共同体ではない」から憎まれるのです。「憎まれる」のは、弟子たちが「神に属する者」でありながら、なお「この世に生きる」からです。「この世に関わっている」からです。この世に関わっていなければ、憎まれることはないのです。
 「憎しみ」は「関わり」のあるところに起こります。「関わり」という言葉で思うことは「愛」でしょう。「愛」は、正しい関係でなくなって歪みこじれると「憎しみ」となるのです。愛のないところに憎しみはありません。
 弟子たちが憎まれるのは、この世にありながら、神に属する者として「この世に属さない、この世の支配のうちにない、自由な者」だからです。「この世の価値観に縛られず、組しないで生きる」それが「神に属する、天上に属する」ということです。
 「この世」は神を神として崇めず、神ならぬものを崇めます。人により時代によって、この世が神とする価値観は変わります。「この世」はお金、名誉、美しさ、賢さなど、この世の認める様々な価値観を自らの中心に据えるのです。
 しかし、そのような「この世」にあって、弟子たち(キリスト者)は「神を神とする価値観に生きる」から憎まれるのです。ですから、この世に憎まれるとすれば、それは幸いなことです。この世の支配に生きるのではなく、神の支配に生きるからです。私どもを束縛するこの世の全ての価値観から解放されて、自由な者とされるからです。
 「この世の価値観に生きる」ことは、「人のいびつさ」を表すことです。いびつな姿は、本来の人間の姿ではありません。「人間本来の麗しい姿」とは、神に造られた者として「神を神とし、神を讃美しつつ生きること、神との交わりに生きること」です。私どもキリスト者は、主イエスの十字架と復活による救いという恵みを与えられ、神との交わりに生きる「神に属する者」とされました。それは、私どもが「人間本来の麗しい姿」とされているということです。まさしく、今ここに集い、礼拝する私どもの姿は、人間本来の麗しい姿なのです。

「麗しい姿とされている」にも拘らず、私どもは、神以外を神とするおぞましい生き方を恐れてしまう、弱い者です。そんな私どものために、主イエスは、15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と祈ってくださっております。天に属する者なのだから「早く地上を去らせ、天に召してください」と祈られるのではありません。「地上を生きなければならない、だから守ってください」と祈ってくださるのです。この世に価値観を置かずこの世を生きる者は必ず迫害されることを、主はご存知の上で祈ってくださるのです。私どもに必要なのは「神の守り」であって、この世に迎合することではありません。

なぜ主は「神の守り」を祈ってくださるのでしょうか。それは、この世において弟子たち(私ども)にはまだ「なすべき御用、使命が与えられている」からです。
 神は、この世が主イエスを憎み敵対しているからといって、この世を滅ぼすことを願ってはおられません。「この世とは関係ない」と言われない。「神を神とできない『この世』の救い」を願っておられる。であるがゆえに、弟子たちをこの世の救いのために用いようとしてくださっているのです。だからこそ弟子たちは、この世に留め置かれているのです。この世の救いのために「主イエスの十字架と復活を宣べ伝える」という御用を、弟子たち(私ども)は与えられているのです。この世に救いを語る者として、私どもはこの世に遣わされているのです。

ゆえに、主イエスは「神の守り」を祈ってくださっております。しかし、それはとりもなおさず、既に「守られている」ということです。既に「神の守り」のうちにあるのです。「主を宣べ伝える」ことにおいて、私どもは、既に「神の守りのうちにある」のだということを覚えたいと思います。
 今、私どもは主を礼拝しております。「礼拝」は「主イエスを証しする、宣べ伝える」こと、ここでこそ、私どもは既に「神の守りのうちにある」ということです。私どもは「主を宣べ伝える者」として、「地上の救いの担い手」として、この世に存在しているのです。神の言葉をいただく者として、主イエスを宣べ伝える者として、この世を生きるということです。「与える」を「伝える」と訳したことは、私どもが「主を宣べ伝える者である」ことを示すためであります。

改めて覚えたいと思います。私どもには、この地上において「キリストを証しする」という尊い使命が与えられております。存在の限り「この世の救いのために」主が私どもを必要としてくださって、主に用いられているのです。「死」のその瞬間まで「主の御用のために生かされている」ことを、そして主を伝える者として「神の守りのうちにある」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。

完全に一つになる」 4月第3主日礼拝 2010年4月18日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章16〜26節

17章<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。<20節>また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。< 21節>父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。<22節>あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。< 23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。< 25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。< 26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

16節「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」と主イエスは祈ってくださいます。主は、彼ら(弟子たち)は「神(主イエス)のもの」として「天に属する者」である、と言ってくださっているのです。
 主イエスの在す所(天)は神の在す所ですから、そこは「神の支配の場」です。ゆえに、神の支配の内にある弟子たちは、地上にありながら「天に属する者」として「神を現す者」なのです。
 それならば、一刻も早く「この世」を離れて天に移された方が良いのでは、と思うかも知れません。「この世」は滅び行く、有限(死によって終わる)な場です。しかし神は、滅び行く「この世」の救いのために主イエス・キリストを遣わしてくださいました。主イエスは神の御心に全く従い、進んで十字架につき復活し天に昇られ「この世の救い」を成し遂げてくださったのです。そして、聖霊によって弟子たちに「救いの御業」を託してくださいました。弟子たちは「この世の救いの実現のために」遣わされているのです。この世は滅び行く、ゆえに救われなければなりません。神はこの世の滅びを良しとせず、憐れんでくださっているのです。神は、主を信じ救われた弟子たちを用いて、なお、この世の救いを完成しようとしてくださっているのです。ですから、神の救いの御業を託されるとは光栄なことです。神は弟子たちが「宣べ伝える」ことを望んでおられるのです。
 私どももまた、主を信じる者として「主の弟子」なのであり、この地にあって、神より「救いの御業」を託されております。それが「教会」であり、教会に集う私どもに与えられている「使命」なのです。主を信じる者として、私どもは、この世にありながら天に属する者、この世に遣わされた者なのであり、天に属する者として神の存在をこの世に表し、神の栄光を表す「新しい人」と創り変えられているのだということを覚えたいと思います。

17節「真理によって、彼らを聖なる者としてください」と、主イエスは祈られます。「聖なる者とする」とは「神のものとする」ということです。この世にある者をこの世から分離して「神のもの(神の所有)とする」ということが「聖なる者とする」ということです。
 ですから「聖なる者とされる」ということは「所有者である神を表す者である」ということです。キリスト教会はキリスト者を「神の焼き印を押された者」と考えます。つまり、所有者である神の焼き印が押されているのです。それが「洗礼」ということです。洗礼を受けた者は「聖なる者として神を表す者」なのであり、それは聖なる者であることの恵みなのです。
 しかし、勘違いしてはなりません。伝統的にキリスト者は「清く、正しく、美しく」あるべきという考え方がありますが、それは違うのです。信仰とは、自らが清く正しく美しく生きる、ということではありません。「聖」であるということは、神の御業による聖であって、自らによる聖ではないのです。ただ「神の憐れみによって」罪赦され、清められ、麗しい者とされているのだということを忘れてはなりません。神が聖としてくださっている、だからこそ、私どもは信仰者で有り得るのです。
 あるいは「信仰しているのに何も良いことがない」と思うかもしれません。しかし、私どもの現実が、いかに惨めで悲惨であったとしても、神の恵みのうちにあって満たされているならば、そのような惨めさに支配されることはないのです。いかに「惨め」と他者に思われたとしても、終わりの日の救いの完成を目指して活き活きと生きるならば、それは誰にもまして神を証しし、神を表す者として生きているということです。惨めと思うから惨めなのです。その人の心が何に捕らえられているかが問題なのです。神の恵みに捕らえられているならば、活き活きと生きるのです。しかしそれは心の持ち方を言っているのではありません。そうではなく、私どもは「捕われなく生きる恵みを神より頂いている」のだということを知らなければなりません。神の恵みのうちにあり、満たされて、捕われなく生きるとき、私どもは人の思いを超えた出来事を見、神を見出し、そこでこそ神を証しする証し人となるのです。それがこの世の束縛から解き放たれた自由な生き方、聖なる者の生き方です。

ところで「真理によって、聖なる者となる」とは、どういうことでしょうか。ここでいう「真理」とは何か。「主イエス・キリストを信じることによって聖なる者となる」のですから、「真理」とは「主イエス・キリスト」を表しているのです。
 本来、学問とは真理の探求です。「真理」は一つであるはずですが、諸科学を相対化すれば一つに絞ることは難しいでしょう。かつて19世紀までは「神学」は諸学の長であり、「神」こそが「最上の真理」、神の御子イエス・キリストの探求こそが真理の探求でありました。つまり知っておきたいことは「神学とは真理の探求である」ということです。そして、その「神学」の中心は「信仰」でなければなりません。であれば「信仰」とは「真理への道、真理に至る道」なのです。信仰とは、やみくもに何かを信じるということではなく「真理である主イエス・キリストに至る」ということです。そうであれば「信仰は真理の探求そのものである」ということを改めて覚えたいと思います。主イエス・キリストを信じる者は、罪赦され、聖なる者とされ、救いに至る。「主イエス・キリストが救い主なる方であると知る」それが「真理」なのです。信仰とは、主イエス・キリストが救い主であると知ることです。ここに言う真理とは「救いの真理」なのです。そして、この「救いという真理に至る」には「主イエス・キリストに至る」以外はありません。そして、それは「信仰」によってしか至れないのです。主イエス・キリストを信じる以外に、救いの真理の探求は出来ないのだということを覚えたいと思います。

ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まります。「言(ことば)」は、主イエス・キリストを表すのです。なぜか。神は「言」によって天地創造をなされました。神の言葉によって行動が起こり、出来事となり、事が成就するのです。行為を伴う力、それが神の言葉です。神の言葉によって神の出来事が起こり、神の言葉は必ず成就することを前提として「預言」となるのです。神の出来事は、救いの出来事です。「神の言葉」は「主イエスの十字架と復活による救いの出来事の成就」として「主イエス・キリスト」そのものとなり、「キリストこそ神の言葉である」という教会の信仰告白となったのです。ですから、私どもキリスト者は幸いです。主イエス・キリストを信じる者は、この世にありつつ、他のどこにもない、この「救いの真理」に至っているのです。
 そして、私どもは、この世にあって「救いの真理を宣べ伝える使者」としてこの世に遣わされているのであり、宣べ伝えることによって神に仕え、この世に仕えているのです。この世にあって、既に「天に属する恵み」が与えられている者として「主イエス・キリストこそ救い主」と告白し、宣べ伝える信仰に生きる者でありたいと思います。

私どもは、この礼拝において、主イエス・キリストを表しております。私どもは、この地上においてどのような状況であったとしても、礼拝の場で共に祈り、宣べ伝えることが出来るのです。礼拝し祈る、それは一つの行為なのであり、それはまさしく私どもの「信仰の告白である」ということを覚えたいと思います。

神が愛してくださる」 4月第4主日礼拝 2010年4月25日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章19〜26節

17章<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。<20節>また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。< 21節>父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。<22節>あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。< 23節>わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。<24節>父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。< 25節>正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。< 26節>わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

19節「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」と、主イエスは祈られます。主は弟子たち(彼ら)のために、ご自身を「ささげる」と言われるのです。
 この後、主イエスは弟子であるユダの裏切りにより大祭司に引き渡され、ポンテオ・ピラトによって十字架につけられ死なれます。しかし主イエスは、裏切りやこの世の権力によって十字架につけられたのではなく、主は自ら進んで十字架についてくださいました。この先の十字架の場面を読みますと、主イエスを十字架につけるに際して、罪無き主イエスに罪を見出そうとして、民や権力者たちが騒ぎ立てているのが分ります。十字架につく方がじたばたするのではなく、主を十字架につける者たちが動揺し騒ぎ立てるのです。このことは、主イエスがこの世の権力に勝る「力ある方」であることを示しております。主イエスは義なる方して何の揺らぎもないのです。この世の権力者たちは、真実に力ある主イエスを前にして、おののき怯えているにすぎません。
 そのように権威ある方、主イエスが、弟子たちのために「ご自身をささげる」と言われるのです。弟子たちはまだ、これから起こることを知りません。主が語ってくださっていることも理解できないのです。にも拘らず、理解出来ない者のために命をささげると言ってくださる、それは大いなる恵みの出来事です。自分を理解しない者のために命までくださるなど、主イエスの他には成し得ないことです。主イエスの十字架の出来事は、地上の一切の事柄、思いを超えた出来事です。地上の一切を超えている、だからこそ、私どもは救われるのです。地上の常識や人の思いによっては、私どもが救われることはありません。地上を超えた出来事「主イエスの十字架」こそが「私どもの救い」であることを覚えたいと思います。
 ヨハネによる福音書は「友のために命を捨てること、それ以上の愛はない」と語ります。主イエスは弟子たちを「友」としてくださいました。弟子たちは、主に相応しい友とはとても言えないのです。しかし主は弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と言われます。主の命までもって愛され、救われた者として「互いに愛し合うように」と言われる。それが「十字架の主イエス」が弟子たちに示してくださっていることです。

「自分自身をささげること」、それはこの世のいかなる者にも成し得ないこと、まさしく神のみ業、メシア(救い主)以外に成し得ないことです。
 「ささげる」とは「聖別する」と訳することができます。ですから「主がご自身をささげる」とは「主が『聖なる者』としてご自身を示される」ということです。即ち、主イエスがご自身を「聖=神、メシア(救い主)」として現されるということです。主イエスはご自身が「メシア」であることを、自らが十字架につき「ご自身をささげる」ことによって現されるのです。自分を正しい者とし、他者を裁くことによって自らを「聖」とする、ということではないのです。このことは大変意義深いことです。人は、他者を裁いて自らを正しい者としようとします。しかし主イエスは、そのような「罪深い者の救い」のために「ご自身をささげて」くださることによって、ご自身が「聖」であることを現してくださるのです。ですから、ここで主が「自分自身をささげる」と祈られたことは、ご自身が「聖である」ことを祈られたということです。

では、それは何のためになされた祈りでしょうか。「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と続きます。「真理」とは「十字架の救い主、主イエス・キリスト」です。「十字架の主イエスによって」弟子たちも「ささげられる」即ち「聖なる者とされる」ということです。十字架の主イエスによって罪贖われ、主に贖い取られて「主のもの、神のもの」とされ、聖なる者とされる。つまり弟子たちは「神へのささげものとなる」ということです。「神へのささげもの」であるが故に「聖なる者」なのです。弟子たち(私ども)が「救われている」ということは、神にささげられた者として「聖なる者とされた」のだということを忘れてはなりません。
 私どもは、自らを何にささげているでしょうか。「神へのささげもの」となりきっているでしょうか。神が私どもをご自分のもの(所有)としてくださったということは、私どもの側から言えば、私どもが「神にささげられた、ささげものになった」のだということを、改めて思わなければなりません。私どもは「ささげる」ときに思うのです。このささげものは神に相応しいものかどうか、と。旧約聖書によれば、神に相応しいささげものは「しみも、きずもない」ものです。では、私どもは、神へのささげものとして相応しいものでしょうか。決して相応しいとは言えないのです。
 私どもが神へのささげものとして思うべきことは何でしょうか。主イエスが十字架の死をもってまでして「私どもを神へのささげものとしていてくださる」このことが恵み深いことなのです。このような者が神へのささげものとされていることを「恵み」と言えること、それが罪の赦しを頂いた者が思うべきことです。ですから、自らが神に相応しくないことを理由にして神に背を向けることは、傲慢なことです。私どもは神に相応しくないに決まっているのです。にも拘らず、主自らが私どもを「聖なる者」としてくださっているのだということを覚える者でありたいと思います。
 今、私どもは「礼拝」の場におります。今ここで、私どもは「神へのささげもの」となっているのです。「礼拝する=神を崇める」ことは、まさしく「自分自身をささげる」という恵みの出来事であることを覚えたいと思います。神を礼拝しないことは、神にささげることをしないということであり、それは自らを神より上に立てる傲慢なのです。キリスト者の生き方は「ささげられた者として生きる」ということであり、それが「聖なる者の生き方」です。
 そしてそれは、「悔い改めをもって生きる」ということです。主はメシアとして十字架に命をささげ、私どもの贖いとなってくださいました。その贖いによって「神のものとされる恵みに与っている」のです。恵みを頂いているからこそ、自らの罪を知り、悔い改めざるを得ないのです。「神の恵み故に悔い改めることができる」ことを感謝して、神を崇める他はないのです。神のものとして神を表す、それがキリスト者の人生なのです。
 神にささげられた者としての生き方は「悔い改めと感謝」です。それは言葉を変えるならば、神のご恩寵に応えて「神に仕える」ということです。「神に仕える」、しかしそれは何か特別な方法ではありません。神に仕えるということは「ああ、十字架の主イエス・キリストによって罪赦された。わたしの罪は贖われた」と、深い悔い改めと感謝をもって「神の恵みに応える」ということです。各々に、懺悔と感謝をもって神を表す、神の恵みを深く思い、それに応えて生きること、それが「仕える」ということです。ですから、自らが神に相応しいかどうかを問うことは傲慢なことです。誰一人として、神の御業に応える完全な者などいないのです。「恵みを恵みとして感じ、受け取る」ことによって、懺悔と感謝を表すことができるのです。
 私どもは神に相応しい者では有り得ません。しかし、相応しくない者だからこそ「いかに神は恵み深い方であるか」を知ることができるのです。神の恵みを知る者として、日常を「神を表す者として生きる」のです。神の恵みが私どもの日常に満ちあふれている。そこに「祈り」があり「み言葉」があり、「礼拝」があるのです。それが「神にささげられた者として生きる」ということであり、日常の中に神の恵みが沁み入るという生き方なのです。主の十字架と復活の恵みに満たされているからこそ、祈り、み言葉を求め、礼拝せざるを得ないのです。それがキリスト者の日常なのです。特別なことを言っているのではありません。日常生活の中で「神に心を向けている」ことこそが、神を表すことです。普段着で神を表せばよいのです。私どもの日常がそうであれば、家族が、友が、そこに神を垣間みるということが起こるのです。

20節「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」。弟子たちだけではなく「弟子たちが語ったことを信じた者たちのために」と、主は祈ってくださっております。
 弟子たちが聖霊を受けて「教会」ができました。そこでなされたことは「主イエス・キリストを証しする」ことでした。弟子たちの言葉とは、教会の宣教の言葉であります。教会の宣教によって、私どもはキリスト者とされました。ですから、私どもこそが「弟子たちの言葉によって主イエスを信じた者」です。そのようにして「信じた私ども」のために、主イエスは祈ってくださっているのです。
 改めて、私どもは今「主イエス・キリストの祈りのうちにある」のだということを覚えたいと思います。主に祈られている、覚えられているとは、何という恵み深いことでしょう。「主の祈りのうちにある」ということは「神の御前に覚えられている」ということです。
 過去も未来も、人々にはいつか忘れ去られるのです。しかし復活の主イエス・キリストによって、私どもは「永遠の命の約束」を与えられております。主イエス・キリストが「永遠の出来事」として私どもを覚えていてくださるのです。「主に祈られている」とは、そういう恵みの出来事なのです。

今、私どもは、主に祈られた者として、永遠なる神の御前に覚えられていることを、感謝をもって覚えるものでありたいと思います。