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主イエス・キリストの十字架の日、受難日を迎えました。 主イエスがつけられたのは、十字架の横木です。主イエスは、手足を釘付けにされ、服を剥がされ、陽と風にさらされ、苦痛を味わわれました。「十字架」は人々への見せしめの刑。何という苦しみでしょう。想像を絶するのです。 主の十字架上の痛み・苦しみ、それは本来、私どもが味わうべきものであって、我が手を貫くはずの釘が主イエスの手を貫いているのだということを覚えたいと思います。それゆえに、私どもはただただ申し訳なく、主の十字架の前に絶句するのみなのです。 主イエスの左右に、罪人が2人、主と同じように十字架につけられております。主イエスはまさに「罪人のただ中に立っておられる方」であることを象徴しております。私どもは自分の罪すら自覚できないような者、罪人の端くれですが、そんな私ども罪人の真ん中に、主イエスご自身が、今、立っていてくださるのだということを覚えたいと思います。 そして、罪人のただ中に立ち、主は言ってくださるのです。34節「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。 私どもは、時に「敵する者のためにも祈れ」と示され、祈ります。たとえ本心では許せなくても祈ってしまう、そんな弱さを持つのです。しかし、主イエスの言葉は違います。主イエスの言葉には、既に「赦し」があるのです。「十字架にかかられたメシア(救い主)」としての「赦し=贖い」を既になしておられるのです。 十字架の主イエス・キリストこそ、私どもの救い主、贖い主です。 39節、更に、犯罪人の一人が主をののしります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。この言葉は、この犯罪人がどういう罪を犯した者かを暗示しております。「お前はメシアではないか」と、メシアを認めている、つまりユダヤ人なのです。「自分自身と我々を救え」、彼はメシアを救世主だと考え、ユダヤをローマ支配から解放する政治的王としてのメシアを待望する「熱心党」であったと考えられるのです。彼の罪状は「国家騒乱罪」、それゆえ死に価するのです。 40節、もう一人の犯罪人がたしなめます。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに」と。彼は、十字架上で自分の罪を見、神を見ているのです。十字架の死を、自らの「罪の報いとしての死」と思っているのです。 43節、主にすがるこの人に、主は宣言してくださいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。この罪人は、主イエスをメシアと信じることによって義とされた、初めての人となりました。 今、覚えたいのです。私どもも、必ず死すべき者として「十字架の主イエス・キリストにすがるよりない」のです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願う以外にないのです。 しかし、何と幸いなことでしょう。私どもが主にすがるとき、私どもは既に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との御言葉を受け、救いの宣言をいただいているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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1節の「墓」とは、主イエスを葬った墓です。23章の終わりには「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、…」と、主が十字架にかかられた金曜日に婦人たちが「主イエスの葬り」を確かめ、土曜日には安息日規定に従って休み、「週の初めの日」を迎えたことが記されております。 「週の初めの日」とは、日曜日です。キリスト者にとって日曜日は「十字架と復活の主イエス・キリストを覚えて礼拝する日」であることを、今朝はまず覚えたいと思うのです。 婦人たちは、葬られた主イエスのために用意した香料を持って墓に行きますが、既に「復活した主イエス」には用いる必要はありませんでした。 3節「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった」。主イエスは復活なさった、ですから墓の中に主イエスを見出すことはできなかったのです。 4節「そのため途方に暮れていると、…」。途方に暮れている婦人たちのことを思ってみたいと思います。ガリラヤから主イエスと共に来た婦人たちの姿に、主イエスに対する厚い思いが分ります。男の弟子たちは十字架の主イエスを見捨てて逃げ去りますが、婦人たちは十字架の主イエスを見つめ、主の墓を、葬りを確かめる。香料を用意して日曜日の朝を迎えた婦人たちの思いは、主イエスへの哀悼の心、死した主イエスに対しても愛を尽くしたいという思いなのです。ところが、墓には愛を尽くすべき主の遺体が見当たらない、だから途方に暮れる、思いが届かない、行き詰まるのです。しかしここで覚えたいと思います。「行き詰まる」ということが大事なのです。婦人たちの思いの先にあるのは「死した主イエス」ですが、主イエスは、彼女たちの思いの先におられるわけではないのです。どんなに愛を尽くそうとも、自分の思いでは行き詰まり、そこに主を見出すことは出来ません。しかし、その行き詰まりの先で「神に聴く者となる」ことによって、婦人たちは主を見出すことが出来るのです。「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」、輝く衣を来た人とは「天使、神が遣わした御使い」、即ち「神」が臨んでくださることによって、婦人たちは主を見出すのです。 そして7節「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と、主の復活の告知を確信させるために、天使たちは婦人たちに「主の言葉を思い起こせ」と言ってくださいます。「主の言葉を思い起こせ」それが神から示されることです。「御言葉の想起」それが「信仰」なのです。「御言葉を思い起こす」ことによって、知り、確信へと至るのです。何故でしょうか。ここで婦人たちに示されていることは「主が言われたことは本当だった」ということです。主の御言葉は真実だったと知ったのです。主の御言葉は真実だと確信する、だから信じることができるようになるのです。このことは、私どもにとっても大事なことです。人の救いは神の真実にかかっているのです。神が真実であってくださるからこそ人の救いがあるのであり、その救いは確かなのです。 9節〜「そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった」。婦人たちは、確信したことを人々に伝えます。ここには伝えた婦人たちの名が記されております。それは、その婦人たちが、教会(キリストを証しする群れ)の中心となったことを示しております。 11節「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」、使徒たち(男の弟子たち)は信じられませんでした。弟子たちは、主イエスの十字架の死によって自分の思いに破れ、無気力になっていたのです。そこが、主への厚い思いの中にあった婦人たちと違うのです。無気力な者は、真実を見ても反応できません。12節、それでもペトロは墓へ行きます。しかし、信じることはできないのです。どこかで諦めている、そんな中では信じることはできないのです。 けれども、後に弟子たちは「信じる者」となりました。それはどうしてでしょうか。復活の主イエスが彼らに臨んでくださったからです。無気力な者、諦めている者、そのような者に主が臨んでくださる、だから「信じられない者」から「信じる者」へと変えられるのです。 主イエス・キリストは、今も生きて、ここに働いてくださっております。婦人たちと共に私どもも、主の復活が告げられる御言葉に聴き、御言葉に触れているのです。私どもにも、神の力、聖霊が働き、信じる者とされ、永遠の命に与る者とされていることを覚え、この大いなる救いの恵みに感謝したいと思います。 |
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主イエスが父なる神に祈ってくださっております。 14節「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました」。 また更に、主イエスの言葉をいただいている者は、神の御子である主イエス・キリストの御名をいただくことによって、神を「父よ」と呼ぶことが許されております。主イエスを信じ従う者として、父なる神と一つなる「神の家族」とされているのです。それは「神」を「父」とすることの恵みです。 「神を父とする共同体」とは、礼拝する神の民、すなわち「礼拝共同体」です。神の家族として共に祈り、礼拝する「天に属する共同体」を、この地上において生きることが許されているのです。 ですから、主イエスが「御言葉を伝えた」と言ってくださることは恵み深いことです。それは「神の言葉を父の言葉としていただき、神の家族とされている」ことの幸いなのです。それが、「伝えた」と訳されていますが「与えた」という意味を持つことの内容です。 そして続けて、「神に属する者」として弟子たちに言われていることは、「世は彼らを憎みました」ということです。「神の共同体」は「この世の共同体ではない」から憎まれるのです。「憎まれる」のは、弟子たちが「神に属する者」でありながら、なお「この世に生きる」からです。「この世に関わっている」からです。この世に関わっていなければ、憎まれることはないのです。 「麗しい姿とされている」にも拘らず、私どもは、神以外を神とするおぞましい生き方を恐れてしまう、弱い者です。そんな私どものために、主イエスは、15節「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」と祈ってくださっております。天に属する者なのだから「早く地上を去らせ、天に召してください」と祈られるのではありません。「地上を生きなければならない、だから守ってください」と祈ってくださるのです。この世に価値観を置かずこの世を生きる者は必ず迫害されることを、主はご存知の上で祈ってくださるのです。私どもに必要なのは「神の守り」であって、この世に迎合することではありません。 なぜ主は「神の守り」を祈ってくださるのでしょうか。それは、この世において弟子たち(私ども)にはまだ「なすべき御用、使命が与えられている」からです。 ゆえに、主イエスは「神の守り」を祈ってくださっております。しかし、それはとりもなおさず、既に「守られている」ということです。既に「神の守り」のうちにあるのです。「主を宣べ伝える」ことにおいて、私どもは、既に「神の守りのうちにある」のだということを覚えたいと思います。 改めて覚えたいと思います。私どもには、この地上において「キリストを証しする」という尊い使命が与えられております。存在の限り「この世の救いのために」主が私どもを必要としてくださって、主に用いられているのです。「死」のその瞬間まで「主の御用のために生かされている」ことを、そして主を伝える者として「神の守りのうちにある」ことを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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16節「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです」と主イエスは祈ってくださいます。主は、彼ら(弟子たち)は「神(主イエス)のもの」として「天に属する者」である、と言ってくださっているのです。 17節「真理によって、彼らを聖なる者としてください」と、主イエスは祈られます。「聖なる者とする」とは「神のものとする」ということです。この世にある者をこの世から分離して「神のもの(神の所有)とする」ということが「聖なる者とする」ということです。 ところで「真理によって、聖なる者となる」とは、どういうことでしょうか。ここでいう「真理」とは何か。「主イエス・キリストを信じることによって聖なる者となる」のですから、「真理」とは「主イエス・キリスト」を表しているのです。 ヨハネによる福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と始まります。「言(ことば)」は、主イエス・キリストを表すのです。なぜか。神は「言」によって天地創造をなされました。神の言葉によって行動が起こり、出来事となり、事が成就するのです。行為を伴う力、それが神の言葉です。神の言葉によって神の出来事が起こり、神の言葉は必ず成就することを前提として「預言」となるのです。神の出来事は、救いの出来事です。「神の言葉」は「主イエスの十字架と復活による救いの出来事の成就」として「主イエス・キリスト」そのものとなり、「キリストこそ神の言葉である」という教会の信仰告白となったのです。ですから、私どもキリスト者は幸いです。主イエス・キリストを信じる者は、この世にありつつ、他のどこにもない、この「救いの真理」に至っているのです。 私どもは、この礼拝において、主イエス・キリストを表しております。私どもは、この地上においてどのような状況であったとしても、礼拝の場で共に祈り、宣べ伝えることが出来るのです。礼拝し祈る、それは一つの行為なのであり、それはまさしく私どもの「信仰の告白である」ということを覚えたいと思います。 |
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19節「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」と、主イエスは祈られます。主は弟子たち(彼ら)のために、ご自身を「ささげる」と言われるのです。 「自分自身をささげること」、それはこの世のいかなる者にも成し得ないこと、まさしく神のみ業、メシア(救い主)以外に成し得ないことです。 では、それは何のためになされた祈りでしょうか。「彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と続きます。「真理」とは「十字架の救い主、主イエス・キリスト」です。「十字架の主イエスによって」弟子たちも「ささげられる」即ち「聖なる者とされる」ということです。十字架の主イエスによって罪贖われ、主に贖い取られて「主のもの、神のもの」とされ、聖なる者とされる。つまり弟子たちは「神へのささげものとなる」ということです。「神へのささげもの」であるが故に「聖なる者」なのです。弟子たち(私ども)が「救われている」ということは、神にささげられた者として「聖なる者とされた」のだということを忘れてはなりません。 20節「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」。弟子たちだけではなく「弟子たちが語ったことを信じた者たちのために」と、主は祈ってくださっております。 今、私どもは、主に祈られた者として、永遠なる神の御前に覚えられていることを、感謝をもって覚えるものでありたいと思います。 |
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