聖書のみことば/2010.3
2010年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
彼らも聖なるもの」 3月第1主日礼拝 2010年3月7日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章12〜19節
17章<11節>わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。<12節>わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。<13節>しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

11節「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」と、主イエスはご自分が父なる神の許に行かれ、弟子たちはこの世に残る、と祈られました。主イエスが父なる神の許に行かれる(天に帰る)のは「これから」ですが、ここで主は既に天に帰られた者として「もはや世にはいません」と言われます。それは主イエスがご自分の使命を果たされたことを示しております。主イエスが使命を果たされた、それは「救いは成った」ということです。主イエスは「もはや世にはいません」と言ってくださることで、「神の救い」がこの世に成っていることを示してくださっているのです。主イエスは「もはや世にいない、もはや天に帰られた」、そして「もはや救いは成った」のです。主イエスの十字架は、主イエスがこの世の救いを成し遂げてくださった出来事です。
 しかし、この世の全ての者が救いに至ったわけではありません。救い主イエス・キリストを全ての者が信じるに至っていない、主の救いに気付かない、主の救いを頂こうとしないのです。主イエスの十字架はこの世の全ての者を救う出来事ですが、「主イエスを救い主と信じる」ことがあって初めて救いに至るのです。この世の一人ひとりの救いは既に成っているにも拘らず、信じなければ「私の救い」とはならないのです。

主イエスは「弟子たちは世に残る」と祈られました。
 「この世」は主イエスを救い主と信じません。「弟子たち」も主が救い主であることを理解しているわけではないのですが、しかし「弟子である」がゆえに、主は弟子たちを「信じる者」としてくださっているのです。ですからここで一つの方向性が示されます。それは、主イエスを信じられず十字架の死へと追いやった「この世」は、主の弟子たちを「認めようとせず、拒絶し、迫害する」ということが、これから起こるということです。そのことを主イエスはご存知です。ゆえに、主イエスは弟子たちのために祈らざるを得なかったのです。それがこの「主イエスの執り成しの祈り」なのです。
 主イエスは「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈ってくださいます。「父として」神が弟子たちを守ってくださるように、と祈ってくださるのです。ここで思い起こすことは、3度主イエスを否むペトロのために主イエスが「信仰が無くならないように」と祈ってくださった場面です(ルカによる福音書22章31〜34節)。主はペトロが主を拒まないうちから執り成しの祈りをしてくださいました。「拒まないように、つまずかないように」ではなく、拒もうとつまずこうと「信仰が無くならないように」と祈ってくださるのです。何と有り難いことでしょうか。私どもは、すぐにつまずく者です。しかし主イエスは、つまずく者をも「信仰ある者」としていてくださるのです。このような「主イエスの執り成しの祈り」が、後に弟子たちを信仰へと立ち上がらせる力となるのです。
 私どもの信仰が無くなっても、なお「信仰があるように」と、主イエスは祈ってくださり、守ってくださる。この主の守りの内にあってこそ、私どもは信仰に立ち帰る力を得るのです。
 そして、この「主イエスの執り成しの祈り」は「深い慈しみ」「愛」あってのことです。「深く愛する」ということは「祈る」ということです。祈ることが愛なのです。主が祈ってくださる、それは弟子たちに主が深く愛を示してくださることです。このことは私どもにとっても大事なことです。私どももまた、主イエスの深い思いを頂いていることを忘れてはならないのです。私どもを思ってくださるがゆえに、主イエスは十字架にかかり、尊い血潮を流し、救いを成し遂げてくださったのです。弟子たちのために祈り、弟子たちのために十字架にかかられた主イエスが、私どものためにも祈ってくださっているのです。
 主イエスは「主の思いの中で」私どもを受け止めていてくださいます。私どもは、主イエスの祈りのうちに覚えられていることを忘れてはなりません。「主イエスの祈りのうちにある」ということは「主イエスの思いのうちにある」ということです。私どもは自分の思いのうちに存在するのではありません。私どもは自分自身を受け止め切れず、分らなくなることがあるのです。しかし、私どもがどのような者であったとしても、私どもは「主イエスの思いのうちにある」のだということを忘れてはなりません。誰かの思いのうちにある、それが「慈しみの思いのうち」であることは幸いなことです。それは人で言うならば「母の思い」でしょう。子がどのようであっても、いつになっても、母は母として子を慈しむのです。救い主イエス・キリストは「いつまでも」、主の思いのうちに私どもを置いていてくださるのです。このことが、この主の執り成しの祈りによって示されていることです。
 今、この社会では、人は孤独に生きなければならなくなりました。誰にも覚えられずに生きることは侘しく辛いことです。けれども、たった一人で生きていたとしても、主イエスが共にいてくださるがゆえに、決して孤独ではないのです。
 私どもの存在はどこにあるのでしょうか。自分にも破れてしまう私どもです。ただ「主イエス・キリストの思いの中にだけある」ことを覚えたいと思います。

そしてまた「祈りのうちに覚えられる」ということは、私どもを一番「深く知っていてくださる」という恵みです。「祈りにおいて知る」という認識は、深く他者を知ることです。ですから「祈り」のあるところに「交わり」があるのです。祈りを失ったならば、人はつながりを失ってしまいます。祈れることは、相手と深く交わることなのです。ですから、相手を覚えなくなれば祈れなくなるのです。「祈り」とは「交わり」であることを覚えたいと思います。そして私どもは主イエスに祈られている、即ち深く知られていることを覚えたいと思います。

主イエスは弟子たちのために祈るに際して、改めて、父なる神を「聖なる父よ」と呼びかけておられます。「聖なる父よ」という呼びかけは、どこか新鮮です。普段私どもは「聖なる父よ」とは、あまり呼ばないでしょう。いえ男女差別として「父」とさえ呼ばないという風潮もあるのです。しかし覚えておかなければなりません。「聖なる父」と呼ぶとき、それは「神に向かっている呼びかけ」なのです。「恵みの神」などという呼び方は、人の思いに心を向けた呼びかけです。「聖なる父」という呼びかけは、神へと向かう呼びかけとして、改めてその新鮮さを思わされるのです。祈りとは、人に配慮して祈るのではありません。主イエスから頂いた呼びかけをもって、神に向かって祈るべきなのです。
 「聖」とは何か。神は「聖」であり、人は「俗」です。人に聖はありません。「神のものとして分けること」「神を神とする」それが「聖」です。「聖なる方」それは「天地万物の創造者」「罪無き方」「永遠なる方」です。人は被造物、罪在る者、死すべき者です。ですから「聖」と言うとき、その属性は「神の属性」であり「造り主、救い主、永遠なる方」として現されるのです。

その「聖なる方」を主イエスは「父よ」と呼ばれます。「父よ」とは親密な交わりを表す呼び方です。「父よ」とは、本来父なる神と子なる神との関係において、主イエスのみ呼び得る呼び方であって、父なる神と一つなる方として主イエスも聖なる方なのであり、聖なる方として主イエスは神を「父よ」と呼ばれるのです。

主イエスは「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈られます。「わたしに与えてくださった御名」とは「父」ということです。ですから、弟子たちが守られる根拠は「神が父であってくださる」ことです。神が「父なる神である」からこそ、神が弟子たちを守ってくださるのです。可哀想だからと憐れんで守ってくださるということではないのです。
 「父よ」とは、主イエスが弟子たちに与えてくだっさった「御名」です。主イエスは「天にまします我らの父よ」と祈れと「主の祈り」を教えてくださいました。主イエスによって「神」を「父よ」と呼ぶことを許され、父なる神と子なる神(主イエス・キリスト)との一つなる交わりの中に、弟子たち(私ども)も入れられているのです。

このように、私どもが恵みの御名をいただいていることで明らかになることがあります。それは「既に神との交わりのうちにある」ということです。繰り返しますが、可哀想だから守ってくださるというのではないのです。主イエスによって「父なる神との交わりのうちにある者」だから、交わりにある者として守ってください、と主イエスは祈ってくださるのです。

主イエスによって祈られ、神との交わりのうちに入れられ、父なる神に覚えられ、父なる神の守りのうちにある。私どもは父なる神に守られているのだということを覚えたいと思います。主イエスを救い主と信じ、父なる神との交わりを回復された者として「神の守りのうちにある」のです。
 ですから、私どもが神を「父よ」と呼ぶことは、とても大切なことです。神との交わりのうちにある者として神が守っていてくださることが、この言葉には示されているからです。主イエスが執り成して祈ってくださったゆえに、神の守りのうちにあるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

御言葉は真理」 3月第2主日礼拝 2010年3月14日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章11〜19節
17章<11節>わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。<12節>わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。<13節>しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

12節「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」。主イエスは弟子たちと一緒にいる間「弟子たちを守った」と言ってくださっております。ここで私どもは、主イエスは信じる者たちを「守ってくださる方」であることを知るのです。
 しかし注意して聴かなければならないことがあります。主イエスは「わたしが守った」とは言われないのです。「あなたが与えてくださった御名によって、守った」と言われる。神が主イエスに与えてくださった「御名」とは何でしょうか。それは「父」ということです。「神」が「父なる神」として守ってくださる、それが前提なのです。
 「父」とは本来、神の御子・主イエス・キリストにのみ与えられた神の「御名」ですが、主イエスが神を「父よ」と呼び、祈ることを教えてくださったゆえに、弟子たちもまた、神を「父よ」と呼ぶことが許されているのです。神は主イエスの父として、弟子たちをも神の子(被造物としての)としてくださいました。それは即ち弟子たちが「神の保護・守りの内にある」ことを示しております。弟子たち、即ち「主イエスを信じる者」は「神の守りの内にある」のです。ですから「神」を「父」と呼べることは幸いなことです。主イエスを信じる者は、神を「主イエスの父」として呼ぶことが許されている、それが「神」を「父」として示されていることの幸いです。

「保護者、守る手がいる」ということは嬉しいことです。現代は「守り」が無い時代ではないでしょうか。家族、地域などの共同体が失われ、守りとなる拠り所を失っているからです。昔うるさがられた「となり組」は、味噌・米などの貸し借りが出来た共同体でした。それは、生きる最低限の守りがあったということです。守る・保護するという共同体を失うことは「孤独」ということです。「孤独」の中に放置されてしまうのです。
 しかしその孤独の中で、「神」が「父」として「守り手」であってくださることは何と幸いなことでしょう。それは孤独な時代に対する大きなメッセージです。孤独の中では、人が自虐的になるのも無理からぬことでしょう。しかし、主を信じる者はどのような状況にあったとしても、この地上の生を「神の守りのうちに」生きることが出来るのです。それは、地上を超えた、死を超えた守りです。揺るぎない神の守りの内にあって「死」をも受容できる道が備えられているのです。私どもの一番の孤独=「死」のときにも、神の守りのうちにあるのだということを覚えたいと思います。「神」が「父」としてご自分を示してくださったゆえに、主イエスを信じる私どもも「神の守りの内にある」のだということを感謝したいと思います。

「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」と言われます。「滅びの子」とは「イスカリオテのユダ」のことです。私どもは「滅びの子」と聞くと「ユダは赦されなかったのか、赦されない罪があるのか」と思って不安になります。しかしユダが滅びかどうかを、私どもは詮索するべきではありません。私どもは「生死の全て」を神に委ねるべきなのです。
 しかしここで正しく聴くべきは「ユダ以外は滅びではない」と言われていることです。ユダだけが裏切ったでしょうか。ユダ以外の弟子も皆、十字架の主を見捨てて逃げ去りましたが、しかし彼らは「神の守りのうちにある」のです。ですから、基本は誰も滅びないということです。全ては神の守りの内にある、と主イエスは言っておられるのです。
 そして、ユダの裏切りについては「聖書が実現するため」と言われております。それは「滅びが実現した」と言っているのではありません。「滅びの子ユダを通して」主イエスの十字架・復活・昇天が実現し「神の救いの業が成し遂げられた」ことが示されているのです。根本にあることは、「滅びの子」を用いてなお神は「救いを成し遂げてくださった」という「救い」が中心なのであり、その救いに私どもも入れられているのです。それであれば、滅びの子ユダは、「救い」という働きの中で位置づけられているのであり、人の思いで詮索する必要などないのです。

13節「しかし、今、わたしはみもとに参ります」と主は言われます。十字架・復活が現実のものとなり、主イエスはこの世を去って天に帰られる。それは主イエスが神の御子として元々おられた場所に帰られるということです。そして主は「神の全権を担う者」として神の右に座し、裁きと救いをもって統べ治められるのです。それが「みもとに参ります」に示されている内容です。

続けて「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と言われます。主イエスが世を去って天に帰られることを語られるのは何故でしょうか。「主イエスの喜びが弟子たちに満ちあふれるため」だと言われる。普通に考えるならば、別れは悲しいはずです。しかしここでは「主との別れは、弟子たち(信じる者たち)にとっては大きな恵み・喜びになる」というのです。
 けれどもここは、大変理解しにくい言い方です。主イエスが天に帰られることによって「信じる者が救いの喜びに満ちあふれる」というのなら分るのです。主の十字架によって罪赦される、主の復活によって永遠の命の約束が与えられる、だから「救いの喜びに満ちあふれる」、それなら当然のことでしょう。
 しかし主イエスは「『わたしの喜び』が満ちあふれる」と言われております。信じる弟子たち(私ども)のために「主が喜んでくださる」というのです。主イエスは私どもの罪を贖うために十字架で苦しんでくださいました。「あなたがたのために苦しめることは嬉しい」と、一体誰が言い得るでしょうか。主はご自分の苦しみをも、私どものための喜びと言ってくださっているのです。
 自分の喜びに留まっていることなど何と小さいことでしょう。私どもの喜びなど束の間の、過ぎ去る出来事に過ぎません。しかし、神なる方が喜んでくださる、その喜びは不変なのです。
 主イエスを信じることによって、私どもは「主の喜びの内に見出されている」のです。ルカによる福音書において、主イエスは、100匹の羊の所有者が失われた一匹を探し求め、見出したときの喜びは天の喜びであると語り、たった一人の人の救いを神が喜んでくださることを教えてくださいました。それは、罪人が救いに与ることは主の喜び、天の喜び、神の喜びだということです。私どもの罪深さに愛想を尽かすのではなく、そのような私どもを、救い主が「信じる者」と言って喜んでくださっているのです。

さらにまた、主イエスは14章において、主が天に帰られるときには、私どもが天に住まいするための場所を用意しに行くと言ってくださいました。主イエスは私どもの救いを喜んでくださるだけではなく、私どもが主(神)と共に住むことをも喜んでくださるのです。それは、神との尽きることのない永遠の交わりということです。私どもは、主によって救われていることを喜ばれるだけではなく、「共にいる」ことをも喜んでいただいている。それは「私どもの存在を喜んでいてくださる」ということです。
 私どもも、交わりの中にあって互いに存在を喜び、共にあることを喜ぶべきなのです。そのような交わりに決して孤独は無いのです。

私どもは、自分のことすら喜べなくなることがあります。しかし、そんな私どもであっても、主イエスの喜び、神の喜びのうちに見出されているのです。自分のことを喜んでくれる方がいてくださる、これほどの喜びはないのです。私どもの存在を喜び、共にあることを喜んでいてくださる、それが主(神)であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

神との格闘−和解」 3月第3主日礼拝 2010年3月21日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第32章22〜33節
   エフェソの信徒への手紙 第2章14〜22節
創世記第32章<22節>こうして、贈り物を先に行かせ、ヤコブ自身は、その夜、野営地にとどまった。<23節>その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。<24節>皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、<25節>ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。<26節>ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。<27節>「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」<28節>「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、<29節>その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」<30節>「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。<31節>ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。<32節>ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。<33節>こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。

エフェソの信徒への手紙第2章<14節>実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、<15節>規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、<16節>十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。<17節>キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。<18節>それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。<19節>従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、<20節>使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、<21節>キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。<22節>キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

受難節の第5週を迎え、来週は棕櫚の主日、そして4月4日はイースターです。

今日の御言葉は創世記32章です。創世記の後半には、アブラハムからヨセフに至るまで、いわゆるイスラエル民族の族長の物語が記されております。
 その中で今日は、3代目族長である「ヤコブ」について、前回に続いて御言葉に聴きたいのですが、今日の箇所は前回の箇所から20年経った時の物語ですので、まず、ヤコブについて少し振り返ってみたいと思います。

ヤコブは双子の弟として生まれ、大変知恵の働く狡猾な人でした。「ヤコブ」とは「かかと」「押しのける者」という意味で、ヤコブは兄エサウを騙して長子の権利を奪い、父イサクを騙して祝福を得ますが、そのために家にいられなくなり、旅に出るのです。そして、その旅の最初の夜に、天に届く梯子の夢を見て、そこで神の声を聞き「神の約束の言葉」を頂き、その後、伯父の家で20年間を過ごすのです。20年と言えば、いろいろな事が起こるでしょう。20年の間にヤコブは結婚し、財産を貯え、そこで考えたことは「兄エサウとの和解」でした。兄との和解のために故郷へ向かう、それが今日の箇所です。

ヤコブは大変賢い一方、臆病な人で、兄と和解したいが、許されず兄に殺されるのではないかと恐れて、土産をたくさん用意して旅立ち、「ヤボクの渡し」に至るのです。彼はまず家族を渡らせ、一人残ります。先頭に立ってではなく、しんがりとして兄に会おうとする、そんな臆病で慎重な気持ちの中で夜を迎え、そこでまた一つの出会いがあるのです。名の無い「何者」か。恐らくそれは「神」ですが、ヤコブは一晩中、その何者かと死にもの狂いで格闘し、それ故に何者かは勝ち目がないと言ってヤコブの腿の関節を打ってはずし、闘いを終わらせます。勝ったのか負けたのか、あまりはっきりしませんが、そこでヤコブがしたことは、その何者かに「祝福してくださるまでは離しません」(27節)と迫ることでした。
 27節〜30節を読みますと、勝負はヤコブの勝ちと記されております。ヤコブは20年前に見た夢が本当なのかどうか、「あなたを身捨てない。守り祝福する」という「神の約束の言葉」が真実かどうかを、この格闘の中で確かめたかったのかもしれません。この格闘の最中に、ヤコブが「祝福の神」を思っていたことは確かなのです。
 そして結果、ヤコブは「新しい名」を頂き「新しい人」となるのです。新しい名は「イスラエル」、それは「神が支配される」という意味です。「神が主体となる」、そういう名を頂くまで、ヤコブは神と死にもの狂いで格闘したのです。

聖書において、神から名を頂いたのはヤコブだけではありません。アブラハムもエリヤもヨブも、神とやり取りするのです。また、聖書の登場人物だけではありません。マルチン・ルターもそうでした。彼は死の恐怖と闘った人でした。法律家になる勉強をしていましたが、雷に撃たれそうになった時、神に祈り、修道士になるのです。後には、14歳の娘を失います。何か理解できない事が起こると、私どもは「何故?」と、神に問うでしょう。ルターはそういう神との格闘の中で、主の祈りを祈りつつ階段を膝でのぼり、「信仰義認=信仰によってのみ、値なく赦され、神の救いを得る」という真理を与えられました。
 私どももまた、神との格闘を経験する者です。ヤコブが神との格闘によって新しい名を頂いて新しい人となることが赦されたように、私どもの闘いも、そういう闘いなのだということを覚えたいと思います。

また、特に今日ここで学びたいことは、32節です。ヤコブは神との格闘の結果、腿の関節をはずされて「足を引きずる」者となるのです。この御言葉に、はっとさせられます。兄に自分の力と財を見せるために意気揚々と土産を携えて出かけたヤコブは、「足を引きずる者」として、弱く惨めな姿で兄に会うことになるのです。

使徒パウロも肉体に刺を与えられた人でした。パウロはその刺を取り去ってくださいと、3度も神に願い祈ったと記されております。しかし神は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)とパウロに示されます。

このところで私どもは、「主イエスの十字架」に思いを馳せることが出来ると思います。私どもは自分の弱さ、不安、罪を抱える者です。そのような私どもの弱さや不安、罪を、主イエス・キリストはご自身で全て引き受けてくださり、背負ってくださり、十字架の死によって処理してくださいました。

教会のシンボルは「十字架」です。「十字架」は「わたしのために、死(罪)に勝利してくださった主イエス・キリストがおられる」ということの「しるし」なのです。「人の罪を背負ってくださった方がいらっしゃる」ことを表している、それが「十字架」なのです。

今、このことを覚えてレントの時を過ごしたいと思います。
 主イエス・キリストの十字架の下に集められた者として「ひとつ」とされ、共に喜びに生きるのだということを覚えたいのです。それが、今日お読みいただいたエフェソの信徒への手紙に示されていることです。

子ろばを用いる主」 棕櫚の主日礼拝 2010年3月28日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ルカによる福音書 第19章28〜44節
19章<28節>イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。<29節>そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、<30節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。<31節>もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」<32節>使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。<33節>ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。<34節>二人は、「主がお入り用なのです」と言った。<35節>そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。<36節>イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。<37節>イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。<38節>「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」<39節>すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。<40節>イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」<41節>エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、<42節>言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。<43節>やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、<44節>お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

今日から受難週に入りました。共々に、ルカによる福音書から主のご受難について聴きたいと思います。そして、足洗日(木曜日)、受難日礼拝(金曜日)には教会に集い、共に御言葉に聴き、心を合わせて祈りたいと思います。

主のご受難の初めに「エルサレム入城」があるのです。それが今日の箇所です。「エルサレム入城」は「エルサレムの王としての凱旋」であり、主イエスがイスラエルの王、勝利者として都に入られることを意味しております。
 エルサレムの中心は神殿です。ですから「エルサレムの王」とは本来「神」です。つまり、主イエスのエルサレム入城は「神そのものなる方、神の御子、王、救い主」としての入城なのです。
 まずこのことが示された上で、「神の御子なる方(主イエス・キリスト)」が苦しみを受け、十字架につけられることが語られます。弟子たちも、人々も知りません。これから始まる受難は、王なる方の受難、救い主(メシア)なる方の受難なのです。そのことを明確にしている出来事が「主イエスのエルサレム入城」であることを覚えたいと思います。
 人の思いであれば、王が都に凱旋してから受難するなどとは考えられないことです。しかし聖書は「主イエス・キリストの救いの出来事とは何か」を語ります。
 神の御子イエス・キリストは「罪無き方」であるにも拘らず、苦しみを受け、十字架の死を死んでくださいました。それは私どもの常識を超えた出来事、有り得ない出来事です。私どもの罪は、本来、自らの命をもって贖うべきものです。にも拘らず、御子イエス・キリストが代わって罪を贖ってくださいました。「救いなどない」それが私どもの本来の姿であるにも拘らず、主イエス・キリストの十字架によって、私どもは「救われる」のです。本来有り得ない出来事、それが「主イエスの十字架による贖い、罪人の救い」なのだということを覚えたいと思います。

28節、主イエスは「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と記されております。これから先、エルサレムで何が起こるのか、主イエスのみがご存知なのです。敵する者に捕らえられ十字架につけられること、弟子たちが主を見捨てて逃げ去ること……、全てをご存知の上で、苦難に向かって、ご自身の命を捧げる「十字架への道」を主イエスは歩まれる。自分のためならいざ知らず、他者のためにどうして苦しむのか?自分を理解しない者、敵対する者、裏切る者のために、何故、主イエスは先へ進まれるのか?私どもには、とても理解できないことです。
 「主イエスが十字架に向かって、先立って歩まれる」、それは私どものため、全世界の救いのため、敵する者のためです。私どものために、敢えて「贖いの死」を死んでくださる。それが主イエスの十字架への歩みなのです。それは決して有り得ないこと、理解し得ないことです。人の理解、思い、計画の一切を超えての「救い」という神の御業であることを覚えたいと思います。主イエスの十字架の救いは、人知を超えた「救い」です。人に理解できる救いは、本当の救いではありません。人の理解には限界があるのです。「人知を超えた救い」だからこそ、私どもは救われるのです。受難、十字架の死を覚悟の上で、主イエスが先立って進まれる。それは、誰も後ろから支える者などいない、そういう「先頭」です。それは「神のみ成し得る業」であり、それが「罪人の救い」なのです。

29節、「ベトファゲとベタニア」という場所を、敢えて「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもと」と記しております。何故でしょうか。エルサレム神殿が見え、エルサレムの町並みが見渡せる場所、それが「オリーブ山の頂」です。王として主イエスが入城されたエルサレムで、これから先、主イエスがどうされるのか。この言葉は、この福音書を読む者に、これから先に起こる主の十字架の出来事を概観させるための一つの象徴であると言えます。ですから、これもまた、私どもにとって大切な信仰の言葉です。

「二人の弟子を使いに出そうとして」と続きます。王の使者は「二人」が正式です。ですから、この二人の弟子は「救い主(メシア)の正式の使者」として遣わされているのです。しかしもちろん、弟子たちはそのことを分ってはおりません。

30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい」。「子ろば」は人の所有であるにも拘らず、「引いて来なさい」と主イエスは言われます。それは、主イエスが「王なる方」だからこそ言えることです。主イエスは、これから起こることを全てご存知であり、実際、主イエスの言われた通りのことが起こるのです。
 私どもはどうでしょうか。この二人の弟子のように、主の言われるままに行くでしょうか。「どうしてそんなことが分るのか?」と問うでしょう。人は、理解できないことは嫌だと思うのです。しかし、それは大いなる間違いです。確かに今のように情報が氾濫している社会においては、正しい判断をするために「理解する」ことは大事なことです。しかし経験から思うことは、議論を重ねて「違い」を知ることはあっても、「違い」を超えて「理解」するということは難しいということです。ですから「理解した上で、従う」ということは、なかなか出来ない難しいことなのです。しかし「理解してから」では、事柄は何も始まりません。
 二人の弟子たちは、主に言われるままに出かけて行って、そこで初めて、主が言われたことが本当だったことを知り、分るのです。議論しているだけでは分らないことがあるのです。「知って信じる」のではなく「信じて知る」のです。「主イエスに従う」からこそ、分るのです。主に従って初めて、主が真実なる方、神なる方であるということを、どこかに感じることができるのです。
 主イエスの出来事、神の出来事は、議論によって分る出来事ではありません。「私どもの救い」は、論じて理解するものではなく、信じて知り「ああ、救われているのだ」と分ることなのです。
 主イエス・キリストの出来事は、2000年の時を経て今に至っております。人々は「信じる」ことによって、神の恵みに生かされてきました。そういう幾多の事例があり、歴史の積み重ねがあるのです。「主に従う」ことによってこそ、私どもは全てを知ります。信じることによって、救いを見出すのです。ですから「信じる」ところにこそ、私どもの一歩があるのだということを覚えたいと思います。

今日は更に、もう一つのことを覚えたいと思います。
 33〜34節「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言った。二人は、『主がお入り用なのです』と言った」。
 「主がお入り用なのです」と言われます。主に用いられることは、大いなることです。どうして、この言葉で子ろばの持ち主たちが了解したかは記されておりません。ただこの言葉によって示されることは、主イエスが真実に「力ある方」だということです。
 しかしここでは、特に、主イエスが子ろばを「必要」と言ってくださっていることに注目したいと思います。子ろばは軍馬でもなく、威風堂々たる姿でもありません。まさに、王なる方には不釣り合いであり、滑稽でさえあるのです。にも拘らず、主が用いるのに相応しいと思えない者を、主は必要とし「用いる」と言ってくださるのです。救い主に相応しくない、いえ、救い主を滑稽にさえしてしまう、救い主の足を引っ張るような、そういうお前を「用いる」と、主は言ってくださる。それは、役に立たない者を用いることがお出来になるほどに、主には力があるということなのです。主イエスは、役に立つ、能力ある者を用いられるのではありません。主イエスが絶大な力を持っておられるからこそ、ご自分にとって役に立たない、損にさえなるような者をも用いてくださるのです。「わたしは、あなたを必要とする」と言ってくださるのです。

主イエスは十字架につき、ご自分の命まで捧げてくださいました。私どもは、とてもとても、十字架の主イエス・キリストに相応しい者ではありません。それなのに、主イエスは私どもに「あなたを必要とする」と言って用いてくださるのです。無用の者をも用いることが出来る、それは神以外には成し得ないことです。それが有り得ない「罪人の救い」ということです。主は、有り得ない「救い」を成し遂げてくださるために、有り得ない者をも用いてくださるのです。そこに神の御子イエス・キリストの救いの御業の偉大さを覚えるものでありたいと思います。

主の御業に相応しい者など、どこにもおりません。
 しかし、主の御業に用いられない者も、いないのです。この主の憐れみ、恵みを感謝をもって覚えたいと思います。