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11節「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」と、主イエスはご自分が父なる神の許に行かれ、弟子たちはこの世に残る、と祈られました。主イエスが父なる神の許に行かれる(天に帰る)のは「これから」ですが、ここで主は既に天に帰られた者として「もはや世にはいません」と言われます。それは主イエスがご自分の使命を果たされたことを示しております。主イエスが使命を果たされた、それは「救いは成った」ということです。主イエスは「もはや世にはいません」と言ってくださることで、「神の救い」がこの世に成っていることを示してくださっているのです。主イエスは「もはや世にいない、もはや天に帰られた」、そして「もはや救いは成った」のです。主イエスの十字架は、主イエスがこの世の救いを成し遂げてくださった出来事です。 主イエスは「弟子たちは世に残る」と祈られました。 そしてまた「祈りのうちに覚えられる」ということは、私どもを一番「深く知っていてくださる」という恵みです。「祈りにおいて知る」という認識は、深く他者を知ることです。ですから「祈り」のあるところに「交わり」があるのです。祈りを失ったならば、人はつながりを失ってしまいます。祈れることは、相手と深く交わることなのです。ですから、相手を覚えなくなれば祈れなくなるのです。「祈り」とは「交わり」であることを覚えたいと思います。そして私どもは主イエスに祈られている、即ち深く知られていることを覚えたいと思います。 主イエスは弟子たちのために祈るに際して、改めて、父なる神を「聖なる父よ」と呼びかけておられます。「聖なる父よ」という呼びかけは、どこか新鮮です。普段私どもは「聖なる父よ」とは、あまり呼ばないでしょう。いえ男女差別として「父」とさえ呼ばないという風潮もあるのです。しかし覚えておかなければなりません。「聖なる父」と呼ぶとき、それは「神に向かっている呼びかけ」なのです。「恵みの神」などという呼び方は、人の思いに心を向けた呼びかけです。「聖なる父」という呼びかけは、神へと向かう呼びかけとして、改めてその新鮮さを思わされるのです。祈りとは、人に配慮して祈るのではありません。主イエスから頂いた呼びかけをもって、神に向かって祈るべきなのです。 その「聖なる方」を主イエスは「父よ」と呼ばれます。「父よ」とは親密な交わりを表す呼び方です。「父よ」とは、本来父なる神と子なる神との関係において、主イエスのみ呼び得る呼び方であって、父なる神と一つなる方として主イエスも聖なる方なのであり、聖なる方として主イエスは神を「父よ」と呼ばれるのです。 主イエスは「わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈られます。「わたしに与えてくださった御名」とは「父」ということです。ですから、弟子たちが守られる根拠は「神が父であってくださる」ことです。神が「父なる神である」からこそ、神が弟子たちを守ってくださるのです。可哀想だからと憐れんで守ってくださるということではないのです。 このように、私どもが恵みの御名をいただいていることで明らかになることがあります。それは「既に神との交わりのうちにある」ということです。繰り返しますが、可哀想だから守ってくださるというのではないのです。主イエスによって「父なる神との交わりのうちにある者」だから、交わりにある者として守ってください、と主イエスは祈ってくださるのです。 主イエスによって祈られ、神との交わりのうちに入れられ、父なる神に覚えられ、父なる神の守りのうちにある。私どもは父なる神に守られているのだということを覚えたいと思います。主イエスを救い主と信じ、父なる神との交わりを回復された者として「神の守りのうちにある」のです。 |
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12節「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」。主イエスは弟子たちと一緒にいる間「弟子たちを守った」と言ってくださっております。ここで私どもは、主イエスは信じる者たちを「守ってくださる方」であることを知るのです。 「保護者、守る手がいる」ということは嬉しいことです。現代は「守り」が無い時代ではないでしょうか。家族、地域などの共同体が失われ、守りとなる拠り所を失っているからです。昔うるさがられた「となり組」は、味噌・米などの貸し借りが出来た共同体でした。それは、生きる最低限の守りがあったということです。守る・保護するという共同体を失うことは「孤独」ということです。「孤独」の中に放置されてしまうのです。 「滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした」と言われます。「滅びの子」とは「イスカリオテのユダ」のことです。私どもは「滅びの子」と聞くと「ユダは赦されなかったのか、赦されない罪があるのか」と思って不安になります。しかしユダが滅びかどうかを、私どもは詮索するべきではありません。私どもは「生死の全て」を神に委ねるべきなのです。 13節「しかし、今、わたしはみもとに参ります」と主は言われます。十字架・復活が現実のものとなり、主イエスはこの世を去って天に帰られる。それは主イエスが神の御子として元々おられた場所に帰られるということです。そして主は「神の全権を担う者」として神の右に座し、裁きと救いをもって統べ治められるのです。それが「みもとに参ります」に示されている内容です。 続けて「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と言われます。主イエスが世を去って天に帰られることを語られるのは何故でしょうか。「主イエスの喜びが弟子たちに満ちあふれるため」だと言われる。普通に考えるならば、別れは悲しいはずです。しかしここでは「主との別れは、弟子たち(信じる者たち)にとっては大きな恵み・喜びになる」というのです。 さらにまた、主イエスは14章において、主が天に帰られるときには、私どもが天に住まいするための場所を用意しに行くと言ってくださいました。主イエスは私どもの救いを喜んでくださるだけではなく、私どもが主(神)と共に住むことをも喜んでくださるのです。それは、神との尽きることのない永遠の交わりということです。私どもは、主によって救われていることを喜ばれるだけではなく、「共にいる」ことをも喜んでいただいている。それは「私どもの存在を喜んでいてくださる」ということです。 私どもは、自分のことすら喜べなくなることがあります。しかし、そんな私どもであっても、主イエスの喜び、神の喜びのうちに見出されているのです。自分のことを喜んでくれる方がいてくださる、これほどの喜びはないのです。私どもの存在を喜び、共にあることを喜んでいてくださる、それが主(神)であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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受難節の第5週を迎え、来週は棕櫚の主日、そして4月4日はイースターです。 今日の御言葉は創世記32章です。創世記の後半には、アブラハムからヨセフに至るまで、いわゆるイスラエル民族の族長の物語が記されております。 ヤコブは双子の弟として生まれ、大変知恵の働く狡猾な人でした。「ヤコブ」とは「かかと」「押しのける者」という意味で、ヤコブは兄エサウを騙して長子の権利を奪い、父イサクを騙して祝福を得ますが、そのために家にいられなくなり、旅に出るのです。そして、その旅の最初の夜に、天に届く梯子の夢を見て、そこで神の声を聞き「神の約束の言葉」を頂き、その後、伯父の家で20年間を過ごすのです。20年と言えば、いろいろな事が起こるでしょう。20年の間にヤコブは結婚し、財産を貯え、そこで考えたことは「兄エサウとの和解」でした。兄との和解のために故郷へ向かう、それが今日の箇所です。 ヤコブは大変賢い一方、臆病な人で、兄と和解したいが、許されず兄に殺されるのではないかと恐れて、土産をたくさん用意して旅立ち、「ヤボクの渡し」に至るのです。彼はまず家族を渡らせ、一人残ります。先頭に立ってではなく、しんがりとして兄に会おうとする、そんな臆病で慎重な気持ちの中で夜を迎え、そこでまた一つの出会いがあるのです。名の無い「何者」か。恐らくそれは「神」ですが、ヤコブは一晩中、その何者かと死にもの狂いで格闘し、それ故に何者かは勝ち目がないと言ってヤコブの腿の関節を打ってはずし、闘いを終わらせます。勝ったのか負けたのか、あまりはっきりしませんが、そこでヤコブがしたことは、その何者かに「祝福してくださるまでは離しません」(27節)と迫ることでした。 聖書において、神から名を頂いたのはヤコブだけではありません。アブラハムもエリヤもヨブも、神とやり取りするのです。また、聖書の登場人物だけではありません。マルチン・ルターもそうでした。彼は死の恐怖と闘った人でした。法律家になる勉強をしていましたが、雷に撃たれそうになった時、神に祈り、修道士になるのです。後には、14歳の娘を失います。何か理解できない事が起こると、私どもは「何故?」と、神に問うでしょう。ルターはそういう神との格闘の中で、主の祈りを祈りつつ階段を膝でのぼり、「信仰義認=信仰によってのみ、値なく赦され、神の救いを得る」という真理を与えられました。 また、特に今日ここで学びたいことは、32節です。ヤコブは神との格闘の結果、腿の関節をはずされて「足を引きずる」者となるのです。この御言葉に、はっとさせられます。兄に自分の力と財を見せるために意気揚々と土産を携えて出かけたヤコブは、「足を引きずる者」として、弱く惨めな姿で兄に会うことになるのです。 使徒パウロも肉体に刺を与えられた人でした。パウロはその刺を取り去ってくださいと、3度も神に願い祈ったと記されております。しかし神は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)とパウロに示されます。 このところで私どもは、「主イエスの十字架」に思いを馳せることが出来ると思います。私どもは自分の弱さ、不安、罪を抱える者です。そのような私どもの弱さや不安、罪を、主イエス・キリストはご自身で全て引き受けてくださり、背負ってくださり、十字架の死によって処理してくださいました。 教会のシンボルは「十字架」です。「十字架」は「わたしのために、死(罪)に勝利してくださった主イエス・キリストがおられる」ということの「しるし」なのです。「人の罪を背負ってくださった方がいらっしゃる」ことを表している、それが「十字架」なのです。 今、このことを覚えてレントの時を過ごしたいと思います。 |
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今日から受難週に入りました。共々に、ルカによる福音書から主のご受難について聴きたいと思います。そして、足洗日(木曜日)、受難日礼拝(金曜日)には教会に集い、共に御言葉に聴き、心を合わせて祈りたいと思います。 主のご受難の初めに「エルサレム入城」があるのです。それが今日の箇所です。「エルサレム入城」は「エルサレムの王としての凱旋」であり、主イエスがイスラエルの王、勝利者として都に入られることを意味しております。 28節、主イエスは「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と記されております。これから先、エルサレムで何が起こるのか、主イエスのみがご存知なのです。敵する者に捕らえられ十字架につけられること、弟子たちが主を見捨てて逃げ去ること……、全てをご存知の上で、苦難に向かって、ご自身の命を捧げる「十字架への道」を主イエスは歩まれる。自分のためならいざ知らず、他者のためにどうして苦しむのか?自分を理解しない者、敵対する者、裏切る者のために、何故、主イエスは先へ進まれるのか?私どもには、とても理解できないことです。 29節、「ベトファゲとベタニア」という場所を、敢えて「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもと」と記しております。何故でしょうか。エルサレム神殿が見え、エルサレムの町並みが見渡せる場所、それが「オリーブ山の頂」です。王として主イエスが入城されたエルサレムで、これから先、主イエスがどうされるのか。この言葉は、この福音書を読む者に、これから先に起こる主の十字架の出来事を概観させるための一つの象徴であると言えます。ですから、これもまた、私どもにとって大切な信仰の言葉です。 「二人の弟子を使いに出そうとして」と続きます。王の使者は「二人」が正式です。ですから、この二人の弟子は「救い主(メシア)の正式の使者」として遣わされているのです。しかしもちろん、弟子たちはそのことを分ってはおりません。 30節「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい」。「子ろば」は人の所有であるにも拘らず、「引いて来なさい」と主イエスは言われます。それは、主イエスが「王なる方」だからこそ言えることです。主イエスは、これから起こることを全てご存知であり、実際、主イエスの言われた通りのことが起こるのです。 今日は更に、もう一つのことを覚えたいと思います。 主イエスは十字架につき、ご自分の命まで捧げてくださいました。私どもは、とてもとても、十字架の主イエス・キリストに相応しい者ではありません。それなのに、主イエスは私どもに「あなたを必要とする」と言って用いてくださるのです。無用の者をも用いることが出来る、それは神以外には成し得ないことです。それが有り得ない「罪人の救い」ということです。主は、有り得ない「救い」を成し遂げてくださるために、有り得ない者をも用いてくださるのです。そこに神の御子イエス・キリストの救いの御業の偉大さを覚えるものでありたいと思います。 主の御業に相応しい者など、どこにもおりません。 |
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