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1節「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」。「これらのこと」とは、主イエスが十字架を前に弟子たちに語ってくださった告別説教のことです。主イエスはこれから「天に帰られる」ために語られたのですが、弟子たちは何も理解できませんでした。 「天を仰いで」と言われております。イスラエルの祈りの形は、天に目を向けるのです。「天を仰いで祈る」とはどういうことでしょうか。「神が天に在す」だから、天の神に呼びかけるのです。それは対話としての祈りです。応答関係としての祈りですから、人格性を持つのです。主イエスの祈りは、父なる神と一体なる方としての祈りであって、人格としての交わりを表しているのです。 「父よ、時が来ました」と主は言われます。主イエスは神を「父よ」と呼ばれる。それはまさに、主イエスが神の御子なる方だからです。「父よ」という呼びかけは、父として、子として、一つなる方であることを示す呼びかけです。 「時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。「時」とは何でしょうか。その内容は「あなたの子があなたの栄光を現すようになる」ということです。「神が神としてご自身を現すこと」、それが「神の栄光」です。「十字架・復活・昇天」により「救い主としてご自身を表すこと」、それが「主イエス・キリストの栄光」です。そして、その「時」を定めておられるのは父なる神ですから、「あなたの定められた、その時が来ました」と主は言われるのです。そして「成すべきことを成すべく、力をお与えください」と祈られる。ここには、主イエス・キリストの「父なる神に対する従順」の思いが込められております。 2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」。「すべての人」は「すべて肉なるもの」が原文です。「すべての人を支配する権能」は「全て肉なるものに優る力」と訳した方が相応しいでしょう。主イエスによる「支配」は「屈服」を言っているのではありません。全人類を「恵みによって救う力」「神の恩寵としての力」を示しております。その力を、父なる神は主イエスにお与えになったということ、それが主に与えられた権能です。全てのものを救う力を持って、主イエス・キリストは「十字架・復活・昇天」により、私どもの救いを成し遂げてくださるのです。 ですから、主イエス・キリストによって、既に「救いは成し遂げられている」のです。私どもが主イエス・キリストを信じることによって、救いは鮮やかになるのです。しかしここで、主イエス・キリストは、信じない者のためにも救いを成し遂げておられることを忘れてはなりません。「救いはある」にも拘らず、信じない者には救いが理解できないのです。わたしの、あなたの救いを、主は既に成し遂げてくださっている、だから後はただ「主よ、信じます」と告白するのみなのです。 主イエス・キリストは、私どもに「救いをくださる方」です。そして、このヨハネによる福音書は「救い」とは、主が私どもに「永遠の命を与えることである」と語ります。 今日はまた心に深く、事ごとに祈りをもって生きることの豊かさ、恵み深さを覚えたいと思います。そしてまた、私どもの救いが主イエス・キリストによって既になされているのだということを感謝をもって覚え、ただ「主よ、信じます」との信仰告白の言葉をもって生きる者でありたいと願います。 |
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3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、主イエスは祈られました。 神を唯一まことの神として知る、主イエス・キリストを神の御子、救い主として知る、それは私どもの「信仰告白」であり、即ち「礼拝」です。「礼拝」は神を神として崇め、主イエス・キリストを救い主として誉め讃えることです。つまり「知る」ということは、頭で分った(理解した)ということではなく、行動を伴っているのです。主イエス・キリストを救いと告白し、神を唯一まことの神として、キリストを救い主として誉め讃え「礼拝」する。それが「知る」ことです。ですから、礼拝してこそ「救い」なのです。礼拝してこそ、全身全霊をもって「神を唯一まことの神として、主イエスを救い主として知る」のだということを覚えたいと思います。礼拝のこの場にこそ、救いがあるのです。 「永遠の命」とは「神との尽きることのない交わり」を意味しております。それは、神を神として崇める「礼拝」において与えられる交わりです。「神との交わり」は「永遠の命」ですから、礼拝するところに「永遠の命」が与えられるのです。このヨハネによる福音書は、現在と未来を同時に語ります。即ち、今の出来事を終わりの日(終末)の先取りとして語るのです。本当ならば「永遠の命=神との尽きることのない交わり」は、主の再臨の日(終末)に「神との真実で完全な交わり」として見るものです。それは、全く神と隔ての無い、顔と顔を合わせる交わりです。この終わりの日の出来事(救い、永遠の命の完成)を、私どもは、今この礼拝において前もって頂いている、そして後は、終わりの日の完成を待つのみなのです。それが「知る」ということにおいて、ここに示されていることです。ですから「知る」という言葉はなかなか難しい言葉です。ただ知識として「知る」ということではなく、聖書においては、神との深い交わりを表す言葉なのです。 4節、主は「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈られます。「行うようにと与えられた業」とは、「人となって」「十字架につき」「復活して」「天に帰る」ことであり、それを主イエスは「成し遂げて」くださいました。それはまさしく「救い主キリスト」としての業です。このことは、弟子たちにしてみれば「人となってくださった」以外のことは、未だ知り得ないことであり、理解できないことなのです。しかし、ここで主イエスは「成し遂げた」と言ってくださっております。主イエス・キリストにとっては、現在と未来は一つのことです。私ども人間は明日のことなど何一つ分りませんが、主イエスが未来を今の出来事として語ってくださることは、私どもにとって幸いなことです。何故なら、主イエス・キリストによって、私どもの未来を確かなものとして頂いているからです。明日のことは分らない私どもです。地上での日々は思いもよらない惨めなものであるかもしれません。しかし地上での日々がどのようなものであったとしても、未来の、終わりの日の救い「永遠の命の約束」は、決して揺らぐことはないのです。 5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。主イエスは確かに、十字架に死に、復活し、天に昇られ、そして改めて、神を「父よ」と呼ばれます。この言葉には、父なる神と御子イエス・キリストとの揺るぎない信頼関係が示されております。主イエスは天に帰り、天地創造の前から与えられていた栄光、即ち神の右の座に着いておられる御子本来の姿をと、祈っておられます。ですから、主イエス・キリストが天に帰られることは、御子が神としての栄光を現されることに他ならないのです。 主イエスはこのようにご自身の出来事を祈られた後、6節以降、弟子たちについて祈ってくださっております。それは、とりもなおさず、私ども(弟子)に対する祈りです。 信仰とは、恵みの出来事です。ゆえに、自らを誇ることは一切できないのです。私どもが誇るとするならば、罪を赦し信じる者としてくださった神を、救い主キリストをこそ誇るべきです。私どものために、罪の贖い主として主イエスを十字架につけられた「神」を、神の御心に従って十字架に死んでくださった「主イエス・キリスト」を誇るべきなのです。 「わたしは御名を現しました」。主イエス・キリストによって、私どもは「父なる神の御名」を知らせていただくことができました。今日もこの礼拝において、神の御名を知ることの恵みに与っているのだということを、感謝をもって覚えるものでありたいと願います。 |
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先週に引き続き、主イエスの祈りの御言葉に聴きたいと思います。 6節「世から選び出して…彼らは、御言葉を守りました」。「選ばれた者」とは「弟子たち」のことであり、弟子であることは「御言葉を守る=従う」ことであることが教えられております。 7節「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」。「わたしに与えてくださったもの」とは、父なる神が御子イエス・キリストにお与えになったものであり、それは「弟子たち」のことです。 「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを…」と言われております。ここで大事なことは「弟子たちは誰のものか」ということです。弟子たちは「自分自身のもの」でも「この世のもの」でもありません。主イエスと弟子との関係は師弟関係ではなく、「主の弟子」とは、主イエスの十字架の死(命)によって贖われた者、「主イエス・キリストのもの」として代価を払って買い取られた者なのです。ですから「主の弟子」は、代価を払ってくださった方「主イエス・キリストのもの」即ち「神のもの」です。「キリストのもの、神のもの」と反対の言い方として、14節に「世に属する」と言われております。ですから「キリストに属する、神に属する」ということは、もはや「この世に属さない」ということを示しております。「主イエス・キリストの十字架によって贖われ、救いに与る」ということは、もはやこの世のものではなく「主イエス・キリストのものとされる」ということなのです。 8節「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え…」。御子イエス・キリストの使命は「救い」です。ですから、父なる神から御子イエス・キリストが受けた言葉とは「救いの言葉」です。主イエスは救いの言葉を担い、救いを成し遂げてくださいました。その「救いの言葉」を、弟子たち(私ども)は聴いているのです。それが「御言葉を聴く」ということです。 9節「彼らのためにお願いします」。主イエスは弟子たちのために願って、即ち「祈って」くださるのです。「世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と続きます。主イエスは「あなたが与えてくださったものは、あなたのもの」と言われます。つまり「神のものは神のもの」ということです。 またここで主イエスは、祈るのは「世のために」ではないと言われております。主イエスは「救いに与った者のために」祈ってくださるのです。「この世」ではなく「私ども」を祈りの対象としてくださっているのです。 |
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主イエスの十字架を前にした祈りが続いております。 10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」。「わたしのもの」とは何でしょうか。一切のものは「神(あなた)のもの」ですが、ここで言っている「わたしのもの」とは「弟子たち」のことです。9節で主イエスは「彼らはあなたのものだからです」と言われた後に「わたしのもの」と言われます。即ち「弟子たち」は「父なる神からのもの」であり、「主の弟子」とは「主イエス・キリストに属する者、主のもの」として「父なる神のもの」なのです。このことは、私どもにとっても大切なことです。私どもも主イエスを信じる「主の弟子」として「主のもの」であり、「主のもの」として「父なる神のものである」と、主が祈っていてくださるからです。主イエスがこのように祈ってくださることによって、私どもは、父なる神が私どもを「主のもの、神のもの」としていてくださることを知るのです。私どもが神に相応しく鍛錬努力し認められたから「神のもの」とされたのではありません。神が「御子イエス・キリストの十字架」をもってまでして私どもの罪を赦してくださった、「神の憐れみ」のゆえに、私どもは「神のもの」なのです。 ここでは「弟子は誰のものか」ということと、もう一つ、「子なる神と父なる神との一体性」ということが示されております。「父なる神」と「子なる神」は「一つ」なのです。11節に「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と言われております。 主イエスは「わたしは彼らによって栄光を受けました」(10節)と言ってくださっております。弟子たちが「主の栄光を表した」と言われていることは意味深いことです。「神を神として表す」それが「栄光を表す」ことです。弟子たちにとって「栄光を表す」ということは、主イエスを「神の御子、キリスト(救い主)と誉め讃える」ということですが、弟子たちはまだ、主イエスの十字架も復活も経験しておらず、それは出来ないのです。にも拘らず、今、主イエスはこれから救い主としての歩みをなさろうとするこの時に、先だって、弟子たちを「ご自分を救い主キリストとして誉め讃える者」として覚え、祈ってくださっているのです。 「主イエスを救い主キリストとして誉め讃える」それが「礼拝」です。礼拝を守ることにより、私どもは「主の栄光を表している」のです。ですから、救いの喜びを失った者は、神を神として誉め讃えることはできなくなるのです。救いの確信を失うことは自分を呪って生きることであり、闇へ引き戻されることです。 |
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