聖書のみことば/2010.2
2010年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
永遠の命とは」 2月第1主日礼拝 2010年2月7日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章1〜5節
17章<1節>イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。<2節>あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。<3節>永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。<4節>わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました<5節>父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

1節「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた」。「これらのこと」とは、主イエスが十字架を前に弟子たちに語ってくださった告別説教のことです。主イエスはこれから「天に帰られる」ために語られたのですが、弟子たちは何も理解できませんでした。
 そして主イエスは「天を仰いで言われた」。祈られたのです。事を始める、その時に為すべきことは「祈り」です。始まりに、終わりに、事ごとに祈り、神の御心を聴く。主イエスのこの祈りの姿勢から私どもも聴きたいと思うのです。マルチン・ルターは、食事の前に、後に、途中に祈ったと言われております。事ごとに交わりの中で祈ったのでしょう。祈りは、平安の内に事を成すところに与えられる恵みです。主イエスはここで、大切なことを語られた後に祈られました。

「天を仰いで」と言われております。イスラエルの祈りの形は、天に目を向けるのです。「天を仰いで祈る」とはどういうことでしょうか。「神が天に在す」だから、天の神に呼びかけるのです。それは対話としての祈りです。応答関係としての祈りですから、人格性を持つのです。主イエスの祈りは、父なる神と一体なる方としての祈りであって、人格としての交わりを表しているのです。
 私どもの祈りはどうでしょうか。私どもの祈りは、自分の心の内を告白する、吟味し顧みる、心の葛藤を整理するような祈り、自問自答の形の祈りが多いのではないでしょうか。それが日本人の習慣としての祈りと言えるでしょう。しかし、それでは対話になっていないし、神にある恵みを十分には味わえないのです。ですから、私どもも、形を変える必要はありませんが、心は天に向かい、神に呼びかけ神に聴く、応答関係としての祈りをしたいものと思います。心を神に向けて祈るとき、私どもは自分を客観視し、相対化し、神との交わりのうちに真実の自分を知ることができるのです。

「父よ、時が来ました」と主は言われます。主イエスは神を「父よ」と呼ばれる。それはまさに、主イエスが神の御子なる方だからです。「父よ」という呼びかけは、父として、子として、一つなる方であることを示す呼びかけです。
 「父よ」と、神を呼べることの幸いを思います。私どもは、主イエス・キリストの十字架によって罪贖われ、主を信じることによって主のものとされて「神の子」として扱って頂ける、だから私どもも神を「父よ」と呼ぶことができるのです。それは「父なる神」と「子なる主イエス・キリスト」との交わりの中に入れて頂くという恵みです。本来、私どもは、神を父と呼ぶことなど出来ない存在であるにも拘らず、ただ主イエス・キリストにあってこその恵みの出来事なのです。
 このことを思う時、教会は顧みなければならないことがあります。ある時代に、神を父よと呼ぶことは家父長制を増長させるものであり、差別だとして、「父よ」との呼びかけを止めてしまったことがありました。今なお、その流れの中にある教会もあります。神を父よと呼ぶことは、主イエスが「そうして良い」と言ってくださった、特別な恵みの出来事であることを忘れてはなりません。神の憐れみを思わず、人の主張を神に優るものとすることの愚かさを思います。平等も自由も、そもそも教会が生み出したものであって大切にすべき事柄ではありますが、しかしそれは、神を畏れる思いに優って大切にすべきことではないのです。私ども(人)の価値観など絶対ではないことを弁えておかなければなりません。

「時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。「時」とは何でしょうか。その内容は「あなたの子があなたの栄光を現すようになる」ということです。「神が神としてご自身を現すこと」、それが「神の栄光」です。「十字架・復活・昇天」により「救い主としてご自身を表すこと」、それが「主イエス・キリストの栄光」です。そして、その「時」を定めておられるのは父なる神ですから、「あなたの定められた、その時が来ました」と主は言われるのです。そして「成すべきことを成すべく、力をお与えください」と祈られる。ここには、主イエス・キリストの「父なる神に対する従順」の思いが込められております。
 救い主イエス・キリストであっても、父なる神に従われるのです。ですから私どもも、主イエス・キリストによって贖い出された者として「神の御心に従うべき者」であることを、この主イエスの祈りを通して覚えたいと思います。たとえそれが苦しみを伴う事柄であったとしても、神の御心として従うところで、その人は神のものとして覚えられているのです。
 「御子としての栄光」とは「救い主としての栄光」ということです。それは「十字架・復活・昇天を成し遂げる」ということです。「救い主としてご自身を現す」とはどういうことでしょうか。それは「地上に救いをもたらす」ということであり、それは「父なる神の栄光を現すため」なのです。主イエス・キリストが「十字架・復活・昇天」により救いを成し遂げてくださることによって、地上の人々は「神を神として」「神が救いの神であることを」知るのです。ですから「神が救いの神として、地上の私どもに臨んでくださること」それが神の栄光を現すことなのです。
 本来、私どもにとって、神が臨まれることは耐えられない出来事です。何故なら、神の前では自分の全てが明らかになるのであり、それに人は耐えることはできません。にも拘らず、私どもが神を「救いの神」として覚えることが出来るのは、主イエス・キリストの十字架の贖いがあるからです。主イエス・キリストの贖いによって、私どもは、神を神として仰ぎ見ることが出来るのです。

2節「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」。「すべての人」は「すべて肉なるもの」が原文です。「すべての人を支配する権能」は「全て肉なるものに優る力」と訳した方が相応しいでしょう。主イエスによる「支配」は「屈服」を言っているのではありません。全人類を「恵みによって救う力」「神の恩寵としての力」を示しております。その力を、父なる神は主イエスにお与えになったということ、それが主に与えられた権能です。全てのものを救う力を持って、主イエス・キリストは「十字架・復活・昇天」により、私どもの救いを成し遂げてくださるのです。

ですから、主イエス・キリストによって、既に「救いは成し遂げられている」のです。私どもが主イエス・キリストを信じることによって、救いは鮮やかになるのです。しかしここで、主イエス・キリストは、信じない者のためにも救いを成し遂げておられることを忘れてはなりません。「救いはある」にも拘らず、信じない者には救いが理解できないのです。わたしの、あなたの救いを、主は既に成し遂げてくださっている、だから後はただ「主よ、信じます」と告白するのみなのです。
 主イエスは「あなたがたが信じたら、救う」と言っておられるのではありません。救いは、もう既にあるのです。信じる者の側に救いの根拠があるのではありません。ちゃんと分っているかどうか、人の信じ方が問題なのではないのです。救いがそこにある。だから信じれば良いのです。そこにこそ確かさがあるのです。この違いは大きいものです。私どもがどう信じたかは問題ではありません。「主イエス・キリストはわたしの救い主と信じる」それが全てなのです。
 全ての者を救う力を与えられ、救いを成し遂げてくださった主イエス・キリスト。主の救いが既にこの地にあることを、改めて覚えたいと思います。

主イエス・キリストは、私どもに「救いをくださる方」です。そして、このヨハネによる福音書は「救い」とは、主が私どもに「永遠の命を与えることである」と語ります。
 そして更に「永遠の命とは何か」を、3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と記します。ここでは「知る」という言葉がポイントです。「永遠の命」とは「神を知る」こと、「救い主イエス・キリストを知る」ことなのです。
 「知る」とはどういうことなのか、次回、改めて御言葉に聴きたいと思います。

今日はまた心に深く、事ごとに祈りをもって生きることの豊かさ、恵み深さを覚えたいと思います。そしてまた、私どもの救いが主イエス・キリストによって既になされているのだということを感謝をもって覚え、ただ「主よ、信じます」との信仰告白の言葉をもって生きる者でありたいと願います。

主の民への祈り」 2月第2主日礼拝 2010年2月14日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章3〜19節
17章<3節>永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。<4節>わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました<5節>父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。<6節>世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。<7節>わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。<8節>なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。<9節>彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。<10節>わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。<11節>わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。<12節>わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。<13節>しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と、主イエスは祈られました。
 「永遠の命」それは「救い」ということです。「永遠の命、救い」とは何か。それがこの主イエスの祈りによって教えられていることです。「永遠の命、救い」とは「神を知ること、イエス・キリストを知ること」、それは「神を唯一の救いとして、イエス・キリストを贖いの主、救い主として知ること」です。救い主イエス・キリストを送ってくださって私どもの罪を赦してくださった、それが神です。ですから「神を知る」とは「救いとして、神を知る」ことなのです。神はご自分の御子をもってまでして罪人の罪を贖ってくださいました。唯一まことの救いなる方、それが神です。御子までくださる神以外に、唯一の方、まことの神はいないのです。ですから「神を知る」とは「救いを知る」ことに他なりません。そしてそれは「十字架において救いを成し遂げてくださった主イエス・キリスト」を「救い主として知る」ことにおいても同じなのです。

神を唯一まことの神として知る、主イエス・キリストを神の御子、救い主として知る、それは私どもの「信仰告白」であり、即ち「礼拝」です。「礼拝」は神を神として崇め、主イエス・キリストを救い主として誉め讃えることです。つまり「知る」ということは、頭で分った(理解した)ということではなく、行動を伴っているのです。主イエス・キリストを救いと告白し、神を唯一まことの神として、キリストを救い主として誉め讃え「礼拝」する。それが「知る」ことです。ですから、礼拝してこそ「救い」なのです。礼拝してこそ、全身全霊をもって「神を唯一まことの神として、主イエスを救い主として知る」のだということを覚えたいと思います。礼拝のこの場にこそ、救いがあるのです。
 私どもは日常において「救い」ということを実感しているでしょうか。実は、真実に神を神として礼拝するということが無ければ、救いを実感することはできません。主イエス・キリストを神の御子救い主として見出せなくなったならば、私どもは礼拝することができなくなるのです。私どもは「礼拝」のこの場で、神の、キリストの臨在を感じ、共におられることを知るのです。「礼拝」こそが、神を神として知る「救い」であることを覚えたいと思います。

「永遠の命」とは「神との尽きることのない交わり」を意味しております。それは、神を神として崇める「礼拝」において与えられる交わりです。「神との交わり」は「永遠の命」ですから、礼拝するところに「永遠の命」が与えられるのです。このヨハネによる福音書は、現在と未来を同時に語ります。即ち、今の出来事を終わりの日(終末)の先取りとして語るのです。本当ならば「永遠の命=神との尽きることのない交わり」は、主の再臨の日(終末)に「神との真実で完全な交わり」として見るものです。それは、全く神と隔ての無い、顔と顔を合わせる交わりです。この終わりの日の出来事(救い、永遠の命の完成)を、私どもは、今この礼拝において前もって頂いている、そして後は、終わりの日の完成を待つのみなのです。それが「知る」ということにおいて、ここに示されていることです。ですから「知る」という言葉はなかなか難しい言葉です。ただ知識として「知る」ということではなく、聖書においては、神との深い交わりを表す言葉なのです。
 ゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じ、神を唯一まことの神と知った者は、神を礼拝せずにはいられないのであり、礼拝するところに救いがあり、永遠の命の約束があるのだということを改めて覚えたいと思います。

4節、主は「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と祈られます。「行うようにと与えられた業」とは、「人となって」「十字架につき」「復活して」「天に帰る」ことであり、それを主イエスは「成し遂げて」くださいました。それはまさしく「救い主キリスト」としての業です。このことは、弟子たちにしてみれば「人となってくださった」以外のことは、未だ知り得ないことであり、理解できないことなのです。しかし、ここで主イエスは「成し遂げた」と言ってくださっております。主イエス・キリストにとっては、現在と未来は一つのことです。私ども人間は明日のことなど何一つ分りませんが、主イエスが未来を今の出来事として語ってくださることは、私どもにとって幸いなことです。何故なら、主イエス・キリストによって、私どもの未来を確かなものとして頂いているからです。明日のことは分らない私どもです。地上での日々は思いもよらない惨めなものであるかもしれません。しかし地上での日々がどのようなものであったとしても、未来の、終わりの日の救い「永遠の命の約束」は、決して揺らぐことはないのです。
 主イエスが救い主としての御業を成し遂げてくださることによって、御子を遣わしてくださった方を「唯一まことの神、救い」として覚えることが赦されております。それが、神が神としてご自身を現してくださること、即ち「栄光」ということです。私どもは、どうすれば神の栄光を現すことができるのでしょうか。それは「神を神として崇める」こと、「礼拝」です。礼拝に来ないということは、神を神として現せないことであり、礼拝よりも自分を優先すること、自分の栄光を現すことになるのです。神を神とするところにこそ、救いがあります。神の栄光を現す手段は、礼拝以外にはないのだということを覚えたいと思います。

5節「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。主イエスは確かに、十字架に死に、復活し、天に昇られ、そして改めて、神を「父よ」と呼ばれます。この言葉には、父なる神と御子イエス・キリストとの揺るぎない信頼関係が示されております。主イエスは天に帰り、天地創造の前から与えられていた栄光、即ち神の右の座に着いておられる御子本来の姿をと、祈っておられます。ですから、主イエス・キリストが天に帰られることは、御子が神としての栄光を現されることに他ならないのです。

主イエスはこのようにご自身の出来事を祈られた後、6節以降、弟子たちについて祈ってくださっております。それは、とりもなおさず、私ども(弟子)に対する祈りです。
 ここで主イエスは、弟子をどう言い表しておられるでしょうか。6節「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」と、「神がこの世から選び出してくださった者」と言われております。私どもが「弟子」即ち「主イエスを信じる者」であるということは「神の選び」によるというのです。私どもは神の弟子として相応しい者でしょうか。いえ、全く相応しいとは言い難い者です。にも拘らず、選んでくださる。主イエスに祈られていることすら分らない弟子たちは、分らないだけではなく、後には主を裏切りさえする者でもあります。分っているつもりですることが主の御業の邪魔にさえなる、自分に確信がある程に神の栄光の邪魔をしてしまう、そのような愚かさを持つ弟子(私ども)です。しかし、それでも尚、神は弟子たちを選び、信じる者としてくださるのです。神の選びは恵みの出来事です。それがここに記されていることです。

信仰とは、恵みの出来事です。ゆえに、自らを誇ることは一切できないのです。私どもが誇るとするならば、罪を赦し信じる者としてくださった神を、救い主キリストをこそ誇るべきです。私どものために、罪の贖い主として主イエスを十字架につけられた「神」を、神の御心に従って十字架に死んでくださった「主イエス・キリスト」を誇るべきなのです。

「わたしは御名を現しました」。主イエス・キリストによって、私どもは「父なる神の御名」を知らせていただくことができました。今日もこの礼拝において、神の御名を知ることの恵みに与っているのだということを、感謝をもって覚えるものでありたいと願います。

御名による守り」 2月第3主日礼拝 2010年2月21日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章6〜19節
17章<6節>世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。<7節>わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。<8節>なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。<9節>彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。<10節>わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。<11節>わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。<12節>わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。<13節>しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

先週に引き続き、主イエスの祈りの御言葉に聴きたいと思います。

6節「世から選び出して…彼らは、御言葉を守りました」。「選ばれた者」とは「弟子たち」のことであり、弟子であることは「御言葉を守る=従う」ことであることが教えられております。

7節「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています」。「わたしに与えてくださったもの」とは、父なる神が御子イエス・キリストにお与えになったものであり、それは「弟子たち」のことです。
 ここでは「今、知っている」ということが強調されております。ヨハネによる福音書は未来の出来事を今のこととして語りますので、「今、彼ら(弟子たち)は知っている」と言うのですが、実際には、まだ十字架を知らない弟子たちには分らないのです。「今」とは、主イエスが弟子たちのもとを離れて天に帰られる時、即ち主イエスが救い主として十字架にかかり、復活して永遠の命の源となられ、天に帰り、救いを完成させられた時、ということです。「救いの完成の時」それはまさしく「聖霊が臨む時」ですから、その時には弟子たちにも聖霊が臨み、主イエス・キリストの出来事を知ることができるのです。このように未来の出来事を「今」と、主が弟子たちに語ってくださることは、私どもにとっても幸いなことです。何故なら、主イエス・キリストによる救いの完成が「既にある救い」として、今を生きる私どもにも示されているからです。

「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを…」と言われております。ここで大事なことは「弟子たちは誰のものか」ということです。弟子たちは「自分自身のもの」でも「この世のもの」でもありません。主イエスと弟子との関係は師弟関係ではなく、「主の弟子」とは、主イエスの十字架の死(命)によって贖われた者、「主イエス・キリストのもの」として代価を払って買い取られた者なのです。ですから「主の弟子」は、代価を払ってくださった方「主イエス・キリストのもの」即ち「神のもの」です。「キリストのもの、神のもの」と反対の言い方として、14節に「世に属する」と言われております。ですから「キリストに属する、神に属する」ということは、もはや「この世に属さない」ということを示しております。「主イエス・キリストの十字架によって贖われ、救いに与る」ということは、もはやこの世のものではなく「主イエス・キリストのものとされる」ということなのです。
 この世の属性とは、古び、汚れ、過ぎ行くものです。神の属性とは、永遠、聖なるものです。ですから「キリストに、神に属する=主のものとされる」ということは、本来滅ぶべき者(死すべき者)が、永遠に汚れない聖なる者とされる、ということなのです。

8節「わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え…」。御子イエス・キリストの使命は「救い」です。ですから、父なる神から御子イエス・キリストが受けた言葉とは「救いの言葉」です。主イエスは救いの言葉を担い、救いを成し遂げてくださいました。その「救いの言葉」を、弟子たち(私ども)は聴いているのです。それが「御言葉を聴く」ということです。
 続けて「彼らはそれを受け入れて」と言われております。「聞いた」と言わないのです。このことは大変示唆深いことです。御言葉を「聞いて」頭で理解したのではなく、「御言葉を受け入れた」と言うのです。そこには「救いに与った」という恵みが示されております。弟子たちは「救い」をまだ知らない。にも拘らず「主の言葉を受け入れた」即ち「主の救いに与った」と言ってくださっているのです。
 更に「わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」と続きます。ここで示されることは「知ったこと」が「信じたこと」と結び合わされているということです。「主イエス・キリストが救い主であることを知る」ことは「父なる神を信じた」ことになるのです。「キリストを知ることは、神を信じること」だと、この言葉は示しているのです。このことは、「信じる」ということを失っている現代社会にとって大切なことです。「キリストを知る」ことによって「神を信じる、信仰」という道が開かれているからです。
 現代の若者は昔よりも「信じる」という感性を失っていると言わざるを得ません。信じられないということは、疑い、不安、人間不信という苦しみの中を生きることになる。人は「信じる」ところに「平安」があるのです。しかし「信じる」感性を失った人に「信じろ」と言ってもなかなか難しいのではないでしょうか。けれども「主イエス・キリストに出会い、主の十字架が私の罪のための十字架であったことを知る」とき、そこでこそ「キリストの救いの恵みを知る」という仕方で「神を信じる」ことができるのです。このことは「信じられない」時代にとって、大いなる恵みです。ですから、わたしどもは殊更に「信ぜよ」と言うのではなく、「主イエス・キリストが私どもと同じ者(人)になってくださったこと」「信じられない者の救いのために十字架の贖いを成し遂げてくださったこと」を伝えることが、人々が神を信じることに繋がるのだということを覚えたいと思います。

9節「彼らのためにお願いします」。主イエスは弟子たちのために願って、即ち「祈って」くださるのです。「世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」と続きます。主イエスは「あなたが与えてくださったものは、あなたのもの」と言われます。つまり「神のものは神のもの」ということです。
 「神から与えられたもの」であるにも拘らず、与えられたものを神のものとせず、自分のものとしてしまう、それが私ども人間です。しかし、主イエスは「神に与えられたものは、神のもの」だと言っておられるのです。主イエスがこう祈られる根拠は、「彼らはあなたのものだからです」という言葉です。「弟子たちは神のもの、神の民」、だから主イエスは執り成しの祈りをなしてくださっているのです。
 「神に属する者」として、私どもは祈られているだけでなく、祈らなければならないことを忘れてはなりません。主イエス・キリストの贖いの恵みに与った者として、キリストのもの、神のものとして、日々祈りの中に生かされていることを覚えたいと思います。

またここで主イエスは、祈るのは「世のために」ではないと言われております。主イエスは「救いに与った者のために」祈ってくださるのです。「この世」ではなく「私ども」を祈りの対象としてくださっているのです。
 滅びゆくこの世の救いのために、主は十字架の贖いによる救いを成し遂げてくださいました。そして、主の救いを受け入れた者、救いの恵みに与った者が「終わりの日に完全なものとなるために」主は更に祈ってくださるのです。救われた者が「終わりの日の永遠の命の完成に至るために」祈ってくださるのです。

自分自身をささげる」 2月第4主日礼拝 2010年2月28日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第17章11〜19節
17章<10節>わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。<11節>わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。<12節>わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。<13節>しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。<14節>わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。<15節>わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。<16節>わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。<17節>真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。<18節>わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。<19節>彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

主イエスの十字架を前にした祈りが続いております。

10節「わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」。「わたしのもの」とは何でしょうか。一切のものは「神(あなた)のもの」ですが、ここで言っている「わたしのもの」とは「弟子たち」のことです。9節で主イエスは「彼らはあなたのものだからです」と言われた後に「わたしのもの」と言われます。即ち「弟子たち」は「父なる神からのもの」であり、「主の弟子」とは「主イエス・キリストに属する者、主のもの」として「父なる神のもの」なのです。このことは、私どもにとっても大切なことです。私どもも主イエスを信じる「主の弟子」として「主のもの」であり、「主のもの」として「父なる神のものである」と、主が祈っていてくださるからです。主イエスがこのように祈ってくださることによって、私どもは、父なる神が私どもを「主のもの、神のもの」としていてくださることを知るのです。私どもが神に相応しく鍛錬努力し認められたから「神のもの」とされたのではありません。神が「御子イエス・キリストの十字架」をもってまでして私どもの罪を赦してくださった、「神の憐れみ」のゆえに、私どもは「神のもの」なのです。
 今、高齢化社会の不安は何でしょうか。「ぼける」という不安、即ち「自分が自分でなくなる」という不安ゆえに、皆ぼける前に死にたいと思うのです。それは「自分が自分のものである」と思っていれば、自明のことです。そのように時代が要求しているならば、人は病に陥らざるを得ないのです。自分が自分ものだという思いに生きていれば、自分が自分でなくなることとのギャップに苦しむのです。自分に違和感のある時代、それは「意識化された時代に生きている」ということです。「意識化」は近代の育んだ大切な思想ではあるのですが、「自分を自分のものとして生きる」ことは難しいことです。なぜか。人は「意識」だけで生きているわけではないからです。人は「血肉・霊」として創造されました。ですから「意識」は自分の一部でしかないのです。にも拘らず「意識」のもとに自分を置けば、「肉体・精神」としてトータルな自分を知ることにはならないのです。ですから、意識化された自分を考えれば考えるほどに人は悩み苦しみ、意識化された時代を生きなければならないゆえに、自分が自分であることと現実とのギャップに悩み、病まざるを得ないのです。
 創世記が記すように、人は「神にかたどって、神に造られた」存在です。しかし人は、意識化ゆえに神から遠ざかってしまいました(創世記3章、失楽園)。そして本来の拠り所、存在の根源を失ってしまったのです。その罪(神から遠ざかる)を、神は御子イエス・キリストの十字架をもって贖ってくださいました。この神の救済の業(十字架の出来事)は、私どもを本来あるべき姿、創造の出来事に立ち帰らせることです。創造と救済は一つのこと、救済は創造の完成の業なのです。
 ですから、今、私どもは幸いであることを覚えなければなりません。私どもがどのような者であったとしても、なお、私どもは「神のもの」だからです。「自分が自分でなくなる、自分がわからなくなる」としても、神は私どもを「神のもの」として覚えていてくださる、だから幸いなのです。自分を失う、自分を受け止められない時代にあって「それでも大丈夫である」という保証が与えられていることは、かけがえのないことです。神が私どもを「ご自分のものとして知っていてくださる」のです。改めて「神のものとされている幸い」を覚えたいと思います。
 私ども人間は有限で不完全、過ぎ行くもの、忘れ去られる者であり、自己矛盾し、煩いの中に生きざるを得ない存在です。けれども私どもは、「完全で永遠なる『神のもの』とされて生きる」のです。それが「神に属する者」の幸いです。何も理解できない愚かな私どもを、主イエス・キリストは「神のもの、わたしのもの」として扱い、祈ってくださるのです。「神を信じる」ところに「永遠、完全」があります。自分を自分のものとし病に生きるのではなく、「神のものとして健全に生きる」ことの幸いを覚えたいと思います。

ここでは「弟子は誰のものか」ということと、もう一つ、「子なる神と父なる神との一体性」ということが示されております。「父なる神」と「子なる神」は「一つ」なのです。11節に「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と言われております。
 「一つ」とは「交わり」を示しております。「父なる神と子なる神の交わり」は「聖なる神としての交わり」であり、それは神秘的な交わりです。私どもの神は「交わりの神」であり「三位一体の神」として完全な交わりを持っておられるのです。このように異なる人格(存在)が交わりによって「一つ」となるという概念は、とても大切です。現代社会は交わりを失っているがゆえに孤独なのです。
 主イエスは、弟子たちが「父なる神と子なる神との交わり」と同様に「交わりにおいて一つとなるように」と祈ってくださいました。そこにおける交わりとは、どのような交わりなのでしょうか。それは「聖なる交わり」です。「聖なる交わり」とは「神を崇める者として一つ」という交わりです。子なる神が父なる神を「父」として崇めておられるように、ということです。
 弟子たちは、この先、主イエスの十字架を目の当たりにしてバラバラになってしまうのですが、復活の主イエスに出会い聖霊をいただき、共に主を崇め、礼拝することによって「一つ」となりました。それが弟子たちの共同体、即ち「教会」なのです。「教会」は「主イエス・キリストを崇める」ことにおいて「一つなる共同体」、主を礼拝することによって「一つなる民」なのです。私どもは普段はバラバラに各々の場所で生きておりますが、しかし私どもは「キリストにおいて一つなる交わり」であり、「キリストにおいて一つのものとして結ばれている」のです。主イエス・キリストを崇め、礼拝することによって結び合わされているのです。ここにしか「本当の一つ」は無いのです。それが私どもに与えられている恵みです。
 人にとって、誰かと「結ばれている」ということは慰めです。しかし、神に向かう以外に、人は人と本当に一つになることは出来ません。それ程までに人は罪深いのです。自分の意識だけで考えるならば、人はわがままであり、他者を好き嫌いするのです。しかし、たとえ私どもがどのような者であったとしても、或いは犯罪人であったとしても、神に向かうことによって、主を崇めるところにおいて「一つとなり得る」のです。

主イエスは「わたしは彼らによって栄光を受けました」(10節)と言ってくださっております。弟子たちが「主の栄光を表した」と言われていることは意味深いことです。「神を神として表す」それが「栄光を表す」ことです。弟子たちにとって「栄光を表す」ということは、主イエスを「神の御子、キリスト(救い主)と誉め讃える」ということですが、弟子たちはまだ、主イエスの十字架も復活も経験しておらず、それは出来ないのです。にも拘らず、今、主イエスはこれから救い主としての歩みをなさろうとするこの時に、先だって、弟子たちを「ご自分を救い主キリストとして誉め讃える者」として覚え、祈ってくださっているのです。
 ですから私どもも、「主を信じる者」として「主イエス・キリストを神の子救い主として誉め讃えるべき者である」ことが、ここに示されていることです。

「主イエスを救い主キリストとして誉め讃える」それが「礼拝」です。礼拝を守ることにより、私どもは「主の栄光を表している」のです。ですから、救いの喜びを失った者は、神を神として誉め讃えることはできなくなるのです。救いの確信を失うことは自分を呪って生きることであり、闇へ引き戻されることです。
 しかし、そうであったとしても、神を知る以前と違うことは「洗礼を受けている」ということです。「洗礼を受ける」ことは「神の救いの保証をいただく」ことです。神の救いに揺るぎはないのです。ですから、この地上の生において、もし、私どもが神を見失い、滅びの道を歩むことがあったとしても、最後には神の救いに与るのです。
 私どもが神から離れ重荷を負うて生きるときにも、「神の救い、神の憐れみ」は決して反古にされることはないのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。