聖書のみことば/2010.12
2010年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
平和があるように」 12月第1主日礼拝 2010年12月5日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章38節〜42節

<19節>その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<20節>そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。<21節>イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」<22節>そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。<23節>だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

19節「その日」とは「主イエスの復活の日」です。
 主イエスは「救い」として甦られました。主イエスの復活の日である日曜日、主を礼拝する私どもは、主イエスの救いの内にあるのだということを、まず覚えたいと思います。
 今日は第一主日ですので、私どもは共に「聖餐」に与ります。「聖餐」は、十字架による罪の赦しと終わりの日の永遠の命の約束の恵みを、パンとぶどう酒によって、この身をもって味わうことです。カトリック教会においては聖餐式が礼拝ですから毎週聖餐に与るのですが、プロテスタント教会においては「御言葉」をもって聖餐を味わう故に、毎週聖餐式をするわけではありません。しかし、キリスト者にとっての日曜日とは如何なる日であるのかを、「主の復活の日」として改めて覚えたいと思います。

「…夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と続きます。マグダラのマリアは早朝から墓へ行き、復活の主イエスにお会いし、主が天に帰られることを弟子たちに伝えました。マリアは復活の主の呼び声によって振り返り、方向転換して神へと向かうことによって、救い主としての主イエスを見出しました。これらのことがあって後、夕方に、しかし弟子たちは、喜んでいるのではなく、鍵をかけて身を隠しております。弟子たちは、主イエスを十字架につけたユダヤ人を恐れているのです。主イエスを十字架にかけたユダヤ人に、主の弟子である自分たちも憎まれ殺されると思ったのです。
 しかし実は、恐れる必要などありませんでした。ユダヤ人が憎んだのは、自分たちの存在を脅かす主イエスのみ、だったからです。主イエスが権威ある方であり、自分たちを超えた存在であると知って憎んだのであって、ユダヤ人たちにとって主の弟子たちなどは、恐れるに足る存在ではありませんでした。福音書に度々、ファリサイ派の人々が弟子たちの律法違反を指摘する場面が描かれていることをみても、彼らは、主イエスの弟子たちが律法など守り得ない田舎者たちであることを知っているのです。彼らは「主イエスを信じる群れ」を恐れていたのではありません。主イエスさえいなくなれば、そのような一団は自然に消滅すると考えていたでしょう。後にキリスト者に対する迫害が起こりますが、それはペトロに対してではなくパウロに対してでした。何故ならば、パウロがファリサイ派であったにも拘らずキリスト者となった、裏切り者だからでした。
 恐れる必要もないのに恐れて身を隠している主イエスの弟子たちの姿は、何と滑稽なことでしょう。この姿からも、彼らが恐れるに足りない者たちであることが分ります。何も理解せず、ただ怯え隠れる、惨めなまでに無力な者の姿です。主イエス無き弟子たちは「無力な存在」であることが示されております。

「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。そのような弟子たちの真ん中に主イエスは来てくださり、祝福の挨拶をくださるのです。無力でしかない者たち、しかし主イエスの名によって集められた者たちの真ん中に、主イエスは来てくださったのです。
 扉に鍵がかかっているのに、なぜ主イエスは中に入れたのか。主イエスは元の肉の体に甦られたのではありません。霊の体(完全な体)として甦ってくださったのです。鍵など、主イエスを阻むものは何もないのです。
 主イエスは「二、三人、わが名によって集まるところに、わたしも共にいる」と言ってくださいました。主イエスが私どもの真ん中に立っていてくださる、それは私どもの交わりの中心に、主イエスがいてくださるということです。それは私どもにとって何と幸いなことでしょう。私どもが主イエスの名によって集うところに、主イエスが甦りの主として、私どもの中心にいてくださるということです。
 今、主の名によって集められ、主を礼拝する私どものただ中に、真ん中に、甦りの主イエス・キリストが在すのです。今、この礼拝において、私どもは共に主の臨在に与っているのです。今、私ども一人ひとりに復活の主が臨んでいてくださっているのです。それは、罪の赦しと永遠の命の約束の恵みに、共に与っているということです。それがこの御言葉を通して示されていることです。

主の名によって集められ、共に主の臨在に与る礼拝生活。長い年月、このような礼拝生活を続けて来た者たちは、たとえ礼拝の場に集えなくなる日が来たとしても、守り続けた礼拝の日々を思い起こし、その恵みに生きることができます。何と幸いなことかと思います。それは、礼拝生活があったからこその恵みなのです。
 ですから、いずれは年老いて礼拝の場に集えなくなる私どもであるからこそ、今このときの礼拝生活が大切であることを覚えたいと思います。

主が臨んでくださり、主の臨在に共に与る弟子たちに、主は「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉をくださいました。それは、無力な弟子たち、駄目な者たちを諭す言葉ではありません。恐れている者に「平安」を祈ってくださるのです。主が臨んでくださり、主の御言葉をいただくところに平安があり、恐れが取り除かれるのです。
 主にある平和は、主にある平安。主イエス・キリストこそ平和の主、平和の君です。主イエス・キリストにより頼む者には「平和」が与えられるのです。
 第一の平和とは何か。それは「神との平和」です。神との和解、神との平和なくして、人と人との平和は有り得ません。主イエス・キリストは十字架の贖いによって、私どもに、神との和解、神との交わりをお与えくださいました。それによって、私どもは平和に満たされるのです。キリスト者の挨拶は「平和を祈ること」であることを改めて思います。

主イエスは、弱く、恐れている弟子たちに「平安」をお与えくださった上で、ご自分の「手」と「わき腹」をお見せになります(20節)。それは、主イエスが十字架についておられたことの印です。その十字架の印を見て、「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されております。十字架で死なれた主イエスが、甦りの、復活の主イエスとして、ここにいてくださっていると知って、喜んだというのです。
 「十字架の主イエス」を、弟子たちは喜ぶことはできませんでした。けれども、主イエスが復活の主として、罪の赦しと永遠の命の主として臨んでくださることによって、弟子たちは、主にある平和に満たされて喜ぶ者と変えられたのです。

そして、主を見て喜ぶ弟子たちに、再び主は「平和があるように」と平安をお与えくださり、その上で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす(21節)」と、弟子たちをこの世に遣わすと言ってくださいます。主イエスは弟子たちを、甦りの主イエス・キリスト(救い主)を宣べ伝える者として、この世に派遣してくださるのです。ここで弟子たちは、主に守られるばかりの存在から、主イエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられました。弟子として招かれるという召命から、主の弟子として送り出されるという召命が与えられるのです。

22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい」。主イエスは弟子たちに「息を吹きかけて」くださいます。「主の聖霊」を吹き込んでくださるのです。それは派遣されるにあたって大事なことです。聖霊をいただくことなくして、復活の主イエス・キリストを宣べ伝えることはできないからです。
 更に、その派遣にはどのような権能が与えられているかも示されております。23節「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」。聖霊を受けて宣べ伝える、その宣べ伝えられたことを信じる者に対して「赦しを与える力」を与えると言ってくださるのです。まさしくこの権能こそ、主イエス・キリストから「教会」に与えられた力です。教会の使命は、主を宣べ伝え、罪を赦すことです。
 ここで覚えておくべきことがあります。それは、教会は裁く権能は与えられていないということです。赦しを留保する力を与えられているのであり、裁きは神に任せなければなりません。裁きはどこまでも神にのみあるのです。けれども赦しの留保とは、重い責任でもあります。私どもは心弱く、留保として相手を放置することはなかなかできないことなのです。
 しかし、そのように弱い私どもに「赦しの権能が与えられている」とは、何ということでしょうか。私どもは、復活の主イエスを信じる者として、この地上において既に、天上における赦しの出来事に与っているのだということを覚えたいと思います。赦しの権能は「教会」の他には、地上のどこにも無い力です。この世において他者を赦すことができるとは、何と畏れ多いことでしょう。恐れる必要のないものを恐れるような無力な主の弟子たち(私ども)に、そのような権能が与えられているとは、まさしく神のみ、なせる業であることを覚えたいと思います。

無力な主の弟子たちは、何をも恐れず主イエス・キリストを宣べ伝え、赦しの宣言をなす者へと変えられました。それは、聖霊による、神による出来事です。
 主の救いを宣言すること、主が言ってくださった御言葉を宣べ伝えること、それが、この世にあって、教会に、私どもに与えられている使命であることを覚えたいと思います。

正義の若枝」 12月第2主日礼拝 2010年12月12日 
北 紀吉 牧師 
聖書/エレミヤ書 第33章14節〜26節

<14節>見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。<15節>その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。<16節>その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。<17節>主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。<18節>レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。」<19節>主の言葉がエレミヤに臨んだ。<20節>「主はこう言われる。わたしが昼と結んだ契約、夜と結んだ契約を、お前たちが破棄して、昼と夜とがその時に従って巡るのを妨げることができないように、<21節>わたしが、わが僕ダビデと結んだ契約が破棄され、ダビデの王位を継ぐ嫡子がなくなり、また、わたしに仕えるレビ人である祭司との契約が破棄されることもない。<22節>わたしは数えきれない満天の星のように、量り知れない海の砂のように、わが僕ダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人の数を増やす。」<23節>主の言葉がエレミヤに臨んだ。<24節>「この民は、『主は御自分が選んだ二つの氏族を見放された』と言って、わが民をもはや一国と呼ぶに値しないかのように、軽んじているのをあなたは知らないのか。<25節>主はこう言われる。もし、わたしが昼と夜と結んだ契約が存在せず、また、わたしが天と地の定めを確立しなかったのなら、<26節>わたしはヤコブとわが僕ダビデの子孫を退け、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶことをやめるであろう。しかしわたしは、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。」

待降節を覚えて、今日は、エレミヤ書から聴きたいと思います。

14節「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」と記されております。この箇所は、「恵みの約束」すなわちキリスト者にとっては「メシア(救い主)の到来」を告げる御言葉として、待降節第一主日に伝統的に読まれる箇所であり、「メシアの到来」=「主イエス・キリストの誕生」を預言する御言葉として、キリスト教会は重んじてきました。「神の御子イエス・キリストの誕生」とは何か。それは「メシアの到来」であることを示しております。ですから「クリスマス」とは、「メシア(救い主)の到来」をお祝いすることです。
 ここで注意すべきことがあります。「メシアの到来」をただ喜ぶことがクリスマスなのでしょうか。そうではありません。「メシアの到来」の祝い方、それは「礼拝」をもっての祝いであることを覚えたいと思います。「クリスマス」とは「クリス(キリスト)・マス(礼拝)」です。私どもの救い主として、この地上に人となってお生まれくださった(来てくださった)主イエス・キリストを礼拝し、誉め讃えること、それがクリスマスの祝い方であることを改めて覚えたいと思います。
 元来、今日読むエレミヤ書(旧約聖書)においては、クリスマスは意味を持ちませんが、この箇所から御言葉を聴くにあたり、ここに記されていることの時代背景も知る必要があるかと思います。そもそもこの箇所は、ヘブル語のエレミヤ書にはないので、エレミヤのものではないのです。ですから、エレミヤの時代を直接背景としておらず年代も限定できません。しかし、エレミヤ書の中にあることから考えますと、この時代背景は「バビロン捕囚」です。紀元前500年頃、ネブカドネツアル王によってイスラエル神殿は壊され、ダビデの血筋をひく王家は退けられ、イスラエルの民は捕囚の民となります。ダビデ王家が退き、神殿を失った祭司(レビ人)は必要のない存在となる。イスラエルからダビデ王家と祭司職が失われるということは、どういうことを示しているのでしょうか。それは、イスラエルが「神を実感できなくなる」ということです。人は、共同体の中で「神を覚える」ものです。「神を覚える」ことは個人的なことではないのです。ダビデ王家の統治と神殿礼拝を失うことは、イスラエルにとって「神との交わりを失う」こと、すなわち「希望を失う」ことなのです。

希望を失ったイスラエルに対して、19節〜21節、逆説的な言い回しですが、ダビデ王家が立て直され祭司職が回復されることが記されております。希望を失った民に、もう一度、神との交わりを覚えさせる。もう一度、神を見出し、神の祝福の中にあることを思い起こすことによって、神にある希望を抱かせる、それがこの預言の言葉なのです。
 イスラエルの民とはどのような民なのでしょうか。イスラエルは神の選びの民、神の民です。神にこそ希望を持つ民であり、この世と神との「執り成し手」としての力をいただく民です。世界に「神の祝福を語るという力」を神から与えられている民なのです。
 そしてそれは、主イエス・キリストの救いに与り、神の民とされた私どもの姿でもあります。

15節「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。神はイスラエルとの約束を果たすために「正義の若枝を与える」と言われております。
 「正義の若枝」、私どもにとってそれは「主イエス・キリスト」です。「救い主(メシア)の到来」は「正義」としての到来なのです。

この「義」ということが難解です。「義」とは法廷用語ですが、日本人は元来、法感覚が乏しいために「義」を理解しずらいのです。日本人は「和を以て尊しとなす」ということを重んじて秩序を保とうとしますので、たとえ法で定められたことであっても「赤信号みんなで渡れば恐くない」と言うように、良いことであれ悪いことであれ、皆ですることが第一で、法は破ってもよいとするような感覚があり、「義」を第一とするという姿勢に乏しいのです。皆の和が大事ですから、たとえ正しい事であっても一人でやることは集団の調和を乱すものとして排除しようとする、正義よりも集団の倫理を優先するのです。かつてそれは、教会においてもよく言われたことでした。教会は「神を礼拝する群れ」であるのに、日本の教会はいつしか「お世話共同体」になってしまう傾向があったのです。礼拝する群れとしての共同体ではなく、相手への配慮や思いやりが優先する共同体が作られたのです。
 しかし今の日本社会はどうかと言いますと、昔と違って、共同体性が薄れ、お世話共同体を作らなくなっております。人が群れなくなったのです。町にお風呂屋さんが少なくなり、子どもは外で皆で遊ぶことがなくなりました。一緒にいても各々が別のことをしている、という遊び方です。
 「和を以て尊しとなす」「お世話共同体」の中では、集団の倫理が重んじられておりましたが、群れようとしない今、人にとっては個のあり方、生き方が大事であり、個の倫理が重んじられるので、個の確立を求めて倫理宗教が流行るようになるのです。イスラム教に人々が惹かれるのは、生き方を説く、その倫理性にあるでしょう。しかし倫理宗教は、世界を、時代を担う宗教にはなり得ないのです。なぜならば、人は皆、やはり集団の中に生きる者だからです。
 「個の確立」とは「人格ある者」としての「個の倫理」を必要とするのです。「個の確立」を「人格ある個として確立」し得るのは、キリスト教だけです。神の前に、信仰によって「人格ある者」とされた「個」としての倫理を語り、人と人との交わりを担う、これこそキリスト教が社会に対して貢献し得ることだと思います。

話しを戻しますと、「正義」とは「神」のことです。神は「義」なる方、だから「裁く」のです。ですから「義」は法廷用語です。「裁き」とは「神の義」を現すものです。ただ神のみが「罪を裁く方」なのであって、人は罪を裁くことはできないのだということを忘れてはなりません。特に日本人は、心情的・情緒的ですから、裁くことは苦手と言えましょう。相手を配慮し、憎しみを晴らすことに思いが傾くのです。しかし人は、どんなに相手を裁いたとしても、決して憎しみの気持ちを収めることはできません。人には正義がないのですから、正義のない裁きは決して終わることはできないのです。裁き切れない裁き、終わらない裁き、それが人のする裁きです。
 私どもキリスト者であっても、社会にあって、さまざまなしがらみや捕われという怨霊にがんじがらめにされ苦しむ者ですが、この礼拝において、共に神を仰ぎ讃美するとき、自分を縛るそのような怨霊から解き放たれ、聖なる者へと変えられ、思いを変えられるのです。神は「義なる方」であるがゆえに裁くのであり、その裁きによって罪を終わらせてくださるのです。

その「義なる方」が「神の御子」として来てくださる、それがクリスマスの出来事です。「神の義」が「神の御子」としてこの世に現されることによって、私ども(人)の罪が明らかにされ、その罪が裁かれ罪が終わりとされ、神との交わりに生きる者とされる、それが「救い」です。ですから「義なる方の到来」とは、とても大事なことです。
 そして「義なる方」は、私どもの思いもよらない仕方で、私ども救ってくださるのです。それが「十字架」です。主イエス・キリストは私どもの身代わりとなって自ら「十字架」にかかり、ご自身の血潮をもって裁かれて、私どもの罪を終わらせてくださいました。

待降節は、私どもの救い主「神の御子イエス・キリストの誕生」を待ち望むときです。神の御子は、ただ人の子(赤ん坊)としてお生まれくださった、ということではありません。クリスマスは、神の御子が「正義の若枝」として「義なる方」としてこの地上に来てくださり、私どもの罪を終わりにしてくださり、私どもを義としてくださった恵みなのだということを、改めて、待降節のこのときに、感謝をもって覚えたいと思います。

栄光、神に」 12月第3主日礼拝 2010年12月19日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第2章8節〜21節

2章<8節>その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。<9節>すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。<10節>天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。<11節>今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。<12節>あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」<13節>すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。<14節>「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」<15節>天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。<16節>そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。<17節>その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。<18節>聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。<19節>しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。<20節>羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。<21節>八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

神の御子イエス・キリストが、ベツレヘムでお生まれになりました。
 しかし、だれも、救い主の「人としての誕生」を知りません。

ただ、ヨセフとマリアは、生まれてくる幼な子が救い主であることを知っておりました。なぜならば、ヨセフはいいなずけのマリアが身ごもっていることを知ったとき、ひそかに離縁しようとしましたが、夢に天使が現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20)と告げられ、マリアにも天使が臨んで「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(ルカ1:31)と告げられたからです。二人は自らの思いによって「知っていた」のではありませんでした。二人は「生まれてくる幼な子は救い主である」ことを「告げられた」から知っていたのです。「神の御子が人として誕生する」ということは、人の思いによっては知り得ない出来事です。「告げられた」ことを信じたかというと、二人は信じられませんでした。しかし、それは起こりました。

人々の寝静まった夜、荒れ野で「救い主が誕生する」ということを、だれも知りません。8節「その地方で」とは、荒れ野である低地です。町や村に住む人々は寝静まっていて「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」いることも知りません。町や村に住む人々の生活は、日の出と共に起き日没と共に眠ることが通常でしたから、夜に仕事をするなどということは考えられないことでした。「羊飼いたち」は、いつしか「だれからも忘れ去られた存在」だったのです。
 「神の御子が人として生まれる」ことも、「羊飼いが夜通し羊の群れの番をしている」ことも、だれも知らないのです。それは、とても象徴的なことです。「だれも知らない出来事=救い主の誕生」が「だれも知らない、忘れ去られた人々」に告げられました。ヨセフとマリアの次に救い主の誕生を告げられたのは、「羊飼いたち」でした。

9節「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と記されております。「主の栄光」とは何か。「神」は「光」として言い表されております。「神の臨在」はまばゆい光であって、その圧倒される光に、羊飼たちは恐れおののいたのです。

しかし、10節「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。人知れずの存在、恐れおののく者でしかない羊飼いたちに、恐れを凌駕する「大きな喜びが与えられる」と告げられます。神が親しく羊飼いたちに臨んでくださって、喜びの知らせを告げてくださるのです。それが羊飼いたちに与えられた「恵み」です。
 「救い主が幼な子として誕生する」という出来事は、人の思いによって知ることはできません。隠された出来事、人には知り得ない出来事を、「神が告げて」くださるのです。神が示してくださる以外に、知ることはできません。
 人は、自分自身のことですら知り得ない者です。そのような者が、どうして神のことを知ることができるでしょうか。ただ「神が知らせてくださる」から、人は「人の認識を超えた大いなる出来事を知る」ことができるのです。
 羊飼いたちは、敬虔な者でも知恵ある者でもありませんでした。ただ日常に埋もれ、忘れ去られた存在でしかない、そのような者に「救い主を知る恵みが与えられた」のです。

12節「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と記されております。だれが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が「救い主のしるし」だなどということを信じられるでしょうか。「布」とは「産着」、「飼い葉桶」とは「ベビーベッド」です。乳飲み子は産着やベッドで「守られなければならない存在」なのです。このような幼な子の姿が「救い主のしるし」だとは、天使が告げてくれなければ、だれも信じることはできない「救い主の誕生」です。ごくごく普通の赤ちゃんであることが「救い主のしるし」なのです。

「奇跡」とは、どのようなことでしょうか。「ごくごく普通の出来事が、神の出来事であることを知る」、それが私どもの日常における「奇跡」であると言えます。「奇跡」とは、日常の中に神の働きを見ることなのです。私どもの日常の中に「神の救いの御業が働いている」、それが「救い主の幼な子としての誕生」という出来事によって告げられていることです。

13・14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ』」。「栄光」とは何か。「栄光」とは「神が神として臨んでおられること、神が臨在しておられること」です。それは「神が神として満ちあふれている」状態です。神が満ち満ちておられるところでは、人は畏れる他はないのです。

「地には平和」とは、天上における神の臨在が地上において満ちあふれるということです。神が臨んでくださって恵みに満ちあふれる、それが私どもの「平和」なのです。私どもは、この地における世界の平和を願いますが、いくら「平和」を叫んでも一向に満たされないという現実があります。それはなぜでしょうか。「真の平和」とは「神にあってこそ」であるからです。人の思いによって満ち足りることはできません。ただ「神によってのみ、満ちあふれる」のです。

「御心に適う人」とは、だれを指すのでしょうか。神のお気に入りの人ということでしょうか。そうではありません。「御心に適う人」とは「神の好意を得た者たち」であり、ここではすなわち「羊飼いたち」なのです。「羊飼いたち」は、神から好意を与えられました。だれからも忘れ去られた者たちを、神は、神の御心に適う者としてくださいました。人々から多くの好意を受ける者は、好意を必要とはしません。忘れ去られた者をこそ、神は覚えてくださり、好意を与えてくださるのです。

そして20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と、神から「好意を与えられた」羊飼いたちは「神を讃美する者」となりました。

今、この礼拝に集う私どもも、ベツレヘムの荒れ野で羊飼いたちに告げられた御言葉を、羊飼いたちと同じく聴いております。

ヨセフとマリアに、生まれてくる幼な子が救い主であることが告げられました。
 荒れ野で、だれからも忘れ去られた羊飼いたちに、救い主の幼な子としての誕生が告げられました。ヨセフとマリア、羊飼いたちは、「神が好意を与えられた者」として、神の出来事を告げられ、聴くのです。神が「神の御心に適った者」と言ってくださっているのです。ヨセフもマリアも、羊飼いたちも、そして私どもも「神の御心に適った者とされた恵み」の中にあることを覚えたいと思います。

今ここに、神が、「私どもの神」として臨んでくださり、この礼拝の場に神がいてくださいます。それは「神の栄光に与らせてくださっている」という恵みです。

ですからこそ、私どもも「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と、今、神を讃美する者でありたいと思います。

信じないトマス」 2010年歳晩礼拝 2010年12月26日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第20章24節〜29節

20章<24節>十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。<25節>そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」<26節>さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<27節>それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」<28節>トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。<29節>イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

一年の最後の主日に、主の呼びかけに応えて共々に礼拝できますことを感謝いたします。この年も神が共にいて導いてくださっての一年でした。自らの歩みを神の恵み、導きのうちに覚えることは幸いなことです。在りし一年に神の恵み、導きを見る者は、新しい一年に「希望」を見ることができるのです。神の恵みを覚えられなければ、希望はありません。歳晩礼拝において神の恵みを覚えることで、私どもは、新しい一年に未来と希望を持つ者として歩み出すことができます。神の恵みの想起こそが、信仰者としての希望ある生き方であることを覚えたいと思います。

ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、復活の主イエス・キリストが立ち、平安を祈り、聖霊を注いでくださり、聖霊によって弟子たちには「罪を赦す権能」が与えられました。しかし24節、その場にトマス一人だけ、いなかったのです。25節を読みますと、トマスは他の弟子たちの言うことを受け入れることができませんでした。なぜなのでしょうか。
 ここで「わたしたちは主を見た」という言葉は、「見た」という単なる目撃証言ではないことが、トマスの言葉によって示されております。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っております。つまり、弟子たちは「十字架の主イエスが復活された姿を見た」のだということです。ですから、ここでの「見た」は、「キリスト(救い主)証言」であることが前提なのです。弟子たちは「救い主イエス・キリスト」を見、罪の赦しの権能を与えられました。その「キリスト」を、トマスは信じないのです。
 しばしばトマスは、疑い深い人と言われておりますが、しかしそうだったのでしょうか。トマスは一人だけそこに居合わせず、皆が共通して経験した出来事を共にできませんでした。ですから、仲間外れになったような、一人遅れをとったような気がして、心を頑なにしたのではないでしょうか。25節の言葉には、単に疑ったということ以上に、思いを頑にして拒んでいる、信じない決意をしているという印象を持ちます。「信じたくない、信じるものか!」という言葉なのです。それは大変不遜な思いです。自分の頑な思いによって、死者への哀悼ではなく死者をむち打つような不遜な行いなのです。しかし、そのようなトマスに対して、主イエスが臨んでくださいました(26節〜)。

ここで、問題意識を持つと良いと思います。それは「トマスだけ、いなかったことの意味」です。このことに関して、人の側の理由は記されておりません。このことによって神が何を示してくださっているのかということを意識して読むと、どうでしょうか。
 26節「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と記されております。「主イエスが弟子たちの真ん中に立ち、平和のあいさつをくださる」、それは8日前と同じです。一つ違っているのは、そこに「トマスも一緒にいた」ということです。
 主イエスの御名のもとに集まっている者の真ん中に、主イエスはいてくださいます。ですから、今、この礼拝のただ中に主がおられ、主が中心であられるのです。今、主イエスが私どもと共にあってくださる、それは「主イエスが臨んでくださる」ということです。今まさに、この場に主イエスが臨んでいてくださっていることを覚えつつ、この箇所を読み進めていきたいと思うのです。
 主イエスはトマスに、27節「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。「トマスにも主イエスが臨んでくださった」ということを、まず受け止めたいと思います。19節以降に示されていたことは、「信じられない者たち=弟子たち」に、主イエスが臨んでくださったということでした。しかしここで大きく違っていることは、「頑なに信じようとしない者=トマス」に、主イエスが臨んでくださっているということです。「信じられない者」ではなく「頑なに信じようとしない者」にも、主イエスは臨んでくださったのです。主イエスは「信じようとしない者をも救う方」であることを覚えたいと思います。
 聖書の中で言えば、使徒パウロは、主イエスを拒んだだけではなく、主を信じる者たちを迫害する者でしたが、そのパウロに復活の主イエス・キリストが臨んでくださって「なぜ、わたしを迫害するのか」との御言葉をくださり、復活の主イエスと出会ったパウロは「信じる者」へと変えられました。主イエスは、ご自分を迫害する者さえ救い、救いを宣べ伝える者と変えてくださる方です。心頑なにして信じようとしない者たちのためにも、主イエス・キリストは来てくださいました。主イエスは、信じる者だけの救い主なのではありません。信じられない者、信じようとしない者たちをも救う方であることを覚えたいと思います。
 トマスも後に、主の救いの業に仕える者とされました。頑なに信じようとしなかったトマスの姿を通して、今、聖書を読む私どもに、主の救いの御業が伝えられているのです。

主イエスに御言葉をいただき、28節、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。この言葉は「あなたこそ、わたしの主、神です」というキリスト告白、神告白、神への讃美の言葉です。トマスは、圧倒的な神の臨在、キリストの臨在を感じて、ひれ伏します。「キリストへの信仰告白」をせざるを得ないのです。このように、信仰とは、神に白旗を揚げること、神への全面降伏です。トマスは主のわき腹にさわって納得して、信仰告白したのではありませんでした。神への全面降伏とは、恵みのできごとです。神に完敗するからこそ「あなたこそ、わたしの神」と言い得るのです。全面降伏していないから、へ理屈を言い、言い逃れをするのです。全面降伏するとき、そこで初めて、神、キリストが全てとなり、神を神として崇めることができるのです。そして全てに解き放たれて、平安となるのです。

29節、主イエスは、全面降伏したトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。
 ヨハネによる福音書は二重の終わり方をしております。本来は、29節の後、この福音書が記された目的として30・31節があって終わっているのです。しかし続けて21章が付き、ペトロと主の愛する弟子たちの証言が記されております。
 本来はここで終わっていることを考えますと、29節のこの言葉は、本来のヨハネによる福音書の締めくくりの言葉なのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」とは、もはや「復活のキリストが私どもに直接臨むことによってキリストの臨在を感じる時ではなくなった」ということを示しております。主イエス・キリストが臨んでくださって、私どもも信じる者となりました。しかし、聖書の中の弟子たちのように、直接、復活の主イエスを見るという形で主の臨在を感じるのではないのです。
 主イエスは弟子たちに現れて後、天に帰られました。では、後の教会は主イエスの臨在をどこで感じたのでしょうか。それは「御言葉」によるのです。御言葉と共に聖霊が働くのです。御言葉によってキリストを感じ、キリストを見るのです。ですから「見ないのに信じる人」とは、私どものことを示しております。御言葉をいただく、御言葉を聴く、そこで私どもはキリストを感じるのです。そして、そのような私どもを、主は「幸いな者」だと言ってくださっております。「見ないのに信じた者」として、私どもは、主イエスから「幸いな者」と言っていただいていることを、感謝をもって覚えたいと思います。

私どもが聖書の御言葉に聴くとき、主イエスはそこに共にいてくださり、私どもは「主の救いのうちにある」のです。それが私どもに与えられている幸いです。

今ここに集い、一年最後の礼拝を守っていることは幸いなことです。この場に主イエスが臨んでくださって、私どもを「幸いな者」と言ってくださっているのです。主によって「幸いな者」とされた存在として、希望を持って、新しい一年を始める者でありたいと願います。