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19節「その日」とは「主イエスの復活の日」です。 「…夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と続きます。マグダラのマリアは早朝から墓へ行き、復活の主イエスにお会いし、主が天に帰られることを弟子たちに伝えました。マリアは復活の主の呼び声によって振り返り、方向転換して神へと向かうことによって、救い主としての主イエスを見出しました。これらのことがあって後、夕方に、しかし弟子たちは、喜んでいるのではなく、鍵をかけて身を隠しております。弟子たちは、主イエスを十字架につけたユダヤ人を恐れているのです。主イエスを十字架にかけたユダヤ人に、主の弟子である自分たちも憎まれ殺されると思ったのです。 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。そのような弟子たちの真ん中に主イエスは来てくださり、祝福の挨拶をくださるのです。無力でしかない者たち、しかし主イエスの名によって集められた者たちの真ん中に、主イエスは来てくださったのです。 主の名によって集められ、共に主の臨在に与る礼拝生活。長い年月、このような礼拝生活を続けて来た者たちは、たとえ礼拝の場に集えなくなる日が来たとしても、守り続けた礼拝の日々を思い起こし、その恵みに生きることができます。何と幸いなことかと思います。それは、礼拝生活があったからこその恵みなのです。 主が臨んでくださり、主の臨在に共に与る弟子たちに、主は「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉をくださいました。それは、無力な弟子たち、駄目な者たちを諭す言葉ではありません。恐れている者に「平安」を祈ってくださるのです。主が臨んでくださり、主の御言葉をいただくところに平安があり、恐れが取り除かれるのです。 主イエスは、弱く、恐れている弟子たちに「平安」をお与えくださった上で、ご自分の「手」と「わき腹」をお見せになります(20節)。それは、主イエスが十字架についておられたことの印です。その十字架の印を見て、「弟子たちは、主を見て喜んだ」と記されております。十字架で死なれた主イエスが、甦りの、復活の主イエスとして、ここにいてくださっていると知って、喜んだというのです。 そして、主を見て喜ぶ弟子たちに、再び主は「平和があるように」と平安をお与えくださり、その上で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす(21節)」と、弟子たちをこの世に遣わすと言ってくださいます。主イエスは弟子たちを、甦りの主イエス・キリスト(救い主)を宣べ伝える者として、この世に派遣してくださるのです。ここで弟子たちは、主に守られるばかりの存在から、主イエス・キリストを宣べ伝える者へと変えられました。弟子として招かれるという召命から、主の弟子として送り出されるという召命が与えられるのです。 22節「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい」。主イエスは弟子たちに「息を吹きかけて」くださいます。「主の聖霊」を吹き込んでくださるのです。それは派遣されるにあたって大事なことです。聖霊をいただくことなくして、復活の主イエス・キリストを宣べ伝えることはできないからです。 無力な主の弟子たちは、何をも恐れず主イエス・キリストを宣べ伝え、赦しの宣言をなす者へと変えられました。それは、聖霊による、神による出来事です。 |
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待降節を覚えて、今日は、エレミヤ書から聴きたいと思います。 14節「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」と記されております。この箇所は、「恵みの約束」すなわちキリスト者にとっては「メシア(救い主)の到来」を告げる御言葉として、待降節第一主日に伝統的に読まれる箇所であり、「メシアの到来」=「主イエス・キリストの誕生」を預言する御言葉として、キリスト教会は重んじてきました。「神の御子イエス・キリストの誕生」とは何か。それは「メシアの到来」であることを示しております。ですから「クリスマス」とは、「メシア(救い主)の到来」をお祝いすることです。 希望を失ったイスラエルに対して、19節〜21節、逆説的な言い回しですが、ダビデ王家が立て直され祭司職が回復されることが記されております。希望を失った民に、もう一度、神との交わりを覚えさせる。もう一度、神を見出し、神の祝福の中にあることを思い起こすことによって、神にある希望を抱かせる、それがこの預言の言葉なのです。 15節「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。神はイスラエルとの約束を果たすために「正義の若枝を与える」と言われております。 この「義」ということが難解です。「義」とは法廷用語ですが、日本人は元来、法感覚が乏しいために「義」を理解しずらいのです。日本人は「和を以て尊しとなす」ということを重んじて秩序を保とうとしますので、たとえ法で定められたことであっても「赤信号みんなで渡れば恐くない」と言うように、良いことであれ悪いことであれ、皆ですることが第一で、法は破ってもよいとするような感覚があり、「義」を第一とするという姿勢に乏しいのです。皆の和が大事ですから、たとえ正しい事であっても一人でやることは集団の調和を乱すものとして排除しようとする、正義よりも集団の倫理を優先するのです。かつてそれは、教会においてもよく言われたことでした。教会は「神を礼拝する群れ」であるのに、日本の教会はいつしか「お世話共同体」になってしまう傾向があったのです。礼拝する群れとしての共同体ではなく、相手への配慮や思いやりが優先する共同体が作られたのです。 話しを戻しますと、「正義」とは「神」のことです。神は「義」なる方、だから「裁く」のです。ですから「義」は法廷用語です。「裁き」とは「神の義」を現すものです。ただ神のみが「罪を裁く方」なのであって、人は罪を裁くことはできないのだということを忘れてはなりません。特に日本人は、心情的・情緒的ですから、裁くことは苦手と言えましょう。相手を配慮し、憎しみを晴らすことに思いが傾くのです。しかし人は、どんなに相手を裁いたとしても、決して憎しみの気持ちを収めることはできません。人には正義がないのですから、正義のない裁きは決して終わることはできないのです。裁き切れない裁き、終わらない裁き、それが人のする裁きです。 その「義なる方」が「神の御子」として来てくださる、それがクリスマスの出来事です。「神の義」が「神の御子」としてこの世に現されることによって、私ども(人)の罪が明らかにされ、その罪が裁かれ罪が終わりとされ、神との交わりに生きる者とされる、それが「救い」です。ですから「義なる方の到来」とは、とても大事なことです。 待降節は、私どもの救い主「神の御子イエス・キリストの誕生」を待ち望むときです。神の御子は、ただ人の子(赤ん坊)としてお生まれくださった、ということではありません。クリスマスは、神の御子が「正義の若枝」として「義なる方」としてこの地上に来てくださり、私どもの罪を終わりにしてくださり、私どもを義としてくださった恵みなのだということを、改めて、待降節のこのときに、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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神の御子イエス・キリストが、ベツレヘムでお生まれになりました。 ただ、ヨセフとマリアは、生まれてくる幼な子が救い主であることを知っておりました。なぜならば、ヨセフはいいなずけのマリアが身ごもっていることを知ったとき、ひそかに離縁しようとしましたが、夢に天使が現れ「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20)と告げられ、マリアにも天使が臨んで「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」(ルカ1:31)と告げられたからです。二人は自らの思いによって「知っていた」のではありませんでした。二人は「生まれてくる幼な子は救い主である」ことを「告げられた」から知っていたのです。「神の御子が人として誕生する」ということは、人の思いによっては知り得ない出来事です。「告げられた」ことを信じたかというと、二人は信じられませんでした。しかし、それは起こりました。 人々の寝静まった夜、荒れ野で「救い主が誕生する」ということを、だれも知りません。8節「その地方で」とは、荒れ野である低地です。町や村に住む人々は寝静まっていて「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をして」いることも知りません。町や村に住む人々の生活は、日の出と共に起き日没と共に眠ることが通常でしたから、夜に仕事をするなどということは考えられないことでした。「羊飼いたち」は、いつしか「だれからも忘れ去られた存在」だったのです。 9節「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」と記されております。「主の栄光」とは何か。「神」は「光」として言い表されております。「神の臨在」はまばゆい光であって、その圧倒される光に、羊飼たちは恐れおののいたのです。 しかし、10節「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。人知れずの存在、恐れおののく者でしかない羊飼いたちに、恐れを凌駕する「大きな喜びが与えられる」と告げられます。神が親しく羊飼いたちに臨んでくださって、喜びの知らせを告げてくださるのです。それが羊飼いたちに与えられた「恵み」です。 12節「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と記されております。だれが「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が「救い主のしるし」だなどということを信じられるでしょうか。「布」とは「産着」、「飼い葉桶」とは「ベビーベッド」です。乳飲み子は産着やベッドで「守られなければならない存在」なのです。このような幼な子の姿が「救い主のしるし」だとは、天使が告げてくれなければ、だれも信じることはできない「救い主の誕生」です。ごくごく普通の赤ちゃんであることが「救い主のしるし」なのです。 「奇跡」とは、どのようなことでしょうか。「ごくごく普通の出来事が、神の出来事であることを知る」、それが私どもの日常における「奇跡」であると言えます。「奇跡」とは、日常の中に神の働きを見ることなのです。私どもの日常の中に「神の救いの御業が働いている」、それが「救い主の幼な子としての誕生」という出来事によって告げられていることです。 13・14節「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ』」。「栄光」とは何か。「栄光」とは「神が神として臨んでおられること、神が臨在しておられること」です。それは「神が神として満ちあふれている」状態です。神が満ち満ちておられるところでは、人は畏れる他はないのです。 「地には平和」とは、天上における神の臨在が地上において満ちあふれるということです。神が臨んでくださって恵みに満ちあふれる、それが私どもの「平和」なのです。私どもは、この地における世界の平和を願いますが、いくら「平和」を叫んでも一向に満たされないという現実があります。それはなぜでしょうか。「真の平和」とは「神にあってこそ」であるからです。人の思いによって満ち足りることはできません。ただ「神によってのみ、満ちあふれる」のです。 「御心に適う人」とは、だれを指すのでしょうか。神のお気に入りの人ということでしょうか。そうではありません。「御心に適う人」とは「神の好意を得た者たち」であり、ここではすなわち「羊飼いたち」なのです。「羊飼いたち」は、神から好意を与えられました。だれからも忘れ去られた者たちを、神は、神の御心に適う者としてくださいました。人々から多くの好意を受ける者は、好意を必要とはしません。忘れ去られた者をこそ、神は覚えてくださり、好意を与えてくださるのです。 そして20節「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と、神から「好意を与えられた」羊飼いたちは「神を讃美する者」となりました。 今、この礼拝に集う私どもも、ベツレヘムの荒れ野で羊飼いたちに告げられた御言葉を、羊飼いたちと同じく聴いております。 ヨセフとマリアに、生まれてくる幼な子が救い主であることが告げられました。 今ここに、神が、「私どもの神」として臨んでくださり、この礼拝の場に神がいてくださいます。それは「神の栄光に与らせてくださっている」という恵みです。 ですからこそ、私どもも「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」と、今、神を讃美する者でありたいと思います。 |
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一年の最後の主日に、主の呼びかけに応えて共々に礼拝できますことを感謝いたします。この年も神が共にいて導いてくださっての一年でした。自らの歩みを神の恵み、導きのうちに覚えることは幸いなことです。在りし一年に神の恵み、導きを見る者は、新しい一年に「希望」を見ることができるのです。神の恵みを覚えられなければ、希望はありません。歳晩礼拝において神の恵みを覚えることで、私どもは、新しい一年に未来と希望を持つ者として歩み出すことができます。神の恵みの想起こそが、信仰者としての希望ある生き方であることを覚えたいと思います。 ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子たちの真ん中に、復活の主イエス・キリストが立ち、平安を祈り、聖霊を注いでくださり、聖霊によって弟子たちには「罪を赦す権能」が与えられました。しかし24節、その場にトマス一人だけ、いなかったのです。25節を読みますと、トマスは他の弟子たちの言うことを受け入れることができませんでした。なぜなのでしょうか。 ここで、問題意識を持つと良いと思います。それは「トマスだけ、いなかったことの意味」です。このことに関して、人の側の理由は記されておりません。このことによって神が何を示してくださっているのかということを意識して読むと、どうでしょうか。 主イエスに御言葉をいただき、28節、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。この言葉は「あなたこそ、わたしの主、神です」というキリスト告白、神告白、神への讃美の言葉です。トマスは、圧倒的な神の臨在、キリストの臨在を感じて、ひれ伏します。「キリストへの信仰告白」をせざるを得ないのです。このように、信仰とは、神に白旗を揚げること、神への全面降伏です。トマスは主のわき腹にさわって納得して、信仰告白したのではありませんでした。神への全面降伏とは、恵みのできごとです。神に完敗するからこそ「あなたこそ、わたしの神」と言い得るのです。全面降伏していないから、へ理屈を言い、言い逃れをするのです。全面降伏するとき、そこで初めて、神、キリストが全てとなり、神を神として崇めることができるのです。そして全てに解き放たれて、平安となるのです。 29節、主イエスは、全面降伏したトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。 私どもが聖書の御言葉に聴くとき、主イエスはそこに共にいてくださり、私どもは「主の救いのうちにある」のです。それが私どもに与えられている幸いです。 今ここに集い、一年最後の礼拝を守っていることは幸いなことです。この場に主イエスが臨んでくださって、私どもを「幸いな者」と言ってくださっているのです。主によって「幸いな者」とされた存在として、希望を持って、新しい一年を始める者でありたいと願います。 |
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