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38節「その後」とは、主イエスが救い主としての地上での一切の業を終えられて十字架に死なれた、「その後」ということです。 主イエスの十字架の死は、人の力によるのではなく、主のご意志としての十字架の死でありました。そして、そのことの後に「葬り」が語られている、これは大変恵み深いことと思います。主はご自身の葬りにおいて、ご自身の遺体をヨセフとニコデモに委ねておられます。このことは、私どもの信仰にとって、とても大切なことです。私どもは使徒信条において「主は…十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり…」と告白します。主イエスは死に、更に「陰府にまでくだってくださった」と言っているのです。ですから、私どもは「主イエスが葬られた」ことについて聴かなければなりません。 「葬り」とは何でしょうか。「葬り」とは「墓に納める」ことです。遺体に「没薬と沈香を混ぜた物」をつけることは防腐することですが、100リトラとは30リットル以上の量であって、それだけの量の薬を用意することは、ヨセフとニコデモが主イエスに対して大変な敬意を払い、愛を尽くしているということです。 ここで、アリマタヤのヨセフについて「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と記されております。ヨセフは主イエスの弟子であることを隠していた人であるにも拘らず「主イエスの弟子」と言われていることは印象深いことです。「主の弟子」とは「主イエスを信じて従う者」です。主イエスの教えを人生訓として信じている者ということではありません。「信じて従う者」なのです。ですから、隠れていたヨセフが主の弟子と言えるのかどうか疑わしいのです。しかし聖書は、そのようなヨセフを「主の弟子」と記していることは、弟子のあり方としては残念なことですが、しかし何と幸いなことでしょうか。マタイによる福音書が記しているように、アリマタヤのヨセフはお金持ちであり、サンヘドリンの議員でもあったことを考えますと、ユダヤ社会にあって、その地位を失いたくなかったのかも知れません。しかし、ユダヤ社会に隠れて主イエスを信じるヨセフが主の弟子とされている、そうであるからこそ、私どももまた、主の弟子であり得るのです。いかに情けない弟子であったとしても、御言葉は「弟子」と言ってくださるのです。私どもが自らを「弟子」と自覚していることが大事なのではありません。主イエスが、神が、御言葉が、私どもを「弟子」としてくださるかどうかが大事なのです。私どもが主を信じ従う、主の弟子であり続けることは難しいのです。ですからこそ「弟子としていただいている」ことの恵み深さを、このところから覚えたいと思います。 39節、ここで「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と、ニコデモが登場します。ニコデモは「ある夜に」と言われているように、主イエスを慕いつつも人目を忍んで主イエスを訪ねた人です(3章)。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスに言われたニコデモが「どうして、そんなことがありえましょうか」と答えたことに対して、主イエスは語られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(16節)」とは、ニコデモに与えられた御言葉でした。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(5節)」と主イエスが言われたことを、ニコデモが理解したかどうかは分かりません。しかし、ニコデモが主イエスの遺体に対して払う敬意はヨセフ同様であって、ニコデモは主の葬りのために高価な没薬と沈香を持って来るのです。そのように処置しなければ、主の遺体は、犬やハゲワシの餌食になってしまうのですから。 ヨセフとニコデモ、二人は何故、それまでは人目を忍んでいたのに、主の葬りに際しては人目をはばからずに行動したのでしょうか。ここに大いなる逆転があります。二人は、主イエスの十字架を目の当たりにして「主イエスの十字架がまさしく自分の贖い、救いである」ことを知り、「主の十字架にこそ、神の愛が貫かれている」ことを知って、主を葬る者となったのです。 41節「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」。新しい墓は、他の福音書ではアリマタヤのヨセフの墓だとされていますが、ここではそうは記されておりません。アリマタヤのヨセフが用意したのではないということは、主を葬るために「神によって用意されていた」ことが示されております。主の葬りにも神のご意志があるのです。神の配慮が働いているのです。ヨセフとニコデモが主イエスを葬る、その思いを成せるためには、神の用意があってのことであることを忘れてはなりません。 神の御心として「主の弟子」とされているヨセフとニコデモ。このヨセフとニコデモが「主イエスを葬った」との御言葉に聴きました。二人の業が成されたのは、神の備えがあってのことです。 |
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1節「週の初めの日」とは、日曜日のことです。 「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と記されます。なぜマリアは「まだ暗いうちに」墓へ行ったのでしょうか。その理由は記されておりません。しかし、この記述によって、マグダラのマリアが主イエスに対して並々ならぬ思いを持っていることが示されております。マリアは一刻も早く、主イエスのもとに行きたかったのです。マリアは主イエスを慕って止まないのです。ヨハネによる福音書は、マリアが一人で墓に行ったと記しております。まだ暗いうちであれば、誰かと連れ立って行くのが普通ではないでしょうか。しかしマリアは、一人で、しかも既に死にすぎない(遺体となった)主イエスに会いに行くのです。強いられてではなく、人と申し合わせ連れ立ってでもなく、それはただ、主イエスを慕うゆえなのです。 マリアは「墓から石が取りのけてあるのを見た」と記されております。 6・7節「彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」。 8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」。「見て、信じた」ことは大事なことです。何を見て信じたのでしょうか。主の遺体を見たのか、主の復活を見たのか。そうではありません。脱ぎ捨てられた亜麻布を見て、信じたのです。彼は復活の主イエスを見ていないのに、亜麻布を見て、信じました。それが大事なことです。後に、トマスは復活の主イエスを見たのに信じませんでした。ここでは「見ないで信じることの幸い」を暗示しております。ヨハネによる福音書は、異邦人キリスト者の教会が「見ずして、信じたことの幸い」を告げているのです。 そして、9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と、「理解していないのに信じた」と記されております。理解するためには「聖霊」が必要なのです。けれども、聖霊を受ける前であっても「信じて、救いに与る」ことが出来ることが、ここに示されております。 主イエスは復活してくださいました。 自らの罪を知り、神にすがるとき、私どもは既に「神の救いの恵みのうちにある」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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新しい主の日を迎えて、恵みと憐みに富みたもう主の招きを受け、主のみ名をあがめ、讃美と祈りをささげ、今日、語りかけられる御言葉に聞こうとして集っておられる兄弟姉妹の上に、主の祝福が豊かにありますように、また、さまざまな妨げのうちにあり礼拝を共にできない兄弟姉妹にあっても等しい顧みがありますようにと願います。 今朝、イエスさまは弟子たちに語って下さいます。「思い悩むな」と言って下さるのです。思い悩みは、日々に私たちの心をとらえてしまうものではないでしょうか。テレビや新聞を今日、賑わすのは健康ブームと言ってよいほどに、食べ物、飲み物に気をつけるようにという情報が過剰なほどに流れています。それを見て健康になるどころか、かえって思い悩みが増え、ストレスとさえなってしまうことが多いのかもしれません。イエスさまは繰り返し、「思い悩むな」と弟子たちに語りかけて下さるのは、信仰に生きる者であったとしても、必ずしも「思い悩み」から解放されているのではないことを示しています。実際、弟子たちは「命のこと」、「体のこと」を思って、食べたり、着物を着たりとしていたのです。私たちも寒くなってきたら、温かいコートやジャンパーを着るでしょう。食べ物にしても冷たい物より、体を温めるものをと考えるのではないでしょうか。食べるものや着るものについて誰でも多かれ、少なかれ思い悩むということがでしょう。 しかし何かを食べたり、着物を着たりといったことが大切ではないとイエスさまは言われます。もっと大切なのは、「命」そのもの、「体」そのものなんだと言って下さっています。そして「烏」のことを考えて見なさい」、「野原の花がどのように育つかを考えて見なさい」と言われます。烏はユダヤの人々が嫌う鳥であったようですが、私たちにとっても余り好むものではないでしょう。また、野原の花は雑草であります。神は人が嫌う烏を守りやしない、人が何気なく踏みつけてしまうような野原の花をきれいに装ってくださるのです。イエスさまはここで烏を見よ、野原の花を見よ、とは言われず、それらを守り育て、装い給う神の憐み深い配慮のことを考えて見なさいというのです。そして嫌われ者の烏、踏みつけられる野原の草がどんなに深い神の配慮のもとにあることを思い見るならば、あなたがたにはなおさらのことだと言って下さるのです。どんなものであれ、神の配慮、もっと言えば神の御支配のもとにあることを忘れてはならないでしょう。 イエスさまは思い悩む弟子たちを「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけ、再び「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」29節と言われます。思い悩みは、私たちの心をとらえて離さないものとなりうるということを知らなければなりません。そして第一とするべきは何か、ということを見えなくしてしまうのです。食べ物、飲み物に限らず、あれもこれも必要と 考え、思い悩むこと自体がにとらわれて、真の神に思いを向けようとせず、かえって神を知らずに生きている異邦人のように求めるものとなってしまっているではないか。 そこでイエスさまははっきりと「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」30節と言って下さるのです。そうです。私たちが考え、思い悩み、追い求めるものを超えて、父なる神様はこれらのものがあなたがたに必要なことを知っていてくださるのです。「ただ、神の国を求めなさい」。神の国は神の御支配、配慮を現す言葉です。烏や野原の花にさえ、深い配慮をもって守り育てて下さる神にこそ思いを向けていくことが何よりも大切だと言っていてくださるのです。これに「そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」31節という約束も伴っています。私たちの必要を知っていてくださる神が、本当に必要なものを与えていてくださるのですし、これからも与えて下さるとの約束であります。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」32節。これはさらなる大きな約束であります。イエスさまは弟子たちが神の国を求め始める前に、この約束を与えていてくださるのです。イエスさまの弟子たちの群れは本当に小さな群れにしかすぎませんけれども、父なる神は御国を与えて下さることを御心としていてくださるのです。ですから天の父なる神のもとにあって、私たちは御国の子たちであるのです。 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。」33節とあります。イエスさまは私たちの富のある場所とは、天にあるのだと言って下さいます。富は私たちの心をとらえるものであることも、同時に教えて下さっています。富は私たちの心をとらえて離さないものであるならば、天にこそ宝を積めばよいと言うのです。そのとき憐み深い神の在り方に習い、施しをするようにというのです。その施しは虚しくはならない。「富のあるところにあなたがたの心もあるのだ」34節とイエスさまは言われます。富のある場所、それは天であり、神の国と言い換えてもよいでしょう。神の国こそ、私たちが思い悩まなくてよい、ただ一つの根拠であり、父なる神は喜んで御国をくださると言うのですから、感謝していただいて帰りたいと思います。 |
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20節、マリアは泣いていました。それは主イエスの死に対する悲しみを超えて、主イエスを葬ることのできない悲しみのゆえです。1節にあるように、マリアは主イエスの葬りの準備のために、早朝、一人で墓に向かったのです。 泣きながら、マリアは墓の中を見ます。5節にあるように、弟子2人が墓の中に見たものは「亜麻布」だけでした。しかしマリアは二人の天使を見るのです。一人ではなく二人の天使とは、主イエスの復活の証言のため、その証言が真実であることを示すための「二人」です。 またここで、マリアの「わたしの主」という言葉から、深く思わされることがあります。私どもは、このマリアのように、主イエスを心のうちに「わたしの主」と思っているでしょうか。主イエスは自ら「わたしの主」となってくださいました。「わたしの主」となってくださった主イエスを、「わたしの主」と呼ぶことの麗しさを思います。マリアは「わたしの主」と呼ぶほどに、主イエスを慕っておりました。そのような親しく密なる関係を、マリアに、私どもに、主イエスは持っていてくださるのです。「わたしの主」と呼ぶほどに慕わしい思いをもって、私どもは礼拝に集っているでしょうか。礼拝は、慕いまつる主イエスに、神にお会いする場です。私どもが「わたしの主」と思えないでいる時にも、主イエスは「わたしの主」であってくださる方であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」。マリアは、天使の問いによって方向性が与えられ「…わかりません」と言いながら「後ろを振り向く」と記されております。「振り向く」、それがここで強調されていることです。14節、16節と2度「振り向く」と記されております。一度振り向いているのですから、二度目の「振り向く」は変ですが、しかし実際に振り向いたということではなく、この「振り向く」ということが重要なのです。 15節「マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります』」。ただ涙に暮れて留まっていたマリアは、天使の問いによって、行くべき道を見事に見出し「わたしが、あの方を引き取ります」と積極的な思いが与えられております。 17節「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。マリアは、以前の主イエスだと思ってすがりついたのでしょう。しかし主イエスは、ご自分が天に帰るまでは「時ではない」と言われます。ヨハネによる福音書は、主イエスが「天に帰られる」ことによって救いが完成し、神との尽きない交わり、永遠の命、天に住まいする約束が与えられることを強調しているのです。 そしてマリアに大切な使命が与えられます。17節後半「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。主イエスは、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言ってくださっております。そしてまた「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と、主イエスの父である方は当然「あなたがたの父である」と言ってくださっております。弟子たち(私ども)を、「神の子」として天に住まう者とするために、天に帰ると言ってくださっているのです。 「伝えよ」との使命を与えられたマリアは、18節「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えます。マリアは主イエスが声をかけて下さって、主イエスを見出しました。このように、主によって見出され主を見出し、主イエス・キリストの最初の証人とされたのは、女性であるマリアでした。女性が証人となることは、女性の証言は信じられないとするユダヤ教では考えられないことです。ですから、このことは大変意味深いことです。 「主イエス・キリストを伝えること」、それが私どもに主イエスから託されていることです。救い主イエス・キリストの証言に男も女もないのです。ただ全ては神からのものであるという強いメッセージがここに示されていることを、畏れと感謝をもって覚えたいと思います。 |
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