聖書のみことば/2010.11
2010年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
ヨセフとニコデモ」 11月第1主日礼拝 2010年11月7日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章38節〜42節
19章<38節>その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。<39節>そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。<40節>彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。<41節>イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。<42節>その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

38節「その後」とは、主イエスが救い主としての地上での一切の業を終えられて十字架に死なれた、「その後」ということです。
 ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架と復活よりも、主が天に帰られる「昇天」を強調して記しているのですが、しかしここでは、主イエスが天に帰られるに当たって、「主イエスの葬り」についての記事が記されております。

主イエスの十字架の死は、人の力によるのではなく、主のご意志としての十字架の死でありました。そして、そのことの後に「葬り」が語られている、これは大変恵み深いことと思います。主はご自身の葬りにおいて、ご自身の遺体をヨセフとニコデモに委ねておられます。このことは、私どもの信仰にとって、とても大切なことです。私どもは使徒信条において「主は…十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり…」と告白します。主イエスは死に、更に「陰府にまでくだってくださった」と言っているのです。ですから、私どもは「主イエスが葬られた」ことについて聴かなければなりません。

「葬り」とは何でしょうか。「葬り」とは「墓に納める」ことです。遺体に「没薬と沈香を混ぜた物」をつけることは防腐することですが、100リトラとは30リットル以上の量であって、それだけの量の薬を用意することは、ヨセフとニコデモが主イエスに対して大変な敬意を払い、愛を尽くしているということです。
 「墓に納める」それが「葬り」ですが、旧約聖書における「墓に納める」とは「穴に入れる」ことです。「穴」とは「陰府(よみ)の入口」であり、従って「葬り」とは「陰府にくだる」ことなのです。ですから「主イエス・キリストが葬られた」ということは「救い主なる方は陰府にまで至ってくださっている」ということです。主イエスが葬られたということは、陰府もまた、主イエス・キリストの救いの対象であるということを示しているのです。それが私どもの信仰です。
 そして、主イエスの葬りは、私ども(人)に関係することです。「葬られる」ということは「死んだ」ということ、「陰府にまで至る死」とは「人間の死そのもの」です。主イエスは神なる方でありながら、人の死を死んでくださった、ということを示しているのです。
 主イエスは自ら十字架の死を死んでくださいましたが、自ら墓に入られたわけではありません。ご自分の死を人の手に委ねてくださり、葬られてくださったのです。これはとても重要なことです。私どもは主イエス・キリストの十字架を真似ることはできません。自分に敵する者のために死ぬなどということは有り得ないことです。主イエスが地上でなさったことを、私どもが成し得るかと言えば、それは出来ないことです。地上における主イエスの業は、神の子としての、救い主としての業なのですから、私どもに真似ることなど出来ないのです。主イエスは、私どもとかけ離れたお方です。
 ところが、死において、主イエスは私どもとかけ離れておられない。主イエスはご自分の葬りをヨセフとニコデモに委ねてくださいました。私どもも、他者に葬りを委ねなければなりません。人の死そのものを死んでくださった、それが主イエスの葬りなのです。死んでしまえば無力な者となり、委ねざるを得ないのです。そのような死を、主は死んでくださって、ご自身をヨセフとニコデモに委ねてくださっているのです。
 地上では決して結び合うことのできない主イエスと私どもですが、死において、私どもは主イエスと結び合わされる、それがキリスト者の幸いです。死において、キリストと結ばれて一つとなる。ですから、私どもの死は孤独ではありません。主イエス・キリストが既に死んでくださったからです。私どもは死という最も孤独な淵で、主イエス・キリストと出会うのです。そして、主と共に甦り、主と共に天において永遠の命を生きるという約束を与えられているのです。ですから、主イエスが葬られてくださっているということは、私どもの死を引き受けてくださっているという、恵み深い出来事であることを覚えたいと思います。

ここで、アリマタヤのヨセフについて「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と記されております。ヨセフは主イエスの弟子であることを隠していた人であるにも拘らず「主イエスの弟子」と言われていることは印象深いことです。「主の弟子」とは「主イエスを信じて従う者」です。主イエスの教えを人生訓として信じている者ということではありません。「信じて従う者」なのです。ですから、隠れていたヨセフが主の弟子と言えるのかどうか疑わしいのです。しかし聖書は、そのようなヨセフを「主の弟子」と記していることは、弟子のあり方としては残念なことですが、しかし何と幸いなことでしょうか。マタイによる福音書が記しているように、アリマタヤのヨセフはお金持ちであり、サンヘドリンの議員でもあったことを考えますと、ユダヤ社会にあって、その地位を失いたくなかったのかも知れません。しかし、ユダヤ社会に隠れて主イエスを信じるヨセフが主の弟子とされている、そうであるからこそ、私どももまた、主の弟子であり得るのです。いかに情けない弟子であったとしても、御言葉は「弟子」と言ってくださるのです。私どもが自らを「弟子」と自覚していることが大事なのではありません。主イエスが、神が、御言葉が、私どもを「弟子」としてくださるかどうかが大事なのです。私どもが主を信じ従う、主の弟子であり続けることは難しいのです。ですからこそ「弟子としていただいている」ことの恵み深さを、このところから覚えたいと思います。

39節、ここで「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と、ニコデモが登場します。ニコデモは「ある夜に」と言われているように、主イエスを慕いつつも人目を忍んで主イエスを訪ねた人です(3章)。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と主イエスに言われたニコデモが「どうして、そんなことがありえましょうか」と答えたことに対して、主イエスは語られます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(16節)」とは、ニコデモに与えられた御言葉でした。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない(5節)」と主イエスが言われたことを、ニコデモが理解したかどうかは分かりません。しかし、ニコデモが主イエスの遺体に対して払う敬意はヨセフ同様であって、ニコデモは主の葬りのために高価な没薬と沈香を持って来るのです。そのように処置しなければ、主の遺体は、犬やハゲワシの餌食になってしまうのですから。

ヨセフとニコデモ、二人は何故、それまでは人目を忍んでいたのに、主の葬りに際しては人目をはばからずに行動したのでしょうか。ここに大いなる逆転があります。二人は、主イエスの十字架を目の当たりにして「主イエスの十字架がまさしく自分の贖い、救いである」ことを知り、「主の十字架にこそ、神の愛が貫かれている」ことを知って、主を葬る者となったのです。
 「十字架の主を知る」とき、人は自らを恥じず、自分を隠さなくなるのです。十字架の主を知るとき、人は何者をも恐れることなく、すべての束縛から解き放たれ、主にのみ仕えることができるようになるのです。自分のあり方や状況を大事にしている間は、主に従うことはできません。ただ、主イエスの十字架を見出すことにおいてのみ、自らを恥じることなく、主に仕えることを第一とすることができるようになるのです。真実に人が主に仕えるとは、そういうことです。
 十字架の主が本当に私の救いであることを見出したならば、捕らわれなく、主こそ私の救いと告白できるようになるのです。いえ、救われた喜びによって、語らざるを得なくなるのです。

41節「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった」。新しい墓は、他の福音書ではアリマタヤのヨセフの墓だとされていますが、ここではそうは記されておりません。アリマタヤのヨセフが用意したのではないということは、主を葬るために「神によって用意されていた」ことが示されております。主の葬りにも神のご意志があるのです。神の配慮が働いているのです。ヨセフとニコデモが主イエスを葬る、その思いを成せるためには、神の用意があってのことであることを忘れてはなりません。
 同様に、私どもがなす業、私どもが奉仕を成し得るとするならば、そこに「隠された神の用意」があるのです。神が整えてくださり、神が良しとしてくださってこそ、成し得るのです。ですから「園の中に新しい墓があった」と、ここに記されていることの豊かさ、恵み深さを覚えたいと思います。

神の御心として「主の弟子」とされているヨセフとニコデモ。このヨセフとニコデモが「主イエスを葬った」との御言葉に聴きました。二人の業が成されたのは、神の備えがあってのことです。
 私どもも同様に、私どものなす業が成就するとするならば、それは神の御心として成るのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

ペトロ、墓に入る」 11月第2主日礼拝 2010年11月14日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第20章1節〜10節
20章<1節>週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。<2節>そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」<3節>そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。<4節>二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。<5節>身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。<6節>続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。<7節>イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。<8節>それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。<9節>イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。<10節>それから、この弟子たちは家に帰って行った。

1節「週の初めの日」とは、日曜日のことです。
 なぜ、日曜日が週の初めの日なのでしょうか。西洋歴を用いる私どもにとっても一週間は日曜日から始まりますが、それは聖書に関係しております。創世記によりますと、神は天地を創造なさり7日目に休まれました。創造の全てを完成し、それを良しとされて安息されたのです。創造の完成を祝う日が7日目です。ですから、土曜日を区切りとし日曜日を週の初めとするという考え方は「神の創造の業」を覚えることです。
 このように、私どもの日常は神との関わりの中にあるのだということを覚えたいと思います。私どもの日常を宗教的に位置づけるということは大事なことです。キリスト者にとっては、土曜日(安息日)を祝う礼拝はありませんが、キリスト者にとって日曜日の礼拝は「主イエス・キリストの復活によって救いが成就した」ことを覚えての礼拝です。安息日は、神の創造を覚える(神によって完成し満ち足りていることを覚える)日、また出エジプトを覚える(神によって救い出され、新しい神の民として創造されたことを覚える)日です。そしてそれは「復活の主イエス・キリストによって成就する」ことを覚えて、私どもは主日(日曜日)に礼拝するのです。

「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と記されます。なぜマリアは「まだ暗いうちに」墓へ行ったのでしょうか。その理由は記されておりません。しかし、この記述によって、マグダラのマリアが主イエスに対して並々ならぬ思いを持っていることが示されております。マリアは一刻も早く、主イエスのもとに行きたかったのです。マリアは主イエスを慕って止まないのです。ヨハネによる福音書は、マリアが一人で墓に行ったと記しております。まだ暗いうちであれば、誰かと連れ立って行くのが普通ではないでしょうか。しかしマリアは、一人で、しかも既に死にすぎない(遺体となった)主イエスに会いに行くのです。強いられてではなく、人と申し合わせ連れ立ってでもなく、それはただ、主イエスを慕うゆえなのです。
 罪の女と呼ばれたマグダラのマリアに対して、主イエスは「多く赦された者が多く愛する」と言われました。主イエスによって罪赦された深い喜びが、マグダラのマリアを覆っているのです。マリアは自分がどれほど「罪深い者」かを知っております。ですからこそ、主イエスにすがざらるを得ないのです。主イエスに赦されていることを誰よりも深く知っているマリアです。マリアには主イエスしかいません。誰からも疎まれ蔑まれたマリアを、主イエスのみが受け入れてくださいました。そうであるからこそ、一刻も早く主イエスのもとに行きたい、それがマリアの思いなのです。何かをするために行ったのではありません。ただひたすらに主イエスのもとに行きたかった、それがマリアの思いなのです。「主イエス・キリストのもとにある」こと、それだけが、マリアにとっての慰めなのです。
 私どもも、究極には「主イエス・キリストしかいない」のです。主の身許にいることだけが、私どもにとっての真実の慰めであることを、この御言葉を通して覚えたいと思います。
 私どもは「自らの罪を知る」ことの恵みを知るべきです。自分がいかに罪深いかをマリアは知っておりました。「罪に痛んでいる」それは大変恵み深いことです。罪に痛んでいるからこそ、救い主イエス・キリストにすがることができるのです。救い主イエス・キリストの他にない、そのことが身に沁みわたるのです。ですから、私どもが自らの罪に痛んでいるならば、幸いです。「救い主イエス・キリストの赦し」へと招かれているからです。罪でありながら、救いへの糸口が与えられているのです。
 もし、罪に痛むことがないとすれば、救いようが無いと言わざるを得ません。
 罪とは、完全な裁きによってのみ終わるものです。完全な裁きを為し得るのは神のみであって、人には裁ききることはできないのです。人は罪を担いきることはできません。何故ならば、人は自分自身も罪を負うているからです。自分の罪の問題があるゆえに、他者の罪に対しては重いか軽いかの裁きに終始し、完全な裁きへ至ることはできないのです。
 罪は完全に裁かれなければなりません。そのためには、真実に裁きを終わらせることのおできになる方、主の(神の)もとに行く以外にないのです。

マリアは「墓から石が取りのけてあるのを見た」と記されております。
 そこで、普通であれば、墓の中に入ってみることでしょう。しかし2節「シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」と続きます。「主が墓から取り去られました」とは、マリアは何を感じたのでしょうか。主イエスの遺体を誰かが盗んだと考えたのでしょう。
 これを聞いてペトロともう一人の弟子は、走って墓へと向かいます。4節には「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた」と記されております。ペトロは、ユダヤ人キリスト者の教会(エルサレム教会)を示し、もう一人の弟子(ヨハネ)は、異邦人キリスト者の教会を指すのです。「先に墓に着いた」とは、どれほど異邦人キリスト者の教会が主イエスを愛しているかを示すために記されている言葉です。しかし、ヨハネはペトロを待ち、ペトロが先に墓に入るのです。

6・7節「彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」。
 亜麻布は、防腐剤の染み込んだ布です。その「亜麻布が置いてある」、ここに示されていることは「主イエスの復活」です。もし遺体を盗んだのであれば、亜麻布を取り去ることはしないでしょう。主イエスご自身が、亜麻布を脱ぎ捨てられたことが示されているのです。「頭を包んでいた覆いが離れた所に丸めてあった」との記述には、何か私どもの日常を思わせる親近感があります。主イエスはまさしく甦ってくださって、墓にはおられないのです。

8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」。「見て、信じた」ことは大事なことです。何を見て信じたのでしょうか。主の遺体を見たのか、主の復活を見たのか。そうではありません。脱ぎ捨てられた亜麻布を見て、信じたのです。彼は復活の主イエスを見ていないのに、亜麻布を見て、信じました。それが大事なことです。後に、トマスは復活の主イエスを見たのに信じませんでした。ここでは「見ないで信じることの幸い」を暗示しております。ヨハネによる福音書は、異邦人キリスト者の教会が「見ずして、信じたことの幸い」を告げているのです。

そして、9節「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」と、「理解していないのに信じた」と記されております。理解するためには「聖霊」が必要なのです。けれども、聖霊を受ける前であっても「信じて、救いに与る」ことが出来ることが、ここに示されております。
 私どもの信仰にとって大事なのは「信じること」です。理解することなのではありません。もちろん、理解することもできます。しかし、信じることは理解を超えているのです。自分の理解によって、人はいろいろと理由をつけて信じないと言います。しかし私どもは、自分の理解も感性も超えて「信じる」ということができるのです。そのように「信じる信仰」を与えられていることは幸いなことです。

主イエスは復活してくださいました。
 ペトロともう一人の弟子は理解できませんでしたが、もう一人の弟子は、信じました。しかし、弟子たちが(私どもが)どうであったとしても、主イエスが甦ってくださったことによって、救いは既に成っているのです。永遠の命は始まり、私どもは永遠の命の恵みに与ることができるようになったのです。それが大事なことです。これこそが、神の恵みです。
 私どもの思いを超えて、救いが用意されているのです。ですから、その救いを「信じて、受ける」、それが神の恵みに応える生き方です。

自らの罪を知り、神にすがるとき、私どもは既に「神の救いの恵みのうちにある」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

思い悩むな」 11月第3主日礼拝 2010年11月21日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第12章22節〜30節
12章<22節>それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。<23節>命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。<24節>烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。<25節>あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。<26節>こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。<27節>野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。<28節>今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。<29節>あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。<30節>それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

新しい主の日を迎えて、恵みと憐みに富みたもう主の招きを受け、主のみ名をあがめ、讃美と祈りをささげ、今日、語りかけられる御言葉に聞こうとして集っておられる兄弟姉妹の上に、主の祝福が豊かにありますように、また、さまざまな妨げのうちにあり礼拝を共にできない兄弟姉妹にあっても等しい顧みがありますようにと願います。

今朝、イエスさまは弟子たちに語って下さいます。「思い悩むな」と言って下さるのです。思い悩みは、日々に私たちの心をとらえてしまうものではないでしょうか。テレビや新聞を今日、賑わすのは健康ブームと言ってよいほどに、食べ物、飲み物に気をつけるようにという情報が過剰なほどに流れています。それを見て健康になるどころか、かえって思い悩みが増え、ストレスとさえなってしまうことが多いのかもしれません。イエスさまは繰り返し、「思い悩むな」と弟子たちに語りかけて下さるのは、信仰に生きる者であったとしても、必ずしも「思い悩み」から解放されているのではないことを示しています。実際、弟子たちは「命のこと」、「体のこと」を思って、食べたり、着物を着たりとしていたのです。私たちも寒くなってきたら、温かいコートやジャンパーを着るでしょう。食べ物にしても冷たい物より、体を温めるものをと考えるのではないでしょうか。食べるものや着るものについて誰でも多かれ、少なかれ思い悩むということがでしょう。

しかし何かを食べたり、着物を着たりといったことが大切ではないとイエスさまは言われます。もっと大切なのは、「命」そのもの、「体」そのものなんだと言って下さっています。そして「烏」のことを考えて見なさい」、「野原の花がどのように育つかを考えて見なさい」と言われます。烏はユダヤの人々が嫌う鳥であったようですが、私たちにとっても余り好むものではないでしょう。また、野原の花は雑草であります。神は人が嫌う烏を守りやしない、人が何気なく踏みつけてしまうような野原の花をきれいに装ってくださるのです。イエスさまはここで烏を見よ、野原の花を見よ、とは言われず、それらを守り育て、装い給う神の憐み深い配慮のことを考えて見なさいというのです。そして嫌われ者の烏、踏みつけられる野原の草がどんなに深い神の配慮のもとにあることを思い見るならば、あなたがたにはなおさらのことだと言って下さるのです。どんなものであれ、神の配慮、もっと言えば神の御支配のもとにあることを忘れてはならないでしょう。

イエスさまは思い悩む弟子たちを「信仰の薄い者たちよ」と呼びかけ、再び「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。」29節と言われます。思い悩みは、私たちの心をとらえて離さないものとなりうるということを知らなければなりません。そして第一とするべきは何か、ということを見えなくしてしまうのです。食べ物、飲み物に限らず、あれもこれも必要と 考え、思い悩むこと自体がにとらわれて、真の神に思いを向けようとせず、かえって神を知らずに生きている異邦人のように求めるものとなってしまっているではないか。

そこでイエスさまははっきりと「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」30節と言って下さるのです。そうです。私たちが考え、思い悩み、追い求めるものを超えて、父なる神様はこれらのものがあなたがたに必要なことを知っていてくださるのです。「ただ、神の国を求めなさい」。神の国は神の御支配、配慮を現す言葉です。烏や野原の花にさえ、深い配慮をもって守り育てて下さる神にこそ思いを向けていくことが何よりも大切だと言っていてくださるのです。これに「そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」31節という約束も伴っています。私たちの必要を知っていてくださる神が、本当に必要なものを与えていてくださるのですし、これからも与えて下さるとの約束であります。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」32節。これはさらなる大きな約束であります。イエスさまは弟子たちが神の国を求め始める前に、この約束を与えていてくださるのです。イエスさまの弟子たちの群れは本当に小さな群れにしかすぎませんけれども、父なる神は御国を与えて下さることを御心としていてくださるのです。ですから天の父なる神のもとにあって、私たちは御国の子たちであるのです。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。」33節とあります。イエスさまは私たちの富のある場所とは、天にあるのだと言って下さいます。富は私たちの心をとらえるものであることも、同時に教えて下さっています。富は私たちの心をとらえて離さないものであるならば、天にこそ宝を積めばよいと言うのです。そのとき憐み深い神の在り方に習い、施しをするようにというのです。その施しは虚しくはならない。「富のあるところにあなたがたの心もあるのだ」34節とイエスさまは言われます。富のある場所、それは天であり、神の国と言い換えてもよいでしょう。神の国こそ、私たちが思い悩まなくてよい、ただ一つの根拠であり、父なる神は喜んで御国をくださると言うのですから、感謝していただいて帰りたいと思います。

二人の天使」 11月第4主日礼拝 2010年11月28日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第20章11節〜18節
20章<11節>マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、<12節>イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。<13節>天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」<14節>こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。<15節>イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」<16節>イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。<17節>イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」<18節>マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

20節、マリアは泣いていました。それは主イエスの死に対する悲しみを超えて、主イエスを葬ることのできない悲しみのゆえです。1節にあるように、マリアは主イエスの葬りの準備のために、早朝、一人で墓に向かったのです。
 「葬りができない悲しみ」とは、何でしょうか。「葬り」とは、哀悼の意を尽くすこと、愛を尽くすことです。ですから、葬りができないことは、死の悲しみ以上に、愛を尽くせないという悲しみなのです。
 ここで、深く思わされます。近頃では、ごく身内だけでの葬りが多くなっていますが、その背景にあることは何でしょうか。それは人と人との関わりが薄れているということです。死者を葬る者たちが、死者にとって大切だった交わりを遠ざけ、死者に対して愛を尽くそうとしなくなっているのです。それは、交わりなき孤独な世界が広がっているということです。それは「死を受容できない」という現実とも言えます。死を悼み、死を受容することができないと、どうなるのでしょうか。人は「人間としての尊厳」を失ったまま、この地上から消え去ることになるのです。「葬る、愛を尽くす」ことは、死者を人格ある者として尊ぶことです。葬り無き死は、人の死とは言えないのです。
 ですから、マリアの涙は尊い涙です。主イエスに対する並々ならぬ尊敬の意であり、その姿こそ、人としてのあり方を示しているのです。
 「悲しむ」とは「愛する」ということです。主イエスを愛して止まないマリアの姿なのです。

泣きながら、マリアは墓の中を見ます。5節にあるように、弟子2人が墓の中に見たものは「亜麻布」だけでした。しかしマリアは二人の天使を見るのです。一人ではなく二人の天使とは、主イエスの復活の証言のため、その証言が真実であることを示すための「二人」です。
 13節、天使はマリアに「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。何故マリアが泣いているのか、マリアの思いを知らないからではなく、知っていて、敢えて問うのです。それは、マリアを先へと導くための問いなのです。
 マリアは答えます「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と。こう答えることによって、マリアは「主イエスを捜している」という思いをはっきりさせることができました。天使の問いかけによって、ただただ悲しみの涙に留まっていたマリアは、次の行動への糸口を見出すことができたのです。「今どう思っているのか」から「これからどうしたいのか」へと繋がっていく、「問い」とはそのようなものであることが大事です。
 このように「問い」とは、現状を正しく認識し、それから先への展開を考えさせるためのものであるべきですが、最近では、単に一つの回答を求めるだけの問いが教育現場においても多く見られ、考える力を養うことが不十分であることは憂うべきことと思います。単なる答えでは先へ進めないという現実があるのです。

またここで、マリアの「わたしの主」という言葉から、深く思わされることがあります。私どもは、このマリアのように、主イエスを心のうちに「わたしの主」と思っているでしょうか。主イエスは自ら「わたしの主」となってくださいました。「わたしの主」となってくださった主イエスを、「わたしの主」と呼ぶことの麗しさを思います。マリアは「わたしの主」と呼ぶほどに、主イエスを慕っておりました。そのような親しく密なる関係を、マリアに、私どもに、主イエスは持っていてくださるのです。「わたしの主」と呼ぶほどに慕わしい思いをもって、私どもは礼拝に集っているでしょうか。礼拝は、慕いまつる主イエスに、神にお会いする場です。私どもが「わたしの主」と思えないでいる時にも、主イエスは「わたしの主」であってくださる方であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

14節「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」。マリアは、天使の問いによって方向性が与えられ「…わかりません」と言いながら「後ろを振り向く」と記されております。「振り向く」、それがここで強調されていることです。14節、16節と2度「振り向く」と記されております。一度振り向いているのですから、二度目の「振り向く」は変ですが、しかし実際に振り向いたということではなく、この「振り向く」ということが重要なのです。
 「振り向いて」、マリアは主イエスを見出します。それは意味深いことです。「わからない」ところで振り向くと、捜し求めていた主イエスがそこにおられたのです。
 私どもも自らの歩みを振り返ることがあります。そして、振り返ってみて初めて、そこに主イエスが共にいてくださったことを見出すことがあるのです。「振り向く、振り返る」とは、そういうことです。そこで初めて、主が共に、傍らにいてくださることを知るのです。それは、私どもが主イエスを見出せないときにも主は私どもと共にいて担っていてくださっているということを示しております。主イエスが、神が、私どもを見出してくださっているのです。ただそれを私どもが知らないだけなのです。私どもは、振り向き、向きを変えることによって知ります。自分の中にだけ留まっているときには、見出すことはできません。向きを変えるとき、神を見る、キリストを見るのです。
 「方向転換」それが「悔い改め」ということです。ここでは「悔い改め」を「振り向く」という言葉で言い表しております。1度目に振り向いて主イエスを見ても、マリアは主イエスを園丁だと思いました。16節、2度目に「振り向く」と、主イエスを「ラボニ(先生)」であると知ります。「振り向く」は、ここでは必要のない言葉ですが、しかし「振り向く」ことを強調しているのです。何気ない「振り向く」という言葉ですが、「振り向く」そこで主イエスを見出すこと、主イエスが共にいてくださることを知るという信仰の出来事を聴くことが、私どもにとって大事なことです。

15節「マリアは、園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります』」。ただ涙に暮れて留まっていたマリアは、天使の問いによって、行くべき道を見事に見出し「わたしが、あの方を引き取ります」と積極的な思いが与えられております。
 16節「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」。主イエスに愛を尽くしたいと思うマリアに対して、主イエスは「マリア」と呼びかけてくださいます。「ここにいるのが分らないのか」と言うのではありません。「マリア」との呼びかけは、マリアにとって聞き慣れた慕わしい主の声です。マリアにとっては温かく慈しみ深い声、その声を、マリアは身に沁みて感じるのです。その慈しみ深い声は、マリアにだけではなく、誰に対しても与えられている神の呼びかけです。主イエスは私ども一人ひとりにも、マリアと等しく名を呼んでいてくださっていることを覚えたいと思います。
 マリアの心を温かくする、慈しみ深い主イエスの呼びかけによって、マリアは主イエスを「ラボニ(先生)」と気付きます。しかしここで一つの問題があります。マリアは主イエスを「ラボニ」=「先生」として、見出しているということです。まだ「救い主イエス・キリスト」として見出してはいないのです。十字架以前の主イエスとして、人々を神へと至らせる人生の師、先生として「ラボニ」と呼ぶのです。マリアにとって、復活の主イエスは、まだ救い主イエスとして覚えられておりません。マリアにとって復活の主イエスは、まだ蘇生した主イエスでしかないのです。けれども、主イエスが生きておられることを感じていることは確かです。マリアは、復活の主が救い主だということを知るに至らなければならないのです。

17節「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」。マリアは、以前の主イエスだと思ってすがりついたのでしょう。しかし主イエスは、ご自分が天に帰るまでは「時ではない」と言われます。ヨハネによる福音書は、主イエスが「天に帰られる」ことによって救いが完成し、神との尽きない交わり、永遠の命、天に住まいする約束が与えられることを強調しているのです。

そしてマリアに大切な使命が与えられます。17節後半「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。主イエスは、弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言ってくださっております。そしてまた「わたしの父であり、あなたがたの父である方」と、主イエスの父である方は当然「あなたがたの父である」と言ってくださっております。弟子たち(私ども)を、「神の子」として天に住まう者とするために、天に帰ると言ってくださっているのです。
 私どもは、とてもとても主イエスの兄弟などと言える者ではありません。とても主イエスの身内だなどとは言い難い、いえそれどころか主イエスを裏切る者でしかない、そのような者をも主イエスは「わたしの兄弟」と言ってくださるのです。主イエスが私どもの兄弟となってくださることによって、私どもは、神を「父」と、「わが神」とお呼びすることができるのだということを改めて覚えたいと思います。天に帰り、主イエスは私どものために主の兄弟としての場所を用意してくださるのです。主イエスを信じる者を、主は「わたしの兄弟」としてくださいます。主イエスの兄弟として甚だ情けない私ども一人ひとりの名を、「マリア」とマリアに呼びかけてくださったように呼んでいてくださるのです。

「伝えよ」との使命を与えられたマリアは、18節「わたしは主を見ました」と弟子たちに伝えます。マリアは主イエスが声をかけて下さって、主イエスを見出しました。このように、主によって見出され主を見出し、主イエス・キリストの最初の証人とされたのは、女性であるマリアでした。女性が証人となることは、女性の証言は信じられないとするユダヤ教では考えられないことです。ですから、このことは大変意味深いことです。

「主イエス・キリストを伝えること」、それが私どもに主イエスから託されていることです。救い主イエス・キリストの証言に男も女もないのです。ただ全ては神からのものであるという強いメッセージがここに示されていることを、畏れと感謝をもって覚えたいと思います。
 キリストの証言を軽んじてはなりません。キリストの証言とは、それほどに重い使命であることを覚えたいと思います。