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主イエスの十字架の場面が描かれております。 この場面の記述は、ヨハネによる福音書と他の福音書とでは大分違っております。 ここで示されることがあります。それは、「福音書」は主イエスの伝記を記すものではないということです。伝記であれば、史実に基づいていなければなりません。しかし「福音書」は「主イエスが全世界の救い主であることを証しする」ものなのであって、史実を語るものではないのです。そして「福音書」は、読む者の時代背景や状況によって、各々に受け止める信仰の告白を伴うものです。ですから、同じ史実であっても、それに対する受け止め方、言い表し方が違っていて良いのです。いえ、皆違っていることこそ大事なのです。 では、ここで他福音書と違う表現をしたことによって、ヨハネによる福音書が伝えたかったこととは何かを考えたいと思います。 25節〜、主イエスの十字架のそばに弟子たちが立っております。「マグダラのマリア」はしばしば聖書に記される女性で、「罪の女」とも言われます。マグダラのマリアの姿は、とても印象深い姿です。姦通の女として人々に石で打たれそうになったとき、主イエスは「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよ」と言って助け、「わたしもあなたを罪に定めない」と罪の赦しを与えてくださいました(ヨハネによる福音書8章)。そして、十字架を前にした主イエスに対して、マリアは高価なナルドの香油を髪に浸して、主の足を拭いました。自らの生活の全てを投げ出してまで主イエスを愛する、痛々しいまでの姿です。弟子たちの非難に対して、主はマリアの信仰を良しとしてくださいました(ヨハネによる福音書12章)。 「十字架のそばに、十字架のもとに立つ」とは、どういうことなのでしょうか。 ここでは、イエスの母マリアも立っております。しかし「母マリア」とも「マリア」とも言わず、「母」と記されます。そして「婦人よ」と、主イエスは呼びかけます。親子であるにも拘らず、どこか距離を感じさせる表現です。「母」とは、実際の主イエスの母を念頭においていないことを思わせる記述なのです。 26・27節「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と記されております。ここで、主イエスの方から、母と弟子に語っておられるということが大事なことです。母と弟子を結びつけてくださっているのは、主イエスなのです。「十字架の主イエス」が語ってくださるのです。 「愛する弟子」とは、ヨハネを指すと言われておりますが、それはつまり「教会」を意味するのです。ここで「母」とは「ユダヤ人キリスト者の教会」であり、「愛する弟子」とは「異邦人キリスト者の教会」です。この福音書が記された頃には、エルサレム教会(初代教会、ユダヤ人キリスト者の教会)は衰退し、福音は異邦人社会へと広まって、異邦人キリスト者の教会が世界宣教を担うようになっておりました。 ヨハネによる福音書が記した「主イエスの十字架の場面」が、他福音書と違っているのは、他福音書と違う時代に、主の福音を証ししなければならなかったことを示しております。そして、そのことは現代を生きる私どもも覚えるべき大切なことなのです。 今の時代にあって、この時代に相応しく福音を証しし、教会が果たすべき働きを成すべきであることを、改めて覚えたいと思います。 また、2000年の隔たりの中で、福音書に記された初代教会、ユダヤ人キリスト者の出来事を通して、現在のイスラエル、神の選びの民であったユダヤ人のために祈るべきことをも、覚えたいと思います。 |
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今朝の礼拝において開かれた詩編42編の御言葉を共に聞いていきたいと思います。この詩編42編は、これに続く詩編43編と一続きの詩編でもあるようです。と言うのは「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(6節、12節)とあるこの詩編の折り返しとでもいうべき言葉が43編にもあること、また、43編には表題がないことなどから、そのように考えられています。ともあれこの朝は与えられております詩編42編の御言葉に耳を傾けてまいります。 詩編42編の1節は表題であります。「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」との表題ですが、「マスキール」の意味は良くわかっていないようです。嘆きであるとか、黙想、教訓などの意味あいを言う人があるようですが、定まってはいないようです。「コラの子」とは神殿に仕えるコラと言う人の子孫を指しています。「コラの子」と呼ばれる詩人は、かつてはエルサレムの神殿において神に仕え、多くの人々とともに喜びと感謝を持って神を礼拝していました。けれども何らかの理由により、エルサレムの神殿からはるか遠く隔たったヨルダンの地、ヘルモン山に追いやられているのです。そういう詩人の切なる嘆きの歌、哀歌とでもいうべき詩編であります。 神学生のころ、通っていた教会の礼拝ではじめて説教したのが、この詩編42編でありました。当日、インフルエンザにかかり、38度を超える熱が出て、立って歩くのも困難でしたが、学校の寮の電話で教会にかけ、とにかく説教者がいないからとの声に、行かなくてはと思い出かけました。ふわふわ、ふらふらしていたものですから、あとの確かな記憶は吹っ飛んでいますが、「神を待ち望め」との言葉は心に刻みました。今、改めてこの聖書の言葉を読み直しまして、あのころにはよく分からなかった詩人の思い、神への思いに近づいていけるような感じがしています。それは餓え渇くほどに神を求め、祈る経験をしたから、と言うよりはむしろ、これほどすさまじく神を求めて来たであろうか、との思いが強くなったからであります。 魂の渇きはどこで癒されるのでしょうか。のどの渇きは、水を飲むことで癒されます。鹿はその水を求めてあえぐのです。水のない環境におかれたことのない私は、そこまでの渇きを経験したことがありません。しかし水がなければ生きられないという点では変わりありません。水を「命の水」と言い表すほどです。水は渇きを癒し、潤すのです。ここでは神を「命の神」と呼びます。魂の渇きを癒すのは、命の神に他ならないのです。 詩人は答えをわきまえていたに違いありません。今はそれが見えないのです。見えなくなってしまうほどに、さんざん周りの人々から「お前の神はどこにいる」(4節)と絶え間なく言われ、昼も夜も糧は涙。涙を流しても心はいっこうに晴れることはありません。そこで詩人が出来ることは、魂を注ぎこむようにして、喜び歌い感謝をささげる声の中、祭りに集う人々の群れと共に進み、神の家に入ってひれ伏したことを思い起こすことでありました。 涙を流すことでは満たされず、昔の喜ばしい神礼拝を思い起こすことでは、魂の渇きは癒されません。魂はかつての礼拝を思い起こすことに注ぎだされてしまうのみであります。それでもなお、詩人はヨルダンの地から、ヘルモンから、さらにミザルの山からあなた、すなわち神を思い起こすのだというのです。それも「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」(8節)。かつては多くの兄弟姉妹と共に、感謝と喜びを持って神を礼拝していたときには思いもしなかった断絶を、ヨルダンの激流をもたらすヘルモンの水の轟々たる響きより、いやが上にも感じ取られるのです。涸れた谷どころではない、まさに轟々たる響きをあげて流れるほどの水も、詩人の魂の渇きを癒すどころか、まことの神から見捨てられたと思うほどの現実を思わせるのみであります。しかしそのような現実にあって、なお詩人は「 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが」(9節)と神にすがるのです。 自らを超えて行くほどの水も、岩にぶつかってはしぶきをあげて砕け散って行きます。岩はびくともしません。そしてまさしく詩人は岩なる神に問いを向けざるを得ないのです。なぜなら神に見捨てられたと思うほどの現実にあって、答えとなるのはやはり神のほかないからであります。ただ、「なぜ」と神に問うことに神は答えたまわないのです。「なぜ」と問うている間は、答えが来ることなく、堂々巡りが起こることは私たちの経験するところであります。なぜこんなことが起こるのか。なぜあの人はこんなことを言うのか。答えのない繰り言と分かっていながらも、ついついつぶやいてしまいます。詩人も同じ経験をしております。繰り言を重ね、堂々巡りをするのです。答えなき問いをどうして繰り返すのか、と言えばそれは受け止められることを人は必要とするからです。 では「なぜ」と問う繰り言のようなことに神は答えて下さらないのかということです。それは、「なぜ」という問いは神に向かうもののように思いがちであり、しばしばそうしてしまいますが、本当は神が人に問うものであるからです。 詩人がいる場所、ヨルダンの地、ヘルモン、ミザルの山、そこはフィリポ・カイザリアのあたりではないかと言われています。フィリポ・カイザリアと言えば、イエス様が「あなたがたはわたしをなんというのか」と問われたとき、一番弟子のペトロが「あなたは神の子、キリストです」と答えた信仰告白の場所でもあります。 泣き腫らさざるおえない。「なぜ」と神に問わざるをえない。そうしなければやまない現実を抱えているからであります。そうせざるを得ないほどの餓え渇きは、そうしたから癒され、満たされるわけではありません。詩人が繰り返して「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(6節、12節)と言っているごとく、まことにわたしの魂を潤し、救いとなるのは神を仰ぐこと以外にないということをこの朝、改めて深く心に刻みたいと思うのであります。 |
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28節「この後」とは、十字架上の主イエスが、母と愛弟子に声をかけられた後、です。十字架上の主イエスの言葉は幾つか記されておりますが、今日の箇所(28〜30節)で記されている十字架上の主イエスの言葉は2つ、「渇く」と「成し遂げられた」という言葉です。 ここで主イエスは「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」と記されております。「渇く」という言葉は、私どもの感覚では「足りなさ、欠乏」を思うのですが、ここではそうではなく「完成・成就」を見ての「渇き」であると、ヨハネによる福音書は語ります。 主イエス・キリストがこの世に遣わされたのはなぜか。 「主イエスの十字架によって、この世の救いが成し遂げられた」、それが主イエスの十字架上の言葉である「成し遂げられた」の内容です。主イエスが成し遂げてくださったゆえに、私どもは「永遠の命」へと至る道を与えられたのです。 私どもの思いなのではなく、神の御心のみが成るのです。 主イエスは救いを成し遂げてくださいました。ですから後は、私どもが「主イエスを信じて、救いに与る」ということが求められております。「成し遂げられた」ことを受け止め、信じる。そこで初めて救いが与えられるのです。 29節「…人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した」との記述も、他の福音書と違っているところです。この福音書に記される「ヒソプ」は、出エジプト記の過ぎ越しの場面を思い起こさせる言葉です。神がエジプトを打たれるとき、イスラエルが打たれることのないようにイスラエルの家の鴨居に、ヒソプにつけた子羊の血を塗り災いを過ぎ越しました。「過ぎ越し」は、旧約聖書における神の救いの御業なのです。ですから、ここにヒソプと記し、神の救いの御業を暗示させているのです。 30節「…息を引き取られた」とは、ただ単に死なれたということではなく「ご自身の霊を渡された」という意味を含む言葉です。 ここで覚えておきたいことがあります。 このことは、実に驚くべきことです。 |
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31節「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、…」。 過越祭の安息日が特別であるのには理由があります。 主イエス・キリストの十字架は「私どもの罪の贖いとしての十字架」です。私どもの守る「礼拝」は、主イエス・キリストの十字架によって私どもを救い出してくださった「神の御業」を誉め讃える日です。神の「創造と救いの御業」を覚えて礼拝するのです。 31節「…ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」。ここに、ユダヤ人たちの身勝手を思います。彼らは、自分たちの思いで主を十字架につけたにもかかわらず、自分たちの都合で、一刻も早く主を葬ろうとします。彼らにとって「葬り」は「汚れ」であり、汚れたまま安息日を迎えることは出来ないために、その前に葬りを終えたいのです。ここに人の身勝手さ、残忍さ、命に対する尊厳の無さが表れております。彼らは死者の葬りを大事にしておりません。命を尊ぶ者だけが、心から死者を葬るのです。 ピラトの許可を得、32節、兵士は、主イエス以外の二人の足を折りましたが、33節「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった」と記されております。主の死を確認したので、足を折らなかったのです。何気ない言葉ですが、ヨハネによる福音書のこの言葉には「主イエスの十字架の死の意味」が示されております。それは何か。足を折ることによる死は人為的な死ですが、主イエスの死は「自ら死なれた死である」ということを語っているのです。 ヨハネによる福音書は、十字架の悲惨を語らず、静かにあっさりと十字架を語ります。36節「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と、主の足を折らなかったことは聖書の成就だと記されております。 人の業は不完全で、自らでは完成を見ることはできません。私どもは「神においてのみ、完成を見る」のです。完全な救いを成し遂げるために、神は「御子イエス・キリストをこの世に遣わされ」ました。 34節「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」と記されておりますが、これは変なことです。もう死を確認しているのに、わき腹を刺したというのです。念には念を入れての行為でしょうか。 35節「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である」。 |
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この新しい主の日の朝、宗教改革記念の日でもある主の日を覚えつつ、共にルカによる福音書18章9〜14節の御言葉に聞いていきたいと思います。 この聖書個所はルカによる福音書18章の冒頭から続く、イエス様が弟子たちにお語りになられた「祈り」に関する教えです。1〜8節で神様に熱心に祈り求めること、気落ちせずに祈り続けることを教えてくださっています。祈りは神に向かい、聞かれることを願ってささげるのですし、私たちの祈りはそのような意味で真剣ならざるを得ないものです。今日の個所では正しさを求める、義を追い求めることにおいては誰にも引けを取らないほどの自信、ここでは「うぬぼれ」と言われています。うぬぼれるほどに自分は正しいと思っている人に向かっても、イエス様は語ってくださっているのです。イエス様の前には弟子たちがいたのですが、そこにも自分は正しいと思っている人がいたのでありましょう。 このうぬぼれは他者への優越感として表面に露骨に表れれば、周りに嫌な気持ちを与えるものです。気分を害させるものです。ただ、まじめに当の本人は正しい人間だと思い込んでいますから、周りの人たちの気持ちに気づけなくなってしまうのでしょう。これは気配りの次元で解決をすることができるかもしれません。周りが見えてくれば、態度を改めていく必要を見出すはずですから。 イエス様がここで取り上げておられるのは、祈る者の姿です。神の前に自らの行いを言い表している者の姿です。ですから単に気配りの問題では済まないのです。正しさがかかっているのです。正しいという言葉は義とも訳すことができます。そして義であること、それこそ救いだからです。 ところでもう一人、神殿に上った人がいます。徴税人です。徴税人は遠くに立って、目を上げようともせず、胸を打ちながら言うのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)。徴税人は神の前に何も誇れるものを持ちません。神に目を上げることができない罪深い者だと言うのです。ただ、遠くに立って、神様の憐みを乞い願う。この、目を上げず胸を打つ姿勢が、私たちキリスト者の祈りの姿勢に受け継がれていることを覚えたいと思います。 ここでイエス様は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)と宣言なさいます。神に目を上げることもできず、ただただ、神の憐みにすがる者に、神の憐みが注がれるのです。義とされるのです。自ら罪人と言い表し、神の憐みを求める徴税人が、義とされて家に帰ったのだと言われるのです。 ここで「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)とありますが、いったい「へりくだり」とは何でしょうか。神の前に正直であることに越したことはありませんが、ファリサイ派の人も徴税人も、神の前に正直に祈っていることは分ります。その正直さが問題で、心底、自らを罪人であることを言い表すことが、真のへりくだりに他なりません。ところが私たちの犯す過ちは、ああそうか、ファリサイ派の人の逆を行けばいいのだな、と思うことです。そしてあのファリサイ派の人のように傲慢ではない、罪深い者だと言い表すとしたら、それはやはり、ファリサイ派の人と同じことをしてしまうに過ぎないのです。両者の比較対象が大事なのではありません。 神の前では、いかなる正しさも意味をなさないのです。せいぜいのところ、自己満足に終わってしまうものと覚えたらいいのではないでしょうか。 |
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