聖書のみことば/2010.10
2010年10月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
あなたの子です」 10月第1主日礼拝 2010年10月3日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第19章23節〜27節
19章<23節>兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。<24節>そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。<25節>イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。<26節>イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。<27節>それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

主イエスの十字架の場面が描かれております。

この場面の記述は、ヨハネによる福音書と他の福音書とでは大分違っております。
 例えば「兵士たちが主イエスの服を分けた」場面について、この福音書では23節で「上着」を4つに分け、くじ引きで決めたのは「1枚布の下着」であったと、上下2枚の服について記しておりますが、他福音書では「2枚の服」とは記されておりません。続けて24節「それは『彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現するためであった」とは、「聖書の言葉=詩編22編19節の言葉」から来ているのですが、詩編には2枚の服という記述はないので、その理解で、他福音書は「主の服を分けるためにくじ引きした」と記しているのです。
 また25節以下を見ても、他福音書では母マリアも、また逃げさってしまった男の弟子も出て来ませんが、ここでは母マリアも、男弟子も「愛する弟子」として一人出て来ます。
 更に、他福音書では、女性の弟子たちは「遠くに立って十字架を見ていた」となっているのですが、ここでは「イエスの十字架のそばには……立っていた」と、十字架の近くにいることが記されます。この場面が、特に、他福音書と違っているところです。何故「十字架のそば」でなければならなかったのでしょうか。26節からの記述を考えますと、十字架から遠ければ主イエスが弟子たちに声をかけることはできないのですから、弟子たちは主の声の届くところにいるのです。このことについては様々な論争がありますが、真実は分りません。

ここで示されることがあります。それは、「福音書」は主イエスの伝記を記すものではないということです。伝記であれば、史実に基づいていなければなりません。しかし「福音書」は「主イエスが全世界の救い主であることを証しする」ものなのであって、史実を語るものではないのです。そして「福音書」は、読む者の時代背景や状況によって、各々に受け止める信仰の告白を伴うものです。ですから、同じ史実であっても、それに対する受け止め方、言い表し方が違っていて良いのです。いえ、皆違っていることこそ大事なのです。
 人は、どれも一致しているから真実だと思いがちですが、そうではありません。まるっきり同じで一致しているということは、そこに人の意図的な働きがあると言って良いのです。皆一緒ということは危ないことです。皆一緒で、個が無くなれば、個人の尊厳は失われてしまいます。真実に対して、様々に受け止めること、それが大事です。違っているからこそ、本物なのです。
 それは、人の遺伝子に関しても言えるようです。例えば、エイズはウィルスを持っていても発症する人としない人がいるのは、遺伝子に違いがあるからです。それは、一つの病で人類が全滅することのないようにということでしょうか。神の人に対する大いなる御業です。
 ですから、一緒でなくても良いのです。違っているからこそ良いのです。一方で言い表せないことを、他の一方で言い表すことができるのです。「違い」を大切にしたいと思うのです。

では、ここで他福音書と違う表現をしたことによって、ヨハネによる福音書が伝えたかったこととは何かを考えたいと思います。
 ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で一番新しい福音書です。成立時期は100年〜120年頃と言われておりますが、その間に、教会は広がって小アジアにも及び、初代教会から見れば教会自体のあり方も大きく変わっていきました。ヨハネによる福音書は、ヘレニズム社会(ギリシャ人社会)に書き送った書です。つまり、もはやユダヤ人キリスト者に対してではなく、異邦人キリスト者が中心の教会に対して「主イエス・キリストが証しされている」のです。
 ですから、この福音書は他の福音書と違う表現をしております。ユダヤ人キリスト者に対しての書簡であれば、伝統的な旧約聖書の理解を踏まえながらの記述となりますが、異邦人キリスト者に対しては、そのような前提は必要ないからです。ただ、どの福音書においても「主イエスが世の罪の贖いのために十字架についてくださったこと」このことは変わらない一つの出来事です。
 「この十字架の出来事は一体何であったのか」ということについては、聖霊の導きにより、時代や場所や対象に向かってそれぞれに受け止め、語られるということが大事なことです。そしてそれは「聖書の言葉が実現するためであった」、つまり「旧約聖書で言われていたことが成就した」ということが大事なのです。「旧約聖書で言われていたこと」それは「来られるはずのメシア」ということであり、主イエス・キリストこそ、旧約聖書に記された「来られるはずのメシア」その方なのだということです。
 それは、「十字架の主イエスこそが、旧約聖書に約束されたメシアである」ということです。
 「十字架の主イエスはメシアである」とは、伝統的な、旧約聖書におけるメシア像とは違うものです。イスラエルが望んだ政治的な指導者としてのメシアとは違うのです。「十字架につけられたメシア」の姿、それはこの世の価値観から見れば、敗北に過ぎません。しかし、真実に「十字架のメシア」こそが「この世の罪を贖い、この世の罪から人々を救うメシア」なのです。

25節〜、主イエスの十字架のそばに弟子たちが立っております。「マグダラのマリア」はしばしば聖書に記される女性で、「罪の女」とも言われます。マグダラのマリアの姿は、とても印象深い姿です。姦通の女として人々に石で打たれそうになったとき、主イエスは「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよ」と言って助け、「わたしもあなたを罪に定めない」と罪の赦しを与えてくださいました(ヨハネによる福音書8章)。そして、十字架を前にした主イエスに対して、マリアは高価なナルドの香油を髪に浸して、主の足を拭いました。自らの生活の全てを投げ出してまで主イエスを愛する、痛々しいまでの姿です。弟子たちの非難に対して、主はマリアの信仰を良しとしてくださいました(ヨハネによる福音書12章)。
 主イエスは言われます「多く赦された者が、多く愛する」と。マグダラのマリアは、自分の全てを投げ出すほどまでに「主イエスの贖いの愛」を知っている女性なのであり、主イエスのそば近くにいたいと願っているのです。
 マグダラのマリアだけがどの福音書にも語られていることは印象的なことです。それは、彼女ほどに、主イエスの十字架を痛む者はいなかったということです。彼女ほどに「主イエスの十字架の恵み、赦し、愛を知る者はいなかった」ということなのです。

「十字架のそばに、十字架のもとに立つ」とは、どういうことなのでしょうか。
 それは「十字架の主イエスに愛されている、赦されていることを知る」ということです。十字架につくほどまでに、私どもを愛してくださっている主イエスを知るということです。
 もし、十字架を仰げないとするならば、それは主イエスの十字架の痛み、苦しみをもっての贖いを知らないということです。
 「主イエスの十字架に贖われている」、だからこそ、主イエスの十字架を仰ぎ、主の足元に居たいと思うのです。それは、マグダラのマリアも私どもも同じです。

ここでは、イエスの母マリアも立っております。しかし「母マリア」とも「マリア」とも言わず、「母」と記されます。そして「婦人よ」と、主イエスは呼びかけます。親子であるにも拘らず、どこか距離を感じさせる表現です。「母」とは、実際の主イエスの母を念頭においていないことを思わせる記述なのです。

26・27節「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と記されております。ここで、主イエスの方から、母と弟子に語っておられるということが大事なことです。母と弟子を結びつけてくださっているのは、主イエスなのです。「十字架の主イエス」が語ってくださるのです。

「愛する弟子」とは、ヨハネを指すと言われておりますが、それはつまり「教会」を意味するのです。ここで「母」とは「ユダヤ人キリスト者の教会」であり、「愛する弟子」とは「異邦人キリスト者の教会」です。この福音書が記された頃には、エルサレム教会(初代教会、ユダヤ人キリスト者の教会)は衰退し、福音は異邦人社会へと広まって、異邦人キリスト者の教会が世界宣教を担うようになっておりました。
 ここで記される「見なさい。あなたの母です」とは、衰退するエルサレム教会ではあるが、しかし異邦人教会はエルサレム教会に敬意を払うべきであることを示しております。エルサレム教会がこれまで担い、果たし、導いて来た福音宣教の大切な働きを、「母なるエルサレム教会」として、大切にして受け入れるようにと言われているのです。
 そしてまた、母なるエルサレム教会も、子なる異邦人教会を受け入れ、祝福しなければならないことを教えております。

ヨハネによる福音書が記した「主イエスの十字架の場面」が、他福音書と違っているのは、他福音書と違う時代に、主の福音を証ししなければならなかったことを示しております。そして、そのことは現代を生きる私どもも覚えるべき大切なことなのです。

今の時代にあって、この時代に相応しく福音を証しし、教会が果たすべき働きを成すべきであることを、改めて覚えたいと思います。

また、2000年の隔たりの中で、福音書に記された初代教会、ユダヤ人キリスト者の出来事を通して、現在のイスラエル、神の選びの民であったユダヤ人のために祈るべきことをも、覚えたいと思います。
 実際の生活の中で、関わることのない出来事は多くあります。しかし、私どもに託されていることがあります。それは「祈り」です。関わりのないと思われる出来事や人々のために、祈りゆくものでありたいと思います。

神を待ち望め」 10月第2主日礼拝 2010年10月10日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/詩編 第42編1節〜12節
42編<1節>【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】<2節>涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。<3節>神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。<4節>昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。<5節>わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。<6節>なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。<7節>わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から<8節>あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。<9節>昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。<10節>わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」<11節>わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。<12節>なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

今朝の礼拝において開かれた詩編42編の御言葉を共に聞いていきたいと思います。この詩編42編は、これに続く詩編43編と一続きの詩編でもあるようです。と言うのは「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(6節、12節)とあるこの詩編の折り返しとでもいうべき言葉が43編にもあること、また、43編には表題がないことなどから、そのように考えられています。ともあれこの朝は与えられております詩編42編の御言葉に耳を傾けてまいります。

詩編42編の1節は表題であります。「指揮者によって。マスキール。コラの子の詩」との表題ですが、「マスキール」の意味は良くわかっていないようです。嘆きであるとか、黙想、教訓などの意味あいを言う人があるようですが、定まってはいないようです。「コラの子」とは神殿に仕えるコラと言う人の子孫を指しています。「コラの子」と呼ばれる詩人は、かつてはエルサレムの神殿において神に仕え、多くの人々とともに喜びと感謝を持って神を礼拝していました。けれども何らかの理由により、エルサレムの神殿からはるか遠く隔たったヨルダンの地、ヘルモン山に追いやられているのです。そういう詩人の切なる嘆きの歌、哀歌とでもいうべき詩編であります。
 ただ、ここで紡ぎだされている信仰の言葉、嘆きの言葉ではありますが、まぎれもない信仰の言葉は、ただ、詩人の置かれた状況を知っただけでは感じ取れない深みがあります。

神学生のころ、通っていた教会の礼拝ではじめて説教したのが、この詩編42編でありました。当日、インフルエンザにかかり、38度を超える熱が出て、立って歩くのも困難でしたが、学校の寮の電話で教会にかけ、とにかく説教者がいないからとの声に、行かなくてはと思い出かけました。ふわふわ、ふらふらしていたものですから、あとの確かな記憶は吹っ飛んでいますが、「神を待ち望め」との言葉は心に刻みました。今、改めてこの聖書の言葉を読み直しまして、あのころにはよく分からなかった詩人の思い、神への思いに近づいていけるような感じがしています。それは餓え渇くほどに神を求め、祈る経験をしたから、と言うよりはむしろ、これほどすさまじく神を求めて来たであろうか、との思いが強くなったからであります。
 詩人はまさに渇いているのです。渇望しているのです。「 涸れた谷に鹿が水を求めるように 神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て神のを仰ぐことができるのか」(2〜3節)。パレスチナ地方の気候は、大きく雨期と乾期とに分かれますが、乾期には川の水が干上がってしまい、水の通る道が残るのだそうで、それをワジと言います。そのワジで水を求めて呻き声をあげている鹿。求めても、呻いても、そこからは一滴の水さえ得られません。それでもなお、そこに水はないかと求めているその鹿のように、わたしの魂は神を求めてやまないのです。なぜでしょうか。渇くのです。命の神に魂が乾くのです。

魂の渇きはどこで癒されるのでしょうか。のどの渇きは、水を飲むことで癒されます。鹿はその水を求めてあえぐのです。水のない環境におかれたことのない私は、そこまでの渇きを経験したことがありません。しかし水がなければ生きられないという点では変わりありません。水を「命の水」と言い表すほどです。水は渇きを癒し、潤すのです。ここでは神を「命の神」と呼びます。魂の渇きを癒すのは、命の神に他ならないのです。
 ただ、命の神の御顔をどこで仰ぐことができるのでしょうか。

詩人は答えをわきまえていたに違いありません。今はそれが見えないのです。見えなくなってしまうほどに、さんざん周りの人々から「お前の神はどこにいる」(4節)と絶え間なく言われ、昼も夜も糧は涙。涙を流しても心はいっこうに晴れることはありません。そこで詩人が出来ることは、魂を注ぎこむようにして、喜び歌い感謝をささげる声の中、祭りに集う人々の群れと共に進み、神の家に入ってひれ伏したことを思い起こすことでありました。
 神にひれ伏す場所こそ神の家であり、そこに共に神を礼拝する兄弟姉妹の交わりがあります。そこにあって私たちは魂の渇きが癒され、救いを受けるのであります。ただ、詩人にとってはそれが見えません。遠く隔たっているのです。神がいましたもう教会があり、集うことがゆるされていることは本当に幸いなことであります。魂の渇きを癒し、潤し給うのは神に他ならないからです。だからこそ詩人は自らの魂を励ますかのように、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と」(6節)。

涙を流すことでは満たされず、昔の喜ばしい神礼拝を思い起こすことでは、魂の渇きは癒されません。魂はかつての礼拝を思い起こすことに注ぎだされてしまうのみであります。それでもなお、詩人はヨルダンの地から、ヘルモンから、さらにミザルの山からあなた、すなわち神を思い起こすのだというのです。それも「あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて深淵は深淵に呼ばわり 砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」(8節)。かつては多くの兄弟姉妹と共に、感謝と喜びを持って神を礼拝していたときには思いもしなかった断絶を、ヨルダンの激流をもたらすヘルモンの水の轟々たる響きより、いやが上にも感じ取られるのです。涸れた谷どころではない、まさに轟々たる響きをあげて流れるほどの水も、詩人の魂の渇きを癒すどころか、まことの神から見捨てられたと思うほどの現実を思わせるのみであります。しかしそのような現実にあって、なお詩人は「 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り 夜、主の歌がわたしと共にある わたしの命の神への祈りが」(9節)と神にすがるのです。

自らを超えて行くほどの水も、岩にぶつかってはしぶきをあげて砕け散って行きます。岩はびくともしません。そしてまさしく詩人は岩なる神に問いを向けざるを得ないのです。なぜなら神に見捨てられたと思うほどの現実にあって、答えとなるのはやはり神のほかないからであります。ただ、「なぜ」と神に問うことに神は答えたまわないのです。「なぜ」と問うている間は、答えが来ることなく、堂々巡りが起こることは私たちの経験するところであります。なぜこんなことが起こるのか。なぜあの人はこんなことを言うのか。答えのない繰り言と分かっていながらも、ついついつぶやいてしまいます。詩人も同じ経験をしております。繰り言を重ね、堂々巡りをするのです。答えなき問いをどうして繰り返すのか、と言えばそれは受け止められることを人は必要とするからです。

では「なぜ」と問う繰り言のようなことに神は答えて下さらないのかということです。それは、「なぜ」という問いは神に向かうもののように思いがちであり、しばしばそうしてしまいますが、本当は神が人に問うものであるからです。
 繰り言を言う自らの魂をまさしく神の前に立つものとして、詩人は神に向かう問いを自らに向けなおすのであります。そのようにして神殿から遠く隔たっている現実にありながら、そして「お前の神はどこにいる」と責める人々の間にありながら、なお、神に望みを持つものとして告白するのであります。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(12節)。これこそ詩人の信仰の告白であります。

詩人がいる場所、ヨルダンの地、ヘルモン、ミザルの山、そこはフィリポ・カイザリアのあたりではないかと言われています。フィリポ・カイザリアと言えば、イエス様が「あなたがたはわたしをなんというのか」と問われたとき、一番弟子のペトロが「あなたは神の子、キリストです」と答えた信仰告白の場所でもあります。
 「御顔こそ、わたしの救い」と詩人が告白した場所、そこが最初のキリスト告白の場所でもあったのか、と思うときに、本当に立つべきところはここにあるのだと感じざるを得ません。

泣き腫らさざるおえない。「なぜ」と神に問わざるをえない。そうしなければやまない現実を抱えているからであります。そうせざるを得ないほどの餓え渇きは、そうしたから癒され、満たされるわけではありません。詩人が繰り返して「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」(6節、12節)と言っているごとく、まことにわたしの魂を潤し、救いとなるのは神を仰ぐこと以外にないということをこの朝、改めて深く心に刻みたいと思うのであります。

成し遂げられた」 10月第3主日礼拝 2010年10月17日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第19章23節〜27節
19章<28節>この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。<29節>そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。<30節>イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

28節「この後」とは、十字架上の主イエスが、母と愛弟子に声をかけられた後、です。十字架上の主イエスの言葉は幾つか記されておりますが、今日の箇所(28〜30節)で記されている十字架上の主イエスの言葉は2つ、「渇く」と「成し遂げられた」という言葉です。

ここで主イエスは「すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」と記されております。「渇く」という言葉は、私どもの感覚では「足りなさ、欠乏」を思うのですが、ここではそうではなく「完成・成就」を見ての「渇き」であると、ヨハネによる福音書は語ります。
 ヨハネによる福音書は他福音書と違っており、例えば十字架上の主イエスの「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか)」という言葉も、十字架の出来事を見た百人隊長の信仰告白もありません。ヨハネによる福音書は、十字架上の主イエスの悲惨さを語らないのです。十字架の悲惨さではなく、「すべてのことを成し遂げての十字架」であることを表すのです。ですから「成し遂げられた」とは、ヨハネによる福音書の信仰のあり方を示す言葉です。
 私どもは、十字架の主イエス・キリストによって罪を贖われ、主(神)のものとされて生かされている存在です。福音書は「主イエス・キリストの十字架の贖い」を語り、私どもはその御言葉に聴きます。しかし、福音書が語っていることはそれが全てなのではありません。他福音書より後に書かれたヨハネによる福音書は「成し遂げられた」という形で「十字架」を語り、十字架の出来事とは何であったのかを、更に深めて語っていると言えるのです。
 そういう意味で「成し遂げられた」という言葉は、どういう内容を持っているのかを考えたいと思います。

主イエス・キリストがこの世に遣わされたのはなぜか。
 ヨハネによる福音書は3章16・17節で「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と語ります。主イエス・キリストがこの世に遣わされたのは「神が、御子イエス・キリストによって、この世を救うため」なのです。
 では「この世の救い」とは何か。それは「主イエスを信じる者が全て、永遠の命を得る」ということです。ヨハネによる福音書は「救い」とは「永遠の命」であるということを明確に記しております。
 では「永遠の命」とは何でしょうか。聖書の語る「命」とは「神との交わり」を示します。ですから、「死」は「神との交わりを失うこと」なのです。
 主イエスを信じる者は「神との尽きることのない交わりを得る」、それが「永遠の命を得る」ということです。ですから、私どもが「生きる」ということは「神との交わりがある」ということなのだと、ヨハネによる福音書は語っているのです。

「主イエスの十字架によって、この世の救いが成し遂げられた」、それが主イエスの十字架上の言葉である「成し遂げられた」の内容です。主イエスが成し遂げてくださったゆえに、私どもは「永遠の命」へと至る道を与えられたのです。
 では、どのようにして「永遠の命」を知ることができるのでしょうか。
 それは、この「礼拝」においてです。「礼拝」こそは「神との交わり」だからです。「礼拝」において、私どもは「終わりの日の永遠の命の約束」を、この地上にあって「先取り」として頂いているのです。ですから、私どもがどのような終わりを迎えたとしても、私どもは既に「永遠の命の約束(神との尽きない交わり)を受けた者として」この地上を生き、終わることができるのです。
 「礼拝」とは、私どもがこの地上の歩みを終えても神との永遠の交わりに生きるのだということを確認することができる、恵みです。「礼拝」は「天上での神との尽きない交わりの前味」なのです。

私どもの思いなのではなく、神の御心のみが成るのです。
 すべてを成し遂げたことを知って、主イエスは「渇く」と言われました。主イエスの十字架によって、主を信じる者は全て、永遠の命を得るという恵みを与えられました。ですから、主イエスの十字架は道半ばでの挫折なのではありません。主イエスの十字架は、使命を全うしての「この世の救いの成就」なのだということを覚えたいと思います。

主イエスは救いを成し遂げてくださいました。ですから後は、私どもが「主イエスを信じて、救いに与る」ということが求められております。「成し遂げられた」ことを受け止め、信じる。そこで初めて救いが与えられるのです。
 「信じることによってのみ救われる」、これがプロテスタント教会の信仰告白です。戒めを守り、神の御心に適った生活をすることによって救われるという功績主義を退けた、それが宗教改革です。もちろん、それで戒めが無駄になるわけではありません。しかし、戒めを守ることが救いの保証ではないのです。
 ただ「主イエス・キリストの十字架の贖いを信じる」ことによってのみ救われるのです。なぜならば、十字架において「救いは既に成し遂げられている」のですから、後は「信じるのみ」なのです。
 信じないということは、既に与えられている救いを自ら拒むということです。「与えられているものを感謝をもって頂く」それが「信じる」ということです。救いとは、何かの条件を満たしたら与えられる、ということではないことを改めて覚えたいと思います。「信じる」ということは、「ありがとうございます」と感謝して、恵みに与ることです。それが、既に与えられている恵みに対して、私どものなすべき応答なのです。

29節「…人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した」との記述も、他の福音書と違っているところです。この福音書に記される「ヒソプ」は、出エジプト記の過ぎ越しの場面を思い起こさせる言葉です。神がエジプトを打たれるとき、イスラエルが打たれることのないようにイスラエルの家の鴨居に、ヒソプにつけた子羊の血を塗り災いを過ぎ越しました。「過ぎ越し」は、旧約聖書における神の救いの御業なのです。ですから、ここにヒソプと記し、神の救いの御業を暗示させているのです。
 繰り返しますが、ヨハネによる福音書は主イエスの十字架に暗さや悲惨さを表さず、「救いの成就」ということを強調しております。まさしく主イエスの十字架は「聖書の言葉が実現した(28節)」、神の救いの御業の成就なのです。

30節「…息を引き取られた」とは、ただ単に死なれたということではなく「ご自身の霊を渡された」という意味を含む言葉です。
 「成し遂げられた」という言葉をもって、主は息を引き取られました。「成し遂げられた」とは、主イエスが神の子として、父なる神のもとに「帰る、凱旋される」ことを言い表す言葉です。主イエスは父のもとに帰ることによって、神の子としての栄光を現されるのです。一切を成し遂げ、死に勝利して、天に帰られる。すなわち「凱旋としての十字架」であることを、ヨハネによる福音書は記しております。

ここで覚えておきたいことがあります。
 私どもの人生は、主イエスを信じることによって、主に結ばれた者として、「死に対する勝利を得る人生」なのです。
 私どものこの世の歩みは、道半ばで終わるかもしれません。しかし私どもは、地上での死を迎えても、主イエスと共に死に勝利し、天の国において人生の完成を見ることができるのです。ただ主イエスを信じることによって、私どもの人生は完成を見ることができるのです。

このことは、実に驚くべきことです。
 私どもの人生は日々老いへと向かうのであり、老人になるにつれ衰えていくばかりであって、そのような私どもの日々が完成に向かっているとは、とても思えないのではないでしょうか。しかし、そうではないのです。主イエスを信じることによって、私どもは日々「完成へと向かって」いるのです。
 このことは、日々老いゆく私どもにとって何と喜ばしいことでしょうか。
 主イエスが十字架によって救いを「成し遂げてくださった」恵みを改めて思い、感謝しつつ過ごす者でありたいと思います。

証しは真実である」 10月第4主日礼拝 2010年10月24日 
北 紀吉 牧師 
聖書/ヨハネによる福音書 第19章31節〜37節

19章<31節>その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。<32節>そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。<33節>イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。<34節>しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。<35節>それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。<36節>これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。<37節>また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

31節「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、…」。
 「準備の日」とは、どういう日でしょうか。それは「過越祭の前日」です。過越祭の第一日の安息日は「特別の日」であると語られております。

過越祭の安息日が特別であるのには理由があります。
 そもそも安息日とは、十戒の第4戒に「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあるように、その日を神の日とし、神を礼拝せよと命じられている日です。出エジプト記第20章8〜12節によれば、神は天地を創造され7日目に休まれました。7日目、神は創造を終えられ完成された、その神の「創造の完成」を覚えて祝い、礼拝せよと言われているのです。
 今、私どもの守っている礼拝は、主イエス・キリストの復活の出来事を覚えての礼拝ですが、同時に、神に造られた者(私ども人間)として、創造の神を覚えての礼拝でもあるのです。私どもは、創造主である神にあってこそ満ち、神にあってこそ完成する存在として、神を礼拝するのです。これが、出エジプト記の示す「安息日を聖とする」理由です。
 しかし、「安息日を聖とする」理由はもう一つあります。それは申命記第5章12〜15節に記されているのですが、「出エジプトを覚えて礼拝せよ」ということです。神がエジプトで奴隷だったイスラエルを解放し救い出してくださった、それが「出エジプト」だからです。そして「過越」とは、その「出エジプト」を覚える出来事です。神がエジプトの全ての初子を打たれたとき、イスラエルの家は鴨居に塗られた子羊の血によって、その難が過ぎ越されました。子羊の命をもって、神がイスラエルを贖い出してくださったのです。ですからそれは「神の救いの御業を覚える」ことです。神の贖い、救い出してくださったことを覚える中心の日、それが「過越祭の安息日」なのです。

主イエス・キリストの十字架は「私どもの罪の贖いとしての十字架」です。私どもの守る「礼拝」は、主イエス・キリストの十字架によって私どもを救い出してくださった「神の御業」を誉め讃える日です。神の「創造と救いの御業」を覚えて礼拝するのです。
 「創造と救い」この2つは、私どもにとっては別々のことではなく一つのことです。神との交わりに生きる者は、主の十字架によって、罪なる者から聖なる者(神のもの)へと造り替えられるのです。ですから、救いは「新しい創造、再創造」です。私どもは、この礼拝において「神の創造と救いを覚える」のです。神の御業によってのみ、私どもは真実に変わり得るのです。

31節「…ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」。ここに、ユダヤ人たちの身勝手を思います。彼らは、自分たちの思いで主を十字架につけたにもかかわらず、自分たちの都合で、一刻も早く主を葬ろうとします。彼らにとって「葬り」は「汚れ」であり、汚れたまま安息日を迎えることは出来ないために、その前に葬りを終えたいのです。ここに人の身勝手さ、残忍さ、命に対する尊厳の無さが表れております。彼らは死者の葬りを大事にしておりません。命を尊ぶ者だけが、心から死者を葬るのです。
 「足を折る」のは何故でしょうか。これは、十字架刑において行われていたようです。足は内蔵を支えていますので、足を折ることは死期を早めることです。足を折るとは残酷なことのようですが、一般に十字架上で死ぬまでには数日かかることを考えますと、却って慈悲の業として行われていたのでした。また、兵士たちも「十字架から降ろす」という仕事を早く終わらせたいために、足を折ることをピラトに願い出たのでした。

ピラトの許可を得、32節、兵士は、主イエス以外の二人の足を折りましたが、33節「イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった」と記されております。主の死を確認したので、足を折らなかったのです。何気ない言葉ですが、ヨハネによる福音書のこの言葉には「主イエスの十字架の死の意味」が示されております。それは何か。足を折ることによる死は人為的な死ですが、主イエスの死は「自ら死なれた死である」ということを語っているのです。
 主イエスは、人によって殺されたのではなく、自ら死んでくださって、その死によって全人類の救いという御業を成し遂げてくださいました。私どもの救いのために自ら十字架に死んでくださったのだということが、ここに示されていることです。
 人間の思いは「死にたくない」という思いです。他人のために、ましてや自分に敵する者のためになど、死にたくはないのです。主イエスは「既に死んでおられた」、それが主イエスの十字架の死であることを覚えたいと思います。

ヨハネによる福音書は、十字架の悲惨を語らず、静かにあっさりと十字架を語ります。36節「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と、主の足を折らなかったことは聖書の成就だと記されております。
 このことは何を示しているのでしょうか。それは「過越」との関わりで語られております。「過越のいけにえの子羊」は、傷ついたものを捧げてはならないのです。ですから「足を折らなかった」ことは、まさしく主イエスが「過越の子羊」として十字架についておられることを示しております。故に、足を折らなかったことは大事なことなのです。主イエスの十字架は「過越」「贖い」としての救いの成就であるからです。
 本来、人の命を贖うのは人の命ですが、そうは出来ないので、旧約においては家畜の命をもって贖いました。ですから、旧約聖書における贖いは他者犠牲であり、その贖い・救いは不完全であるがゆえに、毎年贖わなければなりませんでした。
 しかし「主イエス・キリストの十字架の贖い」は、他者犠牲ではありません。神から見て、主イエスの十字架は自己犠牲です。捧げられたのは神ご自身であり、受け取られたのも神ご自身なのです。主イエスの十字架こそは神の自己犠牲であって、それは「完全な贖い」なのです。

人の業は不完全で、自らでは完成を見ることはできません。私どもは「神においてのみ、完成を見る」のです。完全な救いを成し遂げるために、神は「御子イエス・キリストをこの世に遣わされ」ました。

34節「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」と記されておりますが、これは変なことです。もう死を確認しているのに、わき腹を刺したというのです。念には念を入れての行為でしょうか。
 本来する必要のないことを何故したのか……主のわき腹を刺したことによってもたらされたこと、それは「血と水とが流れ出た」ということです。「血と水」とは何でしょうか。死んだ人を傷つけても、大量の血と水が混ざって出るということはありません。初代教会は「血と水」を「聖餐と洗礼」を意味すると考え、主の十字架は神の「恵み」と「贖いとしての救い」であると言い表しました。もちろん、それでも良いのです。しかし、聖書学の観点からみると違います。「血と水」は「過越」と関係していると考えるのです。過越に捧げられる子羊の血は、集められて祭壇の足台に振りかけられました。その際に、血はすぐに固まってしまうため、水を混ぜたのです。ですから「血と水」はまさしく「贖いの子羊の血」を表しているのであり、主イエス・キリストのわき腹から流れた血と水は、それが「贖いの子羊の血」であることを示しているのです。
 このように、主イエスの十字架は人々の罪の、命の「贖いとしての十字架」なのだということを、御言葉が様々な形で示しております。

35節「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である」。
 ここで、証しした人はヨハネです。しかし「その者」を「その方」と訳する、つまり「主イエスご自身がこの証しを保証してくださる」と訳する訳が多いのです。主ご自身が保証しておられるのだから、その証しを信ぜよ、信じて良いと言われているのです。
 主イエス・キリストによって証しされている、だからこそ私どもは、神の恵み、救い、命の贖いを頂くことができるのだということが、「証しは真実である」という御言葉によって示されていることです。

義とされて家に帰る者」 10月第5主日礼拝 2010年10月31日 
荒又敏徳 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第18章9節〜14節

18章<9節>自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。<10節>「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。<11節>ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。<12節>わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』<13節>ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』<14節>言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

この新しい主の日の朝、宗教改革記念の日でもある主の日を覚えつつ、共にルカによる福音書18章9〜14節の御言葉に聞いていきたいと思います。

この聖書個所はルカによる福音書18章の冒頭から続く、イエス様が弟子たちにお語りになられた「祈り」に関する教えです。1〜8節で神様に熱心に祈り求めること、気落ちせずに祈り続けることを教えてくださっています。祈りは神に向かい、聞かれることを願ってささげるのですし、私たちの祈りはそのような意味で真剣ならざるを得ないものです。今日の個所では正しさを求める、義を追い求めることにおいては誰にも引けを取らないほどの自信、ここでは「うぬぼれ」と言われています。うぬぼれるほどに自分は正しいと思っている人に向かっても、イエス様は語ってくださっているのです。イエス様の前には弟子たちがいたのですが、そこにも自分は正しいと思っている人がいたのでありましょう。

このうぬぼれは他者への優越感として表面に露骨に表れれば、周りに嫌な気持ちを与えるものです。気分を害させるものです。ただ、まじめに当の本人は正しい人間だと思い込んでいますから、周りの人たちの気持ちに気づけなくなってしまうのでしょう。これは気配りの次元で解決をすることができるかもしれません。周りが見えてくれば、態度を改めていく必要を見出すはずですから。

イエス様がここで取り上げておられるのは、祈る者の姿です。神の前に自らの行いを言い表している者の姿です。ですから単に気配りの問題では済まないのです。正しさがかかっているのです。正しいという言葉は義とも訳すことができます。そして義であること、それこそ救いだからです。
 二人の人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人です。ファリサイ派の人は立ち上がり「心の中で」こう祈ったのです。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11〜12節)。人が心の中で言ったことを誰が分かるというのでしょうか。ほかの人には隠されております。ただ、祈りを聞いておられる神様だけがそれを知られるのです。神の前に頭を上げ、手をさえあげてファリサイ派の人は「・・・」と祈ります。罪を犯したことがないことを上げて感謝しています。そこで彼は遠くで祈っている徴税人の声を聞きながら、「この徴税人のような者でないこと」、いたずらに異邦人と関わるものでないことをさえ感謝するのです。さらに神の前でどんなに敬虔で立派な行いをしてきたかを披瀝するのです。週に二度の断食は、罪の赦しを願うものであったようです。彼は自分の罪の赦しを願う必要がなかったのですが、民(他者)の罪の赦しを願ってのことです。十分の一の捧げものは、自分の農作物や家畜の十分の一はもちろん、買ったものの十分の一をも捧げていたようです。農民や商人たちが十分の一を捧げていないかも知れないと思ったからです。そうまでしたのは正しさを誇るためです。しかも周りの人々に誇っていたというのではなく、神の御前で誇っているのです。イエス様はファリサイ派の人が「心の中で祈っている」ことを露骨なまでに語っています。こうまでされると気持ちの良いものではありません。

ところでもう一人、神殿に上った人がいます。徴税人です。徴税人は遠くに立って、目を上げようともせず、胸を打ちながら言うのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)。徴税人は神の前に何も誇れるものを持ちません。神に目を上げることができない罪深い者だと言うのです。ただ、遠くに立って、神様の憐みを乞い願う。この、目を上げず胸を打つ姿勢が、私たちキリスト者の祈りの姿勢に受け継がれていることを覚えたいと思います。

ここでイエス様は「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)と宣言なさいます。神に目を上げることもできず、ただただ、神の憐みにすがる者に、神の憐みが注がれるのです。義とされるのです。自ら罪人と言い表し、神の憐みを求める徴税人が、義とされて家に帰ったのだと言われるのです。

ここで「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)とありますが、いったい「へりくだり」とは何でしょうか。神の前に正直であることに越したことはありませんが、ファリサイ派の人も徴税人も、神の前に正直に祈っていることは分ります。その正直さが問題で、心底、自らを罪人であることを言い表すことが、真のへりくだりに他なりません。ところが私たちの犯す過ちは、ああそうか、ファリサイ派の人の逆を行けばいいのだな、と思うことです。そしてあのファリサイ派の人のように傲慢ではない、罪深い者だと言い表すとしたら、それはやはり、ファリサイ派の人と同じことをしてしまうに過ぎないのです。両者の比較対象が大事なのではありません。

神の前では、いかなる正しさも意味をなさないのです。せいぜいのところ、自己満足に終わってしまうものと覚えたらいいのではないでしょうか。
 イエス様は、私たち人間の正しさが人を救うのではなく、ただ「神の憐みによってのみ、救われるのだ」ということを語ってくださっています。
 今、神を礼拝し、共に祈る恵みのうちにありますのは、私たちの良し悪しを超えて、罪人を憐み、義とし、救い給う神ゆえであります。神をこそ義とすることこそ大事なのです。神こそが義であり、救いに他なりません。だからこそ、神の憐みは、自ら誇るものを持たない罪人に向けられるのです。
 そして神の憐みの極致こそ「キリストの十字架」に他なりません。神の憐みを受けた者、義とされて家に帰る者こそ、神から遠いと気づかされ、神の憐みにすがる人であります。