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23節から「祈り、願う」ということについて聴いていきたいと思います。 ヨハネによる福音書には「はっきり言っておく」という言葉がしばしば用いられます。これはとても重要な言葉です。直訳すると「まことに、まことに、わたしはあなたがたに告ぐ」であり、「真実」という言葉が2度続くのです。ここに、主イエスが真実をもって語っていてくださることが示されております。ですから、聞く者は身を正して聴かなければならないのです。 主イエスは何を語られるのでしょうか。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と記されております。この御言葉を眺め、その重みを感じつつ、ふと「あなたがたが」という言葉に目が止まりました。誰もが願ってよいのではない。「あなたがたが願えば、与えられる」と言われていることに気付いたのです。 祈りが聴かれないと思うとき、人はしばしば祈りの熱心さ不足を理由に考えたりいたします。もちろん、熱心に祈る者の祈りは聴かれます。それは、それ程に「神のみであるがゆえに」神の憐れみをいただくのです。しかし、熱心さを自分の業とする祈りは聴かれることはありません。それは、熱心さを自分の手柄とし神を引き下ろすことになるからです。祈りが聴かれることの前提は、祈る者の熱心さではなく「主イエスの弟子であること」なのです。 信仰生活とは、本当は「真実に生きる道」であるはずですが、信仰生活においてすら、それは難しいと言わざるを得ません。事が起こったときに、私どもは真実に神に向き得ないがゆえに、疑い、迷い、動揺する者なのです。しかしそれでも、主は私どもを真実「弟子としていてくださる」のです。疑い、迷い、動揺が悪いわけではありません。そのところで、それでも主イエスが私どもを「わたしのもの」としてくださっていることを知ってよいのです。そこでこそ神の憐れみを知り、神のみにすがる者として神を表すことになるのです。自分にとって悪いことを打ち消す努力をすることが信仰生活なのではありません。動揺の中で「神の憐れみ、恵み、神の真実を見る」それこそが信仰に生きることです。 「神の憐れみ」と申しました。「憐れみ」とは何でしょうか。上から下へ見下しつつ与える、ということではありません。「神の憐れみ」とは「神の真実が私どもを貫き通す」ことです。最近は「愛」という言葉が氾濫しておりますが、「愛」とは、神が私どもに「愛を貫いてくださっている」からこそ、愛なのだということを覚えなければならません。主が真実をもって私どもを弟子と言ってくださること、それが愛なのです。 「わたしの名によって」と言われております。主イエスが十字架をもってまでして真実を貫いてくださるのですから、当然のことでしょう。主の弟子であるがゆえに「主の名によって祈る」ことが許されているのです。 24節「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われます。直訳すると「願え、受け取れ、そうすれば喜びで満たされるから」です。「願うならば、与えられる」と、願うことが条件のように受け止めがちですが、そうではないのです。「願え、受け取れ」と言われているのです。願ったときには、もう既に喜びが用意されているのです。「既に満ち溢れる喜びを用意している、それを受け取れ」と言われているのです。 新しい年の始まりに思います。「主イエス・キリストが恵みを用意してくださっている、だから今ここで受け取ってよいのだ」と思いつつ、過ごす日々でありたいと願います。ただ「アーメン」と、主にある恵みを、感謝をもって受け取れる日々でありたいと願います。 |
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25節「これらのこと」とは、14章から始まる主イエスの弟子たちへの決別説教です。主イエスは「たとえを用いて話してきた」と言われますが、どんな「たとえ」を話されたでしょうか。「わたしはまことのぶどうの木」と言われた他には、あまり思い当たりません。繰り返し語られる「聖霊」「弁護者」などは、弟子たちにとっては「たとえ」というより「謎の言葉」を語られたという方が相応しいでしょう。主イエスは、なぜ「謎の言葉」を語られたのでしょうか。 「たとえ」は、物事の理解を促すためのものと一般的には考えますが、主イエスのたとえは、聞く者が理解出来ることを前提としていないのです。むしろ主イエスの言葉は、人に「つまずき」を与えるものでした。けれども「つまずく」こと、それは実は恵みの出来事なのです。簡単に理解できることは心に残りません。しかし「つまずく」ことは心に残り、後になって理解できた時には深く沁みて、自分の罪深さに気付かされるのです。 主イエスが弟子たちに「たとえ(謎の言葉)」を語ったとは、どういうことなのでしょうか。「謎」は解き明かしを必要といたします。そして弟子たちにとって、謎を解き明かしてくれるものは「聖霊」なのです。聖霊が臨まなければ、主イエスの言葉は謎のままであって、自分の力で理解することはできません。「たとえを用いて話した」という主イエスの御言葉は、実は大事な深い言葉です。それは「神の言葉は謎」であって人間に理解できる訳が無いのだ、と思うべきであることを示しているからです。「神の言葉」を自らの理解力で分らなければならないと思うことは、大きな間違いです。主イエス(神)の言葉は聖霊をもって初めて理解できるのです。ゆえに「たとえ(謎の言葉)」によって語られるのです。 28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、」とは、主イエス・キリストが神の天地万物創造の前から「神の御子」であられ、その神の御子が人と同じものとなってこの世においでくださった、ということを示しております。しかしこのこと(「先在のキリスト」ということ)は「聖霊」によらなければ理解できないことです。「神の御子が人となって生まれる」という出来事は、人の思いでは信じられない、分らない「謎」なのです。また、同じく「今、世を去って、父のもとに行く」とは、主イエスの「十字架の死」そして「復活」を指しますが、これも「聖霊」によらなければ理解できない「謎」です。ですから、「神の御業(救いの奥義)」とは、一切が「謎」であるということを覚えたいと思うのです。ただ「聖霊によってのみ知り得る」のです。 25節後半「はっきり父について知らせる時が来る」。「父について知る時が来ている」、つまり「聖霊の出来事が近い」と言われております。 私どもは、神を「父よ」と呼ぶ親しい交わりに入れていただいております。その根拠にあるのは「信頼」です。神との交わりは「真実」で「信頼」ある交わりです。このような「信頼」ある交わりを与えられていることは何と幸いなことでしょう。父として神を知るとき、私どもは信頼ある真実な交わりを得、そこでこそ、私どもは自らの存在の確かさを知るのです。 26節「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われます。「その日」とは「聖霊の注ぎを受ける日」です。それは「終わりの日の聖霊の出来事、救いの完成」をも先取りとして示しております。 私どもは、もはや独りぼっちではありません。神を「父よ」と呼ぶ、親しく揺るぎない交わりを与えられているのです。 |
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今日与えられた聖書は創世紀28章です。創世記は世の初めから始まり、族長たちの物語が語られております。 ヤコブの夢には「梯子」が出てまいります。それは天から地へ降りてくる階段のようなもので、天使が上り下りしている。つまり、神が天と地を行き来しているという夢です。罪責感、不安、恐怖の中で「夢(神のお告げ)」が与えられる。神のなさることは人の思いを超えております。そこで神が語られたことは、15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」というものでした。希望を失った状況の中で「わたしはあなたと共にいる」と神は言われます。「見よ」とは、神の顕現を示す言葉です。 人の現実は「見捨てる」「自暴自棄になる」のです。しかし、神は決して「見捨てない」と言ってくださるのです。主イエス・キリストの十字架を前にして、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去りました。しかし、主イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネによる福音書)と、弟子たちに約束してくださいました。 「わたしはあなたと共にいる」、この言葉がヤコブを支えます。16節「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」とは、ヤコブの言葉です。「わたしの傍に神がいてくださったのに知らなかった」と気付かされるのです。ヤコブと同様に、私どもも人生において自分を失ってしまうような出来事が起こります。しかしそこで「信仰」とは、「神が共にいてくださることに気付くこと、気付かされること」と言ってよいのです。そのことがここで言われていることです。 毎年、クリスマスを迎える度に、私どもは「インマヌエル、神共にいます」というメッセージを聴きます。私どもは日々、目の前のことに翻弄されますが、クリスマスを祝うごとに「インマヌエル、神共にいます」ことに気付かされるのです。「主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と気付かされる、それがクリスマスの出来事なのです。 18節「枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、…」、夢で聴いたことのかけがえのない記念として、ヤコブは礼拝をささげます。このヤコブの行為を通して、私どもも同様であると知るべきです。 20節以下、最後は、またヤコブらしい言葉です。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、…」。ここで、日本語の訳では明確ではない言葉があります。それは、英語で言うところの「IF=もし」です。ヤコブは「もし、神がわたしと共にいてくださるならば…」と条件をつけております。いかにもヤコブらしいと言えるかも知れません。ヤコブはこの先、20年程の年月、故郷に帰るまで、その人生は「騙し、騙され」の連続です。ある意味、大変神を手こずらせた人と言えるかも知れません。にも拘らず、神は、ヤコブがどんな者であったとしても、とことんヤコブを守ってくださるのです。 このことは、私どもに対するメッセージでもあります。「お前がどんな者であったとしても、わたしはあなたを最後まで守る」と、神が言ってくださっております。私ども人間を「とことんまで愛し抜く神の力」、この大きなメッセージを、この箇所を通して読み取り、覚えたいと思います。 |
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「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」との主イエスの招きは、耳にする機会の多い御言葉ですので、多くの人が慰めを得た、そのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。普通に読みますと、生活難で疲れた人たちのことや、人間関係における苦痛や重荷を負っている人たちというように読めます。自分自身がそのような状況にあったなら、なおさら、自分を投影して読み、主イエスの招きに慰めを得ようとするのではないでしょうか。しかし、ここで言われている「疲れた者、重荷を負っている者」というのは、生活難や、人間関係における精神的苦痛を負っている者ということではないようです。御言葉が言おうとしていることに正しく聴かなければ、本来あるはずの主の恵みを受け損なう、あるいは、恵みを限定してしまうことになるのではないでしょうか。主イエスがこの招きの言葉によって、私たちにどのような恵みを与えようとしておられるのかを、御言葉に聴きたいと思います。 《安らぎの約束》 《罪の重荷》 《主の柔和さと謙遜》 《主イエスの謙遜》 《魂の安らぎ》 《イスラエルの約束の地》 《主の軛》 《自分の軛から主の軛へ》 《最後に》
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27節「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とは、26節「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」を受けての言葉です。それは「あなたがたは既に神の子とされ、神との交わりが許されているのだから、わたし(主イエス)が代わって父に祈る必要はない」ということです。 また、この後の御言葉の解釈は難しいと言わざるを得ません。「わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」と記されております。弟子たちは果たして「信じた」と言えるのでしょうか。「あなたがたは信じた」と言いながら、主イエスは31・32節では「今、信じるようになったのか」「あなたがたは、わたしを見捨てて逃げる」と、「信じている」ことを否定する言葉をも語られるのです。 ここでは「信じる」ことが強調されていますが、「弟子たちがはっきりと信じた」ことが語られているわけではありません。弟子たちはまだ十分には信じ切れていない、にも拘らず、主イエスが弟子たちを「信じる者として扱ってくださっている」のだということを覚えたいのです。大きな恵みです。主イエスは私どもの信仰を問うのではなく、「信じる者」として扱ってくださっているのです。私どもは自分の思いの確信によって信仰に立っているのではありません。私どもを「信仰ある者」と神が言ってくださり、信仰の恵みに与らせていただいているのだということを覚えたいと思います。だからこそ私どもは、神に全てをあずけて良いのです。 28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」とは、「信じた」内容が何であるか、主イエス・キリストとは如何なる救い主であるかが端的に語られております。 29節「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」。弟子たちはこれまで主イエスが語ってくださっていたことを、「今、分った」と言うのです。 この言葉を受けて主イエスは、31節「今ようやく、信じるようになったのか」とお答えになります。27節では「信じた」と言ってくださり、ここでは弟子たちがまだまだ分っていないことをご存知の上で、「信じるようになった」と言ってくださっていることが読み取れます。 32節「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」、主が言われていることは「十字架」です。メシアを待望する人々の思いでは「主イエスの十字架」は敗北であり、挫折、絶望であって、とても「信じるには価しない」と人々は散らされていき、主イエスは「ひとりきりになる」と言われます。主イエスは、人々に、弟子たちにも見捨てられ「ひとりきりになる」、それは「孤独」ということです。今、この社会では「孤独」ということが問題になっております。しかしそんなこの世にあって、主イエス・キリストこそ、全くの絶望、孤独の淵に立たされた方であることを覚えたいと思うのです。 人々に、全てに見捨てられたと感じるとき、人は一体どこへ向かうでしょうか。人は「神へと向かう」のです。深い深い孤独によって、人は「神を呼ぶ者」とされるのです。「孤独な者」にほど「神が近くにいます」ということです。絶望の淵で、何者も付いて来ることのできない死の淵で、最も近くに神を感じ、神を呼ぶ。それこそが「神にまで見捨てられた者の思い」であり、それほどまでに神を近くに感じる者はいないのです。 現代社会の闇を生き抜くためには、「孤独に耐える人」を生み出すことが大事です。即ち「神を知る」ことが大事なのです。「神が近くにいます」ことを知ることによって、人は、孤独・絶望の淵にあっても平安を得、神の近さのゆえに孤独に耐えることができるのです。ですから、神を呼ぶことができない孤独の問題が現代社会の深い問題です。昔のように神を信じることが出来なくなってしまったゆえに、孤独に耐えて生きるということが出来なくなってしまったのです。 33節「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。「平和」とは「神共にいます平安」ということです。十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちは、後に主イエスの言葉を思い出し、絶望の淵で、既に主が共にいてくださる方であることを知って平安を得るのです。主を裏切る者でしかない罪ある自分を知るときに、そういう者であることを主は既に知っていてくださり、尚共にいてくださるのです。なんと幸いなことでしょう。「神共にいます平安」それが「主(わたし)による平和」ということです。 「わたしは既に世に勝っている」。十字架は敗北ではなく、主イエスがこの世に勝ってくださった出来事です。十字架はこの世の罪を終わりとし、主の復活の力によって地上の一切の力は無力とされ、神の恵み・救いの出来事が支配するのです。 今、既に、この世に勝利した神の愛、救いの恵みの出来事に与っていることを知り、神共にいます平安の内に歩む日々でありたいと願います。 |
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