聖書のみことば/2010.1
2010年1月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
既に世に勝っている」 1月第1主日礼拝 2010年1月3日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章23〜33節
16章<23節>その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。<24節>今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」<25節>「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。<26節>その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。<27節>父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。<28節>わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」<29節>弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。<30節>あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」<31節>イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。<32節>だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。<33節>これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

23節から「祈り、願う」ということについて聴いていきたいと思います。

ヨハネによる福音書には「はっきり言っておく」という言葉がしばしば用いられます。これはとても重要な言葉です。直訳すると「まことに、まことに、わたしはあなたがたに告ぐ」であり、「真実」という言葉が2度続くのです。ここに、主イエスが真実をもって語っていてくださることが示されております。ですから、聞く者は身を正して聴かなければならないのです。

主イエスは何を語られるのでしょうか。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と記されております。この御言葉を眺め、その重みを感じつつ、ふと「あなたがたが」という言葉に目が止まりました。誰もが願ってよいのではない。「あなたがたが願えば、与えられる」と言われていることに気付いたのです。
 「あなたがた」とは「主イエスの弟子たち、主に従った者たち」を指しております。十字架を前にした主イエスのこの告別説教を聴いている「あなたがた」、即ち主イエスの「弟子たち」が祈るならば、父なる神は与えてくださると言われているのです。願いは「弟子であること」が前提なのです。

祈りが聴かれないと思うとき、人はしばしば祈りの熱心さ不足を理由に考えたりいたします。もちろん、熱心に祈る者の祈りは聴かれます。それは、それ程に「神のみであるがゆえに」神の憐れみをいただくのです。しかし、熱心さを自分の業とする祈りは聴かれることはありません。それは、熱心さを自分の手柄とし神を引き下ろすことになるからです。祈りが聴かれることの前提は、祈る者の熱心さではなく「主イエスの弟子であること」なのです。
 弟子たちは特別立派な者であるとは、とても言えない者たちです。主イエスのことを何も理解できない者、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう者(32節)です。そういう者を、しかし主イエスは弟子としてくださり、弟子であるがゆえに「わたしの名によって願うならば、願いは聴かれる」と言ってくださっているのです。裏切る者をも弟子としていてくださる。ここに「主イエスの真実」が示されてております。弟子たちは、真実に主の弟子でありきることはできない者です。しかし主イエスは、そういう不真実な者をも弟子としてくださる。その「主の真実」は変わることはないのです。
 人は、人間関係の中で真実でありたいと願っても、真実でありきることはできません。優越感を持つ、あるいは卑屈になるなど、ありたい自分であることはなかなか難しいのです。しかし、私どもが真実であり得るとすれば、それは神の前に立ち「ああ、わたしは罪人にすぎない」と思うことです。それ以外に私どもの真実はないのです。ですから「弟子とされている」ことの幸いを思わずにはいられません。主が真実であってくださるがゆえに、私どもは弟子であり得るのです。

信仰生活とは、本当は「真実に生きる道」であるはずですが、信仰生活においてすら、それは難しいと言わざるを得ません。事が起こったときに、私どもは真実に神に向き得ないがゆえに、疑い、迷い、動揺する者なのです。しかしそれでも、主は私どもを真実「弟子としていてくださる」のです。疑い、迷い、動揺が悪いわけではありません。そのところで、それでも主イエスが私どもを「わたしのもの」としてくださっていることを知ってよいのです。そこでこそ神の憐れみを知り、神のみにすがる者として神を表すことになるのです。自分にとって悪いことを打ち消す努力をすることが信仰生活なのではありません。動揺の中で「神の憐れみ、恵み、神の真実を見る」それこそが信仰に生きることです。
 疑い、迷い、動揺する、そのような者のために、主イエスはご自分の尊い命をもってまでして罪を贖い、弟子としていてくださるのだということを覚えたいと思います。それは「主イエス・キリストの十字架の真実」です。主イエス・キリストを信じる者には、キリストの真実が与えられているのです。自ら真実であることはできない私どもです。しかし「キリストのゆえに」真実な者であるという恵みが与えられているのです。主の真実によって、主の弟子として生きるのです。主が真実であるがゆえに、私どもの人生は充実し、終わりの日の希望に生きることができるのです。

「神の憐れみ」と申しました。「憐れみ」とは何でしょうか。上から下へ見下しつつ与える、ということではありません。「神の憐れみ」とは「神の真実が私どもを貫き通す」ことです。最近は「愛」という言葉が氾濫しておりますが、「愛」とは、神が私どもに「愛を貫いてくださっている」からこそ、愛なのだということを覚えなければならません。主が真実をもって私どもを弟子と言ってくださること、それが愛なのです。
 しばしば愛は人の感情に置き換わってしまいます。しかし、それは違うのです。神が神としてご自分を現される、それが「義」です。義が貫かれて「愛」がある、それが十字架の出来事です。「真実」無き「義」無き「愛」はないのです。そして、揺らぐしかない者を弟子としてくださるのです。ご自分の真実を貫いてくださること、それが「神の憐れみ」なのです。ですから「主の弟子であること」、それは感謝以外のなにものでもないのです。

「わたしの名によって」と言われております。主イエスが十字架をもってまでして真実を貫いてくださるのですから、当然のことでしょう。主の弟子であるがゆえに「主の名によって祈る」ことが許されているのです。
 「主の名によって祈れる」ことは、恵み深いことです。「主の名によって祈る」ことによって「神との交わり」を与えられるからです。本来は「父なる神」と「子なる神」との「神の交わり」なのです。しかし「主の名によって祈る」ことにより、私どもは「子」として、その交わりに入れていただくことができるのです。「神との交わり」それは、神との対話、語らいです。「主の名によって」私どもは「神の子」としての身分を与えられ、神を父として語らうことが許されているのだということを覚えたいと思います。信仰の恵みとは何でしょうか。「神を父と呼ぶこと」(鎌倉雪ノ下教会カテキズム)です。

24節「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われます。直訳すると「願え、受け取れ、そうすれば喜びで満たされるから」です。「願うならば、与えられる」と、願うことが条件のように受け止めがちですが、そうではないのです。「願え、受け取れ」と言われているのです。願ったときには、もう既に喜びが用意されているのです。「既に満ち溢れる喜びを用意している、それを受け取れ」と言われているのです。
 人が願うから与えられるのではありません。人の業が先ではないのです。先にあるのは「願え、受け取れ」という主の命令です。先に神が準備万端整えてくださっているのです。
 人は、自分の必要を本当には知らない者であることを、つくづく思わされます。今、人の思いが幻想であったと思わされる社会の現実があります。学歴・経験・お金、また働きたいときに働き自分のやりたいことをやる、自分を満足させるための生き方…しかし、それでは生きられなかったのです。私どもが必要と思ったことは人を生かしたでしょうか? 私どもは、自分に何が本当に必要なのかを知らないのです。
 私どもの本当の必要を知っておられるのは、神のみです。神は私どもの必要を知り、既にそれを用意してくださっているのです。人が真実に人として生きることのできる救いの喜び・恵みを、主イエス・キリストの十字架によって備えていてくださるのです。そして、その上で「願え、受け取れ」と言ってくださるのです。それを「受け取る」ところで、私どもは喜びに満たされ、いかなる捕われからも解き放たれるのです。人の生み出す欲望という捕われから解き放たれ、本当の自由人として、真実な者として生きることができるのです。その恵みが「既に用意されている」のです。救いの恵みを「願え、受け取れ」と、主が言っていてくださるのだということを覚えたいと思います。

新しい年の始まりに思います。「主イエス・キリストが恵みを用意してくださっている、だから今ここで受け取ってよいのだ」と思いつつ、過ごす日々でありたいと願います。ただ「アーメン」と、主にある恵みを、感謝をもって受け取れる日々でありたいと願います。

主イエスを愛す」 1月第2主日礼拝 2010年1月10日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章25〜33節
16章<25節>「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。<26節>その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。<27節>父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。<28節>わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」<29節>弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。<30節>あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」<31節>イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。<32節>だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。<33節>これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

25節「これらのこと」とは、14章から始まる主イエスの弟子たちへの決別説教です。主イエスは「たとえを用いて話してきた」と言われますが、どんな「たとえ」を話されたでしょうか。「わたしはまことのぶどうの木」と言われた他には、あまり思い当たりません。繰り返し語られる「聖霊」「弁護者」などは、弟子たちにとっては「たとえ」というより「謎の言葉」を語られたという方が相応しいでしょう。主イエスは、なぜ「謎の言葉」を語られたのでしょうか。

「たとえ」は、物事の理解を促すためのものと一般的には考えますが、主イエスのたとえは、聞く者が理解出来ることを前提としていないのです。むしろ主イエスの言葉は、人に「つまずき」を与えるものでした。けれども「つまずく」こと、それは実は恵みの出来事なのです。簡単に理解できることは心に残りません。しかし「つまずく」ことは心に残り、後になって理解できた時には深く沁みて、自分の罪深さに気付かされるのです。

主イエスが弟子たちに「たとえ(謎の言葉)」を語ったとは、どういうことなのでしょうか。「謎」は解き明かしを必要といたします。そして弟子たちにとって、謎を解き明かしてくれるものは「聖霊」なのです。聖霊が臨まなければ、主イエスの言葉は謎のままであって、自分の力で理解することはできません。「たとえを用いて話した」という主イエスの御言葉は、実は大事な深い言葉です。それは「神の言葉は謎」であって人間に理解できる訳が無いのだ、と思うべきであることを示しているからです。「神の言葉」を自らの理解力で分らなければならないと思うことは、大きな間違いです。主イエス(神)の言葉は聖霊をもって初めて理解できるのです。ゆえに「たとえ(謎の言葉)」によって語られるのです。

28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、」とは、主イエス・キリストが神の天地万物創造の前から「神の御子」であられ、その神の御子が人と同じものとなってこの世においでくださった、ということを示しております。しかしこのこと(「先在のキリスト」ということ)は「聖霊」によらなければ理解できないことです。「神の御子が人となって生まれる」という出来事は、人の思いでは信じられない、分らない「謎」なのです。また、同じく「今、世を去って、父のもとに行く」とは、主イエスの「十字架の死」そして「復活」を指しますが、これも「聖霊」によらなければ理解できない「謎」です。ですから、「神の御業(救いの奥義)」とは、一切が「謎」であるということを覚えたいと思うのです。ただ「聖霊によってのみ知り得る」のです。
 なぜ「聖霊によってのみ」なのでしょうか。それは、神と人には隔たり・断絶があるからです。神は完全な方ですから、どのような断絶があっても私どもの全てをご存知です。しかし、人は神ではありません。人が神を知るためには、神の側からの働きかけが必要なのです。人の思いや能力によって神を知ることは出来ないのだということを覚えなければなりません。
 「謎を謎として知る」ということ、これは人にとって必要な思いです。それは「神の前にへりくだること、神への畏敬」ということです。しばしば、教会の説教は難しくて分らないのでもっと分り易い話しをして欲しいという声を聞きますが、それは人間本意の傲慢な思いです。「分らない」だから「御心をお示しください」と、聖霊の導きを祈り求めるべきです。主イエスが弟子たちに対して「謎」を語っておられる、それはご自分が「謎」なる方、神であられることを語っておられるのであり、そこで弟子たちに求められていることは「神を神とする畏敬の念」なのです。
 私どもの罪の贖い、永遠の命の約束である「十字架・復活」は、どんなに分り易く説明したとしても理解できる出来事ではありません。私どもの救いは、ある意味で謎です。主を信じ救われている、しかしどこかで信じ切れない者でもある、それが私どもの現実です。つまり私どもは自分の内には救いの根拠を見出すことは出来ないのです。そのような者がなぜ救われているのか、謎です。ただ神がそうしてくださるから、救いがあるのです。神が謎なる方であるがゆえに、私どもは救いの恵みに与っているのだということを覚えたいと思います。謎は大いなる恵みなのです。知って理解して、救われるのではありません。分らない、信じ切れない者を救ってくださるのです。それは、聖霊を頂かなければ知り得ないことです。神の前に謙遜になるべきことが示されているのです。
 どんなに理解出来ない者であっても、救いの恵みの中に入れてくださっているのです。神の神秘の御業の中に入れられている、それが「救い」ということです。
 教会において、またこの社会の中で、今「霊性の喪失」ということを思います。謎なる方として「神を畏敬する心」を失っているのです。謎、知り得ないことを頂くという謙遜さを、私どもは思うべきなのです。

25節後半「はっきり父について知らせる時が来る」。「父について知る時が来ている」、つまり「聖霊の出来事が近い」と言われております。
 弟子たちはまだ「神を父として」は知らないのです。神は御子主イエス・キリストの父なのであって、弟子(私ども)被造物の父では有り得ない方です。その神を「父」として知る、と言われております。これも理解できることではありません。神が弟子たちにとって父となってくださるのは、神の御子である主イエスが、人と同じ者として生まれ、人の罪のために十字架に死んでくださり、復活して父なる神と共に座してくださっているという出来事によるのです。そこで初めて人は、父なる神と子なる神との交わりの中に入れていただくことができるのです。主イエスの十字架・復活なくして、私ども(人)が神を父と呼ぶことはできません。本来私どもは神に造られた被造物に過ぎないのです。にもかかわらず、神の子とされ、神を父と呼ぶ恵みに与っているのです。それは神がご自身の御子をもって為してくださった、神の圧倒する力(救い)であり、それは何にも代え難い恵みの出来事であることを覚えたいと思います。

私どもは、神を「父よ」と呼ぶ親しい交わりに入れていただいております。その根拠にあるのは「信頼」です。神との交わりは「真実」で「信頼」ある交わりです。このような「信頼」ある交わりを与えられていることは何と幸いなことでしょう。父として神を知るとき、私どもは信頼ある真実な交わりを得、そこでこそ、私どもは自らの存在の確かさを知るのです。

26節「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる」と言われます。「その日」とは「聖霊の注ぎを受ける日」です。それは「終わりの日の聖霊の出来事、救いの完成」をも先取りとして示しております。
 「わたしの名によって」すなわち「主イエスの名によって」祈ることにより、神を父よと呼ぶ、神との交わりに入れられるのです。聖霊によって、父なる神と御子キリストとの交わりの中に入れられるのです。

私どもは、もはや独りぼっちではありません。神を「父よ」と呼ぶ、親しく揺るぎない交わりを与えられているのです。
 改めて覚えたいと思います。この地にあって、既に父なる神との交わりに入れられているのだということを。そういう者として、神の御名を呼び、祈り、畏れ敬いつつ喜びと感謝をもって歩む者でありたいと願います。

石の枕−インマヌエル」 1月第3主日礼拝 2010年1月17日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第28章1〜22節、マタイによる福音書 第1章23節
創世記第28章<1節>イサクはヤコブを呼び寄せて祝福して、命じた。「お前はカナンの娘の中から妻を迎えてはいけない。<2節>ここをたって、パダン・アラムのベトエルおじいさんの家に行き、そこでラバン伯父さんの娘の中から結婚相手を見つけなさい。<3節>どうか、全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように。<4節>どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように。」<5節>ヤコブはイサクに送り出されて、パダン・アラムのラバンの所へ旅立った。ラバンはアラム人ベトエルの息子で、ヤコブとエサウの母リベカの兄であった。<6節>エサウは、イサクがヤコブを祝福し、パダン・アラムへ送り出し、そこから妻を迎えさせようとしたこと、しかも彼を祝福したとき、「カナンの娘の中から妻を迎えてはいけない」と命じたこと、<7節>そして、ヤコブが父と母の命令に従ってパダン・アラムへ旅立ったことなどを知った。<8節>エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って、<9節>イシュマエルのところへ行き、既にいる妻のほかにもう一人、アブラハムの息子イシュマエルの娘で、ネバヨトの妹に当たるマハラトを妻とした。<10節>ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。<11節>とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。<12節>すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。<13節>見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。<14節>あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。<15節>見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」<16節>ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」<17節>そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」<18節>ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、<19節>その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。<20節>ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、<21節>無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、<22節>わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

マタイによる福音書第1章<23節>「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

今日与えられた聖書は創世紀28章です。創世記は世の初めから始まり、族長たちの物語が語られております。
 今日の箇所は「ヤコブの梯子」として有名な箇所です。ヤコブは双子の兄エサウのかかとを掴んで生まれてきました。ヤコブという名には「押しのける者」という意味もあり、名の如く狡猾な人でした。スープ1杯で兄エサウから長子の権利を奪い、また、母リベカと結託して父イサクをだまし、族長としての祝福を奪うのです。当然ヤコブは兄エサウの怒りを買います。そのような家庭不和の雰囲気を感じてか、父イサクは嫁探しを名目にヤコブを家から出し、そこからヤコブの一人旅が始まりました。
 荒涼たる地を一人旅するヤコブ。当時、一人旅は危険で困難な旅でした。その一人旅の困難さ、辛さを象徴するのが「石の枕」です。石を枕に野宿する、それは辛く、不安と恐怖に満ちていたことでしょう。しかし野宿の最初の夜、石を枕にしてヤコブは夢を見、そこからヤコブの旅は一変するのです。
 聖書には度々「夢」が出て来ます。「夢」は人の願望や深層心理を表すと思われますが、当時「夢」は神の心を伝える「神のお告げ」と考えられておりました。兄・父への罪責感を負っての一人旅の最中に夢を見、ヤコブの旅は新しいものになるのです。

ヤコブの夢には「梯子」が出てまいります。それは天から地へ降りてくる階段のようなもので、天使が上り下りしている。つまり、神が天と地を行き来しているという夢です。罪責感、不安、恐怖の中で「夢(神のお告げ)」が与えられる。神のなさることは人の思いを超えております。そこで神が語られたことは、15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」というものでした。希望を失った状況の中で「わたしはあなたと共にいる」と神は言われます。「見よ」とは、神の顕現を示す言葉です。
 ヤコブにはここで沢山の約束が与えられております。土地を与えるという約束。子孫繁栄の約束。あなたを守り、祝福に入れるという約束。逃亡生活をするヤコブに、あなたは必ず故郷に帰ると言ってくださる。そして、決して見捨てないと言ってくださるのです。これほど大きな祝福の言葉はありません。

人の現実は「見捨てる」「自暴自棄になる」のです。しかし、神は決して「見捨てない」と言ってくださるのです。主イエス・キリストの十字架を前にして、弟子たちは主イエスを見捨てて逃げ去りました。しかし、主イエスは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネによる福音書)と、弟子たちに約束してくださいました。

「わたしはあなたと共にいる」、この言葉がヤコブを支えます。16節「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」とは、ヤコブの言葉です。「わたしの傍に神がいてくださったのに知らなかった」と気付かされるのです。ヤコブと同様に、私どもも人生において自分を失ってしまうような出来事が起こります。しかしそこで「信仰」とは、「神が共にいてくださることに気付くこと、気付かされること」と言ってよいのです。そのことがここで言われていることです。
 17節「これはまさしく神の家である」とヤコブは言います。多分、ヤコブは叫んでいたことでしょう。私どもの信仰は「神の約束を信じる」ことから始まり、そして「神が共にいてくださる」ことに気付くことなのです。

毎年、クリスマスを迎える度に、私どもは「インマヌエル、神共にいます」というメッセージを聴きます。私どもは日々、目の前のことに翻弄されますが、クリスマスを祝うごとに「インマヌエル、神共にいます」ことに気付かされるのです。「主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と気付かされる、それがクリスマスの出来事なのです。

18節「枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、…」、夢で聴いたことのかけがえのない記念として、ヤコブは礼拝をささげます。このヤコブの行為を通して、私どもも同様であると知るべきです。
 私どもの現実は、孤独であり、不安であり、絶望的な状況もあるのです。しかしその中で、「わたしはあなたと共にいる」というメッセージを聴くことにより気付かされる。「気付かされる」そのために、私どもは毎週礼拝しているのです。そこでもう一度「神共にいます」ことに気付かされ、礼拝する。それが、私どもの姿勢なのです。「主が共にいてくださることに気付きながら生きる」「礼拝によって気付かされる」ことを、知る者でありたいと思います。

20節以下、最後は、またヤコブらしい言葉です。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、…」。ここで、日本語の訳では明確ではない言葉があります。それは、英語で言うところの「IF=もし」です。ヤコブは「もし、神がわたしと共にいてくださるならば…」と条件をつけております。いかにもヤコブらしいと言えるかも知れません。ヤコブはこの先、20年程の年月、故郷に帰るまで、その人生は「騙し、騙され」の連続です。ある意味、大変神を手こずらせた人と言えるかも知れません。にも拘らず、神は、ヤコブがどんな者であったとしても、とことんヤコブを守ってくださるのです。

このことは、私どもに対するメッセージでもあります。「お前がどんな者であったとしても、わたしはあなたを最後まで守る」と、神が言ってくださっております。私ども人間を「とことんまで愛し抜く神の力」、この大きなメッセージを、この箇所を通して読み取り、覚えたいと思います。

わたしのもとに来なさい」 1月第4主日礼拝 2010年1月24日 
栗山尚典 神学生(東京神学大学)
聖書/マタイによる福音書 第11章2〜30節
11章<28節>疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。<29節>わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。<30節>わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」との主イエスの招きは、耳にする機会の多い御言葉ですので、多くの人が慰めを得た、そのような経験をしたことがあるのではないでしょうか。普通に読みますと、生活難で疲れた人たちのことや、人間関係における苦痛や重荷を負っている人たちというように読めます。自分自身がそのような状況にあったなら、なおさら、自分を投影して読み、主イエスの招きに慰めを得ようとするのではないでしょうか。しかし、ここで言われている「疲れた者、重荷を負っている者」というのは、生活難や、人間関係における精神的苦痛を負っている者ということではないようです。御言葉が言おうとしていることに正しく聴かなければ、本来あるはずの主の恵みを受け損なう、あるいは、恵みを限定してしまうことになるのではないでしょうか。主イエスがこの招きの言葉によって、私たちにどのような恵みを与えようとしておられるのかを、御言葉に聴きたいと思います。

《安らぎの約束》
 主は、御自分のもとに来れば、疲れた者、重荷を負っている者に対して休息を与えようと言われます。続いて、私は柔和で謙遜な者であるから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、安らぎが得られると言うのであります。主イエスが柔和で謙遜な方であるからこそ、休ませることが出来るというのです。つまり、主の柔和さと謙遜とが休息を与える力を持っているということなのです。
 疲れた者、重荷を負う者を休ませ、慰めるには主イエスの柔和こそが、その力を持っているということになります。

《罪の重荷》
 柔和という言葉は、やさしいとか、穏やかということでしょうか。重荷を負って苦しんでいる人を本当に慰めるのは、やさしくして、気持ちを楽にしてあげるということだけでは足りないと思います。もちろん、気が楽になって、多少は気持ちが休まるかもしれません。しかし、重荷はその肩にのしかかったままなのです。それでは、休むことにはならないと思います。重荷を負い、苦しんでいる人に本当の休息と慰めを与えるには、その肩に負っている重荷を、代わりに担ってあげるということではないでしょうか。そうすれば、担っていた重荷が取り除かれ、休みを得ることができます。ですから、主イエスの柔和さというのは、重荷を代わりに担い、その肩から重荷を取り除く力を持っているということです。
 こうして御言葉に聴いていきますと、私たちから取り除かれた重荷とは、主イエスが代わりに担って下さった罪のことである、ということが分かるのです。ですから、「疲れた者、重荷を負っている者」というのはその根本において、罪という重荷を負い、苦しんでいる人たちのことが言われています。
 聖書が示す私たちの罪というのは、神に従わないことであります。神の御意志よりも自分の意志に従ってしまうのです。それは神を神としないということです。自分の意志に従うといういことは、自分自身が絶対であるということで、自分が神になっているということであります。そうした人間の、神への不従順という罪の赦しが、ローマ人への手紙5章19節においてこのように示しています。「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされた」とあります。一人の人の不従順というのは、もちろん、アダムの不従順であります。アダムの不従順によってわれわれが罪人とされたように、一人の人、イエス・キリストの従順によって、はじめて、救われたのです。私たちは主イエスの救いにより、神の御前に正しい者とされ、神の為に生き、神によって生きる道を与えられるのであります。そういうことから考えますと、疲れた者、重荷を負う者というのは、神に従順であろうとしても、なかなかそうあることができない現実に苦しんでいる人たちのことであるのです。罪の軛に繋がれ、罪の奴隷であることに苦しんでいるのです。罪の重さと根深さに耐えかね、疲れ果ててしまい、自分の力ではどうする事もできない、そのような罪の問題に苦しんでいる人のことであります。主イエスはその罪の重荷を代わりに担い、罪の重荷を取り除いて下さったのです。
 それは、人間が自分では取り除く事のできない罪の重荷を、主イエスが完全に取り除く力があるということです。罪を取り除くのですから、つまりは、罪を赦す力があるということです。人は罪の赦しによってはじめて、重荷が取り除かれるのです。
 ただ、重荷を取り除くといっても、荷物を担うこと自体から解放されるのでありません。次の節にあるように「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」といわれます。それは、今まで負っていた軛と重荷、つまり、罪の奴隷の状態から解放されるということであります。ただ、以前の重荷から解放されても、主イエスの新しい軛を負うということが言われています。そして、主イエスの柔和さと謙遜に学びなさいというのであります。そうすることによって、安らぎが得られるというのです。では、私たちが学ぶべき、主イエスの柔和さと謙遜というのは、どのようなことなのかを聖書に聴きたいと思います。

《主の柔和さと謙遜》
 私たちに安らぎを与えてくださる主イエスの柔和さと謙遜。まずはじめにそのような主の柔和さを表している所は、今朝の聖書箇所のすぐ後ろにある12章において示されています。マタイは、主が、安息日に片手の萎えた人をおいやしになった時に、それを説明するためにイザヤ書42章3節を引用しています。「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」(マタイ12章19〜20節)
 主イエスの柔和さはここにあったと思います。傷ついた葦を折れないようにかばい、それを生かし、消えかかっていた灯心をさえ消す事がないのです。主の正義が成就し、主の御心のなる時まで、主の憐れみが続けられる、それが主の柔和ということなのです。そういう力があったことを見逃してはならないのです。
 そして、もう一つの所においても、主の柔和さが表されています。マタイ21章1節以下。ここには、主が、最後にエルサレムに入場された時のことが書いてあります。その時の主イエスの様子をマタイは、ゼカリヤ9章9節から引用して説明しています。「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」とあります。ここに表されている主イエスの柔和さというのはどういうことでしょうか。ある人が、それは権威を主張しないことだ、と言いました。それは、自分の立場を主張せず、謙遜であるということです。
 凱旋将軍のように群衆に歓迎された主イエスは、立派な白馬に乗ってエルサレムに入場されてもよかったのです。しかし、そうではなく、みすぼらしい子ろば、それも荷を負うろばの子に乗ってお出でになられたのです。これは主の柔和さをよく表していると思います。自分を迎え入れる人たちに対して、自分の権威を表すことはなく、高ぶることも全くなかったのです。これは、非常に勇気のいることではないでしょうか。恥とも思われかねないような姿をもって入場されたのです。権威を示すかわり、柔和さを示されたのです。
 このように、柔和であるというのは、全くへりくだった姿であり、自分の権威を捨てることであります。それは、自分の要求を満たしたい、という意志に打ち勝つことであります。簡単に言えば自分に勝つことなのです。ここに示された力こそ、主イエスの柔和の秘密があるのです。主は御自分の意志に打ち勝たれたのです。何によって打ち勝ったのでしょうか。それは、父なる神の御意志によって打ち勝たれたのであります。つまり、御自分の意志ではなく神のご意志に従われたということです。自分の意志ではなく、神のご意志に生き、それを全うされたのであります。しかし、自分の意志ではなく、他の人の意志に従って生きるということは大変なことであります。主イエスにおいても大変なことであったのです。そのことを聖書は、私たちに告げようとするのです。
 主イエスが神に従順である道を歩まれるためには、始終御自分のご意志と神のご意志とが、ぶつかり合っていることを、はっきりお示しになりました。ゲッセマネの祈りにおいて、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と言われました。されには、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われたのです。ここには、主イエスの、何とかして神が人間を救おうとなさる、その救いのご計画に、ご自分を従わせようとする闘いがあったことをよく示しています。主イエスはあえて神の救いのご計画にご自分を入れて、最後の最後まで、十字架の死に至るまで、そのために闘われたということです。人間のために、神が何をなさるかということを一番知っておられたのは主イエスであったのです。したがって、ご自分の全てを捨てて、これに従われたのであります。自分の意志をまったく捨てて、救いを意志する神の御心に従ったのです。主イエスの柔和さの力の秘密はそこにあったのです。主は神の救いの意志に従順であったからこそ、自分の立場も主張せず、高ぶることもなく、その生涯を通して、へりくだったお方であったのです。それが聖書の証しする柔和ということなのです。

《主イエスの謙遜》
 次に謙遜ということですが、私たちが普段、謙遜である、へりくだる、ということを考える時は人と比較してということになります。謙遜になるのですから、他人に対して謙遜になるのだと思います。しかし、主イエスの謙遜というのは、聖書においてこのように示されています。フィリピ2章8節に「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。このことが、実は謙遜であるということの本当の意味であるというのです。徹頭徹尾、主イエスはへりくだられたのです。死ぬまで、それも十字架の死に至るまで、神に従順になられたのです。これは、神の御心に対して、主イエスが本当に従順になられたということであります。ですから、謙遜になるということは、従順になるということであります。しかも、神に対して従順になるということでなければ、本当の謙遜ではないのです。神に対してへりくだり、従順である。これが謙遜ということであると、聖書は示しています。ですから、謙遜になる、へりくだるということは、人と比較することではなくて、自分が本当に従順になれるかどうかということであります。主イエスは死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であったのです。他人に従順であるということはなかなか出来る事ではありません。自分の意志を全く無くして、相手の意志に従うのですから本当の意味で謙遜になるということは大変であります。主イエスの場合は、しかも十字架の死に至るまで従順になられたのです。これは、神の御心に対して主イエスが本当に従順になられたということであります。神を愛し、神の救いの御業が達成されるために、真に従順になられたということです。ですから、謙遜になるということは、従順になることです。しかも神にへりくだり、神に従順になるということであります。
 主が柔和で謙遜であるというのは、ご自分のご意志を全く捨てて、神のご意志に従い、神に対してへりくだることなのです。それは、すなわち、神に服従するということです。主イエスは、生涯を通して徹頭徹尾、神に従順であられたのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎが得られる」といわれます。神に従順であった主イエスの軛を負い、神に従順なる道を歩まれた、その主イエスに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる、というのです。

《魂の安らぎ》
 それではいったい、神に従順であったら、どのような安らぎが与えられるというのでしょうか。この「安らぎ」という言葉を口語訳では「魂の安らぎ」と訳しています。神の御心を行うことが私たちの魂の安らぎとなるというのです。
 魂というのは、人間の人格的全体のことであります。そのことが、創世記2章7節に示されています。宗教改革者ルターの訳によりますと、「そして主なる神は、人間をひとつの土くれからつくられた。そして生ける息を、その鼻に吹き込まれた。こうして人間は生ける魂となった」ここで、根本的なこととして語られていることは、人間は、肉体と魂より成っており、しかも、人間があるべきもの、つまり、まさしく人間であるというのは、魂により成り立つということなのです。肉体的な存在がつくられた。しかし、それはまだ、「生ける魂」としての人間ではないのです。人間が本当の人間になるには、特別な神の業を必要としたということであります。「神は、生ける息を、その鼻に吹き込まれた」のであります。こうして、はじめて、人は生ける人間存在となったのです。ルターの訳に従えば、「生ける魂」となったのです。それゆえ、人間が人間として、その人生を生きるのは、魂によって生きるということなのです。しかも、人はその人生を魂と肉体とにおいてこそはじめて、ひとつの完全な人生として生きるのであり、それが神によって与えられた人生なのです。魂と肉体とがひとつになってはじめて真の人間であるということです。しかも肉体に神の息吹が吹き込まれなければ、生きたものとならないのであります。つまり、人間が真に生きるということは、神なくしてありえないのです。ですから、神によって与えられたその魂に安らぎを得るには、最初の創造と同じように特別な神の御業が働かれる必要があるのです。つまり、神によってしか魂は安らぎを得られないということです。魂の安らぎということが、エレミヤ書6章16節にこのように示されています。「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ/どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ』」というのであります。幸いに至る道を歩む事が魂に安らぎを齎すというのです。ですから、神によって与えられる魂の安らぎというのは、神の与える幸いへの道ということです。

《イスラエルの約束の地》
 この、幸いに至る道というのをマタイは5章5節でこのように示しています。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。地を受け継ぐと聞いて、すぐに思い出すのはイスラエルが長い旅の末に、約束の地カナンに入った話しであります。そして、この地は神の民に対して約束されていた地であります。地を継ぐといのは、何よりも、新しい生活が始まるということです。柔和な者たちに対して約束されているのは、このように、新しい世界であります。信仰によって与えられる新しい国であるのです。
 神は何のために新しい地を用意なさったのでしょうか。それは、どの土地よりも、神の御心を行いやすくするためであるでしょう。この新しい地においては、神の御心が行われることが大事な目的でありました。イスラエルがエジプトから導き出されたのは、神を礼拝するためでした。神を礼拝するために、エジプト脱出の大旅行がなされ、そのために約束の地が与えられたのでした。イスラエルはこのように神の民としての生活をすることを求められたのでした。それが神の御心であるのです。
 そして、信仰によって柔和にせられた者は、同様に、神の民としての生活が与えられたのです。それは、全く自由に神に従い、神を礼拝する生活をすることができるようになったのであります。それが人間本来の幸いであるというのです。
 神の民として生活することが、魂に安らぎを与えるものであるというのです。主イエスの十字架の御業によって、私たちは神の御前において正しい者とされ、神の民として、神を拝む生活に引き入れられたのです。私たちは主イエスの十字架の御業を通して、罪清められ、神のものとされました。

《主の軛》
 神のものとされたということは、主の軛を負っているということなのです。軛というのは、農具や荷物を運ぶための道具である一方、奴隷を繋ぐためのものでもあります。ですから、主イエスの軛を負っているというのは、主イエスの奴隷となりつながれているということなのです。つまり、神のものとされ、主の捕虜として、恵みの軛につながれ、主イエスの御後に従って歩んでいるのです。

《自分の軛から主の軛へ》
 私たちが主イエスの恵みに捕らえられた者として、幸いへ至る道を歩むには、今まで自分自身で担っていた軛を手放せばよいのです。おまえの担っている軛とその荷を放しさえすれば救われる、と言っておられるのです。それを放して全て私に委ね、私の軛を負って、凱旋の行進に連なりなさい、そうすれば、幸いに至るというのです。
 このような主イエスの凱旋に連なる道を歩んでいく中で、主人である私に学びなさいというのです。ただ、誰も主イエスの柔和さと謙遜を真似ることはできません。そうではなくて、柔和で謙遜であるということの根本の、従順に学ぶのです。主が神に従順であられた、ということに学ぶのであります。それは、私たちが、主イエスに従順になるということであります。つまり、神の御心を行うということです。それが私たちの謙遜であります。主イエス・キリストが本当の救いの源となられたことを信じることから、私たちの本当の謙遜の生活が出て来るのであります。ただ、謙遜の道をたどって、私たちに救いをお与え下さった主イエスの救いを受ける事によって、かろうじて、主イエスの謙遜の道に従うことができるだけであります。
 私たちが、もし主イエスの感化を受けて、主イエスのように謙遜になる道があるとすれば、何よりもまず、われわれ自身が主イエスの謙遜によって生まれた御業によって救われなければならないのです。そして、主に対して従順であり、主を信じなければならないのです。そうすることによって自分の意志決定に従って動くのではなく、今は、神によって救われた者、神の恵みにうたれ、励まされた者、神によって生かされた者として、神の御心を行うために、新しい生活を歩んでいくことができるのであります。

《最後に》
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。この招きの言葉は、主イエスと共に生きる幸いへの道に招いているのであります。これまでの、自分の意志に従う歩みが、どんなに多くの疲労を齎していたかを思わされるのです。ですから、主イエスに従いなさいと言われるのです。あなたの抱えている罪を代わりに担おう、とのお言葉を掛けて下さるのです。
 自分の力ではその肩にのしかかった罪をどうする事も出来ないであろう。自分で何とかしよとすればするほど、疲れるだけだ。そこには、救いはないと言われるのです。罪を赦せるのは私だけだというのです。
 私たちは主イエスの十字架の御業を通して、罪清められ、神のものとされました。イスラエルがそうであったように、神を礼拝するために、私たちは神のものとされたのです。それが神の御心であります。ですから、神に従順である、すなわち、神の御心を行うということは、神を礼拝することであります。そして、罪赦され神のものとされている今は、まさに神を拝む生活に引き入れられているのです。それが、魂の安らぎであるというのです。神を礼拝し神と共にあることが、私たちの魂の真の安らぎであるのです。主を礼拝し、主と共にあることが、私たちの真の幸いなのです。主イエスは、この真の幸いへと招いて下さっているのです。主イエスを我らの救い主とし、救い主を礼拝しすることが私たちの魂の安らぎであるのです。それが人間本来の幸いであると主は言われるのです。

主による平和」 1月第5主日礼拝 2010年1月31日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章27〜33節
16章<27節>父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。<28節>わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」<29節>弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。<30節>あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」<31節>イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。<32節>だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。<33節>これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

27節「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」とは、26節「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」を受けての言葉です。それは「あなたがたは既に神の子とされ、神との交わりが許されているのだから、わたし(主イエス)が代わって父に祈る必要はない」ということです。
 「神が弟子たちを愛してくださった」ゆえに、聖霊の出来事によって、弟子たちは「神の子とされ、神との交わりを許される」のです。「神の愛」とは「神との交わりに入れられる」ということです。しかし、弟子たちが「神との交わりに入れられている」ことを理解しているとは言い難いのです。

また、この後の御言葉の解釈は難しいと言わざるを得ません。「わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」と記されております。弟子たちは果たして「信じた」と言えるのでしょうか。「あなたがたは信じた」と言いながら、主イエスは31・32節では「今、信じるようになったのか」「あなたがたは、わたしを見捨てて逃げる」と、「信じている」ことを否定する言葉をも語られるのです。
 ここで示されていることは、「信じる」とは、自らの思いが主体なのではないということです。ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、この世を救うために御子イエス・キリストをまでくださった圧倒する神の愛があって、「神に愛されている」ことが前提にあって、だから「信じてよい」と言われているのです。「信じることへの招き」それが「神の愛」です。私どもは「愛されているから救われる」のではありません。「愛されている」から「信じる」、だから「救われる」のだということを覚えたいと思います。信仰の応答あってこその「救い」なのです。そして「神の愛」は「恵みとしての愛」であることを忘れてはなりません。人の愛(強制する愛)とは違うのです。

ここでは「信じる」ことが強調されていますが、「弟子たちがはっきりと信じた」ことが語られているわけではありません。弟子たちはまだ十分には信じ切れていない、にも拘らず、主イエスが弟子たちを「信じる者として扱ってくださっている」のだということを覚えたいのです。大きな恵みです。主イエスは私どもの信仰を問うのではなく、「信じる者」として扱ってくださっているのです。私どもは自分の思いの確信によって信仰に立っているのではありません。私どもを「信仰ある者」と神が言ってくださり、信仰の恵みに与らせていただいているのだということを覚えたいと思います。だからこそ私どもは、神に全てをあずけて良いのです。
 間もなく弟子たちは十字架の主イエスを見捨てて逃げ去ります。弟子たちの不信仰が鮮やかになる「十字架の出来事」を前にして、なお主イエスは弟子たちに「あなたがたは信じた」と、信仰を認めてくださっている。だからこそ、弟子たちは逃げ去った後、また戻ってくることが出来るのです。

28節「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」とは、「信じた」内容が何であるか、主イエス・キリストとは如何なる救い主であるかが端的に語られております。
 「父のもとから出て」とは「父なる神と共に初めから在す、先在のキリスト」を、「世に来た」とは「受肉。人となってくださった救い主」を、「今、世を去って」とは「今から起こること、十字架の死により人の罪を贖う、贖い主としてのキリスト」を、「父のもとに行く」とは「十字架と復活の主イエスによって神との交わりを回復し、天に住まいを与えられる」ことが示されております。主イエス・キリストが、このような救いをもたらす救い主であること、それが「信じた」内容なのです。この28節こそは、ヨハネによる福音書のキリスト観を示しております。

29節「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」。弟子たちはこれまで主イエスが語ってくださっていたことを、「今、分った」と言うのです。
 弟子たちが「分った」こととは何でしょうか。弟子たちは「主イエスが何でもご存じだ」ということ、即ち「全知全能の方である」と分ったのです。「全知全能」とは「神のしるし」ですから、主イエスを「神の人であると分った、だから何も尋ねる必要はない」と受け止めたということです。しかし、分ったと言っても、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じられるわけではないのです。
 主イエスは「父なる神のところに帰る」ことを語っておられるのに、弟子たちは「神から来た方だと分った」と言う。この理解のギャップは大きいのです。

この言葉を受けて主イエスは、31節「今ようやく、信じるようになったのか」とお答えになります。27節では「信じた」と言ってくださり、ここでは弟子たちがまだまだ分っていないことをご存知の上で、「信じるようになった」と言ってくださっていることが読み取れます。

32節「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」、主が言われていることは「十字架」です。メシアを待望する人々の思いでは「主イエスの十字架」は敗北であり、挫折、絶望であって、とても「信じるには価しない」と人々は散らされていき、主イエスは「ひとりきりになる」と言われます。主イエスは、人々に、弟子たちにも見捨てられ「ひとりきりになる」、それは「孤独」ということです。今、この社会では「孤独」ということが問題になっております。しかしそんなこの世にあって、主イエス・キリストこそ、全くの絶望、孤独の淵に立たされた方であることを覚えたいと思うのです。
 けれども続けて、主イエスは言われます「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と。「父なる神が共にいてくださる」だから「孤独ではない」と、主イエスは言われるのです。
 ここで覚えるべきことがあります。
 ヨハネ以外の福音書においては、十字架に際して主イエスは「我が神、我が神、なぜ、わたしをお見捨てになるのですか」と叫んだと、人々だけではなく「神にも見捨てられた」と記述しますが、しかし、ヨハネによる福音書は「神にも見捨てられた」とは言わないのです。人々に、弟子にも見捨てられた、しかし尚「神が共にいてくださる」と語っております。

人々に、全てに見捨てられたと感じるとき、人は一体どこへ向かうでしょうか。人は「神へと向かう」のです。深い深い孤独によって、人は「神を呼ぶ者」とされるのです。「孤独な者」にほど「神が近くにいます」ということです。絶望の淵で、何者も付いて来ることのできない死の淵で、最も近くに神を感じ、神を呼ぶ。それこそが「神にまで見捨てられた者の思い」であり、それほどまでに神を近くに感じる者はいないのです。

現代社会の闇を生き抜くためには、「孤独に耐える人」を生み出すことが大事です。即ち「神を知る」ことが大事なのです。「神が近くにいます」ことを知ることによって、人は、孤独・絶望の淵にあっても平安を得、神の近さのゆえに孤独に耐えることができるのです。ですから、神を呼ぶことができない孤独の問題が現代社会の深い問題です。昔のように神を信じることが出来なくなってしまったゆえに、孤独に耐えて生きるということが出来なくなってしまったのです。
 しかし幸いなことに、私どもキリスト者は「神を知る」という恵みに与っている、孤独に耐える力が与えられているのだということを覚えたいと思います。

33節「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」。「平和」とは「神共にいます平安」ということです。十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちは、後に主イエスの言葉を思い出し、絶望の淵で、既に主が共にいてくださる方であることを知って平安を得るのです。主を裏切る者でしかない罪ある自分を知るときに、そういう者であることを主は既に知っていてくださり、尚共にいてくださるのです。なんと幸いなことでしょう。「神共にいます平安」それが「主(わたし)による平和」ということです。

「わたしは既に世に勝っている」。十字架は敗北ではなく、主イエスがこの世に勝ってくださった出来事です。十字架はこの世の罪を終わりとし、主の復活の力によって地上の一切の力は無力とされ、神の恵み・救いの出来事が支配するのです。

今、既に、この世に勝利した神の愛、救いの恵みの出来事に与っていることを知り、神共にいます平安の内に歩む日々でありたいと願います。