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15節「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と、主イエスは言ってくださっております。これは「弟子たち」に言われた言葉ですが、「弟子」=「主イエスに従う者」即ち私どもキリスト者に対して言ってくださっているということです。「救い主なる方、主イエス・キリスト」が私どもを「友」と呼んでくださるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。恵みに他ならないのです。 「友」ということについて少し考えてみたいと思います。 結論を先に話してしまいました。15節に戻りましょう。 しかし、だからと言って開き直り、「主イエスはわたしの友だ」と言ってよいのでしょうか。使徒パウロのことを考えたいと思います。パウロはローマの信徒への手紙1章1節で、自らを「キリスト・イエスの僕」と言い表しております。「主イエス・キリストの友」としていただいた者パウロの言葉は「ただ主イエス・キリストに仕える者である」という自覚の言葉でした。 今この時にも、主イエス・キリストは私どもに言ってくださっております「わたしはあなたがたの友である」と。 |
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9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と記されております。 「徴税人が収税所に座っている」これは何ら不思議なことではありません。マタイにとっては日常であり、殊更に人の目に止まるようなことではないでしょう。しかし、主イエスはそんなマタイに目を止め声をかけられたのです。 では、マタイを御覧になった主イエスの眼差しとは、どのようなものなのでしょうか。主イエスはマタイに「わたしに従いなさい」と言ってくださっております。これはとても大きな出来事です。誰もが存在を認めていない者に対して、主イエスは「主との交わりへの招き」の言葉をかけてくださったのです。存在無き者を、一人の尊い存在として見てくださっているということです。 主イエスに声をかけていただいたマタイはどうしたでしょうか。交わりに招かれることなど無いマタイです。しかし、マタイはすぐに感じ取るのです。何を感じ取ったのか。主イエスは知っておられる。マタイが救いを必要としていることを知っておられる。だからこそ見出し招いてくださった。そしてマタイも、人々の視線に救いは無く自分の内にも諦めしかないことを知っている、それ故に、この方だけが私に救いの手を差し伸べている、この方しかない!と骨の髄から感じ取ったのです。ですから、マタイは何のためらいもなく、彼の日常(収税所、憎しみと諦めの場)から立ち上がり、主に従う者となりました。それはただ、主イエスの慈しみ、憐れみによるのです。マタイはもはや富(憎しみの代償としての)に頼る必要はなくなりました。主イエスが共にいてくださるからです。 このマタイの日常からの救いの真理は、私どもに対しても同じことが示されております。 ですからこそ、今、思い起こしたいと思います。日常に埋没し、自らの存在を失い、そこから抜け出せない者、そういう者を主は知っていてくださる。そして慈しみをもって見出し、主の交わりへと招いてくださっているのだということを、有り難いことと覚えたいと思うのです。失われている気力・存在を、慈しみをもって一人の尊い人格として受け止めてくださる「主イエス・キリスト」がおられることを、感謝をもって覚えたいと思います。 「主イエスを知る」ことは「交わりの中に生きる恵みを知る」ということです。そこでは人はもはや孤独ではありません。ですから「主イエスを知る」ことは「元気をいただく」ことです。「主イエスが共にいてくださり、交わりの中に入れていてくださる」ことを思い起こすことによって、元気になって、一日を喜びのうちに生きることができるのです。 朝目覚めて、神を仰ぐ。新しい一日に、新たに元気を与えられて生きることができる、それがキリスト者に与えられた幸いであることを覚えたいと思います。 |
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1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」。「慰めよ」と、力強く、単刀直入に、神の言葉が与えられております。この言葉は、国が滅びバビロンに捕囚となって連れて行かれた「南ユダ王国(イスラエル)」の指導者たちに向かって与えられた言葉であり、バビロン支配の中にある捕われの民が、神より「慰め」を与えられることが示されております。 ネブカドレツァル王の支配の下に捕囚の民として37年の後、時代の流れと共にイスラエルの状況も変化することを預言者は見て取っております。「慰めよ」、それはまさに「イスラエルがバビロン捕囚から解き放たれる」ことを示す言葉なのです。 2節「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」、ここに大切なことが語られております。 少し前の社会では、人は盛んに「癒し」を求めました。それは「同情」と同じで、心の癒しを求めて没頭できる慰めの道を探したのです。しかしそれは、あまり格差なくゆとりのある社会であることが前提でした。 6節〜8節、虚しさ、絶望の中に生きる者、限界を持つ者、私ども人間の言葉の中に真実を見出すことはできません。しかし「神の言葉は真実」なのです。「慰めよ」と言ってくださる真実の神の御言葉のゆえに、私どもは救われるのであります。私どもの苦しみを知り、罪の贖いを成し遂げてくださる真実の神の御言葉によってのみ、平安を得、平安の内に日々を歩むことができるのです。 |
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▼「ルカによる福音書15章」は、普通『放蕩息子の譬え』と呼ばれております。福音書にはイエス様の譬え話がたくさん盛られていますが、その中でも、最も親しまれているものの一つであります。聖書を読んだことのない人でも知っている話という表現もできますでしょう。一番素直にと言いますか、簡単に解釈すれば、こんな話になるかと思います。 ▼毎日毎日、息子の帰って来るのを待っていたから、未だ豆粒のように小さい姿でも直ぐに息子と分かったのだと解釈しても、勿論間違いではないと思います。 ▼ここから結論のようなことを2行で申し上げますと、福音が異邦人に、全世界に宣べ伝えられていく、一人でも多くの者が神の許に帰って来ることを神は望んでおられるのだ。既に救われて教会にいる者は、新しく救われて仲間に加えられる者を歓迎すべきで、嫉妬などしてはならない。とまあこんなことになるかと思います。 ▼以上申し上げたことが一番基本的な解釈であると言って良いと思いますが、ここから具体的な教訓のようなものが出て参ります。 ▼今は、父の財産を、信仰を比喩しているものとして説明致しましたが、これを愛と考えれば、ちょっと違った説明になります。 ▼弟は、多くの若者がそうであるように、目に見えるお金にしか関心がありません。ですから、父の財産の半分を要求してそれを持ち去りましたけれども、父の愛のうちの彼の取り分、父の愛の半分は置き去りにしてしまいました。関心がないからであります。値打ちを認めなかったからであります。存在に気付かなかったと言っても良いかも知れません。 ▼ところで、兄は弟が去ったことで、残された財産の半分は勿論自分のものとしましたし、父の愛については、弟の分まで独占してしまっておりました。しかし、彼には弟と全く同様に、父の愛が全然見えていません。もう一度29節をご覧下さい。『しかし、兄は父親に言った。【このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。】彼は、まるで我慢して父に仕えていた、いやいや仕えていた、仕方なしに父と一緒にいたかのようであります。 ▼このことも、私達の教会の姿に重ねて考える必要があると思います。私達は、この譬え話に於いて、多分自分を弟の放蕩息子に重ねて読むことが多いと思います。しかし、私達はむしろ兄息子かも知れないのであります。日本のクリスチャン人口は1%だと言われて久しいのでありますが、そこから一向に増えないばかりか、むしろ、減少傾向にあります。たった1%で全部の責任を果たして、神さまのために働いている、そういう言い方も出来るのかも知れません。 ▼しかし、見方を変えれば、たった1%で、つまり、100万人で日本人1億人分の神の愛を独占しているのです。1%とは、100人に一人ということでありますから、一人で100人分の神の愛を独占しているのであります。しかし、そのことは全然思わないで、どうして教会はかくも奮わないか、貧しいのかと嘆き、どうも教会が喜びに満ちていません。むしろ不満が満ちているのであります。 ▼私は常々思うのであります。伝道の熱心は、ここに依拠するものだと考えるのであります。私達だけで独占して申し訳ない。早く本来の持ち主にも分けてあげなくては、これだけが正しい伝道の動機でなくてはならないのではないでしょうか。 ▼本当に隣人を尊重するとは、この人に神の愛がある、だからそれを伝えなければならないということではないでしょうか。まあこの人はいいや、あんまり向きではなさそうだから、これこそが、キリスト者としては、その人の価値を認めていないのであります。これこそが差別なのであります。この人はこの人なりの価値観を持って生きているから、この人には神さまの愛を伝える必要はない、そう考えることこそ、差別なのであります。私はそのように思います。 ▼でありますから、伝道することこそ、神の愛を伝えることこそ、その人を重んじることなのであります。何しろ、その人を神の愛を受け取るべき資格のある人と認めているのであります。同じ父を持つ、兄弟と認めているのであります。 ▼さて、父の財産を、信仰でもなく愛でもなく、生命というふうに取れば、また新しい読み方が出てまいります。私達は、一人一人が神様から生命を貰ってこの世に生まれ出て来ました。しかも、それは無償でいただいたのであります。誰も自分の命に見合う働きをして、そのご褒美として誕生して来た者はいないのであります。放蕩息子の弟と同様に、神さまから命を貰って、生まれて来たのであります。そして、これも、放蕩息子の弟と同様に、それを自分の権利であるかのように思い込んでいるのであります。 ▼その限りある大事な生命を、放蕩ざんまい、無駄に費やしてしまったのであります。つまり、他の誰かのためになるような、世の中のためになるようなことは何一つなすことが出来ず、ただ己の楽しみのためだけに、全人生を費やしてしまったのであります。もう幾らも生命が残っていません。まあ、それこそ難病の宣告を受けたような事態になって、初めて、ああなんて私の人生は空しいものだったのだろう。彼は激しく後悔するのであります。 ▼もっと単純に、死んだら全てが終わり、もう何も残っていないと思っていたら、死後の世界には神さまの愛が残っていたのであります。命が残っていたのであります ▼この場合でも、私たちは、弟息子よりも、兄息子であります。私たちは、父の所に留まっているからであります。 |
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