聖書のみことば/2009.9
2009年9月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
わたしが選んだ」 9月第1主日礼拝 2009年9月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章15〜19節
15章<15節>もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。<16節>あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。<17節>互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」<18節>「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。<19節>あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。

15節「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。…わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と、主イエスは言ってくださっております。これは「弟子たち」に言われた言葉ですが、「弟子」=「主イエスに従う者」即ち私どもキリスト者に対して言ってくださっているということです。「救い主なる方、主イエス・キリスト」が私どもを「友」と呼んでくださるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。恵みに他ならないのです。

「友」ということについて少し考えてみたいと思います。
 文学の面から見てみますと、古来日本の純文学は「美の文学」でした。滅びに徹するという「美の価値観」によるのです。しかし戦前、武者小路実篤や太宰治の「友情」をテーマにした作品は文学界に大きな転換をもたらしました。それは「美」から「愛」という価値観への切り替えの試みでした。「友となる」とは愛情の有り方の一つです。男女の愛や親子の愛、そして友との愛・友情です。「愛」とは「関わり」、関わっていくことが愛することです。そこで、男女や親子の愛よりも、もっと精神的な関係としての愛「友情」を考えたのです。しかしその試みは、失敗したとも言えませんが成功したとも言えないでしょう。
 主イエスの言われる「友となる」ということは「友としてその人を愛する」ということです。「友情」は、人の世界では肉体の関係などと比べればより精神的な関係と言えますが、だからと言って優るものとは限りません。何故なら友情は、善においてよりも、悪において、より結び付きが強いからです。ですから人の友情は必ずしも良きものとは言えないのです。そして、自分中心であればあるほど、友を見い出すのは難しいのです。また、人には必ず「友を裏切ってしまう」という現実があります。それは、様々な関係の中で、友との関係だけを最優先にして生きてくことは出来ないからです。
 けれども主イエス・キリストは、私どもに裏切りがあることを知っていてくださいます。裏切りがあるのに、その上で、主イエスは「わたしはあなたの友」と言ってくださるのです。私どもが主イエスを友にするのではありません。主イエスが私どもの友となってくださったのです。主イエスは神なる方、真実な方ですから、決して私どもを裏切らない友です。この世には裏切りがある、しかし主イエス・キリストは決して裏切らない。それは何を意味するかと言えば、「本当の友は、真実なる方、主イエス・キリストのみである」ということです。私どもを決して見捨てない。どこまでも関わってくださる唯一の方なのです。それが「友となる」と主が言ってくださることの恵みであることを覚えたいと思います。

結論を先に話してしまいました。15節に戻りましょう。
 15節に「もはや、僕とは呼ばない」と言われております。それは「本当は僕(しもべ)だけれど、友と呼ぶ」ということです。「神の僕(仕える者)」に過ぎない、それが人の本来の姿です。しかし主イエスは「仕えさせる」のではなく「友とする」と言われるのです。
 僕(しもべ)と友の違いは何でしょうか。僕(奴隷)は主人の意図を詮索する立場になく、主人に命じられたことを強制的にするものです。ですから僕(しもべ)に自由はなく、あくまでも上下の関係なのであって、主人と等しい者ではありません。しかし友とは、相手を平等に扱う、自らの意志をもっての自由な関係なのです。
 ですから、主イエスに友と呼ばれるということの意味はとても大きいのです。主イエスは主人として、私どもを束縛し強制し、見下し不自由にするためにこの世に来られたのではなく、本来は僕(しもべ)に過ぎない者を、主イエスと対等な者としてくださるために来られたのです。どうでしょうか。互いに不自由な、束縛し強制する関係というものは、絶えず私どもの中に生まれている関係です。そんな中で他者と対等な立場に立つこと、相手を自由にし人権を認めることは、とても難しいことと思わざるを得ません。しかし主イエスは、私どもの主人であるにも拘らず、私どもを奴隷ではなく「人格ある者」として扱ってくださると言うのです。それが「主イエスに友と呼ばれる」ということの恵みであることを覚えたいと思います。

しかし、だからと言って開き直り、「主イエスはわたしの友だ」と言ってよいのでしょうか。使徒パウロのことを考えたいと思います。パウロはローマの信徒への手紙1章1節で、自らを「キリスト・イエスの僕」と言い表しております。「主イエス・キリストの友」としていただいた者パウロの言葉は「ただ主イエス・キリストに仕える者である」という自覚の言葉でした。
 僕(奴隷)というものは強制的になるものであって、自分の意志で奴隷になるのではありません。しかしパウロは、パウロを呼ぶ主の声によって方向転換し、救われ、自ら進んで喜んで主イエス・キリストに仕える者になりました。ここには自由な意志があるのです。力によっての僕(しもべ)には喜びはないでしょう。しかし、恵みによってなる僕(しもべ)には、喜びがあるのです。ですから改めて「自由と平等」ということについても考えさせられます。「自由と平等」というと、それは「権利」というのが常であります。しかし、キリスト者にとってはそうではないのです。「自ら進んで仕える」そこに自由な意志があり、そこでこそ互いに平等なのです。それが「奉仕」ということです。自分の思いで仕えるならば、相手に強要し報いを求めることになるのです。「既に恵みをいただいている」という感謝をもって仕える、そこに「報いを求めない、自由なる僕(しもべ)としての喜び」があるのです。
 パウロは、なぜそこまで言い得たのでしょうか。
 それは「主イエス・キリストが人となり、私どもと等しい者になってくださった」ということが前提にあるのです。他者のために自ら仕える、それが本当の僕の姿です。主イエスが低くなり「私どもと等しい者にまでなって、仕えてくださった」、この喜びが無ければ、主イエスが私どもを友と呼んでくださることの喜びはありません。実に主イエス・キリストは、私ども罪人の贖いのために十字架につき、その命をもって、私どもに仕えてくださいました。命をもって私どもに仕え、救いを成し遂げてくださったのです。「わたしはあなたと等しい者に、仕える者になる」と言って「友」となってくださる、そんな友が他にいるでしょうか。「一番下になる」そういう者として、主イエス・キリストは私どもの友となってくださったのです。ですから、主イエス・キリストにふさわしい友としての私どものあり方とは、主の救いの恵みに感謝しつつ「仕える」こと、それしかないのです。
 「友である」ことと「僕、仕える」ということは一つのことなのだということを覚えたいと思います。

今この時にも、主イエス・キリストは私どもに言ってくださっております「わたしはあなたがたの友である」と。
 この恵みを心深く受け止める者でありたいと思います。

わたしに従いなさい」 9月第2主日礼拝 2009年9月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第9章9〜13節
9章<9節>イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。<10節>イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。<11節>ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。<12節>イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。<13節>『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

9節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」と記されております。
 「そこをたち」とは、主イエスがご自分の町カファルナウムで「中風の人の癒し(1〜8節)」をなさった後、そこをたち、ということです。そして通りがかりに主イエスは、徴税人マタイを見かけて声をかけらました。このマタイという人は「主イエスが見出してくださった人」であります。「主イエスが見出してくださる」とは、どういうことなのでしょうか。

「徴税人が収税所に座っている」これは何ら不思議なことではありません。マタイにとっては日常であり、殊更に人の目に止まるようなことではないでしょう。しかし、主イエスはそんなマタイに目を止め声をかけられたのです。
 徴税人マタイの日常とは、どのようなものだったのでしょうか。ユダヤの町で、ユダヤ人の徴税人によって徴収される税金は、しかし、ユダヤ人に還元されない税金でした。ローマの支配下にあったユダヤにはローマに対して納税の義務があり、取り立てられた税はローマの役人のために使われていたのです。従って納税は、ユダヤ人にとってはローマへの憎しみを増幅させる行為に他なりません。ローマ人は利口で、徴税のためにユダヤ人を用いました。同胞から徴収させることによって、ローマへの直接的な反感を和らげようとしたのです。ですから、ユダヤ人にとって徴税人はローマの手先・裏切り者であり、ローマに対する憎しみは倍増して徴税人に集中していたのでした。更に、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民(選民)ですから、徴税人はその神の選びをないがしろにする神への反逆者とされ、罪人の仲間と見なされておりました。「収税所に座る徴税人マタイ」、彼の日常は人々の憎しみ、軽蔑、侮蔑の目にさらされていたのです。そのような状況にあって、徴税人はどのような態度をとるでしょうか。徴税人は取り立てを厳しくし、規定以上に取り立て、ローマに収めて尚余った分を自分の取り分とし、憎しみを受ける代償に富を得ていたのでした。
 徴税人マタイは、このような悪の連鎖、悪循環から逃れられません。徴税人マタイの存在を認めないという視線の中に置かれ、マタイは自らの状況を諦めているのです。徴税人マタイの日常とは「憎しみと諦め」の中にあって、彼の存在は失われている。人々から一人の尊い存在と見なされない、そして自らも仕方ないと諦めている、そういうマタイを、主イエスは「見かけて」声をかけられるのです。

では、マタイを御覧になった主イエスの眼差しとは、どのようなものなのでしょうか。主イエスはマタイに「わたしに従いなさい」と言ってくださっております。これはとても大きな出来事です。誰もが存在を認めていない者に対して、主イエスは「主との交わりへの招き」の言葉をかけてくださったのです。存在無き者を、一人の尊い存在として見てくださっているということです。
 人は、他者との交わりの中で自分の存在を感じる、存在感を得るのです。仲間を見出して初めて、自分という存在を感じるものです。しかし交わりを失えば自らの存在感は希薄になり、孤独になるのです。
 主イエスの「わたしに従いなさい」という言葉は、「あなたをわたしの弟子にする。わたしの交わりの中に来なさい」という、マタイに一人の人としての存在を与える招きの言葉です。人々の眼差しはマタイの存在を認めず裁く眼差しですが、主イエスの眼差しはマタイを一人の存在として見出してくださる眼差しなのです。そして見出したが故に、主は招いてくださいました。私どもはここに、主イエスの慈しみ、憐れみを知るのです。

主イエスに声をかけていただいたマタイはどうしたでしょうか。交わりに招かれることなど無いマタイです。しかし、マタイはすぐに感じ取るのです。何を感じ取ったのか。主イエスは知っておられる。マタイが救いを必要としていることを知っておられる。だからこそ見出し招いてくださった。そしてマタイも、人々の視線に救いは無く自分の内にも諦めしかないことを知っている、それ故に、この方だけが私に救いの手を差し伸べている、この方しかない!と骨の髄から感じ取ったのです。ですから、マタイは何のためらいもなく、彼の日常(収税所、憎しみと諦めの場)から立ち上がり、主に従う者となりました。それはただ、主イエスの慈しみ、憐れみによるのです。マタイはもはや富(憎しみの代償としての)に頼る必要はなくなりました。主イエスが共にいてくださるからです。

このマタイの日常からの救いの真理は、私どもに対しても同じことが示されております。
 日本人にとっては、日常性は「汚れ」という感覚です。日常は繰り返しであり、繰り返す日常に埋没するうちに気力を失う「気が枯れる」=「汚れ」なのです。この「汚れ」は何を意味するのでしょうか。人は日常に埋没する中で元気を失ってしまう、それは自分の存在感を失うことです。その失った気力を回復するために、日本人は「祭り」をしました。それは日常を離れるということです。しかし、その「祭り」さえ出来ない程に元気がない、気力を失っている、それが今の社会の現実です。

ですからこそ、今、思い起こしたいと思います。日常に埋没し、自らの存在を失い、そこから抜け出せない者、そういう者を主は知っていてくださる。そして慈しみをもって見出し、主の交わりへと招いてくださっているのだということを、有り難いことと覚えたいと思うのです。失われている気力・存在を、慈しみをもって一人の尊い人格として受け止めてくださる「主イエス・キリスト」がおられることを、感謝をもって覚えたいと思います。

「主イエスを知る」ことは「交わりの中に生きる恵みを知る」ということです。そこでは人はもはや孤独ではありません。ですから「主イエスを知る」ことは「元気をいただく」ことです。「主イエスが共にいてくださり、交わりの中に入れていてくださる」ことを思い起こすことによって、元気になって、一日を喜びのうちに生きることができるのです。
 主イエスは「わたしに従いなさい」との御言葉によって、主との交わりを与えてくださいました。
 主イエスを信じる者は、なんと幸いな者でしょう。来る朝ごとに「主イエスがこの私を慈しみの眼差しの中に見出してくださり、交わりの中に入れていてくださる」ことを思い起こして、自らの存在感を得、力が与えられるのです。

朝目覚めて、神を仰ぐ。新しい一日に、新たに元気を与えられて生きることができる、それがキリスト者に与えられた幸いであることを覚えたいと思います。

我が民を慰めよ」 9月第3主日礼拝 2009年9月20日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/イザヤ書 第40章1〜9節
40章<1節>慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。<2節>エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。<3節>呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。<4節>谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。<5節>主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。<6節>呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。<7節>草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。<8節>草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。<9節>高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神<10節>見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ/御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い/主の働きの実りは御前を進む<11節>主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め/小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる」。「慰めよ」と、力強く、単刀直入に、神の言葉が与えられております。この言葉は、国が滅びバビロンに捕囚となって連れて行かれた「南ユダ王国(イスラエル)」の指導者たちに向かって与えられた言葉であり、バビロン支配の中にある捕われの民が、神より「慰め」を与えられることが示されております。
 バビロン捕囚はイスラエルにとっては大きな危機でした。イスラエルには、自分たちは神に選ばれた民(選民)ゆえに、いかなる事態に際しても神の守りがあるという絶対的な確信がありました。また、エルサレムは天然の要塞で守りは固く、陥落するなどとは思っていなかったのです。神に選ばれているとの確信。「選ぶ」とは「愛する」ということに通じます。「神の愛の守りがあるから大丈夫」との思いによって敵に対峙したのです。しかしそれは錯覚でした。何故ならイスラエルは、預言者エレミヤの預言によって「バビロンに屈服し捕囚となって従うことが命長らえる道」であり、それこそが「神の御心」であることを示されていたからです(エレミヤ書27章〜)。しかし、民はこのエレミヤの預言を信じませんでした。一方で預言者ハナンヤが、神がバビロンを2年以内に滅ぼし奪われた金銀(神殿の祭具)も戻って来るという、イスラエルにとって耳に心地よい預言をし、民はハナンヤの預言に従ったのでした。結果はエルサレム陥落、ハナンヤは死に、南ユダ王国は滅びました。
 このことで示されることは何でしょうか。選民として神に従っているように語りながら実は自分の利益になるように神を利用した、それがハナンヤの預言でした。自分の思いに神を従わせようとする、これこそが神への反逆なのです。「愛する」ということを考えるとき「自分の益のために愛する」ということは、本当の愛ではありません。神の愛の出来事は「愛する者のために仕える」ということなのであって、自分を愛してもらうことではないのです。
 バビロンに屈服し従うことは確かに屈辱的なことですが、しかし、そこに神の意志があるならば、従うべきことです。預言者エレミヤは「神を信頼する」がゆえに、このような状況に際しても「心は平安」でした。一方ハナンヤは、この状況を受け止めきれずに心高まり、熱狂し、民に「神の愛の守りがあるから大丈夫」と一致団結を促して何とか敵と戦おうとして失敗するのです。愛は熱狂であってはならないことを思います。熱狂する愛に「平安」はないのです。それは、真実を真実として受け止められないという現実であり、そこで人は苦しみを増すのです。
 バビロンに捕囚となり、その支配下に生きざるを得ない、それは屈辱的な現実ですが、これこそがここに示されている「捕われの民」の姿です。熱狂主義によって全てに破れ、虚しさと絶望の中に生きる姿です。

ネブカドレツァル王の支配の下に捕囚の民として37年の後、時代の流れと共にイスラエルの状況も変化することを預言者は見て取っております。「慰めよ」、それはまさに「イスラエルがバビロン捕囚から解き放たれる」ことを示す言葉なのです。
 「慰める」というと、悲しみを持つ相手に同情して相手の心の思いを軽くすることと思いますが、ここでの「慰め」は、単なる心の思いとは違います。ここでの「慰め」は「イスラエスを捕囚から導き出す・救い出す」という内容を含んでいるのです。イスラエルは救われて神との交わりを回復し、新しいイスラエルとなる。まさに身も心も「その人の全身全霊を、救いをもって癒す」それがここに示されている「慰め」です。

2節「エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」、ここに大切なことが語られております。
 「エルサレムの心」即ち「絶望している者たち」に呼びかけよ、と言われております。彼らは40年近く捕囚の民として屈辱を受けて生活し、絶望の淵にいるのです。他者の支配下にあることは苦しみに他なりません。私どももまた、そういう苦しみの中に生きる者です。もちろん神に信頼しなかった罪はあります。40年の捕囚では、まだまだ罪は償いきれていないと人は言うでしょう。しかし、神は「苦しみは十分に満ちた、あなたは十分に苦しんだ、ゆえにあなたの罪は完全に贖われた」と言われるのです。「苦しみ、絶望している。ゆえに憐れみを受ける」と言ってくださるのです。人は、他者の苦しみを十分には知り得ません。しかし神は、人の、私どもの苦しみを知っていてくださる方です。何故ならばこの神は、神の御子、十字架の救い主イエス・キリストとして、私どものところに来てくださった方だからです。主は、私どもが十分に苦しんだことを分ってくださる方です。「あなたは十分に苦しんだ、ゆえに神の憐れみの内にある。苦しみにおいて、あなたの罪は完全に贖われた」と言ってくださるのです。これは、人には言い得ないことです。神のみ言い得る「恵みの御言葉」であることを覚えたいと思います。そして私どもは、苦しみにある時「あなたの苦しみは満ちた、もう十分だ」と言ってくださる方をこそ、必要としているのです。

少し前の社会では、人は盛んに「癒し」を求めました。それは「同情」と同じで、心の癒しを求めて没頭できる慰めの道を探したのです。しかしそれは、あまり格差なくゆとりのある社会であることが前提でした。
 しかし、今の社会はどうでしょう。多くの人が苦しみ・絶望の中に置かれているこの格差社会の中にあって、人は、単なる心の癒しではなく、全身全霊をもっての救いを必要としている状況に至っているように感じます。まさに「あなたは救われた」という言葉を欲しているのです。この社会が今、「あなたは十分に苦しんだ」と言ってくださる「神の救いの宣言」、神の憐れみをこそ必要としているのだということを覚えたいと思います。

6節〜8節、虚しさ、絶望の中に生きる者、限界を持つ者、私ども人間の言葉の中に真実を見出すことはできません。しかし「神の言葉は真実」なのです。「慰めよ」と言ってくださる真実の神の御言葉のゆえに、私どもは救われるのであります。私どもの苦しみを知り、罪の贖いを成し遂げてくださる真実の神の御言葉によってのみ、平安を得、平安の内に日々を歩むことができるのです。

放蕩息子の忘れもの」 9月第4主日礼拝 2009年9月27日 
竹澤知代志 牧師 
聖書/ルカによる福音書 第15章11〜32節
15章<11節>また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。<12節
>弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。<13節>何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。<14節>何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。<15節>それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。<16節>彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。<17節>そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。<18節>ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。<19節>もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』<20節>そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。<21節>息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』<22節>しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。<23節>それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。<24節>この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。<25節>ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。<26節>そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。<27節>僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』<28節>兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。<29節>しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。<30節>ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』<31節>すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。<32節>だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

▼「ルカによる福音書15章」は、普通『放蕩息子の譬え』と呼ばれております。福音書にはイエス様の譬え話がたくさん盛られていますが、その中でも、最も親しまれているものの一つであります。聖書を読んだことのない人でも知っている話という表現もできますでしょう。一番素直にと言いますか、簡単に解釈すれば、こんな話になるかと思います。
 父親とは、神さまを比喩しています。この神さま・父親に息子が二人ありました。その弟息子が、とんでもないことを考えます。父親の財産の半分は将来自分に権利がある。しかし、父が亡くなり、自分もいいかげん歳を取ってから遺産を貰っても面白くもない。若く元気なうちこそ、お金が欲しい。若い時にこそ、お金の値打ちがあるというものさ。こんなことを考えたのであります。そこで彼は、現代の表現によるなら、遺産の生前分与を要求し、父はこの要求を聞き入れます。そして、至極当然の帰結として、弟息子は、間もなく財産を使い果たし、豚のえさで腹を満たしたいと思う程に落ちぶれてしまいます。そうなって初めて、自分の非を悟り、父の元に帰りたいと思います。
 彼は、勝手なことをした自分がもはや息子として受け入れられる余地はないと考えました。19節は、そのことを強調しています。『もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』。『雇い人の一人に』なるということは、最早息子ではないという意味であります。これは、21節でも繰り返されています。それ程、強調されているのであります。ところが、父親は彼の帰って来る姿を遠くから認め、走り寄って抱き締めます。

▼毎日毎日、息子の帰って来るのを待っていたから、未だ豆粒のように小さい姿でも直ぐに息子と分かったのだと解釈しても、勿論間違いではないと思います。
 この放蕩息子とは、新約聖書の中にしばしば言及される『異邦人』を比喩していると考えられます。真の信仰を持たない人々ということであります。つまり彼らは、この世の楽しみに捕らわれ、長い間信仰を忘れて過ごしてきたのであります。
 息子が帰ったことを喜んだ父は、彼に着物を着せ、指輪をはめさせ、履物を出し、更に肥えた子牛を屠ってごちそうします。これに、兄息子が嫉妬します。まあ当然と言えば当然であります。29〜30節の兄息子の言い分はもっともだとさえ言えます。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』この兄は、弟の異邦人に対して、ユダヤ人を比喩しています。長い間神さまに仕え信仰を守り続けて来たのに、昨日今日に聖書を読み始めたような者と一緒にされてはかなわないという訳です。ユダヤ人こそ神の民であり神の宝を相続する特別な権利を持つのだと、そう考えているのです。
 しかし、神さまは心の広いお方で、悔い改めた者を全く無条件に赦し、受け入れられる。神さまが赦し受け入れられた者を拒むとすれば、本当に忠実に神さまにお仕えして来たとは言いがたいのではないでしょうか。

▼ここから結論のようなことを2行で申し上げますと、福音が異邦人に、全世界に宣べ伝えられていく、一人でも多くの者が神の許に帰って来ることを神は望んでおられるのだ。既に救われて教会にいる者は、新しく救われて仲間に加えられる者を歓迎すべきで、嫉妬などしてはならない。とまあこんなことになるかと思います。

▼以上申し上げたことが一番基本的な解釈であると言って良いと思いますが、ここから具体的な教訓のようなものが出て参ります。
 神様から遠く離れているようにしか見えない人が確かに存在します。しかし、そういった人々も、間違いなく神様の視野に捕らえられているのであります。少なくとも、その視野に入って来る日を神様は忍耐強く待っておられるのであります。だから、私達はそのような人々が帰って来たときに、つまり教会にやって来た時に、決して拒んだりしてはならないのは勿論、むしろ、積極的に働き掛けて、そのような人々をこそ教会に招き入れ、あるいは出掛けて行ってでもお世話しなくてはなりません。まあ、こういった教訓であります。

▼今は、父の財産を、信仰を比喩しているものとして説明致しましたが、これを愛と考えれば、ちょっと違った説明になります。
 特に31節に、注目して下さい。『すると、父親は言った。【子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。】「わたしのもの」とは、何のことでしょうか。「いつも私と一緒にいる」とはどういうことでしょうか。そして『わたしのものは全部お前のものだ』という言葉の意味は。
 父の元に未だ手付かずに残っている財産、それに注目しなくてはいけないのであります。弟息子の忘れものであります。「放蕩息子の忘れもの」であります。
 その財産とは、父の愛のことであります。お金の他に、目には見えないし手に取って触ることもできないが、愛という財産が存在するのであります。愛という財産があるという仮定の元に、もう一度この譬え話を整理しなおしてみましょう。

▼弟は、多くの若者がそうであるように、目に見えるお金にしか関心がありません。ですから、父の財産の半分を要求してそれを持ち去りましたけれども、父の愛のうちの彼の取り分、父の愛の半分は置き去りにしてしまいました。関心がないからであります。値打ちを認めなかったからであります。存在に気付かなかったと言っても良いかも知れません。
 悔い改めて父の許に帰った時に、彼はかつて置き忘れていった財産の残り、つまり、父の愛を発見するのであります言い換えれば、弟が本心に立ち返った、悔い改めたということは、父親の愛情に初めて目覚めたということなのであります。父の愛というものが、どんな金銀にも優って尊いものであるということに、今、初めて気が付いたのであります。

▼ところで、兄は弟が去ったことで、残された財産の半分は勿論自分のものとしましたし、父の愛については、弟の分まで独占してしまっておりました。しかし、彼には弟と全く同様に、父の愛が全然見えていません。もう一度29節をご覧下さい。『しかし、兄は父親に言った。【このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。】彼は、まるで我慢して父に仕えていた、いやいや仕えていた、仕方なしに父と一緒にいたかのようであります。
 つまり、兄もまた、神の愛が見えず自己中心の生き方しかできないという点では、放蕩息子なのであります。弟が、金銀という宝にばかり目をやって、父の愛には見向きもしなかったように、兄もまた、父の愛が見えていないのであります。しかし、彼は、兄だから、我慢して父に仕えていたのであります。弟の分まで、愛情を独り占めにしていたなどとは、全く考えていないのであります。

▼このことも、私達の教会の姿に重ねて考える必要があると思います。私達は、この譬え話に於いて、多分自分を弟の放蕩息子に重ねて読むことが多いと思います。しかし、私達はむしろ兄息子かも知れないのであります。日本のクリスチャン人口は1%だと言われて久しいのでありますが、そこから一向に増えないばかりか、むしろ、減少傾向にあります。たった1%で全部の責任を果たして、神さまのために働いている、そういう言い方も出来るのかも知れません。

▼しかし、見方を変えれば、たった1%で、つまり、100万人で日本人1億人分の神の愛を独占しているのです。1%とは、100人に一人ということでありますから、一人で100人分の神の愛を独占しているのであります。しかし、そのことは全然思わないで、どうして教会はかくも奮わないか、貧しいのかと嘆き、どうも教会が喜びに満ちていません。むしろ不満が満ちているのであります。

▼私は常々思うのであります。伝道の熱心は、ここに依拠するものだと考えるのであります。私達だけで独占して申し訳ない。早く本来の持ち主にも分けてあげなくては、これだけが正しい伝道の動機でなくてはならないのではないでしょうか。
 今、教団の伝道力は全く奮いません。何しろ、極端には、伝道することは、他人の価値観の転換を迫ることであって、即ち、隣人を愛しなさいと言ったイエスの教えに反する行為だなどと、堂々と言う人があります。本当にそんなことを言う人があるのですよ。まあ、それは極端な人だとしても、他人の生き方を尊重する、他人の価値観を尊重する、結果は、その人に対して何も言わない、そういう傾向は強いと思います。
 しかし、私たちの伝道の熱心は、他人の生き方を否定する所に主眼があるのではありません。他人の価値観を軽んじるのでもありません。そうではなくて、ただひたすらに、神の愛は私だけのものではなく、この人のものでもある、そこに伝道の熱心が存在するのであります。

▼本当に隣人を尊重するとは、この人に神の愛がある、だからそれを伝えなければならないということではないでしょうか。まあこの人はいいや、あんまり向きではなさそうだから、これこそが、キリスト者としては、その人の価値を認めていないのであります。これこそが差別なのであります。この人はこの人なりの価値観を持って生きているから、この人には神さまの愛を伝える必要はない、そう考えることこそ、差別なのであります。私はそのように思います。

▼でありますから、伝道することこそ、神の愛を伝えることこそ、その人を重んじることなのであります。何しろ、その人を神の愛を受け取るべき資格のある人と認めているのであります。同じ父を持つ、兄弟と認めているのであります。
 伝道することは、他人の価値観の転換を迫ることであって、即ち、隣人を愛しなさいと言ったイエスの教えに反する行為だなどと言うのは間違っているし、むしろ、特定の人を、彼は神さまの愛の相続人ではないとして疎外しているのであります。

▼さて、父の財産を、信仰でもなく愛でもなく、生命というふうに取れば、また新しい読み方が出てまいります。私達は、一人一人が神様から生命を貰ってこの世に生まれ出て来ました。しかも、それは無償でいただいたのであります。誰も自分の命に見合う働きをして、そのご褒美として誕生して来た者はいないのであります。放蕩息子の弟と同様に、神さまから命を貰って、生まれて来たのであります。そして、これも、放蕩息子の弟と同様に、それを自分の権利であるかのように思い込んでいるのであります。

▼その限りある大事な生命を、放蕩ざんまい、無駄に費やしてしまったのであります。つまり、他の誰かのためになるような、世の中のためになるようなことは何一つなすことが出来ず、ただ己の楽しみのためだけに、全人生を費やしてしまったのであります。もう幾らも生命が残っていません。まあ、それこそ難病の宣告を受けたような事態になって、初めて、ああなんて私の人生は空しいものだったのだろう。彼は激しく後悔するのであります。
 しかし、その人生の終わりであっても遅すぎるということはありません。悔い改めさえすれば、彼が全く予想もしていなかったものが彼を待っているのであります。つまり、悔い改めて神の許に帰ろうとさえすれば、天国には父が豊かな食事を用意して待っておられるのであります。こんな風に読むことも可能だと思います。

▼もっと単純に、死んだら全てが終わり、もう何も残っていないと思っていたら、死後の世界には神さまの愛が残っていたのであります。命が残っていたのであります

▼この場合でも、私たちは、弟息子よりも、兄息子であります。私たちは、父の所に留まっているからであります。
 つまり、キリスト者は、一人一人が神様から生命を貰ってこの世に生まれ出て来たということを信じて、それに相応しい生き方を心掛けております。人生を放蕩ざんまい、無駄に費やすのではなくて、ただ己の楽しみのためだけに全人生を費やしてしまうのではなくて、何かしら、世のため人のためになりたいと願って生きております。
 しかし、何かしら、世のため人のためになるような有意義な人生を送るということは、一人黙々と働き、全ての楽しみを我慢してということではありません。そうではなくて、未来に希望を持つからこそ、黙々として働くのであります。
 そうして、弟が帰って来るのを待ち、帰って来たならば、我がこととして喜ぶのであります。それが、伝道ということであります。