聖書のみことば/2009.8
2009年8月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
豊かに実を結ぶ」 8月第1主日礼拝 2009年8月2日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章3〜8節
15章<3節>わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。<4節>わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。<5節>わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。<6節>わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。<7節>あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。<8節>あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

3節「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と、主イエスは言われました。
 「わたしの話した言葉」というのは、主イエスが言われた言葉全体であり、それは「わたし(主イエス)を信じなさい」ということです。先週、1・2節の「実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶものはますます豊かに実を結ぶ」ということについて語りました。「取り除く」とは「裁き」であり、「実を結ぶ」とは「救いの恵みに与ること」です。主イエスの言葉は「裁きであり、救いである」のです。「取り除かれる」のは「実を結ばない枝」です。実を結ばないのは枝の責任なのであって、そのように自ずと枯れる枝は「取り除かれる」ということです。

ヨハネによる福音書はもう一つ、「言葉」ということを特徴的に語っております。第1章1節に「初めに言があった」と記し、それは「神の子イエス・キリスト」そのものを示しているのです。「主イエス・キリストこそ、神の御言葉として、救いであり裁きなる方である」ということです。それは、3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、主イエス・キリストは「私どもを救うために」おいでになったのであり、「主イエスを信じるなら」一人も滅びないで救われるということなのです。
 しかし同時に、そこにある「裁き」とは、「救いである主イエス・キリストを信じることができない」ということです。信じないならば、その人は滅びだと言われる。信じるならば、救いに与り豊かに実を結ぶ。信じないならば、自ら滅び(枯れ)取り除かれるのです。
 ですから「救いは神の恵み、滅びは自らの報い」なのです。

なぜ「信じないことが滅び」なのでしょうか。「信じない」ことは「神が無い」ことです。「神との関係を持たない」それが「滅びであり裁き」なのです。「裁き」とは、神の方から関係を断ち切られるということではありません。「自らが神との関係を断っている」のだということを忘れてはなりません。
 何故、神が無いところに救いは無いのでしょうか。神が無いところでは、自分が中心、自分が第一になるのです。そうすると、自ずと人と人との心は通い合わず、孤独になり、そこで頑張れば頑張るほど、自らの存在の確かさを見い出せなくなっていくのです。何故ならば、人は死ぬ者であって、自分の思いは変えられないにも拘らず現実は移り変わり、思いと現実が乖離してしまうからです。自分で何とかしようとしても何とも出来なくなる、それが人の現実です。ですから人は、そのように頼りない自分を根拠とすることはできません。人は関係の中に生きるのですから、決して揺るがない方(神)との関係がないと、自らの根拠を持てないのです。神との関係があってこそ、救いなのです。ですから、神無しには救いは無く、自ら神との関係を絶つ者は滅びるのです。
 「ばちが当たる」と言いますが、それは裁きではありません。差し伸べられた救いの手を捕らえないならば、勝手に滅ぶよりなく、それが裁きなのです。
 私どもは、様々な事柄につまずいた方が良いのです。気付けば、悔い改めるからです。「気付かせない」それがサタンの巧妙さです。サタンは「大丈夫。自分で何とかやっていける」と思わせるのです。サタンは人をつまずかせる者なのではなく、人を賞賛しそれで良いとする者なのであり、それは危なく恐ろしいことです。
 滅びの内にあることを知る、神から遠いことを知り虚しさを知ることは、実はとても大事なことです。何故なら、そこでこそ、神に至る糸口があるからです。自分が罪深く、自分ではどうにもならないと知るときこそ、救いの始まりなのです。そこに「神しかない」ことを知り、神を必要とし、神を求めざるを得ないからです。滅び、罪の痛みを感じるとき、その人は既に神に近いのです。神に呼び寄せられているのです。後は神にすがるのみです。ですから、滅び・罪のうちにあっても、尚、人は神の恵みのうちにあるのだということを覚えたいと思います。

「あなたがたは既に清くなっている」と「既に清い」と言われております。
 「既に清い」とは思いもよらない言葉です。普通なら「清くなれる、清くなれ」と言うのではないでしょうか。しかし「あなたがたは既に清い」と宣言されております。それは「主イエスを信じる者は、既に清い」ということです。それは、その人はもう二度と間違いを犯さないということではありません。これから先、どんなに間違いを犯す者であったとしても「信じる者は、既に清い」という、それが聖書の語ることです。
 「清い」という言葉は、2節の「手入れ=剪定」という言葉と同じ言葉が使われております。「主イエスを信じる者は、既に剪定されている、整えられている」ということです。自分で自分を整えるのではないのです。自分では整えることはできません。整えてくださるのは神です。
 ここに言う「剪定されている」とはどういうことでしょうか。「主イエスと結ばれて、主にある者として整えられている」ということです。「キリストの者、キリスト者」となっているということ、その人は主イエス・キリストとの繋がりの中で生きる者なのです。
 「キリスト者である」とは、どういうことでしょうか。キリスト者であれば「祈り、礼拝し、御言葉に聴く」のです。そんなキリスト者であっても、間違いを犯す者であることに変わりはありません。しかしそこで、キリストの御言葉によって、恵みに対して応答する者として生きることができる、それがキリスト者であるのです。祈り、礼拝し、御言葉に聴く者として、恵みに応答するのです。ですから「清い」とは、キリスト者として既にある、そして礼拝する者であるということです。
 キリストから離れてしまえば、祈り、礼拝し、御言葉に聴くということはないでしょう。また私どもは、キリスト者として一生懸命清く生きることを求められているのでもありません。キリスト者として既にある、だからこそ礼拝しているのです。
 何故「清い」と言われるのでしょうか。それは、祈り、礼拝し、御言葉に聴く生活をすることを通して「神が第一」になっている、だから「清い」のです。自らの欲望が第一にならないのです。神の赦しの恵みに圧倒され、神の救いの恵みのうちにあることを繰り返し知ることによって、この世にあってどろどろとした思いがあるにも拘らず、尚、主の恵みによって、そのどろどろとした思いから解き放たれる、だから清いのです。私どもの欲望が剪定されていく、整えられていくのです。
 私どもの欲望は、もっと力を、もっと富を、才能を、美しさをと際限ないものです。自分だけしかない世界は、そのような自らの欲望を駆り立て、欲望に身を焦がし、自らを焼き尽くすことです。そこでまさに「取り除かれる」という裁きのうちに自らを置くことになるのです。

私どもは、「主イエス・キリストを我が救いと信じる」ことによって、既に清く、キリストに結ばれるという恵みの中に生きることが赦されているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

神の一ムナ」 8月第2主日礼拝 2009年8月9日 
栗山尚典 神学生 
聖書/ヨハネによる福音書 第15章1〜10節
19章<11節>人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。<12節>イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。<13節>そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。<14節>しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。<15節>さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。<16節>最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。<17節>主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』<18節>二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。<19節>主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。<20節>また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。<21節>あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』<22節>主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。<23節>ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』<24節>そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』<25節>僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、<26節>主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。<27節>ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」

「ムナ」のたとえは、主イエスがエルサレムを目指して旅をしており、その途上の町であるエリコを通られた時に集まってきた民衆に語られたものです。主イエスはガリラヤで伝道を開始され、重い皮膚病を患っている人や、手の萎えた人、そのほか、多くの病人を癒し、奇跡の業を行っていました。また主イエスの教えにより、慰められ、生かされている人々も多くいました。ですから、そのような出来事を目の当たりにした人々や、それらの出来事を聞いた人々が主イエスのもとに集まり、行進に連なっていました。人々は、主イエスがエルサレムで王となれば、全ての苦しみや、貧しさから解放され、この世におけるパラダイスが今直ぐ実現すると思っていたのです。彼らは、熱狂的になり、そのように自分たちが望む仕方で「神の国」が現れると思っていたのです。これらの熱狂的になっている民衆や、弟子たちに向かって、主イエスは「ムナ」の譬えを語られたのでした。

物語の内容は、「ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ」(12節)というものです。まず王となるために遠い国へ行かれ、その後に帰ってくると言われたのです。主人は王の位を受ける為に、遠くの国へ旅立つので、僕たちのもとをしばらく去るのです。そして帰ってきた後に、僕たちにそれぞれ手渡しておいた一ムナを元手に、どれだけの成果をあげたかを問うのです。王が帰って来るまでの間、僕たちは主人から託されたお金で商売をするように命令を受けたのです。ただ、14節にありますように、「国民は彼を憎んでいたので、この人を王にいただきたくない」と言って、王となろうとしている立派な家柄の人を憎み、その人が王となることを拒んだのです。国民が自分たちの主人のことを憎んでいる、その中で商売をするように命じられたのですから、弟子たちは大変過酷な状況の中に身を置かれたことと思います。

「ムナ」の譬えは、主イエスが再臨されるまでの間、この世にあって、弟子たちがどのように過ごせばよいのか、という事柄に対して語られたものです。それもこの世の人々が主イエス・キリストを拒み、受け入れない世にあってです。日本においても主イエスがなかなか受け入れられない。そのような中で、主イエスから託された物をどのように用い、そして、どのように過ごせばよいのかということを、主イエス御自身によって語られているのです。キリスト者として、「今この時をどのように生きるか」という問題に対して、譬えの中に登場する「良い僕」に倣いたいと思います。

ルカによる福音書の「ムナ」の譬えは、マタイによる福音書25章にある「タラントンのたとえ」と同じような内容が語られています。しかし、この二つの譬えには大きく違うところがあるのです。マタイによる福音書の「タラントンの譬え」では、僕の能力によってそれぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンが托されたのに対し、今朝の「ムナの譬え」では、皆が等しく一ムナずつ託されたのでした。僕の能力に関係なく一様にそれぞれ一ムナずつ託されたのです。そして15節にありますように、主人は王の位を受けて帰ってくると、お金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけの利益上げたか、僕たちに聞いたのです。
 16、17節によると、良い僕は主人から、ごく小さな事にも忠実であったと言われ、賞賛されたのでした。良い僕は、主人から託された一ムナを元手に利益を上げたのです。僕たちはみな等しく一ムナずつ渡されました。主人から託された一ムナを用いてそれぞれ商売をしたのです。僕の皆が、等しく一ムナを託された、ということに、私たちは注目してみたいと思います。
 「ムナの譬え」を、私たちのこととして置き換えてみますと、私たち一人ひとりに、神から等しく与えられた「一ムナ」とは何でしょうか。一人ひとりの能力や個性といったようなものを決定付ける賜物ではなく、皆に等しく与えられた賜物。神から与えられたものですから、神の恵みと捉えることが出来ます。そうすると、神の恵みは、私たち一人ひとりに与えられた、信仰や聖霊の賜物だと考えることが出来ます。それと共に、「神の福音」、そして「神の御言葉」と言うことが出来ます。私たちは皆それぞれ神の恵みにより、「神の福音」と「神の御言葉」を受けて主イエスのものとされました。ですから、主イエスの僕である私たち一人ひとりに等しく託された「一ムナ」とは、「神の福音」と「神の御言葉」と言えます。

譬えに登場する「良い僕」は、主人から託された一ムナで十ムナ儲けたのです。この「良い僕」の成果に対して、主人が語った言葉は、「ごく小さな事に忠実であった」というものです。ごく小さな事に忠実であるとは何も「福音」「神の御言葉」が小さい事であると言っているのではありません。ただ、託された一ムナによって商売をしなさいという命令に忠実であった、ということなのです。主人の命令に対して忠実であるということなのです。しかし、なぜ「ごく小さな事に忠実であった」ということが、十ムナ或いは、五ムナを儲けるに至ったのでしょうか。
 良い僕は16節で「ご主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました。」と言いました。この文のギリシア語を直訳しますと「あなたの一ムナ十ムナもうけました。」となります。この「あなたの一ムナが」という言葉が重要です。僕の能力によって一ムナが十ムナになった、というのではないのです。「主人の一ムナ」それ自身が十ムナを儲けたというのです。私たちが福音や、神の言葉を語る時においても、私たちの働きによって十ムナを儲けるということではないのです。神の福音、神の御言葉それ自体が力をもっており、恵みの果実をもたらすのです。
 それ自身で力ある「福音」と「御言葉」が私たちに託されたのです。そして、同様に、神から与えられた聖霊の働きによって福音は宣べ伝えられるのです。遣わされた聖霊が働き、私たちを用い、また、私たちを通して伝道されるのです。私たちの働きや能力によって成果をあげるというのではなく、神によってもたらされた「福音」や「御言葉」、それ自体が力あるので、さらなる恵みの果実をもたらすのです。一ムナが五ムナにも十ムナにもなったように、「福音」と「御言葉」はさらなる恵みの連鎖を生み出す力があるのです。このように良い僕は、自分の働きによって十ムナを儲けたのではなく、主人から託された一ムナの力を信じていたからこそ、失敗を恐れず大胆に商売することができたのでした。また、そのような行動の根底には主人に対する信頼があったのです。僕たちは自分たちの主人が国民から憎まれている、そのような状況の中で商売をしたのですから、働きづらかったでしょうし、そのような中でお金を運用すれば、儲けることはおろか、託された一ムナのお金さえ失うかもしれないという不安があったと思います。ですから、失敗をおそれずに命令に忠実であることが出来たということは、主人に対する信頼があったのだと思います。たとえ、失敗したとしても、自分にとって恐ろしい仕打ちをするような方ではないと知っていたのです。主人への信頼という事柄は、後にでてくる「悪い僕」との比較でよりはっきりと、見えてくると思います。

20節によると、悪い僕は主人から託された一ムナを布に包んでしまっておいたのでした。主人から託された一ムナのお金を運用することなく、ただ布に包んでしまったのです。こうして、悪い僕は、銀行に預け利息付で受け取ることの方が、託された一ムナを有効に運用していることを主人によって指摘されたのです。悪い僕の行いは、私たちの、どのような行いに相当するのでしょか。託された一ムナを布に包んでしまっておいた、という事は、自分が託された「神の福音」や「神の御言葉」を故意に覆い隠したということを意味しているのだと思います。なぜ「悪い僕」と呼ばれた人は、このようなことをしてしまったのでしょうか
 21節に「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」という、彼の言葉がその行動の本質を表わしています。そこには主人への信頼は全くないのです。あるのは恐れのみなのです。主人のことを、自分を裁く厳しい方としてしか認識していないのです。悪い僕は主人に対する信頼が全くなかったので、失敗することを恐れ、託された一ムナを運用せずに、ただしまっておいたのでした。実際、主人は厳しさも兼ね備えていると思います。僕が商売に失敗して、そのままにしておく主人はおそらくいないでしょうから。なぜ儲けることが出来なかったのか、と追求し、今後は同じ様な失敗がないように注意するのが自然であります。そのような厳しい面ばかりにしか目がいかない「悪い僕」と呼ばれた者にとって、主人は、ただただ、怖い存在でしかなかったのです。ですから、主人によって命令されたことに忠実であろうとするより、失敗を恐れる気持ちの方が優ってしまったのです。自分の身の安全しか考えなかったのです。結果として、この僕自身が証しした主人像というものに則して裁かれることになってしまったのです。主人のことを「預けない物も取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方である」と決めつけたからです。主人は搾取する者であり、恐ろしい人であると決めつけていたのです。このように、主イエスへの信頼がないと失敗することを恐れ、結局、託された「一ムナ」を覆い隠してしまうことになるのです。

時として、「悪い僕」と同じような状態に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分自身の力の無さや未熟さを気にするあまりに、臆病になり、「神の福音」を語ることを躊躇してしまう。福音そのものの力を本当の意味で信じていないために、福音を語る前から、諦めてしまっているのです。
 神の「福音」や「御言葉」を布に包んでしまっておくということは、「福音」によってもたらされた救いや、御国への希望を覆い隠し、さらには、「神の御言葉」によって生かされる幸いをも仕舞い込んでいるのです。これらを覆い隠すことによって、救われ、希望が与えられた、という実感も当然なくなるのです。「御言葉」によって慰められ、励まされ、生かされるという恵みを受けることが出来なくなっているのです。神から既に恵みを与えてもらっているのですが、こちらの方で覆い隠すことによって、本来受けれるはずの恵みさえ、受けれなくしているのです。こうして「悪い僕」は自分に裁きをもたらすことになったのです。「神の福音」の力、「神の言葉」を拒否することによって、結局は神を拒絶してしまうことになるのです。そうすることによって、自ら裁きを招いてしまい、既に与えられた恵みまで、失ってしまうのです。
 神への信頼がない状態では失敗を恐れることしか考えられなくなったのです。そして、正しい判断すら出来なくなってしまいました。「神の福音」や「御言葉」の力ではなく、自分自身の力により頼んでいたから失敗を恐れ、既に与えられている「一ムナ」さえ失われるのではないかとの恐れにさいなまれたのでした。

裁きや罰をもたらす方として神を捉えるのではなく、神の恵みに目を向けることが大切なのです。主イエス・キリストの十字架による罪の贖い、復活によってもたらされる「永遠の命への希望」という恵みが、私たちには既に与えられているのです。このような恵みを自ら布に包んでしまい込んでしまっていては、与えられた恵みを放棄してしまっているのと同じことではないでしょうか。「良い僕」のように、ごく小さなことに忠実であるとは、神によって既に与えられた恵みの幸いの中で生きることではないでしょうか。恵みの中に生かされていることを日々感じることによって、神への信頼が増し、神の「福音」や「御言葉」の力を確信することができるのです。ですから、危機感や義務感によって伝道をするのではないと思うのです。神の恵みに対する感謝と喜びによって伝道することが大切であるのではないでしょうか。神からの恵みに対する感謝と喜びによって、日々の歩みが伝道的なものとなり、私たちに託された「神の福音」が内から外へと溢れ出るのだと思います。

しかし、恵みにあふれて気分が高揚している時というのは、伝道のために何か大きな事をして、今日の伝道不振に一石を投じようと考えてしまう誘惑に駆られるかもしれません。しかし、主イエスが語られたこの「ムナのたとえ」によれば、私たちにそのような大きな働きが期待されている訳ではないのです。むしろ、「ごく小さな事に忠実であるように」と教えられるのです。ごく小さなことに忠実であるというのは、「神の一ムナ」を用いて商売をしなさいという命令に忠実であることなのです。すなわち、「福音」を宣べ伝えなさいという命令に忠実であることなのです。「神の福音」を宣べ伝えよという主イエスの命令の、どこが小さい事なのか、と思うかもしれません。伝道することは、とても大きな事ではないか、と思うのではないでしょうか。
 自分自身の力による伝道を思うから、大きな事に感じると思うのです。神に信頼せず、神からもたらされた「福音」や「神の言葉」の力に確信がなければ、伝道という事に身構えてしまうのではないでしょうか。事実「神の福音」を宣べ伝えることは容易ではないでしょう。しかし、「神の福音」は、私たちの能力によって宣べ伝えられるのではないのです。福音は神からもたらされたものなので、それ自身力があるのです。私たちの福音ではなく、「神の福音」なのです。聖霊が働かれ、私たちを通して福音が宣べ伝えられるということを忘れてはならないのです。主への信頼があるからこそ、失敗を恐れず「ごく小さな事に忠実である」ことができるのです。
 私たち自身が「福音」を「真の救い」と「真の希望」として受け取り、恵みの内に生かされていることが伝道への確かな歩みとなるのです。神の恵みの内にあることによって、感謝と喜びに満たされ、自然と受け取った「福音」を手渡したいとの思いが与えられるのではないでしょうか。そして、神の「福音」や「御言葉」が私たちを救い、希望を得させ恵みをもたらすものであると確信しているからこそ、失敗をおそれず、誰かに手渡したいと思うのではないでしょうか。神の恵みに打たれているという思いがあるからこそ、あなたにも受けて欲しいと、心の底から思うのです。
 神は私たちに対して、何か大きな事を成し遂げるようには、求めていないのです。ただ、「小さな事に忠実である」ことを求めているのです。私たち一人ひとりが「小さな事に忠実である」ことを求めているのです。「神の福音の力」に信頼して伝道するのです。

私たちには、一人ひとりに託された「神の一ムナ」があります。私たち自身が神の恵みに打たれているからこそ、同じ恵みを受けてもらいたいと心底願うのです。神の一ムナが五ムナ、十ムナ儲けて下さる、という神への信頼のまえでは、自身の能力や働きを省みても、悲嘆にくれることもないのです。「神の一ムナ」それ自身がこれからも恵みの奇跡を積み重ねていくのです。

わたしの弟子」 8月第3主日礼拝 2009年8月16日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章5〜10節
15章<5節>わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。<6節>わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。<7節>あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。<8節>あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。<9節>父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。<10節>わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。「わたしはぶどうの木」とは、1節にも「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と記されているのですが、1節と5節とでは違いがあります。1節は「主イエスと父との関係」を言い表し、5節は「主イエスと弟子との関係、結びつきつき」について示されているのです。「主イエスにつながる」ことによって「枝は実を結ぶ」と言われております。

そこで考えるべきことは「実を結ぶ」とは、どういうことかということです。
 主イエスは続けて「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われます。私どもは、主イエスを離れては「何もできない」というのです。私どもは何でも自分でできると思っていますが、そうではない。「神の力を頂いて」つまり「主イエスと結ばれて」、実を結べるのです。そして8節「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われております。私どもが実を結ぶことによって、父なる神は栄光をお受けになる。私どもは「実を結ぶことによって神の栄光を表すことができる」というのです。このことは大事なことです。
 私どもは、私どもなりに、いろいろな実を結びます。自分の力で実を結ぶということもあるのです。しかしここで言われていることは「主イエスに結ばれて実を結ぶ、そして神の栄光を表す」ということです。「神の力を頂いて」実を結ぶのです。「実を結ぶ」その原動力が何かということが大事です。人の力や人の作った組織の力によって実を結ぶということもあるのです。しかし、実を結ぶ原動力が神からのものでなければ、主イエスはそれを「実を結ぶ」とは言われない。なぜならそれは「神の栄光を表す」ものではなく、人を讃えるものになるからです。神によらなければ神の栄光を表さないのです。主イエスと関わりなく、人が自らの思いで実現すること、それは終りの日に顧みられることのない業なのです。地上に限定された業、地上でのみ覚えられる業です。「地上」つまり、私どもの生きている限り、あるいは地球の存在する限りに留まるということです。ですから、自己賛美、自己栄光の業というものは、地上に限定され、地上と共に滅び行くものであることを知らねばなりません。
 「神の栄光を表す」ことは、天に属する恵みを与えられているということです。神を誉め讃える者として、地上を超えた恵みに生きるように導かれているのです。私どもは地上限定ではなく、「地上を超えた生を生きている」のだということを知らなければなりません。
 自らを讃える業は、ただ地上にだけ意味を持つのであり、死と共に失われる業に過ぎません。しかし「神を讃える業」は、地上を超えて、神に覚えられる業なのです。けれどもこのことは、自らの力で業をなすことを否定するものではありません。ただ、人の力をもってなす業には限界があるのだということを知っていることが大事なのです。それは自らを誇らないためです。誉められることも、誉めることも良い、しかしそれは、ひと時のことに過ぎません。そこに本質はないのです。本質は、神との関係・結びつきの中にこそあるのです。常に誉められるべき存在でなければならないと、錯覚してはなりません。私どもにとっての永遠の誉れは、神との交わりの中にあって「尊厳ある者として、存在が与えられている」ということなのです。

「豊かに実を結ぶ」ことの内容は何でしょうか。「神の力が働いてこそ、実を結ぶ」と示されております。神の力を頂く・受け入れること以外に、成し得ないのです。私どもは、自分が無力な者であることを知る、そこでこそ神の力を知ることができます。自分が無力であることを知らなければ、他からの力を受け入れることはできません。自分の思いがあるうちは、他の力には反発するのです。自分の無力さを認めることができないから、神の言葉を受け入れることができないのです。ですからこそ、人の救いとは難しいことであると思わざるを得ません。
 改めて「無力な者こそが救われる」ことを覚えたいと思います。無力を知る者こそが、神の恵みを「恵みとして」受け入れることができる、その人の内に神の恵みが沁み入って来るのです。そしてそれが、主イエス・キリストの出来事なのです。

「主イエスにつながって」実を結ぶとは、どういうことでしょうか。
 主イエス・キリストは、私どものために「人となり」「十字架に死に」「復活して」「天に昇られ」ました。それが「救いの業」です。ですから「主イエス・キリストは神の御子でありながら人間そのものになってくださった」、それが「主に結ばれる」ということです。主イエス・キリストは、御自身が十字架につくことにより、私ども(人)の罪をご自分のものとして贖ってくださって、私どもの罪の清算をなしてくださいました。ですから「主イエスに結ばれる」ということは、人となって罪を贖い甦ってくださった「主イエスの復活の命に与って」「天に住いを与えられる者とされる」という恵みの出来事なのです。

「主イエスが人となった」、それは「私どもの人生を丸ごと、ご自分のものとしてくださった」ということです。主イエスは人となってくださった故に、私ども(人)の人生そのものを共に生きていてくださるのだということを忘れてはなりません。
 ですから「実を結ぶ生活」とは、「主イエスと共に生きる生活」ということです。主の御言葉を頂き、祈り、礼拝する生活です。「実を結ぶ」とは、特別な業をなすことではありせん。人生そのものなのです。私どもの日常そのものが、御言葉を頂き、祈り、礼拝することが赦されている「神の栄光を表す生活」なのです。それが「実を結ぶ生活」ということです。
 御言葉に聴かず、祈らず、礼拝しない生活、それは自ら滅びへと向かう生活です。「実を結ぶ生活」すなわち「御言葉を頂き、祈り、礼拝する生活」こそが、地上を超えて天上へと続く麗しい生活、営みなのです。

そしてそれは、「主イエス・キリストの救いの恵み」を覚えることによってしか成し得ない生活であることを覚えたいと思います。

ペトロの姑を癒す」 8月の金曜礼拝 2009年8月21日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マタイによる福音書 第8章14〜17節
8章<14節>イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。<15節>イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。<16節>夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。<17節>それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」

14節「イエスはペトロの家に行き」とあります。何気なく読んでしまうところですが、大切なことが示されている言葉です。
 ペトロは、網(漁師の仕事)を捨てて、主イエスに従いました。また、ペトロの兄弟たちも父と母(家)を捨てて主イエスに従ったと記されております。ですから、主イエスの弟子になるとは、仕事や家を捨てることと思われがちです。しかし、そうではありません。この箇所に示されているように、仕事や家を捨てたはずのペトロは家に帰り、なおかつペトロの家は、主イエスがガリラヤでの活動の中心にした場所でもあるのです。ですから、主イエスに従うことは、仕事や家族を捨てることではありません。それどころか、家族も家も主イエスのために捧げられているのです。ペトロは妻を連れて教会を回っていたと他の箇所に記されており、家族共々に主イエスの御業に仕えていたことが分ります。ペトロは救われた者として、家族の救いをも願うのです。一人の人が救われることは家族も救われることであることを覚えたいと思います。それは私どもも同じなのです。

「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」。「御覧になった」ここに「主イエスの眼差し」があります。病にある者を、力を失っている者を見い出してくださる、主イエスの慈しみの眼差しです。主イエスの眼差しは、その人を見い出し、その人の心の底を知っていてくださる眼差しなのです。

15節「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって」、主イエスは、その人の体だけではなく、心の底に触れてくださるのです。主イエスの慈しみで心が満ち溢れて、ペトロのしゅうとめは起き上がります。主イエスが御覧になっているのは、熱の故に飢え渇き、萎えている心です。それ故の癒しの出来事なのです。
 「触れる」とは、主イエスの力が伝達すること、主イエスの力を頂くことです。神の御子であり救い主であられる主イエス・キリストに触れていただくことは、即ち「神の力」が与えられるということです。神の力をいただいて、ペトロのしゅうとめは起き上がりました。
 では、私どもにとって「主イエスに触れる」とは、どういうことでしょうか。主イエスの御言葉に聴くとき、私どもは主イエス・キリストを思い起こし、主の臨在に与るという恵みを与えられるのです。「主イエス・キリストの臨在を感じ、主を思い起こす」とは、「聖霊」の出来事です。聖霊(神の力)が私どもの上に臨むのです。今ここで礼拝する私どもにも、主イエス・キリストの臨在に触れる者として、神の力が働いているのだということを忘れてはなりません。

「しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」と記されます。ペトロのしゅうとめは、主イエスへの感謝と愛を以て、もてなすのです。主イエス・キリストへの感謝、喜びの表れ、それが「奉仕」ということです。自分の成し得ることを以ての主への感謝、喜びの表現です。ですから、奉仕の業とは、どんなに小さな業であっても「主イエス・キリストに対する感謝・喜びを表す業」であるということを覚えたいと思います。
 奉仕の業が喜びを伴わない業であるとすれば、それは主に向かう業ではなく、人に向う、人からの評価を求める業であって、そこに起こることは不平不満です。
 主イエスに向かう奉仕とは、既に救いの恵みに与っている者として、主の恵みに応える感謝の奉仕なのであり、感謝・喜びの奉仕こそが教会における奉仕であることを忘れてはなりません。

16節「人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」と続きます。ここに示されていることは、この世の人々は、主イエスを必要としているということです。この世の様々な力、神から人を遠ざける力、それが「悪霊」です。それ故に、人々は主イエスを、神の力を必要とするのです。
 「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」。求める者に、主イエスが下さったものは「御言葉」でした。「言葉で悪霊を追い出された」のです。主イエス・キリストの御言葉を頂くことで「人々は癒された」ということです。「悪霊よ、退け」と、主が命じてくださったのです。ここに言われている主イエスの御言葉は、神の御子としての力であるからこそ、悪霊をも従わせるのです。
 神の御言葉は「真実」です。真実であるが故に、その言葉は現実のものとなるのです。人の言葉は自分を繕うものであって、それは時には偽りともなる。人の言葉には真実がないので、現実のものとはならないのです。しかし、神の言葉は真実であるが故に、力があるのです。それが、主イエス・キリスト(神)の言葉を頂くということです。そしてそのことによって、人々は神を知るのです。

更に、17節「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」と言われております。主イエスの御言葉による癒しは、イザヤの預言の成就だと言うのです。ここに、主イエス・キリストこそ私どもの病を負ってくださる方、救ってくださる神の御子、救い主であられることが証しされております。主イエス・キリストこそメシア(救い主)であられることを、聖書が証ししているということです。
 そしてまた同時に示されていることは「神の御心は何か」ということです。「神の御心」それは「無力とされている者をこそ、救う」ということです。

人は、本当には力が無い故に、簡単に他者を裁いてしまいます。しかし神は、真実に力ある方であって、真実に裁ける方であるが故に、無力・弱さにある者を憐れみ、救おうとしてくださっているのです。裁くのではなく「救う」、それが神の御心なのだということを覚えたいと思います。

互いに愛し合いなさい」 8月第4主日礼拝 2009年8月23日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章9〜17節
15章<9節>父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。<10節>わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。<11節>これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。<12節>わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。<13節>友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。<14節>わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。<15節>もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。<16節>あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。<17節>互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と、主イエスは弟子たちに、私どもに言ってくださっております。
 「父がわたしを愛された」この言葉で思い起こすことは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたという出来事です。この天(父なる神)からの言葉によって、主イエスは「父なる神の御子であること、神の御心に適う者であること」が分ります。そこで「御心に適う者」とはどのような者なのかということを知らなければなりません。「神の御心」とは何でしょうか。「神の御心」とは「罪人が一人も滅びないで救われる」ということ、それはヨハネによる福音書3章16節にも既に言われていることです。ですから、主イエスは神の御心に適う者として、「神の御心」即ち「罪人の救い」を行う方、成し遂げてくださる方なのだということを忘れてはなりません。この前提があってこその「愛する」ということなのです。「愛する」とは、そこに「神の御心、救い」があるということです。

そうであれば、続けて言われる「わたしの愛にとどまりなさい」とは、どういうことなのでしょうか。「愛する努力をせよ」と言われているのではありません。「神の御心」即ち「神の救いのうちにとどまりなさい」ということです。
 ここでもう一つ重要なことを知らなければなりません。それは「救い」は「主イエス・キリスト以外にない」ということです。主イエス以外のものに愛を求めてはならないのです。何故なら「罪人を救う」という意志は神にしかなく、その救いを成し遂げてくださる方は主イエス・キリスト以外にはないからです。ですから、他に救いを求めても決して救われることはありません、ですからこそ、この「主イエスの愛(救い)のうちにとどまる」ということを改めて覚えたいと思うのです。神以外に、主イエス・キリスト以外に救いはないのです。
 このことを言い換えて、10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と言われております。ここで「掟、戒め」ということを、どう考えるかということが重要です。「戒め」と言うと、他から課せられる行為のように思いがちですが、本来「戒め」とは、律法がそうであったように「神の御意志を表すもの」です。神の御意志は「人の救い」なのですから、戒めを守るということは、本来、行いを強いられるというようなことではありません。
 ここに言われる「掟、戒め」の内容は12節「互いに愛し合いなさい」ということですが、これは11節「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」ということがあってのことです。ここに言う「喜び」とは、罪の自覚を伴った喜びです。「神の愛(救い)のうちにとどまる」とどうなるか、ということです。神の愛(救い)を知ることは「自分の罪を知る」ことです。罪を知り、救い主イエス・キリストへの恩を感じるとき、人は心砕かれ低くなり、喜びを感じるのです。この「心砕かれた者として喜ぶ」ということがなければ「掟、戒め」ということを理解することはできません。救いのうちにとどまるからこそ喜びが満ち溢れるのです。そして「互いに愛し合う」ということにつながるのです。
 それは「主に救われた者として、互いに愛し合う」ということです。共々に「主に救われている」ということ、それがあって初めて「愛し合う」ということが起こるのです。それは、自分の力、努力で為し得ることではありません。主イエスの愛、救いによって心砕かれているからこそ為し得ることです。赦された者として、互いに赦し合えるのです。「赦されている」という「低さ」においてしか、「仕え合う」ということはできないのだということを覚えなければなりません。互いに救われた者として低き思いをもって交わりの中で仕え合う、それは正に「神の救いの恵みによってのみ」為し得ることであることを覚えたいと思います。

続けて、13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。愛することの頂点は何か、それは「友のために自分の命を捨てること」だと言うのです。主イエス・キリストの十字架をまだ知らない弟子たちは、この時このことを理解することはできません。しかし、私どもは知っているのです。主イエスこそがご自身の命を捨てて、弟子たち、私ども罪人のために十字架につかれ、救いを成し遂げてくださったのだということを。「十字架につく」とは「罪の贖い」ということです。罪人としての十字架での処刑=「主イエスの十字架の死」は、私どもの身代わりとしての死です。それが「贖い」それが「救い」です。私どもの罪を贖ってくださった、それが「わたしもあなたがたを愛した」と主イエスが言われることの内容なのです。そしてこれこそが「これ以上に大きな愛はない」即ち「最上の愛」なのです。

14節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。「命じることを行なうならば」と言われていることを、「互い愛し合わなければ」という条件であるかのように誤解してはなりません。最上の愛、最上の友とは、その人のために命を捨てることと言われております。しかしそれは、私どもに課された条件ではないのです。
 知らなければなりません。主イエスが既に「私どものためにご自身の命を捨ててくださっている」ということは、主イエスは既に「私どもの友となってくださっている」ということなのです。
 では何故わざわざ「行うならば、あなたがたはわたしの友である」と、このように言われるのでしょうか。既に私どもの最上の友は主イエス・キリストなのです。しかし不幸なことに、私どもはそのことを知りません。私どもは「主イエス・キリストを信じる」ことによって初めて「主が私のために命を捨て、既に私の友となってくださっている」ことに気付くのです。自分が既に主イエスの友とされていることに気付く、知る、そのことが私どもの本当の幸い、喜びなのだということ、それがこの言葉によって示されていることです。
 自分の力で、自分の愛を尽くして、主イエスの友になろうとすることは間違いです。様々に身勝手な私どものために、十字架の贖いをもって友となってくださった主イエス・キリストを知ることこそが私どもの幸いなのであり、主イエスを知ることこそが、互いに愛し合うことの力となるのです。主イエスが友であってくださることを知って初めて、互いに愛し合うことができるのです。
 ですから「愛し合いなさい」とは、自分の力でせよと言われていることではありません。「救いを知り、自分の罪を知り、心砕かれて喜びに満ち溢れている」ことによって為し得ることなのです。そういう者であって初めて「友を見い出せる」のです。「この人も主イエスに愛されている」ことを知り、共に「主イエス・キリストに赦され、贖われている」ことを知るとき、互いに友となるのです。主イエス・キリストによってだけ、人は友を見い出すことができます。いえ、たとえ見い出せなかったとしても、主イエス・キリストは私どもの最上の友であってくださるのです。

15節「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。主イエスは「友である」ことの宣言をなしてくださっております。まだ何もしていない弟子たちに宣言してくださるのです。主イエスが弟子たちを友としてくださった、それは、このことを聴く私どもをも主が友としてくださっているということです。
 「僕とは呼ばない」とは、どういうことでしょうか。まず覚えるべきことは、主イエスご自身が僕となって私どもに仕えてくださり、友となってくださったということです。主がまず僕となって私どもに仕えてくださった、だから私どもも仕える、友となるのです。
 ですから、ここで言われる「僕」は、主イエスと一つにされた者としての「僕」ということです。一般的に考えられる一方的な奴隷、僕とは違うのです。主と一つとされた者として自由な僕、仕え合う者ということなのです。

キリストが私の内に
      生きておられる」
8月第5主日礼拝 2009年8月30日 
栗山尚典 神学生 
聖書/ガラテヤの信徒への手紙 第2章19〜21節
2章<19節>わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。<20節>生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。<21節>わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

19節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」
 人は律法を全うすることによって、救いは得られない。自分自身の力によっては救いを得ることは出来ないのです。にもかかわらず、律法を守るということにおいて、自己の救いを得ようと努めたのでした。主イエス・キリストの罪の赦しによらなければ、私たちの救いは無いのです。そして、「神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」のです。神との生き生きとした関わりの中に生きるためには、律法からの解放がなければならない、というのです。

ユダヤ人は現代の私たちとは比較にならない程、律法を完全に守ろうとしていました。ですから、大変敬虔な生活をしていたのです。敬虔な生活をおくることによって神の義を得ようとしていました。律法を守ることこそが「義認」に至ると考えたのでした。主によって「あなたがたも完全であるだろう」と言われたことを、人間的な思いによって「完全であるべき」と捉えてしまいました。しかし、誰一人として、主イエス・キリスト以外に律法を全う出来る方はいないのです。それにもかかわらず、律法を守るという自己の業による義を見出し「救いを得させる神の力」を無視してしまったのです。一見良い業のように見える敬虔な行いも、実は人間自身の業によって義を得ようとするものであり、信仰を拒むことになってしまうのです。
 今朝の御言葉によれば、律法に生きるというのは、ただ律法を頑に守って、「こうあるべき」「しなければならない」ということだけを指しているのではないのです。そのような生き方の根本には自己義認があるというのです。自分の力によって義を得ようとする。意識的に自分自身で救いを勝ち取ろうとする人は恐らくいないでしょう。しかし、自分が努力することによって神に繋がり続けようとすることも、結局は人間を第一としてしまっているということなのです。神の救いではなく、自分で自分を救うという人間の救いに他ならないというのです。これこそ律法に生きることである、とパウロは語るのです。人間の業によっては義とされないのです。救いをもたらす力がある方は、神だけなのです。ですから、私たちは神の御子、主イエス・キリストによって、罪赦され、清められ、神のものとされました。全くの恵みによって、神の義認を得たのです。これに対して、自分の業に頼るということは、この神の恵みを無視することなのです。これは、神を第一とするのではなく、人間を第一とすることに他なりません。律法に生きることによっては、救いを得ることは適わなかったのです。そのような私たちのために、神である主イエス・キリストは受肉され、律法の支配の下に、人間としてこの世に来られたのです。3章13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」とありますように、人間を律法の呪いから贖い出して下さったのです。私たちが一人で律法に対して死んだのではなく、主イエスと共に律法に対して死んだということなのです。そして、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(19節)と言うのです。これは、律法に呪われて死んだキリストの死に与るという形で律法に対して死んだ、というのです。私たちが律法に死ぬ、つまり、律法からの解放も主イエスの贖いの業によるものであるというのです。そして、20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と続けるのです。

今朝お読みいただいた御言葉には、キリストは「わたしの内に生きておられる」と記されています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。私は生きている。しかし、私ではない。キリストが私の中に生きているのだ、というのです。この信仰は、パウロにしか分からないものではなく、キリストを信じて洗礼を受けた全ての人に共通している、ということが語られています。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きている」このことは、主を信じて洗礼を受け、主イエスに結ばれ、主のものとされている全てのキリスト者に共通していることです。ガラテヤの信徒への手紙では、「主イエスがわたしたちの中に生きておられる」ということを、「神の義」の中心問題として語っているのです
 「義」とは、神から義とされることで、それは、「神を神とすること」なのです。つまり、神と人間との正しい関係の回復です。そこには平和があり、神との交わりがあります。それが私たちの救いです。律法によるのではなく、主イエス・キリストに対する信仰によって、義と認められるということが語られています。「神に対して生きること」「神との交わりに生きること」が語られているのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって神から義とされ、神によしとされ、神に認められるということです。

その意味で「キリストがわたしの内に生きておられる」ということは、神との平和な関係が主イエスによってある、ということです。それは、なによりもまず、主イエス・キリストが義であられ、その義によって、私たちも義とされることなのです。キリストが私たちの内にあって神を信じて下さる。そして神に対して真実でいて下さる。そのキリスト御自身の信仰、キリストの真実によって私たちは赦され、義とされ、神との交わりの内に置かれたのです。そのキリストを信じるからこそ、神に義とされ、平和の関係に入れられるというのです。

「キリストがわたしの内に生きている」といっても、私たちは肉体において生きています。そこには私たちの意志というものがあり、自分というものがあります。主イエスによって罪が贖われ、救われました。救いは主によってのみもたらされるということを信じています。ただ、信仰生活においては、徹底的に信仰義認を貫くということに困難を覚えます。信仰を自身の力で保とうとする姿勢も実は、自己義認であるというのです。私たちの救いは、私たち自身の内にはないのです。それにも関わらず、主イエスの贖いの業を信じつつも、目に見える形、行える形で救いの確信を求めようとしてしまうのです。
 このガラテヤの信徒への手紙の5章にも、救いの確信を得ようとする出来事が記されています。当時の信徒の中に「割礼を受ける」ことによって、神の民に入れられているという確信を得ようとする人々がいたのです。割礼を身に施すことによって、救いの確かさを得ようとしたのでした。救いの確かさというのは、いつの時代のキリスト者にとっても切実な問題であると思います。自分で自分を救う力はありませんから、私たちを救う力のある主に頼るしかありません。ただ自分の力では、救いをもたらす神への信仰に踏みとどまることも、全うできないのです。私たちが自身の救いのために何か事を起こすことによって「主の救い」に信頼していないということを露にしてしまうのです。主イエスが示されたように、死に至るまで神に従順であるとはなかなか行きません。ですから、神の恵みの配慮の内から出てしまわないようにと、禁欲的な生活をしてみたり、律法の言うところを守ろうと努力するのです。そうすることによって救いの確かさを得ようとします。しかし、それらの全ての根本にあるのものは、人間を第一としているところにあるというのです。自分の業に頼っていることになる。結果として神の恵みを無にしてしまっていることになるのです。無意識的にしろ、そのような行動に走ってしまう現実があります。自分自身の力により頼んでしまう。神よりも自分を第一としてしまうことが、罪の根本であると聖書は言うのです。

神の恵みを無にして救いがあるわけでありません。神の恵みを無にしてしまう私たちのゆえに、主は私たちの内に生きて下さるのです。私たちの内に自分しかなければ、主イエスによる救いの御業に確信を持つことができないのです。つまり、自力では信仰を保ち続けることが出来ないというのです。ですから、主の恵みとして、私たちの内にキリストが内在して下さるのです。

「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。私は生きている。しかし私ではない。キリストが私の内に生きているのだ、というのです。主イエスは真実な方です。それゆえ、神を神とし、真に神を礼拝しています。その主イエス・キリストが私たちの内に生きておられるのです。私たちの内に生きておられる主イエスが、神を神とし、神に礼拝を捧げられるからこそ、私たちもその主に与って、自然と神を礼拝するのです。そこには、人間の思惑はないのです。主イエスが私たちの内にあって、信じて下さり、そして神に対して真実でいてくださるのです。どうしても自分を主体としてしまい、自分自身を中心に据えてしまいますので、自分にしか目が向かなくなってしまうのです。しかし、神に向かい、神のために生きる主イエスが私たちの内に生きておられるからこそ、私たちも神に生きるのです。律法のように、「しなければならない」「すべきだ」といった強制的な力によって方向づけられるのではなく、私たちの内に生きておられる主が神に向かって下さっていることによって、私たちも神に向かっているのです。主イエスの贖いによって、神との交わりの回復を得たのです。

主イエスの贖いの業によって、私たちの罪は赦され、同時に、律法の隷属から解放されたのでした。人は律法に生きることによって義を得ようとしてしまいます。ただ、「完全であるべき」「完全にするべき」といったことによっては、救いは得られなかったのです。完全であろうとすればするほど、自己義認に陥ってしまい、罪の奴隷となってしまうだけでした。しかし、主イエスの贖いの業をとおして、私たちは救われ、律法からも自由の身となったのです。それゆえ、キリスト者は神のために生きる自由を与えられたのでした。キリスト者の自由というのは、何をしてもいいというような勝手気ままなものではありません。神に向かっても向かわなくてもいい、というようなものではないのです。私たちを滅ぼすことも、救うことも御出来になる神が、その自由な意志によって私たちの救いを意志されたように、恵みを選ぶという自由なのです。罪や滅びに向かう自由ではなく、より良いものを選ぶ自由なのです。ですから、私たちキリスト者の自由も、神を選ぶか選ばないかというようなものではなく、罪や、自分自身から解放され、私たちの内に生きる主イエスによって、神を礼拝し、讃美するという恵みを選ぶ自由なのです。律法によっては、神のために生きることは出来なかった。しかし、主イエスの救いに与って、神のために生きるという自由を得たのです。主イエスの御業によって、神の為ために生きるという自由を得たからこそ、肉において生きる力が与えられるというのです。

「わたしが今、肉において生きているのは」(20節)とパウロは語ります。キリストと一体に結ばれ、キリストが内に生きて下さる人にも「肉において」生きる人生はあるのです。しかし、その人生について、こう言われているのです。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(20節)と。それは、ただこの世の肉における人生を肉として、生きているというのではないのです。神の子が私を愛して下さった、このことが、この世において生きる力となるのです。そして、本当の愛は、犠牲があるというのです。神の子、主イエスの愛はそうだというのです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」のです。私を愛し、私のために身を捧げられた神の子、主イエス・キリストに対する信仰が与えられました。それは、主イエスに信頼し、主イエスに希望を寄せることです。私を愛し、私のために身を捧げられた主イエスに対する信仰が、この世にあっても生きる力となるのです。

主イエスの贖いの業を通して私たちは救われました。同時に、神のために生きる自由も与えられました。私たちの中に生きて下さる、主イエスが神を礼拝し讃美して下さっているから、その主イエスに与り、私たちも神のために礼拝をするのです。神のために生きるということをも、主イエスの恵みによるのです。私たちの救いを意志しておられる神は、私たちの内に主イエス・キリストを生かして下さることによって、その救いを確かなものとして下さり、この世の人生において、神との生き生きとした関わりの中に生きる、神の恵みの下に生きることを得させて下さるのです。神との生き生きとした関わりの中で、恵みを受け、生きる力を得るのです。私たちの罪を贖い、神との交わりの恵みをもたらして下さる、「主イエス・キリストがわたしの内に生きておられる」のです。