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3節「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と、主イエスは言われました。 ヨハネによる福音書はもう一つ、「言葉」ということを特徴的に語っております。第1章1節に「初めに言があった」と記し、それは「神の子イエス・キリスト」そのものを示しているのです。「主イエス・キリストこそ、神の御言葉として、救いであり裁きなる方である」ということです。それは、3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、主イエス・キリストは「私どもを救うために」おいでになったのであり、「主イエスを信じるなら」一人も滅びないで救われるということなのです。 なぜ「信じないことが滅び」なのでしょうか。「信じない」ことは「神が無い」ことです。「神との関係を持たない」それが「滅びであり裁き」なのです。「裁き」とは、神の方から関係を断ち切られるということではありません。「自らが神との関係を断っている」のだということを忘れてはなりません。 「あなたがたは既に清くなっている」と「既に清い」と言われております。 私どもは、「主イエス・キリストを我が救いと信じる」ことによって、既に清く、キリストに結ばれるという恵みの中に生きることが赦されているのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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「ムナ」のたとえは、主イエスがエルサレムを目指して旅をしており、その途上の町であるエリコを通られた時に集まってきた民衆に語られたものです。主イエスはガリラヤで伝道を開始され、重い皮膚病を患っている人や、手の萎えた人、そのほか、多くの病人を癒し、奇跡の業を行っていました。また主イエスの教えにより、慰められ、生かされている人々も多くいました。ですから、そのような出来事を目の当たりにした人々や、それらの出来事を聞いた人々が主イエスのもとに集まり、行進に連なっていました。人々は、主イエスがエルサレムで王となれば、全ての苦しみや、貧しさから解放され、この世におけるパラダイスが今直ぐ実現すると思っていたのです。彼らは、熱狂的になり、そのように自分たちが望む仕方で「神の国」が現れると思っていたのです。これらの熱狂的になっている民衆や、弟子たちに向かって、主イエスは「ムナ」の譬えを語られたのでした。 物語の内容は、「ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つ」(12節)というものです。まず王となるために遠い国へ行かれ、その後に帰ってくると言われたのです。主人は王の位を受ける為に、遠くの国へ旅立つので、僕たちのもとをしばらく去るのです。そして帰ってきた後に、僕たちにそれぞれ手渡しておいた一ムナを元手に、どれだけの成果をあげたかを問うのです。王が帰って来るまでの間、僕たちは主人から託されたお金で商売をするように命令を受けたのです。ただ、14節にありますように、「国民は彼を憎んでいたので、この人を王にいただきたくない」と言って、王となろうとしている立派な家柄の人を憎み、その人が王となることを拒んだのです。国民が自分たちの主人のことを憎んでいる、その中で商売をするように命じられたのですから、弟子たちは大変過酷な状況の中に身を置かれたことと思います。 「ムナ」の譬えは、主イエスが再臨されるまでの間、この世にあって、弟子たちがどのように過ごせばよいのか、という事柄に対して語られたものです。それもこの世の人々が主イエス・キリストを拒み、受け入れない世にあってです。日本においても主イエスがなかなか受け入れられない。そのような中で、主イエスから託された物をどのように用い、そして、どのように過ごせばよいのかということを、主イエス御自身によって語られているのです。キリスト者として、「今この時をどのように生きるか」という問題に対して、譬えの中に登場する「良い僕」に倣いたいと思います。 ルカによる福音書の「ムナ」の譬えは、マタイによる福音書25章にある「タラントンのたとえ」と同じような内容が語られています。しかし、この二つの譬えには大きく違うところがあるのです。マタイによる福音書の「タラントンの譬え」では、僕の能力によってそれぞれ五タラントン、二タラントン、一タラントンが托されたのに対し、今朝の「ムナの譬え」では、皆が等しく一ムナずつ託されたのでした。僕の能力に関係なく一様にそれぞれ一ムナずつ託されたのです。そして15節にありますように、主人は王の位を受けて帰ってくると、お金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけの利益上げたか、僕たちに聞いたのです。 譬えに登場する「良い僕」は、主人から託された一ムナで十ムナ儲けたのです。この「良い僕」の成果に対して、主人が語った言葉は、「ごく小さな事に忠実であった」というものです。ごく小さな事に忠実であるとは何も「福音」「神の御言葉」が小さい事であると言っているのではありません。ただ、託された一ムナによって商売をしなさいという命令に忠実であった、ということなのです。主人の命令に対して忠実であるということなのです。しかし、なぜ「ごく小さな事に忠実であった」ということが、十ムナ或いは、五ムナを儲けるに至ったのでしょうか。 20節によると、悪い僕は主人から託された一ムナを布に包んでしまっておいたのでした。主人から託された一ムナのお金を運用することなく、ただ布に包んでしまったのです。こうして、悪い僕は、銀行に預け利息付で受け取ることの方が、託された一ムナを有効に運用していることを主人によって指摘されたのです。悪い僕の行いは、私たちの、どのような行いに相当するのでしょか。託された一ムナを布に包んでしまっておいた、という事は、自分が託された「神の福音」や「神の御言葉」を故意に覆い隠したということを意味しているのだと思います。なぜ「悪い僕」と呼ばれた人は、このようなことをしてしまったのでしょうか 時として、「悪い僕」と同じような状態に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分自身の力の無さや未熟さを気にするあまりに、臆病になり、「神の福音」を語ることを躊躇してしまう。福音そのものの力を本当の意味で信じていないために、福音を語る前から、諦めてしまっているのです。 裁きや罰をもたらす方として神を捉えるのではなく、神の恵みに目を向けることが大切なのです。主イエス・キリストの十字架による罪の贖い、復活によってもたらされる「永遠の命への希望」という恵みが、私たちには既に与えられているのです。このような恵みを自ら布に包んでしまい込んでしまっていては、与えられた恵みを放棄してしまっているのと同じことではないでしょうか。「良い僕」のように、ごく小さなことに忠実であるとは、神によって既に与えられた恵みの幸いの中で生きることではないでしょうか。恵みの中に生かされていることを日々感じることによって、神への信頼が増し、神の「福音」や「御言葉」の力を確信することができるのです。ですから、危機感や義務感によって伝道をするのではないと思うのです。神の恵みに対する感謝と喜びによって伝道することが大切であるのではないでしょうか。神からの恵みに対する感謝と喜びによって、日々の歩みが伝道的なものとなり、私たちに託された「神の福音」が内から外へと溢れ出るのだと思います。 しかし、恵みにあふれて気分が高揚している時というのは、伝道のために何か大きな事をして、今日の伝道不振に一石を投じようと考えてしまう誘惑に駆られるかもしれません。しかし、主イエスが語られたこの「ムナのたとえ」によれば、私たちにそのような大きな働きが期待されている訳ではないのです。むしろ、「ごく小さな事に忠実であるように」と教えられるのです。ごく小さなことに忠実であるというのは、「神の一ムナ」を用いて商売をしなさいという命令に忠実であることなのです。すなわち、「福音」を宣べ伝えなさいという命令に忠実であることなのです。「神の福音」を宣べ伝えよという主イエスの命令の、どこが小さい事なのか、と思うかもしれません。伝道することは、とても大きな事ではないか、と思うのではないでしょうか。 私たちには、一人ひとりに託された「神の一ムナ」があります。私たち自身が神の恵みに打たれているからこそ、同じ恵みを受けてもらいたいと心底願うのです。神の一ムナが五ムナ、十ムナ儲けて下さる、という神への信頼のまえでは、自身の能力や働きを省みても、悲嘆にくれることもないのです。「神の一ムナ」それ自身がこれからも恵みの奇跡を積み重ねていくのです。 |
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5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われます。「わたしはぶどうの木」とは、1節にも「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と記されているのですが、1節と5節とでは違いがあります。1節は「主イエスと父との関係」を言い表し、5節は「主イエスと弟子との関係、結びつきつき」について示されているのです。「主イエスにつながる」ことによって「枝は実を結ぶ」と言われております。 そこで考えるべきことは「実を結ぶ」とは、どういうことかということです。 「豊かに実を結ぶ」ことの内容は何でしょうか。「神の力が働いてこそ、実を結ぶ」と示されております。神の力を頂く・受け入れること以外に、成し得ないのです。私どもは、自分が無力な者であることを知る、そこでこそ神の力を知ることができます。自分が無力であることを知らなければ、他からの力を受け入れることはできません。自分の思いがあるうちは、他の力には反発するのです。自分の無力さを認めることができないから、神の言葉を受け入れることができないのです。ですからこそ、人の救いとは難しいことであると思わざるを得ません。 「主イエスにつながって」実を結ぶとは、どういうことでしょうか。 「主イエスが人となった」、それは「私どもの人生を丸ごと、ご自分のものとしてくださった」ということです。主イエスは人となってくださった故に、私ども(人)の人生そのものを共に生きていてくださるのだということを忘れてはなりません。 そしてそれは、「主イエス・キリストの救いの恵み」を覚えることによってしか成し得ない生活であることを覚えたいと思います。 |
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14節「イエスはペトロの家に行き」とあります。何気なく読んでしまうところですが、大切なことが示されている言葉です。 「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった」。「御覧になった」ここに「主イエスの眼差し」があります。病にある者を、力を失っている者を見い出してくださる、主イエスの慈しみの眼差しです。主イエスの眼差しは、その人を見い出し、その人の心の底を知っていてくださる眼差しなのです。 15節「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がって」、主イエスは、その人の体だけではなく、心の底に触れてくださるのです。主イエスの慈しみで心が満ち溢れて、ペトロのしゅうとめは起き上がります。主イエスが御覧になっているのは、熱の故に飢え渇き、萎えている心です。それ故の癒しの出来事なのです。 「しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」と記されます。ペトロのしゅうとめは、主イエスへの感謝と愛を以て、もてなすのです。主イエス・キリストへの感謝、喜びの表れ、それが「奉仕」ということです。自分の成し得ることを以ての主への感謝、喜びの表現です。ですから、奉仕の業とは、どんなに小さな業であっても「主イエス・キリストに対する感謝・喜びを表す業」であるということを覚えたいと思います。 16節「人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た」と続きます。ここに示されていることは、この世の人々は、主イエスを必要としているということです。この世の様々な力、神から人を遠ざける力、それが「悪霊」です。それ故に、人々は主イエスを、神の力を必要とするのです。 更に、17節「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。』」と言われております。主イエスの御言葉による癒しは、イザヤの預言の成就だと言うのです。ここに、主イエス・キリストこそ私どもの病を負ってくださる方、救ってくださる神の御子、救い主であられることが証しされております。主イエス・キリストこそメシア(救い主)であられることを、聖書が証ししているということです。 人は、本当には力が無い故に、簡単に他者を裁いてしまいます。しかし神は、真実に力ある方であって、真実に裁ける方であるが故に、無力・弱さにある者を憐れみ、救おうとしてくださっているのです。裁くのではなく「救う」、それが神の御心なのだということを覚えたいと思います。 |
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9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と、主イエスは弟子たちに、私どもに言ってくださっております。 そうであれば、続けて言われる「わたしの愛にとどまりなさい」とは、どういうことなのでしょうか。「愛する努力をせよ」と言われているのではありません。「神の御心」即ち「神の救いのうちにとどまりなさい」ということです。 続けて、13節「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われます。愛することの頂点は何か、それは「友のために自分の命を捨てること」だと言うのです。主イエス・キリストの十字架をまだ知らない弟子たちは、この時このことを理解することはできません。しかし、私どもは知っているのです。主イエスこそがご自身の命を捨てて、弟子たち、私ども罪人のために十字架につかれ、救いを成し遂げてくださったのだということを。「十字架につく」とは「罪の贖い」ということです。罪人としての十字架での処刑=「主イエスの十字架の死」は、私どもの身代わりとしての死です。それが「贖い」それが「救い」です。私どもの罪を贖ってくださった、それが「わたしもあなたがたを愛した」と主イエスが言われることの内容なのです。そしてこれこそが「これ以上に大きな愛はない」即ち「最上の愛」なのです。 14節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。「命じることを行なうならば」と言われていることを、「互い愛し合わなければ」という条件であるかのように誤解してはなりません。最上の愛、最上の友とは、その人のために命を捨てることと言われております。しかしそれは、私どもに課された条件ではないのです。 15節「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。主イエスは「友である」ことの宣言をなしてくださっております。まだ何もしていない弟子たちに宣言してくださるのです。主イエスが弟子たちを友としてくださった、それは、このことを聴く私どもをも主が友としてくださっているということです。 |
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19節「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」 ユダヤ人は現代の私たちとは比較にならない程、律法を完全に守ろうとしていました。ですから、大変敬虔な生活をしていたのです。敬虔な生活をおくることによって神の義を得ようとしていました。律法を守ることこそが「義認」に至ると考えたのでした。主によって「あなたがたも完全であるだろう」と言われたことを、人間的な思いによって「完全であるべき」と捉えてしまいました。しかし、誰一人として、主イエス・キリスト以外に律法を全う出来る方はいないのです。それにもかかわらず、律法を守るという自己の業による義を見出し「救いを得させる神の力」を無視してしまったのです。一見良い業のように見える敬虔な行いも、実は人間自身の業によって義を得ようとするものであり、信仰を拒むことになってしまうのです。 今朝お読みいただいた御言葉には、キリストは「わたしの内に生きておられる」と記されています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」とあります。私は生きている。しかし、私ではない。キリストが私の中に生きているのだ、というのです。この信仰は、パウロにしか分からないものではなく、キリストを信じて洗礼を受けた全ての人に共通している、ということが語られています。「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きている」このことは、主を信じて洗礼を受け、主イエスに結ばれ、主のものとされている全てのキリスト者に共通していることです。ガラテヤの信徒への手紙では、「主イエスがわたしたちの中に生きておられる」ということを、「神の義」の中心問題として語っているのです その意味で「キリストがわたしの内に生きておられる」ということは、神との平和な関係が主イエスによってある、ということです。それは、なによりもまず、主イエス・キリストが義であられ、その義によって、私たちも義とされることなのです。キリストが私たちの内にあって神を信じて下さる。そして神に対して真実でいて下さる。そのキリスト御自身の信仰、キリストの真実によって私たちは赦され、義とされ、神との交わりの内に置かれたのです。そのキリストを信じるからこそ、神に義とされ、平和の関係に入れられるというのです。 「キリストがわたしの内に生きている」といっても、私たちは肉体において生きています。そこには私たちの意志というものがあり、自分というものがあります。主イエスによって罪が贖われ、救われました。救いは主によってのみもたらされるということを信じています。ただ、信仰生活においては、徹底的に信仰義認を貫くということに困難を覚えます。信仰を自身の力で保とうとする姿勢も実は、自己義認であるというのです。私たちの救いは、私たち自身の内にはないのです。それにも関わらず、主イエスの贖いの業を信じつつも、目に見える形、行える形で救いの確信を求めようとしてしまうのです。 神の恵みを無にして救いがあるわけでありません。神の恵みを無にしてしまう私たちのゆえに、主は私たちの内に生きて下さるのです。私たちの内に自分しかなければ、主イエスによる救いの御業に確信を持つことができないのです。つまり、自力では信仰を保ち続けることが出来ないというのです。ですから、主の恵みとして、私たちの内にキリストが内在して下さるのです。 「生きているのはもはや、わたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。私は生きている。しかし私ではない。キリストが私の内に生きているのだ、というのです。主イエスは真実な方です。それゆえ、神を神とし、真に神を礼拝しています。その主イエス・キリストが私たちの内に生きておられるのです。私たちの内に生きておられる主イエスが、神を神とし、神に礼拝を捧げられるからこそ、私たちもその主に与って、自然と神を礼拝するのです。そこには、人間の思惑はないのです。主イエスが私たちの内にあって、信じて下さり、そして神に対して真実でいてくださるのです。どうしても自分を主体としてしまい、自分自身を中心に据えてしまいますので、自分にしか目が向かなくなってしまうのです。しかし、神に向かい、神のために生きる主イエスが私たちの内に生きておられるからこそ、私たちも神に生きるのです。律法のように、「しなければならない」「すべきだ」といった強制的な力によって方向づけられるのではなく、私たちの内に生きておられる主が神に向かって下さっていることによって、私たちも神に向かっているのです。主イエスの贖いによって、神との交わりの回復を得たのです。 主イエスの贖いの業によって、私たちの罪は赦され、同時に、律法の隷属から解放されたのでした。人は律法に生きることによって義を得ようとしてしまいます。ただ、「完全であるべき」「完全にするべき」といったことによっては、救いは得られなかったのです。完全であろうとすればするほど、自己義認に陥ってしまい、罪の奴隷となってしまうだけでした。しかし、主イエスの贖いの業をとおして、私たちは救われ、律法からも自由の身となったのです。それゆえ、キリスト者は神のために生きる自由を与えられたのでした。キリスト者の自由というのは、何をしてもいいというような勝手気ままなものではありません。神に向かっても向かわなくてもいい、というようなものではないのです。私たちを滅ぼすことも、救うことも御出来になる神が、その自由な意志によって私たちの救いを意志されたように、恵みを選ぶという自由なのです。罪や滅びに向かう自由ではなく、より良いものを選ぶ自由なのです。ですから、私たちキリスト者の自由も、神を選ぶか選ばないかというようなものではなく、罪や、自分自身から解放され、私たちの内に生きる主イエスによって、神を礼拝し、讃美するという恵みを選ぶ自由なのです。律法によっては、神のために生きることは出来なかった。しかし、主イエスの救いに与って、神のために生きるという自由を得たのです。主イエスの御業によって、神の為ために生きるという自由を得たからこそ、肉において生きる力が与えられるというのです。 「わたしが今、肉において生きているのは」(20節)とパウロは語ります。キリストと一体に結ばれ、キリストが内に生きて下さる人にも「肉において」生きる人生はあるのです。しかし、その人生について、こう言われているのです。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(20節)と。それは、ただこの世の肉における人生を肉として、生きているというのではないのです。神の子が私を愛して下さった、このことが、この世において生きる力となるのです。そして、本当の愛は、犠牲があるというのです。神の子、主イエスの愛はそうだというのです。「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた」のです。私を愛し、私のために身を捧げられた神の子、主イエス・キリストに対する信仰が与えられました。それは、主イエスに信頼し、主イエスに希望を寄せることです。私を愛し、私のために身を捧げられた主イエスに対する信仰が、この世にあっても生きる力となるのです。 主イエスの贖いの業を通して私たちは救われました。同時に、神のために生きる自由も与えられました。私たちの中に生きて下さる、主イエスが神を礼拝し讃美して下さっているから、その主イエスに与り、私たちも神のために礼拝をするのです。神のために生きるということをも、主イエスの恵みによるのです。私たちの救いを意志しておられる神は、私たちの内に主イエス・キリストを生かして下さることによって、その救いを確かなものとして下さり、この世の人生において、神との生き生きとした関わりの中に生きる、神の恵みの下に生きることを得させて下さるのです。神との生き生きとした関わりの中で、恵みを受け、生きる力を得るのです。私たちの罪を贖い、神との交わりの恵みをもたらして下さる、「主イエス・キリストがわたしの内に生きておられる」のです。 |
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