聖書のみことば/2009.7
2009年7月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主の平和が与えられる」 7月第1主日礼拝 2009年7月5日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章25〜31節
14章<25節>わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。<26節>しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。<27節>わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。< 28節>『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。< 29節>事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。<30節>もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。<31節>わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

十字架を前にした主イエスの、弟子たちに対する決別の説教が続きます。

25節、主イエスは弟子たちに、主イエスのなさったこと、そこに神の権威・力があったことを思い起こさせようとしておられます。しかし弟子たちは、主イエスの御業を目の当たりにしていたにも拘らず、見たことによっては、主イエスを「救い主」と信じることはできませんでした。ですから26節、主イエスは「弁護者」すなわち「聖霊」を遣わすと言ってくださるのです。「聖霊」を受けることによって、見たことが確かに神の御業であったと分る時が来る、主イエスの出来事を思い起こすことができる、と言ってくださっております。

ここに「主イエスを信じる」とはどういうことかということが私どもに示されております。「主イエスを信じる」とは「聖霊を受ける」ことなのです。聖霊を受けることによって初めて「主イエスは神の子、救い主」と分るのです。
 そして「弁護者」すなわち「聖霊」は、父なる神が遣わしてくださると言われます。しかしその時に、主イエスは「父が『わたしの名によって』遣わされる」と言うのです。このことは「三位一体の神」を表す事柄です。

ここで「三位一体の神」について、お話ししたいと思います。
 「三位一体の神」とは「父なる神、子なる神、聖霊なる神」を表します。
 「子なる神」と言うとき、人間は神の被造物(つくられた者)ですが、御子イエス・キリストは神から生まれた方であって被造物ではないので、神から生まれた方として、神と本質を同じくする「神なる方」なのです。
 「聖霊」は「父から発出する」と表現されます。しかしここでは「主イエスの名によって派遣する」と記されております。つまり「父なる神と子なる神から発出する」と言われているのです。ここに、西方教会と東方教会の聖霊に対する考え方の違いがあります。東方教会は「父から発出」、西方教会は「父と子から発出」という教理です。
 因に、ギリシャ正教会やロシア正教会は東方教会。カトリックとプロテスタントは西方教会に属します。では、カトリックとプロテスタントの根本の違いはというと、カトリックは「聖書と教会(伝統)」に、プロテスタントは「聖書のみ」に権威を置くということです。このように同じ三位一体を信じていても違いがあることを覚えたいと思います。しかし、三位一体を信じない教理は異端です。
 「三位一体」の教理の意味すること、それは「神が生ける神である」ことを示しているということです。本質を同じくする神として「神は愛である」(ヨハネの手紙一 4章)と言われます。「愛」とは「交わり」であって、父・子・聖霊の三位一体の神は、御自分の内に愛(交わり)を完結しておられる方です。つまり、もはや「愛する対象を必要としない方」なのです。もし、三位一体を認めずに「神は愛である」と言うと、神は愛する対象を必要とし、被造物を神の必要のために造ったことになり、それでは神は神でいられなくなってしまうのです。なぜなら、欠けを補うには不完全な人間との愛の関係では、愛を完結できないからです。
 ですから、私どもが覚えておくべきことは「私どもは、神の交わりの中にあるのではない」ということです。三位一体の神としてご自分の内に愛を完結しておられる、その神の交わりの中に「入れていただくこと」、それが私どもにとっての救いなのです。神は完結しておられる、にも拘らず敢えてご自分の外に出て被造物をつくり、交わりを与えてくださっているのです。私どもは「神の交わりに入れていただいている」存在なのだということを覚えたいと思います。
 「罪人の救い」それは、父なる神の御心です。その父なる神の御心に従って、主イエス・キリストが十字架で罪を贖ってくださり、主イエスの名によって遣わされた聖霊の働きによって、私どもは「救われていることを知る」のです。救いのご意志も三位一体です。

もう一つ覚えておきたいことは、「聖霊を受ける」とはどういうことかということです。「聖霊」は「主イエスの名によって」と言われるように、神の霊ではなく「主イエス・キリストの霊」なのです。主イエス・キリストは私どもの罪の贖いとなってくださった方、その「主イエスの救いの御業を受け継ぐ霊」です。ですから「聖霊を受ける」ということは、「主イエス・キリストの御業を委託される」ということです。聖霊が臨むところ、すなわち「教会」は、聖霊をいただいて主イエス・キリストの御業を委託され、主イエス・キリストを証し、宣べ伝えるのです。
 教会の本質は「主イエス・キリストを宣べ伝えること」です。そして「罪の赦しと永遠の命の宣言」をなすことを赦されております。その中心は「洗礼(罪の赦しの宣言)」であり「聖餐(主の救いを思い起こすこと)」です。それが教会の務めなのであり、この世でただ教会だけに赦され、託されている業なのです。

26節後半「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と続きます。つまり、ただ教えられても、思い起こせるわけではないのです。思い起こすためには「聖霊」の働きを必要とするのです。「思い起こす=想起」、それは「主イエス・キリストを思い起こす」ことです。
 ですから「思い起こす、想起する」ことは「信仰」です。既においでくださった「救い主イエス・キリスト」を思い起こす・想起することが信仰なのであり、それは聖霊の出来事なのです。私どもが聖書の御言葉を思い起こす時、そこに聖霊が働いているのです。聖霊は想起させる力です。実際に主イエスを見たからと言って信じることはできないのです。ただ、聖霊の働きによってのみ、信仰が与えられるのだということを覚えたいと思います。

27節「わたしの平和を与える」と言われます。さらに、その平和は「世が与えるような平和ではない」というのです。つまり、主イエス・キリストの平和は、この世にある平和ではないということです。
 「キリストの平和」とは「キリストと一つ」ということです。この世の平和は妥協であって、妥協によっては決して「一つ・一体」となることは有り得ないのです。しかし本当の平和は「一つである」ということです。ですから、「一つ」という考え方を失ってしまっている今の時代に平和はなく、それぞれは違う、だから妥協以外にないのです。

本当の平和は「一つとなる」ところにしかありません。そして、本当の平和は「キリストと一つ」というところにしかないのです。この罪の身がキリストによって赦され、キリストと結び合わされ、「キリストが私どもと一つなるものとなってくださった」、そこに真実の平安・平和があるのです。

対話には妥協はあっても平和はありません。妥協点を見い出すことは出来ても、一致は出来ないのです。ですから、対話は福音ではないことを覚えなければなりません。自分自身を含めて、人の思いは変えられないのです。ですから、私どもに出来ることは、せいぜい妥協点を見い出すことです。

しかし主イエス・キリストは、そんな私どもに対して「平和を与える」と言ってくださっております。何と幸いなことでしょうか。主イエス・キリストは十字架により、私どもの罪の身において「一つ」となり、罪を贖ってくださいました。罪を全く清算するまでに、私どもの罪を負ってくださる、そんな方が他にいるでしょうか。主イエス・キリストをおいて他にはないことを忘れてはなりません。

主イエス・キリストを信じ、キリストと結び合わされる、ただそこでこそ真の「平和」が与えられるのです。

前もって話しておく」 7月第2主日礼拝 2009年7月12日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章25〜31節
14章<25節>わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。<26節>しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。<27節>わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。< 28節>『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。< 29節>事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。<30節>もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。<31節>わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

まず「平和」について、先週を補って語りたいと思います。

主イエスは「平和」について、「わたしの平和」と率直に言われます。それは「主イエスによる救いがあっての平和」ということです。「主イエスによる救い」とは、まさしく「主イエスの十字架の死による罪の贖い」です。
 「主イエスの平和」は「この世の平和」とは違うのです。地上だけでは終わらない、地上を超えた平和、それは「終末の救いの先取りとしての平和」です。
 もし平和が地上(この世)に限定されてしまえば、その平和は死によって終わってしまいます。しかし、地上を超えた平和(主イエスの救いによる平和)は、何よりも「終末に完成をみる救い、平和」なのです。それは、人の努力によって保てるというような平和ではありません。人間が作り出すことのできない平和なのです。
 幸いなことに私どもは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、地上を超えた平和、すなわち「神との間に安らぎが与えられて」おります。それはどのようなものなのでしょうか。ヘブライ語で「平和」を「シャローム」と言います。それは「神の恵みに満たされる平和」という意味です。しかし、この箇所での「平和」は「シャローム」ではなく、「主イエス・キリストによる救いの恵みに与っている平和」という言葉が用いられております。「満たされて他を受容する平和」なのではなく、「罪赦されてある、神との平和」なのです。それが、地上を超えて与えられる主イエス・キリストの恵み(救い)の出来事なのです。

27節「心を騒がせるな。おびえるな」。これから心騒がせ、おびえる出来事が起こるということです。

28節「わたしは去って行く」。主イエスが去って行く、だから心騒ぎ、おびえるのです。それは「主イエス・キリストの十字架」を意味しております。それは単なる別れではなく、尋常ではない「十字架」という別れです。
 弟子たちは十字架に耐えられない者でした。どこまでも主イエスに従うという思いとは裏腹に主イエスを見捨てて逃げ去ってしまう、自らの裏切りの故に深く傷む者でした。しかし、その「十字架」こそが、弟子たちの罪の贖い・赦しだったのです。罪の極みで、救いが与えられるのです。
 「心を騒がせるな。おびえるな」と言われた時、弟子たちはまだ十字架を知らず、何も理解しておりません。この先、自分たちが主イエスを裏切ることも知らないのです。にも拘らず主イエスは、裏切る者でしかない弟子たちの「罪を贖い、赦し」、主の弟子として既に扱ってくださっているのです。ここに恵みがあります。主の十字架の恵みを知らないのに、「恵みに与る者として」既に主の弟子として覚えていてくださる。このことは、私どもにとっても恵み深いこととして覚えたいと思います。なぜなら、私どもも十字架の恵み深さを十分に知り得ない者だからです。そして、時には裏切る者でさえあるのです。しかしそのような私どもを「十字架の恵みに与る者として」弟子としてくださる。それが、主イエスの私どもに向き合ってくださる姿であることを覚えたいと思います。ですから「救いは主のもの」です。私どもは他者の救いについてあれこれ思いますが、人の目には疑いがあっても、主の目には「十字架の恵みの対象」なのです。

実は「不安でいっぱい、平安など無い」それが私どもの姿です。しかし「主イエス・キリストの救いの内に見い出されている」それが人にとっての「平安」なのです。厳しい現実に狼狽し打ちひしがれている、しかしその中で「主イエスの平和」によって、尚「平安をいただいて生きる」ことができるのです。私どもの内側に平安があるのではありません。「主イエスにある平和が『与えられている』」そのことに気付くとき、様々な囚われから解き放たれるのです。そしてそれは、自らの感性によってではなく、「聖霊をいただく」ことによってこその気付きであることを覚えたいと思います。

28節後半「あなたがたのところへ戻って来る」と主イエスは言われます。「戻って来る」には2つの意味があります。一つは十字架の後「復活の主イエスが臨んでくださる」ということです。しかしここでの「戻って来る」は、「十字架・復活」より更に進んで、主イエスは「昇天され、神のもとに帰られる」ことによって「主イエスを信じる者に、天における永遠の命の約束を与える霊」として戻って来るという意味です。それが「わたしの名による聖霊を送る」ということです。「わたしの名による聖霊」とは「主イエス・キリストの霊」であり、主イエスは「天に帰られ救いの完成を成し遂げた方」として戻って来られるのです。そして聖霊をいただく者は、「永遠の命の約束」すなわち「天にあって、神との尽きない交わりの中に入れられるという約束」に与るのです。

「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」と続きます。「主イエスが天に帰られる」それは救いの完成そのものですから、本来「喜び」なのです。ですから「喜ぶはず」、しかしそれは「愛する」ことなくしては有り得ない、と言われております。「愛する」とは、どういうことなのでしょうか。「愛する」とは「主イエス・キリストに従うこと」です。そして「主イエス・キリストに従う」とは「主イエスをキリスト(救い主)として表すこと」です。「愛する」ことは、愛の行いを実践することなのではありません。「愛する」ことは「信じる」ことなのです。
 しかし「信じる」ことには、大切な前提があるのです。それは「主イエスが私ども(弟子たち)を愛してくださった」ということです。神の御子でありながら「人」と同じ者にまでなってくださり、十字架の死によって罪人の罪を贖ってくださった、それゆえ「信じる」のです。「信じる」ことは「救いの恵みの力をいただいて」こそ、成し得ることです。「恵みを恵みとして感じることのできる聖霊」をいただいてこそ、です。「主イエスに従う」とは、まさしく「主イエス・キリストの救いの恵みに対する応答」なのです。ですから「愛する」ことは「救いの喜び」へと繋がっていくのです。

しかし、まだ十字架の出来事も起こっていないこの時に、弟子たちに対して「愛するなら喜ぶ」などと言われても、彼らに理解できるはずはありません。主イエスは、分らせようと思って語っておられるのではないのです。訳も分からない者であっても救われる、ということです。人の理解によって救われるのではないのです。人がどのような状態であったとしても、ただ恵みによって、「救いの喜び」が「アーメンの言葉」が与えられることを約束していてくださるのです。

「父はわたしよりも偉大な方だからである」。父なる神は「罪人の救いをなさる方」として何にも優って偉大な方なのです。「罪人の救い」それは本来不可能なことです。罪を完全に清算することなど、誰にも出来ないのです。しかし、神は不可能を可能とする方、偉大な方です。「罪人の救い」にこそ、神の偉大さが現されているのです。

29節「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」。敢えて「前もって話しておく」のは何故なのでしょうか。「後になって分る」からです。今話しても分らないのだから語らない、とは言われない。主イエスは既に、弟子たちが「信じる者となる」ことを知っていてくださるのです。信仰に至ることを知っておられる。「信じる者として見い出してくださっている」ということです。ですから前もって話してくださるのです。何と素晴らしいことでしょうか。聖霊が臨み、彼らは必ず「信じる者になる」と言ってくださっているのです。
 「聖霊を受けて信じる者になる」とはどういうことでしょうか。それは「主イエスの御言葉を思い起こす」ということです。自分の力で思い起こすのではありません。聖霊が臨むことによって「思い起こす力が与えられる」のです。「聖霊」は「主イエスの御言葉を思い起こさせる力」、それが聖霊の働きの恵みであることを覚えたいと思います。

30節「世の支配者が来る」。「支配者が来る」それは、主イエスが「十字架に引かれていく」ことです。

31節、しかし支配者は知りません。主イエスを十字架にかけることが「神の御計画、御心」であることを。彼らは自分の思いでやっているつもりですが、しかし、彼らは「神の救いの御計画」のために用いられる道具に過ぎないのです。神は、悪しき思いすら用いておられるのです。
 全ては「神の御心のみが成る」のだということを覚えたいと思います。

祝福」 7月第3主日礼拝 2009年7月19日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第27章、マタイによる福音書 第7章7〜12節
創世記27章<30節>イサクがヤコブを祝福し終えて、ヤコブが父イサクの前から立ち去るとすぐ、兄エサウが狩りから帰って来た。<31節>彼もおいしい料理を作り、父のところへ持って来て言った。「わたしのお父さん。起きて、息子の獲物を食べてください。そして、あなた自身の祝福をわたしに与えてください。」<32節>父イサクが、「お前は誰なのか」と聞くと、「わたしです。あなたの息子、長男のエサウです」と答えが返ってきた。<33節>イサクは激しく体を震わせて言った。「では、あれは、一体誰だったのだ。さっき獲物を取ってわたしのところに持って来たのは。実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」<34節>エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」<35節>イサクは言った。「お前の弟が来て策略を使い、お前の祝福を奪ってしまった。」<36節>エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」エサウは続けて言った。「お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」<37節>イサクはエサウに答えた。「既にわたしは、彼をお前の主人とし、親族をすべて彼の僕とし、穀物もぶどう酒も彼のものにしてしまった。わたしの子よ。今となっては、お前のために何をしてやれようか。」<38節>エサウは父に叫んだ。「わたしのお父さん。祝福はたった一つしかないのですか。わたしも、このわたしも祝福してください、わたしのお父さん。」エサウは声をあげて泣いた。<39節>父イサクは言った。「ああ/地の産み出す豊かなものから遠く離れた所/この後お前はそこに住む/天の露からも遠く隔てられて。<40節>お前は剣に頼って生きていく。しかしお前は弟に仕える。いつの日にかお前は反抗を企て/自分の首から軛を振り落とす。」

マタイによる福音書7章<8節>「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。<8節>だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。<9節>あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。<10節>魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。<11節>このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。<12節>だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

今年は、旧約聖書の「族長物語」から聴いております。

イサクは2代目の族長、リーダーです。イサクはアブラハムとサラの年老いてからの子どもで、名前には「笑い」という意味があります。大変長生きした人でした。今日は、イサクの家庭の問題を通して、神の御心を頂きたいと思います。

イサクは子どもの頃、父アブラハムの手によって屠られるところを助けられる(創世記22章)など数奇な経験をした人だけに、創世記を読む人々にとっては彼のその後の人生に対する期待もあるわけですが、しかし、聖書の中で、イサクについては僅かなことしか触れられておらず、あまり重要視されていないのです。イサクは軽く扱われている、注目に価することをしなかったということです。挙げ句、今日の箇所のように、老年になって醜態をさらす結果になっております。

創世記27章は、イサクの家族のごたごた、イサクの醜態がずらずらと記されている箇所です。リベカはアブラハムが親戚の中から選んで連れて来た嫁でした。イサクと妻リベカとの夫婦関係は、中世における一夫一婦性の原形になったと言われております。リベカは、創世記25章21節(口語訳)に「イサクは妻が子を産まなかったので…」と記されるように、自らの意志で子供を生まないという自己主張を持つような女性でした。しかしイサクは族長として子どもが欲しいと願い、エサウとヤコブという双子が与えられるのです。
 兄エサウは毛深い野人、狩りをするアウトドア派でイサクのお気に入り。弟ヤコブは肌はすべやかでインドア派、内気で母親にべったり。家族は4人でありながら、イサクとエサウ、リベカとヤコブという2つのグループになり、家庭が真っ二つに分かれておりました。イサクは年老い衰えて、エサウに族長を継がせようといたします。この族長の引き渡しについて、イサクはリベカに何の相談もしておりません。ヤコブに後を継がせたいリベカは、イサクの思いを聞き知って心中穏やかでなく、ヤコブをエサウになりすまさせる策略を立てるのです。ヤコブは狡猾に動き回り、イサクはまんまと騙されて、ヤコブを祝福してしまいます。結果として、家庭は崩壊してしまうのです。このヤコブという人物については、この後、聖書の中でヤコブ物語として多くが語られます。

33節「イサクは激しく体を震わせて言った」と記されております。「激しく体を震わせたイサク」ここが、この聖書の箇所の語りたいところなのであります。
 この時、イサクはリベカの策略によってヤコブに騙されたことを認識した、だから激しく体を震わせました。双子の誕生の時から、神の御心は既に「弟に兄が仕える」、つまりヤコブが3代目と決まっておりました(25章33節)。しかしイサクは、その神の御心に反抗したい思いを持ち、神に従おうとしておりませんでした。強い妻に敷かれていた自分、族長としての名誉回復を願っていたかもしれません。神の御心が何であったとしても、自分の思いでエサウを跡継ぎにしたかったのでしょう。
 しかし、結果は「完全に自分の負け」でした。やられた、ということです。リベカやヤコブに負けたということではありません。それよりも、やはり「神さまには勝てない」という思い、それによって「震えた」のです。神さまに屈せざるを得なくなったことによる震えなのです。ここで、イサクは本当に神さまに出会っているのです。
 「震える」ということの深い意味がここにあると思います。人は、神さまと出会った時、震えるのです。神の前に自分をさらけ出し、自分は神のものであることを知り、震えるのです。
 聖書は、この「震え」を幾つもの箇所で伝えております。弟子ペトロは、主イエスを3度知らないと否認してしまった時、激しく泣きました。それも「震え」です。また、ペトロが主イエスに「自分から離れてください」と言う場面がありますが、これも、主イエスと出会うことによって、本当に自分が弱い者として神の前に屈服する「震え」です。徴税人ザアカイも主イエスと出会って生き方が変えられました。使徒パウロは復活の主イエスと出会った時、3日間目が見えなくなる、自分が見えなくなる、これも「震え」なのです。この「イサクが震えた」ということが、今日の箇所の中心であると言えるのです。

私どもが主イエス・キリストに出会うということ、それは神に自分を明け渡し、神の支配のうちに、神のものとされたことを知って「震える」という出来事です。神と出会うとき、私どもは震えるのです。しかし時が経つにつれて、その「震え」は薄らいでしまいます。もう一度、神に出会った時の「震え」を思い起こす者でありたいと思います。

3代目になるヤコブに少し注目してみましょう。
 祖父アブラハムは、暗中模索の中、神に従順に従った人でした。父イサクは愚かで弱く、偉大な父の陰におかれる存在でしたが、死ぬ前に真実に神に出会い、震えました。兄エサウは悔しい思いの中にありますが、しかし、神の御心を動かすことは出来ないのです。
 では、ヤコブはどうでしょうか。ヤコブは、兄エサウのかかとを掴んで生まれてきたと記されております。「かかと」は「ヤコブ」であり、別には「押しのける」という意味があります。ヤコブは人を押しのけ、執拗に神の祝福を得ようとしました。ヤコブの信仰はアブラハムとは違って積極的ですが、その結果、逃亡者として20年を過ごすのです。しかし、そうであったとしても、神の祝福を得たいという自分の思いは強いのです。ヤボクの渡しでの神との格闘は、その思いの強さの表れでしょう。
 そして、神さまは、御自分の御心を必ずなされる方です。

先程、マタイによる福音書7章を読みました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と記されております。「求め」とは何でしょうか。「神の祝福を頂きたい、得たい。神のものになることを求める」それが、私どもの「求め」なのです。ヤコブの信仰は、このことを私どもに示しております。

まことのぶどうの木」 7月第4主日礼拝 2009年7月26日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第15章1〜10節
15章<1節>「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。<2節>わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。<3節>わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。<4節>わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。<5節>わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。<6節>わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。<7節>あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。<8節>あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。<9節>父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。<10節>わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

14章をもって、十字架を前にした主イエスの決別説教は終わりました。15章からは弟子たちに対する教えです。

1節、まず主イエスはご自身について「わたしはまことのぶどうの木」と言われます。「まこと」とは、どういう意味でしょうか。「まことでない」ものがあるということです。では「まことでない」ものとは何でしょうか。
 旧約聖書では、「ぶどう」と言えばイザヤ書5章に記されるように「イスラエル」に喩えられるのです。ぶどうはイスラエルにとって麗しく豊かなものであり、本来イスラエルは神の民として、麗しく豊かな実を結ぶべき者でした。しかし、イスラエルは神に背を向け「野生の酸いぶどう」になったと記されております。それが「まことでない」イスラエルということです。

では「麗しい実を結ぶはずのイスラエルなるぶどうの木」とは、どのようなものなのでしょうか。例えば「出エジプト」は、エジプトで奴隷だった雑多な人々の苦しみ呻きの声を聴かれた神が、その人々を「神を礼拝する者とする」ために導き出してくださったという出来事でした。
 ですから「イスラエル」というのは一つの民族としてイスラエルなのではなく、「神を礼拝とする民としてイスラエル」なのです。「奴隷だった者を神の民としてくださった」、その「神の恵み表す民」として「麗しい者イスラエル」なのです。

ですから、「まことのぶどうの木」とは「真実に神の恵みを表す者」ということです。
 では「神の恵み」とは何でしょうか。ここで主イエスは「メシア(救い主)」であるご自身のことを語っておられます。主イエス・キリストは、十字架によって罪人の罪を贖い、復活・昇天により信じる者に永遠の命の約束を与えてくださる「真実の救い主」として、神の救いの恵みを現される方です。ですから、主イエス・キリストこそ「神の恵みを現す方」として「まことのぶどうの木」なのです。

またもう一つ「主イエスの十字架による罪の贖い、復活・昇天による永遠の命の約束」が示すことは、主イエスを信じる者は「神のものとされる」という「恵み」です。それは、ただ単に天に繋がったということではなく、主イエスに贖われた者として「天に属する者、神のもの、キリストのもの」とされるという「恵み」なのです。
 人は、自分がどこに属しているか分らないと不安なものです。ですから、人にとって帰属性ということは力でありアイデンティティであるとも言えます。しかし、今の社会は帰属意識を失って自分の存在感が薄くなっている社会で、例えば、会社も終身雇用でなくなり、人々は皆、明日には帰属する場所を失うかも知れないという不安の中に置かれております。
 しかし幸いなことにキリスト者は、そのように移ろいゆく地上に属するのではなく、「神のもの」として天に帰るべき場所を持っている、ですから地上での生がどんなに困難であったとしても、天への希望をもって生きるという恵みが与えられているのです。ですから、「あなたは何に属しているか」ということは大変重要なことです。ただ主イエス・キリストの贖いによって、「神のものとされた」ことの有り難さを覚えたいと思います。私どもは、働きを認められて神のものとされたのではありません。神が、私どもの存在を認め、場所を与えてくださったのです。

「わたしの父は農夫である」、「農夫」は剪定をする者です。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われます。しかし、父なる農夫の剪定は、人のする剪定とは違うのです。剪定は普通、良い実を結ばせるために実のなる前に取り除くものです。しかし、父なる農夫は「実を結ばなかった」という結果を見てから剪定すると言われております。もし神が、私どものやり方(見込みのある無し)で剪定したならば、果たして今、私どもはキリスト者であったでしょうか。「実を結ばないもの」は、やがて枯れます。それは、剪定する者に責任があるのではなく、自らの責任なのです。

「わたしにつながっていながら」、つまり「主イエスにつながっていながら実を結ばない者」とは、どういう者のことでしょうか。ここでは、弟子たちに対する教えということから、イスカリオテのユダを考えて言われているでしょう。イスカリオテのユダも他の弟子たちも「主イエスを裏切る」という点では同じですが、ユダは自殺し滅びてしまいます。ユダと弟子たちとの違いは何でしょうか。ユダは主イエスをメシア(救い主)と信じつつも、自分の思い描くメシア像(政治的な王)として主イエスを動かそうとして主を裏切るのです。ですから、事の成り行きを理解できず逃げ去った他の弟子たちの裏切りとは違っております。ユダは自らの思いの故に、必然的に滅んだのでした。

では「主イエスにつながって、実を結ぶ」とは、どういうことでしょうか。
 それは「父なる神の栄光を表す」ことです。キリストの救い・恵みに与った者は、感謝の故に必然的に神の栄光を表すのです。「救いに与る」とは、そういうことです。「救いに与る」とは、自分がそこで立派な者になって自らを表すということではないのです。
 「人が救われる」ことの目的とは何でしょうか。それは「神の栄光を表す」ことにあるのです。人が立派になることを目的にしているのではありません。「神を神として表す」ことです。
 「ここに神が臨んでおられることを表す」こと、それが人が「神の栄光を表す」ということです。そして、「主イエスの十字架と復活によって現されていること」とは「神が神としてご自身を現しておられる」ということ、それが「神がご自身の栄光を現される」ということです。そしてそれが「罪人の救い」なのです。

私どもは、主イエスの十字架の救いが鮮やかにされるほどに、自らが本当には罪深い者だということを知ります。いかに神の恵みから遠い者であるかを思うとき、尚深く自らの罪を知るのです。そしてそこでこそ、私どもは「神の恵みの絶大さを表す」ことになるのです。「いよいよ豊かに実を結ぶ」とは、そういうことです。とても実を結べるような者ではない、罪深い者、ただ主の救いにすがるよりない、そこでこそ私どもは真に平安なのです。自分の力で実を結ばなければならないのではありません。罪を覆い隠すことに平安はないのです。自らの罪深さを全てさらけ出し、私どものすべてを覆ってくださる神にすがるのみなのです。私どもは、努力して救われるような者ではありません。ただ神の恵みによってのみ、救われるのです。

「実を結ぶ」とは「神の栄光を表すこと」であることを聴きました。
 教会は「神の恵み」が語られる場所です。そして礼拝こそは、私どもが「神の栄光を表す」ことです。神の救いの恵みに与った者として、神の民として神を賛美し、そこでこそ私どもは「神を神として表す」という恵みに与っているのだということを覚えたいと思います。