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十字架を前にした主イエスの、弟子たちに対する決別の説教が続きます。 25節、主イエスは弟子たちに、主イエスのなさったこと、そこに神の権威・力があったことを思い起こさせようとしておられます。しかし弟子たちは、主イエスの御業を目の当たりにしていたにも拘らず、見たことによっては、主イエスを「救い主」と信じることはできませんでした。ですから26節、主イエスは「弁護者」すなわち「聖霊」を遣わすと言ってくださるのです。「聖霊」を受けることによって、見たことが確かに神の御業であったと分る時が来る、主イエスの出来事を思い起こすことができる、と言ってくださっております。 ここに「主イエスを信じる」とはどういうことかということが私どもに示されております。「主イエスを信じる」とは「聖霊を受ける」ことなのです。聖霊を受けることによって初めて「主イエスは神の子、救い主」と分るのです。 ここで「三位一体の神」について、お話ししたいと思います。 もう一つ覚えておきたいことは、「聖霊を受ける」とはどういうことかということです。「聖霊」は「主イエスの名によって」と言われるように、神の霊ではなく「主イエス・キリストの霊」なのです。主イエス・キリストは私どもの罪の贖いとなってくださった方、その「主イエスの救いの御業を受け継ぐ霊」です。ですから「聖霊を受ける」ということは、「主イエス・キリストの御業を委託される」ということです。聖霊が臨むところ、すなわち「教会」は、聖霊をいただいて主イエス・キリストの御業を委託され、主イエス・キリストを証し、宣べ伝えるのです。 26節後半「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と続きます。つまり、ただ教えられても、思い起こせるわけではないのです。思い起こすためには「聖霊」の働きを必要とするのです。「思い起こす=想起」、それは「主イエス・キリストを思い起こす」ことです。 27節「わたしの平和を与える」と言われます。さらに、その平和は「世が与えるような平和ではない」というのです。つまり、主イエス・キリストの平和は、この世にある平和ではないということです。 本当の平和は「一つとなる」ところにしかありません。そして、本当の平和は「キリストと一つ」というところにしかないのです。この罪の身がキリストによって赦され、キリストと結び合わされ、「キリストが私どもと一つなるものとなってくださった」、そこに真実の平安・平和があるのです。 対話には妥協はあっても平和はありません。妥協点を見い出すことは出来ても、一致は出来ないのです。ですから、対話は福音ではないことを覚えなければなりません。自分自身を含めて、人の思いは変えられないのです。ですから、私どもに出来ることは、せいぜい妥協点を見い出すことです。 しかし主イエス・キリストは、そんな私どもに対して「平和を与える」と言ってくださっております。何と幸いなことでしょうか。主イエス・キリストは十字架により、私どもの罪の身において「一つ」となり、罪を贖ってくださいました。罪を全く清算するまでに、私どもの罪を負ってくださる、そんな方が他にいるでしょうか。主イエス・キリストをおいて他にはないことを忘れてはなりません。 主イエス・キリストを信じ、キリストと結び合わされる、ただそこでこそ真の「平和」が与えられるのです。 |
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まず「平和」について、先週を補って語りたいと思います。 主イエスは「平和」について、「わたしの平和」と率直に言われます。それは「主イエスによる救いがあっての平和」ということです。「主イエスによる救い」とは、まさしく「主イエスの十字架の死による罪の贖い」です。 27節「心を騒がせるな。おびえるな」。これから心騒がせ、おびえる出来事が起こるということです。 28節「わたしは去って行く」。主イエスが去って行く、だから心騒ぎ、おびえるのです。それは「主イエス・キリストの十字架」を意味しております。それは単なる別れではなく、尋常ではない「十字架」という別れです。 実は「不安でいっぱい、平安など無い」それが私どもの姿です。しかし「主イエス・キリストの救いの内に見い出されている」それが人にとっての「平安」なのです。厳しい現実に狼狽し打ちひしがれている、しかしその中で「主イエスの平和」によって、尚「平安をいただいて生きる」ことができるのです。私どもの内側に平安があるのではありません。「主イエスにある平和が『与えられている』」そのことに気付くとき、様々な囚われから解き放たれるのです。そしてそれは、自らの感性によってではなく、「聖霊をいただく」ことによってこその気付きであることを覚えたいと思います。 28節後半「あなたがたのところへ戻って来る」と主イエスは言われます。「戻って来る」には2つの意味があります。一つは十字架の後「復活の主イエスが臨んでくださる」ということです。しかしここでの「戻って来る」は、「十字架・復活」より更に進んで、主イエスは「昇天され、神のもとに帰られる」ことによって「主イエスを信じる者に、天における永遠の命の約束を与える霊」として戻って来るという意味です。それが「わたしの名による聖霊を送る」ということです。「わたしの名による聖霊」とは「主イエス・キリストの霊」であり、主イエスは「天に帰られ救いの完成を成し遂げた方」として戻って来られるのです。そして聖霊をいただく者は、「永遠の命の約束」すなわち「天にあって、神との尽きない交わりの中に入れられるという約束」に与るのです。 「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」と続きます。「主イエスが天に帰られる」それは救いの完成そのものですから、本来「喜び」なのです。ですから「喜ぶはず」、しかしそれは「愛する」ことなくしては有り得ない、と言われております。「愛する」とは、どういうことなのでしょうか。「愛する」とは「主イエス・キリストに従うこと」です。そして「主イエス・キリストに従う」とは「主イエスをキリスト(救い主)として表すこと」です。「愛する」ことは、愛の行いを実践することなのではありません。「愛する」ことは「信じる」ことなのです。 しかし、まだ十字架の出来事も起こっていないこの時に、弟子たちに対して「愛するなら喜ぶ」などと言われても、彼らに理解できるはずはありません。主イエスは、分らせようと思って語っておられるのではないのです。訳も分からない者であっても救われる、ということです。人の理解によって救われるのではないのです。人がどのような状態であったとしても、ただ恵みによって、「救いの喜び」が「アーメンの言葉」が与えられることを約束していてくださるのです。 「父はわたしよりも偉大な方だからである」。父なる神は「罪人の救いをなさる方」として何にも優って偉大な方なのです。「罪人の救い」それは本来不可能なことです。罪を完全に清算することなど、誰にも出来ないのです。しかし、神は不可能を可能とする方、偉大な方です。「罪人の救い」にこそ、神の偉大さが現されているのです。 29節「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」。敢えて「前もって話しておく」のは何故なのでしょうか。「後になって分る」からです。今話しても分らないのだから語らない、とは言われない。主イエスは既に、弟子たちが「信じる者となる」ことを知っていてくださるのです。信仰に至ることを知っておられる。「信じる者として見い出してくださっている」ということです。ですから前もって話してくださるのです。何と素晴らしいことでしょうか。聖霊が臨み、彼らは必ず「信じる者になる」と言ってくださっているのです。 30節「世の支配者が来る」。「支配者が来る」それは、主イエスが「十字架に引かれていく」ことです。 31節、しかし支配者は知りません。主イエスを十字架にかけることが「神の御計画、御心」であることを。彼らは自分の思いでやっているつもりですが、しかし、彼らは「神の救いの御計画」のために用いられる道具に過ぎないのです。神は、悪しき思いすら用いておられるのです。 |
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今年は、旧約聖書の「族長物語」から聴いております。 イサクは2代目の族長、リーダーです。イサクはアブラハムとサラの年老いてからの子どもで、名前には「笑い」という意味があります。大変長生きした人でした。今日は、イサクの家庭の問題を通して、神の御心を頂きたいと思います。 イサクは子どもの頃、父アブラハムの手によって屠られるところを助けられる(創世記22章)など数奇な経験をした人だけに、創世記を読む人々にとっては彼のその後の人生に対する期待もあるわけですが、しかし、聖書の中で、イサクについては僅かなことしか触れられておらず、あまり重要視されていないのです。イサクは軽く扱われている、注目に価することをしなかったということです。挙げ句、今日の箇所のように、老年になって醜態をさらす結果になっております。 創世記27章は、イサクの家族のごたごた、イサクの醜態がずらずらと記されている箇所です。リベカはアブラハムが親戚の中から選んで連れて来た嫁でした。イサクと妻リベカとの夫婦関係は、中世における一夫一婦性の原形になったと言われております。リベカは、創世記25章21節(口語訳)に「イサクは妻が子を産まなかったので…」と記されるように、自らの意志で子供を生まないという自己主張を持つような女性でした。しかしイサクは族長として子どもが欲しいと願い、エサウとヤコブという双子が与えられるのです。 33節「イサクは激しく体を震わせて言った」と記されております。「激しく体を震わせたイサク」ここが、この聖書の箇所の語りたいところなのであります。 私どもが主イエス・キリストに出会うということ、それは神に自分を明け渡し、神の支配のうちに、神のものとされたことを知って「震える」という出来事です。神と出会うとき、私どもは震えるのです。しかし時が経つにつれて、その「震え」は薄らいでしまいます。もう一度、神に出会った時の「震え」を思い起こす者でありたいと思います。 3代目になるヤコブに少し注目してみましょう。 先程、マタイによる福音書7章を読みました。「求めなさい。そうすれば、与えられる」と記されております。「求め」とは何でしょうか。「神の祝福を頂きたい、得たい。神のものになることを求める」それが、私どもの「求め」なのです。ヤコブの信仰は、このことを私どもに示しております。 |
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14章をもって、十字架を前にした主イエスの決別説教は終わりました。15章からは弟子たちに対する教えです。 1節、まず主イエスはご自身について「わたしはまことのぶどうの木」と言われます。「まこと」とは、どういう意味でしょうか。「まことでない」ものがあるということです。では「まことでない」ものとは何でしょうか。 では「麗しい実を結ぶはずのイスラエルなるぶどうの木」とは、どのようなものなのでしょうか。例えば「出エジプト」は、エジプトで奴隷だった雑多な人々の苦しみ呻きの声を聴かれた神が、その人々を「神を礼拝する者とする」ために導き出してくださったという出来事でした。 ですから、「まことのぶどうの木」とは「真実に神の恵みを表す者」ということです。 またもう一つ「主イエスの十字架による罪の贖い、復活・昇天による永遠の命の約束」が示すことは、主イエスを信じる者は「神のものとされる」という「恵み」です。それは、ただ単に天に繋がったということではなく、主イエスに贖われた者として「天に属する者、神のもの、キリストのもの」とされるという「恵み」なのです。 「わたしの父は農夫である」、「農夫」は剪定をする者です。2節「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われます。しかし、父なる農夫の剪定は、人のする剪定とは違うのです。剪定は普通、良い実を結ばせるために実のなる前に取り除くものです。しかし、父なる農夫は「実を結ばなかった」という結果を見てから剪定すると言われております。もし神が、私どものやり方(見込みのある無し)で剪定したならば、果たして今、私どもはキリスト者であったでしょうか。「実を結ばないもの」は、やがて枯れます。それは、剪定する者に責任があるのではなく、自らの責任なのです。 「わたしにつながっていながら」、つまり「主イエスにつながっていながら実を結ばない者」とは、どういう者のことでしょうか。ここでは、弟子たちに対する教えということから、イスカリオテのユダを考えて言われているでしょう。イスカリオテのユダも他の弟子たちも「主イエスを裏切る」という点では同じですが、ユダは自殺し滅びてしまいます。ユダと弟子たちとの違いは何でしょうか。ユダは主イエスをメシア(救い主)と信じつつも、自分の思い描くメシア像(政治的な王)として主イエスを動かそうとして主を裏切るのです。ですから、事の成り行きを理解できず逃げ去った他の弟子たちの裏切りとは違っております。ユダは自らの思いの故に、必然的に滅んだのでした。 では「主イエスにつながって、実を結ぶ」とは、どういうことでしょうか。 私どもは、主イエスの十字架の救いが鮮やかにされるほどに、自らが本当には罪深い者だということを知ります。いかに神の恵みから遠い者であるかを思うとき、尚深く自らの罪を知るのです。そしてそこでこそ、私どもは「神の恵みの絶大さを表す」ことになるのです。「いよいよ豊かに実を結ぶ」とは、そういうことです。とても実を結べるような者ではない、罪深い者、ただ主の救いにすがるよりない、そこでこそ私どもは真に平安なのです。自分の力で実を結ばなければならないのではありません。罪を覆い隠すことに平安はないのです。自らの罪深さを全てさらけ出し、私どものすべてを覆ってくださる神にすがるのみなのです。私どもは、努力して救われるような者ではありません。ただ神の恵みによってのみ、救われるのです。 「実を結ぶ」とは「神の栄光を表すこと」であることを聴きました。 |
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