聖書のみことば/2009.6
2009年6月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
信じなさい」 6月第1主日礼拝 2009年6月7日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章10〜14節
14章<10節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。<11節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。<12節>はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。<13節>わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。<14節>わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

10節、主イエスの言葉を誤解している弟子たちに、主イエスは「わたし(イエス)と御父は一つである」と言ってくださっております。しかし、この「御子イエスと御父が一つなる方である」ということは、ただ「信じること」以外には、知ることはできないのです。
 ここで「信じる」ということは、私どもの思いから出ているのではないことを弁えなければなりません。人間の知性や感性によって「信じる」のではないのです。主の身近にいた弟子たちや周りにいた人たちは、主イエスの言葉を聞き、主のなさる業を見たにも拘らず「主イエスと父なる神が一つなる方である」ことを知り得ませんでした。これは人の五感、経験、知識によっては知り得ないことなのです。
 弟子たちが「知る、信じる」ために起こったことは何か。それは「聖霊を受ける」ことでした。聖霊を受けることによって初めて「主イエスの御業は神の御業」であることを知り、「主イエスこそは救い主」と信じるに至ったのです。
 弟子たちはどのような者だったでしょうか。主イエスの十字架の出来事に失望し、人々を恐れ逃げ去った者たちでした。自分の経験、知識、感性で主イエスを信じることは失望と恐怖を産み、まさに自分の思いが砕かれてしまう経験だったのです。人の感性で主イエスを理解できると思うことは愚かなことであることを、この弟子たちの姿を通して知らなければなりません。
 人の感性ではなく、聖霊によって知るのです。私どもに「聖霊が臨んでくださる」、だからこそ「主イエスは救い主、神の独り子、神と一つなる方」と自ら信仰を言い表し得るのです。聖霊が私どものうちに働いていてくださる、だからこそ、この礼拝においても、共に「信仰告白」を告白できたのです。
 そうであれば、私どもに必要なことは何でしょうか。知識を求め感性を研ぎすませることではなく、神の力・聖霊を必要とするのですから、それは「祈り」です。神が臨み、働いてくださることを「祈り求める」以外にないのです。そして「祈る」とき、そこに既に「神の執り成し」があります。ですから「祈る」ということは、既に「聖霊の出来事のうちにある」ということです。

主イエスは、信じられない者たちに対して「信じなさい」と繰り返し言われます。この主イエスの御言葉からは「信じる決断を促す」という説教もしばしばなされるのです。しかし、ある説教者は、信仰が人の意志の出来事になってしまうことを恐れて「信仰は決断ではない」と語りました。
 確かに「共働の働き」として「聖霊が働いて決断する。恵みに対しての応答として決断する」ということはあるのです。しかし、何よりも第一に、根本にあることは「信仰、信じること」は「神の恵み、賜物である」ということであり、これは覚えておくべき大切なことです。

「主イエスを救い主と信じる、主イエスを父なる神と一つであると知る」ことは、まさに「神からの恵みの出来事」です。聖霊の働きによって「主イエスこそ救い」と知り信仰を言い表すとき、私どもは既に神の救いの内に入れられているのだということを覚えたいと思います。
 ですから、信仰は個人のものではありません。私どもは信仰は個人のものと思ってしまいがちですが、そうではないのです。教会の言い表している信仰が私どもの信仰です。大事なことは「信仰は一致の出来事である」ということです。「恵み・賜物としていただいている信仰」において、私どもは「一つ」なのです。信仰は、生活も考え方も生き方も様々に違う私どもを「一つにする」恵みの出来事です。ただ主イエスを救い主と信じることにおいて一つ、そこでこそ神の民・神の子とされているのだということを覚えたいと思います。
 個々人が自らの信念に立って生きようとすると、混乱し揺らぎます。しかし個々人がどうであったとしても、信仰によって神の民の共同体の一員であるところで、その人は確かな存在とされるのです。信じるところに人の確かさがあることを覚えなければなりません。現代社会は「信じることを失っている」が故に、人に確かさはなく「空しい存在」になってしまっているのです。

11節、主イエスは「業そのものによって信じなさい」とまで言い、どこまでも「信ぜよ」と言ってくださいます。
 主イエスは、数々の奇跡、病人の癒しをなしてくださいました。癒しの業は「終わりの日の神の御業」と信じられていたのですから、主の癒しを見た人々は、主イエスを信じても良かった筈です。しかし、結局は信じませんでした。主イエスはここで「信じなさい」と言われることによって、人々が「信じない者である」ことを明らかにされ、「信じない者」であることを突きつけておられるのです。

しかし12節、主イエスは「あなたがたは、わたしよりもっと大きな業を行う者になる」と言ってくださっております。「信じられない者」なのに、いずれは「信じる者になる」ことをご存知でいてくださるのです。「信じられない者」が、いずれは聖霊によって「信じる者」となり、全世界に主イエスを宣べ伝える者になるというのです。まさしく「信じられない者」を「信じる者へと変える」これこそが、神の御業、聖霊の御業です。

ですから覚えたい。私どもが「信じる」と言うとき、神が私どもを「信じる者としてくださったのだ」ということを。私どもが「信じた」のではないのです。だからこそ、信仰は「聖霊の出来事である」ことを、まさに「神の賜物、恵みの出来事である」ことを覚えたいのです。

弟子たちは後に、「信じる者」として、主イエスより福音宣教を委託されて、全世界に「主イエスの救い」を宣べ伝えました。そして今、ここで、教会は「主イエスの救いの出来事」を語っております。「福音を宣べ伝える者となる」ということは「神の栄光を表す」こと、「神の栄光を表す者として用いられる」ということです。

14節「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。私どもは「主イエスの御名」を宣べ伝えるのです。ですから、福音宣教は神の栄光を表すことに他なりません。そこで「願われる」ことは「主の救い」です。私どもが「救われた者」として「主の御名を宣べ伝えること」、それはとりもなおさず「隣人の救い」なのであり、それこそが「神の御心」です。主の御名を語りながら主の栄光を表さないとするならば、それは呪文と化してしまうことでしょう。

「主の御名が願われる」ことは「主の名が大きくされる」ことであることを覚えたいと思います。そして、この「礼拝」こそ、主の名を大きくすることであることを覚えたいと思います。

弁護者を遣わす」 6月第2主日礼拝 2009年6月14日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章15〜24節
14章<15節>「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。<16節>わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。<17節>この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。<18節>わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。<19節>しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。<20節>かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。<21節>わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」<22節>イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。<23節>イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。<24節>わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

15節は21節以下につながるのですが、それだけではなく13・14節と関わっております。
 13・14節で主イエスは、弟子の願うことは何でもかなえてあげようと言われました。15節には、このように「主が願いをかなえてくださる弟子」とは、どのような者かということが示されております。すなわち「弟子」それは「主イエスを愛する者」なのであり、主を愛する者として「主イエスの掟を守る」のです。

ここで「主イエスと弟子」と「この世の師弟関係」との違いを考えてみたいと思います。この世の師弟関係においては「弟子の願いが必ずかなう」というようなことはなく、むしろ、師の願いを弟子が実現しようとするものではないでしょうか。また、弟子だからといって師を愛するとは限らないのです。
 しかし、聖書は「主イエスの弟子は主を愛する」と記します。そして、このヨハネによる福音書は「愛」を強調しております。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)、「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。』」(21章17節)、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)。このように「愛の関係」として「主イエスと弟子」を捉えているのがヨハネによる福音書の特徴です。また、他福音書においても、弟子に対して第一の掟として語られていることは「主イエスを愛せよ。そして隣人を愛せよ」ということです。ですから「主の弟子である」ことは「主イエスを愛し、主イエスを慕って止まない者」であるということが前提なのです。「慕って止まない、愛して止まない」そのような者の願いであれば、かなえないわけにはいかないのではないでしょうか。

では、なぜ主イエスの弟子は「主を愛して止まない」のでしょうか。「愛せよ」と強いられるから愛するのではありません。強いられてではなく「十字架の主イエスこそ、わたしの救い主である」ことを知るとき、その主の恩寵をひしひしと感じ、主を慕わざるを得なくなるのです。
 主イエスの十字架を前にして、主イエスを裏切り逃げ去る弟子たちのためにも主は十字架におかかりくださいました。裏切る者のために、主イエスは御自身の命をもって贖いとし、罪の赦しを成し遂げてくださるのです。ですから、その主の恩寵を知った者は主を愛して止まないのであり、それが「主の弟子」なのです。

ここで大事なことは、恩寵を感じるならば、願う方も主に対する畏れをもって「麗しい願いをする」ということです。恩に反する「自分本意な願いはしない」はずです。主の救いに感謝する者の願いは麗しいのです。そして主の恩寵を感じて主を愛するとき、畏れ敬うとき、多くの者が様々な問題に対して解決を見るのです。なぜなら、その人は神と人との正しい関係を回復しているが故に、自ずと自分本位ではない者に変えられているからです。このことは、この世の「人と人との愛の出来事」と大いに違っていることです。

15節の「主イエスを愛しているならば、掟を守る」とは、どういうことでしょうか。23節以下には「主を愛する者は守る」「主を愛さない者は守らない」と言われております。「主の弟子」とは「主を愛する者」であり、「主を愛する者」とは「主の言葉に聴き従う者」だというのです。「聴き従う者」の願いを、主はかなえてくださるだろうということです。
 主イエスの恵みを本当に知った者は、主の言葉を求めて止まないはずです。何故ならば、主の言葉は「慈しみ」だからです。ですから「守る、聴き従う」ということは「ねばならない」義務なのではありません。まさに飢え渇き、愛する主イエスの慈しみの言葉を慕い求めずにはいられない、主に心を向けざるを得ないのです。

16節「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、…」とあります。主イエスは「お願いする」と言いながら、願ってはおられません。願いではなく「弁護者を遣わす」との宣言をなさっております。
 ここで知っておくべきこと、それは「父なる神と、子なる主イエス・キリストの思いは一つ」ということです。主イエスの願いと神の御心、その内容は同じなのです。主イエスが願ってくださることは、神の御心と同じです。ですから、私どものために主が願ってくださることは、既に神の御心なのです。
 私ども(人)の願いは、神の御心とは違うものです。しかし、私どもに「願い」をくださるのは神です。ですから、願いが与えられたならば、そこに神の御心があることを思っても良いのです。自分の心からの思い(本心)を言葉として言い表すこともできない、それが私どもです。しかし、そんな私どもの本心を、心底からの願いを、主が与えてくださるのです。

「別の弁護者」と言われます。「弁護者」とは「助け主」であり、すなわち「主イエス・キリスト」です。ですから、その内容は「主イエス・キリストこそ救い主であった」ということです。
 そして、主イエスが昇天された後、その「主の救いの御業を継ぐもの」として、「別の弁護者」すなわち「聖霊」が言い表されております。

「弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われております。聖霊は永遠に(この地上のある限り)、この地上で「主の救いの御業」を為してくださるのです。「あなたがたと一緒に」とは「弟子たち」すなわち「教会」と共に、ということです。聖霊をいただくことにより「教会」は「主イエスの救いの御業」を「主より委託された者として為す」そのことがここに示されていることです。
 教会がなすべきこと、使命は何か。それは「主イエス・キリストの権能、御業」すなわち「救いの宣言」です。「主イエス・キリストの御名によって、あなたは救われた」と宣言すること、それが教会に主イエス・キリストから託されている御業すなわち「洗礼」です。「救いの宣言」という、この世のどこにもない力を教会は与えられているのです。そしてそれは、教会に臨む「聖霊の働き」によるのです。

教会は何をなすべきか。いろいろなことをやってよい、しかしそれはこの世に対する配慮に過ぎません。教会がなすべきこと、第一義的業・権能、それは主より託された「救いの宣言」であることを覚えたいと思います。

17節、「聖霊」は「真理の霊」だと言われております。「真理の霊」とは「救いの真理を示す霊」です。「救いの真理」とは「主イエスこそ神の子、救い主。主イエスを信じる者は救われる」ということです。
 「真理」というものは、様々な角度から分野から探求されることです。しかし、この「救いの真理」は、どのような思索・探求によっても知り得ることはできません。「救いの真理」、それはただ「聖霊の力が臨む」ことによってのみ、知り得る真理なのだということを覚えたいと思います。

地の塩、世の光」 6月第3主日礼拝 2009年6月21日 
須賀 工 神学生 
聖書/マタイによる福音書 第5章13〜16節
5章<13節>「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。<14節>あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。<15節>また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。<16節>そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

キリスト者としての生活は、洗礼を受ける、その所から始められます。主イエスを救い主と信じ、自らの罪を告白し、古い罪ある自分から新しい人間へと変えられていく。洗礼は最終地点ではなく、むしろそのところから、新たな、永遠の命に向かった生活が始まっていく。ここに、「キリスト者の生活の始まり」があり希望があります。言い換えるならば、真の「信仰者としての生活」というのが、初めてこの洗礼の恵みから始まると言えるのです。

しかし、信仰者としての自らを省みるならば、色々と反省させられる事が多くあると思います。むしろ、キリスト者になった時のほうが、以前よりも、罪という事に敏感になっている事に気付かされるという事もあるのではないでしょうか。非常に、人間的な悩みであるかもしれませんが、私達は、常に自分自身に問い掛けています。私は、信仰者「らしく」生きているだろうか。本当は、相応しくないのではないだろうか。自らを省みた時、常に問われている事かと思います。では、そもそもキリスト者とは、一体どのような存在なのでしょうか。どのように生きていくものなのでしょうか。私達は、このことを思い起こし続ける事が大切であると言えるのであります。主イエスは、今朝の御言葉を通して、正に、その事をお示しになられるのです。

「あなたがたは地の塩である」とまず、このように、主イエスは語り始められます。「あなたがた」とは、一体、誰のことでしょうか。それは、弟子達の事であります。山上の説教は、大勢の群衆を見て、主イエスが山に登り、弟子達が集まってきた、その所から語り始められます。つまり、主イエスは、むしろ弟子達に向かって、御言葉を語り始められたと言う事が、ここで示されていくのです。弟子達は、後の教会を指し示しています。教会は、いうなれば、信仰者の群に他なりません。ここで、主イエスが、「あなたがた」と呼びかけている、その対象こそ、正に、教会、そして、そこに連なる救われた一人ひとりであると言えるのです。

主イエスは、正に、信仰者に向かい、「あなたがたは地の塩」であると言われた。「地の塩となりなさい」ではなく、「地の塩であるべきだ」でもなく、「あなたがたは地の塩である」と断定して言われるのです。「塩」の力とは、食物が腐っていくのを防ぐ事であります。つまり、主イエスは、この地は、まだ救われていない、まだ腐敗したものであると、ここで言っているのです。そして、同時にその腐敗を防ぐ存在として、キリスト者の存在が、与えられているといわれるのです。私達が、罪人であった時、私達は、腐敗しつづける世に属する者でありました。しかし、今、神によって捉えられ、救われた一人ひとりは、この地の腐敗を防ぐものへと変えられていくのであります。そのように用いられる者として変えられていくのです。ここに、私達の新たな姿、十字架の救いに与ったキリスト者の本来の姿があるのではないでしょうか。罪人であり、腐りかかった我々が、神の憐れみによって、救い出され、神に仕える、価値ある者へと変えられていく。真の神にお仕えする者へと変えられていく、そこにキリスト者の真の存在があるのです。

私達は、この言葉を聞いた時、不安な思いにかられます。私に何があるのか。何をしたらよいのか分からない。そのような疑問を持たざるをえないと言えるのです。主イエスは、私達を指し、「地の塩である」と語り、「地の塩となれ」とは命じられていない。何か、偉大な事、善い行いをしろとは、ここでは言われていないのであります。言うなれば、善い行いとは、信仰者でなくとも出来る事であります。むしろ、信仰者よりも、善い行いをする、そのような人がいる事もありえるのです。しかし、主イエスは、キリスト者を指して、「あなた方は地の塩である」と断固として言われるのです。

では、私達には、何があるのでしょうか。それは、正に、救いの確かさであります。私達には、確かな救いが与えられているのです。そして、更に言うならば、その救いを確かなものとする信仰が与えられている。ただ、その事のゆえに、私達は、どんな愚かで弱い者とみられようが、「あなたがたは地の塩である」と断固として、主イエスは、私達に存在の意義を与えて下さるのです。神の一方的な恵みによって、新たな者とされ、神の一方的な恵みによって、私達は、神によって用いられる塩とされているのです。

そして、キリストの救いを通して、価値ある塩と変えられ、キリスト者は、この世に立たされている。この世は腐敗に満ちています。かつて、私達がいた世界です。しかし、福音の力により、十字架の救いの御業により、私達は、この腐敗から救われている。今、私達に求められる事は、この腐敗を防ぐ、救いの言葉を宣べ伝える事に他ならない。なぜなら、私達もまた、この十字架の救いの出来事を通して、腐敗から救われた者の一人だからであります。この腐敗を止めるには、十字架の救い、福音しかないのです。そして、既にこの救いに満たされているキリスト者こそが、この世の塩として立たされているのです。私達は、自らが、まず、福音に満たされている事の幸いを覚えたいのです。この世には、多くの苦難があるかもしれません。誘惑や悩みが沢山あるかもしれない。迫害を受けるという事があるかもしれません。しかし、今、主イエス・キリストの救いを通して、福音に満たされ、神に用いられるものとされているのです。そこには、永遠の命に向けられた、私達の希望があります。その希望に包まれ、満たされて私達は、この地に立たされている。そして、その所から、福音を述べ伝える務めへと活かされているのだと言えるのです。まず、何よりも、私達を罪の腐敗から救い出してくださった、神の福音の力が、土台にあり、私達を活かし支えているのです。

逆にいうならば、キリスト者は、救いから離れる時、福音から離れる時、塩気を失った塩のように、自分の存在を失う事に他ならない。そこには滅びしかないのであります。キリスト者は正に、キリストの救いに満たされ、その内に生きる所に、全存在が与えられている。そこから離れること、その恵みを失う事は、塩気を失った塩、無価値なものであり、滅びゆく存在であるのです。恐ろしい言葉であるかと思うかもしれません。しかし、私達は、自らが、神の救いに活かされ、神の救いによって価値ある者と変えられている事を、感謝をもって味わいつつ、常に、礼拝の恵みを通して、その幸いを思い起こし、この世へと向かうものでなければならないのです。決して、一人きりで、それを為すのではありません。主イエスは「あなたがた」と言われる。つまり、教会であります。共同体であります。その中にあって、私達は、神の福音を宣べ伝える、その役目を、共有しあうのです。共に、救われた群として、心を一つに、福音を示す事へと導かれているのです。そして、教会こそ、そのようなキリスト者が集う中心の場所として、福音からそれる事無く、この世に福音を宣べ伝え続けるものでなければならないのです。

主イエスは、次に「光」について語り始めます。14節〜16節「あなたがたは世の光である」と言われる。この言葉も、塩と同じ意味を持っています。主イエスは、この世は闇に満ちていると言われている。しかし、その闇の只中に、光に満たされているキリスト者が立つのです。光は、私達の救いの輝きです。更に言うならば、十字架の死と復活を通して与えられる救いの光であります。闇のような罪ある世界からの解放の光とも言えるかもしれません。私達が光の源ではありません。むしろ、私達は、十字架の死と復活を通して与えられる神の救いの光を帯びて、この闇に立つ者とされているのです。主イエスは、ここにおいても、また、私達がまず、光に満たされ、立たされている事の幸いから語り始めるのです。

しかし、次の言葉にも注目させられます。「山の上にある町は、隠れる事ができない」と主イエスは言われるのです。私達が世の光であるならば、その光で、人々を照らしなさいと、まず言われるべきなのでは、ないでしょうか。しかし、主イエスは、世の光であるキリスト者は、「山の上にある町」のように、全ての人々に見られずにはいられないという事から語られるのです。つまり、主イエスは、世の光として、何をすべきかではなく、世の光とは、一体、どのような存在なのか、という事から語られているのです。キリスト者は、隠れる事がないと言われます。信仰者の中には、自分がキリスト者である事を隠したいと思われる方もいるかもしれません。しかし、隠れる事はできないと主イエスは言われる。キリスト者とされ、世の光とされた今、私達の存在は、それほどまでに、変えられていると言うのです。その存在の全てが、救いの光に満たされている、永遠の命に向けられた希望の光に満たされている。この世とは違う、闇に満ち溢れている世界とは、完全に異なり、光り輝いている。だから、隠そうとも隠す事は出来ないのだと言われるのです。救われ、キリスト者とされるという事は、この世に生きながらも、決して覆い、隠すことの出来ない、光を受けているのです。永遠の命を約束して下さる神の救いの光に満ち溢れた存在とされるのだと、そのように示されるのです。

この所から、主イエスは、世の光として、私達がどのようにすべきかを示していくのです。「ともし火をともして、枡の下に置く」という事は、折角つけた火を直ぐに消してしまうという事であります。つまり、灯された救いの光を直ぐに消してしまうという行いです。光を失うということは、闇へと戻る事に他なりません。救いの希望を失うという事です。そうではなく、全てのものを照らす為に、その光を燭台の上に置きなさいといわれる。つまり、救いの光を灯し続けなさい。救いの光に満たされていなさいと言われている。なぜか。それは勿論、私達が、常に光に満たされて希望をもっていく為であります。しかし、それだけではない。全てのもの照らす為であるとも言われているのです。照らすという事は、光を与えると言う事です。光は、私達の希望であり、私達の救いです。その光を、闇の内にいる人々に与えなさいと言われているのです。決して、主イエスは、未だに闇にいる者を捨てる事はない。むしろ、その光の方へと招く為に、キリスト者は、救いの光を指し示す者として用いられるのです。

主イエスはこのように言われます。16節「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。光を輝かせるという事が、立派な行いへとつながっていきます。そして、その事が、同時に、人々を天の父を礼拝する者へと結び付けていくのだと言われます。立派な行いとは、何でしょうか。ここで、具体的な行いは、主イエスによって、示されてはいません。しかし、少なくとも、それは自分が思っているような模範をしめす生き方でしょうか、善い行いをする事でしょうか。もし、そうであるならば、神を崇めるのではなく、人間を尊敬する事となってしまうのではないかと言えるのです。自分を誇る為に、立派な行いをするという事は、ここでは求められていません。むしろ、真の神に栄光を帰するようになる事が、主イエスの願いであります。つまり、私達の神こそ、真の神である、私達の主イエスこそ真の救い主であるという事を、知らせようとする所にキリスト者の行いの目的が定められている。もし、この確固としたものを失ってしまうのならば、私達が、どんなに、立派な行いをしようとも、善い行いをしようとも、また、模範のような信仰生活を送っていても、そこには、正しい価値は与えられているとは言えないのです。何よりも、私達自身が、神にのみ目を向け、神の恵みをもう一度、知るという事、つまり、礼拝を通して常に恵みを味わい、その所から、キリスト者の行いが始められなければならないのだと言う事がここで示されていくのです。そして、その行いの究極的なものこそが、人々の前で、光を輝かす事。つまり、最初から示されているように、神の福音、神の救いの光を、人々の前に証しする事であると言えるのです。

キリスト者の群は、決してこの世から見れば強く、たくましいとは言えないものであります。しかし、キリスト者には、罪から救われ、死を越えて、永遠の命にいたる希望の光が与えられています。まず、その恵みを噛みしめ、この光を受けて、この地上に、立ち続ける者でありたい。そして、その希望の光に満たされ、共に、この光の源である神御自身を証しする為に、堅く一つとなって、生きる者でありたいのです。

あなたがたも生きる」 6月第4主日礼拝 2009年6月28日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章18〜24節
14章<18節>わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。<19節>しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。<20節>かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。<21節>わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」<22節>イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。<23節>イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。<24節>わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

18節、主イエスは言ってくださいます、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない…」力強い言葉です。
 この言葉は本来、「主イエスの十字架と復活」を語るときに用いられる言葉なのですが、この福音書の記者ヨハネは「聖霊」ということを語るために、元々言われていたこの言葉を敢えてこの箇所に用いて語っております。ですから、この箇所を読んでいて何かごたごたした感じがしますし、むしろ18節〜20節までは抜いた方が前後の繋がりは良いのです。つまり、主イエスの十字架の死によって狼狽し「みなしご」のようになる弟子たちを励ます言葉として、本来は「主イエスが復活によって臨み」みなしごにはしないと言うところを、それ以上の意味をもって「聖霊においてあなたがたに臨む」と言い換えているのです。

ここで「みなしご」ということについて知っておきたいと思います。「みなしご」とは、頼りとする者、保護者を失うということです。ですから、主イエスに従う者(弟子たち)にとって主イエスを失うことは、まさしく頼りを失い孤立することです。しかし、主イエスはそうではないと言ってくださる。主イエスが天に帰られることは、主を失う孤立なのではなく、天に弟子たちの場所を用意してくださる(3節)ということなのであり、それは、弟子たちが天に存在の根拠を持つ者とされるということなのだと、既に教えてくださっております。その上で「戻ってくる」と言われる。主イエスは別の弁護者(保護者)を送る(16節)と言われる。「聖霊を与えて」みなしごにはしないと言われるのです。
 「聖霊」とは「真理(キリスト)の霊」であり、「聖霊が与えられる」とは「主イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰が与えられる」ということです。ですから、「聖霊の出来事」は「信仰の出来事」です。聖霊を与えられて、「主イエスをキリストと信じる者」として「主、共にいます」ということ、それがここに言い表されていることです。

主イエスは罪の贖いのために十字架につき死なれました。それは「地上での死」です。しかし地上での死というのは、実は永遠の死ではありません。地上を超えた死に与れないことが、永遠の死なのです。「地上の命を終える」とは「限定付きの命を終える」ということです。地上の者には初めから、永遠の命は無いのです。
 永遠の命の出来事は「地上の死を超えた命に与る」ということです。それは、死して甦ってくださった方「主イエス・キリストを信じる」ということです。主イエス・キリストを信じる者は、主イエスと共に甦り、朽ちることのない、キリストと共なる永遠の命を与えられる、それが主を信じる者に与えられた約束なのです。
 今日、愛宕町教会では礼拝において逝去者記念式をいたしますが、逝去者を覚えるということは、過ぎし日の故人を偲ぶということだけではなく、地上の命を終えた方々が今、天において、主に結び合わされた者として神との尽きない交わりのうちにあることを覚える時なのだということを改めて知っておきたいと思います。

19節「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と言われます。「あなたがたはわたしを見る」、キリストを見ることが出来るのは「主の弟子たち」すなわち「教会、教会の交わりにおいて」であるというのです。「世は見ない」つまり教会以外の交わりではキリストを見ることは出来ないのです。ですから、教会に来ていることの恵みは何かと言えば、それは「キリストを見る恵み」なのであり、それは教会に集う「キリストを信じる者」だけに与えられている幸いなのだということを、この言葉から覚えたいと思います。
 「キリストを見る」とはどういうことでしょうか。これも「聖霊」ということにおいて語られております。「聖霊の出来事」は「キリストを見る出来事」です。聖霊が臨んだことによって弟子たちが経験したことは何かと言うと「主イエスを、神の子、救い主(キリスト)と信じる者となった」ということでした。聖霊は「主イエスをキリストと信じさせる、神の力」なのです。そういう意味で、ここに言われていることは「信仰において見る」ということです。信じる「信仰」においてしか「イエスはキリストである」と見ることはできません。他の方法によっては見ることは出来ないのです。信じることは見ること、信仰とはまさに「イエスをキリスト(救い主)と見い出す」ことであることを覚えたいと思います。ですから「信じない」この世は、見ることができないのです。聖霊は、真実を見させる神の力です。信仰によってしか見えない真実があるのです。それは「イエスはキリスト(救い主)である」ということです。

ここで、弟子たちは「信仰においてキリストを見る」ということを教えてくれております。弟子であること、すなわちキリストの体なる教会に聖霊が臨み、信じる思いを与えられて、私どもは、この礼拝において、この教会の交わりにおいて、御言葉に聴き、信じる交わりの中にあることによって「キリストを見る恵みに与っている」のだということを覚えたいと思います。信仰生活は礼拝生活であり、それは「キリストを見る恵みの生活」なのです。そしてそれは、その人だけの個人的な体験ということではありません。共に御言葉に与り、共に祈ることによって「共にキリストを見る」という経験なのです。
 そして「キリストを見ること」は「救い主を見ること」、すなわち「自分の救いを見ること」だということを覚えたいと思います。聖霊を頂くことは「この身の救いを見る」ことなのです。
 「救いを見い出せない」ことは「滅び」です。主イエスを信じることの出来ないこの世は、救いを見い出せないのです。しかしそれは「今、この世は信じられない」のだということです。本来「信じられない者」を「信じる者」としてくださる、それが主の御業です。ですから、信じない者に「あなたに救いはない」と言うのではなく、信じない者が「救われることを願う」こと、それが私どものなすべきことです。

20節、「かの日」とは、本来「終末」に使う言葉です。しかし、ここでもヨハネは「聖霊」に結び付けて、「かの日」を「聖霊が臨んだその日」を示す言葉として語っております。そのことによって、私どもは知るのです。「御子イエス・キリストは父なる御神と一つであること」「キリストが教会に生きて働いておられること」「弟子である私どもは、キリストの交わりの内にあるのだということ」を知るのです。このことを知ることは、私どもにとって恵みの出来事です。なぜなら、キリストが教会と共にあってくださるということは、教会に連なる私どもも神との交わりの内にあるということだからです。
 「完全な神との交わり」、それは本来「かの日、終末の出来事」です。しかし、聖霊を頂くことによって、私どもは今、かの日の神との交わりを与えられているのです。それは「終わりの日の永遠の神との交わり」の先取りです。この世にあって、この恵みに既に与っているのだということを覚えたいと思います。それが私どもの信仰生活、教会生活なのです。

ヨハネによる福音書は「聖霊が臨む」とは、どういうことなのかということを強調して語っております。聖霊が臨んでくださることによって、キリストを見る、そこに私どもの救いを見る、それは終わりの日の神との永遠の交わりをこの世にあって先取りとして与えられて生きることなのだということを覚えつつ、信仰生活、教会生活を送る者でありたいと思います。