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1節、主イエスは「心を騒がせるな」と、先ず言われます。 そのような弟子たちの不安に対して、「心配することはない」と主イエスはおっしゃってくださっております。「不安」は「主イエスとの交わりを失ったとき」にあるのです。 今日「神を知ることがない不安」があります。この世を「神なき孤独」が支配しているがゆえに、不安でしかないのです。「不安」は「交わりの喪失」です。 「交わり」は「神が共にいてくださる」ということです。主イエスは私どもと交わる方としておいでくださいました。 弟子たちはこの後、主イエスの十字架の出来事によって、一時的に主イエスとの交わりを失うことになるのです。それを前に「わたしを信じなさい」と主イエスは言われます。「信じる」ことによって不安から解き放たれるのです。 そして、この「信じる」という出来事は「聖霊の出来事」です。「主イエスの御名によって」派遣される、聖霊の働きによるのです。 「信仰」とは「神との交わりにある」ことを意味するのだということを改めて覚えたいと思います。 |
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先週に続いて、今日は4節からです。 「神を信じなさい。私を信じなさい。あなたがたのために場所を用意しに行く」と言ってくださった主イエスは、更に4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われます。これは驚くべき言葉です。この時、トマスをはじめ弟子たちは、まだ、主イエスの十字架も復活も昇天も知りません。にも拘らず、主イエスは「弟子なのだから、どこに行くのか、その道を知っている」と言われるのです。 しかし、主イエスの十字架・復活・昇天をまだ知らないトマスはじめ弟子たちは、主イエスの言葉を私どものようには受け止めることはできません。5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言わざるを得ないのです。 「主イエスを信じる者は天に住まいする」とはどういうことでしょうか。それは、「主を信じる者」は「主と結ばれた者」として主と共に天に上げられ、主が用意していてくださる住まいに住まうことができるということです。「信じる」とは「結び合わされる」こと。信じる者は主イエスと結び合わされて天に至るのです。そして「天に住まいし、神との交わりに生きる」こと、それが「命」です。それは、地上の死に勝利した、地上を超えての「永遠の命」です。 6節「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエスは言われます。 続けて「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。「わたしを通らなければ」とは「主イエスを信じてしか」ということです。ただ「主イエス・キリストのみ、救いの真理」ということです。真理は様々ありますが「救いの真理」は唯一「主イエス・キリスト」のみであることを覚えたいと思います。 7節「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とは、主イエスの宣言です。「主イエスを信じ、弟子である」ということは、既に「救いに与っている」のだということが示されております。「御子イエス・キリストを知る」とは「父なる神を知る」こと、それは「神との交わりにある」ということです。それによって、今、既に「永遠の命に入れられている」と言ってくださる。本来は「終わりの日における恵み」である救いを、今、既に頂いているというのです。素晴らしいことです。「主イエスを信じる」ことは「神を知る」ことと一つであることを覚えたいと思います。私どもは、地上での生を終えて天に移されるとき、今既に与えられている救いによって「天における神との完全な交わり」をいただくのです。 地上において、私どもには様々な束縛があり、或いは嘆きを感ずるかも知れません。しかし、私どもは既に「神との交わり」を与えられている。今、既に与えられた恵みによって、全ての束縛から解き放たれているのです。 ここに、教会の「神より託された使命」があることを覚えたいと思います。今、既に知った者として、神との交わりの恵みに与った者として、地上において「ここに救いがある、神との交わりがある」ことを、宣べ伝える責任があるのです。 |
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人にはそれぞれ「物語」があると言えます。それは世に一つしかない、独自の道・旅路だと言えるでしょうし、あるいはそこから一歩も出ることができないかもしれない、そういう道を私どもは歩んでおります。 3月に引き続き、今日もアブラハムの物語から御言葉を聴きたいと思います。 今日の創世記の箇所は、典型的な冒険物語と言えるでしょう。年老いたアブラハムに与えられた子供イサク。目に入れても痛くないほどに愛おしいイサクを「焼き尽くす献げ物」として捧げよと神から命じられる。これはアブラハムにも妻サラにとっても大変な出来事です。神からのテスト、試練と言えるでしょう。このことを「もし普通の人だったら、私だったらどうするだろう」と思いつつ読み進めますと、いろいろなことが示されます。 この22章には、「はい」という言葉が二度出てきます。「信仰」とは、この「はい」という言葉で表現できると言えます。こんなことを言われても「はい」と答えるアブラハム。アブラハムの心の内なる葛藤も、不安も、恐れなども書かれていない。ただ「はい」という言葉だけで行動しているのです。そこには一切の人間の感情、感傷はありません。妻サラのことも出てこない。全てを、自分一人で背負って行こうとしているアブラハムです。 この旅は3日間続く旅でした。3日間のアブラハムの辛さはどれほどのものだったか、想像するに余りあることです。最初の2日間は若者2人も共に4人で、そして3日目にはイサクと二人だけです。6節、8節の2回「二人」と出てまいります。主イエス・キリストは、一人でゴルゴタに向かわれました。アブラハムはイサクと二人で行く。ここにも深い意味があるように思います。 「苦悩は沈黙する」と言われます。苦しい時は黙る。ただ沈黙のみが流れる。不安は心騒がせ、恐怖には押さえがたいものがありますが、苦悩は沈黙です。 9・10節「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」。ここには、7つの他動詞が畳み掛けるように出てまいります。「築き、並べ、縛って、載せ、伸ばして、取り、屠ろうとし」、静けさの中で、震えるような深い思いにあるアブラハムの状況が、この動詞によってダイナミックに表されております。 アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以は、この「はい」という言葉です。神への全き信頼、服従の姿です。 私どもは、アブラハムのこの物語に「信仰」を読み取るのです。 私ども一人ひとりの物語も、決して美しいものだけではありません。苦しく、悩み、不安で、泥まみれ、そんな人生の中にあっても、アブラハムが示した「はい」という「服従の信仰」「神への従順」の中に、私ども各々の信仰を振り返ってみたいと思います。 |
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今朝は8節以下からです。 8節以下には、「誤解」と「信じる」という2つのテーマがあります。後半の「信じる」ことについては、ヨハネによる福音書は「信じる」ということを強調しておりますので、これまでも度々語って参りました。 「誤解」とは、主イエスの言葉を理解できないフィリポの言葉を指しております。6節・7節「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、既に父を見ている」と主イエスは言われました。しかしフィリポには、このことが何を意味しているのか理解できませんでした。 では「神を見る」ということが、なぜ「恵み深いこと」なのでしょうか。 「主イエスを見る」ことによって「神を見る」という幸いを与えられていること、それは神の「独り子イエスを下さってまでの罪の赦し」によるのです。「神なる方(イエス)が人となって、人と同じ者にまでなってくださった」ことによって、罪ある私どもも神と結ばれるという「神の救いの恵み」が明らかになるのです。 8節、しかしフィリポは「主イエスは父なる神と一つなる方だ」ということを理解できないばかりか、「主イエスは御父を示す、教えてくださる方だ」と「誤解」しております。その上に、教えてくだされば「満足できる」と言うのです。これは大きな誤解です。フィリポは自分が罪なる者であることを知らず、自分を善だと思っている、だから「神を知る」ことで自己満足しようとしているのです。 主イエスはここで「父なる神と一つなる方」として「三位一体」であることを示してくださっております。この「一体性」ということについて、現代に照らし合わせて考えてみたいと思います。 「キリストにあって」私どもは一つとされるのです。信仰の出来事は「私どもを一つにする」恵みの出来事です。ですから「キリストの恵みに与る者として一つ」とされた私どもは、違いにおいて一つなる「三位一体の神」を信じる者なのだということは、覚えるべき重要なことです。 フィリポの言う「満足」ということ、それは「罪を知り得ない」という致命的な誤解です。私どもは「主イエスを見ることで、御父を見ている」のです。主イエスが「人となって」くださった、だから「人と同じ者になってくださった神(御子イエス)を見る」このことによって「神を見る」ことができるのです。何故なら、そこに「罪の贖い」があるからです。 「既に父を見ている」と言われております。なんと幸いなことでしょう。誤解している弟子たちに、なお主イエスの御言葉が臨んでくださるのです。誤解しているフィリポは幸いなのです。フィリポがどう思っていようとも、弟子として「神を見ている」という幸いが与えられているからです。このことは素晴らしいことです。私どもは神を知らない、誤解している、にも拘らず、主イエスの御言葉を聴くことによって「既に神を知っている」と主は言ってくださるのです。 誤解でしかない私どもが、神に覚えられ、弟子とされ、神のものとされているのです。「キリスト」によって、「神を知る、既に知っている」という幸いの内にあるのです。 |
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ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を、こうして共々に守れますことを感謝いたします。 主イエスは十字架に死に、3日目に甦られ、40日にわたって弟子たちに現われ、神の国について語ってくださいました。弟子たちは「エルサレムに留まり、約束されたものを待て」との、甦りの主イエスのご命令に従って、1節「一つになって集まって」約束の聖霊を待っていたのです。 「聖霊が臨む」ということは「救いの言葉が与えられる」ということです。「聖霊が臨んで」弟子たちは神の言葉を語り始めました。ですから祈らなければなりません。祈ることによって聖霊をいただき、神の言葉を語ることができるのです。祈り、聖霊をいただくことなくして神の救いの言葉、即ち「神の慈しみ」を語ることはできません。祈り・聖霊のないところで語られるのは「人のことば、人の思い」のみです。自分の思いをぶつけることは、破壊であり自己中心です。人は、祈りなくして「慈しみ」を表すことはできません。人にとって大切なことは「神の慈しみの言葉(救いの言葉)」をいただくことであり、それは聖霊によって与えられることなのです。 14節以降、「聖霊をいただくことの恵み」をペトロの説教を通して聴いていきたいと思います。 12・13節、この聖霊の出来事に人々が戸惑うのも無理からぬことです。収穫のこの時期に作ったばかりの、発酵の盛んな「新しい酒に酔っている」ように見えたことでしょう。 ペトロはここで、特にユダヤ人に向かって語っております。ですから、15節「朝の九時ですから、酒に酔っているのではありません」という言葉には説得力があります。何故かと言えば、朝9時は朝の祈りの時間であり、敬虔なユダヤ人は祈りの前に飲み食いしないという前提があるからです。 16節「ヨエルの言葉の成就」が語られます。 続けて「あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る」と言われます。「預言」とは、御言葉を語ること。「幻を見る」とは、神の啓示を受けることです。「啓示」それは「神の御心を知る」即ち「神の救いのご計画を知る」ということです。ですから「聖霊が注がれる」ということは「主イエス・キリストを宣べ伝えること」であり「神の救いのご計画を知る」ということなのです。 18節「わたしの僕やはしためにも…」と、「わたしの=神の」と言われます。人の奴隷となるのではないのです。聖霊が臨むことによって「神のもの」とされ、新しい神の民として創り変えられる(創造される)ということです。 聖霊の最も重要な働きは「預言」です。それは「神の言葉を語る力」が与えられるということです。預言によって、神の慈しみの霊が働き、主イエス・キリストが宣べ伝えられ、人々は信じて救われるのです。 19・20節で言われていることは「天における神の救いのご計画」と「地上での主イエスの十字架の暗闇」です。 21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と言われます。「主」とは「救い主」です。「イエス・キリストを主と呼ぶ者」が転じて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。「キリスト、キリスト」と主の名を呼ぶ者がキリスト者であり、その人は救われるのです。 私ども「キリスト者」の中心にあることは、何よりも「主の名を呼ぶ」こと、ことごとに「主の名を呼ぶ」ことです。 主の名を呼び求めることがなければ、「神の慈しみ」を知り得ず、交わりの中で自分の思いをぶつけざるを得ない、相手が見えない「自己中心」になるのです。 「主の名を呼ぶ」とき、聖霊が臨み、人は「神の慈しみ」を知るのです。 |
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