聖書のみことば/2009.5
2009年5月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
わたしを信じなさい」 5月第1主日礼拝 2009年5月3日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章1〜14節
14章<1節>「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい<2節>わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。<3節>行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。<4節>わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」<5節>トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」<6節>イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。<7節>あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」<8節>フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、<9節>イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。<10節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。<11節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。<12節>はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。<13節>わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。<14節>わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

1節、主イエスは「心を騒がせるな」と、先ず言われます。
 それは、前章に続いているのです。13章38節「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスが言われたことに繋がっております。
 ここで「わたしのことを知らない」というところにポイントがあります。「知る」とは「交わりの出来事」を意味します。相手との「全存在の交わり」を示しているのです。「知らない」ということは「関係ない者としている」ということです。このことは、ペトロだけではなく弟子たち全体に対して言われていることです。「心を騒がせるな」ということは、まさに「わたしと交わりが無くなる」と主イエスに言われた弟子たちのショックに対しての言葉です。「関係が無くなるとはどういうことだろう」と、不安になったということです。

そのような弟子たちの不安に対して、「心配することはない」と主イエスはおっしゃってくださっております。「不安」は「主イエスとの交わりを失ったとき」にあるのです。

今日「神を知ることがない不安」があります。この世を「神なき孤独」が支配しているがゆえに、不安でしかないのです。「不安」は「交わりの喪失」です。

「交わり」は「神が共にいてくださる」ということです。主イエスは私どもと交わる方としておいでくださいました。
 「主イエスの十字架」は、私どもが交わりを失い絶望の淵にあるところに、主イエスが既に立っていてくださるという恵み、救いの出来事です。
 「平安」でいられるのは「神が共にいてくださる」からです。

弟子たちはこの後、主イエスの十字架の出来事によって、一時的に主イエスとの交わりを失うことになるのです。それを前に「わたしを信じなさい」と主イエスは言われます。「信じる」ことによって不安から解き放たれるのです。

そして、この「信じる」という出来事は「聖霊の出来事」です。「主イエスの御名によって」派遣される、聖霊の働きによるのです。

「信仰」とは「神との交わりにある」ことを意味するのだということを改めて覚えたいと思います。

道であり、真理である主」 5月第2主日礼拝 2009年5月10日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章1〜14節
14章<1節>「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい<2節>わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。<3節>行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。<4節>わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」<5節>トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」<6節>イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。<7節>あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」<8節>フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、<9節>イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。<10節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。<11節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。<12節>はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。<13節>わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。<14節>わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

先週に続いて、今日は4節からです。

「神を信じなさい。私を信じなさい。あなたがたのために場所を用意しに行く」と言ってくださった主イエスは、更に4節「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われます。これは驚くべき言葉です。この時、トマスをはじめ弟子たちは、まだ、主イエスの十字架も復活も昇天も知りません。にも拘らず、主イエスは「弟子なのだから、どこに行くのか、その道を知っている」と言われるのです。
 何故そのようなことをおっしゃるのでしょうか。「弟子」とは「主イエスを信じる者」のことです。「主を信じる者であれば、どこに行くのか、その道を知っている」と言われる。また、3節までには「信じる者たちには、天における住まいを準備する」と説明してくださっております。実はこれは、弟子たちにというよりも、主イエスと弟子たちとのやり取りを御言葉として聴く後の人たち(即ち、私ども)が、「主イエスを信じる者とは、どういう者なのか」を知るために語られていることです。その内容は、(1)「主イエスを信じる者は主の弟子である」ということ。(2)「弟子として、天に至る道を知っている 、天に住まいを与えられている」ということです。これは、主イエスを信じる全ての者に語られていることなのです。
 主イエス・キリストは、十字架につき、復活し、昇天して神の右の座におられる方です。その主イエスが、このように直接語ってくださり、主自ら私どもと共に住むと、天の国への保証を与えてくださっているとは、本当に有り難いことです。

しかし、主イエスの十字架・復活・昇天をまだ知らないトマスはじめ弟子たちは、主イエスの言葉を私どものようには受け止めることはできません。5節「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言わざるを得ないのです。
 しかし、実はここにもキリストの恵みがあります。一切を知らない者に「知っている」と宣言してくださる。それは、主イエスが「一切を知らない者」を「天に住まいする者」として覚えてくださっているということです。「知っているから天に住まいできる」のではありません。主イエスが「あなたがたは天に住まいする」と宣言してくださったからこそ、弟子たちは、主の復活・昇天に際して「ああ、そうだったのだ。わたしたちもそこへ行くのだ」と知ることが出来たのです。
 このことは論理で語れることではありません。これは「主イエスの権威・力による」ことです。主がこう言われる、だからこうなのだ、ということです。

「主イエスを信じる者は天に住まいする」とはどういうことでしょうか。それは、「主を信じる者」は「主と結ばれた者」として主と共に天に上げられ、主が用意していてくださる住まいに住まうことができるということです。「信じる」とは「結び合わされる」こと。信じる者は主イエスと結び合わされて天に至るのです。そして「天に住まいし、神との交わりに生きる」こと、それが「命」です。それは、地上の死に勝利した、地上を超えての「永遠の命」です。
 ヨハネによる福音書は、「救い」を「天に住まいすること、神との交わりに生きること」と語ります。単に「罪赦される」ということだけではなく「神との交わりをいただき、永遠の命をいただくこと」が「救い」だと示しているのです。
 ここで大事なことは「罪赦され、救われた」ということは「神との交わりの回復をいただいた」ということです。このことを忘れると、人は「謙遜」を失うのです。ただ「救われて良かった」ではありません。「神との交わりの回復」を抜きに「救い」を語ってはならないのです。昔、竹森満佐一牧師は「神の権威」を、和言葉を用いて「御陰さまで」と表現しました。私どもは「神の御陰」で生かされているのです。また「救い」を「和らぎ」と言い表しました。「救いを得る」とは「神との和解、和らぎに与る」ということなのです。

6節「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエスは言われます。
 「道」即ち「天に至る道」は「わたし」だと言われる。「主イエスは救いに至る道」ですから「主を信じることは、救いへと至ること」です。
 「わたしは真理である」と言われます。真理とは自然科学だけで説明できる事柄ではなく、様々な分野で、あるいは個々人の経験や表現の仕方によって異なるものです。しかし、ここでの真理とは「救いの真理」です。「主イエス・キリストは神の子、救い主である」ということが「救いの真理」であり、これが聖書の言い表す真理です。「主イエスの他に救いはない」だから、救いに至る真理はただ一つ「主イエス・キリストは神の子、救い主である」ということです。
 「わたしは命である」と言われます。それは「神との交わりに生きる者となる」ということです。「命ある」ということは「神との交わりに生きる」ということ、そのためには、主イエスを信じる以外にないのです。

続けて「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。「わたしを通らなければ」とは「主イエスを信じてしか」ということです。ただ「主イエス・キリストのみ、救いの真理」ということです。真理は様々ありますが「救いの真理」は唯一「主イエス・キリスト」のみであることを覚えたいと思います。

7節「今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」とは、主イエスの宣言です。「主イエスを信じ、弟子である」ということは、既に「救いに与っている」のだということが示されております。「御子イエス・キリストを知る」とは「父なる神を知る」こと、それは「神との交わりにある」ということです。それによって、今、既に「永遠の命に入れられている」と言ってくださる。本来は「終わりの日における恵み」である救いを、今、既に頂いているというのです。素晴らしいことです。「主イエスを信じる」ことは「神を知る」ことと一つであることを覚えたいと思います。私どもは、地上での生を終えて天に移されるとき、今既に与えられている救いによって「天における神との完全な交わり」をいただくのです。

地上において、私どもには様々な束縛があり、或いは嘆きを感ずるかも知れません。しかし、私どもは既に「神との交わり」を与えられている。今、既に与えられた恵みによって、全ての束縛から解き放たれているのです。

ここに、教会の「神より託された使命」があることを覚えたいと思います。今、既に知った者として、神との交わりの恵みに与った者として、地上において「ここに救いがある、神との交わりがある」ことを、宣べ伝える責任があるのです。
 今、既に与えられている「救いの恵み」を、自己満足に終わらせてはならないことを覚えたいと思います。

捧げる」 5月第3主日礼拝 2009年5月17日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第22章1〜19節、ヨハネによる福音書 第3章16〜21節
創世記22章<1節>これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、<2節>神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」<3節>次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。<4節>三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、<5節>アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」<6節>アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。<7節>イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」<8節>アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。<9節>神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。<10節>そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。<11節>そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、<12節>御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」<13節>アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。<14節>アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。<15節>主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。<16節>御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、<17節>あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。<18節>地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」<19節>アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

ヨハネによる福音書3章<16節>神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。<17節>神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。<18節>御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。<19節>光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。<20節>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。<21節>しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

人にはそれぞれ「物語」があると言えます。それは世に一つしかない、独自の道・旅路だと言えるでしょうし、あるいはそこから一歩も出ることができないかもしれない、そういう道を私どもは歩んでおります。

3月に引き続き、今日もアブラハムの物語から御言葉を聴きたいと思います。
 聖書の信仰は、砂漠で生まれた信仰と言われております。砂漠は「人を拒絶するところ」と言われます。草木も水もなく、今日の景色は明日には全く変わってしまっている、そういう世界です。
 森有正という哲学者は、アブラハムについて多く語っております。東大からフランスへ渡り、帰国後、各地でした講演の要旨が書物として残されておりますが、その内容のほとんどがアブラハムについてでした。その中で語っている大きな問題、それは「日本の文化は同化の文化である」ということでした。日本人は異質なものであっても取り入れ同化してしまう。それに対してヨーロッパの文化は冒険(アドベンチャー)の文化だというのです。アブラハム物語は正に冒険物語であり、異質なものと出会い、対決し、拒絶・受け入れるという生き方であると、有正は書いております。

今日の創世記の箇所は、典型的な冒険物語と言えるでしょう。年老いたアブラハムに与えられた子供イサク。目に入れても痛くないほどに愛おしいイサクを「焼き尽くす献げ物」として捧げよと神から命じられる。これはアブラハムにも妻サラにとっても大変な出来事です。神からのテスト、試練と言えるでしょう。このことを「もし普通の人だったら、私だったらどうするだろう」と思いつつ読み進めますと、いろいろなことが示されます。
 この場面で、アブラハムは、神の命令に対し一言も抗議をしておりません。「せっかく与えていただいた子供なのに…」とは言わないのです。

この22章には、「はい」という言葉が二度出てきます。「信仰」とは、この「はい」という言葉で表現できると言えます。こんなことを言われても「はい」と答えるアブラハム。アブラハムの心の内なる葛藤も、不安も、恐れなども書かれていない。ただ「はい」という言葉だけで行動しているのです。そこには一切の人間の感情、感傷はありません。妻サラのことも出てこない。全てを、自分一人で背負って行こうとしているアブラハムです。

この旅は3日間続く旅でした。3日間のアブラハムの辛さはどれほどのものだったか、想像するに余りあることです。最初の2日間は若者2人も共に4人で、そして3日目にはイサクと二人だけです。6節、8節の2回「二人」と出てまいります。主イエス・キリストは、一人でゴルゴタに向かわれました。アブラハムはイサクと二人で行く。ここにも深い意味があるように思います。
 アブラハムの不安、恐れ……その中で、二人の会話があるのです。イサク「わたしのお父さん」、アブラハム「ここにいる。わたしの子よ」。父子二人の会話の中に、何とも言えないものを感じます。何の飾りもない、感情もない。ただ神に対する「はい」との信仰、静けさがある。「父よ」「子よ」との会話の中に「神への思い」のみがあるのです。

「苦悩は沈黙する」と言われます。苦しい時は黙る。ただ沈黙のみが流れる。不安は心騒がせ、恐怖には押さえがたいものがありますが、苦悩は沈黙です。
 まさに、ここでは沈黙です。しかしここには、不思議な神への信頼の姿があるのです。神に対して希望を捨てない「穏やかな沈黙」です。決して心穏やかではないはず、にも拘らず、神への絶対的な信頼があるのです。アブラハムは、見えない「雄羊」を見ておりました。このことは「摂理」と言われることです。摂理は「先を見る」ということです。運命論ではありません。ヘブライ人への手紙第11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言われております。「見えないものを見る」それが「信仰」です。アブラハムの「はい」という言葉の中には「見えない事実を見ている」ことが示されております。それが神への信仰、必ず必要は与えられるという「神への絶対的な信頼」なのです。

9・10節「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」。ここには、7つの他動詞が畳み掛けるように出てまいります。「築き、並べ、縛って、載せ、伸ばして、取り、屠ろうとし」、静けさの中で、震えるような深い思いにあるアブラハムの状況が、この動詞によってダイナミックに表されております。
 何の飾りも要らないのです。「はい」というその一言で「信仰」を表すことができるのだということを、この物語は伝えております。

アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる所以は、この「はい」という言葉です。神への全き信頼、服従の姿です。
 そして、十字架の主イエスもそうでした。ゲッセマネで悶え苦しまれた主イエス。しかし最後には「御心のままに」と、神に従ったのです。

私どもは、アブラハムのこの物語に「信仰」を読み取るのです。

私ども一人ひとりの物語も、決して美しいものだけではありません。苦しく、悩み、不安で、泥まみれ、そんな人生の中にあっても、アブラハムが示した「はい」という「服従の信仰」「神への従順」の中に、私ども各々の信仰を振り返ってみたいと思います。

御父をお示しください」 5月第4主日礼拝 2009年5月24日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第14章6〜14節
<6節>イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。<7節>あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」<8節>フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、<9節>イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。<10節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。<11節>わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。<12節>はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。<13節>わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。<14節>わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

今朝は8節以下からです。

8節以下には、「誤解」と「信じる」という2つのテーマがあります。後半の「信じる」ことについては、ヨハネによる福音書は「信じる」ということを強調しておりますので、これまでも度々語って参りました。
 今日は前半の「誤解」ということを中心に語りたいと思います。

「誤解」とは、主イエスの言葉を理解できないフィリポの言葉を指しております。6節・7節「わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、既に父を見ている」と主イエスは言われました。しかしフィリポには、このことが何を意味しているのか理解できませんでした。
 主イエスが言われたこと、それは何を意味しているのでしょうか。それは「主イエスは神の独り子。独り子として父なる神と一つなる方である」、だから「主イエスを見ることによって、父なる神を見ているのだ」という恵み深い内容なのです。

では「神を見る」ということが、なぜ「恵み深いこと」なのでしょうか。
 本来「聖なる神」の前に「罪なる人」は立つことができません。神の前に立てば自分の罪の姿を晒すことになり、いかに自分が神から遠いかを思わざるを得ないからです。ですから「神を見る」ということは、そういう罪を赦されて初めてあることで、これは尋常なことではありません。神の前に立つ、それは「罪の清算」即ち「死」を意味しております。ですから「あなたがたは神を見ている」と主イエスが言ってくださることは、罪にすぎない神から遠い者、死でしかない者が「赦されて、神を見る者とされている」という恵み深い出来事なのです。

「主イエスを見る」ことによって「神を見る」という幸いを与えられていること、それは神の「独り子イエスを下さってまでの罪の赦し」によるのです。「神なる方(イエス)が人となって、人と同じ者にまでなってくださった」ことによって、罪ある私どもも神と結ばれるという「神の救いの恵み」が明らかになるのです。

8節、しかしフィリポは「主イエスは父なる神と一つなる方だ」ということを理解できないばかりか、「主イエスは御父を示す、教えてくださる方だ」と「誤解」しております。その上に、教えてくだされば「満足できる」と言うのです。これは大きな誤解です。フィリポは自分が罪なる者であることを知らず、自分を善だと思っている、だから「神を知る」ことで自己満足しようとしているのです。
 しかし「神を見る、知る」ということは、キリスト者にとっては「罪を知る痛み」であり、だからこそ「罪の赦しを知る喜び」なのであり、それは「懺悔と感謝」であるべきことを覚えなければなりません。「神を知る」それは「自分の罪を知り、その罪を赦された者として生きる」ということなのです。

主イエスはここで「父なる神と一つなる方」として「三位一体」であることを示してくださっております。この「一体性」ということについて、現代に照らし合わせて考えてみたいと思います。
 今日「一体性」は失われつつあります。今や家族も夫婦も一体性がなくなり、違い・個性が強調される時代になりました。それは「孤独」を生むのです。
 「一体性」の大切な点は、帰属性として「自らの存在の確かさを持つことができる」ということです。ただ問題なのは「依存」するということです。しかし「違い」「個性」は、自立性を持つという点では大事なことですが、違いを言えば言うほど、存在の確かさを失ってしまうのです。ですから自立性の確立はとても重要なことですが、しかし一体性を失って良いということではないのです。
 「主イエスは父なる神と一つ」という「三位一体の神」を信じることが聖書の信仰です。「三位一体」を言うとき「父・子・聖霊」は、各々に「位格」を持つ固有の存在です。独立した存在でありながら本質を同じくするものとして「一つの神」だということです。「独立したものとして一つ」ということ、これは「秘義」の出来事であり、キリスト者はこの「秘義」に与っているのです。違う者たちが「キリストを通して一つ」とされているということです。
 「自立」と「一体」に生きること、そうでなければ生きられないのだということを知らなければなりません。人は皆、それぞれ違う自立した歩みをしなければなりません。しかし、私どもは「キリストの恵みを共有している」というところで「一つ」なのであり、そこでこそ一致できるのです。そこでこそ互いに理解し、受け止めることができるのです。それがなければ「孤独」なのです。ですから「信じることの恵み」は「一体性の恵み」です。違いが強調される時代だからこそ、今、信じることによる一体性が必要なのです。「信じることを失っている」こと、それが現代の問題なのです。

「キリストにあって」私どもは一つとされるのです。信仰の出来事は「私どもを一つにする」恵みの出来事です。ですから「キリストの恵みに与る者として一つ」とされた私どもは、違いにおいて一つなる「三位一体の神」を信じる者なのだということは、覚えるべき重要なことです。

フィリポの言う「満足」ということ、それは「罪を知り得ない」という致命的な誤解です。私どもは「主イエスを見ることで、御父を見ている」のです。主イエスが「人となって」くださった、だから「人と同じ者になってくださった神(御子イエス)を見る」このことによって「神を見る」ことができるのです。何故なら、そこに「罪の贖い」があるからです。

「既に父を見ている」と言われております。なんと幸いなことでしょう。誤解している弟子たちに、なお主イエスの御言葉が臨んでくださるのです。誤解しているフィリポは幸いなのです。フィリポがどう思っていようとも、弟子として「神を見ている」という幸いが与えられているからです。このことは素晴らしいことです。私どもは神を知らない、誤解している、にも拘らず、主イエスの御言葉を聴くことによって「既に神を知っている」と主は言ってくださるのです。
 このことは、信仰生活が長ければ長いほど理解できるというようなことではありません。「信じきれない、あやふやな」「神を見失っている」ときでも、ここでこうして御言葉を聴いているとき「あなたは既に神を見ている。神との交わりの中にある」と言ってくださる。誤解にすぎない私どもであるにも拘らず、常に神の恵みの中にあるという幸いなのです。

誤解でしかない私どもが、神に覚えられ、弟子とされ、神のものとされているのです。「キリスト」によって、「神を知る、既に知っている」という幸いの内にあるのです。

ペトロが話し始める」 聖霊降臨日礼拝 2009年5月31日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/使徒言行録 第2章1〜21節
2章<1節>五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、<2節>突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。<3節>そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。<4節>すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。<5節>さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、<6節>この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。<7節>人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。<8節>どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。<9節>わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、<10節>フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、<11節>ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」<12節>人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。<13節>しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝を、こうして共々に守れますことを感謝いたします。

主イエスは十字架に死に、3日目に甦られ、40日にわたって弟子たちに現われ、神の国について語ってくださいました。弟子たちは「エルサレムに留まり、約束されたものを待て」との、甦りの主イエスのご命令に従って、1節「一つになって集まって」約束の聖霊を待っていたのです。
 「五旬祭」はユダヤでは過越から50日目の収穫の祭りのときであり、エルサレムには各地から巡礼の者たちが来ておりました(5節)。「過越」は「主イエス・キリストの贖い」を示しておりますから、そういう意味では主イエスの復活から50日目、まさに時が整えられて、弟子たちは「聖霊を受けた」ということです。
 そして、あらゆるところ(9・10節)から来た人々の故郷(日常)の言葉で「神の偉大な業(11節)」を語り始めるのです。ここに「教会」の姿が示されております。「主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの業」を全世界に、その地の人々の言葉で語る・宣べ伝える、それが「教会の業」なのです。
 弟子たちが復活の主イエスに会った、しかし、それだけでは単に「集った」に過ぎません。復活の主イエスに会った弟子たちは集い、なお心を合わせて10日間祈った、そこに聖霊が降って「一つのもの」とされました。即ち「主イエス・キリストを証しするものとして一つのもの」=「教会」となったということです。教会は、主イエス・キリストを証しすることにおいて一つなのです。主イエス・キリストを証しすることにおいて、全世界のどこにあっても変わらないのだということを覚えたいと思います。

「聖霊が臨む」ということは「救いの言葉が与えられる」ということです。「聖霊が臨んで」弟子たちは神の言葉を語り始めました。ですから祈らなければなりません。祈ることによって聖霊をいただき、神の言葉を語ることができるのです。祈り、聖霊をいただくことなくして神の救いの言葉、即ち「神の慈しみ」を語ることはできません。祈り・聖霊のないところで語られるのは「人のことば、人の思い」のみです。自分の思いをぶつけることは、破壊であり自己中心です。人は、祈りなくして「慈しみ」を表すことはできません。人にとって大切なことは「神の慈しみの言葉(救いの言葉)」をいただくことであり、それは聖霊によって与えられることなのです。

14節以降、「聖霊をいただくことの恵み」をペトロの説教を通して聴いていきたいと思います。

12・13節、この聖霊の出来事に人々が戸惑うのも無理からぬことです。収穫のこの時期に作ったばかりの、発酵の盛んな「新しい酒に酔っている」ように見えたことでしょう。
 そのような中で、14節「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」と記されております。これは驚くべきことです。主の十字架のとき、主を否み、ユダヤ人を恐れて逃げ出したペトロを始めとする弟子たちが、ユダヤ人を相手に「声を張り上げる」とは!です。「聖霊」は人に力を与えるのです。「神の力をいただく」ことにより、もはや「人に支配されない、人を恐れない」ようになったのです。神の力をいただくことは「神の支配の内へと移される」ことです。もはや地上の力に束縛されなくなるということです。人の目を気にせずに「神の救いの業を語り出す」ことができるようになったのです。
 弟子たちは、この世に対抗するために、力んで、声を張り上げたのではありません。この世の支配に囚われざるを得ない人々の救いのために、神の憐れみを語るために立ち上がり、語り始めたのです。

ペトロはここで、特にユダヤ人に向かって語っております。ですから、15節「朝の九時ですから、酒に酔っているのではありません」という言葉には説得力があります。何故かと言えば、朝9時は朝の祈りの時間であり、敬虔なユダヤ人は祈りの前に飲み食いしないという前提があるからです。

16節「ヨエルの言葉の成就」が語られます。
 その内容は、17節「終わりの時に、聖霊が注がれる」ということです。これは「聖霊が注がれ、終りの時が始まった」ということです。
 「終わりの時」とは「裁きと救いの時」、即ち「救いの完成、救いが全てとなる時」です。「弟子たちに聖霊が注がれ、救い主キリストの福音を語り始める」その時から「終わりの日の救いが始まって」いるのです。弟子たちが語り始めた「教会の始まり」の時に「終わりの日が始まる」のです。ですから「教会の業」は「終わりの日の救いの業」なのです。
 この世でキリストを信じる者は、終わりの日の救いの約束をいただいて生きる者です。終わりの日に「完全に救われた者」とされる、その「終わりの日の救いの完成を待ち望み」つつ、その中間点を、今、生きているのです。
 新約の信仰において「キリスト(救い主)」を思うときには2つのことがあります。一つは、救われていることを思い起こす「想起」。もう一つは、救いの完成を待ち臨む「待望」です。旧約の信仰においては、救い主を待ち望むという「待望」のみなのです。
 「聖餐に与る」ことは、まさしく「想起と待望」です。罪赦されていること、今既に神との交わりの内にあることを見える形で表す、それが「聖餐」なのです。

続けて「あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る」と言われます。「預言」とは、御言葉を語ること。「幻を見る」とは、神の啓示を受けることです。「啓示」それは「神の御心を知る」即ち「神の救いのご計画を知る」ということです。ですから「聖霊が注がれる」ということは「主イエス・キリストを宣べ伝えること」であり「神の救いのご計画を知る」ということなのです。

18節「わたしの僕やはしためにも…」と、「わたしの=神の」と言われます。人の奴隷となるのではないのです。聖霊が臨むことによって「神のもの」とされ、新しい神の民として創り変えられる(創造される)ということです。

聖霊の最も重要な働きは「預言」です。それは「神の言葉を語る力」が与えられるということです。預言によって、神の慈しみの霊が働き、主イエス・キリストが宣べ伝えられ、人々は信じて救われるのです。

19・20節で言われていることは「天における神の救いのご計画」と「地上での主イエスの十字架の暗闇」です。

21節「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と言われます。「主」とは「救い主」です。「イエス・キリストを主と呼ぶ者」が転じて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。「キリスト、キリスト」と主の名を呼ぶ者がキリスト者であり、その人は救われるのです。

私ども「キリスト者」の中心にあることは、何よりも「主の名を呼ぶ」こと、ことごとに「主の名を呼ぶ」ことです。

主の名を呼び求めることがなければ、「神の慈しみ」を知り得ず、交わりの中で自分の思いをぶつけざるを得ない、相手が見えない「自己中心」になるのです。

「主の名を呼ぶ」とき、聖霊が臨み、人は「神の慈しみ」を知るのです。
 「主の名を呼ぶ」とき、その人は既に「神の救いのうちにある」のだということを覚えたいと思います。