聖書のみことば/2009.4
2009年4月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神殿に入る主イエス」 4月第1主日礼拝 2009年4月5日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第11章1〜11節
11章<1節>一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、<2節>言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。<3節>もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」<4節>二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。<5節>すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。<6節>二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。<7節>二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。<8節>多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。<9節>そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。<10節>我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」<11節>こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

今朝から受難週です。
 この一週間は、主イエスの十字架に至るまでのご受難を覚える時であり、このご受難は私どものためのご受難であることを覚える時です。今年、愛宕町教会ではマルコによる福音書の御言葉に聴き、祈り、祈祷会において共に祈り、金曜日には受難日礼拝を守ります。主のご受難が、私どもの罪を贖うための日々であることを覚えつつ過ごしたいと思います。

1節「エルサレム」は「神の都」です。そこには神殿があるのです。主イエスはエルサレムに入るに際して、弟子のうちの2人を使者として遣わされます。「2人の使者」とは、その使者が正式な使者であることを示しております。
 エルサレム、そこは王の在す所でもあります。ですから「使者を立てて入城を告げる」ということは、このことが「王としての入城」であることを示すのです。
 主イエスの王としてのエルサレム入城。しかし使者となった2人の弟子は、主が王として入城されることを自覚していたでしょうか。いえ、分ってはいないのです。2人の弟子は何をしたらよいかも分っていない。にも拘らず、主イエスは2人を遣わされるのです。
 弟子も人々も、主イエスが王として入城されることを理解していない。これは「隠された形」で主イエスがエルサレムに入られることを意味しております。ただ主イエスのみがご存知なのです。弟子たちにこのことが分るのは、十字架の後、復活の主が弟子たちに臨んでくださってのことです。主イエスのエルサレム入城は、主の復活があってこそ理解し得る出来事なのだということを覚えたいと思います。
 「隠されている」ということは大事なことです。人の理解、分る範疇の出来事であれば、それは人の思いの中での出来事に過ぎません。しかしこれは、人の思い・理解を超えた出来事です。人の思い・理解を超えた出来事として人々が受け止めるための「無理解」なのです。主イエス・キリストは、私どもの思い、理解を超えた「救い主」だからこそ、私どものすべてをご存知でいてくださり、私どもの全生涯を、私どもを丸ごとお救いになることができるのです。
 私どもは「自分で自分を知り得ない者」です。自分自身をすら把握できない、分らない者が救われる、そういう救いを私どもは与えられているのです。

2節、主イエスは、何をしたらよいのか分らない2人に「なすべきこと」をお示しくださいます。弟子たちが何をなすべきか、主のみが全てをご存知です。
 私どもも主イエスの弟子です。弟子として何をなすべきか、私どもは弁えているでしょうか。弁えてはいないでしょう。私どもはなすべきことを知らないのです。ご存知なのは主イエスのみ。だからこそ、私どもは「主イエスに聴く」ことが大事なのです。自分のなすべきことをどこで知るのか。それは「御言葉に聴き、祈り、御言葉に服する(礼拝する)」ところで知るのです。人に聞いても、自分で語っても駄目です。「なすべきことを知ること」は「自分自身を生きること」です。御言葉に聴くとき、私どもは真実に「自分自身になれる、自分自身を生きる」のだということを覚えたいと思います。

2人の弟子を遣わして、主イエスは「子ろば」を召されます。主イエスは、これからの一切を弁え知って「十字架の苦難、死」を覚悟しておられるのです。
 私どもの生涯は死に向かっての日々ですが、私どもは「死の自覚、準備」をしながら歩んでいるでしょうか。死や苦しみは避けたいと思うのが常でしょう。死を目前にしては、受け入れ難く不安になり混乱するのみです。しかし主イエスは、十字架への苦難、十字架の死を自覚した上で一歩を進まれる。十字架の死という最も悲惨な死を死ぬために、一歩を歩まれるのです。主のみ、成し得ることです。
 死の支配に敗北するのみの私どものために、主イエスは死をご自分のものとしてくださいました。「人間としての死を十字架で死ぬ」ことによって、主イエスは「人の死を引き受けて」くださったのです。人の負うべき苦しみ・死を、十字架の主イエスがご自分のものとしてくださる、この意味するところは大きいものです。受難週のこの時に改めて覚えたい。それは、死を迎えざるを得ない私どもの苦しみ、不安な死の淵に、主イエスが既にいてくださるということです。人の死を死んでくださった主が共にいてくださり、その死に打ち勝ってくださった主が共にいてくださることが約束されているのです。人の死の極みに主イエスが既に立っていてくださるとは、何と幸いなことでしょう。死の極みで主に出会い、主と結ばれることができるのです。
 私どもは今日の礼拝の中で一人の姉妹の納骨式をいたします。地上での交わりが深ければ深いほど、残された者の悲しみは深いのです。地上での交わりがどんなに深くても、私どもは「死の極み」に共にいることはできません。しかし主イエスは、その極みに姉妹と共にいてくださったことを確信することができます。
 主イエスのエルサレム入城。それは、十字架への一歩を主イエスが歩み出してくださったということです。十字架の苦しみ・死があり、そして復活があるのです。復活の主と結ばれた者として、私どももまた、死を超えて主と共に甦る。「メメント・モリ」とは「死を覚えよ」という意味で、修道院での挨拶の言葉として有名です。死すべき者として神の憐れみを覚えつつ生きること、それがキリスト者の生き方、死を超えた命の約束が与えられているからこその生き方なのです。

3節「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、…」と記されております。そんなことを問うのは、子ろばの所有者以外にはいないのではないでしょうか。しかし「だれかが」と記す、そこで示されていることは、子ろばの真の所有者は主イエスであるということです。全ては主のもの、神のものなのです。天地万物の全ての創造主である主が、救いの御業をなすために子ろばをお用いになる。ですから人は「主がお入り用なのです」との言葉に従わなければならないのです。
 「子ろばに乗る」とは滑稽な様です。ここに示されていることは、このように「低くなって」まで、私どもを救ってくださるということです。
 そして、本来、救い主なる主イエスが乗るには相応しくない「子ろば」も、主の救いの御業のために必要とされているということです。2人の弟子も子ろばも、何も知らない、分らないままに、主の救いの御業のために用いられております。
 私どももまた、同様です。主は私どもをも、主の救いの御業のために用いてくださいます。そして「なすべきこと」、つまり「主がお入り用なのです」と答えることを教えてくださり、私どもがなすべきことをなすために「主の名を用いる」ことを赦してくださっているのです。
 私どもは主の御用をなすに相応しい者でしょうか。相応しくないにも拘らず、主が「あなたを必要とする」と言い、なおかつ主の御用のために「主の名を用いる」ことを赦していてくださるのであり、そこで主の名が語られるとき、そこに主が働いてくださり、そこでこそ主の恵みが現されるのです。
 私どもは、相応しいから用いられるのではありません。返って主の栄光の邪魔をする者に過ぎないにも拘らず、何と幸いなことでしょうか、相応しくない者だからこそ、神の恵みを最大限に現すことが出来る、というのです。私どもが、自分で何かが出来るとすれば、それは神の栄光を曇らせることです。「神以外ない、神が全て」となるところで、神の栄光を最も現すことができるのです。

9節、「ホサナ」とは「神よ、救いたまえ。憐れみたまえ」という意味です。人々は「救い主イエス」を迎えていることを知らずに「ホサナ」と叫んでおります。

今、私どもは「主イエスは救い主。主よ、救いたまえ」と叫ぶ者でありたいと思います。主イエスが「神の憐れみ」として、私どもの所へ来てくださっていることを覚え、「ホサナ」とお迎えする者でありたいと思います。

本当に、神の子」 受難日礼拝 2009年4月10日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第15章33〜41節

15章<33節>昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。<34節>三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<35節>そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。<36節>ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。<37節>しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。<38節>すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。<39節>百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<40節>また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。<41節>この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

今日、受難日のこの時に、私どものための主のご受難を覚えて、共に集い、礼拝できますことを感謝いたします。

33節、「昼の12時」は本来、明るく眩しい時間です。しかし「全地は暗くなった」と記されております。旧約アモス書8章9〜10節「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする。」の成就としての出来事です。アモス書は「終わりの日の闇の世界」を「独り子を亡くしたような悲しみ」と表しております。
 まさに、神の独り子・主イエスの死、その悲しみによって全世界が闇に包まれる、主の死が全世界を支配するものであることが示されております。主イエスの死は、世界の片隅の、一時の出来事なのではありません。地上の、宇宙全ての場所、時を超えて、主イエスの死が覆い尽くすのです。

34節「三時にイエスは大声で叫ばれた」。午後3時。12時から3つの時を経て、「救いを成し遂げられた、成就の時」が到来したことが示されております。主イエスの死、それは力尽きての死ではありません。神の御心としての死、救いの成就の時としての死なのです。
 主イエスの肉の体としての最後の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。そこには「見捨てられた者の思い」が語られております。「人々から」だけではなく「神にも」見捨てられたという深い孤独、絶望の叫びです。
 何よりも「人々の裏切り」がありました。罪無きと知りながら十字架につけたピラト、律法学者ファイサイ人たち、主イエスを喜んで迎えたはずの群衆たち、主を捕らえる兵士たち、そして逃げ去った弟子たち、婦人の弟子たちも遠くで見守るだけです。十字架の主イエスの近くに、足下に、誰も来ようとはしない。思いがあっても遠くから見守るだけ。主イエスに癒された者も赦された者もいたはずなのに、その主イエスのご恩に報いる者は誰もいないのです。

私どもは今、未来への希望を失った時代を生きております。人々はこの世の経済システムに頼り、経済(お金)を偶像とし、好きなように働き、いつまでも好きなように生きることができると思っていたのです。しかしこのシステムは脆くも破綻しました。共同体は失われ、この世は今、希望を失った深い孤独の淵にあります。偶像礼拝とはまことに愚かなことです。人々は行き詰まりの果てに「神も仏もない」と言います。しかし、では何時、神を呼んだでしょうか。この世は神を拝せず、偶像礼拝する者でした。人は自分に根拠を持つことはできない存在です。神に創られた者として、神にのみ存在の根拠があるのです。にも拘らず、神を拝せず偶像を拝する者、それはまさしく「神に見捨てられた者」と言わざるを得ません。
 しかし、十字架の主イエスは、このように愚かな私どものために「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」と叫び、「神に見捨てられた者」としてご自身を言い表してくださっております。今日の全世界の失望・絶望を、主イエスがご自分のものとしてくださっている、そういう叫びなのであります。この叫びは、今の時代の苦しみ・絶望を先取りしてくださっている叫びなのだということを覚えねばなりません。だからこそ、今、この世界には救いが必要なのです。主イエス・キリスト無しには済まされないのです。
 主イエス・キリストは十字架に付き、絶望の淵・見捨てられた者の淵に立っていてくださる方です。人の経験を遥かに超えた深い孤独の淵に、主は既に立っていてくださるのです。
 そして、そこでこそ、絶望の淵に立つ私どもは主イエス・キリストと結び合わされることが赦されているのです。そしてそれは、この世界も同じです。主イエスが見捨てられた淵に立っていてくださる、だからこそ、そこで、私どもは希望を持つことができるのです。

主イエスは「わが神、わが神」と、絶望の淵でなお、父なる神を信頼して呼んでおられます。ですから私どもも、主イエスと結ばれた者として、主イエスと共に、父なる神を「わが神、わが神」と呼ぶことが赦されております。主イエスと結ばれることによって「神との交わりに入れられる」という恵みをいただいているのだということを覚えたいと思います。
 言い知れぬ闇、絶望の淵に立たされている者が、私どもの中にもあります。それ故にこそ、「わが神、わが神」との、この主イエスの叫びを聴いて欲しいのです。そして知って欲しい。あなたのその孤独の淵に主イエスがいてくださることを。主イエスが「わが神」と呼ぶことによって、私どももまた、生ける神との交わりに入れられるのだ、ということを。

36節、「ぶどう酒」は、痛みを紛らわせるためのものです。しかし、主イエスはお受け取りになりませんでした。それは、十字架の苦しみを味わい尽くすため、人の罪の苦しみをなめ尽くすためです。

37節、「大声を出して」、主イエスは死なれます。しかしそれは、命尽きての死ではありません。「成し遂げての死」、死んだのではなく、死なれたのです。

38節「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。神殿において、垂れ幕の内側(至聖所)が唯一の神との交わりの場でした。しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、至聖所が開かれ、そこでのみの神との交わりが終わりとなったということです。主の十字架によって、どこにあっても、いつであっても、神との交わりを得ることができるようになったということです。

39節、一切を見届けて、百人隊長は言うのです、「本当に、この人は神の子だった」と。主イエスの最後の御言葉に、まさに見事なその死に様に、全てに勝利するその姿に、神の子としての尊厳を、力を見たのです。十字架に死なれた主イエスは、死に屈服したのではなく「死を屈服させられた方」です。
 十字架に死なれた主イエスに対して、初めて信仰告白したのは、ユダヤ人でも弟子でもなく、異邦人の百人隊長でした。

今、私どもは「あなたは、十字架の主イエスを何と告白するのか」と問われております。そして「本当に、この人は神の子」との信仰告白を求められております。そして覚えたい。百人隊長のこの信仰告白の言葉を通し、私どもは「十字架の主イエスこそ、神の子、わたしの救い主」と告白する「聖霊の導き」をいただいているのです。

まことに「十字架の主イエスこそ、神の子、わたしの救い主」であります。

あの方は復活なさった」 イースター礼拝 2009年4月12日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/マルコによる福音書 第16章1〜8節

16章<1節>安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。<2節>そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。<3節>彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。<4節>ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。<5節>墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。<6節>若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。<7節>さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」<8節>婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

復活の主イエス・キリストを、主の十字架の死によって贖われた者として共々に賛美し、礼拝できますことを感謝いたします。

私どもの罪の贖いのために十字架で死なれた主イエスは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。1節、女性たちは安息日が終わるとすぐに香料を買いに行きます。安息日(土曜日)の日の入りに直ちに香料を買い、週の初めの日、日の出と共に墓へと急ぐのです。ここに、女性たちの主イエスに対する並々ならぬ思いが示されております。主イエスを愛して止まない姿です。十字架を前にして成す術もなく遠くにいた女性たち。しかし深く深く主を愛し思っていた、だからこそ葬りの支度をしたかったのです。ここに「葬りの心」が示されております。死者に対して愛を尽くすこと、それが葬りです。主イエスに対して最後の愛を尽くそうとして、女性たちは行動しているのです。

3節「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。早朝、墓に人がいるはずはありません。目当てもなく、それでも早く行きたい一心で女性たちは墓へと急ぎます。本来ならば11人の男弟子たちと一緒に行けばよいのです。しかし男弟子たちは既に逃げ出しており、頼りにできない。ここに女性と男性の違いがあります。男性は理想・夢に生きようとし、現実を見ないのです。男弟子たちは彼らなりの理想のイエス像を抱きますが、十字架によってその夢が敗れ、絶望・失望し逃げ去る。しかし、女性には現実を受け入れる強さがあります。女性たちは主イエスの死の現実を受け入れ、墓(死)に向かい、墓に到達するのです。

4節「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」。とても女性の手では転がすことのできない大きな石です。「ところが」には「なんと驚いたことに…」という思いが語られております。
 そして、「石が転がしてあった」という出来事は、既にそこに大きな力が働いているということ、人の思いを超えた大きな力が働き、新しい何事かが始まったことが暗示されております。主イエスの十字架の死は終りではなかった。十字架によって挫折したのでもない。そうではなくて「新しい出来事が始まっている」のです。
 「石が転がしてあった」という出来事は、死の現実を受け入れようとして墓に来た女性たちに対して、「主の十字架による新しい神の御業が示されている」出来事なのだということを覚えなければなりません。

5節「婦人たちはひどく驚いた」。「白い衣」は「神からの使い」であることを示します。女性たちは、人以上のものを見て恐れおののいたのです。圧倒する神の臨在を感じ、その偉大さに直面し、恐れる以外になかったのです。

6節、神の使い(天使)は、神の御業・恵みの知らせを告げるために来たのだから「驚くことはない」と、恐れを取り除いてくださいます。告げられていることとは何なのでしょうか。ここで新しく起こっていること、それは「復活」です。「死から復活へ」という「新しい始まり」が告げられているのです。そこに「大いなる神の力」が働いているということです。
 主イエスを死者の中に見い出すために墓に来た女性たちに対して、天使は「十字架に死んだ主イエスは甦られた」と告げてくださる。この天使の言葉は意義深いと思います。「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが…」と記されておりますが、実はマルコによる福音書では女性たちは捜しておりません。墓に入るとすぐに天使に会い、捜す前に、天使から「復活」を告げられる。これはどういうことでしょうか。「捜す」という言葉の中には、主イエスを「死んだ者と思っている」ということが示されております。ですから「死者の中に主イエスを捜しているが、見つからないよ」と言われているのです。
 主イエス・キリストは、死の中にはおられない。主イエス・キリストは死なれた、しかし死者の一人になったのではないのです。主イエス・キリストは死者の中に留まってはおられない。「あの方は復活なさった」、驚くべきことがここに語られております。そして「主イエス・キリストが復活なさった」ことによって、新しい時代が始まったのです。

百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(15章39節)との言葉を思います。「神の子であられる方が十字架に死なれた」とは、どういうことでしょうか。主イエスは、罪人として、罪の故に死んだのではありません。主イエスは神の子として、敢えて十字架に死んでくださったのです。それゆえ罪も死も一切は無効とされました。なぜか。本来、罪の価は死です。しかし、罪無き神の子主イエスが死んでくださったことによって、罪無きを死と定めた死の支配は無効となるのです。死ぬ必要のない神なる方を死と定めた死は間違いを犯したために、死の支配の終わりが告げられるのです。
 ですから、十字架は復活へと繋がる出来事です。死も罪も過ちを犯し、死も罪も力を失ったからです。十字架と復活は一つなのです。「新しい始まり」それは死と罪の縄目から解き放たれ、永遠の命に与る恵みをいただくことです。
 十字架で敗北したのは、主イエスではありません。罪と死が敗北したのです。十字架は、復活として、罪と死に対する勝利です。そういう意味で、主イエスの復活は起こるべきして起こった必然の出来事です。それは人の思いを超える出来事です。
 天使は、主イエスが死の世界にはおられないことを告げます。死の世界がもはや終りを遂げたことを語ってくれております。ですから、ここで私どもは知ります。主イエスの復活によって死の支配は既に終わり、復活の主が私どもの救い主として永遠の命を与えてくださる方であることを知るのです。空の墓は、陰府(よみ)の力が虚しくなったことを示しております。

7節、11人の弟子たちは故郷のガリラヤへ逃げ帰っております。そのガリラヤへ、主イエスは先に行って「会う」と言ってくださるのです。本来ならば、弟子たちに「思い直して会いに来い」と言うところでしょう。ところが、主イエスは「逃げ帰った者の逃げ帰ったその場所に、先に行って会う」と言ってくださる。それが主のあり方です。「信じられない者、希望を失った者に、主の方から会ってくださる。そして信じる者へと変えてくださる」畏れるべき出来事です。
 信仰とは、主が臨んでくださって起こる出来事です。私どもの思いで起こることではないのです。だからこそ、そこで知るのです「主イエス以外に救いはない」と。心に落ちるのです「ああ、本当にそうだった」と。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」、失望し逃げ帰った、そこで主が会ってくださるとの、この御言葉を忘れてはなりません。

この御言葉をいただいたにも拘らず、女性たちは逃げ去ってしまいます。どこまでも信じられない者なのです。しかし、マルコによる福音書を読んでみてください。どこにも誰かが「信じた」とは記されておりません。しかし今、世界中に主の教会は立てられております。「信じる」という出来事は、人の思いによっては有り得ないのだということを改めて覚えたいと思います。

私どもは、どこで主を知るのでしょうか。御言葉が語られ、御言葉を聴く中で、御言葉に捕らえられて知るのです。「主イエス・キリストが、わたしの救いのために復活してくださった」ことを知るのです。主イエス・キリストが私どもの心の中に語りかけてくださる、そこでこそ心からの喜びが与えられるのです。

洗礼は、古き人を死に新しき人に甦ること、すなわち「キリストのもの、神のものとされて生きる」ということです。孤独の淵にあった者が、新しく神と共に生きる者とされるのです。主が臨んでくださることによって、私どもは新しくなれる。そしてそれは、誰にでも与えられている大いなる希望なのです。

互いに愛し合う」 4月第3主日礼拝 2009年4月19日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章31〜35節

13章<31節>さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。<32節>神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。<33節>子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。<34節>あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。<35節>互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

31節「さて、ユダが出て行くと、…」と記されております。27節の「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」との主イエスの言葉を受けて、ユダは「主イエスを裏切るため」に出て行きます。「主イエスを裏切る」、それはファリサイ人たちに主イエスを売ること、即ち主イエスを十字架へと向かわせることです。

ですから話の筋からいけば、主イエスの言葉を受けて、「そして」ユダは出て行き、主は十字架につけられた…となるでしょう。ところがここでは「さて、ユダが…」と始まっております。そして主イエスは、「裏切られる」ことが「栄光を受ける」ことだとおっしゃるのです。主イエスがお受けになる「人の子としての栄光」とは「メシアとしての栄光」ということです。人の思い・視点では「裏切り」でしかないこの出来事が、「さて」と始まることによって「栄光を受ける」という神の視点へと大きく意味を転換させられているのです。
 「栄光」とは何でしょうか。「栄光」とは「神が神としてご自身を現わされること」です。主イエスがユダの裏切りにより十字架につくことによって「救い主」としての使命を果たされる、それが「主イエスがキリスト(救い主)としてご自身を現される」即ち「人の子が栄光を受ける」ということです。「今すぐ、しなさい」と言われた「今=裏切りのとき」は「十字架の時」、それは人々には「つまづきの時」でしかありません。しかしその「今」は逆転し、「今や、主イエスが救い主としてのご栄光を現される」という「神の時」となるのです。

人の視点と神の視点の大いなる違いを思わねばなりません。「十字架」は「最も悲惨な淵」でありながら、それが「救いの頂点」になるのです。私どもは、絶望し最も悲惨な淵に立つとき、最も神に近いと言えます。そこでこそ「神しかなくなる」からです。最も悲惨な淵で、そこに既に主イエスが立っていてくださることを見い出し、神の救い・神の憐れみを知るに至るのです。

そして続けて言われます。主イエスが救い主としてご自身を現されることにより「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。これは父なる神と主イエスとの一体性を示しております。「父なる神の救いの御心」に、どこまでも従順に従われた出来事、それが「主イエスの十字架」です。この「主イエスの神への従順」により、神が「救いの神としてご栄光を現される」ということなのです。ですから、人(私ども)が神に栄光を帰するとは、「神をわたしの救いとして現す」ことであることを覚えたいと思います。

主イエスの十字架によって、人は「救いの神として神を知る」のです。それによって、32節「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」、これは何を意味するのでしょうか。ヨハネによる福音書の特徴は、十字架を頂点とせず、復活・高挙(高く挙げられる)を語ります。「すぐに与える」とは「神の御子として天に帰られ、神の右に座す」ということです。「右に座す」とは「神の全権を担うこと」です。主イエスは十字架の主「救い主」として神の右に座され、「神の全権を担う者としての栄光を現される」のです。

しかし今、弟子たちには、何も分らないのです。
 33節の「子たちよ」との呼びかけ、それはヨハネによる福音書ではここだけに用いられる言葉で、主イエスはそれ程までに弟子たちを案じてくださっております。そして「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」と言われます。弟子たちはこの時、まだ何も知らないのです。しかしこれは、私どもが主の弟子として「どこへ行くのか」が示されていることです。私どもは幸いなことに「主の復活」を知っております。私どもが死ぬ時、その死の淵に、既に主イエス・キリストが立っていてくださる、主イエスと共なる死であることを知っているのです。死によって全てが終わるのではない。主に結ばれた者として、主と共に復活し、主と共に天に住まうことが赦されているのです。それは、天に私どもの永遠の住まいが用意されているということです。私どもの最後は墓で終わるのではありません。地上での「しばらくの間」の生を終えた後、神の国の一員とされ、永遠の住まいに移され、永遠の命に生きる者とされるのです。

この恵みの出来事を語られた後、主イエスが命じられたこと、それは「新しい掟」です。34節「新しい掟・戒め」とは何か。それは「互いに愛し合いなさい」ということでした。そしてここで言う「互いに」は、敵する者に対してとかではなく「弟子たちの関係」のことです。これは、なかなか難しいのです。「仲間」つまり関係が深ければ深い程、愛し合うのは難しいのです。愛することと憎しむことは一つのことです。ですから、最も身近な者を愛するのは難しいのです。何故か。自分の思いを主体にして愛するとき、人は相手に何かを求めてしまうからです。これだけ愛し、これだけしているのに何故応えてくれないのか、と報いを求めてしまうのです。
 しかし主イエスが「互いに愛し合いなさい」と言われるとき、この13章の中心にあることは、主イエスが弟子の足を洗われたこと、つまり奴隷のように「僕として弟子たちに仕えてくださった」ことです。主イエスの言われる「互いに愛し合う」とは「互いに仕える」ことです。弟子たちは、主イエスに既に足を洗っていただいたのです。何の見返りも求めない「恵み」を既にいただいているのですから、これ以上何を求める必要があるでしょうか。「主の恵みという報い」を既に与えられているのですから「互いに仕え合いなさい」ということなのです。
 私どももまた主の弟子として、「仕えるほどに愛してくださった主イエスの恵み」を既にいただいております。ですからもはや、人からの報いを求める必要はないのです。
 「仕える」「愛する」とは「低くなること」です。自らを高ぶらせるのではなく、自らを低くし、主からいただいた恵みに応えること、それが互いに愛し合うことです。それなくして真実の愛はありません。愛は上からのものではなく、自らが低くなる出来事であることを覚えたいと思います。

35節「皆が知るようになる」と言われます。「仕え合う」ことによって何が現されるのでしょうか。「キリストが現される」のです。それは自らが低くならなければなし得ないことです。低き者として、私どもが「よくやっているね」と誉められるならば、それは「主イエスから恵みを沢山いただいている」だから「主によって、させていただいているのです」と言い得るのです。私どもは、主イエスに仕えていただいた者として、主の恵みに応えて他者を愛するときだけ「キリストを現すことができる」のです。人の思いで頑張ることは、キリストを現さず自分を現すことになってしまうのです。大切なことは、「互いに」主のご恩に応える者でありたいということです。
 聖書において「知る」とは「神・キリストとの深い交わり」を意味します。ですから「皆が知るようになる」とは、人々が私どもを見て、神と私どもとの密接な交わりを知るだろうということです。そして、知ることによって「わたしも、そうなりたい」と、神との深い交わりを求めるようになるということです。ですから「知る」とは「交わりを生む」ことなのです。

主イエス・キリストは、弟子たちに、私どもに、どこまでも愛を尽くしてくださいました。十字架の死をもってしてまで、私どもに愛を貫き、私どもに仕えてくださったのです。そんな主イエス・キリストの御愛に応え、ほんの一かけらでもお仕えできれば、なんと幸いなことかと思います。

ペトロの否認」 4月第4主日礼拝 2009年4月26日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章36〜38節

13章<36節>シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」<37節>ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」<38節>イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

36節「主よ、どこへ行かれるのですか」。ペトロのこの問いは、33節の「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」との主イエスの言葉を受けての問いです。
 主イエスのこの言葉には「ユダヤ人たちは決して行くことができない。しかし弟子たちは『今は』行くことができないが後には行く」という前提があります。
 主イエスが行くと言われるところ、それは父なる神の身許であり、即ち「高挙=天に帰られる」ということです。しかしペトロは、主の行かれるところは「地上の何処かある場所」だと思って問うているのです。
 「主イエスが天に帰られる」ことを弟子たちが理解するのは、このことが起こって後のことです。ですから、主イエスが言われることは、弟子たちにはとても「不可解」なことなのです。主イエスの言われることの「不可解さ」、しかしここに私ども救いがあると言えます。何故なら「罪人の救い」とは「有り得ない、不可解なこと、人の思いでは到底信じることはできないこと」だからです。

ここで思います。神の不思議、神秘に対する謙遜さ、畏敬を失ってはなりません。神に対する畏敬を失えば、人は自己中心となり他者を裁く者となるのです。「裁け」それが人の思い、「赦し」それが神の思いです。しかし「裁きは神のもの」です。なぜ「裁きは神のもの」と言わなければならないのでしょうか。それは、人の裁きは裁いたとしても決して赦さない裁きだからです。「裁き」とは本来「赦しのためにある」のです。赦しなき裁きは、本当の裁きではありません。罪人を赦すために、主イエス・キリストは神の御心に従って十字架につかれました。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪は完全に処理され裁かれるのです。ですから、本当に裁くことができるのは、主の十字架の贖いによって「赦されざる者を赦す」ことができるお方、神のみなのです。

「罪人の救い」という不思議・神秘を為してくださる神への畏敬を忘れ自己中心になれば、人は神の不思議・神秘を愚かなことと考える、それは霊性の欠如と言わざるを得ません。
 今年「プロテスタント日本伝道150年」を記念するに当たって、中心に考えたことは「霊性の回復」ということです。人間には、肉の生活と共に霊の生活があります。霊の生活とは、聖書を読み、祈り、礼拝する生活です。人間が他の動物と違って霊性を持つ動物であるということは「祈り、礼拝する」ことができるということです。人は霊性の感覚によって自らの尊厳を保つことができるのです。ですから霊性の回復なくして、他者の尊厳・救いへと思いが至るはずはないのです。

「主よ、どこへ行かれるのですか」、ペトロの問いは「わたしも一緒に行きます」との思いを込めての問いです。それは主イエスを慕って止まない思いなのです。そのペトロに対し、主イエスは「今は来れないが、後で来る」と優しく言ってくださいます。ペトロの思いは誤解に過ぎないにも拘らず、主イエスはその思いを否定せず「あなたの思いは分っている」と受け止めてくださっているのです。
 ペトロは後に、主イエスが約束してくださった聖霊を受けて「主イエスこそ我が救い」と信じ、宣べ伝える者(使徒)となるのです。「主について行く」ということは、ただ一緒に行動するということではなく、「主を証しする者になる」ということ、「聖霊を受けて宣べ伝える者になる」ということです。宣べ伝えるとき、そこに主が働かれる。宣べ伝えるとは、主の御業を託されることなのです。それは、弟子たち(私ども)が分っているかどうかが問題なのではありません。主イエスが私どもを受け止めてくださっているということが大事なのです。理解は人によって、時によって様々であり、覚えていたことも忘れてしまうという現実、それが私どもです。しかし主は受け止めていてくださる。日に日に主を深く理解する者だから受け止めてくださるのではありません。私どもがどのような者であったとしても主に受け止められている、それが私どもにとっての希望なのです。

37節「あなたのためなら命を捨てます」とは、ペトロの強い思い、覚悟、決意表明です。そう言い得るペトロは幸いですが、しかし、本当に命を捨てられるわけではありません。「地獄の果てまでついて行く」ほどの覚悟、しかし、その思いによっては、主について行くことはできないのです。
 強い信念、覚悟で、人は天国に行けるのでしょうか。そうではありません。私どもがどれほどの強い信念を持っていても、それによって救われるのではないのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」という御言葉がありますが、この御言葉を「必ず与えられると信じて祈れば与えられるのだから、必死で求めよ」という「人の覚悟を促すもの」と解釈してはなりません。「必ず祈りがきかれる」のではないのです。そうではなくて「必死に祈るしかない者を、神が憐れんでくださる」ということです。神は憐れみ深い方、ですから、神に依り頼むほかない者を神は憐れんでくださるのです。「求めなさい。そうすれば与えられる」、それは人の覚悟を示しているのではなく、神の憐れみの出来事を示しているのです。

覚悟を言い表したペトロは、しかしこれで良いのです。主の憐れみを受けたペトロだからこそ、後に使徒とされたのです。
 人は哀れな者です。不平不満ばかりの救い難い者です。しかし、だからこそ、神は憐れんでくださるのです。一生懸命な者だから救われるのではありません。「不平不満ばかりの者が救われる」のです。そのような救い難い者が救われるということは「憐れみ」の他にないのです。
 「求める」「祈る」その時に、既にそこに「神の執り成し、神の憐れみ」があります。「求める」「祈る」ということは、既に「救われている」「神に覚えられている」ということです。そして、神に覚えられ「神の憐れみのうちにある」ということが「祈りがきかれた」ということなのです。何か事が成就したことが「祈りがきかれた」ということではないのです。

「ペトロの覚悟、主イエスを愛する思い」、しかしそれが成るのではありませんでした。現実は「ペトロの否認」なのです。主イエスを見捨ててしまったペトロの惨めさはどれほどのものだったでしょう。ペトロの信念・覚悟は挫折を生み、失意し、主の十字架に耐えられず逃げ去るのです。それは自分の思いに対する絶望なのであって、十字架の主イエスの問題ではなく、自分自身の問題なのです。

しかし主イエスは、ペトロが絶望する者であることを既にご存知です。
 後にペトロが経験することは、復活の主イエスに「あなたは、わたしを愛するか」と3度、問われることです(ヨハネによる福音書第21章)。その時のペトロの答えは、今日の箇所の思いと同じではありません。「わたしはあなたを、命を捨てるほどに愛しています」とは言わない。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるのです。「わたしが為す」のではなく、「あなたがご存じでいてくださいます」と言い得る者に変えられるのです。

自分の思い・信念を果たすことが平安なのではありません。ただ「憐れみのなかに、愛されているなかにいること」、それが本当の平安です。

「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われるほどに、主イエスはペトロを全てご存知であり、受け入れていてくださっております。
 そして、自分の信念でしかない者を、主は憐れみ、愛し、主のものとしてお用いくださるのです。

「命を捨てるほどに主イエスを愛する」と言ったペトロが命を捨てたのではありませんでした。主イエス・キリストが十字架につき命を捨ててくださった、だからこそ、ペトロは使徒(主に仕える者、主を愛する者)とされたのです。