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今朝から受難週です。 1節「エルサレム」は「神の都」です。そこには神殿があるのです。主イエスはエルサレムに入るに際して、弟子のうちの2人を使者として遣わされます。「2人の使者」とは、その使者が正式な使者であることを示しております。 2節、主イエスは、何をしたらよいのか分らない2人に「なすべきこと」をお示しくださいます。弟子たちが何をなすべきか、主のみが全てをご存知です。 2人の弟子を遣わして、主イエスは「子ろば」を召されます。主イエスは、これからの一切を弁え知って「十字架の苦難、死」を覚悟しておられるのです。 3節「もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、…」と記されております。そんなことを問うのは、子ろばの所有者以外にはいないのではないでしょうか。しかし「だれかが」と記す、そこで示されていることは、子ろばの真の所有者は主イエスであるということです。全ては主のもの、神のものなのです。天地万物の全ての創造主である主が、救いの御業をなすために子ろばをお用いになる。ですから人は「主がお入り用なのです」との言葉に従わなければならないのです。 9節、「ホサナ」とは「神よ、救いたまえ。憐れみたまえ」という意味です。人々は「救い主イエス」を迎えていることを知らずに「ホサナ」と叫んでおります。 今、私どもは「主イエスは救い主。主よ、救いたまえ」と叫ぶ者でありたいと思います。主イエスが「神の憐れみ」として、私どもの所へ来てくださっていることを覚え、「ホサナ」とお迎えする者でありたいと思います。 |
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今日、受難日のこの時に、私どものための主のご受難を覚えて、共に集い、礼拝できますことを感謝いたします。 33節、「昼の12時」は本来、明るく眩しい時間です。しかし「全地は暗くなった」と記されております。旧約アモス書8章9〜10節「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする。」の成就としての出来事です。アモス書は「終わりの日の闇の世界」を「独り子を亡くしたような悲しみ」と表しております。 34節「三時にイエスは大声で叫ばれた」。午後3時。12時から3つの時を経て、「救いを成し遂げられた、成就の時」が到来したことが示されております。主イエスの死、それは力尽きての死ではありません。神の御心としての死、救いの成就の時としての死なのです。 私どもは今、未来への希望を失った時代を生きております。人々はこの世の経済システムに頼り、経済(お金)を偶像とし、好きなように働き、いつまでも好きなように生きることができると思っていたのです。しかしこのシステムは脆くも破綻しました。共同体は失われ、この世は今、希望を失った深い孤独の淵にあります。偶像礼拝とはまことに愚かなことです。人々は行き詰まりの果てに「神も仏もない」と言います。しかし、では何時、神を呼んだでしょうか。この世は神を拝せず、偶像礼拝する者でした。人は自分に根拠を持つことはできない存在です。神に創られた者として、神にのみ存在の根拠があるのです。にも拘らず、神を拝せず偶像を拝する者、それはまさしく「神に見捨てられた者」と言わざるを得ません。 主イエスは「わが神、わが神」と、絶望の淵でなお、父なる神を信頼して呼んでおられます。ですから私どもも、主イエスと結ばれた者として、主イエスと共に、父なる神を「わが神、わが神」と呼ぶことが赦されております。主イエスと結ばれることによって「神との交わりに入れられる」という恵みをいただいているのだということを覚えたいと思います。 36節、「ぶどう酒」は、痛みを紛らわせるためのものです。しかし、主イエスはお受け取りになりませんでした。それは、十字架の苦しみを味わい尽くすため、人の罪の苦しみをなめ尽くすためです。 37節、「大声を出して」、主イエスは死なれます。しかしそれは、命尽きての死ではありません。「成し遂げての死」、死んだのではなく、死なれたのです。 38節「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。神殿において、垂れ幕の内側(至聖所)が唯一の神との交わりの場でした。しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたということは、至聖所が開かれ、そこでのみの神との交わりが終わりとなったということです。主の十字架によって、どこにあっても、いつであっても、神との交わりを得ることができるようになったということです。 39節、一切を見届けて、百人隊長は言うのです、「本当に、この人は神の子だった」と。主イエスの最後の御言葉に、まさに見事なその死に様に、全てに勝利するその姿に、神の子としての尊厳を、力を見たのです。十字架に死なれた主イエスは、死に屈服したのではなく「死を屈服させられた方」です。 今、私どもは「あなたは、十字架の主イエスを何と告白するのか」と問われております。そして「本当に、この人は神の子」との信仰告白を求められております。そして覚えたい。百人隊長のこの信仰告白の言葉を通し、私どもは「十字架の主イエスこそ、神の子、わたしの救い主」と告白する「聖霊の導き」をいただいているのです。 まことに「十字架の主イエスこそ、神の子、わたしの救い主」であります。 |
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復活の主イエス・キリストを、主の十字架の死によって贖われた者として共々に賛美し、礼拝できますことを感謝いたします。 私どもの罪の贖いのために十字架で死なれた主イエスは、アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。1節、女性たちは安息日が終わるとすぐに香料を買いに行きます。安息日(土曜日)の日の入りに直ちに香料を買い、週の初めの日、日の出と共に墓へと急ぐのです。ここに、女性たちの主イエスに対する並々ならぬ思いが示されております。主イエスを愛して止まない姿です。十字架を前にして成す術もなく遠くにいた女性たち。しかし深く深く主を愛し思っていた、だからこそ葬りの支度をしたかったのです。ここに「葬りの心」が示されております。死者に対して愛を尽くすこと、それが葬りです。主イエスに対して最後の愛を尽くそうとして、女性たちは行動しているのです。 3節「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。早朝、墓に人がいるはずはありません。目当てもなく、それでも早く行きたい一心で女性たちは墓へと急ぎます。本来ならば11人の男弟子たちと一緒に行けばよいのです。しかし男弟子たちは既に逃げ出しており、頼りにできない。ここに女性と男性の違いがあります。男性は理想・夢に生きようとし、現実を見ないのです。男弟子たちは彼らなりの理想のイエス像を抱きますが、十字架によってその夢が敗れ、絶望・失望し逃げ去る。しかし、女性には現実を受け入れる強さがあります。女性たちは主イエスの死の現実を受け入れ、墓(死)に向かい、墓に到達するのです。 4節「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」。とても女性の手では転がすことのできない大きな石です。「ところが」には「なんと驚いたことに…」という思いが語られております。 5節「婦人たちはひどく驚いた」。「白い衣」は「神からの使い」であることを示します。女性たちは、人以上のものを見て恐れおののいたのです。圧倒する神の臨在を感じ、その偉大さに直面し、恐れる以外になかったのです。 6節、神の使い(天使)は、神の御業・恵みの知らせを告げるために来たのだから「驚くことはない」と、恐れを取り除いてくださいます。告げられていることとは何なのでしょうか。ここで新しく起こっていること、それは「復活」です。「死から復活へ」という「新しい始まり」が告げられているのです。そこに「大いなる神の力」が働いているということです。 百人隊長の「本当に、この人は神の子だった」(15章39節)との言葉を思います。「神の子であられる方が十字架に死なれた」とは、どういうことでしょうか。主イエスは、罪人として、罪の故に死んだのではありません。主イエスは神の子として、敢えて十字架に死んでくださったのです。それゆえ罪も死も一切は無効とされました。なぜか。本来、罪の価は死です。しかし、罪無き神の子主イエスが死んでくださったことによって、罪無きを死と定めた死の支配は無効となるのです。死ぬ必要のない神なる方を死と定めた死は間違いを犯したために、死の支配の終わりが告げられるのです。 7節、11人の弟子たちは故郷のガリラヤへ逃げ帰っております。そのガリラヤへ、主イエスは先に行って「会う」と言ってくださるのです。本来ならば、弟子たちに「思い直して会いに来い」と言うところでしょう。ところが、主イエスは「逃げ帰った者の逃げ帰ったその場所に、先に行って会う」と言ってくださる。それが主のあり方です。「信じられない者、希望を失った者に、主の方から会ってくださる。そして信じる者へと変えてくださる」畏れるべき出来事です。 この御言葉をいただいたにも拘らず、女性たちは逃げ去ってしまいます。どこまでも信じられない者なのです。しかし、マルコによる福音書を読んでみてください。どこにも誰かが「信じた」とは記されておりません。しかし今、世界中に主の教会は立てられております。「信じる」という出来事は、人の思いによっては有り得ないのだということを改めて覚えたいと思います。 私どもは、どこで主を知るのでしょうか。御言葉が語られ、御言葉を聴く中で、御言葉に捕らえられて知るのです。「主イエス・キリストが、わたしの救いのために復活してくださった」ことを知るのです。主イエス・キリストが私どもの心の中に語りかけてくださる、そこでこそ心からの喜びが与えられるのです。 洗礼は、古き人を死に新しき人に甦ること、すなわち「キリストのもの、神のものとされて生きる」ということです。孤独の淵にあった者が、新しく神と共に生きる者とされるのです。主が臨んでくださることによって、私どもは新しくなれる。そしてそれは、誰にでも与えられている大いなる希望なのです。
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31節「さて、ユダが出て行くと、…」と記されております。27節の「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」との主イエスの言葉を受けて、ユダは「主イエスを裏切るため」に出て行きます。「主イエスを裏切る」、それはファリサイ人たちに主イエスを売ること、即ち主イエスを十字架へと向かわせることです。 ですから話の筋からいけば、主イエスの言葉を受けて、「そして」ユダは出て行き、主は十字架につけられた…となるでしょう。ところがここでは「さて、ユダが…」と始まっております。そして主イエスは、「裏切られる」ことが「栄光を受ける」ことだとおっしゃるのです。主イエスがお受けになる「人の子としての栄光」とは「メシアとしての栄光」ということです。人の思い・視点では「裏切り」でしかないこの出来事が、「さて」と始まることによって「栄光を受ける」という神の視点へと大きく意味を転換させられているのです。 人の視点と神の視点の大いなる違いを思わねばなりません。「十字架」は「最も悲惨な淵」でありながら、それが「救いの頂点」になるのです。私どもは、絶望し最も悲惨な淵に立つとき、最も神に近いと言えます。そこでこそ「神しかなくなる」からです。最も悲惨な淵で、そこに既に主イエスが立っていてくださることを見い出し、神の救い・神の憐れみを知るに至るのです。 そして続けて言われます。主イエスが救い主としてご自身を現されることにより「神も人の子によって栄光をお受けになった」と。これは父なる神と主イエスとの一体性を示しております。「父なる神の救いの御心」に、どこまでも従順に従われた出来事、それが「主イエスの十字架」です。この「主イエスの神への従順」により、神が「救いの神としてご栄光を現される」ということなのです。ですから、人(私ども)が神に栄光を帰するとは、「神をわたしの救いとして現す」ことであることを覚えたいと思います。 主イエスの十字架によって、人は「救いの神として神を知る」のです。それによって、32節「神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる」、これは何を意味するのでしょうか。ヨハネによる福音書の特徴は、十字架を頂点とせず、復活・高挙(高く挙げられる)を語ります。「すぐに与える」とは「神の御子として天に帰られ、神の右に座す」ということです。「右に座す」とは「神の全権を担うこと」です。主イエスは十字架の主「救い主」として神の右に座され、「神の全権を担う者としての栄光を現される」のです。 しかし今、弟子たちには、何も分らないのです。 この恵みの出来事を語られた後、主イエスが命じられたこと、それは「新しい掟」です。34節「新しい掟・戒め」とは何か。それは「互いに愛し合いなさい」ということでした。そしてここで言う「互いに」は、敵する者に対してとかではなく「弟子たちの関係」のことです。これは、なかなか難しいのです。「仲間」つまり関係が深ければ深い程、愛し合うのは難しいのです。愛することと憎しむことは一つのことです。ですから、最も身近な者を愛するのは難しいのです。何故か。自分の思いを主体にして愛するとき、人は相手に何かを求めてしまうからです。これだけ愛し、これだけしているのに何故応えてくれないのか、と報いを求めてしまうのです。 35節「皆が知るようになる」と言われます。「仕え合う」ことによって何が現されるのでしょうか。「キリストが現される」のです。それは自らが低くならなければなし得ないことです。低き者として、私どもが「よくやっているね」と誉められるならば、それは「主イエスから恵みを沢山いただいている」だから「主によって、させていただいているのです」と言い得るのです。私どもは、主イエスに仕えていただいた者として、主の恵みに応えて他者を愛するときだけ「キリストを現すことができる」のです。人の思いで頑張ることは、キリストを現さず自分を現すことになってしまうのです。大切なことは、「互いに」主のご恩に応える者でありたいということです。 主イエス・キリストは、弟子たちに、私どもに、どこまでも愛を尽くしてくださいました。十字架の死をもってしてまで、私どもに愛を貫き、私どもに仕えてくださったのです。そんな主イエス・キリストの御愛に応え、ほんの一かけらでもお仕えできれば、なんと幸いなことかと思います。
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36節「主よ、どこへ行かれるのですか」。ペトロのこの問いは、33節の「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」との主イエスの言葉を受けての問いです。 ここで思います。神の不思議、神秘に対する謙遜さ、畏敬を失ってはなりません。神に対する畏敬を失えば、人は自己中心となり他者を裁く者となるのです。「裁け」それが人の思い、「赦し」それが神の思いです。しかし「裁きは神のもの」です。なぜ「裁きは神のもの」と言わなければならないのでしょうか。それは、人の裁きは裁いたとしても決して赦さない裁きだからです。「裁き」とは本来「赦しのためにある」のです。赦しなき裁きは、本当の裁きではありません。罪人を赦すために、主イエス・キリストは神の御心に従って十字架につかれました。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪は完全に処理され裁かれるのです。ですから、本当に裁くことができるのは、主の十字架の贖いによって「赦されざる者を赦す」ことができるお方、神のみなのです。 「罪人の救い」という不思議・神秘を為してくださる神への畏敬を忘れ自己中心になれば、人は神の不思議・神秘を愚かなことと考える、それは霊性の欠如と言わざるを得ません。 「主よ、どこへ行かれるのですか」、ペトロの問いは「わたしも一緒に行きます」との思いを込めての問いです。それは主イエスを慕って止まない思いなのです。そのペトロに対し、主イエスは「今は来れないが、後で来る」と優しく言ってくださいます。ペトロの思いは誤解に過ぎないにも拘らず、主イエスはその思いを否定せず「あなたの思いは分っている」と受け止めてくださっているのです。 37節「あなたのためなら命を捨てます」とは、ペトロの強い思い、覚悟、決意表明です。そう言い得るペトロは幸いですが、しかし、本当に命を捨てられるわけではありません。「地獄の果てまでついて行く」ほどの覚悟、しかし、その思いによっては、主について行くことはできないのです。 覚悟を言い表したペトロは、しかしこれで良いのです。主の憐れみを受けたペトロだからこそ、後に使徒とされたのです。 「ペトロの覚悟、主イエスを愛する思い」、しかしそれが成るのではありませんでした。現実は「ペトロの否認」なのです。主イエスを見捨ててしまったペトロの惨めさはどれほどのものだったでしょう。ペトロの信念・覚悟は挫折を生み、失意し、主の十字架に耐えられず逃げ去るのです。それは自分の思いに対する絶望なのであって、十字架の主イエスの問題ではなく、自分自身の問題なのです。 しかし主イエスは、ペトロが絶望する者であることを既にご存知です。 自分の思い・信念を果たすことが平安なのではありません。ただ「憐れみのなかに、愛されているなかにいること」、それが本当の平安です。 「あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われるほどに、主イエスはペトロを全てご存知であり、受け入れていてくださっております。 「命を捨てるほどに主イエスを愛する」と言ったペトロが命を捨てたのではありませんでした。主イエス・キリストが十字架につき命を捨ててくださった、だからこそ、ペトロは使徒(主に仕える者、主を愛する者)とされたのです。
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