聖書のみことば/2009.3
2009年3月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
主が示す模範」 3月第1主日礼拝 2009年3月1日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章1〜20節
13章<1節>さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。<2節>夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。<3節>イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、<4節>食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。<5節>それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた<6節>シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。<7節>イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。<8節>ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。<9節>そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」<10節>イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」<11節>イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。<12節>さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。<13節>あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。<14節>ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。<15節>わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。<16節>はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。<17節>このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。<18節>わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。<19節>事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。<20節>はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

4節「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。ここでヨハネによる福音書は、主イエスが弟子たちの足を洗われる様子を克明に語っております。

主イエスが弟子たちの足を懇ろに洗ってくださる「洗足」の出来事。ヨハネによる福音書では、食事(2節、過越の晩餐)以上にこの「洗足」が強調されております。この福音書においては、「洗足」は特別な意味を持つのです。それはシモン・ペトロとの会話において示されております。

6節「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。ペトロの驚き、戸惑い、そして抵抗があります。「洗足」は本来、異邦人奴隷のする最も卑しい仕事とされ、ユダヤ人のするべき仕事ではありませんでした。そのような事を自ら進んで為してくださる主イエスにペトロは抵抗を感じたのです。他の弟子たちはどうだったかと言えば、ペトロほど感情豊かではなく、ただ唖然としながら為されるままにしていたのではないでしょうか。主イエスの洗足、それはそれ程に衝撃的なことでした。ペトロも何も理解してはおりません。しかしその激情的な性格ゆえに、一言発せずにはいられなかったのでしょう。主イエスはそのようなペトロの言葉に対し答えてくださいます。

主イエスの答えは、7節「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。分らないのは当然だと言われます。何故か。それは、主の洗足は、単なる弟子たちへの愛の奉仕なのではなく、それ以上の意味がある事柄だからです。
 8節、しかしペトロは納得できず、主のなさることに抵抗を感じ、拒むことしか出来ません。ここにペトロの主イエスに対する並々ならぬ思いがあります。主イエスが奴隷の仕事をなさるなど、とても受け入れることは出来ない、それ程に主イエスを思っているのです。
 そういうペトロに、主イエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われます。「何のかかわりもない」とは厳しい言葉です。つまり「洗足」は、主イエスと弟子たちとの特別な関係を表す事柄だということなのです。

9節「主よ、足だけでなく、手も頭も」。「主が洗わなければ、かかわりがなくなる」のであれば、逆に「全てを洗ってください」と、白か黒か、極端なペトロの性格が表れております。
 しかし10節「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と主は言われます。ここで明らかになることは、「足を洗う」とは「体(全身)を洗う」ことだということです。つまり「洗足」は単に足を洗うということではなく「あなたの全身を清めることだ」と、主イエスは言っておられるのです。主の洗足は、洗っていただいた人の「清め」なのです。

これから起こることは「主イエスの十字架」です。「十字架」は「罪の贖い」=「清める」ということです。「洗足」は、主イエスが「十字架の贖いを以て清めてくださる」ことの先取りとしての主の業です。ですから「洗足」は「主イエスの十字架による清め」を意味しているのだということを覚えたいと思います。
 ヨハネによる福音書は、同じ意味で語られる「過越の晩餐」ではなく、この「洗足」を強調しているということです。

ですから「今あなたには分かるまい」とは当然のことです。何故なら、まだ十字架の時は来ていないからです。この後、十字架そして復活の主イエスが臨んでくださり、主イエスが送ってくださる聖霊を受けることによってしか、このことを理解することはできません。聖霊を受けて初めて、弟子たちは「主イエスによって清められている」ことが分るのです。

11節「皆が清いわけではない」。弟子たちの中に「裏切る者」がいることが記されております。裏切る者ユダは、後に自分の行為を悔いますが、しかし自ら命を絶ってしまいます。ユダは復活の主イエスに会わず「聖霊を受けない」のです。ユダは神の裁きに身を委ねるのではなく、自らを罰してしまいました。ですからユダは清められないのです。裏切ったから清められないのではありません。裏切りが問題なのではなく「神の裁きに委ねられなかった」ことが問題なのです。
 人は、一旦自分のうちに罪を見てしまうと、自分で自分を裁くということがあります。しかし、自ら裁いても決して清めを頂くことはできないことを覚えたいと思います。「清め」とは「神の裁きを受ける」ということなのです。
 神に裁かれ、清められた者は「神との交わりに生きる者とされる」のです。洗礼を受ける、神を信じるとはどういうことか、改めて思わされます。それは「神との交わりに生きる、神のものとされて生きる」ということです。

「弟子たちの足を洗ってくださる」それは「私ども一人ひとりの足を、主イエスが自ら洗っていてくださる」ことなのだということを、もうひとたび覚えたいと思います。「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められた」。何と有り難いことでしょう。「主イエスが私どもの足を洗ってくださる」それは「主イエスの十字架による罪の贖い、私どもの清め」なのだということが、このヨハネによる福音書のみ言葉に、恵みとして示されているのです。

今年は2月25日からレント(受難節)に入りました。主イエスの十字架・復活までの主のご受難を覚えるときです。
 今日、レントの第一週に、主の洗足のみ言葉に聴くことができましたことは、大変意義深いと思います。改めて、主の十字架を思う者でありたいと思います。主イエスは自らの血によって私どもの罪を贖ってくださいました。それが「洗足」の意味することです。

12節〜15節、まず何よりも大事なことは「洗足は私どもの罪の清めである」ということです。そして更に示されていることは、洗足は「主の示す模範である」ということです。14節「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と記されております。何よりもまず、主イエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちに仕えてくださいました。だから「互いに足を洗い合う=仕え合う者になりなさい」と言われております。「互いに仕える」それは「愛し合う」ということです。最も低き者とまでなって主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった、それは弟子たちを愛し抜かれたということだからです。

そして「互いに愛し合う」ことによって初めて、真実の交わり、主の共同体を形作ることができるのだということを覚えたいと思います。互いに愛し合う、仕え合うことは、個人の生き方の問題ではないのです。そこでこそ「主を模範とする真実の共同体」という豊かな交わりが形成されるということです。

何よりも「主が贖い、清めてくださった」という前提があってのことです。それ程までに「主に愛された者として」、互いに愛し合うのです。

改めて、主の洗足の恵みを覚えつつ、互いに主にある兄弟姉妹に仕え合い、愛し合う、豊かな交わりをなす群れでありたいと願います。

ユダの裏切り」 3月第2主日礼拝 2009年3月8日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章16〜30節
13章<16節>はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。<17節>このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。<18節>わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。<19節>事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。<20節>はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」<21節>イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」<22節>弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。<23節>イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。<24節>シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。<25節>その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、<26節>イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。<27節>ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。<28節>座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。<29節>ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。<30節>ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

16節「はっきり言っておく」と主イエスは言われます。20節、21節でも言われております。ヨハネによる福音書はこの言葉を特に愛して用います。少々古い言葉で言えば「まことに(アーメン)、まことに(アーメン)、わたしは汝らに告ぐ」であり、「アーメン」とは「真実」ということです。つまり、主イエスが「真実な方として語る」ということです。主イエスは「神の御子」であられ「神なる方」です。ですから、その語られる言葉は「真実」なのです。
 「真実」に語られる言葉ですから、聞く者も「真実をもって」聴くべきでありましょう。しかし、ここで考えさせられます。人間というものは、自ら真実であることは難しく怠惰な者です。あくまでも「真実」とは神のものなのです。
 ですから、その唯一真実なる「神」を思わないことが普通になった昨今は「真実が失われている時代」と言えます。「神を思わない」、つまり自分しかなく自分が全てであるところでは、何が真実か分らなくなるのです。自分が全てということは自己中心、自分の欲望が全てということです。欲望とは物欲だけではありません。精神的に他に優った者になりたいという欲望=「自己実現」も欲望なのです。自己実現が大事であれば、神を礼拝することはできません。しかし覚えたい。「人にとっての真実」とは「神との正しい関係にあること」なのです。

「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」。この言葉によって主イエスは、ご自分と弟子たちとの本来のあり方、関係を示しておられます。僕(奴隷)と主人、遣わされた者(王が立てた使者)と遣わした者(王)。この関係で示されることは、「僕・使者」は「主人・王」に勝る者ではないということです。「弟子と師」という関係であれば、弟子が師に勝ることはあっても良いでしょう。それは寂しくはあっても、ある意味喜ばしいことです。しかし「僕と主人」との関係は、そうであってはならないのです。
 主イエスはここで、弟子たちに「あなたがたは僕、主であるわたしに勝る者ではない」ことを、「僕として、主であるわたし(イエス)に従うのみ」であることを肝に銘じさせておられます。神なる方イエスはまさしく主人、弟子たちは従う者であることが、ここで明確に言われていることです。
 ヨハネによる福音書は「先在の主イエス」ということを強調いたします。それは、御子イエスは父なる神と共に「創造主」であられるという信仰です。このことが「僕と主人」の関係によって鮮やかに示されていることです。人間は、御子によって創られた者として、御子の御心によって、この地にあるのだということを覚えたいと思います。

このように、根本は「主人と僕」という関係であるにも拘らず、主イエスは弟子たちを「わが弟子、わが友、わたしの兄弟姉妹」と呼んでくださっているのだということを、恵みとして知る者でありたいと思います。「僕」に過ぎない者が「弟子、友」とされることは恵みなのです。
 そして私どもも、恵みによって「主の弟子、友、兄弟とされている」のだということを忘れてはなりません。この恵みに与った者として、なすべきことは何でしょうか。それは、喜びをもって進んで「主イエスに従う」ことです。
 僕が僕として従うことは義務を果たすことであって、そこに喜びは生まれません。「わが弟子、わが友」とまでして頂いた、だから喜びをもって従うのです。
 また、主イエスは「従うべき者だから従え」と言われるのではないのです。主イエスが「僕」を「弟子よ、兄弟よ」と呼んでくださって、そして「従いなさい」と言われるのです。主イエスは弟子たちの足を洗って自ら模範を示してくださいました。主イエスがまず進んで「仕える者」となってくださったのです。

更に、遣わされた者(使者)は、主人から託された使命を果たす者でもあります。「主イエス・キリストを宣べ伝えること」、それが弟子たちが「遣わされた」ということです。主イエスから「福音を宣べ伝える」という使命を与えられて遣わされている、それが「主に従うこと」すなわち「なすべきこと」なのです。
 このことは、今を生きる私どもにも言われていることです。今この時代に、主イエスが私どもを、主イエスの使者として、主の福音を宣べ伝える者として遣わしておられるのです。「福音を宣べ伝える」それが私どものあり方です。そして、今この時代こそ、主イエスの福音の恵みを、神を憐れみを必要とし求めている時代であることを忘れてはなりません。どう生きたら良いのか分らない、前途の見えない今の時代、神の恵み・慈しみによって力を頂いてこそ、希望をもって生きることができるのです。

17節「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。主イエスの御心に従うところに「幸い」があります。従うところで「主と一つとされる」からです。
 「このことが分り」とは、自らが「僕、遣わされた者」に過ぎないことを知っているということです。そして、それにも拘らず「主に用いられる者」であることを知って、喜びをもってなす(実行する)ということです。
 主の恵みに満たされている者は、喜びをもって語らずにはいられないのです。

18節、ここから「ユダの裏切り」へと話は進んでいきます。主イエスは裏切る者がいることをご存知です。しかし、主イエスは裏切る者をも弟子として選んでくださっているということを覚えたいと思います。
 そして、この主の選びは「聖書の言葉(旧約)」の成就であると言っておられます。裏切りにも、なお神の御業が成し遂げられることが示されているのです。それは人の思いを超えた、まさしく「神の御業」です。

19節「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。事が起こった時に「まさしく主イエスが全てだ」と、人々が思い起こして信じるためです。「全てのことは主イエスにかかっていた。主がなさったことなのだ」ということが分るためです。
 「わたしはある」という言葉で思い起こすのは、モーセが神に名を問うた時の神の答えです。それは「わたしは確かな存在。存在そのもの」との神の宣言です。
 ですから、ここで「ユダの裏切り」を語ることは、事が起こったときに「まさに主が全て」であり「神であられる」ことを思い起こし「主イエスを神と信じる」に至るためだと言われているのです。

20節「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。
 遣わされた者(私ども)の語ることを受け入れる人は、その人もまた、神の恵みに与り、神に属する者とされるのだということを覚えたいと思います。

主イエスは「僕」に過ぎない私どもを「弟子」と呼んでくださいました。
 その主イエスに、私どもが喜びをもって従うとき、「主に従う者として、主と一つなる者とされる」恵みに与るのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

顔を見合わす弟子たち」 3月第3主日礼拝 2009年3月15日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章21〜30節
13章<21節>イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」<22節>弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。<23節>イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。<24節>シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。<25節>その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、<26節>イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。<27節>ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。<28節>座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。<29節>ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。<30節>ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」と記されております。
 主イエスが「心騒がせた」とは、どういうことでしょうか。「弟子の裏切りを予感して胸が騒ぐ」と取られやすい表現です。しかし、そうではありません。主イエスは「全てをご存知」の上で「心騒いで」おられるのです。それは「予感に胸騒ぐ」こととは全く違うことです。主イエスが心を騒がせられたのは、「これから踏み出して行く。さあ、これから始まる」という思い、すなわち「霊的な高ぶり」を覚えられたということなのです。このことは知っておくべき大切なことです。
 そして主イエスがなさったこと、それは「裏切りを語る」ことでした。

22節「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」。今の私どもにはユダが裏切ることが判っております。しかしこの時、ユダはまだ裏切る決意を明確にしていたわけではありません。何故なら27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」と言われているように、ユダに裏切りの決意を与えたのは「サタン」だからです。
 弟子たちが「顔を見合わせた」と記されております。弟子たちは皆、動揺しております。「裏切る」と言われても「誰が、何をするのか」何も分らないからです。何のことか、誰のことを言っているのか、他者だけではなく「自分自身」をも含めて、何も明確にできないでいるのです。

23〜24節「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した」。誰のことを主イエスが言っておられるのか、ペトロは弟子の一人(イエスの愛弟子)に聞いてもらおうとします。
 弟子たちは誰一人、直接、主イエスに聞くことができません。どうしてかと言えば、それは、主が言われる「裏切る者」とは、もしかしたら「自分のことなのかも知れない」という思いがあるからです。
 ここで知るべきことがあります。一体「裏切り」とは何なのか、どういうことなのか、ということです。
 ヨハネによる福音書は他の福音書と趣を異にしております。この場面でも、他の福音書では、ユダは自分自身の思いで主イエスを売り渡そうと行動したと語っておりますが、ヨハネでは「サタンが入った」とサタンがユダにさせたことだと語ります。本当に「裏切り」だったのか。ある説では、イスカリオテとは熱心党を表しており、このユダの行為は、主イエスを追い込むことによって、主イエスが政治的メシア・王として立たれることを望んでの行為であり、それが結果的には裏切りという形になったのだと語ります。ですから「裏切り」とは何なのか、何を意味するのか、考えてみる必要があるのです。
 説教者としては、「裏切り」は「無知から起こる」と考えております。
 主イエスは全知全能の方、全てをご存知の方です。
 しかし弟子たちは、一切のこと、この先のことを何も理解しておりません。そして分らないままに目先の自分の思いを大切にして事を起こし、その結果、間違いを起こしてしまう。それは自分の意に反する結果である場合もあるのです。
 全てのことを理解できないユダ(弟子たち)は、自分が裏切る者であることすら分らない。これが裏切りの根本にあることです。

何も分らないから裏切らざるを得ない、それが弟子たち、それが私どもです。
 事が分っていれば、どうするべきかも分るはず。しかし分らないが故に、本当にはどうするべきかを知り得ないのです。弟子たちも、私どもも、主の御心を弁え知ることのできない、「裏切りでしかない存在」なのだということを覚えたいと思います。
 私どもは何も分らない者、ですから「人には裏切りがある」のです。
 しかし主イエスはご自分に定められた「神の救いの計画」に全く服従し成し遂げてくださった方。ですから「主イエスには裏切りがない」のだということを覚えたいと思います。
 そして「裏切りなき方、主イエス・キリストを信じる」こと、それが私どもの「信仰」です。
 私どもが裏切る者であるにも拘らず、裏切る者のために、決して裏切ることのない主イエスが救いを成し遂げてくださいました。「十字架の贖いの出来事」は、裏切りのない「真実の出来事」なのです。主イエス・キリストの十字架による「罪の赦しの恵み、永遠の命の約束」、そこには決して裏切りはないのです。それは単に、イエスという人格に裏切りがないというようなことではありません。神の御子として主イエスのなしてくださった救いの御業に裏切りはない、ということです。

「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が…」。ペトロが合図をした弟子、その弟子は「主イエスの隣に座り、イエスに愛されていた」と記されております。弟子の中でもシモン・ペトロは主から「岩」と名付けられたほどで優位な立場にいたと思われるのですが、しかしそのペトロより「愛弟子」とされた弟子とは誰なのか、今日に至るまで様々な説が語られております。
 カトリックでは早い時期から「ゼベダイの子ヨハネ」との説が有力ですが、特定はできません。
 プロテスタント教会の結論は、シモン・ペトロは「ユダヤ人キリスト者(教会)」を、主の隣の愛弟子は「異邦人キリスト者(教会)」を象徴しているのだとする説です。この時代、ヘレニズム世界においては、教会はもはやエルサレム(ユダヤ人)中心ではなく、異邦人を中心とした教会が新しい宣教の担い手となりつつある状況でした。そのことが示されているという見解です。
 これは優れた見解と言えます。なぜ優れた見解かと言えば、そこに神の思い、主イエスの思いが示されているからです。今の時代に日本の宣教を担うのは誰かと問えば、それは日本人です。ヘレニズム世界で異邦人を主イエスが愛弟子としてくださったということは、今の日本において主の愛弟子とは私どもである、と聴くことができます。私どもも主イエスの愛弟子とされているということです。この地において、社会において、地域において、家庭においても、私どもは主の宣教を担うため、主を証しする者として遣わされた、主イエスの愛弟子なのです。
 ですから、愛弟子とは誰かを詮索することが大切なのではありません。私どもが「主イエスの愛弟子として覚えられている」と考える方が、愛弟子をゼベダイの子ヨハネだと考えるよりも恵み深いことです。

30節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」。出て行ったのは「夜」だったと記されております。これから起こること=「十字架」を「夜」と記すのです。これから「十字架」という「暗闇」に向かうということです。そこは裏切りと殺意の待つところです。

27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた」。主イエスがパンを渡し「したいことをしなさい」と言ってくださる。だからユダは行動できるのです。ここに示されていることは何でしょう。それは、ここから始まる闇、その闇をも「主イエスが主導権を取っておられる、主の支配のうちにある」ということです。確かに暗闇がある。しかしその暗闇は主の言葉をもって始まり、そして全ては「主の御心」しか成らないのです。

私どもは「したいようにする」。しかし、その背後で「主導権を取っておられるのは主イエス・キリスト」であることを覚えたいと思います。

今、世界は混沌とした暗闇の中にあります。社会に、また私どもの心にも闇があるのです。しかし、そのような暗闇の中にあっても、本当の支配者は「主イエス・キリスト」であることを覚えたいと思います。
 主イエス・キリストは、裏切りでしかない私どもを愛し、救ってくださる方です。その主が主導権を取っていてくださるのです。暗闇の背後を「主の真実の御言葉が貫いている」のだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

信仰による出発」 3月第4主日礼拝 2009年3月22日 
小島章弘 牧師(文責・聴者)
聖書/創世記 第15章1〜6節、ヘブライ人への手紙 第11章8節

創世記 第15章<1節>これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」<2節>アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」<3節>アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」<4節>見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」<5節>主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」<6節>アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

ヘブライ人への手紙 第11章<8節>信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

私どもは今、レント(受難節)の時を過ごしております。
 主イエス・キリストが、他でもない私どものために十字架にかかってくださった、その主の十字架への道を辿りつつ過ごす悔い改めと祈りの日々です。

私(説教者)は聖書に語られる「イスラエルの族長たち」に関心があるのです。族長たちの信仰が、今日の私どもの信仰の原点であると考えるからです。
 聖書には度々「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言葉が出てまいりますが、大変興味深い言葉として関心を持っております。
 17世紀の数学者として有名なブレーズ・パスカルは1654年11月23日〜24日を「神との出会いを経験した記念すべき日である」と記し、以来「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者や識者の神ならず、イエス・キリストの神」と書いたメモを衣の内側に縫い込んで生涯大切にしていたと言われております。これはまさしく「神との出会いの喜び」が示される逸話です。

今日のみ言葉は、イスラエルの歴史の中で初代の族長であるアブラム(後のアブラハム)についての箇所です。族長の歴史は紀元前2000年頃から始まり、アブラハムに続きイサク、ヤコブと3代の物語が創世記に詳しく記されております。この歴史は必ずしも客観的なものではなく伝説なども盛り込まれております。
 「アブラム」とは「偉大な父」の意味で、それが「アブラハム」=「多くの民の父」となりました。パウロはしばしばアブラハムを引用(ローマの信徒への手紙4章)し、アブラハムを「主イエス・キリストを信じる者全ての父」と捉えております。すなわちアブラハムは「信仰の父」と捉えられているのです。

アブラハムの歴史を辿ってみましょう。アブラハムはカルデアのウルに生まれました。現在のトルコ辺り、緑豊かな肥沃な土地でした。
 アブラハムはウルを離れて旅人となる、これが第一の出発です。ハランからカナン、そしてエジプトへと、アブラハム一族は旅人、寄留者でありました。
 父テラの死、これが第二の出発です。創世記12章4節「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」。ヘブライ人への手紙11章8節「信仰によって、アブラハムは、…行き先も知らずに出発したのです」。「行き先を知らないで旅立つ」それは普通は有り得ないことです。しかしアブラハムは「主の言葉に従う」、そこには神に対する絶対的な信頼があるのです。
 何故アブラハムは旅立ったのでしょうか。
 アブラハムには多くの「しがらみ」がありました。当時アブラハムは月神を信じる土地に住んでおり、彼はそこから自由になりたいという気持ちがあったと思います。また、家族のしがらみもありました。創世記11章26節「テラが七十歳になったとき、アブラム、ナホル、ハランが生まれた」、一つ屋根の下に3人の母親と3人の子ども……複雑な家庭環境からの逃亡を願ったとも想像できるのです。
 しかしそれだけではなく、やはり「本当の神に出会いたい」という内面的な思いがあったのではないでしょうか。

今、私どもは社会的・政治的に暗い、明るさのない時代を生きております。ある人は現代を「うつの時代」と言うのです。うつの状態、それは無気力で自己の中に閉じこもった状態です。
 例えば、秋葉原事件などのような様々事件を通しても「誰も自分に関心を持ってくれない孤独」という悲痛な叫びが聞こえてきます。それは「いのちの電話」に関わる中でも強く感じることです。自分を見い出せないが故に、他人を傷つけて自己の存在を確認する。あるいは「リストカット」、血を見て自分が生きていることを確認するなど。自虐的に、あるいは他者を傷つけることによって、自分の存在を確認しようとする。これは現代社会の人間の内面の大きな問題です。年間10万人もの人が自殺してしまう、そしてこの現象は年齢を問わず広がっているのです。

アブラハムの時代はもちろん今とは違うのですが、アブラハムも自分探しのために旅立つのです。そしてそれは「神の言葉に従って」の旅立ち、逃亡でした。
 今日の箇所は、その旅立ちからしばらく経った時の話で、この箇所はアブラハム物語の中で大変重要な箇所です。何故、重要なのでしょうか。1節「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である」。「恐れるな」とは新約聖書(マリアに、羊飼いに)にも、しばしば出てまいります。それは「神の登場」の意味を持ちます。
 そして神が「わたしはあなたの盾」と言ってくださる。これは力強い言葉です。しかし、当時のアブラハムは「財産がない、子も無い」の状況、先に希望の持てない状況なのです。ですから2節「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」と、神に抗議します。人間というものは、うつむいている時には、なかなか上を見ない、下しか見ないものです。空を見上げることなどしないものでしょう。アブラハムには財産も子も無く全く先の希望がない、ですから神に保証を求めるまでに抗議するのです。
 しかし神は、そのような人間の側の状況は全く問題にされません。そして4節「見よ、主の言葉があった」と神の言葉が臨むのです。ここで神は何を言われているのでしょうか。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。…天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。…あなたの子孫はこのようになる」。神が示されること、それは「神に未来を委ね、神に未来を確信して生きること」です。どのような状況にあったとしても神に信頼して生きる、ということです。

アブラハムという人は、その歴史を通して、必ずしも誉められるような人間とは思えません。多くの失敗をするのです。しかし、アブラハムを「信仰の父」と呼ぶのはキリスト教だけではありません。何故でしょうか。それはアブラハムが「神に自分を完全に明け渡して生きている。委ね切っている。神に完全に服従している」からです。神に完全に委ね切る、これはなかなか出来ないことです。
 人間的には弱さ、欠けの多い人アブラハム。しかし彼は「神に自分を委ね切っている」この点において、アブラハムは「信仰の父」なのだということに注目したいと思います。アブラハムこそは、神を信じた最初の人なのです。

パウロは「義人は一人もいない」と申しました。6節「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。アブラハムの「義」とは何でしょうか。「自分を神に明け渡している」この一点であります。

讃美歌21/60番の3節「良い子になれない わたしでも 神さまは 愛してくださるって イエスさまの おことば」。この言葉は私どもキリスト者にとっては恵み深い言葉であると思います。ここに聖書の中心があり、これこそが、私どもの信仰の出発点であります。私どもは、このことを原点として生きることができるのです。

命を献げる」 3月第5主日礼拝 2009年3月29日 
田邉良三 伝道師 
聖書/マルコによる福音書 第10章35〜45節

10章<35節>ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」<36節>イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、<37節>二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」<38節>イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」<39節>彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。<40節>しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」<41節>ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。<42節>そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。<43節>しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、<44節>いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。<45節>人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

35節。今朝与えられた御言葉は、弟子たちの中の二人の者、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟がイエスさまになにやら願い事をするという場面から始まっています。この二人は弟子たちの中でもペトロと同じように、イエスさまの近くにいつもいた人たちでした。様々な場面でイエスさまと共にいる彼らを見ることができます。その二人がイエスさまに願い事をするのです。
 この箇所を読んだとき、わたしは自分の子供のことを思い出しました。わたしの子供もよく「ねえ、お願い聞いて」と言います。そこでここのイエスさまのように、何のお願いかを聞くと「いいから、うんって言って」と先に願い事を聞いてくれるという約束を取り付けようとするのです。ここの二人の言葉を見たとき、そんな印象を持ったのです。願いの中身は伏せて、ただこれからする願いを聞いてくださいと彼らは言うのです。この二人にとってもなにやら後ろめたい思いがあるのかもしれません。この後に出てくる内容を見れば実に大胆な願いをしているからです。それも、他の弟子たちに先んじて何とか良い返事だけはもらっておきたいというような思いに駆られているのです。もしかすると彼らにはペトロを出し抜きたいという気持ちがあったのかもしれません。とにかく、何とか他の弟子たちよりも先に、よい地位を与えられるための約束がほしいというのです。こうした姿の中に、イエスさまの一番近くにいた12人の中にさえ、このような人間的な欲望が渦巻いていて、それによって行動させられてしまう姿が見てとれるのです。この二人の言葉にイエスさまは何を願うのかと問うています。

36〜38節。イエスさまの「何をしてほしいのか」との問いに彼らは自分の望みを語ることになりました。主イエスが栄光を受けるときにその右と左に自分たち兄弟を座らせてほしいというのです。右と左の座とは、イエスさまのすぐ側にあってイエスさまに次ぐ地位に就きたいということです。彼らは自分の思いのままに、それを求めるのです。こうした求めは彼らの中に絶えずあったものでしょう。それはすでに9章33〜35節「…『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」の中でイエスさまによってそうしたあり方の問題を指摘されていました。それでも彼らは弟子たちの中で一番偉くなるということの誘惑から逃れることができないでいるのです。
 すると、イエスさまはそんな彼らに、彼らの願っているものが何かを教えようとされます。まず、イエスさまは彼らが何を願っているのかわかっていないと指摘します。彼らは自分の願っているものが何であるかわかっているつもりだったのでしょう。それは将来イエスさまの受ける栄光の姿、救い主が打ち立てる主の王国の中で、自分たちが主に次ぐものとなり、人々の上に立つというものです。
 しかし、それは彼らが、今日の聖書箇所の直前で、主が語られた言葉を全く理解できずにいることを示しています。その箇所でイエスさまは御自分が苦しみの中で死に、その後、復活されることを語っておられるのです。マルコによる福音書はここまで三度イエスさま自身によってその死と復活が語られ、その度ごとに弟子たちがそれを理解することができない姿が示されております。一番近くにいた弟子たちでさえイエスさまの言葉を理解できないでいたのです。その都度、イエスさまによってその間違いをただされているのです。ここでもイエスさまは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と弟子たちに訴えることで、イエスさまの言葉を思い出すようにと誘うのです。しかし、弟子たちはそのことに全く気づかないでいるのです。
 イエスさまが言う「杯」そして「洗礼」とは「十字架の死と復活」のことに他なりません。それを共にに受けることができるかと問うのです。彼らがイエスさまの受難のときにイエスさまを残して逃げていったのをわたしたちはよく知っています。イエスさまもまた、十字架を前に彼らのそうした姿をよく理解しておられたのです。一方で、弟子たちはそんな自分たちの姿も、苦しみ死なれるというイエスさまのことも、いっこうに理解することができないまま答えているのです。

39〜40節。彼らはすぐに「できます」と答えています。それこそ彼らの自負を示すような姿でしょう。主に従い、主によって12使徒と選ばれた自分たちは、いつのときも主に従い得るのだと思っていたことでしょう。それだけの才能が、能力があるから主は自分たちを選ばれたのだという思いが、彼らの中にあったのではないでしょうか。わたしたちもまた、そうした思いを持ってしまうことはあるでしょう。わたしたちは主がどのような基準で人を選ばれるかをすぐに忘れ、驕り高ぶってしまうのです。
 かつて神はイスラエルの民をお選びになりました。それは彼らがとても優れていたからではありません。あまりに弱く、小さいものだからこそ彼らは選ばれたのです。ここで弟子たちが選ばれた理由も同じでしょう。彼らは、無学な者も多く、その中には当時罪人と考えられていた者もいました。神に頼るしかない欠けの多い者がここで選ばれているのです。
 しかし、ここでイエスさまはこの二人に「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と語っておられます。確かに彼らは主の杯を飲み、主の洗礼を受けると言われるのです。それは、彼らもまた主に従う者とされ、殉教を遂げていくことになることを意味しているかもしれませんが、それ以上に「主の洗礼と聖餐とを受ける者として、救いの中に入れられる」ことが言われているのです。この時、主の前で無理解を指摘されている彼らもまた、復活の主に出会い主の言葉を思い出す中で、自分たちの罪を見つめることになるのです。その罪を赦され、恵みの中に生きる者とされる中で、彼らも主に従う者とされるのです。
 また、ここではもう一つのことが言われます。それは主の右、左に誰が座るかは「父なる神の定められること」だということです。神の御心がなされるのであって、人の思いが実現するのではありません。ですから、主が十字架につかれるとき、その右と左にいた者は弟子たちではなく、二人の罪人だったのです。そのことをわたしたちは知らされています。まさに神の御心がイエスさまを通してなされるとき、それが主の栄光の姿として示されているのです。「人の救いのために十字架につき、復活されるイエスさまの姿」こそ「父なる神の御心を行う主の栄光の姿」なのです。救い主イエス・キリストは、人の思いを満たすために地上に来られたのでなく、父なる神の御心を行うために来られたのです。神はわたしたちを罪の中から救い出すことを御心としてくださっているのです。
 しかし、こうしたやりとりを知った他の弟子もこの二人と同じように自分たちの思いの中に縛られています。

41節。彼らもまた、この二人の弟子と同じく、誰が自分たちの中で一番偉い者であるかということを気にしていたのです。その思いがあるからこそ、彼らは抜け駆けのように主に願い出た二人を許せないのです。そうした弟子たちを前に、主は「主に従う者のあり方」を示されるのです。

42〜44節。主は弟子たちに、今の彼らのあり方は神を知らない者のあり方だと言われます。神を知らない者の間では支配者と見なされる者が支配し、偉い人たちが権力を持つと言われています。ここでいう支配者と見なされる者も偉い人も、神の支配の中にあっては、本当には支配者でも偉い者でもないのです。神を信じる者の中にあっては「自分の思いによって人を支配しようとする者であってはならない」ことが示されるのです。偉くなりたい者、一番になりたい者は「皆に仕える者、僕となりなさい」と言われます。それは、一番になるために嫌々人に仕えることではありません。そうではなく、人の上に立ちたい、人を支配したいという自分の中の欲望から主によって自由な者とされ、神の御心を行う者として「喜んで」人に仕える者となりなさいと言うのです。これは「主の御心をこそ、求める者であるように」との言葉なのです。もちろん、それは人の力でなせることではなく、主の十字架と復活を信じる者とされて初めて、わたしたちが変えられる姿なのです。罪人でしかなかったわたしたちは、主の十字架と復活によって救ってくださる神の恵みに満たされる中で、主の御心を求める者にされるのです。だからこそ、今日の御言葉は最後にそのことを示すのです。

45節。わたしたちのために主は地上へと来てくださいました。それはわたしたちが思うような支配者の姿ではなく、最後まで徹底して父なる神の御心に従い通した救い主の姿です。罪のない主イエスが、多くの人の罪のために身代金を支払ってくださったといわれています。それはまさに、十字架の上で流された主の血であり、裂かれた主の身体です。まさに、わたしたちのために御自身の命を与えてくださったのです。主はそれほどにわたしたちを愛してくださったのです。その主の姿こそ、この地上にあって「すべての者に仕える姿」なのです。この大きな恵みを父なる神は「主イエスを通して」わたしたちに与えてくださっているのです。今、主のもとに導かれ、主を信じる者とされたわたしたちは、その恵みの中に入れられているのです。また、様々な苦しみや痛みを抱え、主を求めてきた者をも、その恵みの中へと誘ってくださるのです。今、主の御前にあるすべての者は、主による救いの恵みの中へと呼び集められているのです。
 しかし、今日の御言葉が示すとおり、3度も同じことを繰り返す弟子のごとくに、わたしたちは主の言葉を聞きながら、かたくなで、なかなか理解できない、従い得ない者です。でも、このわたしたちに主は、何度も言葉を与え、教えてくださるのです。主は罪に陥りやすいわたしたちの全てを知って、なお恵みの中へと呼んでいてくださるのです。「救いに入りなさい」と言ってくださるのです。

この主イエス・キリストを自らの主と告白し、救われた者として、神の御心を求めつつ歩んでいきましょう。