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4節「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。ここでヨハネによる福音書は、主イエスが弟子たちの足を洗われる様子を克明に語っております。 主イエスが弟子たちの足を懇ろに洗ってくださる「洗足」の出来事。ヨハネによる福音書では、食事(2節、過越の晩餐)以上にこの「洗足」が強調されております。この福音書においては、「洗足」は特別な意味を持つのです。それはシモン・ペトロとの会話において示されております。 6節「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」。ペトロの驚き、戸惑い、そして抵抗があります。「洗足」は本来、異邦人奴隷のする最も卑しい仕事とされ、ユダヤ人のするべき仕事ではありませんでした。そのような事を自ら進んで為してくださる主イエスにペトロは抵抗を感じたのです。他の弟子たちはどうだったかと言えば、ペトロほど感情豊かではなく、ただ唖然としながら為されるままにしていたのではないでしょうか。主イエスの洗足、それはそれ程に衝撃的なことでした。ペトロも何も理解してはおりません。しかしその激情的な性格ゆえに、一言発せずにはいられなかったのでしょう。主イエスはそのようなペトロの言葉に対し答えてくださいます。 主イエスの答えは、7節「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。分らないのは当然だと言われます。何故か。それは、主の洗足は、単なる弟子たちへの愛の奉仕なのではなく、それ以上の意味がある事柄だからです。 9節「主よ、足だけでなく、手も頭も」。「主が洗わなければ、かかわりがなくなる」のであれば、逆に「全てを洗ってください」と、白か黒か、極端なペトロの性格が表れております。 これから起こることは「主イエスの十字架」です。「十字架」は「罪の贖い」=「清める」ということです。「洗足」は、主イエスが「十字架の贖いを以て清めてくださる」ことの先取りとしての主の業です。ですから「洗足」は「主イエスの十字架による清め」を意味しているのだということを覚えたいと思います。 ですから「今あなたには分かるまい」とは当然のことです。何故なら、まだ十字架の時は来ていないからです。この後、十字架そして復活の主イエスが臨んでくださり、主イエスが送ってくださる聖霊を受けることによってしか、このことを理解することはできません。聖霊を受けて初めて、弟子たちは「主イエスによって清められている」ことが分るのです。 11節「皆が清いわけではない」。弟子たちの中に「裏切る者」がいることが記されております。裏切る者ユダは、後に自分の行為を悔いますが、しかし自ら命を絶ってしまいます。ユダは復活の主イエスに会わず「聖霊を受けない」のです。ユダは神の裁きに身を委ねるのではなく、自らを罰してしまいました。ですからユダは清められないのです。裏切ったから清められないのではありません。裏切りが問題なのではなく「神の裁きに委ねられなかった」ことが問題なのです。 「弟子たちの足を洗ってくださる」それは「私ども一人ひとりの足を、主イエスが自ら洗っていてくださる」ことなのだということを、もうひとたび覚えたいと思います。「上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいでふき始められた」。何と有り難いことでしょう。「主イエスが私どもの足を洗ってくださる」それは「主イエスの十字架による罪の贖い、私どもの清め」なのだということが、このヨハネによる福音書のみ言葉に、恵みとして示されているのです。 今年は2月25日からレント(受難節)に入りました。主イエスの十字架・復活までの主のご受難を覚えるときです。 12節〜15節、まず何よりも大事なことは「洗足は私どもの罪の清めである」ということです。そして更に示されていることは、洗足は「主の示す模範である」ということです。14節「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と記されております。何よりもまず、主イエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちに仕えてくださいました。だから「互いに足を洗い合う=仕え合う者になりなさい」と言われております。「互いに仕える」それは「愛し合う」ということです。最も低き者とまでなって主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった、それは弟子たちを愛し抜かれたということだからです。 そして「互いに愛し合う」ことによって初めて、真実の交わり、主の共同体を形作ることができるのだということを覚えたいと思います。互いに愛し合う、仕え合うことは、個人の生き方の問題ではないのです。そこでこそ「主を模範とする真実の共同体」という豊かな交わりが形成されるということです。 何よりも「主が贖い、清めてくださった」という前提があってのことです。それ程までに「主に愛された者として」、互いに愛し合うのです。 改めて、主の洗足の恵みを覚えつつ、互いに主にある兄弟姉妹に仕え合い、愛し合う、豊かな交わりをなす群れでありたいと願います。 |
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16節「はっきり言っておく」と主イエスは言われます。20節、21節でも言われております。ヨハネによる福音書はこの言葉を特に愛して用います。少々古い言葉で言えば「まことに(アーメン)、まことに(アーメン)、わたしは汝らに告ぐ」であり、「アーメン」とは「真実」ということです。つまり、主イエスが「真実な方として語る」ということです。主イエスは「神の御子」であられ「神なる方」です。ですから、その語られる言葉は「真実」なのです。 「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」。この言葉によって主イエスは、ご自分と弟子たちとの本来のあり方、関係を示しておられます。僕(奴隷)と主人、遣わされた者(王が立てた使者)と遣わした者(王)。この関係で示されることは、「僕・使者」は「主人・王」に勝る者ではないということです。「弟子と師」という関係であれば、弟子が師に勝ることはあっても良いでしょう。それは寂しくはあっても、ある意味喜ばしいことです。しかし「僕と主人」との関係は、そうであってはならないのです。 このように、根本は「主人と僕」という関係であるにも拘らず、主イエスは弟子たちを「わが弟子、わが友、わたしの兄弟姉妹」と呼んでくださっているのだということを、恵みとして知る者でありたいと思います。「僕」に過ぎない者が「弟子、友」とされることは恵みなのです。 更に、遣わされた者(使者)は、主人から託された使命を果たす者でもあります。「主イエス・キリストを宣べ伝えること」、それが弟子たちが「遣わされた」ということです。主イエスから「福音を宣べ伝える」という使命を与えられて遣わされている、それが「主に従うこと」すなわち「なすべきこと」なのです。 17節「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。主イエスの御心に従うところに「幸い」があります。従うところで「主と一つとされる」からです。 18節、ここから「ユダの裏切り」へと話は進んでいきます。主イエスは裏切る者がいることをご存知です。しかし、主イエスは裏切る者をも弟子として選んでくださっているということを覚えたいと思います。 19節「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。事が起こった時に「まさしく主イエスが全てだ」と、人々が思い起こして信じるためです。「全てのことは主イエスにかかっていた。主がなさったことなのだ」ということが分るためです。 20節「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。 主イエスは「僕」に過ぎない私どもを「弟子」と呼んでくださいました。 |
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21節「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』」と記されております。 22節「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」。今の私どもにはユダが裏切ることが判っております。しかしこの時、ユダはまだ裏切る決意を明確にしていたわけではありません。何故なら27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った」と言われているように、ユダに裏切りの決意を与えたのは「サタン」だからです。 23〜24節「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した」。誰のことを主イエスが言っておられるのか、ペトロは弟子の一人(イエスの愛弟子)に聞いてもらおうとします。 何も分らないから裏切らざるを得ない、それが弟子たち、それが私どもです。 「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が…」。ペトロが合図をした弟子、その弟子は「主イエスの隣に座り、イエスに愛されていた」と記されております。弟子の中でもシモン・ペトロは主から「岩」と名付けられたほどで優位な立場にいたと思われるのですが、しかしそのペトロより「愛弟子」とされた弟子とは誰なのか、今日に至るまで様々な説が語られております。 30節「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」。出て行ったのは「夜」だったと記されております。これから起こること=「十字架」を「夜」と記すのです。これから「十字架」という「暗闇」に向かうということです。そこは裏切りと殺意の待つところです。 27節「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた」。主イエスがパンを渡し「したいことをしなさい」と言ってくださる。だからユダは行動できるのです。ここに示されていることは何でしょう。それは、ここから始まる闇、その闇をも「主イエスが主導権を取っておられる、主の支配のうちにある」ということです。確かに暗闇がある。しかしその暗闇は主の言葉をもって始まり、そして全ては「主の御心」しか成らないのです。 私どもは「したいようにする」。しかし、その背後で「主導権を取っておられるのは主イエス・キリスト」であることを覚えたいと思います。 今、世界は混沌とした暗闇の中にあります。社会に、また私どもの心にも闇があるのです。しかし、そのような暗闇の中にあっても、本当の支配者は「主イエス・キリスト」であることを覚えたいと思います。 |
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私どもは今、レント(受難節)の時を過ごしております。 私(説教者)は聖書に語られる「イスラエルの族長たち」に関心があるのです。族長たちの信仰が、今日の私どもの信仰の原点であると考えるからです。 今日のみ言葉は、イスラエルの歴史の中で初代の族長であるアブラム(後のアブラハム)についての箇所です。族長の歴史は紀元前2000年頃から始まり、アブラハムに続きイサク、ヤコブと3代の物語が創世記に詳しく記されております。この歴史は必ずしも客観的なものではなく伝説なども盛り込まれております。 アブラハムの歴史を辿ってみましょう。アブラハムはカルデアのウルに生まれました。現在のトルコ辺り、緑豊かな肥沃な土地でした。 今、私どもは社会的・政治的に暗い、明るさのない時代を生きております。ある人は現代を「うつの時代」と言うのです。うつの状態、それは無気力で自己の中に閉じこもった状態です。 アブラハムの時代はもちろん今とは違うのですが、アブラハムも自分探しのために旅立つのです。そしてそれは「神の言葉に従って」の旅立ち、逃亡でした。 アブラハムという人は、その歴史を通して、必ずしも誉められるような人間とは思えません。多くの失敗をするのです。しかし、アブラハムを「信仰の父」と呼ぶのはキリスト教だけではありません。何故でしょうか。それはアブラハムが「神に自分を完全に明け渡して生きている。委ね切っている。神に完全に服従している」からです。神に完全に委ね切る、これはなかなか出来ないことです。 パウロは「義人は一人もいない」と申しました。6節「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。アブラハムの「義」とは何でしょうか。「自分を神に明け渡している」この一点であります。 讃美歌21/60番の3節「良い子になれない わたしでも 神さまは 愛してくださるって イエスさまの おことば」。この言葉は私どもキリスト者にとっては恵み深い言葉であると思います。ここに聖書の中心があり、これこそが、私どもの信仰の出発点であります。私どもは、このことを原点として生きることができるのです。 |
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35節。今朝与えられた御言葉は、弟子たちの中の二人の者、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟がイエスさまになにやら願い事をするという場面から始まっています。この二人は弟子たちの中でもペトロと同じように、イエスさまの近くにいつもいた人たちでした。様々な場面でイエスさまと共にいる彼らを見ることができます。その二人がイエスさまに願い事をするのです。 36〜38節。イエスさまの「何をしてほしいのか」との問いに彼らは自分の望みを語ることになりました。主イエスが栄光を受けるときにその右と左に自分たち兄弟を座らせてほしいというのです。右と左の座とは、イエスさまのすぐ側にあってイエスさまに次ぐ地位に就きたいということです。彼らは自分の思いのままに、それを求めるのです。こうした求めは彼らの中に絶えずあったものでしょう。それはすでに9章33〜35節「…『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』」の中でイエスさまによってそうしたあり方の問題を指摘されていました。それでも彼らは弟子たちの中で一番偉くなるということの誘惑から逃れることができないでいるのです。 39〜40節。彼らはすぐに「できます」と答えています。それこそ彼らの自負を示すような姿でしょう。主に従い、主によって12使徒と選ばれた自分たちは、いつのときも主に従い得るのだと思っていたことでしょう。それだけの才能が、能力があるから主は自分たちを選ばれたのだという思いが、彼らの中にあったのではないでしょうか。わたしたちもまた、そうした思いを持ってしまうことはあるでしょう。わたしたちは主がどのような基準で人を選ばれるかをすぐに忘れ、驕り高ぶってしまうのです。 41節。彼らもまた、この二人の弟子と同じく、誰が自分たちの中で一番偉い者であるかということを気にしていたのです。その思いがあるからこそ、彼らは抜け駆けのように主に願い出た二人を許せないのです。そうした弟子たちを前に、主は「主に従う者のあり方」を示されるのです。 42〜44節。主は弟子たちに、今の彼らのあり方は神を知らない者のあり方だと言われます。神を知らない者の間では支配者と見なされる者が支配し、偉い人たちが権力を持つと言われています。ここでいう支配者と見なされる者も偉い人も、神の支配の中にあっては、本当には支配者でも偉い者でもないのです。神を信じる者の中にあっては「自分の思いによって人を支配しようとする者であってはならない」ことが示されるのです。偉くなりたい者、一番になりたい者は「皆に仕える者、僕となりなさい」と言われます。それは、一番になるために嫌々人に仕えることではありません。そうではなく、人の上に立ちたい、人を支配したいという自分の中の欲望から主によって自由な者とされ、神の御心を行う者として「喜んで」人に仕える者となりなさいと言うのです。これは「主の御心をこそ、求める者であるように」との言葉なのです。もちろん、それは人の力でなせることではなく、主の十字架と復活を信じる者とされて初めて、わたしたちが変えられる姿なのです。罪人でしかなかったわたしたちは、主の十字架と復活によって救ってくださる神の恵みに満たされる中で、主の御心を求める者にされるのです。だからこそ、今日の御言葉は最後にそのことを示すのです。 45節。わたしたちのために主は地上へと来てくださいました。それはわたしたちが思うような支配者の姿ではなく、最後まで徹底して父なる神の御心に従い通した救い主の姿です。罪のない主イエスが、多くの人の罪のために身代金を支払ってくださったといわれています。それはまさに、十字架の上で流された主の血であり、裂かれた主の身体です。まさに、わたしたちのために御自身の命を与えてくださったのです。主はそれほどにわたしたちを愛してくださったのです。その主の姿こそ、この地上にあって「すべての者に仕える姿」なのです。この大きな恵みを父なる神は「主イエスを通して」わたしたちに与えてくださっているのです。今、主のもとに導かれ 、主を信じる者とされたわたしたちは、その恵みの中に入れられているのです。また、様々な苦しみや痛みを抱え、主を求めてきた者をも、その恵みの中へと誘ってくださるのです。今、主の御前にあるすべての者は、主による救いの恵みの中へと呼び集められているのです。 この主イエス・キリストを自らの主と告白し、救われた者として、神の御心を求めつつ歩んでいきましょう。 |
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