聖書のみことば/2009.2
2009年2月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
神の誉れ、人の誉れ」 2月第1主日礼拝 2009年2月1日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章36〜43節
<36節>光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。<37節>このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。<38節>預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」<39節>彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。<40節>「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」<41節>イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。<42節>とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。<43節>彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。

36節、イエスは「立ち去って彼らから身を隠された」と記されております。ここは他の福音書では、主イエスが人々の殺意を感じ今はまだ十字架の時ではないとして身を隠されたという記述になっておりますが、このヨハネによる福音書では違います。19節「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と記されているように、主イエスを殺そうとしている民の指導者ファリサイ派の人たちは、あきらめムードでした。このことから、主イエスは人々の殺意のゆえに身を隠したのではないのです。そうではなく、ここは主イエスにとっての区切りであり、分岐点に来ているのです。
 主イエスが数々の奇跡をなさったのは、主イエスが神の子救い主であることの「しるし」でした。それによって人々は、「主イエスを救い主と信じること」を求められました。しかし、37節「彼らはイエスを信じなかった」のです。主イエスの地上での御業が「主イエスを神の子救い主と信じるためのしるし」だったこと、そしてそれを「人々は信じなかった」こと、それが区切りであり、しるしの時代は終わったということです。

「彼らはイエスを信じなかった」それは38節「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」と記されております。「信じない理由」が語られているのです。ここに今の時代との大きな違いを思います。今の時代は「信じることに理由をつけ、信じないことには理由をつけない」時代。これは私どもの時代の問題を示していると思います。何故なら、本来「信じることに理由など必要ない」からです。「神がいる」ことが当たり前の時代にあっては「信じること」は前提なのであり、信じることに理由はなく、だからここでは信じない理由を述べているのです。しかし今の時代は「神がいない」ことが前提、だから「何故信じるのか」の理由を必要とするのです。大体、人間が理由をつけて信じることには無理があります。信仰においても人の思いに確信を必要とするからです。
 信じることに「証し」は必要でしょうか。「信じること」に人間の側の理由は必要ありません。 礼拝を守り、祈祷会を守る、それでよいのです。信仰に理由があるとすれば、それは本当の信仰とはならないのです。信じることに理由は要らない。信じないことには、理由は沢山あるのです。
 今の時代は信じないことを前提としていますが、そうではありません。今の時代であっても、理由などなく「信じる」ことが前提であることを改めて覚えたいと思います。信じることに理由のない人は信仰を続けられます。私どもは、理由があって信じているのではない。そこに「神在す」故に信じているのです。理由づけした信仰では、神への畏敬はないのです。人の傲慢の故に、神が有ったり無かったりするからです。

39・40節「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた」。人々が信じない理由は「神の御旨」だと言うのです。神がその人の心を「かたくなにされた」からだと。
 「信じられない」とは「心がかたくなになる」ことです。
 人は「信じる」ことによって「人」です。ですから「信じるべきなのに信じられない」それは苦しいことです。それは人を不安に、孤独にするのです。心が蝕まれ、虚しくなり、病むのです。心を病むことは神を信じられないことに起因すると言えます。本来、信じるべきものが信じられないという矛盾した中に生きることは、生の平安も麗しさもない姿なのです。
 「神がその心をかたくなにされたので信じなかった」と言うならば、それは神の責任なのでしょうか。そうではありません。「信じないこと」と「かたくななこと」は一つのことです。「信じられない」とは、既に「神の裁き」のもとにあるということ、それがここに言われていることです。
 「信じる」ことは自明のことなのです。「主イエスを信じる」とは「主イエスを救い主キリストと信じる」ことです。そこに救いがあるのです。主イエスを誰と信じるのかが大事なのです。「主イエスは救い主」と信じる以外に、私どもの救いはないのです。
 このように、当たり前のことが当たり前でなくなってしまう、それは、人間の側に理由づけがいっぱいになったからです。人間中心であれば、信じないことは当たり前なのであり、信じることに理由をつけようとするような錯覚に陥ってしまうのです。それは滅びに過ぎません。
 ヨハネによる福音書は、はっきりと語ります。信じる者には神からの恵み・永遠の命の約束が与えられる。信じない者は神の裁きのうちにあり、滅ぶ。「信じること」をのみ、この福音書は語っております。
 「信じる」とは「低くなること。見えないもの(神の御業)を見ること。神との和解を得て和らぎを得、慰められること」です。それが「信じることの恵み」です。

41節「イザヤは、イエスの栄光を見たので」。旧約の預言者イザヤが主イエスの栄光を見る、それは、先在のキリストとして主イエスが世の始めからおられた救い主としてイザヤは知っていた、ということです。

42節「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」と、信じない者だけでなく、信じた者もいたことが語られております。しかし、本当の信仰かと思うような、信じた者の情けない姿が記されております。パウロがローマの信徒への手紙で語っているように、私どもは、心の中の思いだけではなく「公に言い表して救われる」のです。公に言い表すことがなければ、本当の救いに至らないのだということを覚えたいと思います。
 43節「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と、神に誉められることよりも、地上の便宜上の人々の賞賛を求めて、信じた議員たちは公に言い表さなかったのです。

私どもにとって大切なことは「神が私どものことを知っていてくださる」ということです。「神に知られている」ことをしっかり受け止めて、地上の歩みを生きる者でありたいと思います。
 人間関係の中で、人は人に受け止めて欲しいと思ってしまいます。しかしそれは、移ろうものに過ぎません。真実の生は、神のもとにだけあるのです。「神に知られている」がゆえに真実に生きられるのです。「神に知られている者として生きること」、それが「神からの誉れ」です。とても神から誉められるような存在ではない、罪でしかない私どもが、「御子主イエス・キリストの十字架・復活」のゆえに「神の誉れ」とされたのだということを覚えたいと思います。
 ただ神の憐れみにより、「主イエスを救い主キリストと信じる」ことによって、神のものとしての誉れを受けているのだということを覚えたい。神に知られている者として、私どもは最早、人からの理解を欲する必要はないのです。

光として来た」 2月第2主日礼拝 2009年2月8日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章44〜50節

12章<44節>イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。<45節>わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。<46節>わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。<47節>わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。<48節>わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。<49節>なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。<50節>父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

44節、主イエスはご自身について「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」と、声高く宣言しておられます。「信じる」とはいかなることなのでしょうか。今の時代に照らして考えてみたいと思うのです。

今の時代は「信じること」が分らなくなっている時代です。かつては神の存在は自明であり、従って「信じること」は前提であって、「信じること」に説明を必要とはしませんでした。しかし「信じること」を考えず思わなくなった「神無き」今の時代は、「信じるという感覚」さえ失ってしまっております。ですから「信仰」と言われてもピンと来ない、ましてや「不信仰」などと言われても分るはずがありません。「不信仰は滅びだ」といくら語っても、何も伝わらないのです。今の時代に「信じる」とは何なのか、改めて受け止める必要があるのです。

キリスト教の故に「愛する」という言葉が一般化しております。人と人との交わり、絆、結び目、それが「愛」です。
 今の時代、「愛する」ことを強調するようになったのは何故でしょうか。それは今が「孤独な時代」になって「人と人との緊密な交わり」の必要性を実感するようになったからです。昔は親子、親戚など、共同体の交わりが密でした。
 しかし「愛」があるからといって、その交わりが健全であるとは限らないのです。「愛」を破壊するもの、それは「不信」です。どんなに愛があったとしても、そこに「信頼関係」「信じる」ということが無ければ、その交わりは成り立っていきません。人は「他者との交わり、関わり」に生きる存在であり、その交わりに必要なことは「信頼、信じる」ということなのです。
 「信じられない」ところに起こることは「不安」です。平安を失うのです。人の社会的営みの中では「信じることができる」ことが平安であり、揺るぎないことなのです。「確かさ」は「信じる、信頼する」ところにあるということです。
 いつの間にか「信じるという感覚」さえ失ってしまった今の時代、信じることなくしては、家庭や共同体を構築していくことは出来ません。ですから、人は他者との交わりに生きる限り「信じること」を必要としているのです。そして、何故そのように「信じることが大事」かは、「神を信じる」ことからしか知り得ないことなのです。

45節「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」と、「神」が「主イエスを遣わしてくださった方」であることが語られております。
 旧約聖書は「神を畏れることは知恵のはじめ」と語ります。「神を畏れ敬う」とは「神を信じる」ということであって、それが「人間の知恵」です。
 「畏れ敬う」ということがあって初めて「共同体が成立する」のです。「畏れ敬うこと」、そこに「存在に対する畏敬の念」が生まれるからです。「信じる」ということは「他者の存在を大事にする」ということなのです。ですから、神無くしては共同体は存在し得ないことを覚えなければなりません。
 かつては、お金より人との交わりが大切だったはずです。しかし今や、お金が人より大事になって、人間関係より自分の利益を優先するのです。問題は、そのような社会の中で子どもたちが育っているということ。これは100年の危機などという甘いものではありません。共同体を形成する根本の回復が成されなければ、今の危機から脱することは出来ないのです。

47節「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。神が主イエスをこの世に遣わされたのは何故なのか。それは「この世を救うため」だと言われております。
 「主イエス・キリストを信じる」ということは「この世に遣わされた主イエス(神でありながら人となられた方)を信じる」ということです。単に主イエスの生き方や教えを信じ倣うということではないのです。「人である私どもの救い」のために、主イエスはこの世に遣わされてくださいました。主イエスが「人とまでなってくださった」が故に、私どもはこの身のままでキリスト(救い主)と出会い、神との交わりを回復することができたのです。「神との交わり」それは決して尽きることのない「永遠の交わり」です。
 交わりを失い「虚しく生きている者」をも、なお救おうとしてくださる。それほどまでに神は私どもを愛してくださっている。神が「慈しみの神」だからこそ、主イエスをこの世に遣わしてくださったのです。ですから、私どもが「主イエスを信じる」ということは、同時に神を「慈しみの神」として信じているということなのです。主イエスを遣わしてくださる程に私どもを慈しんでくださる、だから私どもは「神を畏れ敬う」ことができるのです。そこには「裁き」など微塵もない、「神の慈しみ」の他にはない、だからこそ私どもは自ずと「神を畏れ敬う」ということが起こるのです。

「信じる」とは、「神の慈しみ」を知り「神を畏れ敬う」ことです。

存在を慈しんでくださる「慈しみの神が在す」からこそ、そこに裏切りや不信があったとしても、その共同体は存在することができます。
 主イエスの弟子たちは、何度も主を裏切る者でした。しかし、主は裏切る者をも慈しんでくださった。故に彼らは、「敵する者をも愛する」と言い得るほどに真実な共同体を、教会を、立てることができたのです。

「信じる」ことは「人の尊厳を鮮やかにする」ことです。「信じる」ことなくして、人間の存在はないのだということを覚えたいと思います。
 「信じられない」こと、それは「滅び」なのです。「孤独に生きる」、それは既に「裁かれている」ということなのです。
 しかし、そのような「孤独・滅び」の中にある者を、神は「救う」と言ってくださる。「救う」ために、この世に主イエス・キリストを遣わしてくださったのです。

覚えておくべきことがあります。
 滅びの中にある者にとって、「裁かれる」ということは「救いの糸口」です。「裁かれる」ことによって、自らの罪を知るからです。そこで神の恵みを知ることができるからです。
 「裁かれない、放置される」ことは恐ろしいことです。
 「裁かれて」この身が打たれる時、そこに自らの罪を見い出すならば、それは「救いへの道」なのです。

47節「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。「暗闇の中にとどまる」とは、孤独と不安の中にあり続けることです。
 「暗闇の中にある」ことすら気付かずにいる者たち、今を生きる私どもの救いのために、主イエスはこの世に遣わされてくださいました。それほどまでに私どもを愛してくださる「慈しみの神」に、ただただ感謝するものです。

父の命令は永遠の命」 2月第3主日礼拝 2009年2月15日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第12章46〜50節

12章<46節>わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。<47節>わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。<48節>わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。<49節>なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。<50節>父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

今日の大事なテーマは「服従、聴き従う」ということです。

まずは46節「わたしは光として世に来た」。主イエスが来られたのは「暗闇に光をもたらすため」だと言われます。「暗闇」とは何でしょうか。「暗闇」とは、ただ単に月明かりのない夜の暗さ、というようなものではありません。
 「光」は主イエスご自身です。主イエスは、神の御子として神と本質を同じくする方です。すなわち主イエスは「人となってこの世においでくださった神」です。「光」とは「神」なのです。
 ですから「暗闇」とは「神なき世界」です。それは死の世界、神との交わりを失っている世界ということです。
 聖書においては「神との交わりにある」ことが「命」です。主イエスが光として来られたということは、主イエスを信じることで、神との交わりに入れられるということです。この地上において人と人との軋轢の中で、時に人は孤独になる。しかし主イエスを信じる人は、もはや孤独ではありません。神との交わりがあるからです。神との交わりをもたらす方=主イエスを信じることによって、この地上で神との交わりをいただく者とされるのです。人の心が孤独なのは神との交わりを失っているからなのであって、一人で居ることが孤独なのではありません。神との交わりがあるならば、たとえ一人ぼっちであったとしても、その人は暗闇を生きているのではないのです。人の本当の孤独とは神との交わりを失っていること、それが本当の暗闇なのだということを覚えたいと思います。
 死の時、人は必ず一人で死ななければなりません。しかし主イエスを信じる者は、死に際しても孤独ではないことの幸いを覚えたいと思います。死を共にしてくださるのは主イエスです。人の死を十字架で死んでくださった主イエスが共にいてくださるのです。

47節、救い主イエスが来てくださったのに信じない者を、しかし主イエスは「わたしはその者を裁かない」と言われます。総決算は終りの日にあるからです。地上で無理に裁かない。何故か。それは終わりの日まで、神が忍耐して待ってくださるということです。地上での悔い改めの時を、立ち返って信じることを待ってくださっているということです。私どもは待つことが出来ない者です。しかし神は待ってくださる。滅びゆく者をどれほど愛してくださっているかということです。

しかし、そこまで忍耐していただいたのに悔い改めないならば、48節「裁くものがある」のです。神の裁き、神の介入は、力づくの理不尽なものではありません。それはその人の蒔いた種であって、自らがもたらす当然の結果なのです。
 人は「神の忍耐によって救われる」のだということを忘れてはなりません。

49節「わたしは自分勝手に語ったのではなく」、主イエスは「自分勝手」に語らないと言われます。主イエスは神の御子として父なる神から全権を委ねられた方です。ですから、全てご自分の思いでなされても良いはずです。しかし、任された者だからこそ、任せてくださった父なる神に従う者として、神がお命じになったことをなすと言われるのです。
 神の言葉に聴き従う者として、神に従順な者として、主イエスの「御子としての従順」は、父なる神への屈服ではなく「父なる神と一つ」であることを示しております。父なる神が託してくださることを、そのままに語ると言われる。「従順」は一体性を示すのです。「父なる神と一つ」だから、自分勝手ではないのです。
 「自分勝手」なのは、誰にも聞けない、自分しかない世界にいるからです。だから孤独になるのです。神を失っている世界は「身勝手な世界」であることを改めて思います。身勝手な神なき世界は自分自身をしか語れず、しかしそれは他者から受け入れられず、悲しみ・苦しみしかないのです。人はなぜ自分勝手で自分中心なのか。神なき世界に生きるからです。「神なき」ということは、真実の支え手である神を失っていること、だから不安で虚しいのだということを改めて覚えたいと思います。不安や虚しさがもたらすもの、それは自己保身か自暴自棄です。

「従順・服従・忠誠」の持つ意味、それは「一体性」であることを、もう一度、覚えたいと思います。
 神に「聴き従う」ということは「服従する」ということです。しかし今日「服従」ということは、信仰においてすら語れなくなっております。そこには、神との一体性を失わせ、神と対等な者としてしまおうとする人の欲望への巧妙な誘いがあるのです。しかし、だからこそ今、「服従、従う」ということを改めて覚えたいと思うのです。
 主イエスご自身が「父なる神に従う」とおっしゃっているのです。十字架への道は、まさに死に至るまでの父なる神への従順でした。主イエスの生涯は父なる神への「服従の生涯、忠誠の生涯」でした。
 神抜きに本当の人権は無いにも拘らず、神なき人権が叫ばれるようになって、今日、「従順」は「連帯、パートナーシップ」に取って代わられてしまいました。それは危ないのです。対等や違いを認めること、そこで失われることは「一体性」です。それは「結婚」においても同様です。従うこと、互いへの従順の持つ意味、すなわち「一体性」を失ってはならないのです。
 神との関係にパートナーシップはない、ということを覚えたいと思います。罪でしかない者を、神はその憐れみの故に神の子としてくださるのです。しかしあくまでも、神と私どもとの間には大きな断絶があるのだということを忘れてはなりません。パートナーシップでは、神を畏れ敬うことはなくなってしまいます。サタンは巧妙と言わざるを得ません。
 主イエスはここで、どこまでも父なる神に服従する者として、神と一つなる方として、私どもに語ってくださっているのだということを覚えたいと思います。
 私どもが「主に従う」とは、神との一体性を意味しているのです。どこで一つとされるか。主イエスを信じ、聴き従うことによって「主と一つ」とされるという恵みなのです。これは秘儀・神秘の出来事です。そしてこれが「信仰」です。主と一体となるなど有り得ない者であるにも拘らず、決して失われることのない「永遠の命」すなわち「神との一体」という神秘を与えられているのだということを覚えたいと思います。だからこそ、信じる者は孤独ではないのです。神に聴き従う、服従することによって、神に、キリストに一つなる者とされる、大いなる恵みです。
 パートナーシップを大切にすることも大事です。しかし人間性においても一体性を思わなければなりません。キリスト者は「従う」という恵みの出来事を失ってはならないし、大切にしなければならないのです。

50節「わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」。主イエスが父なる神の言葉に聴き従うことによって、私どもに語ってくださること、そこには旧約の律法を超えた神の言葉が語られております。すなわち「父の命令は永遠の命である」という律法の完成を超えた「救いの出来事」が語られているのです。

「従順」ということ。主イエスですら「従順」であられました。私どもも主イエスに従順であるべきことを改めて覚えたいと思います。そして私どもを従順へと招いてくださっていることの恵みを覚えたいと思います。従うことによって「神との永遠の交わり、神と一つなる恵み」に与るのです。なんと幸いなことでしょうか。神と一つなる者とされる神秘に、ただ感謝するものです。

弟子の足を洗う」 2月第4主日礼拝 2009年2月22日 
北 紀吉 牧師(聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第13章1〜11節

13章<1節>さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。<2節>夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。<3節>イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、<4節>食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。<5節>それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた<6節>シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。<7節>イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。<8節>ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。<9節>そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」<10節>イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」<11節>イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

ここから語られることは、過越祭の前日の出来事です。18章28節まで続きます。
 今日の「弟子の足を洗う」出来事の後、13章の途中から16章にかけては主イエスの弟子たちに対する決別の説教が続き、17章には主イエスが弟子たちのために祈られた祈りが記され、そして18章イエスは捕らえられるのです。
 ヨハネによる福音書全21章のうちの実に13章〜18章までが、この日の出来事を記しております。そして、この日の出来事には主イエスの弟子たちに対する並々ならぬ思いが示されております。

その総括ともなる言葉が、1節です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。弟子たちに対する愛が示されております。弟子たちに対する「愛を貫いてくださった」だからこそ語ってくださる説教であり、祈りなのです。

主イエスが「神のもとから来て、神のもとに帰る(3節)」という出来事は、弟子たち(私ども)に対して主イエスが「愛を貫いてくださった」出来事です。罪人の救いのために十字架についてくださった、それは主イエスが私どもに対して「愛を貫いてくださった」出来事なのです。なぜか。それは、主イエス・キリストが「神の愛」そのものなる方だからです。主イエス・キリストの生涯は、まさしく私どものために「神の愛を貫き通してくださった」生涯でした。

「世にいる弟子たち」とは、その場にいる者だけではなく、後々主の弟子となる者、つまり「私ども」のことです。主イエスは私どもにも「愛を貫いて」くださっているのです。ここで思います。私どもはどのように聖書のみ言葉を聴くべきでしょうか。主が私どもを愛してくださっていることを、そこに「神の愛」が語られていることを感じつつ、読み、聴くことが大事です。聖書は神から人へのラブレターとも言われます。聖書は私どもに対する神からの愛の手紙なのです。

「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」、このことは3節でも「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」と言い直されております。「移る」は「もとに帰る」と言われております。「十字架に死ぬ」とは言わないのです。「十字架の死」をも「天に移る」出来事として表しております。主イエスは十字架に死んで復活する、すなわち「死を超えて天に移る」のです。ヨハネによる福音書は「死で終わらない」ことを強調しております。そして主イエスが「天に帰られる」ことによって「救いが完成を見る」のです。
 主イエスは地上を「人となって」通り過ぎてくださいました。主イエスにとっては、地上の生涯が全てではなかったのです。死を超えた命の世界へ「死から生へ移る」という出来事です。これは私どもにとっても大きな出来事です。私どもは地上しか知らず地上が全てですから、地上での死によって全てが終わりになってしまうのです。しかし「聖霊の働き」によって、主イエスを信じるとき、私どもは主と共に十字架につき、主と共に復活する恵みが与えられているのです。主イエスを信じる者は、主と共に、地上の住まいから天の住まいに移されるのです。「キリストと共に死に、キリストと共に甦る」恵みであることを改めて覚えたいと思います。
 今日は逝去者記念式をいたします。先に天に召された兄弟姉妹たちは、今まさに主と共に父なる神のもとに移されて、主と共に天に住まうことが赦されているのだということを覚えたいと思います。
 そして私どもがもう一つ知っておくべきことは、私どももまた、死をもって終わるのではない、天に移されるという約束・希望が与えられているのだということを、逝去者記念式を通して改めて覚えたいと思います。私どものこの地上での生活は希望をいただいた生活なのです。

「御自分の時」とは、どういう時でしょうか。ただ単に「時が来た」ということではありません。委ねられたことを全て成し遂げて終える、「完成の時」を意味するのです。
 私どもは大概、自分自身を完成させることは出来ません。「人生は道半ば」と言われるように、未完成で終わることを良しとする人生観もあります。私どもは人生において与えられた責任を果たし切ることなど出来ないのです。ですから主イエス・キリストと私どもとの「時」の違いの差は大きいのです。
 どこまで行っても未完成な私どもです。しかし幸いなことに、使命を成し遂げられる方=主イエスが、私どもの救いを完成させてくださるのです。私どもは「主によって完成された救い」を、ただ感謝をもって頂くのみです。なんと幸いなことでしょう。日常生活ですら完成出来ない私どもです。自分の救いを完成することなど出来ようはずのない者であるにも拘らず、主イエスが、この私の救いを「わたしの時が来た」と言って完成させてくださるのです。「私の救いは主イエスにより完成している」、それが主を信じる者に与えられた恵みであります。
 私どもの人生の完成は主イエスによるのです。主イエスを信じることによってのみ完成を見るのです。
 日曜日、主日は、私どもの一週間の日常が完成を見る日です。一週間の日常は不十分であり悔いることも多いはず。しかし主は完成される方です。主日毎に、私どもは一週間の歩みを主によって完成させて頂き、完成を見た者として新しい一週間を歩み出すことができるのです。
 主イエス・キリストは、私どもの救いを完成させてくださる方です。それが「主が天に帰られる」ことであり、それは私どもにとっては救いを見る喜びなのです。

私どもが「未完成」であることは良いことです。「老い」は素晴らしいのです。老いによって知ること、それは「無力になっていくこと、弱さを感じること」です。それは幸いなのです。無力さ弱さを「身に沁みて」感じることによって、逆に「主の愛をより深く」感じ、知ることができるからです。それは老いの恵みです。若い時には気負いがあり、そうはいきません。無力さ、弱さにおいてのみ、私どもは深く主の恵みを知る。神の救いが完全にあることを知るのは、老いの現実においてのみだと思います。神が完成させてくださるからこそ、私どもの人生は幸いな人生なのです。「神が全てとなる」、それが老いの恵みであることを覚えたいと思います。

2節「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。主イエスは「裏切り」があることをご存知です。「主イエスの救いの御業の完成」は、裏切りをも含んでの完成なのです。人間の業であれば、そこに裏切りがあれば決して完成することは出来ません。しかし主イエス・キリストの救いの御業は、裏切りをも呑み込んで完成するのです。なぜか。私どもは、主イエスの期待を裏切る者に過ぎないからです。主は私どもが裏切る者であることをご存知の上で、救いを完成させてくださるのです。
 更に言えば、使徒パウロは裏切る者でした。裏切り者と言われた人です。しかし神は「裏切る者」パウロをも異邦人伝道のために用いられました。主の救いのご計画がとてつもなく偉大な業であることが、このユダの裏切りによって示されております。
 だからこそ私どもは、ユダを責めてはならないのです。ユダを裁いてはなりません。裁きは主に委ねるべきことを覚えたいと思います。恵みに委ねることが出来ない私どもは、裁きをも委ねられない者です。しかしそれは自分だけではなく、他者をも巻き込むことになるのです。

5節「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」と、主イエスが「弟子の足を洗う」出来事が描写されております。それは奴隷の姿です。主人の足を洗うことは異邦人奴隷のする最も低い仕事でした。主イエス・キリストは、そこまでして、弟子たち、私どもに愛を貫いてくださいました。内容については次週聴くことといたします。