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36節、イエスは「立ち去って彼らから身を隠された」と記されております。ここは他の福音書では、主イエスが人々の殺意を感じ今はまだ十字架の時ではないとして身を隠されたという記述になっておりますが、このヨハネによる福音書では違います。19節「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」と記されているように、主イエスを殺そうとしている民の指導者ファリサイ派の人たちは、あきらめムードでした。このことから、主イエスは人々の殺意のゆえに身を隠したのではないのです。そうではなく、ここは主イエスにとっての区切りであり、分岐点に来ているのです。 「彼らはイエスを信じなかった」それは38節「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」と記されております。「信じない理由」が語られているのです。ここに今の時代との大きな違いを思います。今の時代は「信じることに理由をつけ、信じないことには理由をつけない」時代。これは私どもの時代の問題を示していると思います。何故なら、本来「信じることに理由など必要ない」からです。「神がいる」ことが当たり前の時代にあっては「信じること」は前提なのであり、信じることに理由はなく、だからここでは信じない理由を述べているのです。しかし今の時代は「神がいない」ことが前提、だから「何故信じるのか」の理由を必要とするのです。大体、人間が理由をつけて信じることには無理があります。信仰においても人の思いに確信を必要とするからです。 39・40節「彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。『神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた」。人々が信じない理由は「神の御旨」だと言うのです。神がその人の心を「かたくなにされた」からだと。 41節「イザヤは、イエスの栄光を見たので」。旧約の預言者イザヤが主イエスの栄光を見る、それは、先在のキリストとして主イエスが世の始めからおられた救い主としてイザヤは知っていた、ということです。 42節「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」と、信じない者だけでなく、信じた者もいたことが語られております。しかし、本当の信仰かと思うような、信じた者の情けない姿が記されております。パウロがローマの信徒への手紙で語っているように、私どもは、心の中の思いだけではなく「公に言い表して救われる」のです。公に言い表すことがなければ、本当の救いに至らないのだということを覚えたいと思います。 私どもにとって大切なことは「神が私どものことを知っていてくださる」ということです。「神に知られている」ことをしっかり受け止めて、地上の歩みを生きる者でありたいと思います。 |
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44節、主イエスはご自身について「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである」と、声高く宣言しておられます。「信じる」とはいかなることなのでしょうか。今の時代に照らして考えてみたいと思うのです。 今の時代は「信じること」が分らなくなっている時代です。かつては神の存在は自明であり、従って「信じること」は前提であって、「信じること」に説明を必要とはしませんでした。しかし「信じること」を考えず思わなくなった「神無き」今の時代は、「信じるという感覚」さえ失ってしまっております。ですから「信仰」と言われてもピンと来ない、ましてや「不信仰」などと言われても分るはずがありません。「不信仰は滅びだ」といくら語っても、何も伝わらないのです。今の時代に「信じる」とは何なのか、改めて受け止める必要があるのです。 キリスト教の故に「愛する」という言葉が一般化しております。人と人との交わり、絆、結び目、それが「愛」です。 45節「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」と、「神」が「主イエスを遣わしてくださった方」であることが語られております。 47節「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」。神が主イエスをこの世に遣わされたのは何故なのか。それは「この世を救うため」だと言われております。 「信じる」とは、「神の慈しみ」を知り「神を畏れ敬う」ことです。 存在を慈しんでくださる「慈しみの神が在す」からこそ、そこに裏切りや不信があったとしても、その共同体は存在することができます。 「信じる」ことは「人の尊厳を鮮やかにする」ことです。「信じる」ことなくして、人間の存在はないのだということを覚えたいと思います。 覚えておくべきことがあります。 47節「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。「暗闇の中にとどまる」とは、孤独と不安の中にあり続けることです。 |
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今日の大事なテーマは「服従、聴き従う」ということです。 まずは46節「わたしは光として世に来た」。主イエスが来られたのは「暗闇に光をもたらすため」だと言われます。「暗闇」とは何でしょうか。「暗闇」とは、ただ単に月明かりのない夜の暗さ、というようなものではありません。 47節、救い主イエスが来てくださったのに信じない者を、しかし主イエスは「わたしはその者を裁かない」と言われます。総決算は終りの日にあるからです。地上で無理に裁かない。何故か。それは終わりの日まで、神が忍耐して待ってくださるということです。地上での悔い改めの時を、立ち返って信じることを待ってくださっているということです。私どもは待つことが出来ない者です。しかし神は待ってくださる。滅びゆく者をどれほど愛してくださっているかということです。 しかし、そこまで忍耐していただいたのに悔い改めないならば、48節「裁くものがある」のです。神の裁き、神の介入は、力づくの理不尽なものではありません。それはその人の蒔いた種であって、自らがもたらす当然の結果なのです。 49節「わたしは自分勝手に語ったのではなく」、主イエスは「自分勝手」に語らないと言われます。主イエスは神の御子として父なる神から全権を委ねられた方です。ですから、全てご自分の思いでなされても良いはずです。しかし、任された者だからこそ、任せてくださった父なる神に従う者として、神がお命じになったことをなすと言われるのです。 「従順・服従・忠誠」の持つ意味、それは「一体性」であることを、もう一度、覚えたいと思います。 50節「わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである」。主イエスが父なる神の言葉に聴き従うことによって、私どもに語ってくださること、そこには旧約の律法を超えた神の言葉が語られております。すなわち「父の命令は永遠の命である」という律法の完成を超えた「救いの出来事」が語られているのです。 「従順」ということ。主イエスですら「従順」であられました。私どもも主イエスに従順であるべきことを改めて覚えたいと思います。そして私どもを従順へと招いてくださっていることの恵みを覚えたいと思います。従うことによって「神との永遠の交わり、神と一つなる恵み」に与るのです。なんと幸いなことでしょうか。神と一つなる者とされる神秘に、ただ感謝するものです。 |
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ここから語られることは、過越祭の前日の出来事です。18章28節まで続きます。 その総括ともなる言葉が、1節です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。弟子たちに対する愛が示されております。弟子たちに対する「愛を貫いてくださった」だからこそ語ってくださる説教であり、祈りなのです。 主イエスが「神のもとから来て、神のもとに帰る(3節)」という出来事は、弟子たち(私ども)に対して主イエスが「愛を貫いてくださった」出来事です。罪人の救いのために十字架についてくださった、それは主イエスが私どもに対して「愛を貫いてくださった」出来事なのです。なぜか。それは、主イエス・キリストが「神の愛」そのものなる方だからです。主イエス・キリストの生涯は、まさしく私どものために「神の愛を貫き通してくださった」生涯でした。 「世にいる弟子たち」とは、その場にいる者だけではなく、後々主の弟子となる者、つまり「私ども」のことです。主イエスは私どもにも「愛を貫いて」くださっているのです。ここで思います。私どもはどのように聖書のみ言葉を聴くべきでしょうか。主が私どもを愛してくださっていることを、そこに「神の愛」が語られていることを感じつつ、読み、聴くことが大事です。聖書は神から人へのラブレターとも言われます。聖書は私どもに対する神からの愛の手紙なのです。 「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」、このことは3節でも「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」と言い直されております。「移る」は「もとに帰る」と言われております。「十字架に死ぬ」とは言わないのです。「十字架の死」をも「天に移る」出来事として表しております。主イエスは十字架に死んで復活する、すなわち「死を超えて天に移る」のです。ヨハネによる福音書は「死で終わらない」ことを強調しております。そして主イエスが「天に帰られる」ことによって「救いが完成を見る」のです。 「御自分の時」とは、どういう時でしょうか。ただ単に「時が来た」ということではありません。委ねられたことを全て成し遂げて終える、「完成の時」を意味するのです。 私どもが「未完成」であることは良いことです。「老い」は素晴らしいのです。老いによって知ること、それは「無力になっていくこと、弱さを感じること」です。それは幸いなのです。無力さ弱さを「身に沁みて」感じることによって、逆に「主の愛をより深く」感じ、知ることができるからです。それは老いの恵みです。若い時には気負いがあり、そうはいきません。無力さ、弱さにおいてのみ、私どもは深く主の恵みを知る。神の救いが完全にあることを知るのは、老いの現実においてのみだと思います。神が完成させてくださるからこそ、私どもの人生は幸いな人生なのです。「神が全てとなる」、それが老いの恵みであることを覚えたいと思います。 2節「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。主イエスは「裏切り」があることをご存知です。「主イエスの救いの御業の完成」は、裏切りをも含んでの完成なのです。人間の業であれば、そこに裏切りがあれば決して完成することは出来ません。しかし主イエス・キリストの救いの御業は、裏切りをも呑み込んで完成するのです。なぜか。私どもは、主イエスの期待を裏切る者に過ぎないからです。主は私どもが裏切る者であることをご存知の上で、救いを完成させてくださるのです。 5節「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」と、主イエスが「弟子の足を洗う」出来事が描写されております。それは奴隷の姿です。主人の足を洗うことは異邦人奴隷のする最も低い仕事でした。主イエス・キリストは、そこまでして、弟子たち、私どもに愛を貫いてくださいました。内容については次週聴くことといたします。 |
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