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16節「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、主イエスは言われます。しかし、弟子たちには言われていることが全く理解できません。分らないので、17節「弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」、つまり、内容を吟味するということではなく、ただ主イエスの言葉を繰り返すのです。けれども、その「分らない」ことが「何のことだろう」という疑問に繋がっていきます。この「何のことだろう」ということにポイントがあります。 「疑問を持つ」ということは、とても大事なことです。人類の発展の大きな要因の一つは「疑問」ではないでしょうか。あっさり理解するのではなく「疑問を持ち続ける」ことが進歩につながるのです。 ですが、それは自力で分るということではありません。「聖霊が働いて、分る」、だからこそ、その疑問は恵みになるのです。 ここで印象的なことは「しばらくすると」という言葉です。「しばらくすると」と、何度も出て来ます。そうなると「しばらくすると」という、この言葉自体が疑問になります。 19節「…わたしが言ったことについて、論じ合っているのか」と主イエスは言われます。信仰は、論じ合うべきことではありません。論じたからといって、神の出来事の意味が分かるということはなく、信仰に至ることはないことを知らねばなりません。「聖霊の導き」なしには、信仰に至ることはないのです。「信仰の一致」は聖霊の働きによるのです。論じることではなく「聴き従う」べきであることを改めて覚えたいと思います。分らないときには、論ずるのでなく、「聖霊を求めて祈る」ことが大事です。「聖霊をもって知らしめてください」と祈ることです。語るべきことは「神の恵みの出来事」なのであって、恵みとは何かを論ずることでないのです。 20節「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と言われます。 21節「女は子供を産むとき、苦しむものだ」と、主イエスは産みの苦しみについて語られます。創世記3章、神に背いた結果、楽園を追われたアダムとエバには「労働と産みの苦しみ」が課せられます。「苦しみ」は神の呪いでしょうか。いえ、呪われたのは大地でした。「苦しみ」は呪いではなく、「人を神へと至らせる」出来事です。苦しみが大きければ大きい程に、与えられる喜びは大きいのです。それが「恵み」ということです。苦しみを通して与えられる喜びによって、神への賛美が生まれる、そういう恵みの出来事なのです。 この世にあって、私どもに苦しみ、悲しみがあることは、私どもを神へ、救いへと向かわせる導きであることを覚えたいと思います。そこには、言葉では言い尽くすことのできない「救いの喜び」が、神への賛美という恵みとして用意されているのです。 |
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1節「来るがよい。食べよ。求めよ」と、呼びかけられております。これは招きの言葉ですが、単に招くのではなく「来なさい」と命じる言葉です。 イザヤ書はバビロン捕囚のただ中にある人々に向かって語られた預言です。イザヤの預言の中心は「捕囚の民が解放され、エルサレムへ帰還しイスラエルを再興する」ことであり、イザヤはそれを「神に立ち帰れ」という言葉で語っております。バビロン捕囚でイスラエルの民が経験したことは何か。それは、捕囚によって神殿を失った民が、しかし「何処にいても」「神に立ち帰る」ことによって、再び神の恵みのうちに生きることができた、ということでした。バビロン捕囚が今を生きる私どもにとって何を示すものなのかを思います。それは私どもにとっても、大いなる恵みの出来事なのです。何故か。今の私どもの礼拝形式を形づくったものだからです。「立ち帰れ」との神の御言葉に聴き従うことによって、神殿中心の礼拝から「聖書(神の御言葉)中心の礼拝」へと変わっていったのです。ですから、バビロン捕囚を通して神が与えてくださった恵みは、今、私どもにも共にあることを覚えたいと思います。それは「御言葉に聴き従う」ことを通して、神の恵みのうちに生きることができるという幸いです。 「神の御言葉、神ご自身を頂く以外に生きる術はない」とは、どういうことでしょうか。神が無くなるとどうなるか。人は自らを神とし多くの神々が出現する。それは秩序を失うこと、混沌に返ることです。「混沌からの秩序の回復」それが創世記1章に記されている神の創造の業でした。「創造」によって、全てのものに意義付けがなされたのです。ですから、神無しでは、世界は混沌であり、人の尊厳は失われ、全ての意義は失われ、人は生きている意味を見出せず空しくなってしまうのです。神が「光あれ」と言い「命の息」を与えてくださったからこそ、人は神との交わりを回復し、存在を得、生きる者になりました。ですから、神との交わり無くして生きることはできないのです。 ですから、2節では、神以外のものを意味あるものとする愚かさが語られております。例えば「正義」ということを考えてみましょう。神以外のものに正義を求めることは滅びです。何故なら、人の義は必ずしも人を救うものにならないからです。「義なる神を求めること」こそが、人がなすべきことです。私どもが義であるのは「神が私どもを義としてくださった」からであって、自ら義なのではありません。主イエス・キリストの義によって私どもは義とされたのです。それが「救い」ということです。自らは正しくない、正しくなれない、にも拘らず義とされているのです。だからこそ襟を正せる、正しく生きようと思えるのです。 人は何に飢え渇くのでしょうか。神無しでやれると思うことの破綻とは何でしょうか。神抜きの世界では、人は一人ひとりが尊い存在とされることはないのです。ですから、人は交わりに破綻してしまいます。人は神をこそを必要としている、それが私どもの現実であることを覚えたいと思います。 なぜ「立ち帰れ」と言われるのでしょうか。それは3節「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」です。なぜ神は、囚われ人を憐れまれるのでしょうか。それは「神が永遠の約束(契約)を与えてくださっているから」です。ダビデ家への「約束(契約)」と言われております。ダビデ家の者は、やがて次第に行き詰まり、偶像礼拝に陥ってしまいます。しかし、それでも神は「もうだめだ。もう終わりだ」とはおっしゃらない。神の契約は決して反故にはされないのです。そしてその契約は、行き詰まったダビデ家を超えてイスラエル全体への契約へと変わって行くのです。神の契約とは、一方的な神の憐れみ、慈しみ、与えられたものです。ダビデ家が受け止められないならば、却ってイスラエル全体へと広がり、更にはイスラエルに留まらず、主イエス・キリストを通して、主を信じる者全てへと広がっていくのです。駄目な者たちを通して祝福を拡げてくださった方、神は真に「畏れるべき神」なのです。イスラエルの行き詰まり故に「神の慈しみ・憐れみ」が「主イエス・キリストを通して」、今、私どもにまで届いているという恵みの出来事なのです。 このように、どこまでも恵みの契約を拡げてくださる神を、6節「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」と言ってくださっております。「神に立ち帰る以外に、私どもに生きる術はない」そのことがここに示されていることです。 私どもは、今、神の御子主イエス・キリストをお迎えするアドヴェントの時を過ごしております。「私どもを救うために、御子までくださった神以外にない」このことを思いつつ過ごすことが、神の恵み、神の恩寵に応える私どもの思いであることを覚えたいと思います。 |
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「主イエス・キリストが『人となって』この世に来てくださった」ということについて、ヨハネによる福音書の御言葉を通して聴きたいと思います。 14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。「言(ことば)が肉となる」とはどういうことなのでしょうか。 神と私ども(人)の間には断絶があるのです。神は無限で完全な方ですが、人は有限な者、死す者、自分の思いを実現できない不完全な者でしかありません。成し遂げることも完成させること出来ない、限りある中を生き完成を見ない、それが人の現実です。人は自らの不完全さに絶望し、全き者「神」の前に立ち得ません。神の前に立てば自らの滅びを感ぜざる得ないがゆえに、神に耐えられないのです。ですから、人は神を避けて生きるようになってしまいました。神との交わりが赦されていたにも拘らず、自ら神との交わりを避け、神と無関係に生きようとする、それが人の「罪」ということです。罪なる者は、自らの力で神を見出すことはできません。そこで神の方からご自身を明らかにするために、御子イエス・キリストを遣わしてくださった、それが「言が肉となる(受肉)」ということです。 「肉となる」とは、一時的に神が人の肉体の形を取られたというようなことではありません。それでは人は本当に神と出会うことは出来ないのです。 私どもには「老い」や「死」という現実があります。主イエス・キリストは人となることによって、限りある人間のあり方を御自分のものとしてくださって「十字架の死」を死んでくださいました。「十字架での死」は最も悲惨な人間の極みの死です。主イエス・キリストは人間の最も極みの死を死んでくださったことによって、人のどのような死をも引き受けていてくださるのです。ですから、私どもは自らの死において、そこに「主イエス・キリストを見る」ことができます。死において「主イエス・キリストと一つなる者とされる」という恵みを頂いているのです。いかに親しい者同士であっても死を共にすることはできません。しかし、主イエス・キリストは共にいてくださるのです。 今朝は、一人の方が受洗の恵みに与ります。「洗礼を受ける」ということは「死を超えた命が与えられる」ことを意味しております。日々老い、死に向かうという私どもの現実は、完成を見ないことばかりであって、私どもの地上での歩みは諦めざるを得ないという現実です。それは自分自身の内には救いを見出せないということです。しかし「洗礼を受ける」ということは、そのような私どもが「全き者にされる」ということです。それこそが「神の御子主イエス・キリストが人となってくださった」ことによって与えられる「神よりの恵み」なのです。 「宿られた」とは「天幕を張る」、すなわち「神との会見の幕屋が立てられた」ということです。主イエスが私どもと同じ「人間」となってくださったゆえに、主イエスを通して、私どもに「神とお会いする恵み」が与えられたということです。それは、私どもが神に相応しく立派な者になって神にお会いする、ということではないのです。また、神が高見から私どもに会ってくださるということでもありません。「神が人となる」即ち「神の方から降りて来て」くださって、私どもに会ってくださるということなのです。主イエス・キリストによって、私どもは、本来お会いすることなど出来ない「神」を見、神との交わりを与えられたのです。それが「わたしたちの間に宿られた」という御言葉に示されていることです。 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と御言葉は続きます。「栄光」とは、主イエス・キリストが神の子として「神を現しておられる」ということです。「恵み」とは、神の方から一方的においでくださり、私どもと会ってくださったということです。神が肉となって(人となって)くださったことは、滅びゆく者に対する神の一方的な慈しみの出来事なのです。「真理」とは、「主イエス・キリストこそ救い主」であるということです。そして、主イエス・キリストによって「神の救いが満ち満ちている」ことを信じることによって、私どもは「満たされる」のです。 今、私どもは覚えたいのです。「主イエス・キリストは神の恵み・救い」、それは、信じる者には誰にでも与えられている恵みです。 「神の大いなる喜び」、それは「人の救い=洗礼」です。人にとって「自らが喜ばれている存在である」ことを感じることは、とても大事なことです。孤独を生み人の存在を認めない社会の現実の中にあって、しかし、ただ神は、私ども一人ひとりの存在を喜んでくださっております。なんと幸いなことでしょう。 今まさに、私ども一人ひとりの上に神が臨んでくださって、私どもはこの場に集っております。今ここで礼拝する私どもを、神が慈しみ、喜んでいてくださるのだということを感謝をもって覚えたいと思います。 |
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22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主イエスは言われます。今の「悲しみ」が、いずれ「喜び」に変えられると、主イエスは言ってくださっているのです。 弟子たちの「悲しみ」は「主イエスを失うこと」ですが、しかし、この「悲しみ」には「弟子たちの裏切り」も含まれているのです。ペトロは、イエスの十字架を前にして「イエスを知らない」と3度否認いたしました。ペトロは「裏切る者」としての心の傷みを負う「悲しみ」を持つのです。弟子ペトロの「悲しみ」は、主イエスとの別れの悲しみだけではない、裏切る者としての深い悲しみ、心の痛手なのです。主イエス・キリストの十字架の出来事とは、そういう深い心の傷み・悲しみであったことを覚えたいと思います。 そのような深い悲しみの十字架を通して、しかし主イエスは「再び、弟子たちのところに来てくださる」ことによって、「悲しみ」を「誰にも奪い去ることのできない喜びに変える」と言ってくださっております。 「十字架の死」によって、主イエスの地上での生涯は終わります。とすれば、人の思いでは、メシア(救い主)の救いの計画は失敗に終わったと思うことでしょう。しかも十字架という人の死の極み、最悪の終わり方です。しかし、そうではないのです。主イエス・キリストにとって「終わる」とは、失敗ではなく「救いの完成」を示すことなのです。 罪を犯した者は「裁かれる」ことによって少し安堵することでしょう。しかし、裁かれずそのままに放置されることは、実は一番厳しい「裁き」です。 このように「もはや救いようのない罪人を神は憐れんでくださった」、それが「主イエス・キリストの十字架の死」です。神の御子として、全く裁かれる必要のない、罪無き方が十字架の死によって裁かれてくださり、罪を滅ぼしてくださったのです。それが「救いの恵み」です。人の罪の贖いゆえの主イエスの十字架は、ただ「神が罪人を憐れんでくださったゆえの出来事」であることを覚えたいと思います。 私どもの心に「神の憐れみが満ち溢れている」のだということを覚えたいと思います。心に深い傷み・悲しみを持つがゆえに、そこに憐れみの神がいてくださるゆえに、私どもは救われているのだということを覚えたいと思います。 神は、私どもの罪ゆえに、救いを用意してくださいました。それが「主イエスの十字架」です。そこにこそ私どもの喜びかあるのです。 23節「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」と言われております。「その日には」とは、弟子たちに「聖霊が下る」ときのことです。「聖霊」の出来事は、人には到底理解できることではありません。「聖霊」が私どもに臨んでくださらない限り「十字架の出来事」は分らないのです。それは神の御業であって、人の思いを超えているのです。 今日は歳晩礼拝です。一年を終わるとき、私どもにとって大切なことは何でしょうか。「終わり」とは、キリスト者にとっては「完成」であることを覚えたいと思います。この一年を完成させてくださるのは神です。神が共にあり、神のものとして生きるべくして生きた一年であると、神が言ってくださり完成させてくださるのです。だからこそ、来るべき一年を新しく踏み出すことができるのだということを、感謝を持って覚えたいと思います。 |
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