聖書のみことば/2009.12
2009年12月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
しばらくすると」 12月第1主日礼拝 2009年12月6日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章16〜24節
16章<16節>「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」<17節>そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」<18節>また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」<19節>イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。<20節>はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。<21節>女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。<22節>ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。<23節>その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。<24節>今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

16節「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と、主イエスは言われます。しかし、弟子たちには言われていることが全く理解できません。分らないので、17節「弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」、つまり、内容を吟味するということではなく、ただ主イエスの言葉を繰り返すのです。けれども、その「分らない」ことが「何のことだろう」という疑問に繋がっていきます。この「何のことだろう」ということにポイントがあります。

「疑問を持つ」ということは、とても大事なことです。人類の発展の大きな要因の一つは「疑問」ではないでしょうか。あっさり理解するのではなく「疑問を持ち続ける」ことが進歩につながるのです。
 ですから、疑問を持ち続けるということは恵みです。弟子たちに、主イエスに対する疑問が与えられているということは幸いなのです。何故なら「疑問がある」ということは「心に深く残る」ということだからです。心に深く残っている事柄に答えが与えられたときには、深く骨身に沁みて理解できるからです。ここで弟子たちに疑問が与えられていることは、弟子たちを深く信仰の真理に至らせるための神からの恵みなのです。

ですが、それは自力で分るということではありません。「聖霊が働いて、分る」、だからこそ、その疑問は恵みになるのです。
 「見なくなる」とは「主イエスの十字架の死」を指します。「主イエスの十字架の死とは一体何なのか」という思いを持っていれば、後に「聖霊の働き」によって「ああ、わたしのための罪の贖いの死だったのだ」と、深く知ることができるのです。「見るようになる」とは「復活の主を見る」あるいは「聖霊によって知る」ことです。「主イエスの復活」が、私どもの復活の初穂(死を超えた命)であり、主の復活によって、私どもも「永遠の命の約束に与る」のだということを深く知るに至るのです。
 このように、主イエスの十字架の恵みを深く味わい知るからこそ、自ずと信仰生活が「神の恵みが全て」として成り立っていき、信仰者として主イエスを宣べ伝えることに繋がっていくのです。
 ですから疑問を持つことは大事なことですが、しかし、すぐに答えを求めてはなりません。求めるべきは「聖霊」です。祈りをもって疑問を受け止めていくことが大事なのです。問うことの恵み深さを改めて覚えたいと思います。
 また、「父のもとに行く」とは「あなたがたのために、天に住まいを用意しに行く」と主イエスが言ってくださっていることです。今の日本社会では、地上にも住まいが無いという現実があります。しかし、私どもキリスト者は「天に住まいが与えられる」という幸いの内にあるのです。

ここで印象的なことは「しばらくすると」という言葉です。「しばらくすると」と、何度も出て来ます。そうなると「しばらくすると」という、この言葉自体が疑問になります。
 ここに言う「しばらくすると」は、基本的に言うと「復活の主イエス・キリスト」を語るものです。主イエスの十字架・復活を指すのです。「しばらくすると」弟子たちは「主イエスの十字架の死」に遭います。しかしまた「しばらくすると」復活の主と出会い、聖霊の出来事に与り、救いの恵みに出会うのです。ですから「しばらくすると」という言葉は「救いの近さ、恵みの近さ」を示しております。つまり「救い・恵み」が弟子たち(私ども)にとって間近であることが示されているのです。
 また、このヨハネによる福音書を読んでいる人々は、既に主イエスの十字架・復活を知っている人々ですので、「しばらくすると」という言葉は「主イエス・キリストの再臨の近さ」を表す言葉でもあります。
 キリスト者は、再臨信仰・終末信仰を生きる者です。ですから、このことは私どもにとっても大切なことです。私どももまた「主イエス・キリストの再臨を待ち望む者」だからです。今、アドヴェントのこの時は、キリスト者にとっては「再臨の主イエス・キリストを待ち望む信仰を確認する時」でもあるのです。「しばらくすると」という言葉は、私どもにとっては「終わりの日の近さ」を思い起こさせる言葉なのです。
 しかし、「しばらくすると」は、それが「何時なのか」ということを問題にするべきではありません。「再臨の近さ」は、キリスト者の信仰にとって、そこに「救いの完成を見る」ことです。「終わりの日の救いの完成の近さ、救いの確かさ」を思わせていただくことが大事なのです。「終わりの日の救いの約束を与えられて」、今、この地上を「希望を持って生きる」のです。「しばらくすると」という言葉は「何時」が問題なのではなく、再臨信仰に生きる者に与えられた確かな約束の言葉であることを覚えたいと思います。

19節「…わたしが言ったことについて、論じ合っているのか」と主イエスは言われます。信仰は、論じ合うべきことではありません。論じたからといって、神の出来事の意味が分かるということはなく、信仰に至ることはないことを知らねばなりません。「聖霊の導き」なしには、信仰に至ることはないのです。「信仰の一致」は聖霊の働きによるのです。論じることではなく「聴き従う」べきであることを改めて覚えたいと思います。分らないときには、論ずるのでなく、「聖霊を求めて祈る」ことが大事です。「聖霊をもって知らしめてください」と祈ることです。語るべきことは「神の恵みの出来事」なのであって、恵みとは何かを論ずることでないのです。
 知識偏重の世界は危ないのです。賢くなることの罪深さ、知識を得ようとする愚かさを思わなければなりません。「聖霊よ、臨みたまえ。知らしめたまえ」との祈りこそ、私どもの為すべきことです。

20節「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と言われます。
 何故悲嘆に暮れるのか。それは主イエスが十字架に死なれるからです。そして「神に敵対するこの世」は、主イエスを十字架につけ死なせることによって、主イエスに勝利して喜ぶのです。しかし、この勝利は錯覚であり、一時の喜びでしかありません。何故でしょうか。
 「罪」と「死」は一つのことです。しかし「主イエスの死」は「罪なき者の死」でした。「罪なき者を死なせる」ことは「罪が過ちを犯した」ということなのです。罪は過ちを犯したゆえに破れる。ですから、主イエスが十字架に死なれたことは「主イエスが罪に対し、死に対し、勝利された」ということです。死の力は無にされるのです。主イエスの十字架の死は、「死を超えた勝利」なのです。
 主イエス・キリストの「死を超えた勝利」によって、弟子たちの「悲しみは喜びに変わり」ます。そして、弟子たちは「主イエス・キリストを救い主と宣べ伝える者となる」のです。
 ですから、この世の喜びはぬか喜びに過ぎません。この世は、主イエスを排除しようとして十字架にかけました。しかし、主を排除したことによって、なお一層「主イエス・キリストこそ救い主」であることの証言を、全世界が聞くことになるのです。これこそ大いなる逆転です。

21節「女は子供を産むとき、苦しむものだ」と、主イエスは産みの苦しみについて語られます。創世記3章、神に背いた結果、楽園を追われたアダムとエバには「労働と産みの苦しみ」が課せられます。「苦しみ」は神の呪いでしょうか。いえ、呪われたのは大地でした。「苦しみ」は呪いではなく、「人を神へと至らせる」出来事です。苦しみが大きければ大きい程に、与えられる喜びは大きいのです。それが「恵み」ということです。苦しみを通して与えられる喜びによって、神への賛美が生まれる、そういう恵みの出来事なのです。

この世にあって、私どもに苦しみ、悲しみがあることは、私どもを神へ、救いへと向かわせる導きであることを覚えたいと思います。そこには、言葉では言い尽くすことのできない「救いの喜び」が、神への賛美という恵みとして用意されているのです。

主に立ち帰る」 12月第2主日礼拝 2009年12月13日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/イザヤ書 第55章1〜7節
55章<1節>渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。<2節>なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。<3節>耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。<4節>見よ/かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし/諸国民の指導者、統治者とした。<5節>今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は/あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主/あなたに輝きを与えられる/イスラエルの聖なる神のゆえに。<6節>主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。<7節>神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。

1節「来るがよい。食べよ。求めよ」と、呼びかけられております。これは招きの言葉ですが、単に招くのではなく「来なさい」と命じる言葉です。
 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」と、「渇き」があることが示されております。人は「水」なしに生きることはできません。「水」は命にかかわるのです。ですから、ここで言われる「水」は「命なる水」であり、「命なる水のところへ来い」と言われる。また「銀」は物を買うためのものですから、穀物が買えないほど貧しい者も「来て、求め、食べよ」と命じられているのです。
 何故、命じられているのでしょうか。これは「命令による招き」ということです。「これがいいよ」というような勧めなのではなく、「これは、あなたにとって必要不可欠なもの。だから他に選択の余地はないよ」という「神の促し、招き」なのです。
 では、ここでの「命の水・穀物」とは何でしょう。それは「神ご自身」であります。「来い」との命令に対し、どこに行くのでしょうか。「命なる水である神のところに来なさい」と言われております。「命なる水・命の糧」とは「神の御言葉」であり「神ご自身」であって、それ以外にないのです。「神の御言葉、神ご自身を頂く以外に生きる術はない」というところでの、この「来なさい」との招きの言葉の重みを覚えたいと思います。「渇き」を通して「神に至ることへの恵み」が語られているのです。また「ぶどう酒と乳を得よ」とも言われます。それは、単に「生きる」ということではなく、更なる麗しい恵み、豊かな祝福が与えられることを示しております。

イザヤ書はバビロン捕囚のただ中にある人々に向かって語られた預言です。イザヤの預言の中心は「捕囚の民が解放され、エルサレムへ帰還しイスラエルを再興する」ことであり、イザヤはそれを「神に立ち帰れ」という言葉で語っております。バビロン捕囚でイスラエルの民が経験したことは何か。それは、捕囚によって神殿を失った民が、しかし「何処にいても」「神に立ち帰る」ことによって、再び神の恵みのうちに生きることができた、ということでした。バビロン捕囚が今を生きる私どもにとって何を示すものなのかを思います。それは私どもにとっても、大いなる恵みの出来事なのです。何故か。今の私どもの礼拝形式を形づくったものだからです。「立ち帰れ」との神の御言葉に聴き従うことによって、神殿中心の礼拝から「聖書(神の御言葉)中心の礼拝」へと変わっていったのです。ですから、バビロン捕囚を通して神が与えてくださった恵みは、今、私どもにも共にあることを覚えたいと思います。それは「御言葉に聴き従う」ことを通して、神の恵みのうちに生きることができるという幸いです。

「神の御言葉、神ご自身を頂く以外に生きる術はない」とは、どういうことでしょうか。神が無くなるとどうなるか。人は自らを神とし多くの神々が出現する。それは秩序を失うこと、混沌に返ることです。「混沌からの秩序の回復」それが創世記1章に記されている神の創造の業でした。「創造」によって、全てのものに意義付けがなされたのです。ですから、神無しでは、世界は混沌であり、人の尊厳は失われ、全ての意義は失われ、人は生きている意味を見出せず空しくなってしまうのです。神が「光あれ」と言い「命の息」を与えてくださったからこそ、人は神との交わりを回復し、存在を得、生きる者になりました。ですから、神との交わり無くして生きることはできないのです。

ですから、2節では、神以外のものを意味あるものとする愚かさが語られております。例えば「正義」ということを考えてみましょう。神以外のものに正義を求めることは滅びです。何故なら、人の義は必ずしも人を救うものにならないからです。「義なる神を求めること」こそが、人がなすべきことです。私どもが義であるのは「神が私どもを義としてくださった」からであって、自ら義なのではありません。主イエス・キリストの義によって私どもは義とされたのです。それが「救い」ということです。自らは正しくない、正しくなれない、にも拘らず義とされているのです。だからこそ襟を正せる、正しく生きようと思えるのです。
 「そのままでよい」と愛されているから、義とされていると思ってはなりません。本当の愛とは、義抜きには有り得ないのです。ありのままで良いということは、甘えです。ありのままでは罪のままなのです。主イエス・キリストの十字架の死によって罪が処理されてこそ、私どもが義とされていることを忘れてはなりません。ですから、神との交わり無くして義は有り得ないのです。神抜きに、他の良いものを求めてしまうことは滅びでしかないのです。神無しでやれると思うことが、人の奢りなのです。

人は何に飢え渇くのでしょうか。神無しでやれると思うことの破綻とは何でしょうか。神抜きの世界では、人は一人ひとりが尊い存在とされることはないのです。ですから、人は交わりに破綻してしまいます。人は神をこそを必要としている、それが私どもの現実であることを覚えたいと思います。
 神との交わりによって、人は、命ばかりではない豊かな恵みが与えられ、満たされるのです。「神との交わりによって満たされる」、そこで人は、他者に求めるという交わりをしなくてもよくなるのです。神との交わりにあるからこそ、自分の利益を他者に求めることなく、共に生きる者として、主にある豊かな交わりに生きることができるようになるのです。神との交わりが無ければ、人と人との交わりは自分の利益のための交わりとなり、それは真実の交わりではないのです。
 「神に立ち帰る」ことによって、人は真実に他者との交わりに生きることができるのです。そしてそれが、命に添えて与えられる「神よりの祝福」です。神との交わりにあればこそ、他者に求めることなく、人との交わりをなし得るのです。
 神との交わりを失っているから、人は飢え渇き、行き詰まるのです。旧約聖書に記される民は、常に行き詰まっておりました。しかし神は、行き詰まった民に、常に「未来」を語ってくださいました。ですが、行き詰まっている者は、行き詰まっている故に神の言葉を信じられないのです。にも拘らず、神が語ってくださる「未来」は神の約束であり、必ず実現するのです。ですから忘れてはなりません。「神こそが希望」であり「神に立ち帰る」ことが「未来」を約束してくれるのです。

なぜ「立ち帰れ」と言われるのでしょうか。それは3節「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」です。なぜ神は、囚われ人を憐れまれるのでしょうか。それは「神が永遠の約束(契約)を与えてくださっているから」です。ダビデ家への「約束(契約)」と言われております。ダビデ家の者は、やがて次第に行き詰まり、偶像礼拝に陥ってしまいます。しかし、それでも神は「もうだめだ。もう終わりだ」とはおっしゃらない。神の契約は決して反故にはされないのです。そしてその契約は、行き詰まったダビデ家を超えてイスラエル全体への契約へと変わって行くのです。神の契約とは、一方的な神の憐れみ、慈しみ、与えられたものです。ダビデ家が受け止められないならば、却ってイスラエル全体へと広がり、更にはイスラエルに留まらず、主イエス・キリストを通して、主を信じる者全てへと広がっていくのです。駄目な者たちを通して祝福を拡げてくださった方、神は真に「畏れるべき神」なのです。イスラエルの行き詰まり故に「神の慈しみ・憐れみ」が「主イエス・キリストを通して」、今、私どもにまで届いているという恵みの出来事なのです。

このように、どこまでも恵みの契約を拡げてくださる神を、6節「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」と言ってくださっております。「神に立ち帰る以外に、私どもに生きる術はない」そのことがここに示されていることです。

私どもは、今、神の御子主イエス・キリストをお迎えするアドヴェントの時を過ごしております。「私どもを救うために、御子までくださった神以外にない」このことを思いつつ過ごすことが、神の恵み、神の恩寵に応える私どもの思いであることを覚えたいと思います。

言がわたしたちの
       内に宿る」
12月第3主日礼拝 2009年12月20日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第1章14〜18節
1章<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

「主イエス・キリストが『人となって』この世に来てくださった」ということについて、ヨハネによる福音書の御言葉を通して聴きたいと思います。

14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。「言(ことば)が肉となる」とはどういうことなのでしょうか。
 「それは父の独り子としての栄光であって」とあるように、「神の御子(独り子)」が「言(ことば)」なのです。「御子」は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書1章1節)とあるように「父なる神と本質を同じくする方としての御子」です。なぜ「御子」を「言」というのでしょうか。言葉は「あることを明らかにする」ときに用います。ですから、ここでは「御子を通して、神がご自分を明らかにされた」即ち「神の自己啓示」ということです。

神と私ども(人)の間には断絶があるのです。神は無限で完全な方ですが、人は有限な者、死す者、自分の思いを実現できない不完全な者でしかありません。成し遂げることも完成させること出来ない、限りある中を生き完成を見ない、それが人の現実です。人は自らの不完全さに絶望し、全き者「神」の前に立ち得ません。神の前に立てば自らの滅びを感ぜざる得ないがゆえに、神に耐えられないのです。ですから、人は神を避けて生きるようになってしまいました。神との交わりが赦されていたにも拘らず、自ら神との交わりを避け、神と無関係に生きようとする、それが人の「罪」ということです。罪なる者は、自らの力で神を見出すことはできません。そこで神の方からご自身を明らかにするために、御子イエス・キリストを遣わしてくださった、それが「言が肉となる(受肉)」ということです。

「肉となる」とは、一時的に神が人の肉体の形を取られたというようなことではありません。それでは人は本当に神と出会うことは出来ないのです。
 「肉」とは、ただの肉体ではなく「人間性」、即ち人間としての性質を持ってくださったということです。神の御子イエス・キリストは「人間イエス」とまでなってくださり、人としての営みを全てご自分のものとしてくださいました。主イエス・キリストは人となることによって、人としての欲望も誘惑も経験してくださいました(マタイによる福音書4章、荒野でのサタンの誘惑)。また、ヨセフとマリアを父母として生まれ、育ち、ユダヤの習慣に従い、人の通常の営みを全てなしてくださいました。それは、仮に人間の姿を取ったということではなく、私どもと全く同じ「人間そのものになられた」ということなのです。それは「有限な者となってくださった」ということです。それが「言が肉となる」ということです。

私どもには「老い」や「死」という現実があります。主イエス・キリストは人となることによって、限りある人間のあり方を御自分のものとしてくださって「十字架の死」を死んでくださいました。「十字架での死」は最も悲惨な人間の極みの死です。主イエス・キリストは人間の最も極みの死を死んでくださったことによって、人のどのような死をも引き受けていてくださるのです。ですから、私どもは自らの死において、そこに「主イエス・キリストを見る」ことができます。死において「主イエス・キリストと一つなる者とされる」という恵みを頂いているのです。いかに親しい者同士であっても死を共にすることはできません。しかし、主イエス・キリストは共にいてくださるのです。
 更に、復活し死に勝利してくださった主イエス・キリストによって、私どもは「有限な者」から「永遠の命に生きる者」となる恵みを与えられております。高齢化社会にあって、私どもは如何に生きるべきかを考えますが、どんな配慮があったとしても、人の力で「老い」の厳しい現実を救えるわけではありません。「地上を超えた世界」が無ければ、死を乗り越えることはできないのです。
 また「完成」ということを考えてみますと、終わりの日、主を信じる者は霊の体となって主と共に甦ると示されております。地上においては完成を見ないで死ぬ私どもが、復活の日に「完成を見る」という約束を与えられているのです。限りある者が「永遠の命を生きる者」にされる、不完全な者が「終わりの日に完全な者とされる」、それが「言が肉となった」という御言葉に示されていることです。

今朝は、一人の方が受洗の恵みに与ります。「洗礼を受ける」ということは「死を超えた命が与えられる」ことを意味しております。日々老い、死に向かうという私どもの現実は、完成を見ないことばかりであって、私どもの地上での歩みは諦めざるを得ないという現実です。それは自分自身の内には救いを見出せないということです。しかし「洗礼を受ける」ということは、そのような私どもが「全き者にされる」ということです。それこそが「神の御子主イエス・キリストが人となってくださった」ことによって与えられる「神よりの恵み」なのです。

「宿られた」とは「天幕を張る」、すなわち「神との会見の幕屋が立てられた」ということです。主イエスが私どもと同じ「人間」となってくださったゆえに、主イエスを通して、私どもに「神とお会いする恵み」が与えられたということです。それは、私どもが神に相応しく立派な者になって神にお会いする、ということではないのです。また、神が高見から私どもに会ってくださるということでもありません。「神が人となる」即ち「神の方から降りて来て」くださって、私どもに会ってくださるということなのです。主イエス・キリストによって、私どもは、本来お会いすることなど出来ない「神」を見、神との交わりを与えられたのです。それが「わたしたちの間に宿られた」という御言葉に示されていることです。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と御言葉は続きます。「栄光」とは、主イエス・キリストが神の子として「神を現しておられる」ということです。「恵み」とは、神の方から一方的においでくださり、私どもと会ってくださったということです。神が肉となって(人となって)くださったことは、滅びゆく者に対する神の一方的な慈しみの出来事なのです。「真理」とは、「主イエス・キリストこそ救い主」であるということです。そして、主イエス・キリストによって「神の救いが満ち満ちている」ことを信じることによって、私どもは「満たされる」のです。

今、私どもは覚えたいのです。「主イエス・キリストは神の恵み・救い」、それは、信じる者には誰にでも与えられている恵みです。
 地上の現実はどれほど厳しいことでしょうか。しかしそれでもなお、主イエス・キリストを信じることによって、私どもは、恵みに満ち溢れ、救いの満ち満ちる幸いのうちに生きることが出来るのです。

「神の大いなる喜び」、それは「人の救い=洗礼」です。人にとって「自らが喜ばれている存在である」ことを感じることは、とても大事なことです。孤独を生み人の存在を認めない社会の現実の中にあって、しかし、ただ神は、私ども一人ひとりの存在を喜んでくださっております。なんと幸いなことでしょう。

今まさに、私ども一人ひとりの上に神が臨んでくださって、私どもはこの場に集っております。今ここで礼拝する私どもを、神が慈しみ、喜んでいてくださるのだということを感謝をもって覚えたいと思います。

主の名によって祈る」 12月第4主日礼拝 2009年12月27日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章22〜27節
16章<22節>ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。<23節>その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。<24節>今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」<25節>「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。<26節>その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。<27節>父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。

22節「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と主イエスは言われます。今の「悲しみ」が、いずれ「喜び」に変えられると、主イエスは言ってくださっているのです。
 21節では、主イエスは「産みの苦しみは喜びに変えられる」と言われました。ここでの「苦しみ」と「悲しみ」の違いは何でしょうか。「産みの苦しみ」は、しかし同時に喜びの予感を与えられているものです。しかし22節の「悲しみ」には、喜びを予感させるものは何もありません。また「今は」と言われておりますが、今の時点で主イエスの言葉を理解できない弟子たちは「今、悲しんでいる」とは言い難いのです。
 ヨハネによる福音書は「未来」と「今」を一つのこととして語っております。これから先、主イエスを失う弟子たちの「悲しみ」について語られていますが、弟子たちには主イエスの言葉が理解できませんから、今は「悲しみ」の予感すらないのです。しかしヨハネは、直後の出来事について「今」の出来事として語ります。それは「喜び」についても同じです。それは、救いの出来事を「既に与えられていることとして」語っているということです。それがヨハネの信仰の姿勢なのです。
 このことは、キリスト者にとっては大切な視点です。私どもは、今、未来を知ることはできません。しかし、私どもの未来について、主イエス・キリストが救いの約束を与えていてくださるのであり、その約束を「今」のこととして受け止めることがゆるされているのです。神は真実な方です。ですから、真実な神の約束は決して揺らぐことのない確かな保証です。ゆえに「既に、今」という形で語る、それがヨハネによる福音書の信仰の姿勢です。

弟子たちの「悲しみ」は「主イエスを失うこと」ですが、しかし、この「悲しみ」には「弟子たちの裏切り」も含まれているのです。ペトロは、イエスの十字架を前にして「イエスを知らない」と3度否認いたしました。ペトロは「裏切る者」としての心の傷みを負う「悲しみ」を持つのです。弟子ペトロの「悲しみ」は、主イエスとの別れの悲しみだけではない、裏切る者としての深い悲しみ、心の痛手なのです。主イエス・キリストの十字架の出来事とは、そういう深い心の傷み・悲しみであったことを覚えたいと思います。

そのような深い悲しみの十字架を通して、しかし主イエスは「再び、弟子たちのところに来てくださる」ことによって、「悲しみ」を「誰にも奪い去ることのできない喜びに変える」と言ってくださっております。
 「再び、おいでくださる」、それは「復活の主イエスにお会いすること」です。主イエスは「復活の主」として、弟子たちに「聖霊」を送ってくださり、神との交わりを回復させてくださるのです。主イエスとの交わりを失って悲しむ弟子たちは、聖霊によって、神との深い交わりを回復し、喜びに満たされるのです。
 「悲しみ」の原因は、主イエスの十字架の死でした。それは、この世の権力が主イエスを拒絶したことに因る十字架の死です。この世は、真実な方・主イエスを神の御子と信じませんでした。神の支配を受け入れない、それが「人の罪」です。「人の罪」ゆえの「十字架」なのです。

「十字架の死」によって、主イエスの地上での生涯は終わります。とすれば、人の思いでは、メシア(救い主)の救いの計画は失敗に終わったと思うことでしょう。しかも十字架という人の死の極み、最悪の終わり方です。しかし、そうではないのです。主イエス・キリストにとって「終わる」とは、失敗ではなく「救いの完成」を示すことなのです。
 人の側で見ると「主イエスの十字架の死」は「人の罪のゆえの出来事」です。しかし、神の側から見ると「主イエスの十字架の死」は「人の罪の贖いとしての死」なのです。神は「人の罪」をご存知です。しかし、神は「罪ゆえの人の滅び」を望まれない。神は「憐れみ」です。どうしうようもない罪人は、憐れまざるを得ないのです。

罪を犯した者は「裁かれる」ことによって少し安堵することでしょう。しかし、裁かれずそのままに放置されることは、実は一番厳しい「裁き」です。
 他者を顧みない社会、人の感情のみの社会、即ち共同体を失った社会では「人の思いの満足のための裁き」ということが起こります。人の裁きには際限がありません。しかし、そのような裁きよりも、「放置される」ことの方が厳しい裁きなのです。
 真実な方である神の裁きは公平です。ですから、神の裁きには平安が伴うのです。にも拘らず、神の裁きに身を委ねず、人が人を裁いてしまう。人の裁きは、裁ききれないがゆえに行き詰まるのです。

このように「もはや救いようのない罪人を神は憐れんでくださった」、それが「主イエス・キリストの十字架の死」です。神の御子として、全く裁かれる必要のない、罪無き方が十字架の死によって裁かれてくださり、罪を滅ぼしてくださったのです。それが「救いの恵み」です。人の罪の贖いゆえの主イエスの十字架は、ただ「神が罪人を憐れんでくださったゆえの出来事」であることを覚えたいと思います。
 神の深い憐れみ・恩寵のゆえに、深い心の傷み・悲しみは癒されます。それは上辺だけの慰めではないのです。ゆえに、その「喜び」は心の底からの喜びとなるのです。神の憐れみによって、喜びがその人の全てを覆い尽くす、ですからその喜びは「誰にも奪い去ることのできない喜び」なのです。

私どもの心に「神の憐れみが満ち溢れている」のだということを覚えたいと思います。心に深い傷み・悲しみを持つがゆえに、そこに憐れみの神がいてくださるゆえに、私どもは救われているのだということを覚えたいと思います。

 「喜び」は、私どもを憐れんでくださる「憐れみの神」を見出すところにあるのです。いえ、そこにしか無いのです。神のみ、私どもの喜びであることを覚えたいと思います。神との交わりは取り去られることはありません。朝に夕に、神に祈ることが赦されていることの恵みを覚えたいと思います。

神は、私どもの罪ゆえに、救いを用意してくださいました。それが「主イエスの十字架」です。そこにこそ私どもの喜びかあるのです。

23節「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」と言われております。「その日には」とは、弟子たちに「聖霊が下る」ときのことです。「聖霊」の出来事は、人には到底理解できることではありません。「聖霊」が私どもに臨んでくださらない限り「十字架の出来事」は分らないのです。それは神の御業であって、人の思いを超えているのです。
 聖霊の働く場に集い、御言葉に聴く。この礼拝の場において初めて、十字架の救いを知ることができるのだということを覚えたいと思います。そして、主の御言葉に押し出されて、私どもは主の福音を「宣べ伝える」のです。

今日は歳晩礼拝です。一年を終わるとき、私どもにとって大切なことは何でしょうか。「終わり」とは、キリスト者にとっては「完成」であることを覚えたいと思います。この一年を完成させてくださるのは神です。神が共にあり、神のものとして生きるべくして生きた一年であると、神が言ってくださり完成させてくださるのです。だからこそ、来るべき一年を新しく踏み出すことができるのだということを、感謝を持って覚えたいと思います。