聖書のみことば/2009.11
2009年11月
毎週日曜日の礼拝の中で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。
あなたがたのために」 11月第1主日礼拝 2009年11月1日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章1〜15節
16章<1節>これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。<2節>人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。<3節>彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。<4節>しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。<5節>今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。<6節>むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。<7節>しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。<8節>その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。<9節>罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、<10節>義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、<11節>また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。<12節>言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。<13節>しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。<14節>その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。<15節>父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

1節「あなたがたをつまずかせないためである」と、主イエスは弟子たちに言ってくださっております。
 主イエスはご自分の十字架・復活・昇天を弟子たちに語られました。実際には「この世が主イエスを信じず、憎んで、主イエスを十字架につける」ということが、これから起こるのです。そして「主イエスゆえに、弟子たちもこの世に憎まれる」と言われます。しかし、それは弟子たちにとって「主イエスと一つなる者とされるという幸い」です。何故なら、主を信じる者は、主と共に天に住まいする者となる約束が与えられているからです。しかし、この幸いの前提は、「主ゆえに」憎まれるということです。「身から出た錆ゆえに」憎まれるとすれば、天にも地にも居場所は見つからないでしょう。

なぜ「この世は主イエスを憎む」のでしょうか。それは「正しく主イエスとの関係を持てない」からです。「主イエスを神の子・救い主と信じて言い表す」こと、これが「主イエスとの正しい関係」です。本来、人は「救いを必要とする存在」として、主イエス・キリスト(救い主)と関わらなければならないのですが、にも拘らず関わりを持つことができない、そこで「憎む」のです。「関わり」がある、だから「憎しみ」が起こるのです。「神との正しい、麗しい関係を持てない」、だから憎むのです。
 ここで「主イエスゆえに、弟子たちを憎む」とは、弟子たちは主イエスと正しい関係にあることを前提としております。なぜなら「弟子」とは「主イエスを神の子、救い主と言い表す者」だからです。弟子であれば、主を「わたしの救い」と告白し讃美します。ここに、私どもが「主イエスを愛する」とはどういうことかが示されております。「愛する」というと情緒的な感情を思いますが、「神を愛する」とは「神を神として崇め、礼拝する」ことです。それ以外に「神を愛する」ということはありません。ですから、今こうして礼拝を守っている、そこでこそ、私どもは「神を愛し、神との麗しい関係を頂いている」ということなのです。愛(関係)を失えば、正しく神を礼拝することはできません。「神を神とできない」それが「憎しむ」ということです。

主イエスが、ご自分の十字架・復活・昇天を弟子たちに語られた目的は「弟子たちをつまずかせないため」と言ってくださっております。その前提は、必ず「つまずきが起こる」。だから「つまずかせないために」ということなのです。
 「つまずき」は、どうして起こるのでしょうか。「つまずき」は、出来事が理解できない時に起こるのです。その根本の原因は、自分の考え・思いがあるからです。自分の思いと違えば「つまずく」のです。
 弟子たちは、これから先「主イエスの十字架の死」に直面して、つまずきます。その時には、主イエスがここで言われていることは何一つ理解できません。しかし、その「つまずき」が起こった時の「力」となるために、語ってくださっていると言われているのです。

人にとって「つまずき」は大事です。どうして「つまずく」のか。つまずきの根底にあるのは、常識(経験)です。弟子たちにとって「主イエスの十字架と復活」は、常識にはない、信じられない出来事でした。「罪人の救い」とは、信じられない、人には不可能な出来事なのです。しかし、その「信じられない出来事をなした方」それが主イエス・キリストです。主イエスによって信じられないことが起こった、だから私どもは救われているのです。
 つまずいて初めて知り得ることがあります。自分の常識が全てではないことを知るのです。そして、自分の間違いに気付いて、自分に行き詰まったところで初めて、神の出来事が全てとなるのです。自分が正しく、これで良いと思っているうちは、決して神に向かうことはできません。
 ですから、つまずくことは幸いです。主イエスは、私どもが「つまずく」ことを知っておられ、つまずいたところで「つまずきを知っていてくださる方」として、そこに居てくださるからです。そのために「その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである(4節)」と言ってくださっているのです。つまずいて初めて「主イエス・キリストこそが、私どもの主」であることに気付かされるのです。つまずきの淵で、なお、主(救い)へと至ることが出来るようにと、主イエスが語ってくださっているのだということを覚えたいと思います。
 「つまずかないように」の本来の訳は「罪に陥らないために」という意味です。「罪に陥る」とは「神から離れる」ということです。この世に憎まれた時に、この世の方に引きずられて神から遠ざかってしまうことがないように、主イエスとの交わりから出て行くことがないように、とあらかじめ言ってくださっているのです。私どもが主イエスとの麗しい関係(交わり)を保ち得るのは、そこまで主が整えて配慮してくださっているからだということを感謝をもって覚えたいと思います。
 「主イエスとの交わりを失うこと」それが「罪」です。自己中心な思いによって、すぐに主から遠ざかろうとしてしまう私どもに、「あなたは罪のうちにいるのではない」と繰り返し示し、主との交わりに留まるようにと言ってくださる。だからこそ、私どもは「主との交わりを保ち得る」のです。

私どもは、自分の先行きなど何も分らない者です。しかし、主イエス・キリストは私どもの先行きを全てご存知であって、なお、捨て置かれないのです。私どもの先行きにどんなに誘惑が多く、つまずきが起こるか、全てを知っておられる。しかし、そのつまずきの淵で、主イエスが私どもの全てをご存知の方として、居てくださるのです。そこでこそ、私どもは主を思い起こし、わたしを覚えていてくださる主に立ち返るのです。なお「あなたは、わたしの弟子である」と、神の愛の交わりのうちに置かれていることを思い起こすことを得させてくださるのです。

罪の淵で、主イエス・キリストが、私どもに関わってくださっております。主イエス・キリストは人の罪を全て担い、贖う方として、私どもに関わっていてくださるのだということを覚えたいと思います。

2節「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。「人々」とは「ユダヤ人」です。ユダヤ人にとってメシア(キリスト・救い主)の到来は未だなのです。ですから礼拝は「神のみ」であって、「キリスト礼拝」は神を冒涜するものと考え、主イエスの死刑を望んだのでした。そしてそれは「神への奉仕」と考えているのです。しかし、私どもはそれを責めることはできません。神を崇めるゆえに、迫害は起こるのです。どんな宗教であっても、熱心な信仰においては起こり得ることなのです。
 ですから、「信仰」とは自らを正しいとすることではないことを弁えておかなければなりません。「信仰」とは「自らが神の前に空しくなる」ことです。神の恵みに満たされて、神が全てとなることです。神に代わって他者を裁くことが信仰ではないのです。信仰は、ただ、自分自身が神の前に取る足りない者であることを知ることのみです。
 裁くのは神のみです。憎まれたら憎むのではありません。憎まれるほどに知るべきこと、それは、憎まれるほどに「主イエス・キリストと一つなる者である」ということです。主イエス・キリストは、主を憎む者を、なお救おうとなさる方です。ですからこそ、私どもも憎む者のために神の救いを執り成して祈る者でありたいと思うのです。いえ、執り成す祈りができる者なのです。私どもに神から託されている力、それは裁きではなく「その人が救われるようにと執り成す祈りの力である」ことを覚えたいと思います。執り成す祈りが許されているのです。

真実に神の憐れみを知るということは、キリスト者にとって力です。憐れみの神の救いを他者のために祈る、それがキリスト者に与えられた力であり使命です。私どもキリスト者は、救いの恵みに与って、既に永遠の命の約束が与えられております。それゆえに、他者の救いのために祈るのです。

主イエス・キリストは「時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と言ってくださっております。それゆえに、どのような淵にあったとしても、私どもは「あなたは、わたしと一つなる者。既に救いのうちにある」と主が言ってくださっていることを思い起こして良いのです。そして、そこでこそ、救われるのです。

幻なる神に励まされる」 11月第2主日礼拝 2009年11月8日 
宍戸俊介 牧師(日下部教会)
聖書/使徒言行録 第22章30〜23章11節
22章<30節>翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。23章<1節>そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」<2節>すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。<3節>パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」<4節>近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。<5節>パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」<6節>パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」<7節>パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。<8節>サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。<9節>そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。<10節>こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。<11節>その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

ただ今、新約聖書の使徒言行録22章30節〜23章11節までをご一緒にお聞きしました。最後の11節の言葉をもう一度、繰り返してお聞きしたいと思います。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」

この夜、イエス様がパウロの傍近くに現れて、気落ちしそうになっていた彼を慰め、力づけてくださいました。聖書の中に登場する働き人たちは、一人の例外もなく、主の慰めを必要としています。
 しかし、この夜、パウロが気落ちしそうだったというのは、どういうことなのでしょうか。パウロはすっかり元気をなくして、しょんぼりふさぎ込んでいたのでしょうか。そうではありません。そうでないどころか、パウロは外から見たところは、むしろ大変元気であって、まるで英雄のようにすら見えるのです。彼はみじめに訴えられている者のようにではなくて、むしろ逆に、彼を裁こうとする人たちの前に毅然として立っているのです。
 この日起こった出来事は、どちらかといえば裁く側の人たちの方が、むしろ、いやいやながら仕方なくその場に臨んでいる、といった風でした。彼らは、ローマ軍のエルサレム守備隊の千人隊長の言いつけで、最高法院に呼びつけられ、議会を開かされていたのです。
 本心を言うなら、彼らは外国人の千人隊長など交えないで、自分たちだけでパウロのことを裁きたかったことでしょう。もしそうできていたなら、何でも彼らの思うがままに判決を出せたはずです。そして、そういう裁判ができたなら、彼らは喜んで議会に臨んだことでしょう。
 けれども、この日は違いました。千人隊長のクラウディウス・リシアが、その場に陪席していて、もし少しでも不明朗そうに見える手段があったなら、すぐにでも介入してきそうな気配です。祭司長をはじめ、この日の議会への出席を求められた人たちは、なんとも気が進みません。
 そして、そんな気分が、この日、最高法院の議会を開会するや否や、ちょっとした事件となって表れました。最高法院の場に引き出されたパウロは、その場に出席した議員たちの顔を真正面から見据えて、まず「兄弟たち」と呼びかけます。それから、今日に至るまでの彼の行動は、ちっとも神様の御前に恥じるようなものではないと話し始めたのです。
 ところが、こういうパウロの言葉は、不機嫌な気分でそこに座っていた議員たちの感情を逆撫でしました。大祭司は、傍に立っていた人にパウロの口を打てと命じます。開始早々、最高法院の会議の場において、パウロは手荒い扱いを受けたのでした。
 けれども、こういうパウロの態度は、彼自身の傲慢な心から出たのではありません。この時、パウロの内に強く響いていたのは、あのイエス様の言葉でした。即ち、マタイによる福音書の10章16節〜20節に記録され、書き留められているあの言葉です。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。
 「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」ーこの約束の言葉がパウロの内にまざまざとよみがえってきています。まさに今、この時のための約束の言葉なのです。パウロはここで、彼が自分の気ままに語るのではなくて、聖霊に命じられた通りに語っているということを経験させられているのです。聖霊を侮ることは許されません。聖霊が語らせた言葉は、必ずや実現するのです。
 3節には、この時、パウロがアナニアに向かって発した警告の言葉が記録されています。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる」という言葉です。この言葉は、その後10年程たって現実となりました。大祭司アナニアは、同胞であるユダヤ人によって暗殺されてしまうのです。
 一方ではそんな風に恐るべきことが述べられていながらも、別の方面でも聖霊はパウロに働きます。即ち、4節〜5節のところにかけて「神様の大祭司をののしる気か」と言われたパウロが、すぐに聖書の言葉を思い起こして、それ以上の怒りの気持ちを募らせることなく落ち着くことができたのも聖霊の導きによったのでしょう。「確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」−そうパウロは語って、鉾を収めています。
 パウロは最高法院の議員たちを前にして、その一人一人を見つめながら「兄弟たち」と呼びかけました。これは決して親しみを持ってもらおうとする演出ではありません。本心から、心の底から、パウロは相手をそのように見ていたのです。たとえ相手方がパウロを敵と見なし、どんな卑怯な手段を用いてでもパウロを亡き者としてやろうと企てているとしても、それでもパウロは真実、その彼らを同胞であり兄弟であると見なして、そして何とかして彼らに近しくなりたいと願っていたのです。
 冒頭でちょっとした混乱がありましたけれども、ともかくもパウロはさらに語り続けることを許されます。そんな風に会議が運んだのも千人隊長のクラウディウス・リシアが、傍に控えていてくれたお陰です。
 パウロは、この議場の中に、サドカイ派とファリサイ派の人々が共に居並んでいることに気付いていました。そして、この険悪な雰囲気の中で、僅かでも彼を理解してくれそうな人々に手を差し伸べようとして、こんな風に語りました。6節の後半です「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」。
 もちろん、ファリサイ派の人々とキリスト者であるパウロの間では、考え方が完全に一致する訳ではありません。しかし両者の間には、僅かではありますが共通しているところもあります。死者の復活を信じていたり、天使の存在を認めたり、死後の命を信じるという点が共通しています。よって、パウロは少しでも似た考え方をするファリサイ派の人々には、せめてものこと、理解し合うきっかけが生まれることを願って、復活のことを話題にのぼらせるのです。
 そして、事実、そのことによって、パウロの言葉に耳を貸そうとするファリサイ派の人々が現れます。しかし、それと同時に、まるっきり正反対の立場をとるサドカイ派の人々の中には、これをきっかけとして、元々気乗りがしなかったこの会議自体をすっかりぶち壊そうとする動きも目立ち始めます。
 この2つの動きはどんどんエスカレートしていって、遂には暴力に訴えるのではないかと危ぶまれる程に激しくなりました。事ここに及んで、千人隊長のリシアはパウロのことを気遣って、彼の身柄を安全な場所に移します。リシアとしては、こういうなりゆきの中で、パウロに対する疑いは解けたようです。後に彼は、カイサリアの総督フェリクスに手紙を書いた中で、パウロが「死刑や投獄に相当する理由はないことが分りました」と報告しました。
 さて、ところで、パウロです。彼は騒然とする最高法院の議場からリシアの機転により辛くも助け出されました。そのことでパウロはホッとしていたのでしょうか? いいえ、そうではありません。この時パウロの思いの中に最も大きくあったのは、同胞であるエルサレムのユダヤ人たちに、何とかして福音を宣べ伝えたいという思いでした。そのために、彼は身の危険を承知の上でエルサレムまでやってきたのです。しかし、案の定、パウロは手ひどい反対を受けました。そして、その騒動のために捕らえられてしまったのです。
 捕われの身となりながらも、パウロはなおも同胞に福音を伝えたいと願い続けます。騒動のために捕らえられて、一般のユダヤ人たちに語りかけることができなくなっても、パウロは尚も、彼を裁くために招集された最高法院の議員たちに、イエス様の復活を伝えようとしました。ところが、その結果がこの日の最高法院の議員同士の衝突となったのです。パウロの身柄だけは、どうにかリシアが確保してくれました。しかしそのために、パウロが再び最高法院で議員たちに語りかけられるチャンスは、おそらくもう二度となくなってしまったのです。
 パウロとすれば、切に願って来た同胞への福音宣教の機会が絶たれてしまった、そのことを思って深く失望し落胆せざるを得ません。それが、この夜、パウロを覆っていた悲しみだったのです。彼は同胞にイエス様の復活を伝えようと命がけの思いでやってきました。それなのに、遂に志しを果たせないままに終わりそうなのです。
 まさにそんな時でした。パウロは、主ご自身から慰めを受けます。「パウロ、しっかりせよ。勇気を出せ。あなたがこの地で蒔いた種は、まだ種のままの姿ではあるけれども、確かにこの町に蒔かれている。あなたはこの町エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマに渡って行き、そこでも証しをする者となるのだ」。
 それが、この夜、パウロに与えられた慰めであり、励ましでした。それは、パウロ自身の身の安全とか、パウロ個人の利益のため、パウロが繁栄するための慰めではありません。そうではなくて、主のしもべとなって仕え、そのように働いて生活するための慰めです。
 私たちはしばしば、自分自身のことばかりに興味を持ちがちです。自分の利害にいつもこだわってしまいます。うっかりすると、礼拝をささげ、御言を聞く時にすらそうなのです。今日の礼拝は良かったとか、今ひとつだったというような感想を私たちは持ちがちなのですが、その善し悪しとは一体何なのでしょうか? 知っている讃美歌を沢山歌えて嬉しかったということでしょうか? 分る話だったのでホッとしたということでしょうか? しかし、いつも自分の気持ちが満足し、自分の楽しみ喜びが満たされるということばかりに関心が向かっていて、それで果たして十分なのでしょうか?
 パウロは自分自身のためではなく、同胞のために嘆き、苦しみ、命をかけ、そして失意と落胆の中に沈みました。そして、そこに主の慰めがありました。
 このことに私たちは多く教えられるのではないでしょうか。自分のことばかりを思うのではなく、他の人々のことを思いやることに志が向けられている時に、そして、そうしたことのために嘆き、苦しみ、煩悶する時に、主は慰めを与えてくださるのです。自らの安楽や利益のためでなく、神様の御旨に適うことのために働く時、主の慰めは私たちの上に臨みます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば全てのものが添えて与えられる」(マタイによる福音書6章33節)と言われている通りです。
 今日の聖書の箇所を通して述べられていることは、ひとりパウロだけの身に起こることではないのです。私たちもまた、同じ主に伴われ、同じ主の御言に慰められ、励まされて生活してゆくのです。イエス様を救い主として私たちにお与えくださった方は、私たちがその方の御心に仕え、お互いのことを配慮し合い、助け合い、慰めを分ち合って生きるように、私たちにお求めになる方です。
 私たちが自らのためだけに生きるのではなく、仕えること、自分自身をささげて生活するところにこそ、慰めが満ち溢れることを覚えて、このところから歩み出してゆきたいのです。

世の誤りを明かす聖霊」 11月第3主日礼拝 2009年11月15日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章4b〜15節
16章<4節b>「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。<5節>今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。<6節>むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。<7節>しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。<8節>その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。<9節>罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、<10節>義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、<11節>また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。<12節>言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。<13節>しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。<14節>その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。<15節>父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

主イエスは、これから先、弟子たちが迫害を受けることを教えてくださっております。
 そして4節「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである」と、主イエスがおられる間は主だけが憎まれるのであって、弟子たちは憎まれない、だから言わなかったとおっしゃるのです。
 「主イエスが神の子・救い主であられる」ことは、この時、この世も弟子も知りません。しかし少なくともこの世は「主イエスを認めない」という意味では、主イエスに対して自覚的と言えます。弟子たちはと言えば、主イエスを「神からの方」とはわかっていても「神の子・救い主」とは思っていない、つまり弟子たちは主イエスに対して自覚的ではないのです。しかしそれは、無理もないことです。弟子たちはまだ、主イエスの苦難・十字架・復活・召天を知らないからです。主が天に帰られた後に来られる聖霊(助け主・弁護者)が臨んでいない、ですから「主イエスは救い主である」と自覚し得ないのです。「主イエスは神の子・救い主」と知らないこと、それが自覚的でない原因です。しかしこの後、聖霊を受けることによって、弟子たちは「主イエスは神の子救い主」と確信し、自覚的になるのです。そしてその時に、弟子たちはこの世に憎まれるのです。何故でしょうか。それは、弟子たちが「主イエスは神の子・救い主であると証しする」からです。神の支配を受け入れられない「この世」は、弟子をも憎むのです。

聖霊は、弟子たちに「主イエスは神の子・救い主と証しする力」を与えます。それは、弟子たちが「信じる者としての自覚に生きる者となる」ということです。ここに、カトリックとプロテスタントの強調点の違いを見ることができます。カトリック信仰にとっては、必ずしも信仰は自覚的ではありません。自分の信仰の内容を説明できないとしても、それは神父に委ねてよいのです。ですから教会の権能者である神父に対する従順が求められます。これに対して、プロテスタント信仰は自覚的です。「主イエス・キリストこそ我が救い」という明確な確信に立ち、私どもはプロテスタント教会の一員として、この信仰の内容を明確にしてそれに即した生活を送ることが求められます。「主イエス・キリストこそ神の子、我らの救い主」であるという自覚において生活する。それは神を神として崇める、即ち「礼拝の生活」です。年に一度の礼拝でも許されるカトリック信仰と比べても、週毎の礼拝を守る生活が求められるプロテスタント信仰がいかに自覚的な信仰であるかを思います。そして、それは聖霊の出来事なのです。
 自覚的であることは、他方で、信仰の強い確信による微妙な違いによって、分裂を生むということがあります。分裂は悪しきことと思われがちですが、分裂に対する祝福はないのでしょうか。もちろん、人として、教会としての痛みはあるでしょう。しかし痛みを恐れてはなりません。信仰の強い確信によって、新しく教会が生まれ、信じる者が増えるということがあるのです。信仰の力があるから分裂し、そこに教会が生まれる、それがプロテスタント信仰の特色でもあります。自覚した信仰に生きることこそ、力です。分裂・痛みがあったとしても、信じる者が増えるところに神の祝福があるのです。

弟子たちは、主イエスと一緒にいる間は、自覚的である必要はありませんでした。主イエスの十字架の死と復活により、聖霊が臨み、自覚が与えられ、この世で迫害を受けるのです。しかし、それは幸いなことです。「主イエス・キリストこそ神の子・救い主」と自覚することによって、「主イエスのもの」とされ、主イエスと共に天に住まいする者となる約束が与えられているからです。

5節「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」。「今わたしは」と、主イエスは言われます。それは、主イエスが「今」という時を知っておられるということです。主イエスは「十字架・復活・昇天」という、ご自分の使命を明確に自覚しておられる。だからこそ主イエスは「今」をご存知なのです。
 私どもが「今」という時を知り得ないのは何故でしょうか。それは、自分の明確な使命を知らないからです。「今」何を為すべきかを知らない。何をしたいのかが明確でなければ、「今」何をすべきかを知ることは出来ないのです。ですから「主イエスが時を知っておられる」ということは、私どもにとって大変示唆的なことです。主イエスは今、「罪人の救い」という使命を果たそうとし、その決意を表しておられる。「今」という生き方は、決意を明らかにした生き方なのです。それは「今為すべきことがわかる」ということです。ですから、主イエスが「今」と言ってくださる、それは私どもが目的を持ち、豊かに生きるということの示唆でもあるのです。
 更に、弟子たちは、主イエスが「『どこへ行くのか』と尋ねない」と言われます。それは、弟子たちには、主の言われていることが全く理解できない、何も明確ではないからです。

そして、6節「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。「尋ねない」どころか、むしろ「悲しんでいる」と言われます。主イエスが十字架に死なれ、主イエスを失ってしまう。だから弟子たちは悲しまざるを得ないのです。

しかし、7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。「悲しみ」が全てではないと、主イエスは言ってくださるのです。主イエスが去ることは、弟子たちにとって「益」となると言われる。何故なら、そこで助け主・弁護者なる聖霊が来てくださるからだと言われております。何故それが益なのでしょうか。それは、聖霊が臨むことによって「主イエスこそ救い主であることを確信し、救いの恵みを味わい、この世に対して救い主を証しする力を与えられる」からです。それは、他のどこにも有り得ない、救いの恵み(益)なのです。

8節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。弁護者(聖霊)をいただくことによって、「罪」「義」「裁き」とはいかなることかが分ると言われております。それは「世の誤りを明らかに」できるというのです。
 「罪」とは、神を神とせず「神から遠く隔たっている」ということです。
 「義」とは、主イエス・キリストが神としてご自身を現されるということです。義とはどんなに正しいかということなのではなく、正に「主イエス・キリストが救い主である」ということです。
 「裁き」とは「真実な支配は神にのみある」ということです。この世の支配者は神の支配に屈しない故に断罪されるのです。
 「この世の誤り」とは、主イエス・キリストを神の子救い主と認めず、自らを支配者とするということです。

私どもが聖霊をいただくということは、私どもが「どこに救いがあるのか」を明確にできるという「恵みの出来事」です。それは、救いを知り、自らの罪を知る者となる(自覚する)という恵みです。それは、真実の支配は神にのみあることを知るという恵みであることを覚えたいと思います。

真理の霊が来る」 11月第4主日礼拝 2009年11月22日 
北 紀吉 牧師(文責・聴者)
聖書/ヨハネによる福音書 第16章12〜15節
16章<12節>言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。<13節>しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。<14節>その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。<15節>父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

12節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と、主イエスは言われます。主イエスはこれまで、弟子たちに対して色々と語ってくださいました。主イエスがこの世に憎まれ、この世を去り天に帰られた後、弟子たちもこの世に憎まれるようになるが、しかしそれは主と一つのものとされる幸いである、と語ってくださったのです。しかし、弟子たちには理解できませんでした。主イエスは、弟子たちが理解できないことをご存知の上で、聖霊(弁護者)を送ると言われます。聖霊なしには理解できないのです。理解できない者をも、なお「救う」と主イエスは言ってくださる。それは「救いは、人間の悟り(理解)によるのではない」ということの恵みなのです。

しかし、この「理解」という言葉に、どこか判然としない思いがありました。弟子たちが理解できないのは当然ではないでしょうか。
 説教の準備を進める中で、この「理解できない」という言葉は、本来「持ちこたえることができない」という意味だったことを知りました。それは「理解」よりももっと深い意味を持つ言葉です。いろいろ言われても「耐えられない」ということです。つまり、弟子たちは、主イエスにこれから起こること、即ち「十字架・復活に耐えられない」ということなのです。
 4つの福音書は、弟子たちが主イエスの十字架・復活に耐えられない姿(逃げ出す、疑う)を記しております。ですから「耐えられるようになるために」聖霊が必要であると、主イエスはおっしゃっているのです。これは、頭の理解の問題ではないのです。「憎しみを受ける」と言われて、それを頭では理解できたとしても、実際に「耐えられる」かどうかは分りません。ただ、聖霊の助けによってのみ「耐えられる」ということなのです。
 こう考えますと、根本的な「人の罪の問題」を問わざるを得ません。エデンの園でアダムとイブが神の命令に背いたとき、2人は何をしたでしょうか。彼らがしたこと、それは「逃げ出す」「神から身を隠す」ことでした。それは「罪人は神に耐えられない」ということを示しているのです。人は、たとえ「理解できない」としても逃げる必要はないでしょう。しかし人は、「耐えられない」ときには逃げ出さずにはいられないのです。

12節に戻りますと、主イエスは「弟子たちは耐えられない、だから今はこれ以上言わない」とおっしゃっております。留保してくださっているのです。主イエスは「耐えられない」者を責め立てたりはなさらないのです。たとえそれが真実だとしても、人は、その真実に耐えられずに逃げ出してしまうということがあるのです。例えば、「理解できない」としても相手を信用するということは可能ですが、「耐えられない」とすれば、信じることは出来ないでしょう。信じることが出来ない者に救いはありません。ですから、「理解」という言葉で神の出来事を語るのは難しいと思うのです。「耐えられない」という言葉は「理解できない」より、もっと深いのです。
 主イエスは弟子たちが「耐えられるようになるまで」待ってくださるのです。人は、深く追求されたならば、そこに留まっていることはできません。しかし、神は人の罪を問われない。だから人は、時には身を隠したりしてもいられるのです。
 私どもは罪の追求に耐えられない者であること、だからこそ、聖霊の助けなしにはいられないのだということを覚えたいと思います。

人は「神に耐えられない」のですから、「神の救い」にも耐えられません。主イエス・キリストの「十字架と復活」を目の当たりにして、そのままでは全てを拒絶するのであって、救いには至らないのです。そこに聖霊の助けがあって初めて、信じる者になるのです。私どもが耐えられないから、聖霊の助けが必要なのです。
 「あなたの罪のために、主イエスが十字架にかけられた。主イエスの十字架の死は、あなたのせいだ!」と言われたら、私どもは耐えられないのです。しかし、「主イエスの十字架は、神の救いのご計画である」と聖霊によって示されて初めて、十字架の出来事が、深い深い救いの恵みとなるのです。
 ですから、根本にあるのは「理解」ではなく、「聖霊によってしか知り得ない恵みを私どもは必要としている」のだということです。
 弟子たちは「主イエスの十字架」に耐えられませんでした。だから「主イエスの復活」を信じられなかったのです。しかし、聖霊の助けによって、耐えられなかった出来事が、救いという恵みの出来事に変えられたのです。

聖霊は、今、私ども一人ひとりのところにも来てくださっております。聖霊によって、私どもは「救われている」ことを知るのです。人は、聖霊によってのみ、罪の赦しの出来事を知り、受け入れることができる。拒絶し逃げ出す者から「受け入れる者」へと変えられるのです。

13節「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。「真理を悟らせる」とは、「信じることができるようになる」ということです。聖霊の働きによって「私どもの罪のゆえの十字架が、私どもの救いである」ことを知る。「主イエス・キリストこそ我が救い」と信じるに至る、ということです。主イエスの十字架を信じる者は、主イエスと一つなる者とされ、天に住まいする者となるのです。神との絶えることのない交わりに入れられ「永遠の命」に与る者となる、それが「真理」です。
 ここでは聖霊を、「その方」と、人格を持った形で言い表しております。それは「三位一体」の神が「固有の人格」であることを示しております。

続けて「自分から語るのではなく、聞いたことを語り」と言われております。「聖霊」は「父なる神と子なる神から派遣される」ということです。聖霊は、派遣された方の言葉を語ってくださるのです。御言葉と共に働く、それが聖霊です。私どもが事ごとに主イエスの御言葉を思い起こすとき、そこに「聖霊の働き」があるのです。 
 「これから起こることをあなたがたに告げる」。「これから起こること」とは、終わりの日の救いと滅び、即ち「信じる者は救われ、信じない者は滅びる」ということです。聖霊は、終わりの日の出来事を告知してくださるのです。「主イエス・キリストを信じるあなた方は、終わりの日の救いの完成に与っている」と宣言してくださるのです。

14節「その方はわたしに栄光を与える」。「聖霊が主イエスに栄光を与える」とは、いかなることでしょうか。「主イエスが栄光をお受けになる」とは、「主イエスこそは贖い主(救い主)である」と現されることです。
 私どもが「主イエス・キリストこそ、わたしの贖い主、救い主」と言い表すとき、それこそが、私どもが「主イエスに栄光を帰す」ということです。
 主イエスをキリスト(救い主)と言い表す、そこに聖霊の働きがあり、そこでこそ、私どもは主に栄光を帰するという恵みに与ることができるのです。

主は、なお、低く下って」 11月第5主日礼拝 2009年11月29日 
大木正人 牧師(山梨英和学院)
聖書/詩編 第113章1〜9節、フィリピの信徒への手紙 第2章3〜11節
詩編113編<1節>ハレルヤ。主の僕らよ、主を賛美せよ/主の御名を賛美せよ。<2節>今よりとこしえに/主の御名がたたえられるように。<3節>日の昇るところから日の沈むところまで/主の御名が賛美されるように。<4節>主はすべての国を超えて高くいまし/主の栄光は天を超えて輝く。<5節>わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き<6節>なお、低く下って天と地を御覧になる。<7節>弱い者を塵の中から起こし/乏しい者を芥の中から高く上げ<8節>自由な人々の列に/民の自由な人々の列に返してくださる。<9節>子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。

アドベント第1主日の今日、詩編の言葉を通してクリスマスを迎える心の備えをいたしましょう。

先程、ご一緒に読んだ詩編の113は、イエス・キリストが、最後の晩餐の席で弟子達と一緒に口ずさんだ詩編の一つだといわれています。なぜそのように言われるかと申しますと、主イエスの最後の晩餐の時が、ちょうどユダヤの過越の祭りの食事と重なるからです。過越の祭りでは、食事の時に、詩編の113〜118が詠われる習わしがあったそうです。ですから主イエスもまたこの詩編の113を弟子達と一緒に食事の席で詠われたに違いないと考えられます。そしてその食事が済むと、主イエスはゲツセマネへと行かれ、そこで捕らえられ、不当な裁判によって死刑判決が下されて十字架で処刑されます。こうした一連の出来事を考える時、主イエスがこの詩を最後の晩餐の席で弟子達と共に詠われたのは、ただ祭りの習わしであるということ以上に、そこに主イエスの深いお考えが込められていると思われます。

このようなエピソードがある詩編113ですが、詩としてはわずか9節からなるとても小さい作品です。けれどもこの小さな詩が語っているのは、大変スケールの大きな内容です。まず、この詩は、「私達の神」が他に並ぶ者のない栄光を持ち、権威を持っておられる、と力強く語ります。神の栄光と力とは、「今よりとこしえに、日の昇る所から日の沈むところまで」、全世界に遍く及んでいると告げます。それだけではありません。神様のご威光は、全世界という横の広がりだけではなく、天地を超えて限りなく高く輝いているとも、この詩は宣言します。神様のご威光は、広さにおいても、高さにおいても、他に並ぶもののない、比類のない素晴らしいお方なのだと、この詩はまず詠います。私達は、実に、このようなお方を「私達の神様」として戴き讃美しているのだと、この詩は人々に知らせます。
 このように呼びかけられている人々は、もしかしたらこの時、暗い世情や現実に打ちのめされて、塞ぎ込んでいたのかもしれません。それというのも旧約聖書に収められている多くの文書は、非常に大きな危機や破局の直中で記され、まとめられているからです。ですからこの詩が創られた時もまた、人々はもしかしたら戦いによって多くの者が傷ついたり、様々な災害で生きるか死ぬかの危機に直面していたのかもしれません。重苦しい現実に人々の表情は曇り、まなざしは伏し目がちで、心も沈み込んでいる。そうした人々に向けて、しかしそれだからこそ「私達の神」のことを、ここでもう一度しっかりと思い起こして心を高く上げようと、この詩は励ましたいのかもしれません。私達は無力で小さく、現実は暗く破れに満ちているかもしれないけれども、しかしそんな私達は他の何者も及ばない偉大な神様の計り知れないご栄光に包まれている。それをまず思い起こしたいのです。

このように心を高く上げて信じることは、私達にとっても大切です。私達もまた辛い現実に傷つき、打ちひしがれて、うつむき、うな垂れることが多いからです。毎日のニュースや日々の様々な出来事は、私達をしばしば暗澹たる気持ちにさせます。しかしそんな私達が忘れてはならないのは、それでも私達は、すべてものを越えているこの永遠なるお方によって覆い守られているということです。そこに希望があるということです。
 ある人は『あなたの神は小さすぎる』といいました。聖書が語り伝え証している神様は、私達が信じているよりももっとずっと大いなるお方なのです。図りがたいお方なのです。私達はその神様の力強さや栄光を、その恵みの広さを、高さを、深さを、もっと本気で思い起こして受け止めなければなりません。私達が信じている神様は、栄光に満ちあふれる、「今よりとこしえに、日の昇るところから日の沈むところまで」、すべてのものをゆるぎなく支配されるお方です。私達はこのお方によって支えられ、守られ、救われているのです。

しかし、「私達の神」が本当に偉大なお方であり、私達が、そのお力によって救われるのは、このお方がただすべてを越えて高く遠くにいます永遠なるお方だからではありません。むしろその逆だからです。それをこの詩の後半は実に鮮やかな言葉で印象深く示します。6節以下にこんな言葉があります「私達の神、主に並ぶ者があろうか。主はみ座を高く置き、なお、低く降って、天と地をご覧になる」。
 昔の文語訳聖書は6節を、「己を低くして天と地を顧みたもう」と訳していました。ある研究者は、ここを、「(神は)天と地を見るために、自らを低められる」と訳しています。全てのものを越えている神様が、「天と地を見るために自らを低められる」のです。すべてを越えておられる永遠の全能なる神様が、その限りない高みから身を乗り出して、眼下に天を見おろし、さらにその下にある私達の現実、この世界をじっと顧みて、「なお、低く降って…ご覧になる」のです。「低く降って」とは、元の言葉では、「身をかがめる」とか、身体を「打ち捨て」るとか、身を「投げ捨てる」という意味です。この言葉は詩147:6では「倒す」、サムエル上2:7では「低くし」と訳されて出てくる、まことに特徴的な言葉です。これら3回しか出てこない珍しい言葉がここに使われています。神様が私達の世界に向けて、ググッと身をかがめ、かがめるだけではなく、その身を投げ捨てて降ってこられる。私達の神様は捨て身の神様なのです。
 神が、その身をグイッとかがめ、捨て身で天と地をご覧になると聖書が語る時、それはいつも、「神様が(人々の)苦悩を知って、具体的な行動を起こそうと決意される事」と結びついています。その一番の例は、旧約聖書の出エジプト記です。そこでは、神様が、「私はエジプトにいる私の民の苦しみを確かに見た」といわれて、人々を奴隷の苦しみから解放する行動に出たことが語られています(出エジプト3:7)。神様は見たらすぐに行動に出るのです。
 聖書が語る「私達の神」は、天の高みにじっと座って人を見下ろすだけの不動の神ではありません。みんなから拝まれて喜ぶだけの自己満足の神でもありません。むしろ、その栄光に「固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、人間と同じ者にな」り、みずから仕える者にさえなって、苦しむ者の真只中に低く降って、その苦しみに一緒に連なって下さる憐れみと情熱のお方です。
 この神様のまなざしが、地上にある「弱い者、乏しい者」へと注がれて、彼らにしっかりと結びつきます。そして自由が奪われ、人としての尊厳を踏みにじられている人々に、神様の思いは注ぎ出されます。「私達の神」は、苦しむ人々のうめきを聞き取り、その声に応えるために真直ぐに「低く降って」来られます。それが7節以下できわめて具体的な言葉で語られます。

7節に「塵」とか「芥」という言葉があります。文語訳では、「あくた」という言葉に糞土という文字をあてていました。そのようにしか記せない汚れた不衛生な場所は村や町の外側にあったごみの山のことを指しています。そしてそこは主に宗教的な理由で人々との交わりからはじき出された貧しい人や、不治の病に罹った人達など、共同体から差別され、排除された人々が身を寄せ合って暮らしていた場所でもありました。そこに住む人々は、ごみを捨てに来る人々にほどこしを乞い、ごみの山の中から僅かな食料や衣料を見つけ出して、何とかぎりぎり生き延びていました。限りない栄光と力を持つ「私達の神」は、実に、このような人々の姿をじっとご覧になります。そして彼らのうめきを聴き、切ない願いを聞き届けるために、天の高みからその身を投げ捨てて、彼らの直中に低く降って来られます。そして彼らを「塵の中から起こし」「芥の中から高く上げ」て、人としての誇りと喜びを取り戻させるために行動されます。私達の神様は、そのように人々の暖かな交わりからはじき出されていた人々を「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返して」、人として当たり前の生活ができるように行動されます。
 このようにして人々との暖かな交わりから見捨てられていた者達を救われる神様は、同時に、町の中にはいても、周りの人達から冷たい視線を浴びせられたり、屈辱を強いられていた人々のことも見捨てられません。その代表が9節に出てくる「子のない女」です。当時のユダヤでは、結婚しても子供を産んだことのない女の人は、女として半人前だと軽蔑されました。それを理由に男の方から一方的に離婚される事もありました。いや、そもそも不妊は神からの呪いであるとさえ考えられていました。ですから「子のない女」は同じ女の人達の中でも、ひときわ辛く、厳しい立場に置かれていました。こうした人々を含めて弱い立場にある人達すべてを、ここに出てくる「子のない女」は代表しています。
 この詩が創られた旧約時代の人々にとって、またイエス様が生きていた時代の人々にとって、そして残念なことに今に至るまでも、私達はどこかでお金がたくさんあることや、元気に長生きできる事や、子供に恵まれる事が、神様からの祝福のしるしであり、恵みであるかのように思い込みがちです。巷に氾濫するたくさんの占いや宗教はそうした私達の秘められた願望をよく現わしています。そのような社会の中では、病気になることや、障碍を身に負うことや、貧しい事や、子供がいない事などは、神様の祝福から見放された、呪いとは言わないまでも、良くないことであったり、マイナスなことであったり、足手まといであったり、本人の努力が足りない欠点であるなどと考えられて、冷ややかに見られ、非難されたりします。

しかし聖書が語る「私達の神」は、そのように見下され批難されている者達を励まし、苦しい現実にある人達を救い出し、悲しみに沈む人々を喜びで満たすために行動されます。冷たい目で見られている人々を、神様は限りなく温かい目でご覧になります。「私達の神」の偉大さは、このようにして小さな人達を認め、彼らの傍らにその身を置いて下さるこのまなざしと情熱にあります。そして神様のこの情熱は、昔も、今も、これからも変わりません。このお方が「自分を無にして、しもべの身分となり、人間」となりイエス・キリストとして私達の世界に来て下さったからです。イエス・キリストは馬小屋で産声を上げられ、そこからまっすぐに十字架の最後に至るまで、貧しく苦しい人達と共に地上での生涯を貫かれ、そして死から復活されて、今、私達と共におられます。
 その出来事がクリスマスから始まるこの世界の歴史に刻まれています。イエス・キリストがお生まれになった事を語るマタイとルカの二つの福音書を読んでみますと、そこに登場する人々に共通するものがあります。たとえば、長い間不妊の女という汚名をきせられていた老婦人エリサベト。言語障害を持つザカリア。職業によって差別されていた羊飼い達。さらには離婚の危機にさらされ、命さえ危うかった乙女マリアが登場します。ユダヤの人々からは怪しい業を行う汚れた異邦人と蔑まれ旧約聖書では厳しく断罪されていた占星術師達が登場します。そして乳飲み子を抱えて難民にならざるを得なかったヨセフが登場します。若くして夫に先立たれた何十年にも渉って救いを待ち望み続けた84歳の老婦人アンナが登場します。救い主の誕生を待ち焦がれるシメオンが登場します。いわゆる「不遇な人達」ばかりが、そこには登場します。これらは決して偶然ではないはずです。そのような、たくさんの、苦しみや悲しみや悔しさを背負いながらも精一杯生きていた人々に喜びをもたらし、慰め、励まし、救う為に、神は人となり、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」、誰よりも低い道を歩み抜いて下さることを、これらの人々は待ち望み、喜び、証しています。その思いを込めて、天使達は、「今日、ダビデのまちで、あなた方のために救い主がお生まれになった!」という世界最初のクリスマスメッセージを、夜、野宿をしながら働いていた労働者達に告げたのです!

このように証しされるイエス・キリストは、家畜の糞尿の臭う不衛生な飼い葉桶に寝かされる所から1人の人としての生涯を始められます。ある伝説によれば早くに父親を亡くしたイエス様は、一家の生計を支える少年期、青年期を貧しい人々の中で歩まれます。故郷の人々からは、父親の名前を呼んでもらえず「マリアの子ではないか」などと蔑まれ、時に「罪人」と謗られ、「大酒のみの大飯ぐらい」と罵倒され、ついには家族からは気がふれたとみなされました。しかしその中で主イエスは多くの貧しい人々と交わり、食事を分かち合い、病を癒し、冷たい掟を破ります。そのために最後はエルサレムの町の外にあるゴルゴタで十字架にはりつけられて、嘲りと裏切りの中で着物さえはぎ取られて惨めに死なれます。私達を救って下さるお方の生涯は初めから終わりまで一貫しています。旧約聖書の詩人が証ししている、身をかがめ、低きに降り、低みに徹する神の姿はここに、決定的な焦点を結んでいます。このイエス・キリストこそが、まことに「私達の神」です。このお方が神であるがゆえに、私達は救われ、慰められ、信じて生きることができます。

その事を教えられながら、この詩を読んでいて、私は、水野源三さんが書かれた「一人なる我を」という作品を思い出しました。ご存じの方も多いと思います。こんな作品です。「たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中の一人なる我を/御神が愛し、救い/悲しみから喜びへ移したもう」
 113編同様にとても短い作品ですが、印象深い素敵な詩です。「たくさんの星」という限りなく広い宇宙から語り始めて、その「中の一つ」である「地球」、「日本」、「この町」へと、次々と、より小さなものへと焦点を絞り込み、最後に「たくさんの人間の中の一人なる我」へと、その眼差しは至ります。無限の宇宙の広がりから見たら塵にも及ばない本当に小さな「一人なる我」という小さな小さな一点へと絞り込まれて行く一筋のまなざしは、そのまま私達一人一人に注がれている、神様のまなざしそのものです。このちっぽけな「一人なる我」を、神様がどれほど愛して、「悲しみから喜びへと移し」て下さっているか。「一人なる我」に向かってやまない神の熱い思いと、それを知る私達の喜びをこの作品は静かに描いています。
 この詩の作者である水野源三さんは、子供の頃にかかった病気のために、自分では話すことができず、また首から下の自由がないという重い障害をお持ちでした。そんな中で水野さんは、1枚の紙に書かれた50音図を、一文字ずつ、丁寧に、粘り強くなぞってくれる家族の協力を得ながら、瞬きで、自分の考える文字を指定して、たくさんの詩を創りました。そのようにして創られた作品はどれも静かな明るさに満ちています。その静かさや明るさは、水野さんが、自分の弱さや限界をまるごと受け止めて支えて下さるキリストに、すべてをゆだねる所から来ています。

水野さんがそうであったように、私達もまた「一人なる我」に向かって来られる情熱と恵みによって、一番底を支えられています。そのために神様は「なお、低く下って」来てくださったからです。現実のありようからすればとうてい救われるに値しない過ちだらけの私達ですが、しかしそんな私達だからこそ、神様は全力で、イエス・キリストの命を懸けて本気で顧みて下さいます。そしてたくさんの弱さや破れや悲しみを持った「一人なる我」を支え続けて下さいます。たとえ私達がそれに気づかなくても、たとえそのまなざしを私達が振りきり裏切ることがあったとしても、イエス・キリストは私達を顧みていて下さいます。どこまでも一緒に落ちていっても良いと覚悟を決めて、神様は一人の人となって、「なお、低く下って」、「一つなるこの地球」へと、捨て身で罪の赦しと解放をもたらす為に来て下さいました。キリストの足跡は黄泉にも及びます。至らぬ所はないのです。

その出来事が確かにこの世界に刻まれたことの始まりを覚えるアドベントの今日、私達は、神様がそこまでして示された恵みと救いのメッセージを心に刻んで、ここからそれぞれの場所へと遣わされて行きます。日々の歩みの中で、私達がイエス・キリストを追い求め、キリストに倣って生きようとすることは、時に私達の強ばった常識が揺さぶられ、頑な心が打ち砕かれる厳しいものであるかもしれませんが、しかしその時にこそ、私達はキリストに祈り、委ねる勇気を持ち続けましょう。私達もまた、低く下って来てくださる神の恵みとキリストの命のよって「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に」加えられている者だからです。それを信じて私達も「ハレルヤ!」と詠います。そして平和と栄光を神様にお返しするめに、この国で、この時代に、神様に賛美と感謝の祈りをささげつつ、主イエス・キリストのしもべとして歩んで行きます。この歩みを通して、私達はほんの少しずつではあるかもしれませんが、他人を恐れたり、自分を卑下したり、逆に傲慢になったりするごまかしの日々から解放されて行くのです。