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1節「あなたがたをつまずかせないためである」と、主イエスは弟子たちに言ってくださっております。 なぜ「この世は主イエスを憎む」のでしょうか。それは「正しく主イエスとの関係を持てない」からです。「主イエスを神の子・救い主と信じて言い表す」こと、これが「主イエスとの正しい関係」です。本来、人は「救いを必要とする存在」として、主イエス・キリスト(救い主)と関わらなければならないのですが、にも拘らず関わりを持つことができない、そこで「憎む」のです。「関わり」がある、だから「憎しみ」が起こるのです。「神との正しい、麗しい関係を持てない」、だから憎むのです。 主イエスが、ご自分の十字架・復活・昇天を弟子たちに語られた目的は「弟子たちをつまずかせないため」と言ってくださっております。その前提は、必ず「つまずきが起こる」。だから「つまずかせないために」ということなのです。 人にとって「つまずき」は大事です。どうして「つまずく」のか。つまずきの根底にあるのは、常識(経験)です。弟子たちにとって「主イエスの十字架と復活」は、常識にはない、信じられない出来事でした。「罪人の救い」とは、信じられない、人には不可能な出来事なのです。しかし、その「信じられない出来事をなした方」それが主イエス・キリストです。主イエスによって信じられないことが起こった、だから私どもは救われているのです。 私どもは、自分の先行きなど何も分らない者です。しかし、主イエス・キリストは私どもの先行きを全てご存知であって、なお、捨て置かれないのです。私どもの先行きにどんなに誘惑が多く、つまずきが起こるか、全てを知っておられる。しかし、そのつまずきの淵で、主イエスが私どもの全てをご存知の方として、居てくださるのです。そこでこそ、私どもは主を思い起こし、わたしを覚えていてくださる主に立ち返るのです。なお「あなたは、わたしの弟子である」と、神の愛の交わりのうちに置かれていることを思い起こすことを得させてくださるのです。 罪の淵で、主イエス・キリストが、私どもに関わってくださっております。主イエス・キリストは人の罪を全て担い、贖う方として、私どもに関わっていてくださるのだということを覚えたいと思います。 2節「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。「人々」とは「ユダヤ人」です。ユダヤ人にとってメシア(キリスト・救い主)の到来は未だなのです。ですから礼拝は「神のみ」であって、「キリスト礼拝」は神を冒涜するものと考え、主イエスの死刑を望んだのでした。そしてそれは「神への奉仕」と考えているのです。しかし、私どもはそれを責めることはできません。神を崇めるゆえに、迫害は起こるのです。どんな宗教であっても、熱心な信仰においては起こり得ることなのです。 真実に神の憐れみを知るということは、キリスト者にとって力です。憐れみの神の救いを他者のために祈る、それがキリスト者に与えられた力であり使命です。私どもキリスト者は、救いの恵みに与って、既に永遠の命の約束が与えられております。それゆえに、他者の救いのために祈るのです。 主イエス・キリストは「時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」と言ってくださっております。それゆえに、どのような淵にあったとしても、私どもは「あなたは、わたしと一つなる者。既に救いのうちにある」と主が言ってくださっていることを思い起こして良いのです。そして、そこでこそ、救われるのです。 |
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ただ今、新約聖書の使徒言行録22章30節〜23章11節までをご一緒にお聞きしました。最後の11節の言葉をもう一度、繰り返してお聞きしたいと思います。「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』」 この夜、イエス様がパウロの傍近くに現れて、気落ちしそうになっていた彼を慰め、力づけてくださいました。聖書の中に登場する働き人たちは、一人の例外もなく、主の慰めを必要としています。 |
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主イエスは、これから先、弟子たちが迫害を受けることを教えてくださっております。 聖霊は、弟子たちに「主イエスは神の子・救い主と証しする力」を与えます。それは、弟子たちが「信じる者としての自覚に生きる者となる」ということです。ここに、カトリックとプロテスタントの強調点の違いを見ることができます。カトリック信仰にとっては、必ずしも信仰は自覚的ではありません。自分の信仰の内容を説明できないとしても、それは神父に委ねてよいのです。ですから教会の権能者である神父に対する従順が求められます。これに対して、プロテスタント信仰は自覚的です。「主イエス・キリストこそ我が救い」という明確な確信に立ち、私どもはプロテスタント教会の一員として、この信仰の内容を明確にしてそれに即した生活を送ることが求められます。「主イエス・キリストこそ神の子、我らの救い主」であるという自覚において生活する。それは神を神として崇める、即ち「礼拝の生活」です。年に一度の礼拝でも許されるカトリック信仰と比べても、週毎の礼拝を守る生活が求められるプロテスタント信仰がいかに自覚的な信仰であるかを思います。そして、それは聖霊の出来事なのです。 弟子たちは、主イエスと一緒にいる間は、自覚的である必要はありませんでした。主イエスの十字架の死と復活により、聖霊が臨み、自覚が与えられ、この世で迫害を受けるのです。しかし、それは幸いなことです。「主イエス・キリストこそ神の子・救い主」と自覚することによって、「主イエスのもの」とされ、主イエスと共に天に住まいする者となる約束が与えられているからです。 5節「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」。「今わたしは」と、主イエスは言われます。それは、主イエスが「今」という時を知っておられるということです。主イエスは「十字架・復活・昇天」という、ご自分の使命を明確に自覚しておられる。だからこそ主イエスは「今」をご存知なのです。 そして、6節「むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている」。「尋ねない」どころか、むしろ「悲しんでいる」と言われます。主イエスが十字架に死なれ、主イエスを失ってしまう。だから弟子たちは悲しまざるを得ないのです。 しかし、7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。「悲しみ」が全てではないと、主イエスは言ってくださるのです。主イエスが去ることは、弟子たちにとって「益」となると言われる。何故なら、そこで助け主・弁護者なる聖霊が来てくださるからだと言われております。何故それが益なのでしょうか。それは、聖霊が臨むことによって「主イエスこそ救い主であることを確信し、救いの恵みを味わい、この世に対して救い主を証しする力を与えられる」からです。それは、他のどこにも有り得ない、救いの恵み(益)なのです。 8節「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。弁護者(聖霊)をいただくことによって、「罪」「義」「裁き」とはいかなることかが分ると言われております。それは「世の誤りを明らかに」できるというのです。 私どもが聖霊をいただくということは、私どもが「どこに救いがあるのか」を明確にできるという「恵みの出来事」です。それは、救いを知り、自らの罪を知る者となる(自覚する)という恵みです。それは、真実の支配は神にのみあることを知るという恵みであることを覚えたいと思います。 |
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12節「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と、主イエスは言われます。主イエスはこれまで、弟子たちに対して色々と語ってくださいました。主イエスがこの世に憎まれ、この世を去り天に帰られた後、弟子たちもこの世に憎まれるようになるが、しかしそれは主と一つのものとされる幸いである、と語ってくださったのです。しかし、弟子たちには理解できませんでした。主イエスは、弟子たちが理解できないことをご存知の上で、聖霊(弁護者)を送ると言われます。聖霊なしには理解できないのです。理解できない者をも、なお「救う」と主イエスは言ってくださる。それは「救いは、人間の悟り(理解)によるのではない」ということの恵みなのです。 しかし、この「理解」という言葉に、どこか判然としない思いがありました。弟子たちが理解できないのは当然ではないでしょうか。 12節に戻りますと、主イエスは「弟子たちは耐えられない、だから今はこれ以上言わない」とおっしゃっております。留保してくださっているのです。主イエスは「耐えられない」者を責め立てたりはなさらないのです。たとえそれが真実だとしても、人は、その真実に耐えられずに逃げ出してしまうということがあるのです。例えば、「理解できない」としても相手を信用するということは可能ですが、「耐えられない」とすれば、信じることは出来ないでしょう。信じることが出来ない者に救いはありません。ですから、「理解」という言葉で神の出来事を語るのは難しいと思うのです。「耐えられない」という言葉は「理解できない」より、もっと深いのです。 人は「神に耐えられない」のですから、「神の救い」にも耐えられません。主イエス・キリストの「十字架と復活」を目の当たりにして、そのままでは全てを拒絶するのであって、救いには至らないのです。そこに聖霊の助けがあって初めて、信じる者になるのです。私どもが耐えられないから、聖霊の助けが必要なのです。 聖霊は、今、私ども一人ひとりのところにも来てくださっております。聖霊によって、私どもは「救われている」ことを知るのです。人は、聖霊によってのみ、罪の赦しの出来事を知り、受け入れることができる。拒絶し逃げ出す者から「受け入れる者」へと変えられるのです。 13節「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」とあります。「真理を悟らせる」とは、「信じることができるようになる」ということです。聖霊の働きによって「私どもの罪のゆえの十字架が、私どもの救いである」ことを知る。「主イエス・キリストこそ我が救い」と信じるに至る、ということです。主イエスの十字架を信じる者は、主イエスと一つなる者とされ、天に住まいする者となるのです。神との絶えることのない交わりに入れられ「永遠の命」に与る者となる、それが「真理」です。 続けて「自分から語るのではなく、聞いたことを語り」と言われております。「聖霊」は「父なる神と子なる神から派遣される」ということです。聖霊は、派遣された方の言葉を語ってくださるのです。御言葉と共に働く、それが聖霊です。私どもが事ごとに主イエスの御言葉を思い起こすとき、そこに「聖霊の働き」があるのです。 14節「その方はわたしに栄光を与える」。「聖霊が主イエスに栄光を与える」とは、いかなることでしょうか。「主イエスが栄光をお受けになる」とは、「主イエスこそは贖い主(救い主)である」と現されることです。 |
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アドベント第1主日の今日、詩編の言葉を通してクリスマスを迎える心の備えをいたしましょう。 先程、ご一緒に読んだ詩編の113は、イエス・キリストが、最後の晩餐の席で弟子達と一緒に口ずさんだ詩編の一つだといわれています。なぜそのように言われるかと申しますと、主イエスの最後の晩餐の時が、ちょうどユダヤの過越の祭りの食事と重なるからです。過越の祭りでは、食事の時に、詩編の113〜118が詠われる習わしがあったそうです。ですから主イエスもまたこの詩編の113を弟子達と一緒に食事の席で詠われたに違いないと考えられます。そしてその食事が済むと、主イエスはゲツセマネへと行かれ、そこで捕らえられ、不当な裁判によって死刑判決が下されて十字架で処刑されます。こうした一連の出来事を考える時、主イエスがこの詩を最後の晩餐の席で弟子達と共に詠われたのは、ただ祭りの習わしであるということ以上に、そこに主イエスの深いお考えが込められていると思われます。 このようなエピソードがある詩編113ですが、詩としてはわずか9節からなるとても小さい作品です。けれどもこの小さな詩が語っているのは、大変スケールの大きな内容です。まず、この詩は、「私達の神」が他に並ぶ者のない栄光を持ち、権威を持っておられる、と力強く語ります。神の栄光と力とは、「今よりとこしえに、日の昇る所から日の沈むところまで」、全世界に遍く及んでいると告げます。それだけではありません。神様のご威光は、全世界という横の広がりだけではなく、天地を超えて限りなく高く輝いているとも、この詩は宣言します。神様のご威光は、広さにおいても、高さにおいても、他に並ぶもののない、比類のない素晴らしいお方なのだと、この詩はまず詠います。私達は、実に、このようなお方を「私達の神様」として戴き讃美しているのだと、この詩は人々に知らせます。 このように心を高く上げて信じることは、私達にとっても大切です。私達もまた辛い現実に傷つき、打ちひしがれて、うつむき、うな垂れることが多いからです。毎日のニュースや日々の様々な出来事は、私達をしばしば暗澹たる気持ちにさせます。しかしそんな私達が忘れてはならないのは、それでも私達は、すべてものを越えているこの永遠なるお方によって覆い守られているということです。そこに希望があるということです。 しかし、「私達の神」が本当に偉大なお方であり、私達が、そのお力によって救われるのは、このお方がただすべてを越えて高く遠くにいます永遠なるお方だからではありません。むしろその逆だからです。それをこの詩の後半は実に鮮やかな言葉で印象深く示します。6節以下にこんな言葉があります「私達の神、主に並ぶ者があろうか。主はみ座を高く置き、なお、低く降って、天と地をご覧になる」。 7節に「塵」とか「芥」という言葉があります。文語訳では、「あくた」という言葉に糞土という文字をあてていました。そのようにしか記せない汚れた不衛生な場所は村や町の外側にあったごみの山のことを指しています。そしてそこは主に宗教的な理由で人々との交わりからはじき出された貧しい人や、不治の病に罹った人達など、共同体から差別され、排除された人々が身を寄せ合って暮らしていた場所でもありました。そこに住む人々は、ごみを捨てに来る人々にほどこしを乞い、ごみの山の中から僅かな食料や衣料を見つけ出して、何とかぎりぎり生き延びていました。限りない栄光と力を持つ「私達の神」は、実に、このような人々の姿をじっとご覧になります。そして彼らのうめきを聴き、切ない願いを聞き届けるために、天の高みからその身を投げ捨てて、彼らの直中に低く降って来られます。そして彼らを「塵の中から起こし」「芥の中から高く上げ」て、人としての誇りと喜びを取り戻させるために行動されます。私達の神様は、そのように人々の暖かな交わりからはじき出されていた人々を「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に返して」、人として当たり前の生活ができるように行動されます。 しかし聖書が語る「私達の神」は、そのように見下され批難されている者達を励まし、苦しい現実にある人達を救い出し、悲しみに沈む人々を喜びで満たすために行動されます。冷たい目で見られている人々を、神様は限りなく温かい目でご覧になります。「私達の神」の偉大さは、このようにして小さな人達を認め、彼らの傍らにその身を置いて下さるこのまなざしと情熱にあります。そして神様のこの情熱は、昔も、今も、これからも変わりません。このお方が「自分を無にして、しもべの身分となり、人間」となりイエス・キリストとして私達の世界に来て下さったからです。イエス・キリストは馬小屋で産声を上げられ、そこからまっすぐに十字架の最後に至るまで、貧しく苦しい人達と共に地上での生涯を貫かれ、そして死から復活されて、今、私達と共におられます。 このように証しされるイエス・キリストは、家畜の糞尿の臭う不衛生な飼い葉桶に寝かされる所から1人の人としての生涯を始められます。ある伝説によれば早くに父親を亡くしたイエス様は、一家の生計を支える少年期、青年期を貧しい人々の中で歩まれます。故郷の人々からは、父親の名前を呼んでもらえず「マリアの子ではないか」などと蔑まれ、時に「罪人」と謗られ、「大酒のみの大飯ぐらい」と罵倒され、ついには家族からは気がふれたとみなされました。しかしその中で主イエスは多くの貧しい人々と交わり、食事を分かち合い、病を癒し、冷たい掟を破ります。そのために最後はエルサレムの町の外にあるゴルゴタで十字架にはりつけられて、嘲りと裏切りの中で着物さえはぎ取られて惨めに死なれます。私達を救って下さるお方の生涯は初めから終わりまで一貫しています。旧約聖書の詩人が証ししている、身をかがめ、低きに降り、低みに徹する神の姿はここに、決定的な焦点を結んでいます。このイエス ・キリストこそが、まことに「私達の神」です。このお方が神であるがゆえに、私達は救われ、慰められ、信じて生きることができます。 その事を教えられながら、この詩を読んでいて、私は、水野源三さんが書かれた「一人なる我を」という作品を思い出しました。ご存じの方も多いと思います。こんな作品です。「たくさんの星の中の一つなる地球/たくさんの国の中の一つなる日本/たくさんの町の中の一つなるこの町/たくさんの人間の中の一人なる我を/御神が愛し、救い/悲しみから喜びへ移したもう」 水野さんがそうであったように、私達もまた「一人なる我」に向かって来られる情熱と恵みによって、一番底を支えられています。そのために神様は「なお、低く下って」来てくださったからです。現実のありようからすればとうてい救われるに値しない過ちだらけの私達ですが、しかしそんな私達だからこそ、神様は全力で、イエス・キリストの命を懸けて本気で顧みて下さいます。そしてたくさんの弱さや破れや悲しみを持った「一人なる我」を支え続けて下さいます。たとえ私達がそれに気づかなくても、たとえそのまなざしを私達が振りきり裏切ることがあったとしても、イエス・キリストは私達を顧みていて下さいます。どこまでも一緒に落ちていっても良いと覚悟を決めて、神様は一人の人となって、「なお、低く下って」、「一つなるこの地球」へと、捨て身で罪の赦しと解放をもたらす為に来て下さいました。キリストの足跡は黄泉にも及びます。至らぬ所はないのです。 その出来事が確かにこの世界に刻まれたことの始まりを覚えるアドベントの今日、私達は、神様がそこまでして示された恵みと救いのメッセージを心に刻んで、ここからそれぞれの場所へと遣わされて行きます。日々の歩みの中で、私達がイエス・キリストを追い求め、キリストに倣って生きようとすることは、時に私達の強ばった常識が揺さぶられ、頑な心が打ち砕かれる厳しいものであるかもしれませんが、しかしその時にこそ、私達はキリストに祈り、委ねる勇気を持ち続けましょう。私達もまた、低く下って来てくださる神の恵みとキリストの命のよって「自由な人々の列に、民の自由な人々の列に」加えられている者だからです。それを信じて私達も「ハレルヤ!」と詠います。そして平和と栄光を神様にお返しするめに、この国で、この時代に、神様に賛美と感謝の祈りをささげつつ、主イエス・キリストのしもべとして歩んで行きます。この歩みを通して、私達はほんの少しずつではあるかもしれませんが、他人を恐れたり、自分を卑下したり、逆に傲慢になったりするごまかしの日々から解放されて行くのです。 |
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